小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
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蓼科日記

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蓼科・東急リゾートタウン
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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。

毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

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2023年

12月

12月31日 海外、思い出のドライブ旅
「カナディアンロッキー豪華列車の旅

最近は九州を回る豪華列車の旅がJR九州で企画され走っているが、10年前はまだ日本にはなかった。この旅は2013年の夏、妻と二人で参加したカナディアンロッキーでの汽車の旅の記録だ。ドライブとは違う、海外での豪華列車の旅を紹介する。
オレゴン・カリフォルニア トレイル アソシエーションの大会に出たあと、サンフランシスコからカルガーリに飛び、一週間のロイヤル カナディアン パシフィック レイルウェイズの列車の旅に参加した。昨年、この旅の存在を知り、早速申し込んだ。円高のせいか、えらく安く感じたのだが、保証金一人分をクレディットカードで引き落とされたときに、一桁間違っていたことに気がついた。数万円と思っていたのが、数十万円なのだった。二人でゆうに100万を超す。どうしようかと思ったが、清水舞台で参加することに決めた曰くつきの旅なのだ。

         
 写真左・カナディアン・パシフィック鉄道の    写真右・カナディアン・パシフィック
     車窓風景                   ・レイルウェイズ
 

「フェアモントホテルから始まった」

昼前にカルガーリ空港に着いたら、”ODA”の看板を掲げたスーツ姿の紳士が待っていた。ハイヤーの運転手なのだ。今夜の宿泊先フェアモントホテルまで送迎してくれる。繁華街に近いこのホテルはカルガーリ随一の由緒ある名門ホテルだ。ここの宿泊費もツァー料金に含まれているのだ。部屋料金を見たら400ドル、豪華な旅になりそう。夕方5時から参加者を集めてレセプションをやるという。実はホテルと直結した所にカナディアン パシフィック レイルウェイズ(CPR)のパビリオンがあり、線路が走っている。もともとは駅か引込み線があったらしい。このホテルもCPRが始めたもの。レセプションも明日から乗る客車の前でやる。名札をもらいシャンパンで乾杯、世話してくれるスタッフ、シェフが勢ぞろいして参加者を迎えてくれる。28名の参加者でほとんどがアメリカ人、日本人は我々二人だけ、他のアジア系もいない。明日から5日間、英語の中で顔突合せなければならない。妻はとても不安のようだ。ほんとうに快適な列車の旅になるか不安のスタートだ。

      
   写真左・カナディアン鉄道博物館   写真右・フェアモントホテル・カルガリー
 

「バッファロージャンプ」

CPRパビリオン8:30集合、9時出発。参加者はみな笑顔で集まった。スタッフひとりひとり笑顔の中を展望車のタラップを上がり、初めて列車の中に入った。指定された客室にスタッフの案内で向かう。かなり前の車両の一室に入った。預けたスーツケースが狭いスペースにふたつ入っていた。車内4泊に必要なものを取り出したら、置いておくようにと、荷物専用室に昼食摂っている間に移動するという。
出発時刻を過ぎてもなかなか出ない。10時近くなってようやくパビリオンを離れ側線に入っていった。その後の発着予定が頻繁に変わるところを見ると、列車の時間管理はいい加減のようだった。旅客列車はこれだけで、あとは貨物列車だけという路線なので、ダイヤなどあってないようなものなのか?それにしてもたった28人の乗客で12両編成とは余裕たっぷりだ。後ろ3両は展望車、食堂車、厨房車、中5両が客室車、前4両がスタッフ客室、荷物車、機関車2両という編成だ。英国王室が使っていたものがメイン車両らしく、展望車にはエリザベス女王、チャーチル首相、ケネディ大統領夫妻など、この車両で旅した写真が飾られている。客室には二つのベットがL字型に配置され、周りに机、キャビネット、奥にシャワー、洗面所が4畳半くらいのスペースにコンパクトに配置されている。まさにオリエント急行と同様の構成なのだ

             
    写真左・バッファロージャンプの       真右・バッファロージャンプ近辺の
        表現模型                インディアンテント
 

車内で初めての昼食となった。4つに分かれているテーブルに6名X2、8名X2と好きなように座る。
スープ、鮭料理、デザートのメニューをシェフが説明、それに合わせて供されるワインをツァーマスターが説明する。スープには私の好きなオーストリアの白ワイン、鮭料理には先日までいたオレゴンの白という風に、きめ細やかなセレクションなのだ。白ワインなら何でもよいという我らがセレクションとはまるで違う。我々の前に座ったのはテネシーから来たスチュワート夫妻、旦那のロブは「旅客列車を増やす会」の会長さん。来年の夏に日本に来て新幹線にも乗ると言う。汽車好きらしく、展望車の常連だった。
バロンという駅(と言っても標識も何もない所)で下り、バスに乗り換え、バッファロージャンプという世界遺産の地に向かった。アルバータの大平原にある崖が舞台、西部開拓のもっと前の時代、ここに住む原住民は平原に群棲するバッファローをその崖に誘導、追い詰めて自然に崖から落下させ、捕獲したという狩りの場だった。その歴史と狩りの実態を紹介する場所がバッファロージャンプだった。まさにバッファローが崖からジャンプした場所だ。その後、鉄砲が登場し、狩りのやり方が変わってしまい、昔の崖からジャンプさせるやり方は廃れてしまったようだ。しかし世界遺産として、この地の歴史は語り継がれることとなった。とても興味深い場所だった。雨模様の平原をバスで列車に戻り、再び走りだした。今晩はCowleyという村の停車場にひと晩、止める。ディナーは昼からさらに充実したフルコース。デザートワインまでついて、今晩は4種類のワインだ。食事もワインもおいしい。窓外は雨。

      
   写真左・ コックによる料理の説明    写真右・ソムリエによるワインの説明
 

「25年ぶりのグレイシャー国立公園」

アメリカとカナダにまたがるグレイシャー国立公園はカナディアンロッキーの一部でもある。下の娘が妻のおなかに宿した25年前に来たことがある。カナダの部分はウォータートン国立公園と呼ばれている。ここにもその時、国境を越えてモンタナから車で来た。
今日はそのウォータートンへバスで行き、船でアメリカ側に入るという。昼食は船の中でサンドイッチとのこと。トレッキング同様、サンドイッチを持参するのかと思いきや、コックとウェイターも大きなアイスボックスを持って、バスに乗り込んだ。船の中で作るのだ。湖は雨に煙っていた。雨の中、アメリカ側に入り湖岸のレンジャーステーションに着いた。
両国の国旗が並び、ここは共同管理の場所、パスポートは不要だった。国境線は湖の両岸の山肌が一定間隔で山頂から湖岸に一直線に伐採されていた。帰りの船の中でサンドイッチが調理され、ウェイターが席まで飲み物とともに持ってきてくれる。ツナとターキーのサンドとポテトサラダ、とてもおいしい。小高い丘に建つ瀟洒なウォータートンロッジに立ち寄り、列車に戻り、今宵の宿泊地Cranbrookに向かった。
ディナーのメインはラム、この日あたりから食事もワインも少し重く感じるようになった。ビールがすこぶる飲みたくなり、ウェイターのフランクに聞くと「イエス、サー!」と早速、カナダのビールを持ってきてくれた。おいしい。

      
 写真左・ ウォータートン(グレイシャー)   写真右・列車コックによる船上
      国立公園                  サンドイッチ
 

「ゴールデンへ汽車は走る」

Cranbrookはそこそこ大きい町のようだが、駅らしいものは見当たらない。貨物線が何本も並んでいて、その端の線に我々の列車は停まっている。その隣がCPRの汽車博物館だ。朝食後、そこに見学に出かけた。カナダを走っていた古い車両、寝台車などが展示されている。ロイヤルカナディアンの歴史的豪華列車に乗っている我々にとっては、動く博物館に乗っているようなものなので、あまり興味がわかなかった。
列車に戻るとタラップを上ったところで冷たいカクテルをスタッフが持って待っている。暑い日差しを浴びたので、のどが渇きビールを所望したら、ビールカクテルを持ってきてくれた。これはこれで甘く、ビールの味もありおいしい。列車はCranbrookを離れ、昼食のあとは部屋の窓から流れる景色を楽しむことにしたが、昼のワインが利いたのか、ベッドの中で眠ってしまった。目が覚めたら、妻は怒っている。「景色を楽しむために列車に乗ると言っていたのに、寝てばかりいる」と。触らぬ神に祟りなしと、客室を出て隣の車両との連結部に行った。
ここにも椅子があり、車両の間から両側の景色を楽しめる。ブリティッシュコロンビア州の山間部、農場や牧場が続き、川沿いの線路の脇には色とりどりの花が咲き、美しい。夕暮れ迫るゴールデンの町に列車は静かに入っていく。

      
   写真左・ゴールデン列車博物館       写真右・移りゆく景色を楽しむ
 

「レイクルイーズはにぎやかになった」

朝食はゴールデン郊外のKicking Horse Mountainというスキー場の山の上のレストラン。バスで向かう。どんよりとした雲が覆い、昨夜の雨がまだ残っている。冬はスキー場になるリゾートでロープウェイで上る。乗るとき、係員が「上は晴れている」がにわかに信じられない。同じ車両には仲良くなったカナダ・オカナガンバレー出身の夫妻、奥さんは鉄道員の娘で、線路の脇で育ったというテツキチおばさん。明るく気さくで、何かと一生懸命世話をやいてくれる。上に上がるに連れ、雲の中を通り抜けたら陽がさし、ロッキーの山並みが現れた。雲海の上に出たのだ。2500mの終点はロッキー山脈展望台だった。
Eagle’s Eye レストランはロープウェイ駅のそば、前菜からデザートまで4種類の皿がならぶ朝からかなり重めのメニュー、さすがにここではワインはなかった。”カナダでもっとも標高の高いダイニング”が謳い文句だ。食事を終え、周りの景色を堪能して下山。麓も晴れて、青空が広がり始めていた。今日のコースはレイクルイーズまでのカナディアンロッキー核心部に入っていく。展望車のデッキに陣取り、移り行く景色を眺めた。灰濁色の川の流れが氷河からのものであることを示している。右に左に、流れを越えて列車は徐々に高度を上げていく。フィールズという停車場を過ぎると、いくつかのトンネルをくぐり分水嶺に出た。ここから川の流れは逆になった。
レイクルイーズの駅に着いたのは午後3時過ぎ。プラットホームはないものの、初めて駅名を掲げた駅舎があった。”駅がある!”と喜んで入ってみようとしたら、駅舎はレストランになっていた。乗降客のない駅なので、古い駅舎は本来の目的を放棄し、レストランとして利用されているのだ。駅舎の裏側に来たバスに乗り、シャトー・レイクルイーズに向かう。私にとっては三度目の訪問だ。最初は生まれて初めて海外旅行に出た38年前、二度目は家族で来た15年前。いずれも車で来たので、ここに線路があり、駅があることなど知らなかった。

      
  写真左・キッキング・ホースマウンテン    写真右・レイクルイーズ駅
       レストラン
 

ホテルの前はおおぜいの観光客であふれている。アジア系は中国人が圧倒的に多い。日本人は少数だ。1時間半ほどハイキングしてよいということなので、ホテルの前から湖の右岸を歩くことにした。ずっと列車に乗りっぱなしなので、歩けることはうれしい。
ホテルの湖越し正面に聳える山に向かって歩く。湖上には何艘ものボートやカヌーが浮かんでいる。雨が来そうな空の下、涼しい湖岸歩きは楽しい。帰ってくる人の中には山に登ってきたのだろうか、本格的な登山姿も見受けられた。ほぼ湖のどん詰まり、ここからは登山道という所で引き返した。夕方5時になっても、ホテル前の展望台にはいっぱい人がいる。この人たちは今晩どこに泊るのだろうか?これから宿を探すとなると大変だな、と心配も出てくる。私たちは再びバスで列車に戻った。
今晩は、実質的に最後の晩餐となる。Galaディナーと銘打っている。明日の夜も夕飯は出るのだが、カルガーリ到着前で慌しいので、今晩がフォーマルディナーの最後というわけだ。そこで白いシャツにネクタイを締めて出かけていった。結構、ネクタイ姿で来ていた。みんな最後の晩餐と意識しているようだ。女性もいつよりおめかしをしている。オカナガンバレー出のおばさんと席を同じにして、気楽に食べることにした。
マスのスモーク、きのこスープ、ビーフ、ワインは5種類、うち4種類は地元カナダのワインだ。おばさんはふるさとオカナガンバレーのワインが出て、大喜びだ。ひとしきりオカナガンワインのおいしさを口を極めて宣伝する。(あとで日本に2本買って持ってきた) 楽しいが、結構しんどいGalaディナーも終わり、レイクルイーズの駅で最後の眠りについた。

      
  写真左・散策したレイークルイーズ湖      写真右・正装して最後の晩餐
 

「バンフで買い物で終わり」

今日は3つの選択肢がある。バスでバンフに行き、観光ショッピングしたあと、レイクルイーズから走ってきた列車にバンフ駅で乗る。ヘリコプター遊覧を楽しむ。そのまま汽車に留まる。カナダのテツキチおばさん夫妻や「旅客列車を増やす会」の会長さん夫妻は列車に残った。ずっと乗っていたいらしい。「暇ではないか?」とおばさんに聞いたら、読書をし、昼寝をし、トランプをすれば十分だと言う。
私たちはバス組となってバンフに向かった。途中から側道に入り、道路に出てきた放牧馬に道をふさがれたりして、バンフの市街に入った。昼食までショッピングということで、大橋巨泉経営のOKショップに入り、クッキーやメープルシロップを買った。別な店でTシャツやコースター、ここで「日本人は減っているのでは?」と聞いたら、一般の観光は減っているが、トレッキングやラフティングなど、目的を持った日本人は増えていると言っていた。日本の海外旅行も第二ステージに移りつつあるのだろうか?昼食会場のレストランにはバス組とヘリコプター組が集まった。カナディアンビールでサーモン料理を食べた。カナダは肉より魚料理が多い。午後はバスでバンフスプリングスホテルを裏山から眺めてから、ホテルに向かった。ここでもショッピング、町に戻ってラストショッピング。

バスに戻ると、列車が遅れるので、しばらく前のホテルのバーで時間をつぶせという。金はRCP持ちのようだ。オロナミンCのようなドリンクを飲み、アメフトの試合を見て時間をつぶした。バンフ駅でオカナガンバレーのおばさんに再会、部屋に戻ると、スーツケースが運ばれていて、パッキングを忙しく始めた。おばさんに何か日本のものをお土産にと思ったが、ほとんどない。飴と柿の種、それに1ヶ残った赤飯パックをオレゴントレイルの袋に入れてあげることにした。赤飯のクッキングを説明したら、2分という文字を見て、「マイクロウェーブ、2分ね」と理解していた。夕飯を食べているうちに次第にカルガーリの町が近づいてきた。みんなそれぞれに別れを惜しんでいる。出発点だったパビリオンに入線し、一週間の旅は終わった。スタッフひとりひとりと抱擁し、フェアモントホテルの鍵をもらってサヨナラした。明日はシアトル経由で日本に帰る。精神的にはしんどい旅だったが、新たな友もでき、楽しく得がたい旅となった。

      
    写真左・バスの前を散歩する馬        写真右・豪華列車の展望室
 

12月30日 今年の蓼科は積雪ゼロ
もう暮れの大晦日前日というのに、蓼科高原1500mの高さにある山荘周辺にはまったく雪がない。20年経った山荘の歴史で初めての状況ではないだろうか。いつも雪が少ない蓼科ではあるが、正月には少なくても10〜20cmくらいはあったもんだ。地球温暖化をひしひしと感じる年の瀬である。だから暖かいかというとそうでもなく、しばらく使っていなかった山荘内は冷え切っていて、石油ストーブだけでは間に合わず、薪ストーブも今シーズン初めて焚いて暖をとった。が、それでも部屋の中はなかな暖まらず、風呂上がりの夕食はコタツに足を入れての晩餐となった。気温はやっと10℃を越えた。明日からゲストハウスを使う人が来るので、その前の準備に来た。昨年も使った人だ、その準備の帰りの30日に衝突事故を起こし、免停一歩前になっている私は安全を期し、今回は茅野までは電車で往復、茅野から山荘はレンタカーにした。11月までなら山荘まで連絡バスがあるのだが、冬は運行していない。レンタカーもスタッドレスタイヤで冬仕様なのだが、今回はその必要もない。
冬の山荘開きは水入れから始まる。自宅棟は自分で水抜きをして帰ったので逆のことをやればよい。
ゲスト棟は10月に管理センターにお願いしたので、自分がやるにはいささか不安がある。すべての栓を開けて水入れ開始、スタートボタンを押したら案の定、シューとどこかで水が噴射した。洗濯機の給水栓がはずれていた。私がやるときは締めたままにしておくのだが、人に頼むとここも外されるのだ。洗濯機のふたに水が吹きかかっている。あわてて水道栓を閉じた。こんなことが起こるのだ。前にはウォシュレットトイレの水抜きをされ、ウォシュレットから噴射していたこともあった。水抜きを人に頼むときは要注意だ。

      
   写真左・12月30日の山荘入り口        写真右・同日の山荘裏玄関
 

12月1日〜22日 コロナ明けの忘年会は8回

まるまる2年間はコロナ禍で忘年会は皆無であった。コロナの最大の罪は、人の集まりを妨げたことだった。おかげで忘年会も、新年会も、阿波踊りも消えた3年間だった。ようやく落ち着いた今年はその反動か、やめていた忘年会が立て続けに8回も12月に集中した。重ならないように、最低1日は空けてスケジュールした。続けての忘年会はしんどい歳なのだ。それでも一日空けてもつらい。それだけ弱くなったということだろう。もう八十だからね。自分から誘っておいた歌声喫茶行きも一日おきではしんどく、延期してもらったこともあった。ただ久しぶりの集まりは、昔のみんなの顔を見て、乾杯!と言うとき、すべてのつらさが飛び、うれしさと幸せが感じられる珠玉の時なのだ。だから飲み会はやめられない。もう新年会が楽しみな老爺である。
 

12月1日 「なつかしき日本HP八王子サイト」

コロナで中断していた日本HPOB会総会が開かれた。場所は旧YHP八王子工場サイトだ。3年ぶりの八王子工場は昔のままだが、看板にはHPの文字はなく、アジレントとキイサイトの看板がかかっている。HPが分かれ分かれて、元の測定器系のヒューレット・パッカードがさらに分化している会社だ。アジレントは分析化学器系、キイサイトは測定器系だ。私が不動産担当のとき建てた当時はHPのマークひとつだった。
その後、離れたコンピュータ系は江東区の大島に移り、それも今はエンタープライズ(コンピュータ系)とPC・プリンタ系の会社に分かれてしまった。けんか別れをしたわけでもないのに、このように会社が散り散りになっていくのは、何かやるせなさを感じる。日本企業はこんなとき、ホールディングの名のもとの総本社を作り、それにそれぞれの企業をぶら下げるやり方をとるのが普通だ。アメリカの企業は分社ではなく、財産を分けての離婚、また一から出直しのやり方をとる。開拓時代のフロンティア精神での再出発なのだ。どちらが良いかは、歴史が決めるのだろう。八王子サイトの裏に「日本ヒューレット・パッカード」発祥の地の看板が寂しく残っていた。

      
  写真左・キイサイト、アジレントの看板     写真右・HP Japan since 1963
 

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11月

11月30日 海外、思い出のドライブ旅
「イギリス旅行後半・エジンバラへ」2016年秋

妻念願のイギリス旅行がようやく実現した。昨年行く予定にしていたが、私のアルプストレッキングが入ってしまい、後回しになってしまい、妻カンカンのいわくつきの旅行となったものだ。アルプスのあと、イギリスで待ち合せようと言ったら、「何考えてんの!、もうあなたとは海外旅行しない!」とオカンムリになり、何とかなだめて、出発にこぎつけた旅行なのだ。
トーキーからコッツウォルズへのドライブは先月の日記に、その後、湖水地方、エジンバラへのドライブは今月の日記に分けてあるので、続けて読まれる方は先月分から読み始めてください。今月は、コッツウォルズで最後に訪れたカールスクームの小さく美しい村、そして湖水地方のピーターラビットの村、スコットランドの荒野をドライブしてエジンバラへ到着した。スコットランドでの最大の目的はネス湖、ここへは観光バスを利用した。その旅が終わって、ロンドンへは列車・一等車を奮発して向かった。

           
   写真左・コッツウォルズの農家     写真右・アガサクリスティのマイル案内と一緒に
 

「レイコック、カースルクーム」

バイブリー最後の日は、ソニーにいた原田さんに勧められたレイコックとカースルクームに行くことにした。
生憎、雨模様の天気だが、車なら心配ない。コッツウォルズ南部のはずれに位置するふたつの村、レイコック・アビーにまず向かった。
13世紀に修道院として建てられたが19世紀には写真黎明期に活躍したフォックス・タルボットの邸宅に使われていたという。ハリーポッターの映画撮影ロケ地にもなったレイコック・アビーは印象深い。
サッカーグランドのベンチでサンドイッチの昼食をとり、コッツウォルズ最後の訪問地カースルクームに向かった。だんだん細くなる山の中の道路を進むと古い家並が現れた。駐車場はいっぱいだったので、道路脇に駐車し、村の中へ歩いて行った。The Streetと呼ばれる細い道路沿いにこじんまりしているが花に彩られた小さな家がずーと並んでいて、とても美しい。ここは最も古い家並が並ぶ村として有名とのこと。
いい所がコッツウォルズ最後の訪問地になった。とてもすばらしい幕切れとなった。

      
    写真左・レイコック・アビー       写真右・カースルクームの村
 

「湖水地方へロングドライブ」

コッツウォルズにサヨナラする日だ。湖水地方へロングドライブ、300キロ以上あろうか?フロントの女性に聞くと"Less than 4hours"とこともなげに言う。
スワンホテルの従業員は若い人が多く、対応も定型的でホテル学校のインターンシップの学生のような感じだ。地元の従業員はいないみたいだ。バイブリー村を出るとナビはグローセスタへ誘導し、そこからM5のハイウェイに入り、バーミンガムへ向かった。湖水地方の宿、リンデス・ハウ・カントリハウス到着予定は午後2時と思いのほか早い。昼食をとサービスエリアに入った。ケンタッキー・フライド・チキンがあった。矢印に従っていくと、ハイウェイを陸橋で渡り、反対側のエリアに行った。コールスローがお目当てなので、チキンはなんでもいいのだ。ケンタッキーのコールスローはどこで食べてもおいしいね。
バーミンガムを過ぎてM6に乗り移り、マンチェスターを目指す。マンチェスター近くなったら渋滞が始まった。なかなか進まない。ナビの到着予定も遅れていく。大都市周辺の渋滞はいずこも同じである。それでも渋滞を乗り越えてM6で北を目指す。Kendal という町でハイウェイを下り、湖水地方へのローカル道路に入った。
野を越え森を抜け、ボウネスのリンデス・ハウに着いたのは午後3時過ぎ、予定より1時間遅くなったことになる。また2階かと思ったが、1階というのでスーツケースを運ぶのに楽と喜んだが、部屋は湖の逆で駐車場の前だった。残念だが、荷物を考えるとこれでもよいか。夕陽の湖を見にホテルの庭を下りてウインダミア湖へ歩いた。この夜のホテルのディナーはマスを頂いた。味はまあまあだが、いかにも湖水地方らしかった。このカントリハウスはピーターラビットの著者ビアトリクス・ポターがお母さんの家として買って、住んでいたものだ。それだけに住み心地のよい大きな家で、リビングや応接間にはポターファミリやピーターラビットの絵や写真が飾っている。

        
    写真左・リンデスハウの夕食     写真右・ポター家族写真と一緒に
 

「ピーターラビットの村」

湖水地方滞在はこの一日だけなので、行く場所を絞らなければならない。ピーターラビットの世界か、詩人のワーズワースの世界か。妻も私もワーズワースは知らない。ということで、ピーターラビットの著者・ビアトリクス・ポター関連を訪ねることにする。まずはポターが過ごしたニア・ソーリー村のヒルトップを目指した。
ポターはロンドン生まれだが、小さい頃避暑に来ていたこの地が好きで、ピーターラビットで当たってから、湖水地方の牧場や野山を次々と買って作家生活をおくっていた。ヒルトップは物語に出てくるモデルにもなった家である。
ニア・ソーリーまでアンブルサイトを廻って車で行った。切符売場前の狭い駐車場に幸い停められた。帰りぎわにはたくさんの車で駐車場に入れなく、道路にいっぱい待っていた。我々は運がよかった。そこから道路を上がっていくと、ヒルトップの家に着いた。ポターが生前使っていたままに寝室や居間が保存されていて、挿絵のモデルになった場所もいくつもあった。来る前に渋谷でビアトリクス・ポター展を見てきたので、物語の絵と照合でき、とても興味深かった。
ヒルトップの家を出ると、モス・エクレス湖への標識があったので行ってみることにした。ポターが”私の湖”と愛して止まなかった湖である。ニア・ソーリーの村から牧場地帯へ上がり、小一時間歩いて到着した。周りは森と牧場に囲まれた小さな湖だった。美しい。ニア・ソーリーの村に戻り、隣村のホークスヘッドへ行った。ここにはポターの夫の弁護士がオフィスとして使っていた家があり、今はギャラリーになっている。作家生活の歴史がわかる展示があった。山の上にターンハウズというポターが買った湖があるというので、そこへ車を走らせた。そこからは湖水地方の森や湖が一望できると聞いて行ったのだが、それほどでもなかった。道を迷い迷いしながら走っていくとウインダミア湖対岸の我々が泊っているホテルのあるボアネスへ行くフェリー乗り場に来た。待つこと30分余、車に乗ったまま10分ほどで対岸に着いた。あっけない帰り道だった。これにて湖水地方の旅は終わった。

      
    写真左・ ヒルトップの家        写真右・ポターが愛した湖
 

「エジンバラへ」

ウインダミアの町でお土産を買ってエジンバラへ向かった。道を間違えたようで、山岳地帯に入り峠を越えて、こじんまりした湖の脇を走って、Carlisleの町からM6から続いているA74のハイウェイに乗った。途中のサービスエリアでカフェテリアに入ったら、カツカレーがあるではないか。チキンだが迷わず注文、妻はラザニアだ。馴染みのものなのでおいしく感じた。
A702を通ってエジンバラの町に入ったが大きな町である。スコットランドの首都である。ホテルに着いたら車を返すので、ガソリンを満タンにした。ところがナビに入れた郵便番号がまちがっていたのか、誘導された通りに目指すホテルはないし通りもひなびている。そこでレンタカーのオフィスに行って、そこからタクシーでホテルへ行くことにした。レンタカーオフィスを登録し、ぐるぐる回りながらレンタカーオフィスに何とかたどり着いた。何年か前のウイーンを思い出した。あのときも市内で迷いホテルに着いて、タクシーの後をついてレンタカーオフィスへ行ったけ。走っている間にオフィスを見つけてそこへ入ったのだが、案内役のタクシーは先に行ってしまい、結局、運賃を払わなかった。運ちゃんには悪いことをした。翌日から拾った場所に何回か行ったが、くだんのタクシーが来ることはなかった。大きな町の道路事情は複雑でむずかしい。ナビがあっても苦労する。車を無事、何の問題もなく返し、タクシー乗り場へ出て「ラディソンブル・ホテル」と言ったらOKと走ったが、一方通行が多いらしく、回り道をしながらようやく着いた。20ポンドを渡した。これからは車なしの旅である。ロンドン行きの列車を調べるために、チェックインしてからウェイヴァリ駅へ歩いていった。ホテルから近かった。レンタカーオフィスも駅の近くだったが、こことは違う駅のようだった。大きな駅でスーパーもある。ここで寿司パックを見つけた。ビールも買って、ホテルへ戻り、夕食とした。

      
   写真左・スコットランドへの道         写真右・今宵の夕食は寿司
 

「エジンバラ城は大きな街だ」

朝食後、再びヴァイブリ駅に行き、明後日のロンドン行きの切符を買った。そしてエジンバラ見物に廻った。
まず目指したのはエジンバラ城は市内の岩山にそびえる大きなお城。幾度もの戦闘を越えて、今に至る城で、城内には教会、公会堂、王宮など、捕虜収容所もある。まさに町のようである。捕虜収容所は第二次世界大戦でも一時使われたこともあるという。見学後は一旦、ホテルへ帰り、昼食。少し休んでから、再び町へ。城とは反対側にあるホリルードハウス宮殿へ行った。ここは英国王室が所有していて、エリザベス女王や皇族が来た時の宿舎となる。エジンバラ城の王宮には泊らないのだ。スコットランドを征服したと思われたくないのだろうか?日本語案内の音声イヤホンがありよく理解できる。スコットランド女王だったメアリーの血なまぐさい歴史もこの宮殿に刻まれていて興味は尽きない宮殿である。

