小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
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蓼科日記

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蓼科・東急リゾートタウン
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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。

毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

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2021年

12月

12月31日 海外、思い出のドライブ旅・イギリス  ロンドン/ベーカー街、チャーチル邸

今回はドライブ旅の後に行ったロンドンでの話。パディントン駅の近くのアパートメントを予約して、エジンバラから急行列車で行った。エジンバラまでは先月紹介したドーバー海峡沿いのトーキーの街で借りたレンタカーでスコッツウォルズ、湖水地方をドライブして行った。このエリアは観光案内の名所なので今回は省きたい。

      
 写真左・ロンドンへの急行列車の昼食    写真右・ロンドン・キングスクロス駅
 

隣の駅がベーカー・ストリート、シャーロックホームズの事務所があった所である。妻はシャーロックホームズも好きな探偵だ。行かねばなるまいシャーロックホームズ博物館へ。コナンドイルが書いた頃は、事務所のあるベーカーストリート221番地は架空の番地だったらしいが、人口が増え、今は221番地があり、そこに博物館もあるのだ。まさに小説を地でいく形になっている。雨の中をしばらく待って、中に入った。3階までのフロアに小説に出てくる人物やら事務所の風景が再現されている。妻は大満足である。
見終えて外に出るともう昼どき、近くに回転すしの店があった。外国の回転寿司は如何なものか、興味津々で入った。黒人のウェイターが「いらっしゃいませ」と日本語で案内し、テーブル席に座った。横を寿司が流れてくる。日本的なものが多いが、肉を乗っけた寿司やらアボガド寿司などもある。サッポロビールを飲みながらいくつかつまんだ。握っているのはアジア系の人、店長は日本人のようだ。よく見るとシャリは寿司の形になった出来合いのシャリを箱から出して、その上にネタを乗せているだけなのだ。シャリから握っているわけでない。これなら素人でもできる。天丼やかつ丼も作ってくれる。味は店長の管理が行き届いているせいか、日本のものとそう変わらない。おいしいのだ。黒人店員は日本語が達者、聞くと2年間、大阪にいたという。道理で。

          
     写真左・ホームズ博物館        写真右・ロンドンの回転寿司店
 

ウインストン・チャーチルは第二次世界大戦から戦後にかけて英国の首相、イギリスの顔とも言うべき名宰相だった。貴族の生まれで、由緒正しい総理大臣だった。ロンドン郊外に大邸宅を構え、国会と邸宅を往復していた。吉田茂首相の大磯のようなものだが、広々とした丘に建っていてスケールが違う。
ここへはビクトリアの駅から列車に乗り、ブロムリ・ノースからチャートウェル(チャーチルの邸宅地)へバスに乗り継いで行く。まずはビクトリアまで動いている地下鉄と、オイスターカード(スイカのようなもの)を買った。妻は自動的に入れたが、私ははじかれる。駅員に聞くと、切符を見ずハンディキャップ用改札を開け、ここを通れと言う。下りるときも同様だ。バスも利くかもしれないとのことなので、女性の運転手に見せたら、これは無理、現金はダメでバス専用のカードがいるという。バス内では買えないとなり、困ったなと思ったら、乗ってよいと親切に言う。帰りも困ったなと思ったら、同じ運転手のバスが来て、今度は読み取り機が壊れたので、みんな無料でよいとのこと。なんてついているんだ。帰りの地下鉄もハンディキャップ口でスルー。あとで切符をよく見たら、私の分は同じカードだが領収書だった。一人分のカードを買ったのに、2枚出てきて二人分と思いこみ、私は領収書で今日は旅していたのだ。
それにしてもみんなおおらかなものだ。 チャーチル邸は大きく立派、室内には幾多の勲章やメダルが飾ってあったが、ノーベル賞のものがないのが不思議だった。彼はノーベル文学賞をもらっているのだ。政治とは関係ないと外していたのだろうか?チャーチルが亡くなってすぐ奥様のクレメンタインはロンドンのこじんまりとした家に引っ越したそうだ。彼女はチャートウェルは広すぎて、好きでなかったようだ。今はナショナルトラストが管理している。

      
     写真左・チャーチル邸          写真右・問題のバスの切符
  

12月26日 雪の中の葬式

村上の叔父の奥さん、サキ子さんのお葬式。23日に亡くなり25日がお通夜だったが横浜で外せない用事が入っていて、今日の一番の新幹線で行った。火葬場でのお骨拾いに間にあわせようとの早出だ。タクシーは朝早すぎて来ず、日野駅まで歩き、東京駅まで快速、6時発の「とき」に乗車。もうすぐ発車というときに、温さんから電話 で「今日は大雪で、新潟からの羽越線が動かないかもしれない」と。「そのときはそのときで考える」と答え発車。新潟までは順調、そんなに雪も降っていない。新潟に着き在来線のホームに行くと、7時45分の村上行がある。だけど今の時刻は8時半、折り返しの列車が1時間も遅れていたのだ。それしかないので乗ったが、これが順調に進む。
坂町から平林の間が強風でノロノロだったものの10時前に村上に着いた。火葬場へタクシーで直行、お骨拾いに間に合った。位牌に「湖」が入っているのはサキ子さんの故郷・所沢の狭山湖を入れて欲しいとの思いがあったという。義叔母のサキ子さんが亡くなり、われわれ世代の小田家の人間は私だけになった。故郷はだんだん遠くなる。帰りも大雪というわりに列車は順調で、帰りの新幹線も遅れなし、スノーマンのコンサートが新潟であったらしく、超満員。両脇を若い女性に挟まれてのハラコめし弁当とビール、ワインは殊の外おいしかった。

      
     写真左・義叔母の葬儀        写真右・故郷の思いを載せた位牌
  

12月25日 横浜での催し

だいぶ前に予約してあったシネマコンサートがみなとみらいの劇場であり、その後、木下裕紀・景夫妻の結婚式一周年の会食を中華街で予定していたので、サキ子さんのお通夜は不義理せざるを得なかった。シネマコンサートは「ラブアクチュアリー」。ミュージカル系の映画に東京フィルハーモニーの演奏。音楽に目が行くとスクリーンを見落とし、スクリーンに目がいくと聞き逃す。シネマコンサートはなかなか難しく、忙しい。その後の中華街は土曜だったせいか、えらく賑わっていた。四五六菜館の料理はどれもおいしく、久々に飲んだ青島ビールもさわやかだった。二人も無事、一周年を迎え、生活も順調そうで、親としてはひと安心。早く孫がほしいものだ。

      
   写真左・横浜みなとみらいの海          写真右・にぎわう中華街
  

12月23日 二人だけの誕生日

娘たちが巣立ち、ふたりだけのクリスマスは去年からだ。子供たちが小さい頃はこの日がいちばん賑やかだった。私の誕生日が今日なので、わが家のクリスマスはいつもハッピイバースデイを兼ねていた。そんなうきうきした日々も遠くなり、ふたりだけの誕生祝はケンタッキーのチキンとコールスローサラダ、タカノのふたつのフルーツケーキとこじんまりしたものになった。それでも健康にこの日を78回迎えられたことは幸いであった。と喜びをかみしめているところへ、村上の温さんから電話。この時間の電話はよいことはない。「母が今日亡くなりました」、「早かったね、瀬波病院へ転院したばかりだったのに」、「ええ、このところ急速に弱ってしまい...」