      
    写真左・エジンバラ宮殿          写真右・ホリルード宮殿
 

「静かなりネス湖」

エジンバラまで来た本当の目的はネス湖へ行くことだった。ネッシーの名で、長年世界を騒がせた怪獣はいないらしいが、まだミステリアスなのだ。そんな怪獣の故郷へ行ってみたかった。
グレイラインの観光バスに乗ることにした。エジンバラ市内のあちこちでピックアップして、25名の大所帯のツァーとなった。根強い人気である。スコットランドには山岳地帯もあり標高は低いが、スキー場もあるほどだ。インバーネスまで幹線道路と行くのかと思いきや、Stirlingから田舎道に入り、雄大に広がる牧場や平原を眺めながら、Fort Williamを目指している。豊かな大地と美しい自然、スコットランドの良さを実感する景観が続いている。ネス湖は細長く、インバーネスの先で北海につながっている。いわば川のような湖なのだ。
途中、2回ほど休憩してネス湖に着いた。希望者だけが遊覧船に別料金で乗り、他の人は散策しながら待っている仕組みだ。妻は初め、乗りたくないと言ったので遊覧船は希望しなかったが、ここに来た私の真意をおもんばかって「乗ってもいいよ」と言ってくれたので、追加で申し込んだ。船出まで1時間くらいあったので、Fish & Chipsで昼食にした。妻はチキンを頼み、私はタラのような魚を頼んだら、結構大きい切り身を揚げてくれた。食べごたえある大きさだ。湖畔の草地に座ってコーラと一緒に味わった。

 

船はいっぱいの観光客を乗せて、ネス湖を滑っていく。静かな湖面にはネッシーの影もない。海近くまで来てUターン、船内の客室でネス湖底の説明があるというので、行ってみた。英語は聞き取りにくくよくわからいが、湖底には長く続く窪地があり、それがネッシーの歩いた跡ではないかという説もあるというようなことを言っていたような気がする。それがほんとうなら、ネッシーはいたのだろう。今静かなのは、ネッシーは海へ出てしまい、ネス湖にまだ帰ってこないという説もある。”ネッシーは生きている”ことにした方が夢があっていいのではないか。
遊覧を終え地上に戻り、バスはすぐ発車、エジンバラへ戻っていく。スコットランドは美しく、いろいろな物語もあり素敵な所だ。湖畔のATMでポンドを引き出したら、スコットランド発行のポンド札だった。ここでは問題なく使えたが、ロンドンへ行ったら、受け取りを拒否されそうになったことがしばしばあった。偽札が出回っているとのこと。イギリスはいくつもの独立国の連邦と言われるが、スコットランドはEU脱退の国民投票の結果を受け、イギリスから離れようとしている。ここに来てみるとその意味も理解できるような気がした。

      
    写真左・スコットランド高地     写真右・ネス湖は海につながっている
 

「ロンドンへ列車旅・驚きの一等車」

スコットランドにお別れしてロンドンに向かう。一昨日予約した列車に乗るべくウェイヴァリ駅へ行くべくホテルからタクシーに乗った。あっという間に着いて、チップを入れて5ポンド、来た時の20ポンドは何だったのか?普通の5割増しだったが一等車にしておいた。列車は定刻通りに発車した。一等車は4人掛けと2人掛けの席で間にテーブルがある。メニューが置いてある。注文をとるのかなと見ると、値段がかいていない。妻はタダの訳がないと言うが、ウェイトレスが来て、メニューから選べという。私はチキンカレー、妻はリゾットを頼んだ。タダなのである。次に飲み物は?とウェイターが来た。私はビール、妻はジンジャエールを注文、これも無料。ウェイターが持参していたサンドイッチを頼んだら、料理を注文した人はダメと言われた。料理を頼まない人に提供されるものだったのだ。まさに飛行機のビジネスクラスと同じサービスなのである。この路線を運営しているのはヴァージョンアトランティック、航空会社だ。ビジネスサービスはお手のものなのだ。何回か飲み物のサービスは回ってきた。これならロンドンまで4時間の旅も快適だ。座席の上に札が挿してある。自分の席を見たら、キングス・クロスと印刷されていた。行先を書いてあるのだ。ヨーク駅からキングス・クロス駅まではノンストップだが、我々の前の席にも札があったので、誰か乗ってくるのかな?と思っていたが誰も来ないので、札を見たら、インバーネスからエジンバラと書いてあった。
 

この列車はスコットランド北のはずれのインバーネスからロンドン行きだったのだ。道理で、エジンバラに列車が入ってきたとき、既に乗っている人がいたはずだ。ロンドンに近づくにつれ、工場群やビル群が目に入ってきた。半日の列車の旅でロンドン、キングス・クロス駅に着いた。
これから4泊するアパートのパディントン・グリーンのメールをタクシーの運転手に見せたら”OK”と走り出した。夕方の渋滞どきで、ノロノロとタクシーは進む。運ちゃんは携帯で誰かと話し続けている。それでも20分くらいで着いた。チップを入れて20ポンド。ここのアパートは自分であらかじめ聞いていいた暗証番号で玄関のドアを開け、部屋の鍵を取り出して入るという方式。無事、最後の宿泊地にたどり着いた。すっきりとして小奇麗なアパートだ。

        
     写真左・一等車は食事付き     写真右・ロンドン・キングス・クロス駅に着いた
 

11月25ー26日 晩秋の法事で村上へ
「新潟は雪」との天気予報なので、「長靴ブーツに冬用コートの完全装備」で新幹線に乗った。
関東平野を疾走するときは快晴で小春日和だったが、長い関越トンネルを抜けると、そこは雪だった。
文吾屋の父ちゃんが死んだと聞いていたので、線香を上げに越後湯沢で途中下車した。外は雪が降っていてぬかるんでいる。駅から自宅への道がわからなかったので電話すると、なんと、岩原駅前の家にいると言うではないか、前に来たときは湯沢の駅近くに買った豪邸だったのに。岩原の家は、民宿の跡地に建てた小さな家、息子の政文一家が住んでいた。あわてて、タクシーで向かった。
父ちゃんが死んで5年になるという。畑が岩原にあり、父ちゃんが車で送り迎えしていたが、死んではそれも無理、そこで息子の家と交換したそうだ。96歳になった母ちゃんは、耳が遠くなった以外は至って元気、車で来ると思っていたと、たくさんのジャガイモを用意していた。冷凍していたチマキ、餅、菊の花だけ、もらうことにした。
岩原のスキー場下に、小さな山小屋を学生時代に借りてスキーをしていたときに世話になった民宿の夫婦だ。その頃の思い出を話し出すときりがない。私の人生を運命づけた山小屋と言ってもいい。山小屋でのスキー三昧の生活、楽しい小屋の中のひととき、すべてが、今の蓼科の山荘、奥志賀のペンションにつながっている。人生の楽しみを山とスキーに集中させた。文吾屋の父ちゃん、母ちゃんは、すばらしい夫婦だ。思い出をひとしきり語り合って、雪の越後湯沢の駅に戻り、村上へ向かった。
 
湯沢から新潟に向かったが、雪はやみ雨に変り、だんだん晴れてきた。完全装備はいらなかったなと思ったが仕方ない。
村上での法事は、叔父の奥さんの三回忌、医者の甥のお母さんになる。法事は明日なのだが、その後の食事会ができないので、食事会だけは前日の夜にするというので今日来たのだ。仕事の前に、ご苦労会をやるという変な順序だが、仕方ない。
村上駅に下り立つと懐かしさがこみあげてくる。しかし、病院が無くなり、向かいのジャスコも無くなり、空き地だけが目の前に広がる村上駅前は、まるでアメリカ西部のゴーストタウンのようだ。悲しくなる。新潟の町おこし優等生といわれる村上だが、それは駅から離れた街中だけのこと。暮れの寂しい季節には観光客も来ない。村上から先の羽越線は、JR東日本最大の赤字路線だという。これからはさらに寂れていくのかな?
法事の前に、今年亡くなった、塩野町の親類の冬ちゃんに線香を上げにいくことにした。甥が車で送ってくれた。一緒に姪夫婦も同乗した。冬ちゃんは私が育った祖父の医者の家にいたお手伝いさん。私の小さい頃から小学校を卒業するまで世話してくれた恩人のひとりなのだ。今は娘のとしみさんが家を守っている。生前のサポートに感謝し手を合わせた。その帰り、姪が「アッ!カバンを忘れた!」と言う。猿沢の道の駅でUターンして、戻った。塩野町の家に着いたら、「としみさんの車がない!」、あわてて追いかけたらしい。「困ったな」と思っていたら、としみさんが戻ってきた。道の途中で、すれちがったので、追いかけて戻ってきたという。席を立つときには、周りに気を配るべきという反省だった。姪の前に私もカバンを忘れ、それに気が付いた姪の旦那が、「これヒコさんの?」と持って来てくれた。それに気をとられ姪は忘れてしまったらしい。すべての原因は私にあったのだ。

      
    写真左・小田家の墓に参る          写真右・村上駅
 

11月19日 宝田明の戦争体験

湯島の新潟県人会館で映画スターの宝田明「戦争と平和」インタビュウ映画会をやるという案内が村上高校同窓会から来たので行ってみた。宝田明は越後村上に関係深いスターなのだ。彼のお母さんが村上出身。満鉄勤めのお父さんの関係で満州で生まれ育ち、中学生のとき終戦を迎え、命からがら引き上げて、村上のお母さんの家に身を寄せた。そこに至るまで、ソ連軍の侵攻で略奪、凌辱の実態を目撃し、自らも銃弾でお腹を撃たれ、焼き火箸で銃弾を取り出してもらったりと、辛酸をなめた引き揚げ生活を体験したので、「戦争反対、ソ連憎し」の気持ちが強い。生涯終末が近づいた今、語っておかねばならないと、インタビューの映画を作った。その3年後、亡くなっている。村上に関係深く、その家は私が暮らしていた同じ町内に今でもある。
 

引き上げてしばらく経って、生活のため魚の行商をしていた冬の日、「役場はどこですか?」と、ボロボロの軍服のひげもじゃの男性が尋ねてきた。しばらくすると、その人が戻ってきて、「アキラか?」と言った。それは満州に残してきた兄貴だった。兄貴はソ連軍が侵攻してきて間もなく、連行され行方がわからくなった。日本へ帰る最後の汽車が出るというので、家に兄への張り紙をして帰国した。兄貴はその後、まだ学生ということで解放され、家に戻ったらもぬけのカラ、「俺を見捨てた」と怒りながら帰ってきた。それがトラウマとなり、帰ってきても家族がしっくりいかない。そのうちに兄貴は家を出て、炭鉱あたりで働くようになったらしい。宝田明がまだ学生の頃、百円札を入れた手紙をくれ、「ガンバレ!」と言ってきた。また彼が東宝に入ったというニュースをどこかで聞いたらしく、また「ガンバレ!」と200円を送ってきたという。それから消息はわからなくなったという。戦争は家族の絆も分断してしまう悲惨なものだとも力説していた。

      
  写真左・宝田明が語る”戦争と平和”   写真右・新潟県人会館の映画会場
 

11月18日 「久々の岳文OB総会」

コロナでしばらく開けなかった岳文会OB会の総会が大隈ガーデンハウスで開くというので出かけて行った。ずいぶんと若いOBが増えていた。我々はヒトケタ台のOB、今は60期でもOBなのだ。その差50年、ヒトケタ代は死ぬばかりで、善ちゃんも大工さんも今年亡くなった。それでも数人のOBが集まり、片隅で昔話に花を咲かせた。第一期の滝森先輩が来られたにはビックリした。もう90歳近いだろう。今の岳文会は「ちょっぴり山を」だけが、かろうじて残っているクラブになっているが、「ちょっぴり」のつもりで入ったのに、本格的山男になるのも少しはいるらしい。昨年、幹事長を務めた山内君は、山に目覚め、卒業記念に来年3月、キリマンジャロに単独行するという。お金がないので、クラウドファンディングで集めるそうで、私も早速5万円を「キリマンジャロ山頂で岳文会の旗をバックにした写真」を返礼品希望として寄付した。もう目標の50万円を達成したようで、成功を祈っている。

      
    写真左・早稲田大学岳文会       写真右・五十周年はこんなに集まった!
 

11月10日 早稲田オープン・イノベーションフォーラム

早稲田の先端技術を紹介したり、企業との共同研究を進めたりする目的のオープン・イノベーションフォーラムが開催された。その一環として、大隈講堂での「日本が世界に誇るトップ企業の社長によるパネル・ディスカッション」に申し込み、参加した。トヨタの佐藤社長、パナソニックの品田社長、ソニーの十時社長、司会はボストンコンサルティングの秋池代表、全員早稲田OB・OGだ。日本を代表する三つの代表企業の社長が早稲田卒というのは嬉しい。特に、ソニーとパナソニックの社長が商学部卒というのはさらに嬉しい。ソニーの十時社長は私が昭和39年、大学に入った年に生まれた。その後、成長し早稲田に入り、卒業し、ソニーで社長になった。40年近く前卒業の後輩が今はソニーの社長である。前日のセミナーに参加した三菱電機の社長も早稲田商学部卒、ハイテク企業の社長が3人も、わが後輩というのは嬉しいではないか。政経卒が早稲田社長の定番だったが、その伝統は打ち破られた。また3人は一週間前に、酒を酌み交わし、今日の打ち合わせをしたという。それもいいではないか!2階の観覧席最前列で、「同期の誇り、サトウ君!1992年卒」という旗を振っていた光景もよかった。

      
  写真左・ 参加した早稲田出の経済人  写真右・オープン・イノベーションフォーラム会場(大隈講堂)
 

11月10日 早稲田摂陵高校マーチングバンド

オープン・イノベーションフォーラムの前に大学構内に入ったら、何やら応援パレードみたいなことをやっていた。近づいてみたら、女性のマーチングバンドだった。早稲田摂陵高校マーチングバンドの高校生だった。何かのイベントで東京に来たついでに早稲田に来たのではないか?大阪にある早稲田係属の高校だ。全員が早稲田に入れるわけではなく、成績上位者だけが許される高校だ。マーチングバンドの乙女たちは、早稲田に来て、演奏することが夢だったのだろう。そして、大学も早稲田に来たいと思っているのだろう。その憧れの早稲田の大隈講堂をバックに、大隈銅像を前方に見ながらのマーチングパレードは華やかで美しかった。最後に、大学応援部のチアガールも一緒に紺碧の空、大進撃、コンバットマーチの演奏もよかった。みんな早稲田に入ってね!

      
  写真左・早稲田摂陵高校マーチングバンド     写真右・最後は応援部と一緒に
 

11月9日 白洲次郎の武相荘

戦後の日本復興に吉田茂の側近として、駐留軍と渡り合った白洲次郎の住まい「武相荘」が、町田市の鶴川にある。その見学会がNHK学園の主催で開かれ、行ってみた。小田急線鶴川駅集合、15分歩いて武相荘に着いた。参加者のほとんどは同年配の夫婦かグループ、女性のグループが多い。まずは武相荘の物置だった所を改装したレストランで、白洲夫妻が好きだったチキンカレーの昼食。素朴ながらも、何か品を感じさせるカレーだった。駐留軍幹部と対等に渡り合った白洲さんらしく、使っていた車や家具などは格調高いものばかりだ。器や調理器具は、奥様の白洲正子さんの目利きらしい。正子さんは華族出身のアメリカの学校を戦前に出た、次郎にお似合いのバイリンガルなお嬢さんだった。後年は随筆家であり、古陶器や能など、日本古来の文化に深い造詣を持っていた。その夫婦が、戦中から戦後、死ぬまで暮らしたのが武相荘である。古く静かな佇まいの家が今でも保存されている。ここに都心から移ってきたのは、戦争が始まってすぐ。「アメリカには勝てない」と次郎は悟り、鶴川の家を手に入れたと言う。戦中は都心の空襲を庭の小山から眺めていたという。知人の河上徹太郎は空襲で焼け出され、この武相荘に逃げ込み、その後、東京には帰らず、隣の柿生に住んだという。なかなか興味深い見学会だったが、案内の講師はどちらかというと正子さんの専門らしく、彼女のことは説明するのに、次郎さんにはさっぱり触れない。その点が物足りなかった。

      
     写真左・武相荘入り口           写真右・白洲次郎が愛した外車
 

11月5−6日  ほし夫妻との上高地

美ヶ原温泉での傘寿の集まりを終え、私たち夫婦と韓国からのジェフン・穂梓夫婦は、上高地に向かった。ジェフンに妻の名前のいわれを教えたかったのだ。穂高の「穂」、梓川の「梓」、これで「ほし」と読ませる。梓は本を出すとき「上梓」すると言い、梓を音読みすると、「し」なのだ。まさに上高地・河童橋の景色そのものなのだ。娘がリクルートのじゃらん・ABロードに勤めていたとき、長野県の観光協会の人に会い、「小田穂梓」の名刺を渡したら、「ワッ!この手があったか、娘の名をこれにすればよかった!」と驚かれたそうだ。娘本人は、☆マークにもピッタリの名前だし、気に入っているようだ。そんな二人を上高地ルミエスタホテルに2泊3日で招待した。閉山に近いこの季節の上高地は人も少なくなるのだが、今年は異常なほど、人が多い。それもアジア中心の外人観光客だ。ベトナムの国旗のような旗をかざした団体、河原に下りて、穂高をバックに写真を撮りまくるウェディングドレス姿の娘たちと、鈴なりの観光客だ。食堂へ入るのもひと苦労。我々は明神池まで歩き、嘉門次小屋で岩魚の塩焼きを食した。ジェフンはこれを楽しみにしていたようだ。ルミエスタホテルの一泊目のフレンチには緊張していたようだが、二泊目の和風フレンチは気に入ったようで、酒の飲み比べセットをおいしそうに飲んでいた。穂梓はルミエスタのハウスワインを飲みたそうだったが、12,000円に躊躇していた。二泊するからKeepして二晩かけて飲めばよいと奮発した。結局はひと晩で空けてしまい、ふた晩目は安いワインになった。12,000円のワインは、ホテルの売店では7,000円で売っていた。上高地からの帰りに寄った安曇野ワイナリーでは、3,500円だった。ここのワイナリーでホテルのハウスワインを作っているのだった。ジェフン夫妻も堪能した上高地の旅を終え、二人は翌日、慌ただしく韓国へ帰っていった。

          
    写真左・バス駐車場からの穂高       写真右・ルミエスタホテル前で
 

11月4日 私の傘寿祝いの旅行

私はこの12月で80歳になる。傘寿である。これを祝おうと自分で企画し、韓国からほしとジェフン、横浜から景、裕紀夫妻とゆりかちゃんを呼んでの、美ヶ原温泉のホテル翔峰で宴会となった。私が全部出すと言ったら、それではお祝いにならないと、二家族が5万円ずつ負担してくれた。畳の部屋での宴となった。歩き出す直前のゆりかちゃんがハイハイしやすいようにと和室になった。最初は人見知りしていたゆりかちゃんも、すぐに慣れて、みんなの御膳廻りに励んでいた。時々、手を打って笑っているのがかわいらしい。私の傘寿はどこへやら、ゆりかちゃん中心の宴会となった。それでよいのだ。「数年後、みんなをハワイに招待する」と、大口をたたいて、楽しい宴は終った。翌朝、みんなでバイキングの食事をし、庭に出て記念撮影をした。我々夫婦とジェフン夫妻は上高地へ、裕紀・景・ゆりか家族は横浜へと分かれて、翔峰を後にした。楽しく、うれしい私の傘寿の祝いであった。

      
    写真左・おばあちゃんと一緒        写真右・小田家家族一同
 

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10月

10月31日 海外、思い出のドライブ旅
コッツウォルズから湖水地方へ」2016年秋

コッツウォルズはイギリスの緑豊かな田園が広がる農村地帯だが、昔は綿花や羊毛の産地で、それを利用した繊維産業が盛んな地域だった。その村々をつなぐ街道は東海道のような役目もあったらしく、村々は宿場町の様相だ。そしてその村にはマナーハウスという、今ならオーベルジュのような高級レストランとホテルを一緒にした宿がある。
私たちは、妻の好きなアガサクリスティの生まれ故郷、ドーバー海峡に面したトーキーという町に行き、アガサの世界を堪能したあと、レンタカーを借り、この町からスコットランドのエジンバラまでのドライブをスタートした。
最初に訪れたのは、コッツウォルズ地方の村々だった。イギリスは日本と同じく車は左側通行なので、右ハンドル、運転しやすい。ただ交差点がランドアバウトという、信号のないぐるぐる回りながら行くべき道に入るというやり方は日本にはないので、これに慣れるにはひと苦労する。でも走るうちにコツがつかめるので、全体的には安心してドライブが楽しめる。イギリス旅行を計画している人は、ぜひドライブのプランも考えてみたら如何だろう。

      
  写真左・コッツウォルズの田園を歩く   写真右・コッツウォルズ特有の藁屋根
 

コッツウォルズへドライブ開始

ホテルをチェックアウトし、タクシーで駅へ向かった。駅前のレンターカーと言ったはずなのに、運ちゃんは反対側の駅正面口に着けてしまい、この裏のレンタカーと言ったら、「アララ」と戻ってくれた。
Thriftyという日本ではなじみのないレンタカーだが、係の男性は親切、イギリス紳士である。BMWの新車にスーツケースを積み込んでくれ、エンジンもかけてくれて、「さあ走れ」と見送ってくれた。
日本と同じ、右ハンドルで左側通行なので違和感なく走れる。ナビの英語もわかりやすい。ナビ通りに走っていけばよい。地図などいらないくらいだ。ローカルな道から大通りに出て、いつの間にかハイウェイに導かれた。ハイウェイも無料なので入った感じがしない。2時間くらい走りサービスエリアでトイレ休憩。
エンジンはKeyではなくボタンを押す方式。押してもかからない。ちょっとブレーキを踏んで押しても反応なし。さあー困ったぞ、こんな時はBMWに乗ってる人に聞くのがいちばんとパーキングを見渡すがいない。走ってるとよく見るBMWが駐車してないのだ。あーだコーダとやってるうちに、ブレーキを踏みこんでボタンを押したらかかった。なんだと分かれば簡単だが、いつもレンタカーでは苦労する。サイドブレーキにもアメリカでは苦労したことがしばしばだった。ハイウェイM5でブリストルからM4に移り、サイレンセスターへのA429のローカルな道に入った。
ローカル道になると信号代わりのラウンドアバウトというロータリー式の交差点が多く、入るときに右から来る車に気をつけなければならない。入っても曲がりやすいからといって左端ばかり走っていると、クラクションを鳴らされる。二つ以上先の道に行くときは中心寄りの車線に入って、近づいたら左に寄せるというのがマナーなのだが、慣れない私には怖いのだ。それで何か所かのラウンドアバウトを越してサイレンセスターの町に来た。ここからはすれ違うのもやっとのような細い道にナビで導かれ、アッパースローターの村にたどり着いた。ここが3泊する領主の館の宿、ローズ オブ マナーがある村だ。ホテルはすぐ見つかった。

      
    写真左・ローズ・オブ・マナー      写真右・マナーハウスの食事
 

「ローズ of マナーの食事」

ローズ オブ マナーにはミシュラン一つ星のレストランもある。この日は付近を1日歩いた。
ボートン オンザ ウォーター、ローアー スローターの村々を迷いながらも歩いて夕どきにホテルに帰ってきた。二食付きで予約しているので夕食はお任せなのだが、昨夜はアラカルトを選ぼうとしたら、クラークにコースお任せもありますよ、と言われ、その方が楽なので今宵もコースにした。
ところが最初の前采は昨日と違ったが、その後の料理は昨日と全く同じだ。日本の旅館は連泊客に違うものが出てくるのに、外国の二食付きは意味が違うようだ。
レストランは独立している。だけどスキーで泊ったオーストリアのホテルは夕食はハーフボードにすると、毎日違うメニューだった。格式高いレストランはホテル内といえども、連泊客にも同じものを出すようだ。
三泊目はさすがにアラカルトにした。それにしてもホテルの庭には日本人が多い。ウェディングドレスで芝生や花壇で撮影しているカップルもある。こちらで挙式したともみえないので、新婚旅行先のコッツウォルズで花嫁衣装を記憶に残すためなのだろうか?

      
    写真左・ハイキングの途中で    写真右・ボートン・オン・ザ・ウォーター
 

「ウインチカムの古城」

まずはウインチカムを目指して、コッツウォルズの田舎道を車で走った。田園風景も美しい。ウインチカムにはシュードリー城というヘンリー八世の古城がある。この王様、6人ものお妃を取っ替え引換えした名高き王である。一人の王妃は首をはねられたというが、善政の王でもあったらしく、そんなに評判は悪くない。ここで妻は王様とお妃が詰まったマトリョーシカ人形を見つけて大喜び、王の人形をひねると、3体の人形が出てきて、それぞれに2人ずつ王妃が描かれている。美しい庭もあり、人出も多い。
お昼を食べて、ブロードウェイへ向かった。名の通り、この村の道路は広い。昔、羊毛製品の市場が定期的に開かれていたので、道路を広くしたらしい。郊外には石作りの塔があり、上がるとコッツウォルズの村々と田園が見渡せる。昨日、ローズ・オブ・マナーで見た、花嫁姿の日本人をまたここでも発見、どうもカメラマンを雇い、あちこちで記念写真を撮っているようだ。強風に煽られてショールが飛んでいったのはご愛嬌だ。チッピングカムデンへ移動した。ここも古く、コッツウォルズらしい飴色の建物が並ぶ村だ。いくつもの同じような村を見ると、どこがどこだかわからなくなる。いずれも味わいある村々なのだ。

          
    写真左・シュードリー城           写真右・ブロードウェイ・タワー
 

シェークスピア生家からバイブリーへ

ローズ・オブ・マナーにお別れする日だ。領主の宿らしく格式高く、毎日、緊張して過ごしたような気もする。シェークスピア生家のあるストラトフォード・アポン・エイボンに行って、読んだこともないシェークスピアを偲び、アンティックが並ぶストウ・オン・ザ・ウォルドの町に寄りながら、今宵の宿バイブリーのスワンホテルに向かうことにする。ストラトフォード・アポン・エイボンはコッツウォルズではないが、隣町という感じだ。かなり大きな町で、観光客も多く、中国人だらけである。町の中心地にやっと駐車場を探して停めたら、係員が来て、ここはコーチ(バス)駐車場だから一般車は隣のタワーパーキングだと指さす。古いビルを駐車場にしたような感じの建物を何フロアも上がってようやく停めた。料金は4ポンドと高い。
 

シェイクスピアの生まれた家は近かった。かなり裕福な家だったらしく部屋数も多く、彼のベッドは天蓋付きだ。孫娘夫婦の家や終の棲家のニュープレイスなどにも行ったが、何せ一冊も読んだことのない作家なので、つながりもわからず街を歩いた。
お昼を持ってきたビスケットを通りのベンチで食べ、ストウ・オンザ・ウォルドの町に移動した。坂道に沿って街並みがあるので、駐車場は家並を抜けた川の畔だった。坂の上から見下ろすと、なかなか絵になるコッツウォルズの町だった。そこからコッツウォルズの南部にあるバイブリー村へナビに従いながら行ったが、それらしい所に行かず、再度設定してようやくたどり着いた。イギリスのナビは郵便番号を入れるのだが、間違って入れたようだ。スワンホテルは16世紀からの宿屋なので古い。洗面所がめちゃくちゃ広く、8畳くらいはあるのではないか?
 

      
   写真左・マナーハウスにお別れ       写真右・シェークスピアの生家
 

スワンホテルは中国人だらけ

バイブリーの村はウイリアム・モリスが「イギリスでいちばん美しい村」と言っただけに観光客が多い。中でも中国人は群れをなして来るという感じだ。スワンホテルはその中心にあり、バスの駐車場が近くにあるせいか、おおぜいの中国人がレストランに入って来る。泊りも多く、団体は専用の食堂で飯を食っている。個人客用の食堂にも結構いる。日本人もJTB旅物語ツァーなど、いることはいるのだが負けている。案内板は日本語表記もあるが、これはひと昔前の日本人ツァー全盛の名残なのだろう。そのうちに中国語に変わるのではないか?
村の散歩コースを歩いていたら、西洋人の若い女性から「日本の方ですか?」と日本語で話しかけられた。ギリシャから来ているそうで、「日本語を習っているので、通じるか試してみたかった」とのこと。「日本へ行ったことありますか?」、「まだです。ぜひ行きたい」と日本ファンなのだ。ひと回りしても2時間くらいで終わるような小さな村だ。アーリントン・ロウは14世紀に建てられた石造りの長屋住居でバイブリーのシンボルだ。今は中期滞在のアパートのような使われ方をしていて、生活の匂いがする。日暮れになっても人が多く、ホテルの前の石橋は暮れなずむアーリントン・ロウを撮ろうとカメラマンでいっぱいだ。白鳥ならぬ黒鳥が橋の下を流れに任せて泳いでいた。
  

この日はバイブリー村散策が半日で終わったので、午後はイギリス独特のかやぶき屋根が並ぶミンスター・ラベルという村に行くことにした。一昨日シェークスピアの生家の後にチッピングカムデン近くのブロードカムデンも茅葺屋根が多いと聞いて通ったが道が細く、車を停めることができなかったので、今日は別の茅葺村に遠出することにした。畑や牧場に囲まれた村のメインストリートには茅葺屋根の家が続いている。村のはずれまで行ったらFoot Pathという標識があったので、牧場沿いの小道を歩いた。かなり長く歩き、妻は不安そうだったがついてきた。牧場が切れるあたりで牧草地に入り、農家の裏庭のような所を通過したら道路に出た。そこはメインストリート終点の教会だった。ここから駐車場まではさっき歩いた通りである。美しいコッツウォルズの村であった。

      
    写真左・アーリントン・ロウ       写真右・スワンホテルをバックに
 

10月28日 秋の早慶戦
勝ち点を上げた方が優勝という願ってもない早慶戦になった。ただ今の地力では慶応が有利だ。
早慶戦の早稲田のバカ力も侮れない。28日の第一戦は慶応出の人も行きたいというので、慶応学生応援席に入ることにした。早慶戦恒例の応援団交換イベントを慶応応戦席で見たかったからだ。
早稲田の応援部がケイオー側に来て、紺碧の空やコンバットマーチをやる。ワセダ側ではケイオー応援部が若き血とダッシュケイオーだ。今回の趣向は「早慶賛歌」の合唱をワセダ応援部がケイオー側でリードし、反対にワセダ側ではケイオーだ。そのあと、それぞれの応援ヒットパレードだった。
ケイオー応援席の全員が”紺碧の空”を大合唱するのは壮観だった。試合が始まり、私は最初は大人しくしていたが、ワセダが5回に1点を上げたときにはメガホンをたたいてしまった。9回にケイオーが2点を上げ逆転、このまま逃げ切ると思ったら、9回の裏にワセダが再逆転して勝った。ケイオー側にいたことも忘れてバンザイしてしまった。しかし、誰も咎めず、非難もなし。ケイオーの人はみなジェントルマンだ。
 
10月29〜30日 秋の早慶戦

二日目は本来のワセダの応援席だ。昨日逆転した勢いからか、早稲田の応援席は内外野ともほぼ満席。
昨日の勢いで今日も勝って優勝とみな思ったのだろう。ところがどっこい、ケイオーが賭けに出た1年生ピッチャーをワセダは打てない。ケイオーに2点先取され、7回にさらに2点、ここで神宮を後にした。ワセダは結局、無得点に終った。
これで勢いは逆転し、3日目の30日月曜はすべて当日売りなのに、応援席券を求める列はほとんど慶応、早稲田は並ばずにも買える程度の列。観客は多くないだろうと両校とも外野の応援席はクローズしたが、慶応は内野応援席に入りきれなかったらしく、急遽、外野も開放し応援旗で内野の応援に合わせて、若き血を歌っていた。主将の広瀬に待望のホームランが出て2点ケイオー先取、7回にはさらに3点追加、5−1とリードを広げ勝負あったと思ったが、ワセダも7回に2点挽回し5−3。初日のこともあり、逆転を期待したが、結局このままケイオーが逃げ切り、優勝。秋の早慶戦で4年生は最後なので、応援の締めくくりは、試合後出場した選手が応援席の前に並び、応援席ともども肩組んでの”紺碧の空”と”都の西北”の大合唱。負けはしたが、清々しい早慶戦だった。

      
     写真左・慶応の応援席       写真右・野球部員も肩組んで”紺碧の空”
 

10月22日 「古関裕而応援メロディ」稲穂祭

早稲田大学ホームカミングデイのこの日、OBの集まり、稲穂祭が開かれる。大隈講堂で「古関裕而応援メロディ」イベントが開催されるとあって行ってみた。
”紺碧の空”で世に出た古関裕而は、その後、阪神”六甲おろし”や巨人軍の”闘魂こめて”、さらに慶応の”我ぞ覇者”、早慶共通の”早慶賛歌”など、敵味方問わない、応援歌の名曲を作り上げ、今年の野球殿堂入りを果たした、作曲家だ。
大隈講堂の舞台には応援部、グリークラブ、ハイソサエティオーケストラ、混声合唱団などのOB・OGの面々が並び、交代々々で演奏し歌う。応援歌だけでなく、名曲”長崎の鐘”や”君の名を”なども。NHKのスポーツ番組初めの”スポーツショー行進曲”、”東京オリンピックマーチ”も。司会は岳文50周年のとき頼んだ元NHKアナウンサーの柿沼郭さんだった。最後に舞台に並び切れなかった各団体のOB・OGが2階観覧席の最前部にも並び、”栄冠は君に輝く”、と講堂全員での”紺碧の空”大合唱で幕を閉じた。すばらしい催しだった。

      
  写真左・ 混声合唱団と司会の柿沼郭さん        写真右・二階席にも合唱団
 

10月19〜21日 秋の尾瀬トレッキング

毎年一緒に出かける山仲間も最近は、それぞれの目的に沿った山登りをするようになり、まとまっての行動をしなくなってきているが、年に一回はと晩秋の尾瀬を歩くことにした。初日は新幹線で上毛高原へ行き、そこから尾瀬戸倉へバスに乗った。戸倉で鳩待峠へのマイクロバスに乗換えた。今年は暑かったので、紅葉が遅れ今頃が見ごろとなった。鳩待峠からは歩きで山の鼻へ。下りだけのコースなので足に負担はない。山の鼻から、尾瀬ヶ原に入る。茶褐色の草紅葉の湿原が広がり、その中を貫く木道の向こうには夕陽に輝く燧ケ岳、振り返ると暮れなずむ至仏山、皆、美しい尾瀬ヶ原に感激する。人は少なく、木道に響く足音も軽やかだ。夕方4時前に今日の宿・竜宮小屋へ着いた。
 

部屋は尾瀬ヶ原に面して眺望がよい。お風呂もゆったりとして気持ちよい。神経痛の痛みも出ず、快適に一夜を過ごせた。翌朝、至仏山が朝焼けに染まっていた。”朝焼けは女の笑顔”と言ったら、森さんは喜んでいたが、「変わりやすい」と説明したらガックリ。だから早めにゴールに着こうと急いで出発した。
竜宮小屋からしばらくは湿原の木道、見晴らしからは山の中の道に変わる。見晴らしにある山小屋はほとんどが今年の営業を終えていた。山の中の道も大半は木道だが、土の道を歩きたくなってくる。ゆっくりしたペースで進み、沼尻で尾瀬沼に出た。
長蔵小屋で昼食と思ったが、皆、午後1:50の沼山峠からのバスに乗りたいというので、小屋をスキップして沼山峠に向かった。大江湿原で尾瀬ヶ原に別れを告げ、峠へゆるやかに登っていく。沼山峠バス停には30分以上前に着いた。そこからバスで桧枝岐へ。このバスの中からの紅葉がすばらしかった。桧枝岐の宿はかぎや旅館、初めて泊る宿だが、食事も温泉もよく、皆、満足。

      
 写真左・草紅葉の湿原の向こうに燧ケ岳      写真右・竜宮小屋到着
 

10月17日 60年ぶりの三田キャンパス

早慶戦の慶応側学生応援席の切符を買うために、三田キャンパスへ来た。田町から歩くこと数分でキャンパスに着く。大学院校舎の前にテントが貼ってあり、そこで応援指導部が販売していた。近くでは「慶早戦応援」のクリアファイルを配っていた。私の前でもらった学生らしき二人組、「あれ!早慶戦でないんだ」、相方が「バカ、ここは慶応だぞ!」。一般的には早慶戦だよね。
三田キャンパスに来たのは60年前の入試のとき以来だ。すっかり入試のことは忘れたが、三田の場所だけは覚えている。結局、当時地理が好きだった私は、「経済地理」など、地理関連の授業科目が多かった早稲田の商学部を選んだことを思い出した。キャンパスは意外と狭い。早稲田の方が広い。やはり、大名屋敷の三田と田んぼの早稲田では、当時から都会と田舎の差があったのだろう。演説館を遠望しながら、三田キャンパスを後にした。

      
   写真左・三田キャンパスと慶早戦        写真右・諭吉像と演説館
 

10月14日 蓼科湖花火大会

花火は夏のものだが、蓼科では秋にやるらしい。コロナでしばらく中止していたが、今年はやると聞いて行くことにした。東急リゾートからも送迎バスが出るというので、電話したら「もういっぱいです。キャンセル待ちが30人」と聞いて、自分の車でとなったが蓼科湖近辺の駐車場が満杯になったら、下に下りたたてしな自由農園の駐車場から送迎バスでとなっている。これは大変と5時前に蓼科湖道の駅に行った。まだいくらでも空いている。「早すぎたかな?」湖前のテーブルが空いていたので、そこに座った。しばらくして、隣に座っていた人が、「ここは見えないらしい」と言って、彫刻公園の方に移って行った。そこで、私たちも移動、花火大会本部テントの近くに座った。
夜7時半開始、打ちあがった花火は湖のそばの大木の陰に花を開かせてよく見えない。そこで少し移動したら、スターマインはよく見えるが打ち上げ花火は別の木の上にかろうじて見えるくらい。「仕方ない、まあいいか」と納得して、落ち着いて花火を堪能した。東急リゾート提供の花火も美しかったが、最後の観光協会提供の花火は打ち上げとスターマインの組み合わせで迫力満点、蓼科の秋の夜空を飾るにはうってつけのすばらしい花火だった。秋の花火大会もよいものだ。

      
     写真左・スターマイン           写真右・フィナーレの花火
 

10月1日 大豊作のキノコ狩り

今年は夏の暑さは尋常でなく9月に入っても続いたため、マツタケはじめキノコは育たず、マツタケ料理屋はどこも休業という。わが山荘のキノコ狩りも期待薄だが、4人+1が集まった。+1は前日まで、吉田さんが上高地でやっていた「キノコ鑑賞会」に参加していた姫木平の鈴木さんという女性。上高地ではキノコ採取は禁止されていて見るだけ。今年は、ほとんどなかったらしい。
初日はいつもの八子が峰西側の尾根、あかまつ台の側道に入り、どん詰まりのすばらしい別荘を上がったところの尾根。珍しくこの別荘に人が来ていた。車ナンバーから岡崎の人らしい。尾根に上がり、藪をかき分けるが何もない。ハナイグチに似たキノコ発見!少し赤味がかっている。吉田さんに鑑定してもらうと、「紅テングダケ」。毒キノコで食べると下痢するそうだ。所どころにベニテングが生えている。今年は毒キノコは豊作なのか?
初日の収穫はゼロ、翌日は雨しとしとでキノコ狩りの気分ではない。しかし、姫木平から鈴木さんが来るというのでやらざるを得ない。鈴木さん来訪、雨の中を八子ヶ峰西登り口に車で行った。ここは柳の木に生える「ヤナギマツタケ」が採れる。期待薄で駐車場に着き前方の林を見ると、木にキノコらしきものが密集している。近づいて見ると大ぶりのヤナギマツタケだ。その先の木にも大きなものがいっぱい。なんと、ヤナギマツタケは大豊作なのだ。登り口付近の林にも立派なものが生えていた。木に生えるキノコにとってこの夏の暑さは十分な栄養分になったらしい。意外なものである。

      
     写真左・きのこびっしり           写真右・こんなに採れたよ
 

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9 月

9月30日 海外、思い出のドライ 旅・「西部開拓の道」2007年夏
この記事は2007年の旅行記である

私にとって小さい頃見た洋画は西部劇ばかりだったような気がする。幌馬車を襲うインディアン、それに立ち向かう騎兵隊。まさに大いなる西部の大平原に繰り広げられる合戦は汗握る場面の連続だった。
そんなノスタルジーをかきたてたのは20年も前になろうか。
アメリカ出張で滞在していたデンバーで、休日に旅したワイオミングの荒野を横切る西部開拓史のメインルート、オレゴントレイルのワダチの跡を見つけたときだった。
「この道を何万人もの開拓者が西へ西へと向って行った」と知って、胸が高鳴った。
博物館に置いてあった「オレゴントレイル協会」に即申込み、会員になった。
この団体は、ワダチの跡を保存する活動を行っている。そして毎年、街道沿いの町で大会を開く。
今年は、ネブラスカ州のスコッツブラフ。
ふつうの日本人、いやアメリカ人でも知らない町。しかしわれわれオレゴントレイル・マニアには外せないところなのだ。
妻と一緒にシアトル乗換え、デンバー経由でワイオミング州都のシャイアンに飛んだ。”シャイアン”も胸高鳴る名前ではないか。インディアンの種族の名前でもあり、全インディアンが年に一度大集合する町だ。ロディオでも知られる”大いなる西部"の首都でおある。この旅は2007年、オレゴントレイル協会の年次大会がスコッツブラフで開催されたときに行った記録の抜粋である。

      
  写真左・オレゴントレイルのマーカー   写真右・果てしなく広いネブラスカ
  

「旅のはじまりはトラブルから」

シャイアンまではシアトル、デンバーで二回乗り換えて向う。ところがシアトルからデンバーへの乗り継ぎ便が遅れること4時間。シャイアンに着いたのは最終便で夜10時半。不安だったトランクが奇跡的にも遅れに合せて一緒に着いたのは幸運だった。
飛行機も空港も小さく、タラップを下りたら隣で荷物も下ろしていて、その中にわれわれのトランクを見たときは小躍りした。
ハーツのレンタカー窓口でホテルの行きかたを何度も聞いていると、「あなたが最後の客なので5分待ってもらえれば店を閉めて案内してあげる」という。これ幸い、ハーツのおばちゃんの先導で深夜の”大いなる西部”第一夜のホテルに、日本から24時間かけて無事到着した。
翌朝、シャイアンのOld West Museumに行き、開拓の歴史とロデオのビデオを見て、これからの旅の知識を仕入れた。売店でワイオミングの車のプレートがないかと聞くと、フリーマーケットの場所を地図に親切に書き入れてくれた。ここで前から欲しいと思っていたロデオ図案のワイオミング州のプレートを手に入れた。
このあと、スコッツブラフでネブラスカ、オレゴン、モンタナなどのプレートも仕入れた。
今は、山荘の書斎の壁を飾っている。ちなみにアメリカではライセンスプレートと言い、ナンバープレートでは通じなかった。ハーツのオバちゃんも博物館のオバちゃんもとても親切だった。アメリカの田舎のホスピタリティに接し、気持ちよい旅のスタートになった。

      
    写真左・Old West Museum      写真右・カーライセンス・プレート
 

「アッシュホロー」

アッシュホローはチムニーロックより東部側、開拓者が休息をとるに最適な場所だった。大平原の中に緑に包まれた山、オアシスの池など水にも恵まれていた。ここにトレーディングポストを置き、しばらく滞在する家族の子供のためには学校も作られた。ここへバスハイキングに出かけた。
参加者は圧倒的におじいちゃん、おばあちゃんなので歩くことは苦手で、バスハイクが人気ある。
この日も二台満員の盛況ぶりだ。オレゴントレイルは西部の荒野を貫いていると言っても、川の流れにつかず離れず沿っている。ミズリーは大西洋に注ぐミシシッピーの上流、その支流のノースプラット川沿いにトレイルはある。
川に忠実に沿うと沼地や崖に難渋するので、幌牛車が走りやすい平原を選ぶ。しかし平原は水を得にくいので、キャンプ地は川の近くになる。ここアッシュホローもそういう場所だ。いくつもの小山を越えてこのオアシスにたどり着いたとき、みなホッとし、しばらく滞在したくなるような所である。私たちもランチは、みんなで池の近くの林の中のテーブルを囲んで、サンドウイッチを食べた。
ノースプラット川はワイオミングのロッキー山脈が源流だ。ここを越えると太平洋に注ぐコロンビア川の支流、スネーク川に代る。この分水嶺がサウスパス、険しいロッキーがこのあたりだけゆるやかな草原に変わるという場所をオレゴントレイルは越していく。実にみごとなルートハンティングなのだ。この峠には以前、今村さんと一緒に行ったことがある。オフィスの話をしていて、なんかの話の中で「サウスパス」を知っていた稀有の日本人だった。それが縁で今では山荘の薪割りも教わるようになった。

      
   写真左・アッシュホローの花畑     写真右・バスツァーのランチタイム

 

「ラッシュモアマウンテン」

スコッツブラフ最後の日は、妻が関心を持っていた四人の大統領の顔が岩山に彫られているサウスダコタ州のラッシュモアマウンテンに出かけ、夕方6時までにはバッファローステーキが出る野外パーティに戻ってこようという強行軍だ。
約600k、大阪までの距離に匹敵する。朝早くスコッツブラフから北へ向った途端、家一軒ない大荒野の一本道に出た。行き交う車もまばら、ひたすら制限速度をちょっと越す程度で走る。
以前、こんな誰も走っていないワイオミングの田舎道でスピード違反で捕まったことがあるので、要注意なのだ。あのときは今村さんがいて、お巡りさんに「Can you close the eye?」と頼んでくれたがダメだった。
そして罰金を払ったら、お巡りさんが「Thank you very much!」と言ったので、私は反射的に「You are welcome」なんて言ってしまい、あとで「何がWelcomeだ」と落ち込んだことなどが思い出される。
 

約4時間かけて着いたラッシュモアマウンテンの周りの変貌には驚いた。20年前に来たときは、ふつうの平地の駐車場に入れて展望も平地からだったのに、今は岩山に4階建てくらいの駐車場ができ、その先、大統領の顔の真下に甲子園のアルプス席のような観客席がある。バックスクリーンの上部に大統領の顔がある感じだ。あの時の夜、真っ暗闇の中で偉大な大統領と岩山彫りの映画が上映され、終了直後パッとライトアップされたと同時にアメリカ国歌が流れ、全員総立ちで合唱するという感動的というか異様な光景に出くわしたことを忘れない。
帰りも4時間かけスコッツブラフに帰って、大会最後のイベント、野外劇場に参加した。小さい子から年寄りまで何十人もが総出で開拓の道をみんなが助け合いながら歩き、オレゴンに到着。喜びの歌を合唱する姿は、ラッシュモアマウンテンの国歌よりも感動した。この日の野外劇場を包んだ夕暮れもまたすばらしかった。久しぶりのオレゴントレイル協会のイベント参加、充実したネブラスカの旅となった。

      
     写真左・トンネル越しの       写真・大会最後の喜びの歌合唱 
     
ラッシュモアマウンテンの彫像
 

9月29日 小津安二郎蓼科高原映画祭

久しぶりに小津安二郎記念蓼科高原映画祭に行ってみた。今週1週間、茅野駅前の新星劇場と市民館でやっている。今日は唯一の西部劇があり、そのあと小津監督の名作・東京物語、小早川家の秋、そして最後にこの映画祭で毎回やっている短編映画賞の受賞監督が育ち製作した作品「さがす」の4本立て。
朝10時から,夜9時過ぎまでの長丁場だ。小津監督は西部劇も好きで、「荒野の決闘」がお気に入りだったと、解説した小津監督の甥・長井さんが説明していた。
しかし荒野の決闘の劇場版が手配できないので、これも好きだったという「捜索者」が上映された。初めて見る映画だったが西部劇では珍しい、インディアンにさらわれた白人少女を探し出し、助け出すというストリーだった。面白かった。
そのあとの二作品は小津さん定番の家族愛の物語。静かな中にも情緒がある流れだ。最後の「さがす」はこの映画祭のコンクール出身の新進監督の作品だが、コンクールの基盤の静かな小津カラーとは真逆のワイルド、不気味なストリーで、いささか違和感を持って見終えた。
久しぶりに4本も見続けたら、ぐったりと疲れてしまった。でも楽しかった。

      
 写真左・小津安二郎記念蓼科高原映画祭    写真右・会場のの新星劇場
 

9月27日 八子ヶ峰、変じて薪割り

晴れたら来月の尾瀬行きのトレーニングを兼ねて、八子ヶ峰を歩こうと思っていたが、朝から小雨模様。
これは無理と、雨がやんだ曇天の中、溜っている薪を割ることにした。昨秋、仕入れた丸太材が半分近く残っている。今冬の薪スト―ブに入れる薪だが、まだ少し足りない気がする。だいぶ冬の利用は少なくなったとはいえ、この冬もスキー合宿や雪見酒目当ての常連などで4,5回は使うだろう。そのとき私は自宅棟で滞在するので、薪ストーブが暖房に欠かせない。その分を確保するべく、ひとがんばりしなければならない。
だいぶあった丸太も半分くらいになったとはいえ、残っているのは硬くて割り切れなかったブナやナラ材なのでしんどいのだ。
まずはまだ残っていたカラマツの柔らかい丸太に、マサカリを振り下ろす。小さい丸太は一発でパッカリ割れるが、大きいのは何回か振り下ろしてようやく割れる。それでも割れない硬い丸太は戻してしまう。チェーンソーで縦に割れ目を入れると割りやすいのだが、最近チェーンソーは使っていないので、億劫なのだ。それでも10本近くの丸太を割った。大汗でタオルもびっしょりになったところで、今日の作業は終わり。シャワーを浴びて、ぐったりし、しばらく休んでから整体に行った。今日の作業でこの冬分の薪は貯まったかな?

      
 写真左・ 使ったマサカリと残っている薪材  写真右・まだ足りないかな...?
 

9月25日 岳文ゴルフツァー

この6月に来た岳文会12〜20期代のゴルフ仲間8名がまたやってきた。どうも学生時代にあれほど山をやったのに卒業すると忘れてしまうらしい。ほとんどが山を離れてゴルフに行ってしまう。
私はテントはいやになったが、山小屋を使う山旅は相変わらず好きだ。スキーも今でも現役並みに滑る自信がある。
社会人になると仕事柄、ゴルフをやらざるを得ないのだろうか? 私は接待する方の仕事にはつかなかったのでゴルフはやらなかった。接待を受ける立場になったとき部下がゴルフに誘われ、上司に何もしないのは商売上問題と思ったのか、業者からスキーに連れていってもらったことがある。”接待スキー”だった。民宿泊りのスキーだったが楽しかった。こんな接待なら大歓迎だ。
今回来たメンバーは呑兵衛ばかりで、ゴルフ前日に真夜中までおお呑みして、ひとりは本番当日は二日酔いでグリーンに出たがメタメタだったらしい。それでもブービー賞をもらっていた。居心地がいいらしく、また来年の春になったらまた来ますと言って帰っていった。

         
    写真左・東急ゴルフコース      写真右・三井の森蓼科ゴルフコース
      八ヶ岳へ向かって打つ
 

9月23日 蓼科に秋が来た

浜松からの元看護婦さんグループの夏の滞在も昨日で終わり、帰って行った。今年は7月末に一週間、9月に入って2週間だったが、下界はあまりの暑さでさらに一週間延ばした。計4週間の長期滞在客だ。
8月はわが家や昔からの常連さんで占められるので、浜松グループは昔、スキーで世話になった戸隠の民宿の空き家を借りて凌ぐという。浜松に帰らなければならない急用があるときは帰るが、あまりの暑さでトンボ帰りするそうだ。動けなくなって、戸隠にも蓼科にも行けなくなったらどうするのだろう?
帰りに「生きていたら来年もお願いします」と言っていたが、「今は100歳時代だから大丈夫ですよ」と答えた。

      
   写真左・秋の陽影も伸びてきた     写真右・この花も鹿のエサになるまでは持つ
 

9月16日 秋の六大学・早稲田の試合始まる

秋の東京六大学野球が先週から始まり、今週は早稲田の出番だ。初戦は東大、唯一、安心して見てられる試合だ。一塁側の応援席に入り、学生諸君と一緒の応援だ。攻撃のときは立っての応援を強いられるが、勝っているときはそんなに苦にならない。ビールを飲めないのはつらいが、点を入れたときの”紺碧の空”は気持ちがいい。6−2で勝ったので、何度も”紺碧の空”を唄えて幸せであった。
今年の応援部の男子はみんなスマートで格好いい。早稲田もジャニーズ化したのかな?チアガールは美人はいないが、ちんまりしたカワイイ子が多い。応援部も時代につれて、変わっていくようだ。

      
  写真左・応援風景もコロナ前に戻った     写真右・早慶戦の応援かな?
 

9月5日 久しぶりの”岩原会”

中学生のとき仲間だった林君の叔父さんの岩原の別荘へスキーに行ったのが始まりだった。期せずして大学も一緒になり、その叔父さんの別荘をシーズン10万円で貸してくれるという話が来た。探検部に入っていた彼と岳文会に入っていた私と、それぞれのクラブのメンバー中心に10名集め借りることにした。
別荘と言ってもこじんまりした山小屋で、もともと夫婦ふたりだけで生活できればよいと作ったので、まともな部屋がない。ストーブのそばの2畳くらいの上がりカマチとハシゴを上った屋根裏が寝る場所だ。風呂はあるが、焚くのに時間がかかるといって使えない。いつも30分歩いて管理していた民宿に行った。
水道は湧き水を引いていた。炊事はプロパンガス、電気はなし、ガス灯が灯りだった。今思えば、大変な山小屋だったが、若いみんなは文句も言わず、冬の毎日この岩原の山小屋に集まり、昼はスキーして、夜は安酒でワイワイと騒いでいた。そんな生活を4年間プラスも楽しんだ仲間が、卒業後も集まるのが「岩原会」だ。コロナがあって4年ぶりに新宿に集まった。メンバーは5名で少なかったが、青春の夜に戻るには十分だった。4年前は思い出の越後湯沢に宿をとり、世話になった民宿・文吾屋のとうちゃん、かあちゃんも呼んだ。そときは二人とも元気だったが、今回の岩原会の前に電話したら、とうちゃんは3年前に亡くなったという。「あのときが最後だったか」とみんなで冥福を祈った。

      
   写真左・文吾屋夫妻        写真右・青春の冬を過ごしたヒュッテ跡の前で
     右の父ちゃんは亡くなった
 

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8月31日 海外、思い出のドライ 旅・番外編
「夢のようなチロル」2008年夏A

極楽スキーの集まりが始まって10年になる。その間スキーだけだったのが、夏は霧ケ峰や木曽駒ヶ岳にトレッキングもするようになった。
そこで10周年記念と銘打ち、ヨーロッパアルプスの麓、チロルの山を歩こう、氷河スキーもやろうということになった。アルプスハイキングというとスイスが定番だが、何せ人が多い、日本人だらけ、物価も高いということでチロルにした。
参加する人は登山経験の少ない人なので、リフトで上がって登りを減らし、下りがほとんどのアルムの中を歩くチロルがふさわしい。
ドイツに近いツークスピッツ、インスブルックに近いシュトバイタール、オーストリアでいちばん美しい村といわれるアルプバッハの3ヶ所を回ることにした。
2週間続けて休めるのは私だけなので、来る人は好きな所を選んでそこまで来てもらうことにした。現地集合解散である。空港から宿泊地までの足はシャトルタクシーを予約し、私はレンタカーを借り、それぞれの場所での移動や迎えに走り回ることにした。結果的には前半3人、後半4人となり、シュトバイタールでの2日間は全員そろい、そこにこの旅のハイライトをセットした。参加したメンバーは私を除いて全員女性。

今月は先月紹介したインスブルック近郊のシュトバイタールから少し離れたアルプバッハという村を起点にしたハイキングである。

 (この記事は2008年の旅行記である)

       
           写真左・花咲き乱れる農家

         
               写真右・アルプバッハの村
  

「アルプバッハ」

前半組の2人はノイシュティフトからシャトルタクシーでミュンヘン空港に向かい帰国した。
4人はインスブルック見物のあと、「ヨーロッパでいちばん美しい花の村」アルプバッハに向かった。
インスブルックからザルツブルク方向のアウトバーンに乗り1時間半で着いた。
ここもシュトバイタールと同じような谷間だが、けわしい山がないのでのどかなアルム(牧草地)が村の周りを囲んでいる。ゆったりした雰囲気。
泊る宿はBookingComというインターネットの宿斡旋のサイトから予約した。
村の中心地から一段高くなったアルム沿いにあった。小高い丘からは村の教会が下に見え、遠くの山並みが伸びやかなアルムの向こうに望めるいい所。ただ買い物やレストランには不便。
私のシングルルームは3階なので、ベランダからの眺めがいい。女性3人の部屋は1階の食堂横なので、ベランダなく眺めも駐車場で遮られている。休むことしばし、トントンとドアをノックするので開けたら、不満そうな3人の顔があった。「みんなで相談したんだけど、部屋は狭いし、眺めはないし、食堂の横でうるさそう。代えてほしい」。予約した内容をチェックすると、「Separate sleeping area & nice view room」と書いてある。
そこでマダム・カテリーナと交渉することにした。
「ベッドはセパレートされているじゃないか」と反論したが、さすがにNice viewには触れない。
「Nice view roomが、明日、空いたら移る」ということで結着した。
「空かない場合は宿代えをする」覚悟をした。
カテリーナは議論の中でしきりに女性陣を「ガールズ」と言った。もめているのに、
「私たちのことガールだって」とうれしそう。「オレのことはボーイと言ってくれなかったな・・・」。

      
     写真左・カテリーナの宿        写真右・私の部屋からの風景
 

「どうしてこんなにゆとりがあるの?」

翌朝、Nice view roomが空いたので移った。私の隣の部屋、こんどはベッドルームが分かれているキッチン付きの広い部屋。3人はえらく満足、「カテリーナはとっても良いマダム」に評価が一変していた。
天気は朝から雨模様、マダムから勧められたインナーアルプへのトレールを歩くことにした。
昨夜のレストランの前を通り、アルムにポツンポツンとある農家のたたずまいを観察しながら、傘をさして歩いた。
一軒一軒の家は、きれいに花で飾られていて美しい。雨で濡れた庭も風情があって好ましい。森を抜けてインナーアルプの小さな村に着いた。教会のそばのカフェでホットワインを飲む。冷えた体が温かくなってきた。雨だが、幸せなひとときになった。
アルプバッハは「オーストリアでいちばん美しい村」というプライドもあるのか、どの家もきれいだし、村全体のたたずまいも落ち着いている。豊かな村の印象がある。バスでアルプバッハの中心部に出た。観光客が多いのに、お土産屋は二、三軒しかない。それも昼過ぎでみんな閉まっている。観光案内所も、スーパーも、銀行もお休み中。開いているのはレストランだけ。よくこれで生活が成り立つものだと思う。
しかしオーストリアの労働生産性はOECD諸国の中で7位、日本は19位。そして有給休暇は最低5週間が義務付けられ、毎日、商店や銀行は昼休みがあり、スーパーも夕方6時半で閉店、日曜は休みと、あまりのちがいに驚かされる。日本の働き方は、何かおかしくないか?
この夜は、せっかくのキッチン付を活用し昼のレストランで頼んだハム、ソーセージのケータリングとチキンラーメンでのパーティになった。

      
   写真左・雨の中のハイキング      写真右・新しい部屋に移って乾杯!
 