      
     写真左・誕生祝はビールで     写真右・ショートケーキにロウソク立てて
  

12月22日 ああ無残ャなあ

玄関の前にあるトランペットリリー が先日から花が開き、満開の状態だった。この花はいつの季節でも咲き、バカ花のようだ。この間枯れたと思ったらまた咲き出すのだ。それも大きなラッパ状の花なので目立つ。この寒空にと思っていたら、急な冷え込みでみんなしぼんで枯れてしまった。
咲くのも簡単だが、しぼんでしまうのも早いね。その姿は寂しく悲しい。玄関に大きく伸びてきていたので、通るときもジャマになりつつあった。それもあってか、妻はあっさり幹をノコギリで切り落としてしまった。それも寂しいね。

      
 写真左・ああ無情のトランペットリリー     写真右・こんなに咲いていたのに
  

12月18日 花の木集合!お墓参り

花の木のママ広田さんが亡くなって3年、初めてお墓参りをした。早稲田の武藤先生の声掛けで十数名が八柱霊園に集まった。花の木の常連さん、花の木連の仲間も多い。北総鉄道の松飛台駅集合、日野からは中央線西国分寺で武蔵野線に乗換え、1時間以上乗って東松戸で北総鉄道に乗換えひと駅目、遠い所だ。千葉県なのに東京都八柱霊園という。都内には広大な土地がなくなり、千葉県に進出したというわけか、千葉県の人は入れないのかね?
松飛台駅近くの南門から入ってすぐの所にママさんのお墓はあった。「永末家の墓」とある。息子さんは「小先」という苗字だったのに。確かに結婚した作家・佐木隆三の本姓は小先だったが、永末は広田ママ・和子さんの家系の苗字だという。それじゃ「広田は?」と聞いたら、「ヒロタのシュークリームから採った」とのこと。広田和子は芸名だったのか。近くの料理屋で大宴会、広田ママにふさわしい墓参りとなった。

      
     写真左・広田ママのお墓        写真右・広い八柱霊園
 

12月7日 寅さんの町から金町へ

先月の荒川車庫での飲み会でうなぎの話が出て、次は金町ということになった。堀さんがアルバイトをしている店がウナギもやっているとのことで。金町ならその前に柴又でだんごもということになり、柴又駅前の寅さん銅像前集合となった。午後2時に行くと、既に武藤先生が到着していた。ほどなく、堀さん、吉田さんも来て、帝釈天へお詣り。
その後、山本邸へ。ここはカメラ部品であてた山本栄之助という人のお屋敷だったそうな。立派な広間や、日本庭園がある趣深い所。それから寅さん記念館で、男はつらいよの歴史的名画のマドンナを愛でた。私がいちばんカワイイと思ったのは榊原ルミの寅さん、純情編だったと思う。駅の階段をみかんを抱えて、故郷津軽へ帰るルミちゃんに涙したものだった。そんな感傷もとらやのだんごとビールで笑顔に変わり、「ビールにだんごは合うね」と言って、次の金町のうなぎ屋に線路沿いを急ぎ足で歩いていくのであった。

      
    写真左・寅さんこんにちは           写真右・山本邸の庭

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11月

11月30日 海外、思い出のドライブ旅・イギリス  アガサクリスティの世界

今回はドライブ旅の直前に行ったイギリスの街の話。場所はアガサクリスティの生まれ故郷、デヴォン州のトーキー、イギリス南西部の避寒地リゾートだ。羽田からの直行便でロンドンヒースロー空港へ、そこからハイウェイバスでトーキーへ直行した。夜中のバス停にはタクシーもなく、立ち往生。持っていたコインでホテルへ電話して、タクシーを呼んでもらった。
ここはアガサクリスティの生まれた町でもあり、数多くのアガサミステリの舞台になった町でもある。アガサの大フアンである妻の久恋の町でもある。この町と周辺の旅はバスや蒸気機関車、歩きで廻った。そしてここでレンタカーを借りて、コッツウォルズ、湖水地方、スコットランドへドライブの旅に出かけた。そのドライブ紀行は次号で。

      
   写真左・インペリアホテルの朝食     写真右・アガサクリスティの銅像と

 

目覚めてみると、窓の外にはドーバー海峡が広がっている。アガサクリスティの故郷は海の町なのだ。今日はアガサクリスティの終の棲家となったグリーンウェイに行くことにしていた。フロントで行き方とバスの乗り場を教えてもらい、海岸通りに下っていった。周りにはヨットクラブやフィッシュ&チップスの店などがある。バス停のそばにはATMもあって、100ポンド、クレジットカードで引き出した。蒸気機関車の走るペイントンまで行くバスに乗った。ペイントンの町はトーキーとほとんど切れ目なく続いて、クラシックな建物が多い港町。ここからチャーストンまでは蒸気機関車の軽便鉄道に乗り、そこからシャトルバスでグリーンウェイ入り口へ着いた。グリーンウェイは入り江沿いにあるアガサクリスティが二番目の考古学者の夫と夏の別荘として使っていた建物だが広大な敷地の中にある。今はナショナルトラストが管理している。
バスを下り、入場券を買って敷地内に入るが、建物は数百メートル先、「死者のあやまち」の中では建物前の芝生の庭でフェスティバルのような催しをやったと書いているが、芝生はあるもののすぐに傾斜となって森に続いているので、この庭で祭りのようなことはできないと感じた。中は博物館になっていた。芝生を通り越し、森へ入って、ボート小屋へ行った。入り江の船着き場で、アガサの時代には訪問者はみなここから来たようだ。ボート小屋も現存していた。小説ではこの中に少女の死体があったのだ。しばし物語を思い出しながら、グリーンウェイの自然を楽しんだ。帰りのバス時刻が近づいたので、再びバス停への道を戻る。
バスで戻ったチャーストンの駅には帰りの客がいっぱい。来た列車もいっぱいだが何とか二人座れた。車窓から左に別荘とおぼしき建物群、右手はドーバー海峡、昔も今もこの辺りは避寒リゾートらしい。列車からバスに乗り換えて、トーキーの町に戻ってきた。帰りは少し手前で下りて、明後日から借りるレンタカー屋の場所を確認し、アガサクリスティが結婚式をあげたグランドホテルの前を通って、フィッシュ&チップスの店に入ってバドワイザーを飲みながら、夕食代わりとした。

      
   写真左・グリーンウェイ入り口       写真右・グリーンウェイの館前で

 