「ラッテンブルグ」

美しい村に来たと言うのに雨が続き、翌日はラッテンブルグという小さな中世の街に出かけた。
古い建物が保存され、ガラス細工が有名とかでいっぱい店がある。土産にしたい花瓶もあるが、割れそうでこわい。
アルプバッハの同じ宿に泊っているマルタから来た。二組の夫婦も来ていて行く先々で鉢合わせ。
愉快な旦那が「オレは日本人のカーナビみたいだね」と笑わせる。われわれ4人はファミリーと思われたらしく、「あんたはマザーか?」と言われた”ガール”は憮然としていた。私は当然ファーザーになっている。
廃墟になったお城跡に登って、中世の宿場だった町全体を眺めた。さしづめ中仙道・奈良井宿か。
雨の日の思わぬ拾い物の”小さな旅”だった。

      
    写真左・ラッテンブルグの町       写真・ラッテンブルグの街を歩く
 

「”ガール去りてチロル晴れ”」

3人の”ガールズ”は、私より一日早く旅立っていった。皮肉なことにガールズが去ったあと、アルプバッハは快晴になった。
歩く予定だったワイダースベルグホーンのスキー場にひとりで行った。山頂付近まで牛が放牧されていて、小さなキンポウゲの黄色の群落がゲレンデ全体を覆っている。遠くにアルプバッハの村が夕日に輝いている。お花畑のゲレンデを、トレッキングフィナーレに過ぎしのチロルの谷間を思い出しながら、ゆっくりと下ってきた。
帰り着いたアルプバッハは、家々のベランダにあふれる花とアルムの緑が暮れなづむチロルの夕映えの中にことの他、美しかった。Good by Tirol ! Will be back again !

      
  写真左・夏のスキー場は牛の放牧地     写真右・ハイキング途中の美しい農家
  

8月30日 夏の終わりはまだか

猛暑日が続く東京は8月末になってもうだっている。朝夕は少しは涼しくなってきたが、夜のクーラーはまだ切れない。そんな東京を離れて、蓼科へゲストの入れ替えのため掃除に定期的に来るのだが、その日が来るのが待ち遠しいほどだ。
最近は電車、バスを乗り継いでくることが多い。日野の家を出るときは汗を拭きふきだが、茅野の駅に着き、東急のシャトルバスに乗ってリゾートに近づくにつれ、汗はおさまってきてヒンヤリとしてくる。この差を感じるときが幸せだ。もう20年になるが、蓼科の涼しさは、温暖化といえ、まだそれほど変わっていない気がする。
最近、建てた別荘はエアコンをつけている所も見受けられるが、なんでかね?という気がするのだ。
そんな8月も明日で終わり、9月に入るとさすがに秋を感じるのではないだろうか? 9月初めから2週間ゲストハウスを使う予定の人から、9月も暑さが続くというからさらに1週間お彼岸まで使いたいと言ってきた。「OKですよ」と返事したら、「早く蓼科に避難したい」と返信が来た。

      
  写真左・野には秋の花が...?      写真右・山には秋の雲が...?
 

8月27日 四年ぶりの阿波踊り

コロナで3年間、中止となっていた高円寺の阿波踊りが復活した。始まりの時刻が夕方5時、終わりが8時という早い時間帯となったが、終わりが早ければ長く呑めるので、踊りより呑みたい我々呑兵衛にとっては幸いかな。わが中々連は、元はと言えば、新宿ゴールデン街のスナック”花の木”の呑兵衛仲間が始めた連なので、”踊る阿保より、呑む阿保”なのだ。
練習3回で、50万人も観客がいる演舞場で踊るというツワモノの集まりだったが、40年も経ってそのツワモノも消え世代が代わり、若い人中心になったら、踊りを磨くことが中心になってきて、踊りは二の次の年寄りには居心地が悪くなってきたのは否めない。
花の木連から続いているのは数名でみな年寄りとあっては強いことも言えず、時代の流れについていくしかない。それでも、大観衆の高円寺の通りに出ると張り切って踊り出す。これが阿波踊りの醍醐味だ。
わたしはいつもの高張提灯係なので先頭を行く。もう歳なので引退する時期なのだが、先頭で演舞場に入るときの高揚感は格別なのでなかなか後輩に譲る決断ができない。今年は4年ぶりなのでさらに譲れない。
鉦、太鼓、笛、三味線の出だしばやしが鳴り出すとたまらない。やっと踊れる喜びがあふれ、涙が出そうになる。これぞ夏の最後を飾るイベントだ。
3時間たっぷり踊り、疲れたあとは打上げパーティだ。ギャラリー久のホールでの宴会は夜11時近くまで続いた。最後の踊り締めが終わって二次会は夜中の12時近くに。
今年最初の練習会のあとの醜態を今回は打ち止めにすべく、荻窪のカプセルホテルを予約しておいた。1泊5000円で温泉付き。べろべろになってチェックインして温泉に入ったところまで覚えているが、気がついたら朝になっていた。初めてのカプセルホテルは寝心地がよかった。

      
    写真左・出発前集合写真          写真右・女踊り集合写真
 

8月23日 107年ぶりの慶応優勝!

”ケイオー!ケイオー!”のシュプレヒコールが甲子園に響く。神宮の早慶戦で聞きなれたメロディがいくつも甲子園に響いていた。慶応高校の優勝だ。慶応出身者は慶応高校出なくとも嬉しいのだろうな。同じ塾生だからだ。神宮でも、”塾生注目!”、甲子園でも、”塾生注目!”で、塾生でつながっているからだ。卒業生は三田会でつながる。
早稲田はこういうことはない。早稲田実業が優勝しても、早大学院が優勝しても、大学までまとまるとは考えられない。それでも早稲田大学が慶応大学へ、”優勝おめでとうございます。来春の早慶戦には、1年生で出てくる選手もいることでしょう。そのときは”紺碧の空”の大応援で歓迎します”との洒落たメールを送ったことは、早慶の絆を物語るよいニュースだ。

   
      写真左・慶応の大応援団           写真右・東急日吉駅の”祝優勝”の看板
 

8月9−13日 ゆりかちゃん家の夏休み

孫のゆりかちゃんが蓼科にやってきた。5月に来たときは這いつくばるだけだったのに、もうハイハイができるようになり、山荘の広いリビングの床を這いまわっている。入念に床掃除もしておいたので、行けるとこまで行ってもいいよ。和室の畳がお気に入りのようで、和室に入っては畳の感触を楽しんでいる(ようだ)。
蓼科湖までドライブに行って、大人はアイスクリームを食べて、ゆりかちゃんはバナナを少しだけ味わった。
東急ハーベストのバイキングでもバナナだけ。大人はビールを呑んで洋食も和食も食べれるのに、ゆりかちゃんはバナナだけ。つまらないね、それでも狭いアパートから広い山荘で思う存分ハイハイできて楽しかったらしい。最後の日に熱が出て列車が心配だったがおとなしく、翌日、医者に行ったらどうってことなかったらしかった。
知恵熱なのだろう。こんなことを繰り返しながら成長していくのだな。

        
     写真左・蓼科のゆりかちゃん           写真右・ベランダで水遊び
 

8月4日 ライオンビヤホールの創立記念日半額セール

ライオンビヤホールは8月4日が創立記念日ということで、この日はライオンビヤホール全店でビールが半額になる。山菜きのこの吉田さんが銀座ライオン本店でのビヤパーティを企画してくれ、出かけて行った。
午前11時半開店前に外に長い列ができていた。相当前に並んだらしくいいポジションにいて、開店同時にいい席に座れた。山菜仲間の女性陣も4名参加し、盛大なビヤパーティになった。
このビヤホールの建物は1899年に開店のときにできた建物で、一世紀を越した国の登録有形文化財の建物だ。古いながらも趣があり、手入れが行き届いていて、いつ来ても落ち着いて歴史を感じながら呑めるすばらしいビヤホールだ。ドイツの本場のビヤホールにも負けない。ビールも各種、次から次へと品を変えて呑んでいく。なんてたって半額だから懐にやさしい。2時間近く飲み通したら、もうダメということになりお開きとなった。まっ昼間からのビヤパーティは楽しかった。

           
  写真左・ライオンビアホールは登録有形文化財     写真右・もうカラですか!!
 

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7 月

7月31日 海外、思い出のドライ 旅・番外編
「夢のようなチロル」2008年夏

極楽スキーの集まりが始まって10年になる。その間スキーだけだったのが、夏は霧ケ峰や木曽駒ヶ岳にトレッキングもするようになった。
そこで10周年記念と銘打ち、ヨーロッパアルプスの麓、チロルの山を歩こう、氷河スキーもやろうということになった。アルプスハイキングというとスイスが定番だが、何せ人が多い、日本人だらけ、物価も高いということでチロルにした。
参加する人は登山経験の少ない人なので、リフトで上がって登りを減らし、下りがほとんどのアルムの中を歩くチロルがふさわしい。
ドイツに近いツークスピッツ、インスブルックに近いシュトバイタール、オーストリアでいちばん美しい村といわれるアルプバッハの3ヶ所を回ることにした。
2週間続けて休めるのは私だけなので、来る人は好きな所を選んでそこまで来てもらうことにした。現地集合解散である。空港から宿泊地までの足はシャトルタクシーを予約し、私はレンタカーを借り、それぞれの場所での移動や迎えに走り回ることにした。結果的には前半3人、後半4人となり、シュトバイタールでの2日間は全員そろい、そこにこの旅のハイライトをセットした。参加したメンバーは私を除いて全員女性。
(この記事は2008年の旅行記である)

      
   写真左・美女に囲まれて、、、    写真右・美しいチロルの山のハイキング道
  

「レルモース、ロイッテ」

ミュンヘンから100Km、ドイツにもっとも近いチロルだ。
軽井沢のような賑わいのガルミッシュパルテンキルヘンの町を右に曲がればツークスピッツの岩山が眼前にそびえ立つ。
ツークスピッツはドイツでいちばん高い山2964m、八ヶ岳連峰の赤岳とほぼ同じ高さだ。頂上でオーストリアと分岐していて、いずれからも、登山電車、ゴンドラで頂上へ行ける。トレッキング不要の山登りだ。
泊りはレルモースという小さな村、ツークスピッツより格好のよいマッターホルンに似た岩峰が見える景色のよい所だ。ホテル・エーデルワイスに夜8時過ぎに着いた。2時間のドライブ。外はまだ明るく、日本の夕方5時くらいの感じだ。同行二人の女性とまずはミュンヘン空港のスーパーで買ってきた寿司で乾杯。いろいろな寿司パックが、ヨーロッパのスーパーでも売ってる時代になったのだ。

      
 写真左・レルモースから見たドイツアルプス 写真右・レルモースで泊ったホテルエーデルワイス
 

 「カニの横歩き」

ツークスピッツの頂上か歩いて下ろうとも考えていたが、ロープウェイから見ると、岩だらけで急峻な道が続き、数十メートルの岩登りで頂上に立ち、麓までの下りはとても危険と判断し、またロープウェイで下ってきた。明日は天気が崩れそうとの予報から、午後にレルモースのスキー場のリフトを乗り継いでグルビッグスタイン2200mまで上がり、お花畑のスキー場を下ってきた。リフトに乗ろうとしたら、急に雨になり、しばらくレストランで長めの昼食となった。ここのお花畑は種類が多く、桔梗やリンドウのような紫系、キンバイのような黄色系、イワカガミのようなピンク系、赤いアルペンローゼと色とりどりで美しい。
下りの途中で本来の道を見失い、リフト沿いの急な草付き道を下りたところ、雨上がりで滑りやすく、カニの横歩きのような格好で踏ん張って下りたため、同行の二人は筋肉痛を起こし、2日ばかりは歩くのもままならなくなり、ブーブー言われた。 そのあと二日間は雨模様で幸いだった。私にとってどうってことない道も、慣れていない人には恐怖を与えたようだった。反省。

            
写真左・ツークスピッツ頂上は人がいっぱい  写真右・ブーブー言われたスキー場の斜面
 

 「再びの列車騒動、若き日の猪谷さん」

翌日はロイッテに住んでいるライター久仁子さんを訪ねる日だった。夕方、レルモースの駅から列車で行くことにしていた。しかし待てどくらせど来ない。無人駅の時刻表の場所に「Information」が掲示されていて、私たちが乗る列車時刻も出ている。ドイツ語なので何が書いてあるのかわからない。久仁子さんに電話をして、スペルを言ったら、運行中止のお知らせだという。ご主人の車で往復してもらう羽目になった。昨年、伺ったときはインスブルックへ帰る最終列車に乗り損ね、タクシーで帰ったこともあった。鉄道には2年続けてついていない。(久仁子さんは2014年に亡くなられた)
今回、貴重な写真を見せてもらった。1956年のコルティナダンペッツォでの日本人初の冬季オリンピックメダリストに輝いた猪谷千春さんの自筆サイン入りの立派な写真。翌1957年、スキーパンツの仕立てに猪谷さんがこの町に訪れた。
ライターさんのお父様が写真館をやっていて、そこで撮ったものだという。ロイッテにはスキーパンツ作りの有名な仕立て屋がいたそうだ。「日本に持っていって」と言われたが、志賀高原にある猪谷記念館に話してみて「欲しい」というようだったら、頂きたいと話した。このときのオリンピックのアルペン三冠王はトニーザイラー。猪谷さんの記録を破る日本選手は、未だ現れていない。すばらしい発見の余韻を残しながら、翌日、シュトバイタールのノイシュティフトに車を走らせた。

      
  写真左・もう今はいない久仁子さん     写真・ 若き日の”猪谷千春さん”の写真
 

 「エルファーヒュッテからカールアルムへ、美しい道」

シュトバイタールはインスブルックに近い谷間。三度目だ。
ミュンヘンから、インスブルックから三人の女性が加わり、一気ににぎやかになる。私は肩身が狭くなる。ハイライトのトレッキングの日、天気晴れ渡り、初夏の風さわやかな絶好の日和になった。みんなウキウキしながら、ホテルを出た。
エルファーリフトで上がり、ヒュッテまでの登りをゆっくりゆっくり。先日の”カニの横ばい”クレームで懲りているので慎重になる。
「今日はやさしいジャン」の陰口も聞こえるが、「私は本来やさしいのツ!」
天気に誘われておおぜいの人が歩いている。エルファーマウンテンをトラバースしながら、シュトバイタールと山を隔てたピンニスタールへ向かった。
目的地はカールアルム。ここでのビールと食事が待ちどおしい。緑に覆われた尾根を横切って、一本の小道がはるかな岩峰へ続いている。晴れ渡った空、爽やかな風、天国へ続くような道だ。アルペンローゼが真っ赤な群落を作り、山肌を覆っている。ビューポイントにはベンチがあり、そこに座って撮る写真はすべて絵になる。いつまでも居たい気分だ。途中で日本人のグループに会った。私たちと同じように、自分で企画してレンタカーでアルプスを回るのだという。年齢層は高く、私たちの「若い女性に囲まれた男ひとり」に羨望の眼差しだったと誰かが言った。「若いといっても、20台も30台もいないもんネ」

      
   写真左・チロルの山のハイキング       写真右・美しいチロルの高原
  

 「アルペンローゼ満開!」

アルペンローゼは、石楠花とツツジを一緒にしたような葉と花だ。群落を抜けて、カールアルムへの急な下りがしばらく続き、冷たい水がほとばしる沢が出てくるともう近い。前を歩いていた外人のオバちゃんが小屋に着いたとき、私を振り返りバンザイと両手を上げた。私もバンザイで応じた。長い下り道が終ったのがよほどうれしかったらしい。アルムの一角のテーブルが幸い空いていた。
ビール、ラドラー、ソーセージ、思い思いのメニューで待望のお昼。山小屋の食事といっても、缶ビールにカレーなんて単純ではない。立派なグラスでの生ビール、ちゃんとした料理。アルプスのトレッキングはこれがあるから楽しい。
ここからは長い林道がノイシュティフトまで続く。途中のアルムでまたビール。ビールをレモネードで割ったラドラーは、汗をかいたあとに飲むとおいしい。約7時間の健脚向きコースをみんな疲れ果ててホテルにたどりついた。でも満足感あふれた一日だった。終るまで、ガイドブックの「健脚向き」は伏せておいた。

          
   写真左・アルペンローゼが満開       写真右・カールアルムの小屋で乾杯!

 

 「氷河スキーと岩登り」

この旅のもうひとつの目的はスキーをやること。極楽はスキークラブだ。10周年記念のチロルなら氷河スキーは欠かせない。シュトバイタールの谷間のどんづまりに氷河スキー場がある。ゴンドラを乗り継いで標高3000m近くに一年中滑れるスキー場がある。スキー組と散策組に分かれた。スキー場は氷河の上、長いTバーリフトが一本動いていた。雪は重く、水がほとばしる小川が流れているほどだ。場所によっては、水上スキーではないかと思うほど水しぶきがあがる。さすがに2時間も滑ったら「もういい」気持ちになった。8年前 、今日より2週間前にここに来たことがある。そのときと比べてゲレンデの広さは半分以下、氷河の端も上にずれている感じがする。温暖化の危機をひしひしと感じた。日本やアメリカなどは、周期的に冬が寒く大雪に見舞われているが、ヨーロッパは年々雪が少なくなっているという。アルプス周辺のスキー場もここ数年で200ヶ所くらい閉鎖になったという。お客は増加傾向だというのに。残ったスキー場にこれまでのお客に加え東欧からの客が増え、夕方のゲレンデは麓に帰る人でごったがえす。昔の上越のスキーの光景がアルプスには残っている。
昼飯を散策組と一緒にとり、思いつきで目の前にある岩山に登ることになった。たった20分くらいの鎖場やはしごのある岩場登りだったが、みんな「こわいこわい」の阿鼻叫喚。それでも頂上にやっと立った達成感は相当のものだったらしく興奮していた。標高3200mの頂上だった。「みんな穂高より高い所に登ったんだよ」と讃える。こうやって山の深みにはまっていくのだ。 (これ以降のトレッキングは次号)

      
 写真左・氷河の上のスキー場でひと滑り      写真右・阿鼻叫喚の岩のぼり
 

7月30日 猛暑日の墓参り

朝から30度を超す猛暑である。お盆の時行けなかったおふくろの墓と妻のお母さんの墓に、遅ればせながら墓参りに行った。蓼科で買ってきた花を今回の帰京は車を使ったので、二束ずつ持ってきた。まずは国立の霊園に眠るおふくろの墓へ。前回は3月のお彼岸のときだった。そのときは車がなかったので、聖蹟桜ヶ丘からバスに乗ってきた。車だと15分くらいで来るのにバス・電車・バスと乗り継いでくると、1時間以上かかった。やはり、車は便利だ。こんな暑い日に1時間もかけて来るとなると日射病になる。次は9月のお彼岸のときだろう。続いて、そのまま八王子へ向かう。妻の実家の永見家の墓は本立寺にある。ここは駅から20分も歩く所にあるので、こんな日はきつい。車でよし。この寺は日蓮宗の由緒ある寺だ。江戸時代、日光東照宮の守りを担った千人同心の墓もある。松任谷由美の実家・荒井呉服店の立派な墓もある。さすがにこんな暑い日に墓参りに来る人は少ない。やはり、墓参りには時季を選ぶべきである。

      
  写真左・ 国立にあるおふくろの墓    写真右・荒井家(松任谷由美の実家)の立派な墓
 

7月25日 フクちゃん早稲田大学の巻

野球の早慶戦、私が学生の頃は慶応の応援シンボルはミッキーマウス、ワセダはフクちゃんだった。フクちゃんの冠る帽子が角帽だったので、作家の横山隆一さんの許可をとって、ワセダの応援団は大きなフクちゃん人形を作り、応戦席最上段に飾り、傘やうちわにもフクちゃんの顔が描かれていた。そんなワセダのシンボルも、ケイオーのミッキーマウスが著作権にひっかかり使えなくなって、応援に出てこなくなったため、ワセダもフクちゃんを応援から隠退させた。早慶の強い絆が垣間見られたエピソードだ。そんなワセダのために貢献したフクちゃんを讃え、記憶に残そうと早稲田大学歴史館で特別展が開催された。会場にはたくさんの高校生がいた。受験のためにリサーチに来ていたのだろう。ワセダの良さ、楽しさを知って、来春は入学してほしいと思った。

            
  写真左・フクちゃん早稲田大学の巻記念展     写真右・角帽のフクちゃん
 

7月15日 広島焼きはとんだ騒ぎに

今年の広島焼きイベントではハプニングがあった。本番の前日に数名、山荘に集まった。金曜日の深夜に集まるのが恒例だが、今は在宅勤務やフレックスが一般的になっているので、夕方、夕飯前に5名ほどが来た。N君の車で。夕飯はこのところの定番、ジンギスカン。羊肉は苦手という人もいるので牛カルビも用意して万全を期した。しかしN君は頭が痛いと言って、来た草々ベッドに入り、大好きな温泉にも行かない。そのうちに熱が出た。体温計はと、救急箱の体温計を出したら、目盛りが動かないという。昔の水銀体温計なので、使っていないうちに壊れたらしい。一緒に来た女性群が代わる代わる、自分の額をN君の額にくっつけたりして、体温を予測したりした。翌朝になっても熱が下がらないので、看護士をしている女性が消防署に電話して相談すると、救急車を呼ぶ前に最寄りの診療所を紹介してくれた。尖石診療所へ私の車で運び、診断してもらうとコロナ陽性という。N君は「みんなに迷惑かけたくない」と、乗ってきた車で急遽、帰京した。残ったメンバーで無事、恒例広島焼きパーティは盛り上がった。そのあとの呑み会で二次感染の話が出ると、「次の火曜日に能の発表会があるので感染したら困る」、「来週、旅行に行くので罹ったら絶対困る」、「旦那に電話したら、帰ってくるなと言われた」など、感染を心配する声で百家争鳴。あれから半月、誰も感染しなかった。N君も回復。私のコロナのときは、あっという間に妻と娘に感染したが、今のコロナは感染力が弱まったらしい。「来年はリベンジするぞ」と、N君は張り切っている。

      
      写真左・
広島焼き製作中       写真右・完成まじかの広島焼き
 

7月13日 富士見高原療養所

蓼科の近くの富士見町には戦前から「富士見高原療養所」という結核患者を受け入れる療養所があった。不治の病と言われれていた時代、高原の爽やか大気で病を抑えていくという趣旨で作られた。長期の療養にはある程度の財力も必要としたので、誰もが入れるというものではなかった。作家の竹久夢二、横溝正史、岸田衿子などがここで療養した。いちばん有名なのは堀辰雄、ここを舞台にした「風立ちぬ」を執筆した。その堀辰雄についてのセミナーが富士見コミュニティプラザで開かれた。堀辰雄ファンの私としては、行かねばならぬ。「風立ちぬ」は何度も読んだ。今日の講師は「この本の中の最後の章、”死の影の谷”に至る、フィアンセが死んだのち、軽井沢の”死の影の谷”へ移り住んだまでの作者の心境をどう読み解くか」が主題だった。まさに堀辰雄の心境だ。「うちひしがれ、自分も後を追いたいと思って、死の影の谷が来たが、ここで徐々に自分を取り戻していく過程」という話だった。聞いていて自然に涙が湧いてきた。今は、この軽井沢の”死の影の谷”は明るい別荘地になっているという、

      
   写真左・ありし日の富士見高原療養所       写真右・博物館の堀辰雄紹介パネル
  

7月9日 阿波踊り練習始まる

今年は4年ぶりに、高円寺の阿波踊りが復活する。われらが中々連も参加する。今日はその第一回目の練習日。
幹事会が午前にあって、午後から2時間半、高円寺のギャラリー久で練習した。そのあとは、懇親会。歳を取ると、練習より懇親会が楽しみだ。中々連は新宿ゴールデン街の花の木連を受け継いだ連、踊りより呑むことを目的にした連だ。しかし、途中で他の連の仲間を入れた頃から主客転倒の兆しが出てきた。若い人が多い他連は、「踊りに変化をつける演技」を入れたいと、今回の練習でも一生懸命、教えてくれる。「サラサラ踊っていれば十分」と思う我々と違っている。でも花の木連から来たメンバーも、5,6人に減った今、強いことは言えない。時代が変りつつあることも自覚しなければと思うが、懇親会の二次会ではこんな愚痴をこぼし過ぎたのか、気がついたときは津田沼の駅にいた。「車庫に入りますよ」と起こされ、終電もなくなったことを知り、駅そばのホテルに泊まる羽目になった。”口は災いの元”である。

      
     写真左・ 阿波踊り練習風景          写真右・ 踊りの後の懇親会準備
 

7月8日 六大学吹奏楽・チェアリーダーズ演技会

東京六大学野球は選手の試合はもちろん面白いのだが、それを応援する各大学の応援、応援リーダー、吹奏楽、チアリーディングの活躍も重要だ。大学によって、歌、メロディ、スタイルも違うので、それを味わうだけでも、神宮に行った甲斐がある。今春の応援は、コロナ前の応援席に観客も入れてのスタイルに戻ったので、学生諸君と一緒に応援できるのが楽しい。シーズンが終わると、六大学合同の演奏会が行われる。この日、府中の森芸術劇場で開催された。まずは吹奏楽の演奏会、数曲の演奏のあとはチアリーダーの華やかなダンスパレード。最後は合同での演舞、六大学応援メロディ。今回は慶応が幹事校らしく、最後のメロディは、”若き血”一本やりのメロディが繰り替えされ、フィナーレとなった。もうちょっと、”紺碧の空”が聞きたかったな、、、。

    
        写真左・六大学合同演奏会         写真右・演奏会のポスター
 

7月6日 杉原千畝記念展・講演会

早稲田の歴史館で「杉原千畝の足跡記念展」があった。早稲田が誇る歴史に名を残した外交官”杉原千畝”。個人的には、ワセダ最大の偉人と思っている。その展示会のイベントとして杉原さんの孫の講演会があった。杉原さんが発行したビザは約2000枚、家族も含まれていたので、これで救われたユダヤ人は6,000人を超すという。今は、その人たちの孫の時代になっている。「杉原ビザに救われた」話は孫たちにも語り継がれ、そのときのビザを額に貼り付けて、家に飾っている家族もあるという。そういった子孫が今でも、杉原さんの孫(記念財団理事)に連絡が来て、「祖父や祖母が辿った、敦賀や神戸に行きたい」と言ってくるそうだ。実際、毎年何十人ものユダヤ人家族が訪れているという。大学校内(商学部校舎と社会学部校舎の間)にある記念碑には、「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」と刻まれている。

              
   写真左・杉原千畝記念展ポスター        写真右・杉原千畝記念碑
 

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6 月

6月30日 海外、思い出のドライブ旅
「プレスリーに始まり、西部開拓の町で終わる」

先月、ワイオミング州のグランドティトンへの旅を紹介したが、今月はそのときの前半、ラスベガスから
ワイオミング州・ロックスプリングスまでの旅である。
このとき、オレゴン・カリフォルニア トレイル協会(OCTA)の年次大会がロックスプリングスで開催された。
これに合わせ、前半は妻の大好きなエルビス・プレスリーの足跡を訪ねたり、ザイオン国立公園で
トレッキングをしながら、ロックスプリングスを目指した。

      
    写真左・ラスベガスの夜景        写真右・ザイオン国立公園
  

「プレスリー in ラスベガス」

ラスベガス空港に降り立つともうエルビスの姿が目に入ってきた。
"Viva Elvis"のポスターがエルビス・ファンクラブの妻を喜ばせる。泊まりも、往年ラスベガスでのショーを
やっていたラスベガスヒルトンにした。玄関脇にはエルビスのステージ姿の像が迎えてくれる。
このホテルではそっくりさんのショーも毎日、行われている。
見に行ったが、妻は「見なきゃよかった」とガックリだ。私には姿、形がよく似ていて、歌もうまいし。
と思ったが、真のエルビスファンには、全然違うのだそうだ。
シルクドソレイユの”Viva Elvis"のショーの画面に頻繁に出てくるエルビスの姿の方がよっぽど良かったと
いう。Viva Elvisは大枚350$払って確保した前から2番目の席が妻には不評だった。
舞台が近すぎて舞台外にも拡がるショー全体を把握しにくい。
最後に、天井からヒラヒラ落ちてくるエルビスの名前入りのスカーフも前には落ちてこないしと。
確かにこのショーは真ん中辺の席がいちばん見やすいかもしれない。
真夏のラスベガスは猛烈に暑い。40°Cは超えている。昼は歩けたものではないが、それにもめげず、
エッフェル塔、自由の女神、スフィンクスなど新しくできたホテルの売り物を見て回った。
30年前に来たときにはなかったモノばかりだ。街全体がディズニーランド化していると思った。
モノレールまででき、改札口でモタモタしていたら、日本人の男性が親切に教えてくれた。
ラスベガスにしょっちゅう来ているらしい。これからワイオミングに行くと行ったら、「また地味な所へ」と
驚かれた。この町には”節電”の言葉はないらしい。冷房ガンガン、ネオンキラキラで、電気使い放題。
”節電、節電…”の国から来て驚くことばかりだった。

         
 写真左・ヒルトンホテルのエルビス像  写真右・ヒルトンホテルでのエルビスそっくりさんショー
  

 「ザイオン、ブライスキャニオン国立公園」

朝8時前にヒルトンを出た。ザイオンまでは迷うことないインターステート15号線を走ればよい。
セントジョージで降り、給油しガソリンスタンドに併設されているサブウェイでサンドイッチの朝食。
ほとんどのスタンドはコンビニ化している。給油でクレジットカードを入れても反応しない。
前はどこでもOKだったのに、とカウンターに行くと、「何ドル?」と聞く。「30$頼む」でクレジット
カードで引き落とし、ようやく給油OK。24$で止まって再びカウンターに行くと差額をまたカードで
精算してくれた。(この後のスタンドも全てカードはこのやり方だった。
どうもカードのSecurityが厳しくなってVisaでもマスターでも日本で発行されたものはダメらしい)。
以前借りたレンタカーにはUnlead Onlyと表示されていたのに、今度の車には何もない。
スタンドの給油口にもない。Superはあるので、これを入れた。この数日後、田舎の古いスタンドで
Unleadを見たときは、古い友達に会ったようだった。「オッおまえ元気だったか!」と。
アメリカを走っていることを実感する瞬間だ。

      
  写真左・ザイオン一望の尾根歩き     写真右・ブライスキャニオン国立公園
 

 「ザイオンの山歩きは暑い」

ザイオンの手前、スプリングデールという小奇麗な村のスーパーで買い物。発泡スチロールの
保冷庫と氷を買い、そこにビール、スイカなど入れた。何と豆腐も寿司パックも売っていたので、
それも入れた。
公園内唯一のザイオンロッジに着いたときはまだ午後1時半。昼食を食べ終わっても2時半、
チェックインの4時にはまだ間があるので、ナローズという川幅が狭まるザイオン名所入口まで
ハイキングすることにした。
公園内は車禁止(ザイオンロッジ泊まり客だけはロッジまでOK)なので、シャトルバスに乗った。
ザイオンは谷間だが、標高も1500mあるので涼しいと思っていたが暑い。しかし不思議と汗は出ない。
終点から歩くこと小一時間、みんなザブザブと川の中を渡っている。水着姿も多い。
妻は濡れるのはイヤだと言うので、引き返した。夕方になって、帰る人は多いが、来る人も多い。
夜、川を歩こうというのだろうか?ロッジにチェックインしようとカウンターに行ったら、他にお客はいない。
5時半頃は多いはずなのにとロビーの時計を見たら、6時半になっている。「アッ1時間の時差が
あるのだ」とそのとき気がついた。ユタ州に入ったときからマウンテンタイムに切り替わっていたのだった。
この夜は、バドワイザーにお寿司、冷奴、日本から持ってきたソーメンで、ようやく落ち着いた。

      
 写真左・谷間の奥へは川の中をザブザブ歩く    写真右・ザイオンロッジ
 

 「朝歩き、昼寝に帰り、夕方また歩く」

「今日は歩くぞ」と身支度して外へ。朝はヒンヤリして気持ちがいい。
岳文50周年グッズのテルモスに氷を詰め、それに水を入れた。(これは暑い西部では昼夜問わず
とても役立った)。Easyコースのアッパーエメラルド湖までの道に入る。家族連れが多い。
ローワーエメラルド、ミドルエメラルドもあるが、いずれもエメラルド色などしていない、どってことない池だ。
下に見えるバージンリバーの方がエメラルド色だ。湖からグロットーに抜ける道に入ると、背景に
ザイオンの山並みが連なり美しい。
グロットーからシャトルバスで一旦ロッジに昼頃、戻った。暑くて昼寝でもしないと次の行程に移れない。
午後3時過ぎ、こんどはHidden Canyon(隠れた谷間)というキツめのコースに行くことにした。
Weeping Rockまでシャトルバス、そこから陽射しきつい道をゆっくり登った。
このコースにこの時間から入る人は少ない。高度を上げるに従い、ザイオンの谷間が眼下になり、
その景色が美しい。途中、鎖場を何箇所か通過し、午後の陽が陰った狭い谷に入った。
ここがHidden Canyonっらしい。行き止まりはないようなので、適当な所で引き返すことにした。
帰りは谷間を見下ろしながらの道なので快適。ロッジに戻り、シャワーを浴びて、この夜はダイニングで
食事をした。妻はポーク、私はトラウト(鱒)を冷えたワインで美味しく頂いた。

      
    写真左・リスは登山客を恐れない      写真右・ザイオンの谷間をバックに
  

 「トンネルを行ったり来たり」

最後の日はブライスキャニオンへドライブすることにした。Zion-Carmel Highwayがトンネルを越えて、
ブライスキャニオンへの道につながっている。1930年に造られたトンネルは、キャンピングカーが
片側通行できない狭さなので、時間制限をして交互通行している。トンネルを出てすぐの所に
Canyon Overlookという展望台の駐車場が右にあることは案内書で知っていた。
しかしまさかトンネルの傍とは知らず、車はそのまま突っ切ってしまった。慌てて戻ったが、左折
禁止で、何台か通過待ちしている車の後ろに着いて、元来たトンネルに入らざるを得なくなって
しまった。
反対側に出て、また並び、三度目のトンネル通過でようやく駐車場へ。展望台までは結構遠く、
15分くらい歩いてやっと辿りついた。期待していたほどの景観ではなかった(ヤレヤレ)。
しばらくユタの緑多い田舎の道を走り、ブライスキャニオンに着いたのはお昼頃、昼飯はまだだが、
展望台へ行けばホットドッグくらい売っているだろうと行ったが何もない。お腹を空かしながらも、
サンセットポイントから谷底に下りるNavajo Loopという道を歩いた。これが良かった。
奇岩屹立する間を谷の底まで下りると、こんな所にと思う大木が岩の間の僅かな太陽を受けながら、
上へ高く伸びていた。そのあとも、ブライスキャニオンのいくつかの展望台を車で周り、ブライス
キャニオンロッジで遅めの昼食を摂った。大きいサンドイッチをペプシで食べた。
何でこんなにアメリカではコーラが美味しいのだろうか。

        
  写真左・三度往復したトンネル案内板   写真右・ブライスキャニオンの谷間の大木
 

 「ロックスプリングス」

今日は445マイル(712K)のロングドライブだというのに、目を覚ましたのが7時半。目覚ましは
午後6時にセットされていた。慌てて身支度して朝飯も食べず、8時半にザイオンロッジを出発。
インターシティ15からインターシティ80への高速道がほとんどだから、700Kでも時間的には早く着く
だろうと、そんなには焦らなかった。結果的には夕方5時過ぎに着いた。
ソールトレイクシティからルート80に入ると、そこは西部開拓の道だ、休憩しようと下りた
Echo Canyonはブリガムヤング率いるモルモン教徒が通ったモルモントレイルのキャンプサイトだった。
そして州境を越え、ワイオミングに入ると、わっと拡がる大平原。地平線まで続くまっすぐな道、
広い空にたなびく雲。This is America !! の世界があった。これを求めて、今年も来た。
明日から始まるOCTAの催しが楽しみだ。チェックインしたHomewood Suites Hiltonは台所付きの
広くきれいな宿で妻も大喜び。

      
   写真左・遥かなる大西部の道     写真右・ロックスプリングスの宿に妻は満足
 

6月29-30日 金谷ホテルは歴史の宿

11時10分発の金谷ホテルのバスで中禅寺湖から日光金谷ホテルへ移動した。金谷ホテルの車の
ナンバーはすべて1873であることを知ったのはこの日夕方の館内ガイドでの説明。
確かに玄関前のクラシックカーから送迎バス、みんな1873だ。創業が1873年、今年で150年の、
日本最古のホテルといってよい。この日訪れたホテル歴史館には創業当時のホテルの前身・金谷
カテッジインが現存している。ここが金谷さんの自宅だったそうだ。
箱根の富士屋ホテルは、金谷さんの次男が婿入りしたホテルで、仲の良い金谷兄弟は、何かと
情報交換しながら、双方のホテルの繁栄に尽くしたそうだ。
日光金谷ホテルの建物は改装の繰り返しだが、全館、創業当時のままだという。確かに玄関
ロビーは狭く、フロントカウンタ―は高い。外人の身長に合わせたそうだ。部屋の洗面所も風呂も、
家具も古い。あえて近代化しないようだ。朝食もクラシックスタイル、夜、入ったバーのオーディオも
真空管だ。すこぶるクラシックな宿は昔を偲ばせて趣きがある。
寺社見物は、東照宮より、家光の墓処・大猷院が静かで地味で趣があった。
30日に行った大正天皇が滞在した田母沢御用邸、紀州藩江戸表屋敷いの移築を取り入れたりしで、
興味深かった。

      
  写真左・ホテルの車のナンバーはすべて1873     写真右・金谷ホテルの玄関で
 

6月27−28日 中禅寺湖・金谷ホテル

日光は学生時代の光徳牧場夏合宿や男体山登山の山登りで行っただけで、神社仏閣、
華厳の滝など見たこともなかったので、名門・金谷ホテルに泊まる旅を妻とした。
まずは中禅寺湖金谷ホテルへ浅草から東武特急、金谷ホテル連絡バスで直行。外装を
丸太材で覆った、洒落たホテルだ。部屋のベランダから、中禅寺湖が木の間越しに見える。
翌日は中禅寺湖の中心街から40分ほど歩いて、英国大使館別荘と、隣のイタリア大使館
別荘へ行った。英国はイギリス風の、イタリアは杉皮を貼り付けた日本風の建屋で興味
深かった。
英国大使館でスコーン、紅茶のアフタヌーンティーを昼食代わりにした。帰りの道で、すごい
雷雨に会い二度も雨宿りをして、ずぶ濡れになって宿に帰ってきた。
中禅寺は日光湯元から引いた温泉があるのがうれしい。

      
     写真左・英国大使館別荘       写真右・英国大使館別荘のアフタヌーンティー
 

6月24日 整体施療始まる

3月のスキーで痛めた右足の神経痛がなかなかよくならない。しらかば4号線に住んでいる、チェン
さんと散歩中に会い、その話をしたら、諏訪の整体師を紹介してくれた。
チェンさんも、長年、腰痛に悩まされていたが、そこで治療してもらったら、完治したとのこと。
「それはいい!」と早速、予約して行ったのがこの日。諏訪大社上社に近く、夕方6時の予約に
行ったら、玄関先で先生は待っていてくれた。
「整形外科でのレントゲン、MRIは骨や筋を写すが、筋肉の症状は写されない。そのため、
痛みを和らげる薬や湿布薬で治療するが、それは筋肉の痛みの原因を取り除くことはできない」
と宣い、体全体を鏡に写し、背骨がまっすぐにならないのは腰に問題があるからと、右半身の腰
から臀部を入念にチェック。お尻の筋肉が固まっていると、テニスボールを1個くれ、それで毎日、
お尻の下に置き、ゴリゴリするようにと言われた。
まずは腰から臀部の塊をほぐしてから、腿からくるぶしの方へ行きましょう。それぞれに合わせた、
ストレッチを教えるので、忠実に実行してください。と言われて、終った。もう2時間近く経っていた。
帰って来た時は9時近く、それから風呂に入り、夕食は9時過ぎになった。
おしりをテニスボールでごりごりしながらの夕食だった。
 

6月17日 花の木ママさん、墓参り

5年前に亡くなった新宿ゴールデン街名物ママ”広田和子”さんの墓参りに行った。
約10名の飲み仲間と一緒だ。お墓は千葉県松戸市の八柱霊園にある。千葉県なのに東京都
の霊園なのだ。暑い日だったが、成田へ行く東総線の松飛台駅に集合した。東総線は運賃が
高い私鉄として名高いが、最近、少し安くしたらしい。広田さんの本名は永末和子だったらしい。
永末家の墓に一同お詣りし、お目当ての店に向かった。早く生ビールを飲みたいのだ。
集まったメンバーは、スナックの常連なので、みんな同じ気持ちらしく、足早に霊園を後にした。
広田ママさんは、花の木連という阿波踊りのグループをお客さんで立ち上げ、30年も高円寺の
阿波踊りに出ていた。私も途中で仲間入りさせてもらい、同時に花の木の客にもなった。
連は我々が立ち上げた中々連に引き継がれ、今日に至っている。浴衣も鳴り物もみな花の木
から引き継いだ。
コロナが明けようやく今年から、高円寺の阿波踊りが再開される。4年ぶりの踊りは8月27日、
だいぶ間が空いたので連絡網がズタズタになり、出欠の確認に事務局は大変な思いをしている
日々である。

          
      写真左・広田ママの墓          写真右・八柱霊園
  

6月14日 岡谷で映画見て、うなぎ

東京に帰ってからカンヌ映画祭に出ていた是枝裕和監督の「怪物」を見ようと、立川シネマシティなどの
スケジュールをチェックしていて、ふと思い出した。この映画のほとんどは諏訪湖近辺で撮影されていた
ので、諏訪あたりの映画館でもやっているのではないかと。もう茅野にも諏訪にも映画館はなく、近くに
あるのは岡谷スカラ座だけ。ここでは毎日朝⒑時から上映していた。その回に間に合わせるべく、蓼科を
8時過ぎに出て向かった。
着いたときは、もう映画館の前まで長蛇の列。早朝の回でも、さすがに撮影地とあっては超人気なのだ。
ロビーは撮影地マップなども置いてあり、見ると、岡谷、下諏訪、上諏訪、富士見とこの地域のいろいろな
所でロケしている。残念ながら茅野はない。行ったことがある場所もいくつかあり、興味深い。
ストリーは難解である。最近はこういう映画が評価されるのだろう。もともとは大河の近くの町という設定
だが、湖に変えたのは、火事の現場に消防車を何台も走らせてくれる消防署でOKしてくれたのは、
諏訪消防署だけだったのでここにしたそうだ。ビルが燃えているシーンは、上諏訪駅の近くだった。
映画を見終わって、「ここはうなぎの町だ」と気が付き、諏訪湖水門近くの天龍といううなぎ屋に行って、
肝吸い付きつきのうな重を頂いた。4500円也、高いがすこぶるおいしかった。

          
     写真左・ 岡谷スカラ座         写真右・ 岡谷天龍のうな重
 

6月10−12日 奥志賀の山菜採り

蓼科の山菜の次は奥志賀だ。10日土曜日に集まり、日曜にネマガリダケを採り、行者ニンニクや
ウドも採るという段取りだったが、土曜昼過ぎに行くと、ブルーエの幸子さんが、「明日は雨になる
ので、今日中に行ったほうがよい」という。雨が降ると、笹薮の急斜面は滑るので危険とのこと。
一組を除いて、2時には集まるそうで、急遽変更、今日はタケノコ採りとなった。吉田さんに電話
すると「小布施で蕎麦を食べている」というので急かせた。
2時半すぎに、2名を除いた9名集まったので、幸ちゃんの先導で遊歩道に入り、いつもの笹薮へ。
今年は雪どけも早く、暖かったので、タケノコはかなり伸びていた。それでも後から出てきたものも
あり、笹薮に潜り込むと、それなりの収穫があった。9名の大人数で採ると、かなりの量になった。
これを向いて、食べられるように細かく切っていくのが大仕事。ネマガリ専用の皮むき器もある。
この地方専売の機器だ、みんなで剥いてもむいてもタケノコの山は小さくならない。
夕方6時を過ぎても終わらない。本来6時の夕食を1時間遅くするということで、なんとか終わった。
大仕事のあとの酒と夕食は各別においしい。
翌日は雨のスキー場の中で合羽を着てのワラビ採りがメインで、夕方、西発哺温泉に行って温泉を
浴びた。ここは「いつもブルーエさんにはお世話になっています」と言って、入浴料を割引きしてくれる。
風呂の後の、ジュークボックスも楽しみ。「奥志賀の女」などという歌も入っている。
よく湯田中駅で流れる「うるわしの志賀高原」は3回も聞いてしまった。たっぷり”昭和”を楽しんで、
奥志賀に帰ってきた。

      
 写真左・  採りも採ったりたくさんのネマガリダケ 写真右・奥志賀山菜採りツァーご一行
 

6月4−6日 岳文ゴルフ仲間の蓼科合宿

岳文13期前後の深田君を中心とするゴルフ好き8名が山荘に来た。明日からのゴルフで前泊、
この日はジンキスカンで盛り上がった。翌日は東急ゴルフコース、近いから9時過ぎにゆっくり
出かけて行った。帰ってきて、この日の夕食はバーベキューが主体。すこぶる大きい椎茸などを
焼いて、二晩続きの盛り上がりである。
翌日は蓼科高原カントリークラブでのゴルフ、日帰りでもう一人来てのプレイ。八ヶ岳から鳳凰三山、
甲斐駒・仙丈を眺めながらのゴルフは楽しかったらしい。さすがに山屋である。
卒業してからはゴルフ主体になっても、昔、歩いた山々を見ながらのゴルフはまた違う感慨が
わくらしい。秋も蓼科でということになり、また来るらしい。大歓迎である。

      
 写真左・八ヶ岳を望む 蓼科カントリークラブ    写真右・蓼科東急ゴルフコース
 

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5 月

5月31日 海外、思い出のドライブ旅・
「グランドティトンはシェーンのふるさと」

「シェーン、カムバック!!」は映画シェーンの最後の場面のセリフだ。カウボーイ・シェーンが険しい山がそびえる草原の彼方に、馬に乗って去っていく。小屋陰から呼ぶ子供の声。この映画の名場面の舞台がグランドティトンなのだ。ワイオミング州北部、イエローストーン国立公園と隣り合わせにグランドティトン国立公園がある。美しい所である。
12年前、ロックスプリングスでオレゴントレイル協会の年次大会のあと、この公園へドライブした。ジャクソンレイクロッジに数日滞在して、美しい公園をハイキングした。そのときのドライブ紀行である。

      
 写真左・"シェーン カムバック!!”のシーン 写真右・ティトンの山なみを背景に歩く
  

「シェーン Come Back !! の地へ」

1週間いたロックスプリングスを離れ、グランドティトンに向かった。途中、欲求不満に終わったサウスパスに寄った。本当のサウスパスはメイン道路から横に入った砂利道をしばらく走り、幌馬車の轍が残るオレゴントレイルを車で駆け登った所にある。三度目のサウスパス訪問だ。アメリカに来て、初めて雨となったが、サウスパスに來たら少し青空も見えてきた。ここに来るといつも何かホッとするのは、昔の旅人と同じ気持ちになっているのかもしれない。カナダからコロラド州に連なるロッキー山脈が、ワイオミングのこの数十キロの区間だけ、荒々しい岩山が高原状になっている。1820年代の西部探検時代はもっと北のイエローストン公園周辺の川と山沿いに西へと向かっていた。その後、このフラット状態のサウスパスを見つけたことにより、すべての旅人はここを通るようになった。西部開拓史の中でももっともエポック的な場所である。
この旅の締めくくりは「シェーン Come back !!」のグランドティトンに三日間滞在し、シェーンの撮影場所とティトンの山歩きをすることだった。ジャクソンホールの町のスーパーでは寿司を目の前で握っていた。傍には枝豆も売っていて、両方買い込み、ティトンの宿、ジャクソンレイク・ロッジにチェックインしたのが夕方5時。部屋は湖に面し、ティトンの山並みが窓いっぱいに広がる居ながらにして絵葉書の中のような部屋だった。薄暮の中、ベランダに寿司、ソーメン、蕎麦、枝豆、バドワイザー、白ワインを並べ、夕日に染まるティトンを眺めながらの夕食となった。快適、満足。ところがベランダへのドアを開けたり閉めたりしている間に入り込んだのか、コウモリが室内にいることを深夜発見。天井に張り付いているときは小さい塊なのに、室内を飛び回ると結構大きい。これを追い出すのに大苦戦。明るい方には飛ばない。バスタオルを振り回しているうちに、運よくコウモリに当たり、弾き飛ばす形でベランダに飛んでいった。ホッとした。

      
写真左・サウスパスはオレゴントレイルの名所 写真右・ジャクソンレイクロッジの
                          ベランダから
  

 「美しきティトンはベアカントリ」

グランドティトンには多くのトレッキングルートがある。ジャクソンレイクからはティトンの山並みを遠望する遠さなので、もっと間近に見るコースを歩こうと思い、ジェニーレイクに近いタガート湖とブラッドリー湖を巡るコースを歩くことにした。ティトンの嶺を真正面に見ながらのコースは迫力もあり楽しい。この山が4000m以上の高さがあるということを今回知り驚いた。山並みの塊は八ヶ岳連峰に似ているが、高さは全然高い。タガート湖もブラッドリー湖も氷河湖だ。湖面はエメラルド色で美しい。
ティトン一帯には熊がいっぱいいる。公園管理事務所は「人間がベアカントリに入っている」ということで、熊を排除しない考えなので、至るところで熊に遭遇する可能性が高い。ここも熊が出ていてレンジャーが見張っているという話が途中で会った何人も忠告してくれた。ブラッドりー湖畔で昼食にしたときは、周りには誰もいないし、鬱蒼としているし、熊鈴を鳴らしながらの落ち着かないランチとなった。タガート湖あたりから曇ったり晴れたりしていたが、ブラッドりー湖からの帰途、雷が鳴り雨が降り出した。雨と熊に追われるようにして急いで車に戻った。それでも美しい景色を見ながらのトレッキングができ、楽しかった。よく日本の案内書に出ている祭壇の十字架の後ろにティトンの山が入る写真の礼拝堂に寄り、ジャクソンホールの町にお土産探しに出かけたが、これといった物が見当たらなかった。

      
     写真左・ブラッドリ湖     写真右・ティトンの山並みをバックにした
                        礼拝堂十字架

 

 「シェーンはアメリカで人気ない?」

雨が降ったり止んだりのジャクソンの町だったが、ロッジへの帰り道、晴れてきた。ティトンの山に雲がちょうどよい具合にからみつき、写真にはうってつけなので、アンテロープフラットロードに入った。この道沿いに、シェーンの風景が広がっているはずだ。「あるある!」廃屋になった家や納屋が点在している。いずれもティトンをバックにすると、シェーンの風景になる。その納屋に立ち、「シェーン、カムバック!!」と夕暮れのグランドティトンに向かって叫んで見た。
このあたりの開拓集落はモルモン教徒が切り開いたという。今はその住居やコテージをB&Bの宿にしているだけだが、1850年代にはここにも開拓民がおおぜいいた。これもまた西部開拓史の光景である。一週間前に行ったブライスキャニオンもこの地で布教活動をしていたモルモン教のブライス神父の名に由来するとあった。モルモン教徒は美しい山々の中でも開拓に布教に勤しんでいたのだ。ところでシェーンはあれほど日本では有名なのに、どこにも「シェーン撮影の地」などの看板はない。案内書にも載っていない。そういえば、OCTAのパーティで会ったWatsonさんもシェーンを知らなかった。(発音が悪くて通じなかったかもしれないが)。どうもアメリカの人にとって、シェーンはそれほど人気のなかった映画だったのかもしれない。

      
    写真左・シェーンの故郷風景      写真右・”シェーン カムバック”は
                            ここではないか?
 