朝起きるとイギリスには珍しい青空が広がっている。トーキーの町探索に出かけた。アガサクリスティの胸像が立つパビリオンへ行き、町の博物館へ。ここにはアガサグッズが売っているということで妻は楽しみにしていた。建物の前に来ると静か、まだ閉まっている。案内板を見ると、日曜休館となっているではないか。今日は日曜日、こんなに町に繰り出す人が多いのに休むとは?イギリスらしい。アガサクリスティが生まれた家の一角に行ってみることにする。もう家はないが、「生誕の地」のパネルがあるという。
途中、修道院跡地のトア・アビーに入場料を払って入ったら、庭園に入るとアガサクリスティ植物園というのがあった。これはこれはと見ると、すべて毒草である。トリカブトの花が咲いている。アガサは若い時、ここで負傷兵士の治療にあたったことがある。第一次大戦の時代だ。そこで治療薬にもなる毒草の知識を仕入れたらしい。この経験は、その後の作家生活に生かされた。物語に出てくる幾種もの毒草で何人を殺したことか。それを記念しての植物園らしい。アガサの生家跡地はトーキー駅からの線路沿いの坂道を上がり高台に出るストリート沿いにあった。そこから陽に輝く海が見える。まだ飛行機が一般的でない時代、トーキーは避寒地として名高く、おおぜいの客が来た。イギリスのリヴィエラと言われる由縁である。今は本場のリヴィエラに行けない爺ちゃんばあちゃんがここに集まってくる。泊っているインペリアルホテルも駅前のグランドホテルも、避寒地として全盛だった時代に建てられた。そしてそこに集う人を題材にして、「エンドハウスの怪事件」、「書斎の死体」などの推理小説が生まれたのだ。私たちは今、そんな物語の中を歩いていたのだった。

      
     写真左・毒草植物園     写真右・アガサクリスティの生家跡の記念碑と
  

11月25日 明治神宮野球大会

大学野球の年の締めは、明治神宮野球大会、東京六大学や東都大学など、全国の地区で秋に優勝を決めた大学で明治神宮杯を争う今年最後の大会だ。六大学代表は秋のリーグ戦覇者・慶応、宿敵ではあるが、応援に行った。決勝まで進み、千葉の中央学院大学との一戦、聞いたこともない大学だし、楽勝と思っていた。出だしは初回、2回と2点ずつ上げ、毎回得点も、と期待したが、その後、じわりじわりと追いつかれ、6回には5点もとられて逆転された。9−5になったところで、勝負ありと思い、帰った。その後、がんばったが結果9−8の惜敗、中央学院大の主将は「慶応に勝った」と大喜びだったとか。
大学の試合前には、高校の大会があり、大阪桐蔭高校が優勝した。相手は広島の広陵高校だった。こちらは名門高校同士の戦いだった。大阪ではテレビ中継をやるらしく、球場外になにわナンバーの朝日放送の中継車が2台も並んでいたのには驚いた。系列の東京のテレビ朝日は関東では中継しないので、協力しなかったのか?

          
    写真左・明治神宮野球大会        写真右・朝日放送の中継車
  

11月19日 飛鳥山・荒川車庫

荒川車庫近くの飲み屋で今年のキノコ狩り打上げをやるというので、都電に乗って出かけた。その前に途中の飛鳥山で下りて、渋沢栄一邸を見たいと思った。春は桜の名所となる飛鳥山の小高い所に屋敷は作られたがほとんどが戦災で消失、コンクリート造りの青渕文庫と晩香炉の小さな建物が残ってるだけで、外国の賓客をもてなした本宅は庭園だけになってしまった。しかし広大な屋敷が偲ばれる。渋沢が創業した王子製紙の工場が眼下に見下ろされ、故郷の深谷にも近い、東京のこの地は渋沢にとっては最適の場所だったのだろう。ここで大往生を遂げたのだ。

      
    写真左・渋沢家青淵文庫         写真右・渋沢家晩香炉別荘
  

11月19日 都電は昭和ロマン満載

東京に残る唯一の都電、早稲田から三ノ輪まで12キロに30の停留場がある。トコトコと走る電車はバスよりのろい。しかし他の乗り物にはない味がある。次から次へと出てくる小さな停留場、その名前がいかにも古く、なつかしい。早稲田を出るとすぐに「面影橋」そして「学習院下」、女学生の面影を追う早稲田の学生の姿を彷彿とさせる。続いて「鬼子母神」、「雑司ヶ谷」、「庚申塚」、「巣鴨新田」など、昭和の香りあふれる駅名が続くのだ。今は家々で密集した中にある「巣鴨新田」は、ここが田んぼばっかりだった頃を偲ばせる。まさに昭和ロマンがぎっしりつまった都電なのだ。東京トラムが正式名称らしいが、やはりこれは「都電」である。

   
     真左・懐かしき都電         写真右・荒川車庫での飲み会
  

11月18日 2年ぶりの10人宴会

一昨年の暮れに集まった10人、昔、いろいろな業種の会社のオフィスなど施設の使い方を学ぶ集まりのOB会が解散後も毎年催されていた。去年はコロナで流れた。ようやく落ち着いてきた今、やろうではないかと2年ぶりに開かれた。当時、マクドナルドにいた坂口さんも定年で居酒屋チェーンの大庄にいる。
新宿西口会館(今はパレットビルと言うらしい)の大庄に10人が集まった。みんな、2年ぶりの大宴会である。まだ東京都は飲み会は4名以下とのガイドラインが残っていたらしいが、みんなそんなことは知らない。隣で警察の集まりもやっている。そんな訳で大いに盛り上がる。坂口さんがくじ引きまで用意してきてくれて、私は大庄チェーンの高級ベーカリーの大きな食パンが当たった。家で食べたら、とてもおいしく、女房は大喜び。「いまどき、宴会をやるなんて!」と怒っていた妻もコロッと変わる2年ぶりの宴会だった。

      
     写真左・まずは乾杯        写真右・新宿西口会館(パレットビル)
  

11月14日 御柱への準備始まる

蓼科からの帰り道、八ヶ岳農園への道を走った。農場の横の空き地に何やら丸太が並べられている。一度は行き過ぎたが戻って見ると、8本の長さ30mくらいの丸太が横になっていて、一本一本に「一の御柱」、「二の御柱」…と名札が立てられている。来年春の御柱祭りに使う丸太が既に用意されているのだ。茅野と諏訪の境にある諏訪大社上社の御柱はここ八ヶ岳農園が出発場所だ。もう既に山から切り出したのだ。
八ヶ岳の前山に御柱山というのがあり、ここから切り出される。しかし1959年の伊勢湾台風の直撃で御柱山の大木はなぎ倒されてしまい、その後の御柱祭の御柱は蓼科山の裏からや、伊那の森から調達してきた。60年経った今、ようやく当時残っていた若木が御柱に使えるだけの大きさに育ち、来年の祭りには60年ぶりの地元産が復活するのだ。蓼科に住み、御柱にかける地元の人の情熱と想いをわかるようになった今、氏子の喜びはひとしおのことだろう。来春の御柱祭りが楽しみだ。