 「ロックフェラーの決断」

ティトン最後の日。妻は毎日、出歩いているので最後の日くらいゆっくりしたいと言う。そこで夕方、ジャクソンレイクの遊覧船に乗る予定だけ入れて、ロッジで時間を過ごすことにした。美しい景色を部屋から眺められるのはよいが、貧乏性なのか、次第にあきてくる。絵葉書を2枚ばかり書き、投函ついでにロッジ周辺をぶらついた。ロッジの横からコルターベイに通じる道がある。これもトレッキングコースだ。小高い所まで登ると見晴らしのよい場所に出た。記念碑があった。財閥ロックフェラー家はティトンが国立公園になる前に、かなりの土地をこの周辺に所有していた。当時、ピクニックに来てこの丘で弁当を食べるのが恒例だったそうだ。そしてこの景色はそのまま後世に残さなければならないといつも言っていたという。だから国立公園になるとき、ロックフェラー家はすべての所有地を国に寄贈したという。寄贈された土地は35,000 ac(4千285万坪)というとてつもない広さだ。そんなことを書いてある記念碑だった。
丘の先はクマ出没なので立ち入り禁止になっていた。ロッジ近くでも熊は出るのだ。遊覧船の発着場所のコルターベイに車で向かったいたとき、子熊が道路を走って横切った。まさに熊の国に人間がお邪魔しているのだ。遊覧船は運転そっちのけで後ろを向いて喋りぱなしの運転手なのかガイドなのかわからないオジサンの独壇場だった。我々にはわからないジョークを頻繁に飛ばし、観客は大笑いだ。船の振動が心地よく、私は大半、眠っていたようだ。いびきを何度も妻に注意されたほどだった。下船後、コルターベイの半島を8の字回りで1時間ばかり歩き、グランドティトンの締めとした。

        
   写真左・グランドティトンを前にして     写真右・グランドティトンの夕映え
  

 「1869年5月10日 オレゴントレイルの使命は終わった」

明日ソールトレイクシティから日本へ帰る。今日は最後の300マイルのロングドライブ、グランドティトン国立公園内を走るときは、シェーンの主題歌「遥かなる山の呼び声」を繰り返し流した。西部劇の名曲である。私の最も好きな曲でもある。後に遠くなる山並み、名残りを惜しみつつワイオミングを離れた。ジュネーブやパリなど、ヨーロッパに来たかと思う名前の村を過ぎて入った町角に何と”Oregon-California Trail Museum”の文字、何でここにと訝ったが、この町はMontpelier,アイダホ州に入っていた。サウスパスから南下したオレゴントレイルはフォートブリッジャーの砦から北上し、アイダホ州に入り、この町を通るのだ。サブレットカットオフで近道した道もこの辺りで本道に合流する。
お昼にちょうどよいと公園で途中買ってきたツナサンドイッチを頬張る。絵画主体のMuseumも覗いて、木板にワゴンを彫った最後のオレゴントレイル土産を買った。そしてソールトレイクシティ近くのオグデン郊外にある大陸横断鉄道ドッキングの”Golden Spike National Historic Site"へ夕方、立ち寄った。1869年5月10日、ここで西と東から工事をしてきた鉄道がつながった。金の犬釘を両鉄道の社長が枕木に打ち込んだ。西のセントラルパシフィック鉄道の社長はLeland スタンフォード、スタンフォード大学の創立者である。これによって幌馬車の歴史は終わった。オレゴントレイルの使命も終わったのだった。西からの鉄道工事には甚大な数の中国人が奴隷同然で中国から連れて来られた。枕木の数だけ中国人の屍があると言われている。日本人の西部開拓史同様、中国人の西部開拓史も悲しい結末をここで迎えていたのだ。

      
 写真左・Montpelierのオレゴントレイル博物館 写真右・ここで大陸横断鉄道がつながった
 

5月29日 48回目の結婚記念日

今年で48回目の結婚記念日を迎えた。長かったような、短かったような...。子供も巣立ち、二人だけの生活が始まって3年になる。巣立ちといえば、山荘のポストに、今年もシジュウカラが巣を作った。
先週、見たときは、6羽のヒナが一斉に口を開けて、エサをねだっていた。親鳥は電線にエサをくわえて止まって、私が立ち去るのを凝視している。今度、行ったときには、みんな元気に巣立っているだろうか?ようやくポストが使えるようになり、郵便局も安心だ。

            
    写真左・ささやかなケーキでお祝い        写真右・記念にもらったポロシャツ
 

5月28日 双方優勝関係なしの早慶戦

野球の早慶戦が始まって120年の記念すべき試合の第2戦目。早稲田はなんと15-1の14点差で負けてしまった。この点差は早慶戦史上最大という。初回から履正社出身の清水が四球連発、間にヒットも撃たれて4点、次の飯塚、中森も打たれて5回終ったときに11-0で万事休すだ。ここで見ていられず、神宮を後にした 。
華やかな早慶戦なのに、こんな雑なゲームは困る。しかし試合前の華やかな応援合戦は見ものだった。早慶賛歌の合唱のとき、ワセダの応援席にはケイオウの応援団、ケイオーにはワセダが行って、若き血と紺碧の空が、敵側で歌われる。ケイオーの応援団長は女性だ。しとやかな体から出る声は美しく、応援スタイルもしとやかだ。目の前で聞くダッシュケイオーはリズミカルで楽しい。やはり早慶戦はこの応援交流が試合以上に盛り上がる。
これが他の大学との大きな違いだ。入ったばかりの1年生はこれで、大学生になったことを実感するのだろう。双方、優勝関係なしだが、試合前の応援席はすこぶる楽しいのだ。だから、15-1などという大雑把な試合をしてくれては困るのだ。せっかくの応援が台無しになってしまう。

      
  写真左・早慶の旗が振られるワセダ応戦席       写真右・ケイオーの女性応援団長
 

5月26日 車なしで蓼科を去る

新車で蓼科に来て、新潟を往復し、今日は日野の家に帰る。できるだけ、長距離運転は避けることにしたので、今回は山荘に車を置いて帰る。ルーミーにシートカバーをかけた。車高が高いので、すっぽり被せるには苦労した。11時半過ぎの、茅野駅への連絡バスで山荘を後にした。
駅で駅そばを食べた。ここの蕎麦はおいしい。駅から30分かけて、高速道路へ向かう。中央道茅野から中央道日野へのバス旅だ。これからはこれが増えるだろう。荷物が少なければ、この方が楽だし、経済的でもある。大きな荷物があるときだけ、車で往復することにしようと思う。途中でのおいしい蕎麦屋探しの機会が減るのは残念であるが。

      
  写真左・ルーミーはカバーをかけて蓼科に保管      写真右・トヨタのルーミー
 

5月23日 塩野町小学校同級会

塩野町小学校を卒業して66年、みんな80歳近くなった。体が云うことを利かなくなった人も多い。コロナが明けたので、瀬波温泉で久しぶりの同級会をやった。11名参加、女性7人、男は4人。やはり女性は元気だ。先週の大学の同期会も11人だったが、男女比は逆で男性が7人と多かった。いずれも80才くらいの集まりだが、酒の飲み方が大きくちがった。小学校は男も女もあんまり飲まないのに比べ、大学はピールがピッチャーで次から次へとお代わり、ワインもどんどん出てきた。小学校の同級生のほとんどは農業従事者、大学は勤めていた人が多い。農民は明日の仕事が早朝からあるので、酒はほどほどだったのだろう。サラリーマンは仕事が終われば居酒屋、スナックのハシゴ酒の毎日だ。この生活スタイルの違いが、酒の消費量にも出てくるのだろうか?
わが小学校には校歌がなかった。それで、宴会最後の歌は「みかんの花咲く丘」なのだ。何年生のときか、音楽で習ったこの歌が、みんな好きで、全員歌える歌なのだ。わが故郷にはみかんの木なんてないが、大合唱だ。そして締めはやはり「うさぎ追いし、かの山」の故郷だ。楽しい同級会は、来年もまたやろうということになり、私が幹事を引き受けた。越後湯沢でやることも衆議一決した。来年の楽しみができた。

      
      写真左・小学校の同級会           写真右・同級会の歓談
  

5月19−21日 蓼科の山菜採り

今年は春が速く来て、山菜も早かった。だから、今日、山菜メンバーが来たときには、庭のタラの芽は葉を広げるほど、大きくなってしまっていた。4号線沿いの家のコシアブラも大きくなりすぎてしまった。残るは八子ヶ峰の登山道沿いの山ブドウだ。3人の女性と吉田さんを引き連れて、東登山口から、ゆっくり、ゆっくり登っていく。そういえば、今年に入って初めての八子ヶ峰だ。スキー後遺症の神経痛で春先の初登りも叶わなかった。最初の20分は急ですよと女性陣に釘をさして、ロープを頼りに上がって行く。ヴィラの屋根が真下に見える尾根に出て、大休止。
そこからひと登りで山ブドウが密生している木にたどりついた。ブドウのツルが絡みついている数本の木が切り倒されていて、残った木にかろうじて、ブドウのツルがあった。まだ花の咲き始めらしく、花の芽が小さい。それでも食べられるので、ツルを引っ張って、みんなで花を摘む。上に伸びているツルを草刈鎌で引き寄せ、花をむしりとった。まずまずの収穫があったので下山。登山口の近くにコゴミがあった。それも摘む。午後はスキー場でワラビ採り、今年は、いつもはないスキー場上部の草原にもいっぱい出ていた。ワラビは豊作だ。山ブドウの花の天ぷらは絶品、ココミの胡麻和えは幼い頃の家の食事の春の味だ。ワラビのお浸しは、小さい頃、食べ過ぎたせいか、あまり箸が進まない。それでもビールを呑みながらの山菜パーティは楽しい。

      
   写真左・ヤマブドウの花を摘む       写真右・左の皿はヤマブドウ、
                            右の皿はコゴミの天ぷら
 

5月16日 ワセダ岳文会の同期会

コロナで3年間、開かれなかった岳文同期会を開いた。幹事は女性3人。新宿御苑に集まった。晴れて暑い。バラが満開、プライムミニスター・ナカソネなどという名前のバラがあるのを知って驚いた。中曾根さんはバラ好きだったのか?幹事はみんなで歓談をの趣旨だったが、何せ陽射しが強く暑い。冷たいものが欲しいねとソフトクリームの列に並んだが、待ち人多すぎて、「こりゃダメだ」とパーティ会場のライオンへ急いだ。「早く生ビールが飲みたいね」。
ライオンでは宮山君、今村君が合流、そこへ予想外の岡田君が来た。参加希望はなかったのに。慌てて、席をひとつ増やしてもらい、「乾杯!!」。ワセダで、岳文会で集った仲間たち。いつ会っても、青春に戻れる瞬間だ。「元気なうちは、年に2回くらい会いたいね」となり、10月6日にまたやることになった。幹事は同じく女性3人。楽しみである。

      
   写真左・新宿御苑のバラをバックに        写真右・みんなで一枚
 

5月2−6日 ゆりかちゃん、蓼科初お目見え

私の初孫・ゆりかちゃんが初めて蓼科の山荘にお目見えだ。木下家の車に、おじいちゃん、おばあちゃんとお母さん、お父さんと一緒に乗ってやってきた。いつもの狭いアパートと違い、広々としたリビングの床を這いつくばって、足を動かす。まだハイハイができないので、足を動かすたびに、バックしていくのだ。
フローリングの床は滑りやすいので、どんどんバックしていく。その動作がたまらなくカワイイ。腰を立てて、前へ進もうとするのだが、腕が前へ出ず、後ろ足だけでは進まない。もう少しだ。次に来る夏休みにはハイハイできて、家中を回り続けることだろう。
大人の夕食は、ジンギスカンにした。山小屋ができたときに小野さんからもらったジンギスカン鍋に、札幌から取り寄せた松尾のラム肉と豚肉を置き、下にモヤシなどの野菜を敷き詰めて、肉のタレ汁が野菜に流れてきて味付けしてくれる。鍋奉行は木下のおじいちゃん。次から次へと手際よく、肉を焼き、野菜を炒めて、各自に取り分けてくれる。家でのバーベキューでも、鍋奉行はおじいちゃんの役割だとか。おいしく頂き、楽しく呑んだ。

      
     写真左・可愛く育て!!         写真右・ジジババと一緒に
 

5月4日 蓼科にも春が来た

蓼科の春は遅い。それでも今年は、下界同様、早く来て、もう連休前に聖光寺の桜は満開となり、散ってしまった。いつもなら5月中旬に咲く、わが家のソメイヨシノももう咲いた。手入れしない木なので、すくすくと上に伸びてしまい、桜の花は見上げなければならない。だから、山小屋と桜を一緒に写そうとするのがむずかしい。枝を切って、伸びないようにしなければならなかったのだが、もう手遅れだ。咲いてくれるだけでもありがたいと思うことにした。
飯山のお寺でもらったサクラソウの花が可憐な姿を今年も咲かせた。不思議なことに、この花は鹿に食べられない。ちいさすぎて、鹿には食べにくいのか?

        
     写真左・山荘の桜満開           写真右・紅いサクラソウ
 

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4 月

4月30日 海外、思い出のドライブ旅・「デュランゴ、メサベルデ・モニュメントバレー」

2007年の夏、ネブラスカ州のスコッツブラフの町でオレゴントレイル協会の年次大会があり、これにデンバーからシャイアンに飛び、レンタカーで大会に参加した。大会が終ったあと、スコッツブラフ空港からデンバー経由でコロラド州デュランゴに飛び、またレンタカーを借りた。ここでシルバートン金鉱へ汽車の旅をしてから、古代インディアンの住居遺跡のメサベルデへ走り、そのあとフォーコーナーズに寄ってモニュメントバレーに行った。最後はグランドキャニオンを見てからフェニックスへ走って、大西部のドライブは終った。

      
      写真左・デュランゴの街          写真右・四つの州がまじ合う所
                            (フォーコーナーズ)
  

「デュランゴ・シルバートン」

スコッツブラフ空港からデンバー経由でコロラドの西南端に位置するデュランゴに着いた。ロッキー山脈南部の避暑地。シルバートン鉄道でも有名な所。
ゴールドラッシュに湧く時代、鉱山鉄道としてデンバーから延びた蒸気機関車の鉄道が、今では観光用にデュランゴとシルバートンの間を毎日走っている。コロラドの渓谷を這うようにして登っていく。とても人気があり、毎夕、翌朝のキャンセル待ちの列が駅にできる。
私たちは正月明けに予約したので、フリードリンクとお土産つきの特等車の席がとれた。朝8時にデュランゴを出発して、町を抜け森を通り、渓谷をどんどん上がり、断崖絶壁を這って広い河原に出たら、シルバートンは近い。昼前に西部の開拓町の雰囲気漂う小さな町に着いた。
町をひと回りしても1時間もかからない。レストランでサンドウイッチを食べて、帰りの汽車に乗った。ほとんどの人が同じ車両にいた。特等車には世話役のオバちゃんがいて、車窓からの風景や鉄道の歴史を説明してくれる(半分もわからなかったが)。飲み物もしょっちゅう持ってきてくれ、かいがいしい。
夕暮れのデュランゴの町に帰ってくると、機関士は汽笛をひんぱんに鳴らし、街角でカメラを構えて見ている人たちにサービスしている。ハイウェイを横切る踏み切りでは、たくさんの車が辛抱強く待っていた。町と汽車ポッポが一体となっているような幸せな風景だった。

      
     写真左・シルバートン鉄道      写真右・シルバートン鉄道一等車内
  

 「メサベルデ」

デュランゴから車で1時間足らずのところに国立公園メサベルデがある。自然景観を主体とする国立公園の中にあって、メサベルデは古代インディアンの遺跡保護が目的の国立公園だ。紀元前5世紀頃、古代人が渓谷の岩壁にいくつもの村を作った。サンドストーンの柔らかな土が、岩壁をくりぬきながら住居や祈祷所や広場を作り、そこに百人単位で住める村が出来上がっていった。広く大きな岩が屋根となり、上の平原からは見えず、敵の侵略からも守りやすい仕組になっている。数百年、そこで生活していたと思われるが忽然と姿を消し、1800年代に発見されたときは誰もいなかった。文字も残していないので真実は謎のままだ。ニューメキシコ州のサンタフェやタオスには、同じような住居の作りが見受けられるので、ここに移り住んだのではないかと推測されている。
メサベルデには予想外に感動した。岩壁にかかっているはしごを上り下りしてその場所に行くのだが、古代人の知恵に驚き、天井の岩に手形が残っていたり、煮炊きした煙が天井の岩をこがし煤がたまっているなど、とても現実的でもあるのだ。この公園のロッジのベランダから見た果てしなく広がる平原の地平線にも感動した。”大いなる西部”の大いなる発見でもあった。

             
   写真左・メサベルデの壁・住居遺跡        写真右・住居遺跡へはハシゴを上がる
 

 「フォーコーナーズ・モニュメントバレー」

ユタ州、コロラド州、アリゾナ州、ニューメキシコ州が直角に接する部分を国道が通過する。この地点は4コーナーズと言って、記念碑がある。ここに入るにもひとり3ドルの入場料がいる。それを管理するのはインディアン。ビジターセンターとは名ばかりで掘っ立て小屋に数枚の写真や地図があるだけ。周りはインディアンの装飾品のお土産屋。そんなに買っているとも思われない。このあとグランドキャ二オンまでの道路沿いにも同じようなテント掛けのお土産屋をたくさん見た。このあたりはインディアンリザベーションの名のもとの居住地になっている。これも白人による白人のための西部開拓の犠牲の象徴だ。インディアンはリザベーションという囲いの中で生活すべしという強制策で追い込まれていった。第二次大戦の日本人収容所と同じだ。リザベーションの中に石油が金が発見されると、リザベーションを変更し、またインディアンを別の地へ追い立てた。インディアンの視点から見ると、西部開拓史は迫害の歴史でもあるのだ。このことを忘れてはいけない。
 

モニュメントバレーはジョンフォード監督の西部劇の舞台になった名だたる名所。ゴールディングロッジは撮影の宿泊に使われた。今では日本からの観光客もおおぜい泊まる宿だ。ここにジョンウェインのミュージアムがあり、なつかしい西部劇の名場面が展示されている。日本語の映画ポスターもあった。しばし古き楽しき映画の思い出に浸った。妻の父は大の西部劇ファンだった。いくつも見に連れていってもらったとか、窓外に広がるモニュメントバレーの夕暮れの光景を前に「お父さんを連れてきたかった」と妻はシンミリしていた。ここもナバホ族インディアンの居留地が広がっている。撮影華やかなりし頃は、インディアンも敵役でエキストラ出演機会が多く潤っていたとか。今は「先住民差別につながる」でウェスタンムービーが少なくなり、インディアン襲撃などの場面はカット、ここの先住民にとっては収入パッタリで大打撃とか。ドンパチ、インディアン悪者の時代が懐かしいようだ。

      
  写真左・ゴールディングロッジ       写真右・モニュメントバレー遠望
      からのモニュメントバレー
 

 「グランドキャニオン・フェニックス」

大いなる西部の旅も今日で終わり、明日はフェニックスから日本へ飛び立つ。
モニュメントバレー近く、カイアンタの宿を7時過ぎに出た。今日はフェニックスまで600キロのドライブだ。赤茶けたアリゾナの砂漠をグランドキャニオンに向う。東ゲートから入った。入場料25ドルは今まででいちばん高い。さすがは"グラキャン"だ。最初のリムからの眺めに妻は感嘆。さすがグラキャン、やっぱりグラキャンというところか。はるか下にコロラド川の流れが見える。妻は若いときこの川下りツァーに申込み、催行人数が集まらず中止になったとか、「行かなくてよかった」と実物を見てホッとしていた。すこしドルの現金が足らなくなってきたので、公園にあるメリルリンチで両替した。このときの行員は一万円を見たのは初めてらしく、お金の百科事典のような本で一生懸命チェックしていた。そのあと先輩のところに行って再確認し、やっと両替ができた。現金の円をここで替える人はあまりいないようだ。
フェニックスの町には夕方7時ごろ入った。これまでの田舎町とは違い大都会で、はじめて4車線の高速道路に入り、夕方のラッシュもあり大変な車の流れになった。行く先のホテルへのインターがわからず、ラッシュの中で焦った。翌朝の空港のRENT A CAR  RETURNの場所にも驚いた。空港ターミナル近くになったら、RENT A CAR  RETURNは空港の外を指している。いくつかの信号を廻りまわって、空港からかなり離れたとてつもなく大きいレンタカー専用のビル駐車場に入っていった。さすがアメリカ。車の国である。大いなる西部で廻った州はワイオミング、ネブラスカ、サウスダコタ、コロラド、ニューメキシコ、ユタ、アリゾナの7州。いずれも思いで深い所であった。

      
     写真左・サウスリムからのキャニオン   写真右・グランドキャニオンの底を覗く
  

 「泊った宿と食べ物」

私たちの旅は、ヨーロッパでもアメリカでも、原則レンタカーの移動で、宿はキッチン付きか少なくともレンジ、冷蔵庫付きでなくてはならない。そば、ラーメン、カレーなど日本食をたっぷり持っての旅なのだ。ザルは必携品だ。今回もキッチン付きはなかったが、ほとんどレンジ、冷蔵庫付きの宿を予約した。ホリディインやヒルトンインなど、ワンランク上のモーテルにはこのような設備はない。必然的にベストウェスタンなど、地元の人が経営しているモーテルが主体となり値段も安い。そんなモーテルでも100ドル近くになっているのに驚いた。20年前は高くても50ドルくらいだったのに。外で食べるのは昼、サブウェイやケンタッキーなどが中心になる。朝はほとんどのモーテルがコンチネンタルブレックファスト付きつきだった。あるモーテルで、ワッフル用の粉を溶かしたカップをオートミルと思い、飲んで驚いたことだ。近くのテーブルの人があわてて注意したときは、時すでに遅しだった。「日本人はメリケン粉を飲むよ」とみんなで笑っていたことだろう。恥かいた。

        
    左・今日は茶そばとサラダ        写真右・廻った州の自動車
                            ナンバープレート
 

今回の旅ではパソコンを持たない代わりに、携帯電話を海外仕様を成田で借りていった。ヨーロッパにスキーに行ったとき、同行者がどこでも日本と簡単に話せていたので便利そうだった。ところがアメリカは電話会社が分散しているらしく、AUの提携会社は日本人旅行者の多い地域しかサポートせず、ネブラスカやコロラドの山の中はダメだった。行きのシアトルや帰りのサンフランシスコあたりはOKなのだが、ほとんど役にたたなかった。ヨーロッパの事情とだいぶ違っていた。
 

4月29日 連休始まる蓼科の山荘

いよいよ9連休が始まった。2日から景ちゃん家族と木下家夫妻が来るので、その準備方々、妻と一緒に28日に蓼科にやってきた。まだ車が来ないので「あずさ」に乗って、茅野駅からはレンタカーだ。明日から雨の予報なので、今日のうちにベランダのペンキ塗りを終わらせたい。傷みも増してきているので毎年やらないといけない。雨や雪があたる部分は特に傷みが速いので、二重塗りにした。庭の桜は今が満開だ。手入れをしないので上へ伸びてしまい、満開の桜は見上げるしかない。外仕事は午前中に終え、これから布団の準備をして、迎えの準備が一通り終わる。

      
     写真左・塗り終えたベランダ      写真右・満開の小粒のソメイヨシノと山荘
 

4月22−23日 今季のワセダは強そう

東京六大学野球・春のリーグ戦、立教と早稲田の試合があった。先週の東大戦に大勝して勢いに乗っているワセダがどうなるかが焦点。立教のエース・池田を攻略できるかが初戦の鍵だ。初回ヒットが続き、熊田のヒットでまず1点、吉納のホームランで3点追加、幸先よく4点もとった。その後も1点ずつ、着々と追加して8-2で大勝した。翌23日は初回に1点とられたが、その裏に同点に追いつき、終わってみれば11-3と昨日以上の大量点だ。今年のワセダは打線好調で切れ目なく打つ。ピッチャーも絶対エースはいないが、相手が慣れる間もなく、6,7人の投手を一回ごとに変えてつないでいる。この方式はWBCの日本チームのやり方だ。この春は期待がもてる試合展開になっている。そしてこの春のリーグ戦は、3年ぶりに観客を入れての応戦席での応援が可能になった。応援団の団員、チアリーダーもブラスバンドも3年生以下は初の応援席での応援だ。観客を前にして声を張り上げるのも初めてなのだ。それがうれしいのだろう、みんないい笑顔だ。点が入るたびに肩を組んでの”紺碧の空”は盛り上がる。次から次へと点が入るので、応援部員も観客も大忙しだ。やっといつもの応援が戻ってきた。応援団も観客もうれしい立教戦だった。

         
     写真左・応援席に校旗復活       写真右・今シーズンの六大学野球ポスター
  

4月21日 神経痛治療

3月初めのスキーでの筋肉痛が老化で神経痛に転化して、痛み止めの薬を飲み、湿布薬を貼り、コルセットをしての毎日が徐々に効果をだしてきたらしい。痛みは和らぎつつある。先の治療から2週間経って、花輪病院へ行った。いちばん最初の先生の機嫌を損ねたので、別の先生に診てもらっている。その先生の診察日をねらって行った。「まあ順調な経過でしょう」との診断、3週間分の痛み止め薬と湿布をもらってきた。診察はすぐ終ったが会計が長い。この病院はここにネックある。1時間以上待たされてやっと済んだ。いっぱいいた待ち合いも、私が出る頃にはほとんど患者がいなくなっていた。

      
    写真左・ 花輪病院玄関               写真右・花輪病院の待合室
 

4月14日 日野の桜

例年より早い桜の開花だ。日野界隈も満開だ。先週、百段階段を上がって市役所へ続く桜もみごとに咲いていた。今週になってソメイヨシノは一段落して、大きなボタン桜が満開になった。駅への道筋にある家のボタン桜がみごとである。木が桜に包まれて、見えなくなるほどのにぎわいだ。今年は多摩川沿いのゴミ処理場の桜は、足腰の神経痛で行けなかったの心残りだ。来年はぜひ行きたいと思う。

      
      写真左・市役所前の桜、満開        写真右・近くの家のボタン桜も満開
 

4月11−13日 山荘模様見

蓼科の山荘は、1月のスキー合宿以来使っていない。2月初めに予約が入っていたが、それもキャンセルとなり、この冬はずっと空き家のままだった。水抜きはしてはいるものの不安も残り、ゴールデンウイークの前に点検することにした。車がないので、高速バスと東急連絡バスでやってきた。連絡バスはいつものブルーの色ではなくえんじ色だ。会津の猫魔スキー場が閉鎖になったので蓼科に回されたとか。運転しにくいのでベテランが慣らし運転をしているとか。しらかば4号線で下ろしてもらい山荘へ。
まずは水入れだ。ゲスト棟は連休までは使わないので、オーナー棟(わが家)の水入れをした。水が出て給湯もできたのだが、風呂がうまくいかない。給湯器への水通しができているのに湯がわかないのだ。タウンセンターに電話したが、手いっぱいで明日になると言う。1月にうまくいかないときに頼んだコロナ修理業者に電話した。こちらも手いっぱいで今日は無理と言う。そこでゲスト棟の風呂を使おうと、水入れをすることにした。風呂場へ行ってビックリ、風呂への給水栓の蛇口がない。浴槽床に転がっている。あわててねじ込もうとしたが、ネジ込みではなく接着方式らしく素人には無理。コロナにまた電話したら、風呂桶はコロナではないと言われ、タウンセンターにまた電話。今日は風呂はあきらめたら、タウンセンターから「業者は明日も忙しいので、今日、終わったら行く」と。待つことしばし、真っ暗になった5時過ぎにいつものお兄さんが来てくれた。オーナー棟の湯通しは給湯器の水抜き栓がきちんと締まってなかったらしく、すぐに直った。ゲスト棟の給湯蛇口は水抜きをしたときに混合給湯パイプに水が残っていたらしく、それが凍ってバルブを押上げ、吹っ飛んだものらしい。そこの部分の水抜きはやったこともないし、やり方も知らなかった。いろいろとやってもらったお礼に缶ビール3本を渡し、遅くまでの仕事に感謝した。

        
 写真左・この長い給湯管が吹っ飛んでいた    写真右・わが山荘はここを入って右手3軒目
 

4月11日 稲門会カラオケ

以前、百草園のスナックで「唄う会」というカラオケを日野稲門会がやっていたので行っていたが、ただ唄うだけで交流がないので、つまらなくなり退会した。主催者と場所が変ったというので、再び参加することにした。場所は日野駅近くの「招き猫」。3月は10名も集まったとかで、急遽、大部屋に変更してスタート。前の唄う会に来ていた先輩もいて、新しい歌を次から次へと歌っていた。3曲ずつ歌ったところで休憩タイムがあり、お菓子をつまみながら歓談。これがいいのだ。歌うだけでは味気ない。同窓の集まりなのだから、ワセダの思い出話を語り合いたいのだ。私は毎回テーマを決めて唄うことにした。先月は「1950年代の歌」、我々世代の小学校〜中学校時代だ。伊藤久男、岡本敦郎などラジオ歌謡が全盛の時代だ。「あこがれの郵便馬車」、「喫茶店の片隅で」、「母あればこそ」、「高原の宿」など、少しマイナーのヒット曲を6曲歌った。そして4月、「山とスキーの歌」にしようと思ったが、岳文時代の部室で唄った歌はユーチューブでは出てくるが、カラオケにあるか??なので、事前に招き猫に行ってチェックすることにした。比較的ポピュラーな「穂高よさらば」すらない。「岳人の歌」や「エーデルワイスの歌」などもっての他という感じなのだ。それでカラオケ会当日に急遽変更。「歌声喫茶でみんなで唄った歌」にした。「北上夜曲」や「忘れな草をあなたに」はあるのに、いちばん歌いたかった「草原情歌」、「カワイイあの娘」はないのだ。山の歌にしろ、歌声喫茶にしろ、「私が愛唱していた歌はマイナーだったんだな、」を実感したカラオケだった。

 
     写真左・カラオケまねきねこ         
 

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3 月

3月31日 海外、思い出のドライブ旅・「ドロミテから東チロルへ」 A

イタリアのドロミテから始まった1ヶ月余あまりのドライブもオーストリア・チロルのアルプバッハで終った。今回は、チロルでもザルツブルグに近い東チロルというエリアの小さな町や村をハイキングしながら廻った。夏のチロルは涼しく過ごしやすい。ひと月の旅は、1か所の滞在を長くして主にシャレーと言われる貸別荘とし、合間にホテルに滞在した。スキー場の多いチロルは冬のバカンスで来る人も多く、その人たち向けのシャレーがたくさんある。夏は冬ほど来ないので素敵なシャレーを選べるのだ。この記事は2012年にドライブしたときのものです。

      
      写真左・ドロミテの風景     写真右・チロルの風景(アルプバッハ)
  

 この旅で感じたこと

 @どこでも会った日本人

日本でもあまり知られていないドロミテのそれも小さな村サン・マッダレーナや東チロルのカルスなど、インターネットで調べて行った所でも日本人の旅行客に会った。主な観光地に行き尽くした日本人が、私達同様インターネットで調べて来るのだろうか?
帰国して新聞の広告を見ていたら、チロルの旅でサン・マッダレーナ半日ハイキングというプランがあった。このようにして段々あの村にも団体旅行の日本人が入りこんでいくのだろうか?
ハイリゲンブルートで日本人と思って最初に声をかけた家族は韓国人だった。日本人が歩き尽くした場所に次に行くのは韓国、中国の人だ。その意味では、日本人は観光地開拓の先兵なのかもしれない。

      
     写真左・トレッキングの道標      写真右・ハイキング途中の風景
  

 A安い物価(2012年当時の話です)

メロン1個 0.9ユーロ、スイカ4分の1が0.5ユーロ。スーパーでの値段。90円と50円だ。
ユーロ安も1ユーロが100円と計算しやすいことも安さを実感する一因だが、概して食料品はとても安い。ワインも7,8ユーロで十分美味しい。これが日本へ輸出されると2000円くらいになるのだろうな。ホテルでボトルを頼んでも、高くて20ユーロくらいしかしない。奥志賀のブルーエでは5000円がいちばん安いというのに。数年前1ユーロ170円したことを考えるとえらい違いだ。旅行に関しては円高様様だ。それに引き替え、航空運賃はあまり安くならない。どうしてだろう?ユーロ建て運賃というのは設定できないものか。ガソリンも日本の方が安い。いちばん安いディーゼルでもリッター147円くらいした。レギュラーガソリンだと175円くらいになる。環境税が高いというが、日本もエコ税を載せてもいいのではないだろうか。食料が安く、燃料は高いヨーロッパだ。

      
  写真左・チロルの家は花でいっぱい   写真右・山と花に囲まれたチロルの家
 

 B滞在するメリット

どの地域でも「○○カード」という泊まり客専用のカードを発行し、これを提示すると、バス、ロープウェイ、博物館などが無料や割引で利用できる。この恩恵は大きく、ハイリゲンブルートではグロスグロックナー有料道路32ユーロやロープウェイ30ユーロが無料になり、バスも半額で乗れた。アルプバッハで乗った二つのロープウェイ無料、チロル農家博物館(チロルの明治村)も無料だった。
カードは滞在期間中はいつでも、何回でも使える。志賀高原など、スキー客減少で夏の避暑客を増やそうといろいろな知恵を絞ってはいるが、このような大胆さはない。信州でもっとも涼しい避暑地なのだから、やり方によっては夏の滞在客は倍増は可能だ。
それぞれの施設や交通機関のエゴを押さえて、お客のための積極的なサービスを考えてほしいものだ。

      
 
写真左・ドロミテ・サンマッダレーナには  写真右・チロル・カルスの村には4日滞
      1週間滞在在
 

 フランツ・ヨーゼフ展望台

 フランツ・ヨーゼフ展望台(往復1:30)ワッサーフォールウインクル

天気予報は今日も明日も雨混じりの曇りとなっているが、薄日も射しているのでフランツ・ヨーゼフ展望台へ行くことにして、バスに乗った。ぐんぐんと高度を上げていく。グロスグロックナーは雲の中。バスも次第に雲の中に入っていく。展望台に着いたら、向こうの雪山が見えてきた。グロスグロックナーと思ったら、3400m台の別な山だった。その左手に見えるはずのグロスグロックナーは雲に覆われて姿を現れしそうにもない。
ホフマンスヒュテまでガムスグルーベン道を歩くことにした。グロスグロックナーが姿を現すことを期待して。いくつかのトンネルを抜ける。金採掘時代の仕掛けがトンネル内にあり、何かディズニーランドのホーンテッドマンションのような雰囲気だ。コースには花が咲き乱れている。「道路以外に入ってはいけない」の表示があちこちにある。ホフマンスヒュッテは休んでいるらしく入れない。そこでガムスグルーベンコースの氷河の端まで行くことにした。12時のバスには間に合わないので、午後3時のバスまでの時間調整の意味もあって。ワッサーフォールウインクルという所が終点だった。
昔はここが氷河の端だったのだろうが、今はもっと上に行ってしまった。いくつものケルンがある。それに石を少し足してから道を戻った。
フランツ・ヨーゼフ展望台に戻った時は午後1時過ぎ。昼食をゆっくり取り、3時のバスに乗ろうとしたら、ハイリゲン行きは4時だという。時刻表には3時のバスがあるのにと思って、よく見ると、土曜日は運休というように思える表示がある。ドイツ語なのでわからない。バスの失敗はサン・マッダレーナの時に続いて二回目だ。妻は「二回目なんだから、ちゃんと確認してよ」と怒る。二度あることは三度あるかな?

      
   写真左・フランツヨーゼフ氷河、     写真右・登山道以外は進入禁止
   左の雲の中はグロスグロックナー
 

 シャレックからハイリゲンブルートへ

 ハイリゲンブルート(ロープウェイ)シャレック(2時間)中間駅(1時間)ハイリゲンブルート

今朝も昨日と同様、薄日の射す似たような天気。グロスグロックナーは今日も見えない。日曜から木曜まで動かすシャレックへのスキーゴンドラに乗り、頂上から村まで歩くことにした。昨日のバスといい、このロープウェイといい、週末の土曜には運行しない。日本なら書き入れ時の週末や夏休みに動かないことはないのに、こちらはゆっくりしたものだ。土曜くらいバスもゴンドラも休もうではないか、ということか?それとも、土曜はお客が少ない日なのか?
ゴンドラをふたつ乗り継いで、2600mのシャレック山に到着。冬はスキー場になる広大なアルムをの中を麓に 下って行く。陽射しも強く、風もやや強いがグロスグロックナーの頂上は今日も雲の中だ。途中、前を歩いていた妻が景色に見とれて足に気がいかないで、足を出した途端、グニャと靴は牛のウンチの中に。ベットリとウンがついた靴を周りの草で拭こうとするが取とれない。取りやすいように道端の草で縦に靴を動かしたら、今度は足が引っかかり草むらにバタンと倒れてしまった。膝小僧を石ですりむき、血が出てしまった。ウェットティッシュで拭き、カットバンを貼ることになってしまった。大事には至らなかったのでハイキングは継続。これが”ウンの尽き”なのか、”ウンの付き始め”なのかはこれからの天候で判断しよう。ウンチ騒動も花咲きみだれるアルムを歩いているうちに落ち着き、途中、レストランがないということはあったものの、午後2時過ぎにハイリゲンブルートの村に下り、スーパーでパンとハムを買い、残っていたレタスとトマトをはさんでサンドイッチを作り、ラドラーで遅めの昼食をホテルの部屋で摂った。このコスト、4.15ユーロ。ロープウェイはタダだったし、安くついたハイキングだった。

      
   写真左・シャレック頂上付近でバンザイ 写真右・快適なハイキング、この後悲劇が、、、
  

 ハイリゲンブルートからアルプバッハへ

ハイリゲンブルートを離れる日。結局、グロスグロックナーの頂は現れなかった。心残りはあるが、車でツェル・アム・ゼーへ向かう。フランツ・ヨーゼフ展望台への道を別れ、トンネルを抜けると違う世界が広がった。3,000mクラスの山がずらり横一線に並び、涸沢からの穂高連峰をもっと雄大にしたような山岳景観が広がる。グロスグロックナーは見えなかったが、これが見れたので良しとするか。
今回の旅では、ハイリゲンブルートとミズリーナで四星クラスの高級ホテルに二食付きで三泊ずつした。ミズリーナのグランドホテルはロケーションが良く、部屋からの眺めも良かった。夕食はビュッフェスタイルだが、種類が多く選ぶのに苦労するほど。ただ毎日似たような料理ばかりで飽きた。ビュッフェとは別に、メニューからオーダーもできたのだが、それを知ったのは最後の夜だったので、一回しか味わえなかった。スタッフも英語ができず苦労した。
ハイリゲンブルートのホテルグロックナーホフは繁華な場所で1階は野外まで喫茶席が広がり、雑然としていた。部屋も展望がきかない穴蔵のような雰囲気だ。ただ食事はビュッフェスタイル+メニューから選ぶ方式で、ビュッフェも魚、肉、インターナショナルと毎日、種類が違い、飽きさせない。味も良い。総合評価は料理の良いグロックナーホフに軍配が上がるか?日本の二食付き旅館とずいぶんとやり方が違うが、決めてはやはり料理だ。

      
   写真左・トンネルを抜けるとみごとな景観が   写真右・途中の村のレストラン
 

 なつかしいインナーアルプバッハへ

アルプバッハは4年前に極楽スキーメンバーのチロルハイキングで来たことのある村。
ヨーロッパでいちばん美しい村に選ばれたことのある名所だ。村の景観維持のため、いろいろな規制と工夫がされている。家はチロル特有のログハウスに統一されている。
と言っても、すべてを木材で建てている訳でなく、ブロックで中を固め、その上にログ材を貼りつけている。防火とコストから来ているのだろう。今回泊るハウスクリスタルは新しいアパートメントで、設備もほぼすべてが整っていてとてもきれいだ。アイロンもあると妻は喜ぶ。アメリカではどんなモーテルにも備え付けてあるのに、ヨーロッパにはないとこぼしていた。
まずは以前、雨の中を歩いたインナーアルプバッハへ歩くことにした。宿からすぐの上がる横道を登り、しばらく住宅街を行くと見覚えのあるアルムの入口に着いた。そこから、下にアルプバッハの村里を下に見ながら進む。舗装道路に出て右へ上がると、前に泊ったBergwaldに出た。あのときのマダム カテリーナに挨拶をと声をかけるが反応ない。
写真を撮って、歩を進めた。見覚えのある家、水差し彫刻などを経て、インナーアルプバッハ近くのベンチで昼食。今日は昨日炊いたゴハンの残りで作ったオニギリ、卵焼きが彩りを加え、すこぶる美味しい。通りがかった外人夫婦が「何を食っているのか?」と不思議そうに通り過ぎていく。おにぎりの後のテルモスに入れた緑茶も美味しい。アルプバッハで食べるオニギリのおいしさよ、忘れがたき思い出になる。インナーアルプのスキー場では新しいリフトの架設工事をやっていた。対岸のアルムでは鉄塔を立てる整地作業をしている。まだお客が来るのだ。日本のスキー場では、取り外し工事ばかりなのに。

         
   写真左・チロルのハイキングでも      写真右・インナーアルプの美しい風景
        おにぎりが一番
  

 チロルの明治村

アルプバッハから一旦麓に下りて、高速を越したクラムザッハの村にチロルの農家の博物館があると聞いて、出かけた。きれいな湖沿いをしばらく行くと、駐車場に着き、少し歩くと入口に着いた。
民族博物館のようなものを想像していたが、入ったらすぐ外への表示がある。広い敷地の中に古い農家が点在し、それを見て行く趣向のようだ。エッツタール、アルプバッハ、ツェラタールなど、チロル各地の農家を集め、展示しているのだ。まさにチロルの明治村だ。1600年代の大きな農家や納屋、教会など、昔、実際に使われていた建物を移築している。この旅で回った東チロルや南チロルのものもある。南チロルは今はイタリアのメラーノから持ってきている。国境を越えても、チロルはひとつなのだ。民族の歴史も垣間見られて興味深い。エッツタールの一画には1800年代の学校の建物もあり、当時の教室が再現されていた。レッヒタールの農家の壁には絵が描かれていて、この旅の最初に行った、レッヒタールの農家も同様だったことを思いだした。とても興味深いチロルの明治村だった。

      
          
写真左・ チロルの明治村        写真右・昔の村の学校の教室
        農家の窓から
 

 周辺の山歩き

以前も行ったことのある冬はスキー場になるヴィーダースべルグにロープウェイで上がり、頂上周辺を一周して、手作りサンドイッチを食べ、スキー場のスロープの道を麓に下ってきた。
翌日はインナーアルプバッハの奥ファウルバームガルテンアルムまで歩いて、そこの橋の上で、昨日と同様のサンドイッチを食べて帰ってきた。アルムやヒュッテでの食事も美味しいのだが、メニューが読めず、聞いてもわからず、結局、何とか読めるスープやサラダ、ソーセージばかり頼むことになる。隣のテーブルの美味しそうな料理を横目で見る日が続いたので、宿でおにぎりやサンドイッチを作ることにした。気もつかわず、途中で買ってきたコーラを飲みながら、緑のアルムの中でのランチはこれはこれで、とても楽しくおいしい。数少ない自動販売機のコーラの値段はバラバラなことに気がついた。
アルプバッハの村の下の農協横は1.5ユーロ、ヴィーダースべルグのロープウェイ乗り場は1.2ユーロ、後日行ったシュバーツの銀鉱は何と2ユーロだった。

      
   写真左・夏のスキー場は牛の天国     写真右・新しい乗り物で下ってくる
  

 トラッツベルグ城

あまり天候よさそうでないので、妻が宿のパンフレットに入っていた銀山探検に行ってみることにした。インスブルック方面へアウトバーンを走り、シュヴァーツという所で下り、少し迷いながらシルバーベルグ鉱山に着いた。今は掘ってないようだが、16世紀にはヨーロッパ最大の銀鉱山だったという。防寒具とヘルメットを着けて、トロッコで10分くらい穴の中を走り、銀鉱の奧に着く。そこで掘る様子を人形やスライドを使って見せる。パンフレットには日本の国旗があったので、日本語の説明があるものと思っていたが、英語、フランス、イタリア語、オランダ語しかなく、トランシーバーで英語を聞いたがよくわからない。まあ見ればだいたいのことはわかった。鉱山を出て、来る途中の山の中腹にあったお城に行ってみることにした。迷いながら、個人の土地の中の道を走ったりして、ようやく着いた。トラッツベルグ城。16世紀に建てられた。マキシミリアン一世やハプスブルグ家の所有を変遷して、今は1848年から続いているエンツェンベルグ家が所有している。
銀山の最盛期には銀鉱の所有者もオーナーになったことがあるらしい。これらは日本語のトランシーバーで知った。ここではいくつかの言語のトランシーバーを貸してくれ、それを聞きながら城内を回る仕組み。なぜあまり日本人うが来ないこの城に、日本語があるのか?疑問は現在のエンツェンベルグ伯爵の写真を見て理解した。以前、NHKBSでチロル紹介していたときに、この城は伯爵自ら登場して、懇切丁寧な案内をしていた。
日本人観光客を見越しての先行投資なのだろう。幾多の城主の変遷があったトラッツベルグ城だが、今は幸せな時代の中に平穏の日々をおくっているようである。

      
  写真左・シルバーベルグ銀鉱山内部       写真右・トラッツベルグ城

 

 最後の日

アルプバッハ最後の日、この旅の最後の日でもある。アルプバッハに来て、いちばん天気の良い日になった。快晴だ。
オーストリア各地の風景を写しながらの天気予報を見るとハイリゲンブルートも晴れていて、滞在中見えなかったグロスグロックナーの頂きも輝いている。旅の最後を飾るすばらしい日だ。アルプバッハの昔をたどる道を歩いた。にぎやかな村の中心地から、川沿いの道を上がると、アルムへ続く集落へ出て上へ登っていく。そこで、最初に歩いた道にぶつかった。このコースは、アルプバッハの村の広がりを歴史的に知る機会になった。今、泊っているハウスクリスタルも前に泊ったホテルワルドベルグも新興住宅街なのだ。一旦宿に帰り、残っていた冷麦の昼食を摂り、4日前に行ったヴィーダースべルグにロープウェイで行った。晴れているので展望がよいだろうと期待したこともあるが、アルプバッハカードを持っているとタダで乗れるからだ。チロルの明治村もタダだったし、このような仕組みは日本のリゾートも取り入れてほしいものだ。ついでにレイチュのロープウェイにも乗ろうと、麓近くのレイチュまで下った。ファミリーフェスティバルがロープウェイの広場で行われていて、駐車場は畑の中だった。ここもカードでただで乗れた。
終点はスキー場のトップで殺風景、夏はいちご畑が広がる斜面だった。今日のうちに車を洗って、ガソリンも入れてとさらに下った。ガソリンスタンドの洗車システムに戸惑ったが、先客に聞いて無事できた。レジの売り場にビールを発見、2缶買った。実は朝、アルプバッハのスーパーに行ったら、日曜は休み、他の店も休みで、どうしたものかと思案していた。夏のシーズンでも、レストラン以外はほとんどの店が日曜は休む。うっかりしていた。「しょっちゅう来ているのに、どうしたのよ」と妻になじられた。

      
     写真左・アルプバッハの草原     写真右・村祭りのブースにHPの看板が...
 

3月25日 齋藤忠義君、永眠

中学、高校、大学と一緒だった旧友・斉藤忠義君が亡くなったと聞き、急遽、村上に来た。忠義は付き合いが狭く、同期の中学や高校の友達も限定していた。幸い、私と大学まで一緒だった林君の二人には声かけがあって、家族葬の前にお別れ会に呼ばれた。祭壇には穏やかな晩年の写真が飾られ、じっと見つめた。地元の信用金庫の理事長を勤めていただけに、参列者はビジネス関連が多いようだ。去年の夏に会ったのが最後だ。昔からの仲間がひとりずつ消えていく年頃になったことを実感した。

      
    写真左・齋藤忠義君行年79歳        写真右・齋藤忠義君の祭壇
 

3月23日 雨の花見、楽しからずや

本来は、舎人公園で花見をきのこ名人の吉田さんが企画していたが、雨で急遽、隅田川の「お花見クルーズ」に変更になった。舎人公園は雨をしのぐ所がないので、クルーズとなったようだ。ところが屋根付きのクルーズ船と思っていたら、屋根なし、ビニール合羽を来ての花見だという。合羽を支給されて、被って、雨の中を出発。動いて間もなく、雨が小降りになり、上がっていった。桜には酒ということで、〆張鶴をコップに注ぎ、柿の葉寿司をつまみにして、吉田さん、武藤さんと私の三人で宴会を始めた。と、そのとき、携帯が鳴り、「忠義が亡くなった」と林君から。そう言えば、彼の息子は〆張鶴に勤めていたなあと花見酒との偶然に驚いた。花は満開で、船は岸から張り出している桜の下を通る。青空ならもっときれいに映えるのだろう。それでも楽しく、一瞬寂しい花見であった。

      
   写真左・ 船上から満開の花を見る        写真右・桜の先はビル群
  

3月21日22日 お彼岸の墓参り

彼岸の中日、今年は車がないので、バスと電車を乗り継いで、21日は国立府中の私の母の霊園へ、翌22日は妻の両親が眠る八王子の本立寺に行った。国立は聖蹟桜ヶ丘から国立行きのバスに乗った。春分の日なのに、霊園にはそんなに人がいない。静かなお墓参りとなった。翌日の本立寺もそれほど人がいなかった。「なぜだろう?」と思ったが、気がついた。21日はWBCメキシコ戦、22日はアメリカ戦のテレビ中継の時間とぶつかっていたのだ。お墓参りどころではなかったのだろう。我々も気にしていたが、あとで結果を知ればよいと出かけたのだった。八王子駅へ戻る途中のランチに入った店で優勝を知り、祝杯のビールを飲んだ。うまかった。

         
     写真左・小田家の墓               写真右・永見家の墓
 

3月4日 ラーメン求めてのスキー

奥志賀でスキーの日、極楽スキー仲間の志牟田さん、松田さんと一緒に滑った。天気もよく、メンバーも滑りたがり屋なので、奥志賀を一通り滑ってから、焼額へ、焼額の尾根伝いの大斜面を快適に滑り、一ノ瀬ダイヤモンドへ出て、橋を渡って一ノ瀬へ、Cコースを滑ってから、ラーメン大勝軒へまっしぐら。大好きなメンマザルをつまみにして、生ビール、こたえられない! お昼の後は、寺小屋へ上がり、東館からぶな平、ジャイアンツの底に出て、西舘に上がった。今日は土曜日、大会があったらしく、ゲレンデは規制されていて、ゲレンデを横切る2ヶ所はトンネルの中を滑る仕掛けになっていた。最後のトンネルを抜けると、競技スロープ脇の細い斜面を滑ろという。ウェーデルンもままならず、途中からはボーゲンで下まで下りた。股を開き続けたせいか、ジャイアンツに来たときには疲労困憊。「ここで待ってるよ」と言って、ジャイアンツ滑走はあきらめ、二人で滑ってもらった。「一ノ瀬でやめておけばよかったな」と思ったが遅かった。帰ってきたら疲労でぐったりし、両腿がビンビンとなっていた。

      
     写真左・一ノ瀬スキー場           写真右・目的の大勝軒
 

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2 月

2月28日 海外、思い出のドライブ旅・「ドロミテから東チロルへ」

11年前の初夏にイタリア・ドロミテへトレッキング主体の旅に出かけた。車でドロミテの高原を回りながら、各地でトレッキングした。この様子は2021年8〜9月のこの蓼科日記で紹介した。ドロミテの後、オーストリアの東チロル地方へ車を進めた。お目当てはハイリゲンブルートの町とアルプバッハである。ハイリゲンブルートは「聖なる血」という意味だそうだ。聖なる血とは「キリストが磔刑された際に流された血」のこと。10世紀頃、ビザンチン(東ローマ)帝国の官吏ブリッキウスは(コンスタンチノーブルに保管されていた)聖なる血をアルプスの北の国々にもたらそうと旅をしていたが、途中にこの地で亡くなった。村人の手により墓と聖なる血を収める教会が建てられ、多くの巡礼者が訪れるようになったという。そんな谷間の町はこじんまりしていて美しい。そこで再びハイキングをして、その後ヨーロッパでいちばん美しい村と言われるアルプバッハへ行き、今回のドライブのフィナーレを迎えようというものだ。

      
     写真左・ドロミテの風景         写真右・東チロルの村の風景
  

 セラ峠からミズリーナへ

いよいよサンマッダレーナの村を去る朝が来た。部屋を片付け、ゴミを出し、Reburgの宿代をオジサンに払った。一週間で385ユーロ(38500円)、安い。コップを割ったので、そのコストも払うと言ったが、いらないと言う。ハッカ飴とあじさいのハンカチをお礼に渡した。名残惜しく車を走らせた。昨日のコルバラの帰りに通ったガルデナ渓谷の道を反対に走る。この道を通るのも今日で三回目だ。パンフレットに出ていた、携帯電話のようなゴンドラがかかるセラ峠に向かった。セラロンデのセラ山だ。冬来たとき に何回も滑ったコースにある場所だった。ただ冬はこのゴンドラは動いてないらしい。セラ山脈のコルにある山小屋へ架かっている。立って乗る二人乗りの縦長のゴンドラだ。動いているゴンドラに飛び乗る。
妻が乗ったあと慌てて私が係員に押し込まれて乗った。それから10数分、ゆっくりゆっくり岩峰に張り付くように高度を上げて、コルの山小屋に着いた。降りるときもゴンドラは動いているので難しい。下りのゴンドラは一人一人 、数メートル間隔で乗り場が設置されていて、まず妻が最初に乗って、数メートル動いてきたら、私が乗るようになっていた。これなら少し乗りやすい。それにしてもスキーではお目にかかったことのないリフトであった。アセラ峠からはスキーでも通ったポルドイ峠、アラッバの村を過ぎて、ドロミテ街道をコルティナへ向かった。コルティナの街からミズリーナ湖への道は結構登った。ミズリーナ湖は標高1700mあるらしい。グランドホテルの最高と思われる湖を見下ろすメゾネットの部屋に通された。一泊二食付きでひとり95ユーロ(9500円)。安い。

      
   写真左・きれいな景色ともお別れ       写真右・セラ峠の携帯型ゴンドラ
  

 トレ・チーメを一周

オーロンゾヒュッテ〜(1:00) ラバレッドヒュッテ〜(1:00) ロカテリヒュッテ〜(0:40) ランゲアルム〜(0:40)      オーロンゾヒュッテ
 

ミズリーナのホテルから車でトレ・チーメトレッキングのスタート地点のオーロンゾ小屋に車で向かった。
途中から有料道路に変り、通行料22ユーロと高いのに驚いた。これに駐車料金を取られたらかなわないなと思ったが、それは杞憂だった。トレ・チーメの三つの峰は霧にすっぽり覆われている。
オーロンゾ小屋から歩きだし、しばらく行くと小さな礼拝堂があった。これは一般的に登山が始まった頃に造られたものらいい。周りにいくつかの墓名碑が岩に埋め込まれている。トレチーメの岩壁に命を落とした人たちのものだろう。少し行くとラバレッドヒュッテに着いた。
 

次のロカテリヒュッテまでは上に見える縦走路へ登るらしい。平坦な道は大回りする道と思って急な登り道を選んだが、途中で平坦な道も合流したので少しガックリきた。
日本人のグループが休んでいたので、「こんにちは」と声をかけた。皆驚いた様子、あとで聞いたらアトラストラックの団体だった。10名催行人員だったが8名しか集まらず危惧したが、何とか実施にこぎつけたという。ドロミテからザルツブルグへの旅だそうだ。雨が降り出したがそれほどでもないので、そのまま進む。
ロカテリヒュッテでミネストローネスープにありついた。とてもおいしい。ここに日本語メニューがあったのには驚いた。日本人登山客もそこそこいるようだ。アトラストラックの一行も入ってきた。小屋の飲み物担当のスタッフは日本人の女性だ。アトラスの案内人と「久しぶり」と言葉を交わしている。彼女が日本語メニューを用意したのだろう。ロカテリヒュッテを出たら、これまでガスに覆われて全容が見えなかったトレ・チーメが姿を現していた。さすがにドロミテの名峰らしく威容がある。チーメが日本ではチンネと訛り、剣岳や谷川岳にその名を残している。日本の岩壁の名のルーツでもあるのだ。小屋から歩きだして雨が強くなり、ザックカバーを出し傘もさした。縦走路は雨の中でも心地よいアルムを歩く。ランゲアルムの小屋に来た頃は雨も強くなったのでひと休みすることにし、紅茶とケーキを頼んだ。甘く美味しいケーキにほっとして、再び歩き出した。この頃から空が明るくなり、高みに来た頃には陽も射して周りの山が見えてきた。シャモニー針峰群のような尖った山々もある。ドロミテ針峰群か。牛が登山道に出ていたり、のどかな雰囲気になった頃、トレ・チーメを一周して、オーロンゾヒュッテに戻った。ほどほどに歩き甲斐もあり楽しかった。妻も満足。

      
     写真左・トレチーメの岩峰         写真右・雨あがって岩峰見ゆ
  

 東チロルへ

ミズリーナ湖を去いえる日の朝、もっともきれいな光景だった。
昨日の夕方の雷雨がすべての汚れを流してくれたようで、湖対岸の山をくっきりと浮きあがらせ、朝日に映え、ことのほか美しい。そのきれいな景色をバックにドロミテにさよならして再びオーストリアに車は入った。東チロルはチロル州の一部だが、南チロルがイタリア領土になったことからつながらなくなり、飛び地になっている。州の首都インスブルックに行くには、オーストリア内を行くよりイタリア経由が近いという皮肉な宿命を負った。東チロルの中心地はリエンツ、ミズリーナから1時間ほどで着いた。今は美術館になっている古城に立ち寄り、地元の画家の民族的な絵を観賞した。リエンツを取り囲む山々はドロミテ的な岩山もあるものの、緑したたる円やかな山も多くなり、山容が変わったことがよくわかる。次の滞在地カルスに向かうマトライタールに入るに従い、その雰囲気はさらに強まった。もうここはオーストリア最高峰グロスグロックナーの麓なのだ。

      
      写真左・ミズリーナ湖           写真右・リエンツの町の古城
  

 ヨーロッパパノラマコース

カルス〜(バス)マトライ〜(ロープウェイ)終点〜(1:00)カルス・マトライヒュッテ〜(1:00)ブラウスピッツ〜(2:30)カルス
 

カルスに着いて、すぐ行ったインフォメーションセンターで聞いたカルス―マトライを結ぶハイキングコース。センターのお姉さんは「マトライからカルスに歩く方がよい」とマトライへ行くバスの時刻、乗り換え場所などとても親切に教えてくれた。この教えに従い、カルスからバスに乗った。フーベンで乗り換え、マトライに着いた。
ロープウェイを通り過ぎてしまい、町の真ん中まで来てしまった。
カルスから一緒に乗った老夫婦も同じように歩くらしく、乗り場まで歩いて戻った。”ロングトリップ”とお互い苦笑いした。長いロープウェイを下りて、カルス方面への道を歩き始めた。カルスから上がってくるロープウェイの終点下にあるカルス・マトライヒュッテを経由してブラウスピッツまでの道はヨーロッパパノラマコースと大げさに名付けられている。グロスグロックナーを前方に見ながら歩くコースという点では、ヨーロッパとは言わないまでも、”オーストリアアルプスパノラマ”くらいは言ってもよいかな。
カルスマトライヒュッテからの道は広大な斜面を横切っていく気持ちがよい。3000m級の山を眺めて歩く。表銀座的な雰囲気があるが、道はいたってゆるやかに続く。ブラウスピッツのスキーゴンドラ終点のレストランでスープ、ソーセージで昼食。明るい陽射しの中でのビールはすこぶる美味しい。そこからカルスの村までの下り道は車道にもなる砂利道が大半でとても長かった。
村の近くに来ると中世の素朴な教会が草原の一画に見え、長いコースのフィナーレを迎えた。
 

      
  写真左・ヨーロッパパノラマコース        写真右・カルスの村へ下る
  

 グロックナーシュトラーゼ

ラックナーハウス〜(1:15)ラックナーヒュッテ〜(1:00)ラックナーハウス
  

カルスからグロスグロックナーへの登山はグロックナーシュトラーゼから始まる。この道を40分走らせると、ラックナーハウスへ着く。ここからは歩きになる。ラックナーヒュッテまで1時間15分の標識。ここまで行くことにした。車も走る大きな道路が上へ続いている。
この道を妻を先に立て、ゆっくりゆっくり登る。所々にあるベンチでゆっくり休憩し、昨日の疲れを引きづらないように気をつかう。
谷を上るに従い、グロスグロックナーの全容が現れてきた。雪に覆われた頂きは3798m、富士山よりちょっと高い。オーストリアの最高峰であり、周りにも3000mクラスの高山がひしめいている。北アルプスと南アルプスを合せ、その中心に富士山があるという感じか。グロスグロックナーの頂きには途中の山小屋で一泊して到達する。
ラックナーヒュッテはまだ麓のうちだからここに泊まる人は少ないだろう。我々のようなハイキング気分でここまで来た人の昼食場所だ。私たちもここでスープとソーセージ、ビールを頼み、楽しいランチにした。ここから上は本格的登山、ここまではハイキングに分かれる。下りは左の川沿いの細い道を通った。途中の沢ではヌーディストクラブのような水浴びシーンに遭遇し、度肝を抜かれた。カルスの村に帰ってきてATMでユーロを引き出していたら、隣に日本人そうな人がいた。聞くと日本人、グロスグロックナーに登りに来たが、雨模様なので迷っていると言う。どちらにお泊まり?と聞くと、同じベルグハイマートだった。