      
     写真左・来年の御柱           写真右・上社一の御柱
 

11月10−12日 上高地は雪模様

ここ3年ばかりこの季節、閉山直前の上高地に妻と行くのが恒例になっている。15日で上高地は閉じられバスもタクシーも入れなくなる。ホテルも冬季休業にはいる。その直前の宿は空いているし、タイミングが会えば落葉と新雪の山の美しい景色に遭遇するのだ。ルミエスタホテルが妻のお気に入り。昔の清水屋だ。温泉ホテルとともに明治時代からの湯元宿で、日本アルプスを世界に紹介したウォルター・ウェストンの定宿でもあった。露天風呂もあり、冬まじかの山を見上げながらの温泉もまたよい。今年は雪まじりの温泉となった。これまでは行った日は寒く、穂高には雪雲がかかっていて、翌朝は快晴、雪の穂高と落葉の上高地のすばらしい景色が楽しめた。しかし今年は、沢渡でバスに乗り換えた時から時雨模様だった。その中 、帝国ホテル前のバス停からルミエスタホテルまでの歩きは寒かった。翌日はうっすらと雪が舞い、その中を明神池までハイキング。もう明神館も閉まり、神社前の休憩所で寒さを凌いですぐに河童橋へ帰ってきた。温かいラーメンが食べたく、バス駐車場の食堂に駆け込み暖をとった。
2泊目のホテルの夕食に和風フレンチを頼んでおいた。これも恒例なのだ。今年の皿はほとんどフレンチ的ではなく、純和食に近かった。最後に蕎麦も出た。これはこれでとてもおいしかった。帰り道の帝国ホテル前までも雪が降りしきる中を歩いた。晴れはしなかったが雪模様の初冬の上高地もよかった。また来年も来たいものだ。

      
   写真左・雪のルミエスタホテル       写真右・フレンチ風おそば
  

11月2日 今年最後の八子ヶ峰

山荘の上の八子ヶ峰は私のトレーニングコースだが、9月の北アルプスでバテて以来、歩くのが億劫になりずっと登らなかった。しかし今年の締めには「登っておかないと」と、よく晴れた今日、重い腰を上げた。いつもの東登山口から森の急登に挑んだ。苦しいことは苦しいが、そんなに息遣いも乱れず、蓼科湖への分岐点まで登りきった。コースタイムはほぼ標準、夏の縦走の効果があるのだろうか?そんなに疲れた感じもない。
アルビレオヒュッテを越え、東峰頂上も越え2in1のスキー場上も順調に通過、西峰頂上を過ぎた森のあたりでハーベストから上がってきた夫婦に会う。「頂上はまだ遠いのですか?」、「もうひと息ですよ」と会話を交わして西口駐車場へ下った。空は青く、途中では紅葉がまだ残っている木とその向こうの八ヶ岳連峰の写真も撮った。車に戻ってきたのは歩き始めてから2時間40分後、2時間半が標準タイムだからほぼ標準といえる。「まだ歩けるぞ」を実感した今シーズン締めの八子ヶ峰となった。

      
   写真左・紅葉の木と八ヶ岳遠望        写真右・晩秋の蓼科山
  

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10月

10月31日 海外、思い出のドライブ旅・スイス マルティーニからサンベルナール峠へ

スイスからイタリアに抜けるには、峠を越えなければならない。アルプスの山越えである。今はたいていトンネルで抜けるが、中には昔からの山越えの道もある。シャモニーからスイスに入るとマルティーニという小さな町があり、そこからサンベルナール峠を越えて、イタリアのアオスタに出る。標高2000mを越すサンベルナール峠はセントバーナード犬で有名な峠だ。遭難した人を見つけ、首につけていた瓶から、気付薬のワインを含ませて助け、峠の修道院に連れて行くという物語は、小さい頃読んだ絵本に描かれていた。その物語に出てくる峠なのだ。

      
    写真左・マルティーニの街       写真右・サンベルナール峠の風景

 

シャモニーはフランスだが、次のマルティーニの町はスイスになる。この町は以前、スキーでヴェルビエに行ったとき、立ち寄ったことがある。山の中の小さな町だが、モネ、ドガ、ルノアールなどの名画が数多く展示されている美術館がある。またローマ時代の劇場などの遺跡もあり、印象深かった。しかし、美術館ではロダン展などやっていて、あの名画は今は展示されていなかった。ローマ遺跡の劇場跡も何かフェスティバルでもやるらしく、入れなかった。セントバーナード博物館は、以前来た時は冬で,はく製の犬が展示されていただけだったが、今回は本物のセントバーナード犬、それも親犬から子犬までいっぱいいた。明日、向かうサンベルナール峠で、冬の道で遭難した人に首に下げた酒を与え、気付をし、峠の修道院の避難所に案内したという犬なのだ。救助犬で、とても大きい。見るとこわいが、おとなしい性格で人が近づいても吠えない。妻は並んで記念撮影をした。

      
  写真左・セントバーナード犬の親子    写真右・おとなしいセントバーナード犬
  

救護犬で有名なサンベルナール峠はスイスとイタリアの国境にある。標高2400mの高地だ。ここに修道院があり、ホスピスという巡礼者や旅人の休憩所がある。今はガン患者など、死を目前にした人の身体的ならびに感情的な苦しみを緩和する目的でつくられた療養所や病院もホスピスというが、昔は遭難した旅人の救護所でもあった。セントバーナード犬は遭難者を発見し、気付薬の酒を飲ませ、このホスピスまで連れてくる役目だった。修道院には礼拝所があり、参拝に行こうとして、入り口の透明なガラスにおでこと右ひざをしたたかぶつけ、しばらく膝の痛みが残っていた。このサンベルナール峠のホスピスは今、オーベルジュ・ホスピスの名でホテルになっていた。夕食も提供するホスピスだ。部屋もきれいで、窓からの眺めも国境の湖越しにイタリアの建物が見えて美しい。酷暑だったシャモニーやマルティーニから来た我々にとっては極楽の場所だ。セーターを着ないと寒い。夕食のミネストローネスープは上品な味でおいしかった。ひざの痛みとともに、この旅でいちばん印象に残る場所となった。

      
  写真左・修道院(右)とホスピスホテルは      写真右・峠の修道院
       橋で連結
 

10月31日 ああ無情・雨の早慶戦

慶応が引き分け以上で優勝、早稲田が勝てば優勝がかかった最終戦、昨日は予想に反して早稲田が逆転勝利。勢いづいている早稲田有利とにらんで、蓼科行きを一日遅らせて、神宮に行った。試合前の応援合戦が楽しい。どんよりした空だったが、雨が降り始め、開始直前には結構、降って来た。そんな中で試合は始まった。初回にヒットが続き、早稲田が3点先取、この調子で行ってくれと期待したが、エース徳山の調子は今ひとつ、毎回のようにヒットを打たれ、5回に1点、7回にとうとう追いつかれて、同点になってしまった。ここで席を立った。2回以降の早稲田はまったく打てず、挽回不可と判断した。結果は引き分けで慶応の優勝だった。そのシーンは見たくなかった。ああ無情である。しかし開幕の立教戦で連敗し、優勝なしと思ったときから、ここまで挽回したことを考えると、「よくやった」とも言える。来年に期待しよう。

      
     写真左・ワセダの応援          写真右・ケイオーの応援
  

10月30日 日野稲門会美術展

衆議院選挙の期日前投票に市役所まで妻と行った。隣の市民会館で、今日まで日野稲門会の美術展をやっているというので、そちらも覗いてみることにした。スキーで一緒だった永山さんの写真もあるというのがきっかけだ。永山さんは今年の冬に亡くなった。いつもの稲門会スキーがコロナで中止になり、会えないまま永遠の別れとなったので、とても残念だった。せめて遺作を見て、永山さんを偲びたかった。いつも話していた、浅川のカワセミの飛び立つ写真が永山さんの日ごろの活動を表していた。ペルーのマチュピチュ遺跡の写真もあったが、ここに旅したという話は聞いていなかったので、晩年の旅行のものではなかろうか。元気でスキーに、野鳥観察に、旅行にと動き回っていた頃を充分推察できる写真ばかりだった。

      
   写真左・日野稲門会の美術展       写真右・故永山さんの遺作
  

10月27日 渋沢栄一の生家

蓼科からの帰りに、信越道経由で深谷の渋沢栄一記念館に行くことにした。先週、日野の自宅から行ったが、予約制で入れなかったので、再度の訪問だ。こんどは予約時間の1時間前に着いた。アンドロイドの渋沢栄一像の話を聞くというのが、予約制なのだった。士農工商の時代に、経済の重要性を、パリ万博で学び、帰国後は経済の面から、身分制を壊していった。士農工商を打破した明治初期の偉人だ。記念館から小川沿いに歩くこと10分余で血洗島の中屋(なかんち)の実家に着いた。ここが英一が生まれ育った家だ。大きな屋敷で、養蚕農家の豪農だったことがわかる。大河ドラマの影響で、おおぜいの観光客でにぎわっていた。観光バスも来ていた。となりにうどん屋があり、名物の煮ぼうとうを食べた。しょうゆ味でとてもおいしい。甲州のほうとうよりのど越しがよい。英一は功成り名を遂げたあとでも、帰郷すると煮ぼうとうを所望したそうだ。これなら家の人も気遣いなく用意できる食事なのだ。これは英一の「いらぬ気をつかわないように」との配慮のようだった。

      
     真左・渋沢栄一の生家       写真右・渋沢栄一翁アンドロイド
  

10月24日 採ったなめこでキノコ鍋

奥志賀のブルーエは雪に包まれていたが、秋山郷に下りて行く奥志賀林道に入ると、下るに従い、雪は無くなって行った。標高が低くなると雨だったようだ。吉田さんとブルーエの幸ちゃんと一緒に、雨上がりの森の中を、枯れかかったブナの老木を探し求めた。ブナハリタケはブナの枯れ木に繁殖するからだ。このキノコ採りには竿や網が必要なのだ。背の高い笹薮を漕いで、森の中を進むが、キノコの生えたブナの木がない。あきらめかけて、藪に倒れている老木を見ると、こけの中に、なめこのようなものが見える。近づいて見ると木の上になめこだ。倒れている木の横にはえたコケをめくるとそこに大量の大小のなめこがびっしり、みんなを呼び、なめこ採りとなった。とても新鮮で、形もよい。ブナハリタケは無かったが、これで満足。昼食の帰り道に、ちょいと入ってみた奥志賀牧場への道で、ヤナギマツタケを発見、見るだけにしてブルーエへ帰って来た。午後、昼食後に再び、牧場への道に。左側にあったヤナギマツタケをまず収穫。右側にあったもっと立派なものを探したが、見当たらない。他にもたくさん見つけたので、それを収穫して回った。庇の雪かき用に三輪さんが買った三段の雪かき棒が大活躍、延ばすと3m以上になるので、かなり高い所のキノコも捕れるのだ。使うときは三段にアルミ棒をつなぎ、終わるとはずして車の中へ。移動しながら、キノコ発見のたびにこれを繰り返すのだから大忙し。それでも収穫する喜びがあるので苦にならない。最初に見つけたものは、結局再発見できず。それでも大収穫で、夕食はナメコとヤナギマツタケで豪華なきのこ鍋となった。

      
     写真左・なめこびっしり       写真右・採ったきのこで鍋いっぱい
  

10月23日 思いがけぬ雪の中、奥志賀へ

夕べからの雨で、山の上は雪になった。よく晴れた朝、奥志賀へキノコ狩りに出かけた。ただ夕べの天気予報では志賀高原も雪の予報だった。白樺湖へ向かう途中、蓼科山は頂上へ行くに従い、真っ白、ツーインワンスキー場の上の八子ヶ峰の木々も霧氷で真っ白だった。丸子から真田へ抜けるに従い、青空は曇りはじめ、菅平では雨になっていた。この辺から西高東低の冬型になるらしい。須坂へ下り、湯田中駅で吉田さんをピックアップして、志賀高原へ。上るに従い、道路脇に雪がかかっている。丸池あたりからは真っ白だ。蓮池で大勝軒へ、今日は温かいラーメンにした。吉田さんがおごってくれた。おいしい。ジャイアントのトンネル入り口あたりで、少しスリップした。進むに従い、道路にも雪、まだ除雪車は稼働していないので、ワダチの中を車が走っていく感じだ。高天原、一ノ瀬へ進むに従い、積雪という感じ。両方のゲレンデはリフトが動けば、滑れる感じだ。焼額も真っ白、奥志賀はさらに白く、ブルーエの庇からは雪が落ちて、30センチくらい積もっていた。これはもう冬だ。キノコ狩りはできるのか?

      
     写真左・八子ヶ峰は霧氷         写真右・奥志賀は積雪
  

10月17日 本庄早稲田へ

このところ、NHKの「晴天を衝け」を見ているうちに渋沢栄一の故郷に行ってみたくなった。ちょうど故郷・深谷の隣に早稲田本庄ミュージアムがあり、ここで「大隈重信と渋沢栄一展」をやっているというので、両方、行ってみることにした。休日のため、関越道が混んでいて、渋沢栄一記念館についたのが昼過ぎで予約なしでは入れないとのこと。本庄に行くことにした。早稲田本庄は、新幹線・本庄早稲田駅のすぐ隣、というより早稲田大学の敷地に駅ができたので、土地を提供する代わりに駅名に早稲田を入れてもらったという。大隈と渋沢の展示物は書面ばかりで面白くない、と、掲示を見ると「本庄早稲田ミュージアム開館一周年記念講演”近藤二郎先生”」とあるではないか。近藤先生は岳文の後輩、岳文会会長でもある。これは聞かねばなるまい。聞くと、講演会場はミュージアムでなく、市民会館だという。あわてて車を市民会館に向けた。本庄市と早稲田の共催の講演会なのだ。そこそこの客が入って、近藤君、早稲田のエジプト考古学の歩みをやさしく説明してくれた。最初の調査のとき、彼はまだ大学生になっていないので、行ってはいないが、吉村作治先生がトヨタからジープの寄贈を受け、それを長いこと使い続け、彼も運転したことがあるが、クラッチがつるつるになって非常にこわかったとか、ナンバーが練馬ナンバーのまま10年以上経ってもそのまま使い続けていたという話がいちばん面白かった。