      
  写真左・ラックナーヒュッテへの道で  写真右・グロスグロックナーの頂きは雲の中
  

 カルスからハイリゲンブルートへ

朝から雨だ。昨日インフォメーションで会った日本人の男性と朝食が一緒になった。山好きらしく、グロスグロックナーに登るためにカルスに来たらしい。雨でガックリきていて、ガイドをいつ頼もうかと悩んでいる。気長に一週間くらいいたらどうですかとこっちは気楽なことを言って別れた。
雨はカルスを離れたあたりから小降りになった。雰囲気のよかったカルスは三日間の滞在だったので、宿のオカミさんは今度は一週間くらい居てくれと言っていた。スキーも面白そうな所なので、冬に来てみたいとも思った。リエンツの町を通り抜けハイリゲンブルートへの107号線に入り、徐々に高度を上げて行く。早く着きそうで時間調整に途中の村で時間をつぶしたりして、このあたりで昼食にしようと思って入った町はもうハイリゲンブルートだった。まだ12時を回ったばかりで入れないと思ったが、ダメモトで予約していたホテル・グロックナーホフに聞いてみたらチェックインでき、部屋に入れた。山も見えないいい部屋ではなかったが小さいベランダがついていたので、そこで今朝作ってきたサンドウイッチをコンプリメントで部屋にあったスパーリングワインでおいしく頂いた。
夜、近くの村の舞台で地元の音楽隊の演奏会があった。軽快なポルカは楽しく、踊りたくなるようなリズムだ。終り近くに前のベンチに座っていた女性が日本人だった。「どのくらい旅しているのですか?」と聞くと、6月末から来ているという。途中でご主人も加わり、チロルの旅事情を交換した。ここハイリゲンブルートには一週間滞在予定だという。これからのお互いの旅が楽しく続くことを祈念して別れた。

      
    写真左・ホテルの窓からのカルスの村  写真右・ハイリンゲンブルートの夜の演奏会
 

2月25日 お食い初め

初孫のゆりかちゃんのお食い初めをやるというので、娘の住む綱島に電車で出かけた。生後、100日くらいを目安に、子供の成長を祈って初めての食事をするというのが「お食い初め」らしいが、まだ4ヶ月足らずでは食べれないので、最長老のおばあちゃんが箸で食べさせるマネごとをする。周りで両親と祖父母が宴会をやるのが主目的である。ファミレスのかごの屋では、ちゃんとお食い初め用の赤ちゃん膳を用意してあった。最長老のおばあちゃんは私の妻なので、妻が箸で赤飯をつまみ、ゆりかちゃんの口元に近づけて、儀式終了。あとは木下家のおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に、楽しい昼食会となった。昼から呑むビールはおいしい。ゆりかちゃんも早く、本当に食べられるようになるのが待ち遠しい。

      
  写真左・ お食い初め膳とゆりかちゃん        写真右・さあ、どうぞ
 

2月16−18日 八ヶ岳高原ロッジ

八ヶ岳高原ロッジは長野県南牧村の西武の別荘地にあるホテルだ。小海線の野辺山駅から15分くらい車に乗った所にある。プリンス系とはちがい、静かで地味なホテルである。堤清二の文化の香りがするホテルだ。弟の義明の商業主義とは毛色のちがう施設だ。近くに高原ヒュッテという徳川家の洋館を移築した重要文化財の建物もあり、音楽堂とともに芸術的雰囲気を漂わせるエリアになっている。冬の時期は何もなく雪の中を歩くくらいだが、これでよい。スノーシューを借りたが履くのに苦労してうまくいかず、途中に置いて美鈴池まで歩いて行った。別荘地の中の池は凍っていたが、前方に八ヶ岳連峰の赤岳、横岳、硫黄岳を望み、美しい所だった。冬の静かな別荘地は間隔も広く、建物も立派で、高級別荘地の雰囲気だ。いったんホテルに帰って来てランチを摂り、午後はヒュッテと音楽堂を廻った。かろうじて歩いた跡が残っていたので、踏み跡を外さないように慎重に足を進めて着いた高原ヒュッテは 、八ヶ岳を前にして風格がある。「高原へいらっしゃい」の映画とテレビの撮影に2度使われただけある、すばらしい雰囲気の建物だ。夏はレストランとして使われているようなので、一度来てみたいものだ。ヒュッテを後に、音楽堂への道を雪の中に踏み跡を探しつつ向かった。来週末にはここで加藤登紀子さんのコンサートが行われるようだ。雪の中のウォーキングを終えて、3時頃ホテルに戻ってきた。明日は野辺山から小海線で帰る。

     
     写真左・美鈴池と八ヶ岳        写真右・高原ヒュッテの向こうに八ヶ岳
  

2月12日 日野稲門会新年会

久しぶりの日野稲門会の新年会、3年ぶりの開催だ。午前中は映画会。「母と暮らせば」、吉永小百合と二宮和也の映画だ。毎回、早稲田関連の映画を企画する。最初は「ラストゲーム・最後の早慶戦」、次は「命のビザ・杉原千畝」だった。今回は、私の一年下の卒業生・吉永小百合さんの映画だ。小百合さんは大の早稲田ラグビーファン、毎年シーズン前の菅平合宿には牛一頭分の肉を差し入れるという。午後の懇親会の各人の近況報告、私はこう話した。「私の大学入学は昭和39年、1964年。このときのことは今も、昨日のことのように覚えています。その年に山口県に生まれた男の子が大きくなり、私と同じ早稲田の商学部に入り、卒業し てソニーに入り、今年、社長になりました。このニュースを聞いて、時の流れの速さを実感しました。五十数年という時間の重みを知りました」

     
     写真左・日野稲門会場         写真右・「母と暮らせば」映画会
  

2月9日 同期会下見

「やろうやろう」と言いながら、コロナで流れに流れた早稲田岳文会の同期会を今年こそはと同期女子が張り切っている。新宿御苑で集まり懇談して、ライオンで軽くという案が提示された。私は新宿御苑は早く切り上げてライオンで宴会重点と主張したら、「それなら下見に来て」ということで、御苑・千駄ヶ谷口に行った。待つこと30分余、来園する人を見ると外人さんが多い。外国からの旅行者は公園や植物園が好きなのかもしれない。やっと来た同期女子3人、ひとりが御苑に執着、2時間くらい滞在してここで歓談したいと言う。「30分でいい」と反論するが、強硬。間をとって1時間にした。その後のライオンが楽しみな私は、「歩きながらみんなと歓談なんかできない」、「酒があっての歓談だ」と強く主張し、ライオンの5000円2時間飲み放題コースにすることを決めて、ようやく落ち着いた。

     
    写真左・新宿御苑千駄ヶ谷門        写真右・新宿御苑日本庭園
  

2月5日 冬晴れの蓼科

奥志賀でのスキーを終えて、蓼科に帰ってきた。殊の外寒い今年の冬は薪ストーブ全開で、もう積んでおいた薪も最後のひと山になってしまった。これでは春まで持たないが、4月くらいまで 次の予定はないので、惜しみなく使うことにしよう。寒い時にはコタツに限る。入ってしまうと出るのがつらい。先月のスキー合宿では、山内君がコタツに入ったまま、ひと晩過ごしたほどだ。
そんなコタツから這い出て、良く晴れた夕方、山荘前の道路をどん詰まりまで散歩した。空気は冷え冷えとしているが、空は澄み切った青空だ。蓼科山の頂がまじかに見え、歩くにつれて北横岳、縞枯れ、麦草峠、天狗、硫黄、横岳、赤岳、阿弥陀、権現、編笠の八ヶ岳連峰がすべて見え、4号線最奥の別荘からは、南アルプスの甲斐駒、仙丈の山並みもはっきり見えた。美しく、清々しい冬晴れの蓼科である。

    
      写真左・晴天の八ヶ岳連峰       写真右・木の間越しの甲斐駒ケ岳

 

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1 月

1月31日 海外、思い出のドライブ旅・「ハプスブルグ家の旅」

今回は15年前に行ったチェコからオーストリアへのドライブ、旧共産圏から自由圏への旅である。妻はマリーアントワネットやエリザベートが暮らしたオーストリア王朝・ハプスブルグ家の歴史が好きなこともあり、プラハ、ウイーン、ブタペストを廻る旅に出かけた。秋の中欧は寒いと言うので、スキーの防寒具を詰め込んだ。われわれの旅はいつも自炊中心なので、ホテルはプラハとウイーンはアパートにした。ソバ、ラーメン、カレー、マヨネーズ、醤油、そばつゆなども入れた。欠かせないのはザルとどんぶり状のボール、これは外国にはない。マヨネーズも瓶詰めしかない。スーツケースは、われわれのような個人旅行では自分で持ち歩きしなければならないので、列車が大変なのだ。そこで、プラハからウイーンへの移動はレンタカーにした。私のスーツケースの半分は、食料と食器で埋まった。

      
     写真左・プラハのカレル橋      写真右・海外旅行必携のざるそばセット
  

 「暗い街並みと近代的な室内(プラハ)」

夕暮れにプラハ空港に着き、タクシーで市内のホテルに向かった。車は住宅街をいくつも通過した。どの街も街灯がまばらで暗い。「こんなに薄暗いと歩けないな」と妻と話した。30分くらい走って市街地に入り、ホテルに着いた。世界遺産の街らしい、東京なら歴史的建造物になるような古いビルだ。中はとてもモダンで泊った部屋はデザイナーズマンションの室内のように垢抜けしていた。広いリビングキッチン、台所もソファもテーブルも洒落ている。リビングの広さの割りに、寝室は狭い。たぶん仕切りになっているのが構造壁なので、広げることができなかったようだ。窓から見える道路はすべて石畳、楠の木のような黄色くなり始めた街路樹が前のビルの灯りに浮かび上がっている。
15時間かかって到着した初めてのチェコ・プラハは、暗い街通りからホテルに入って印象がすっかり変ってしまった。意外と面白いかも。

      
   写真左・モダンなプラハの宿の台所          写真右・宿の台所
  

  「歓迎されなかったハプスブルグ家」

プラハにはカレル橋、プラハ城、天文時計塔など数百年の歴史をもつ建造物が多い。どこに行っても石畳が続いている。そしてトラム(市電)が縦横無尽に走っている。これに乗り慣れるとすこぶる便利だ。
ハプスブルグ家はカレル橋を渡った丘の上にそびえるプラハ城を住居としチェコを治めていた。博物館や城の中に、プラハの長い住民の歴史や生活を語る物は多いのだが、支配者だったハプスブルグ家を讃えるものはほとんど見当たらない。それ以前も、ローマカソリックに反抗したり、社会主義国家になっても「プラハの春」でのソ連への抵抗など、チェコは常に他国に虐げられてきた。プラハはその抵抗の拠点でもあった。自ずと、反抗反旗の遺物が目立つのだろう。
今ようやく、その抑えられ続けた時代が終わり。本当の「プラハの春」をみんな享受しているのかもしれない。プラハは芸術の都でもある。特に、モーツァルトやベートーベンは、ウイーンからプラハのハプスブルグ家に迎えられ、頻繁に演奏会を開いたという。ウイーンで受け入れられなかった新曲が、プラハでブレークし後世に名曲となったものも多いと言う。それだけ耳の肥えた貴族や一般の聴衆が多かったということだろう。チェコ民族は芸術的センスのあるすこぶる誇り高い民族でもある。

         
     写真左・ プラハの街並み           写真右・プラハの秋
  

 「美しい”チェコ路の秋”(テルチ、チェスキークルムロフ」

チェスキークルムロフ経由でオーストリアに入ることにして、レンタカーを借りた。プラハの郊外を抜け、ハイウェイに入ると、まっすぐな思いのほかきれいな道が続いている。ガタガタ道でないかと心配していたが杞憂だった。2時間走って、間違いに気がついた。三角形なら、逆の辺の方向に走っていた。そこから戻るのでは遠すぎる。地図では横に行けば、本来のもう一辺にぶつかることがわかった。しかし、その横の一辺はハイウェイではなく、田舎道だ。標識に従い、秋のチェコ路を走った。丘陵地帯に畑が広がり、草を束ねたロールが積まれ、林や森が畑につながっている。村々の家は素朴かつ古く、社会主義時代からそのままのようだ。田園と農家がみごとに調和した秋のチェコ路の風景はすこぶる美しい。今朝作ったサンドイッチと柿を昼食に食べたテルチの村はおとぎ話の村だった。何百年前、火災に会ったとき、家の建て方を連結して、それぞれ外装を創意工夫してよいことにしたら、今の街ができあがったという。まるでテーマパークのような街並みだ。街中もよかったが、その裏側から見た池越しに見る村の風景はことさら美しかった。紅葉の木々と水面に映える教会の塔、秋の日差しの中で美しい村は静かに佇んでいた。

      
     写真左・テルチの街並み       写真右・テルチを裏側から見ると
  

  「中国人に占領された古城」

チェスキークルムロフはS字状に流れが蛇行する川沿いに作られた町もまたS字状に並んでいる。そのS字のてっぺんに支配したお城がそびえている。まさに城下町だ。歴史の中で培われた趣は現代を感じさせるものが何もない。すべてが昔のまま、たたずまいの美しさもあって世界遺産の町としては有名。たくさんの観光客が訪れる。近年は日本人も多かったが、このところは中国人が圧倒的に多い。われわれはここの昔は修道院だったといういわば”古城ホテル”ホテルルージュに二泊した。
朝食のとき驚いた。われわれ夫婦を除いて、あとはすべて中国人なのだ。中国語が飛び交い、ヨーロッパの古城ホテルとは思えない。プラハもテルチも多かった。
ドイツ南部のノイシュバンシュタイン城は40年前から日本人がわんさか押しかけ、道路標識にも「ロマンチック街道」と日本語表記されているが、ここも今は中国人に席巻されている。日本語標識が中国語にとって代わられる日も遠くないだろう。チェスキークルムロフも既に日本人を追い抜いた。そのスピードはすこぶる速い。ホテルにあった奇妙な日本語の”Do not disturb ! ”(写真)も正しい中国語に直されることだろう。

        
   写真左・元修道院のホテルルージュ  写真右・ ”Don’t disturb"が”ゆえ坊害無用”に転換
  

  「なぜここに網走が?」

チェスキークルムロフ城から街を見下ろすと、茶色の瓦屋根の家々がびっしりと詰まっている。中世からの時間が止まったような感じがする。城内にある案内所に入って驚いた。日本語で網走市の時刻が表示されている時計がこの町の時計と並んでいる。「姉妹都市?」と案内所の女性に聞いても知らないという。「何かの記念だろう」という。網走は日本語だけでローマ字表示もないので、彼女たちも??だったようだ。「網走は監獄で有名な、Prison cityだよ」と言うと驚いていた。日本に帰ってきて調べたが、姉妹都市の関係もなく、どんな縁があるのかわからず仕舞いだ。誰か知っていたら教えてください。

      
    写真左・なぜ網走が...?       写真右・チェスキークルムロフ市街
  

  「タクシーをまいてしまった(ウイーン)」

チェスキークルムロフからしばらく走ると国境を越え、オーストリアに入る。畑が伸びやかに広がる田園風景はチェコと同じだが家々のたたずまいがガラッと変わった。新しい家もまじり、古い家でもパラボラアンテナなどがあったり、近代的なのだ。これが社会主義が長かったチェコと西欧圏オーストリアのちがいなのだろうか。車の量も急に多くなり、リンツの街では渋滞になった。
アウトバーンを西から東へウイーンに向かった。アウトバーンから市街地に入ったのが午後2時過ぎ、ウイーン市内のハーツのオフィスにレンタカーを返すのは夕方6時半、4時間以上あるので余裕だった。まずはホテルにチェックインしてからと、地図を見ながらホテルの場所に向かった。しかし一方通行の連続で走っているうちにわからなくなってしまった。ガソリンスタンドに飛び込み聞くが、ドイツ語なのでわからない。指差す方向に走るがわからない。こんな繰り返しでやっとホテルの街に着き、場所も確認したが、その通りへ入り方が一方通行でまたわからない。そんなこんなでホテルに入ったときは5時半を回っていた。

  

ハーツの閉店まで1時間もない。そこまで迷いながら行っては間に合わない。幸いホテルの前はタクシー乗り場で、結構な車が停まっていた。「ハーツまで先導してくれ。車を返したら、おたくのタクシーで帰ってくるから」と往復料金をギャランティーしたら、行ってくれることになった。タクシーの後ろを妻と一緒について都心に入っていった。車の流れが都心に近づくにつれ多くなる。さしづめ銀座4丁目といった繁華街の角にハーツの看板を発見し「あそこだ」と安心した。しかしタクシーはその前を通り過ぎ、反対側斜めのインペリアルホテルの玄関に停まった。「インペリアルホテル近くのハーツ」と言ったのだが、運ちゃんには「インペリアル」しか耳に残らなかったようだ。「あっちあっち」とハーツの看板を指差しやっと理解し、反対車線に戻ったが広い交差点で信号が変わった。タクシーは直前に通過し、私たちは渡れなかった。信号が変わって渡ったが、タクシーは4車線の左側に、私は右端で離れ離れになり、後ろから車が来て停車するわけにもいかず、またもや一方通行を右に右にと回ってハーツに着いたときは、タクシーを見失ってしまっていた。レンタカーを返し、しばらく待っていたがタクシーの運ちゃんは来なかった。意図せず「タクシーをまいた」形になり、ただ働きをさせてしまい、すごく申し訳なかった。1週間の滞在期間中、毎日ホテル前のタクシー溜まり場を覗いたが、あのタクシーには二度と会えなかった。

          
    写真左・モーツァルト銅像            写真右・ウイーン市街
  

  「寿司の人気はハンバーガー並み」

レンタカーを返したあとはタクシーで帰る予定だったがはぐれてしまったことにより、その必要性はなくなった。地下鉄とトラムを乗り継いで帰ることにした。カールスプラッツの駅に行くと、パックの寿司が並んでいる。勤め帰りの人も気軽に買っていく。これは良いと夕食に二パック買い地下鉄に乗った。下りた駅にもまた別の寿司屋があった。ここでは焼ソバまで売っていた。ウイーンに1週間いる間に3回も寿司を買ってしまった。味はまずまずで、アメリカのスーパーに並んでいるものよりずっとおいしい。日本の寿司パックとちがうのは、わさびを別盛りにしてサビ抜きだ。わさびが苦手な人が多いのだろう。寿司も駅のスタンドで立ち寄って食べ、テイクアウトもできるハンバーガー並みの人気があるということなのだろう。ちがう駅の構内には、GINZAという回転すしショップもあった。回転すしは”Running Sushi”と言うそうだ。

      
   写真左・持ち帰り寿司カウンター   写真右・意外とおいしいウイーンの持ち帰り寿司
  

  「ザッハートルテ」

ザッハーホテルが考案した「ザッハートルテ」はウイーンの名物菓子。菓子職人フランツ・ザッハーが、1832年に創出した(1814〜1815年のウィーン会議で創出されたとする説もある)。以来ザッハーのスペシャリテとして好評を博す。門外不出とされたが、ホテル・ザッハーが財政難に陥った際に援助を行ったウィーンの王室ご用達のケーキ店・デメルの娘が嫁いだ際、レシピが流出しザッハトルテの名を冠して発売したことから商標等をめぐる裁判になった。7年に及ぶ裁判の結果、デメルのものもザッハトルテとして売ることが認められた。歴史的な騒動でも有名なお菓子を食べてみ ようと、両方の店に行った。どちらも混んでいた。ザッハートルテを注文するのはおのぼりさんばかりらしく、ウイーン子は別のお菓子を食べていた。どちらがおいしかって? 似た味だが、私はデメルのほうが甘さを抑えていておいしかった。

      
    写真左・ザッハーホテルのトルテ       写真右・デルメのザッハートルテ
  

  「所変われば…台所の明かりの点け方」

プラハの宿もウイーンの宿もアパートメントにした。どちらでもわからなかったのは台所のシンクの上にある小さな照明と換気扇のつけ方だった。どこにスイッチがあるのかと探したが見当たらない。プラハではフロントのお姉さんに来てもらったが、彼女も??であとで技術の人を寄越すと言ったがそれきりだった。絶対的な問題はないのだが、コンロでの調理や まな板作業、食器洗いの手元が薄暗く不便である。プラハは結局わからずじまいで終わった。ウイーンも同じような台所だった。「プラグがはずれているのでは?」などとフロントは言うがそんなことはない。「わかる人にチェックさせる」ということで、私たちは外出した。帰ってきて驚いた。ちゃんと明かりが点いている。天井部分が前にスライドして出ていた。天井は固定的なものとの観念で思いもつかなかった。前に引っ張りだすとは。点灯はスイッチでやるものとばかり思っていた。所変われば、やり方も変る。だから旅はおもしろい。

      
      写真左・ふつうの状態          写真右・前にスライドさせると
  

  「社会主義の頃がよかった(ブダ゙ペスト)」

なんども宿を変えるのは面倒なので、もうひとつのハプスブルグ家の都ブダペストには日帰りのバスツァーで行くことにした。現地では日本語のガイドが案内してくれるという。バスのガイドも片言の日本語をしゃべっていたが、英語での内容の半分も訳してくれない。ブダペストで私たちの前に現れたのは太ったハンガリー人のおばさんだった。社会主義の時代に日本語を習ったという。「自由主義になってどうですか?」と聞いた。「暗黒の時代が終わってよかった」を期待していたが、出てきた言葉は「社会主義の頃がよっぽど良かった」。「通訳の仕事も昔は組織がスケジュールを作って割り当ててくれた。今は競争で、今日は何日ぶりかの仕事だ。他の日は失業している」。確かに彼女の日本語は「理解できる」が、レベルは高くなく、ビジネスの通訳は無理と思った。昔なら、レベルに関係なく割り当てたのかもしれない。「代えてくれ」と言っても簡単ではなかったから日本人も我慢したのだろう。それが時代が変りお客が通訳を選ぶようになって、彼女への仕事は激減したことが予想される。オーストリアのロイッテに住んでいる久仁子さんの話を思い出した。「産業やビジネスで来られる日本人の通訳は大変なの。専門的な話が多いので、行く先に事前に行って専門的なことを予習しておく」という。何事も習った後の努力と精進が必要なのだ。別れ際に、ガイドのおばさんに20€、チップを渡した。とても喜んでくれた。

      
     写真左・ブタペスト市街        写真右・ウイーンからの観光バス
  

  「ホイリゲのボジョレヌーボーとヨハンシュトラウス」

ウイーン最後の夜、郊外のグリンツィングで新酒のワインと田舎料理を食べ、そのあとウイーンに帰ってきてシンフォニーを楽しむというツァーに参加した。お客は私たち二人だけだった。オーストリアのワインは白、さしづめ、白ワインの新酒・ボジョレヌーボーと言うところか。この新酒と料理を出すホイリゲと呼ばれる居酒屋がグリンツィングには多い。観光客が集まるホイリゲに案内してくれた。韓国人が多く、バンドはアリランを奏でていた。肉とポテトの素朴な盛り合わせに青い香りがするワインは合っておいしい。ひとしきり楽しんでから、市街のコンサートホールに行った。ここも観光客主体なので、ポピュラーな曲目だ。そうなるとヴェートーベンやモーツァルトは少なくなり、ヨハンシュトラウスが多い。「青きドナウ」、「スケーターワルツ」など静かなメロディもあるが、圧倒的なのは、日本人の耳にお馴染みの運動会の入場・退場の時に流れていたポルカやラディツキー行進曲など、軽快なテンポの曲で、観客は盛り上がって演奏会は終わった。”ウイーンはヨハンシュトラウス”の印象を残して、最後の夜の家路についた。

      
     写真左・ ホイリゲで乾杯          写真右・ホイリゲの店内
  

1月30日 日野稲門会スキー

コロナで2020年以来、やっていなかった日野稲門会のスキーが久しぶりに実施された。この間、亡くなった人や体調劣化の人も出て、5名だけの参加と寂しい。年寄り集団のスキーはこんなものかもしれない。前回、初めて参加された五十嵐さんも、100才のお父様がコロナにかかって直前にキャンセル、唯一の年下のOBだっただけに私は残念。79歳の私がいちばんの若手に戻ってしまった。初日は午後から。晴れているが風は冷たい。高橋さん、谷さんと私の3人で奥志賀から焼額まで軽いツァーをした。夕飯時、二人はこっくり、こっくり。初日の行動としては少しきつかったかも。翌日、小野さん夫妻は、杉山スクールで講習を受けることになった。第3リフト沿いの斜面で、ふたりだけの個人レッスンに近い形でレッスンを受けていた。小野さんのシュテム系の滑りに先生は腕で大きくまるを描いて、「いいよ」と叫んでいる。あとで聞くと、奥さんにはきびしかったとか。うまい人にはきびしく、そこまでいかない人にはやさしいという教え方は私が杉山スクールに入っていたときと同じだ。「へたな人には、スキーが嫌いにならないように」との教え方なのだ。高橋さん、谷さんと私は、一ノ瀬へ大勝軒のラーメン目指した。私はあつもりメンマと生ビール、いつ食べても満足。雪が舞ってきたので私はバスで帰ることにしたが、乗ろうとしたバスは休日のみ運行ということがわかり、やむなくスキーで戻ることに。焼額で先行していた二人に追いつき、そこから山伝いに奥志賀に戻ってきた。来年もやれればいいね。

      
    写真左・
スキーを終えて乾杯!     写真右・山ノ内大勝軒のあつもりそば
 

1月27日 岳文会OB スキー合宿

二十年前、私主催の岳文OBスキー合宿を野沢と志賀でやり、その後スノーシューに変り、数年間続いていたが、老齢化で自然消滅した。今回は我々より6年下の期が、スキー合宿をやるというので山荘を使うことになった。蓼科周辺にはろくなスキー場はないよと言ったのだが、酒がたっぷり呑めるのも大事と山荘に5名集まった。12期、13期、14期、22期そして私の7期とバラエティに富んだ。スキー場は白樺高原と2イン1の2ケ所をはしごした。あいにく小雪で北アルプスの景観は見えず、黙々と滑る。雪も降ったので、あまり人工雪のガリガリ感はなかった。どちらも1時間も滑れば、一通り完遂するので早めに切り上げ、温泉直行。夜は、ビール、日本酒、ワイン、ハイボールとビンがどんどん空いて行く。これがスキー合宿の醍醐味だ。来年も恒例にしようと意見が一致して、スキーとはうって変わって晴天になった日に帰っていった。

      
  写真左・スキー合宿に集まったメンバー     写真右・雪ふりしきる2in1スキー場
  

1月22日 3年ぶりの中々連新年会

高円寺の駅を降りギャラリー久に向かう道を歩くのも3年ぶりだ。阿波踊りのとき使っている集会所だ。久々の中々連の新年会が開かれた。20名ちょっとの参加は寂しいが、オミクロン急増中の今どきなので仕方ないか。年寄り集団なので警戒心が強いのだろう。それでも顔を合わせると、夏の夜を思い出し、話に花が咲く。宴の最後はやはり踊りで締める。笛と鉦が響くと自然に体が動く。やはりこれでなくてはいけない。

      
    写真左・三年ぶりの踊り初め          写真右・新春を祝う酒
  

1月9日 古き友の孫と一緒に

深澤さんは、学生時代に一緒に岩原の山小屋を借りていた山岳歩こう会の後輩。私は岳文会だったが、彼の同級生が岳文会で同じ借りる仲間になったので、深澤さんも入った。電気もない山小屋を4年以上借り続け、青春を謳歌したものだ。彼ももういいお爺ちゃんになって、孫と一緒のスキーに山荘に来た。もうスキーはやらないが孫と一緒にスキー場へ行き、夕暮れまで遊んでいたようだ。一夜、昔話を肴に酒を共にした。「いい青春だったね」と語り合った。蓼科の山荘も、彼の紹介で知った、マルアサ工房に建ててもらった。学生時代のつきあいは、こうして50年以上つながっているのだ。帰る段になって、孫のケイ君が、「帰りたくない」とダダをこねた。「よほど楽しかったんだね」「また来てね」と去り行く車に手を振った。

        
  写真左・帰りたくないケイ君とその家族     写真右・ツララも大寒入り
  

1月1日 今年は無事息災で...

子供たちがいなくなり、妻とふたりだけで迎える正月も二年目になった。寂しさはあるけど、ホッとした気分でもある。おいしいあらばしりをお屠蘇にして、新年を祝う。去年は初孫も生まれ歴史的な1年であったが、コロナに感染し一家全滅となり、そのあと生後二か月の孫まで父親から感染し、大騒ぎであった。暮れ押し迫った30日には、私が衝突事故を起こし車が大破した。一年最後の最後まで不運続きの一年だった。これらの災いを今年は吹き飛ばしてくれるよう期待したい。運勢によると、吉と出てよさそうなので大いに期待している。すべてに注意しながら、災いのない一年をおくりたい。

          
      写真左・かわいい孫           写真右・今年のおせち
  

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