         
    写真左・本庄早稲田校舎         写真右・岳文OB近藤先生講演
  

10月10日 ヤナギマツタケ

蓼科でのキノコ狩り、昨日の午後、八子ヶ峰西頂上に続く尾根を歩いたが、何もなかった。今年はマツタケは豊作らしいが、このところ夏のような暑さが続き、キノコは育たなかったらしい。そこで今日は、八子ヶ峰東登山口に行ってみた。ここには沢が流れ、柳の木がたくさん生えている。その木にきのこが貼りつくのだ。ヤナギマツタケという。マツタケに形が似ているというが、そうかな?かなり大きい傘で、ハナイグチの大きいものに似ている方が近い。去年、いっぱい採ったので、今年もと思ったら、去年の木には何もない。採り過ぎてしまったのだろうか。探すことしばらく、去年はついてなかった柳の木にあった。その奥の木にもあった。量は去年ほどではないが、そこそこある。4号線に住んでいるチェンさんに電話して、来てもらった。以前、散歩しているとき会って、「キノコ狩りに誘う」と話していたからだ。ここを逃すと、他では見つけられそうもない。車で来たチェンさんは、木の上に棒と網を伸ばしてのキノコ狩りにびっくりしていた。とりやすい木を見つけ、やってもらった。形のよさそうなキノコを数個、えり分けて、持ち帰ってもらった。責任を果たしてほっとした。

           
   写真左・ヤナギマツタケときのこ博士      写真右・ハタケシメジ
  

10月8日 今年の紅葉

まだ高原には夏の暑さが残っているが、樹々の彩りは秋になってきた。標高の高い麦草峠あたりのカラマツは黄色くなっている。わが家の玄関前のカラマツにからみついているツタの葉は真っ赤に色づいた。季節は着実に秋に入ってきていることを実感する。ニュースでは涸沢の紅葉を伝え、この秋はナナカマドの赤が濃く、とてもきれいな紅葉の景色になっているという。先月、北アルプスを歩いたとき、三俣蓮華の近くで見たナナカマドの実が真っ赤だった。これがきれいな赤を生み出す要素だったのだろうか。よくわからないが、きれいな紅葉に越したことはない。美しい季節の蓼科高原での時間は至福のひとときである。

         
     写真左・ 麦草峠近くで           写真右・玄関脇の紅葉
  

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9 月

9月30日 海外、思い出のドライブ旅・イタリアドロミテ サン・マッダレーナでのハイキング

今日からいよいよトレッキング開始だ。ハイキングと言ってもよいそれほどきつくないコースを歩こう。サン・マッデレーナの村から奥のバスの終点ザンスまで車で行き、そこから歩こう。しばらく林道を進むと、緑がまぶしいアルムが広がってきた。アルムの経営には機動力も必要な時代なので、たいていアルムの拠点まで車が通る道が続き、そこからまた山道に入り、花咲きみだれる草原を歩く。
上のシュラッターヒュッテへ行く人も多い。我々はその道に行かず、ギャンペンアルムへの道を取った。カイザーリルアルムから30分くらいしか歩いていないので、まだ昼には早く、小休止して、ドロミテの岩峰を背にしてザンスへの林道を下った。初日の歩きは軽やかなアルムの逍遙となった。そんな林道を歩き、途中から山道になった。徐々に険しくなった頃、カイザーリルアルムの屋根が見えた。昼にはまだ早いので、私はミルク、妻は紅茶を頼んだ。そこからまた山道に入り、花咲きみだれる草原を歩く。上のシュラッターヒュッテへ行く人も多い。我々はその道に行かず、ギャンペンアルムへの道を取った。カイザーリルアルムから30分くらいしか歩いていないので、まだ昼には早く、小休止して、ドロミテの岩峰を背にしてザンスへの林道を下った。初日の歩きは軽やかなアルムの逍遙となった。

      
     写真左・アルムへの道         写真右・快適なハイキング

 

目の前のドロミテ岩峰の向こうにはガルデナの谷間がある。そこからロープウェイで上がり、岩峰のコルを越えたり、山脈の横の草原を通ってサンマッデレーナの村へ下りてくるトレッキングコースがある。ここを歩くには、ガルデナのオリティッセイまでバスで行く必要がある。パンフレットによると9時発のワンダーバスという直行便がある。これに乗るべく、15分前にバス停に行った。しかし9時になってもバスは来ない。待つこと30分、何があったがわからないが、今日は中止。
宿に帰ってオジサンに聞くが、ドイツ語でわからず、明日朝、娘に聞いてくれと言う。そこで近くのハイキングコースに行くことにした。サンマッダレーナのもう一つの教会の横を通り、アルムへの砂利道を登っていく。これが結構長い。急な勾配もあり、妻は次第に無口になり、遅れが目立つようになった。ほとんど森の中なので見晴らしもよくない。最後の上り道は私も辛くなるほど。やっと着いたゲイスラーアルムの前にドロミテの大きな岩山が迫っていた。宿の窓から眺める景色をさらに目の前に突きつけられた感じだ。ここで昼食を摂り、同じ道を戻るつもりだったが、前方の岩山に向かう尾根にも道がある。地図によると、その尾根を越えると、谷間に下り、岩山沿いに行くと、サンマデレーナへ下りる道があることがわかった。もっとドロミテの岩壁沿いに歩こうと、迷わずその道に入った。尾根までは苦しかったが、そこを越えると、急な下りで岩壁に近いコースに出た。迫力満点の岩山が迫る。岩に取り付くための横道と目印のケルンがいくつもある。途中で「地図を見せてくれ」というカップルに会い、お互いにコースの確認をしたりしながら、麓へつながる下りに入り、サンマッデレーナに帰ってきた。

      
    写真左・アルムのヒュッテ        写真右・こんな景色が広がる
  

夕方5時過ぎに、教会からその展望台への道を歩いた。夕日の村と教会がいちばん綺麗と聞いていたから。教会の墓地にメスナー家の墓がふたつあった。どちらかがあのレインホルト・メスナーの家のものではないだろうか?最初の日に来た展望台へ上がっていく。教会に夕暮れの陽があたり、ガイスラー山系の岩山も明るく輝き、まさに絵葉書の中の光景が目の前にある。この時間帯がいちばん明るいような気がする。展望台のベンチに妻と座り、夕暮れの変化していく教会と村の風景を7時近くまで楽しんだ。ほんとうに美しく、清らかで静かな村だった。

      
   写真左・毎日が絵画の中を歩く       写真右・昼はヒュッテで休む
 

昨日来なかったワンダーバスについて英語のわかる宿の娘さんに聞いたら、毎週水曜だけ運行のバスだった。今日が水曜日。あわてて行くことにした。妻は二日前からのギックリ腰が芳しくなく、今日は宿で休んでいると言う。私ひとりで行くことにした。 バスは途中で何人も乗せて、ほぼ満杯でガルデナ渓谷のオルティッセイに着いた。ラショッツ行きとセチューダ行きの二つのケーブルがある。バスの中でラショッツ行きの切符を買っていたので、迷わずラショッツケーブルに乗り込んだ。高尾山と同じ、上り下り同時発車のケーブルカーだ。一気に上がると、そこから長い草原の道が始まった。
ブログレス小屋は見えない。車山から霧ヶ峰に続くような草原を歩く。後にサッソルンゴ、前方にガイスラー山脈、ほとんど登り下りがない道だ。石畳の道を整備しているオジイサンに会った。ひとりで大きな石を梃子で動かしている。かなりの年配と見受けたが大変なことだ。「グリュースゴッド」と挨拶した。にっこりと会釈してくれた。ブログレス小屋の草原で持ってきたお菓子とお茶で簡単に昼食を済まし、フネスの谷の下りにかかった。ここを歩いた日本人のブログによると「急な道で、岩がゴロゴロ、歩きにくい。膝がガクガクした」とあったので覚悟したが、それほど急でもなく、ゴロゴロしておらず、至って歩きやすい。北アルプスの笠新道やブナ立尾根の下りの方がよっぽど険しい。たぶん書いた人は山の経験が少ない人ではないか。彼が2時間かかったという道を1時間強でサンマッダレーナの村に着いた。妻が待っていることも大幅な時間短縮につながったのだろうか?

      
     写真左・登山路工事中         写真右・眼前に岩山が...
 

9月4−10日 北アルプス,i一週間の山旅

2017年に行こうとして、森さんが、三俣蓮華でギブアップした、雲の平、高天原へもう一度チャレンジすることにした。今回は富山から入り、雲の平、高天原、そして双六へ抜けて、新穂高に下りてくる、という前回の逆コースにした。後期高齢者にとって、一週間の山旅は長いし、これが最後の縦走になるだろうとの覚悟だ。そして実際はきつかった。毎日バテてやっと歩き通したという感じだった。もう前回から4年経っていて、この間の体の衰えは相当進んでいることを実感した。それでも高天原の温泉に浸ると、疲れがとれたような気がしたが、また歩き始めるとつらいのだった。それでも何とか歩き通すことができた。折立ー太郎平ー薬師沢ー雲の平ー高天原ー岩苔乗越ー三俣山荘ー双六小屋ー新穂高のコースは結婚して間もなく、妻と歩いたコースでもある。

      
     写真左・朝は快調           写真右・鷲羽岳を望む
  

9月4日 まずは富山へ

朝、起きた時、暗くてまだ早朝かと思ったが、時計を見ると8時、外は雨も降っていて、どんよりと暗い。こんな日に出かけたくないなと思ったが、今日は富山まで行かねばならない。北アルプス縦走の初日なのだ。天気予報ではだんだん晴れて、三日目、四日目は晴天、その後は天気サイトによって、腫れが続くのと雨に変わるのと正反対だ。行く身にとって、良い方に期待する。昼近くの茅野駅行きの連絡バスを待つ頃には、晴れ間も覗きだした。駅で、長野からの北陸新幹線の切符を一便早めてもらい、松本まであずさを利用することにした。乗ってびっくりしたのは、茅野を出ると松本までノンストップだった。上諏訪も、岡谷も、塩尻も通過する。悔しいだろうな、これらの町は、茅野に負けたとあっては。実は茅野市は諏訪圏で最大の都市なのだ。長野でサンドイッチとビールを買って、新幹線へ。遅い昼飯しを実りの北信と上越の田んばを見ながら味わう。
富山には夕方5時頃到着、駅そばの地鉄ホテルのロビーで森さん夫妻、山内君と落ち合った。富山は非常事態対象地域で、店で酒が飲めない。地鉄ビル地下のスーパーで、今夜と明日の弁当を調達し、酒も買い、山内君の部屋でささやかな宴会。明日は早いので、8時にはベッドに入った。いよいよ明日から北アルプスの山旅が始まる。

      
     写真左・北陸新幹線          写真右・折立行きバス
  

9月5日 太郎平へ登る

朝6:10の折立行きのバスに乗った。少ないのでは?と思っていたが、そこそこ乗っている。やはり登山を自粛できない人は多いのだ。2時間ほどで、折立着。ここから1週間の山歩きが始まる。まずは愛知大遭難碑に手を合わせて、登り開始。太郎平まではたいしたことない記憶だが、それなりの登りが延々と続く。森さんは大丈夫そうだ。奥さんは健脚なので、心配ない。先週、表銀座から常念へ歩いたという。三角点に着いて大休止、この先から、森林限界を越え、草付きの尾根道を歩く。途中から木道歩きになり、傾斜がきつい所は階段になっている。これが長く、息切れしてきた頃に、太郎平小屋が見えてきた。何年ぶりだろう?数年前に歩いたときは、岳文の後輩に薬師沢への下りで、「小田さんじゃありませんか」と声をかけられたことを思い出す。小屋に着き、まずは生ビールで乾杯!ここも富山市だが、山ではアルコール提供禁止ではなかった。

      
      真左・折立登山口            写真右・太郎平
  

9月6日 雲の平への急登

朝6時半に歩き始めた。天気は良い。薬師沢までは下り一方だ。歩き始めてすぐ、無性に腹が減ってきた。シャリバテ状態になっている。最初の沢の休憩で、昼食用に小屋でもらったおにぎり1ヶを食べ、3ケ持ってきたエナジイドリンクも1本飲んだ。それでも空いた状態だが、小屋までがまんすることにした。ケベッケが原を過ぎ、薬師沢の音が大きくなったとき、小屋に着いた。ここでもおにぎりを食べ、いっぱい水を飲んだ。こんな状態はバテている証拠だ。薬師沢の吊り橋を渡って、大東新道への分岐点から雲の平への急登に取りついた。何せ急だ。少し歩いては大きく息をつく。20分ほど歩いて、ギブアップ、「休ませてくれ」と言って、へたり込んだ。トップを山内君に代わってもらい、森さんの後ろについて最後尾で歩くことにした。これが効を奏して、バテながらも歩くことができた。森さんは遅いし、時々、登り方をまちがえ、難しい道を選んでしまい、立往生するのでそのたびに休めるのだ。それにしてもこの急坂は何だ!道も急だが、大きな岩が立ちはだかり、越えるのに苦労する。薬師沢から高低差300m上がるというが、ほとんど直線的に登っていく。結婚した当初に、妻とここを登ったことがあるのだが、私はまったく記憶がない。妻に言わせると、これで山がいやになったそうだ。距離は短いが、北アルプスでいちばんの急坂と言ってもよいのではなかろうか。喘ぎながら登る。晴れていた空に雷が鳴り、雨が降って来た。雨具を着け、スパッツも履いて、完全防備体制で再び登った。森の上に空が見えるので、「もう少し」と思うのだが、なかなか上に出ない。そんな悪戦苦闘が続いて、木道が現れたときには歓声をあげた。ようやく雲の平の入り口に着いたのだ。木道を行くと、ギリシャ庭園の標識が出てきて、木道沿いに休憩できるスペースがあった。ここで、最後のおにぎりを食べ、もう1本エナジイドリンクを飲んで元気をつけた。まだここから小屋までは1時間以上かかるが、時々、森越しに山荘が見えるようになった。あそこまでと力を振り絞ってがんばった。森さんの奥さんにとっては久恋の雲の平なのだ。4年前、三俣蓮華小屋まで来て、ご主人の疲れで断念した思い出が蘇る。「主人ひとり残しては行けません」とご主人と戻っていった。今回は夫婦ともども到着したのだ。みんなで呑む酒はおいしかった。

      
    写真左・急登をやっと越えて      写真右・ 雲の平山荘へやっと到着
  

9月7日 高天原への下り道、そして温泉

今日も良い天気だ。冷え込んだので、木道は霜に覆われて真っ白だ。出発前にひとりでスイス庭園へ行ってみた。崖の先端に来ると、左奥下の草原の端にこれから行く高天原山荘が見えた。明後日通る水晶池も大きく下に見える。私はこの景色が好きだ。高天原への道に入り、しばらく上り、下りに入った。以前は奥スイス庭園という所を下って行った記憶があるが、今は森のう回路のような道に入り、しばらくして木道で見覚えのある草原に再び出た。そこは階段状になっていて、腰かけ、立山方面の景色を見た所だ。今回も腰かけてしばし周りの山を見渡した。ここから見える山はすべて歩いたことがある。若かった学生時代に歩いた立山から五色が原、薬師岳、40過ぎて歩いた水晶から赤牛岳、そして読売新道、めくるめく想い出の山々を眺めていると、感傷的になる。「もうこれで終わりだな」と立ち上がり、高天原峠に下っていった。11時過ぎに高天原山荘に到着、うどんとビールで昼食。チェックインして、すぐに温泉に向かった。20分ほど下り、やっと温泉に入った。前は女性用だった露天風呂が、今は男性用になっている。女性の方が増えたのかしらん?誰も来ないうちに、今日まで着ていた下着やシャツを温泉で洗濯、ゆったりと体を沈め、さっきまでの歩きの疲れをほぐした。しばらくすると、森さんもやってきて、「いい温泉だね」とご満悦。日本最奥の温泉はどこから入っても二日はかかるのだ。

      
     写真左・スイス庭園           写真右・高天原温泉
  

9月8日 雨の休養日

今日は湯治の日にして、高天原休養としていた。朝から雨で、停滞日にしたことが幸いした。風雨が強く、弱まったら温泉へと思っていたが、だんだん強くなる。お昼にカレーライスを食べ、ビールを飲んだところで温泉ギブアップ。午後は山小屋の本を読んで昼寝三昧になった。ランプの下での夕食は薄暗いが、ビールもおいしく、天ぷら最高、うどんも最高、明日を期待して、早々と寝た。夜は強い雨の音が屋根に響いて、ほんとうに明日、晴れるのだろうか?と気になる。小屋の予報は明日は 晴れなのだ。

      
     写真左・雨の休養日          写真右・小屋の人たちと
  

9月9日 岩苔乗越で晴れ、双六で叱られる

朝が明けても雨が降っている。小屋の親爺は「午後には晴れる」。そこで出発を1時間遅らせ、7時半に出た。雨具完全装備、傘をさして、岩苔乗越への道に入る。沢沿いの道は川になっていて、流れに入らぬよう避けて通るのに苦労する。水晶池も雨の中なので寄らず、通過。森の中の道から、草付きに出たあたりから雨が上がってきて、陽も射すようになった。親爺が言っていた、「岩苔小沢が徒渉かも?」の沢に出た。水流が速く、石も水に隠れている所が多い。先頭の山内が、隠れている石を見つけて巧みにぴょんピョンと飛んで渡った。問題は森さんだ。迷いつつ足を出すが、流れの中にビシャン!靴の中にたっぷり水を入れて渡った。私はピョンピョンと飛び、最後は両足で飛んで着地した。水は入らなかった。そこから草付きの急坂を登り上げ、ワリモ岳から来る縦走路に出て、岩苔乗越に登り着いた。11時半、高天原から4時間かかったがほぼコースタイム通り、ここからは黒部源流に下り、三俣山荘へ登って、双六への巻き道に入る。
見通しがついたと思ったが、源流への下りで、森さんの足が鈍った。石を飛び跳ねて下ることができないのだ。足が突っ張って、恐る恐るなのだ。スキーと同様、「膝を曲げながら石を踏んでいくんですよ」と教えるが、それができない。体が揺れ、大きな石になると尻をついて滑るように落ちるのだ。こんな具合で三俣キャンプ場に着いたときは午後2時半、巻き道と言っても、下ってまた登る。足取りがおぼつかず、夕方6時まで双六小屋に着くのもおぼつかなくなったので、山内に先に行って、小屋に「遅れる」と伝えてもらうことにした。それから私が先導したが、森さんは完全に疲れ切っていた。6時目標だったが6時15分にようやく小屋に着いた。小屋番から「何時だと思っているのか!もう少しで救助隊を出すところだった。着いた途端に、”生ビール、生ビール”とは何事ですか!」と怒られてしまった。”生ビール”はいらぬお世話ではないか。

      
     写真左・岩苔乗越            写真右・お山は晴天
  

9月10日 待望の温泉宿・焼の湯

朝から晴天、今日は下るだけだ。でも森さんは岩道の下りに弱いことがわかったので、鏡平から先が心配なので、早めに出ることにした。できれば3時くらいに新穂高に着きたい。弓折岳の稜線からの槍穂連峰が美しい。道の先の笠ヶ岳もすっきりして好ましい。鏡平に3時間で着き、ラーメン食べながらかき氷も食べるという食欲だった。そこから岩道に若干苦労して、秩父小沢で冷たくおいしい水をたらふく飲んで、ひと息ついた。小池新道を下って、道路に出てしばらく歩き、わさび平の小屋に着いた。ここで名物そうめんを食べて、ラストスパート。と言いたいところだが、私も足の甲が痛く、歩きが覚束なくなった。今夜の宿・焼けの湯に電話入れた。バス停に着いたのは3時40分だった。やっと終わった。宿の露天風呂に入り、汗を流し、冷たい水を飲んだら、何杯でも飲めるのだ。やや脱水症状になったようだ。夕食の生ビールは格別、おいしかった。これにて一件、落着!

      
    写真左・槍ヶ岳をバックに        写真右・縦走完了、乾杯!
  

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8 月

8月31日 海外、思い出のドライブ旅・カレンダーの表紙を飾る村・イタリアドロミテ
       サン・マッダレーナ

世界の景色カレンダーによく出てくる風景、そそり立つ岩山を背景に、瀟洒な教会がたたずむ、という光景は日本でもおなじみだ。この景色はイタリア ドロミテの、それも小さな村サン・マッダレーナの景色なのだ。
地球の歩き方「ドロミテ」にも紹介されているが、団体旅行もちょっと寄るだけの場所になっている。村に入ると、日本人の姿を見かけるがパッケージの行程で立ち寄った感じで、みな忙しそうに写真を撮って、次へと急いでバスに乗っていた。ここに何日も滞在する日本人はいないらしい。我々はドロミテの旅の始まりをここに定め、ボルツァーノから車でやってきた。そしてHaus Reburgを見つけた。「日本から来ました」とインターホンで話すと、「ヤーパン、ヤーパン」と言いながら、おじいちゃん、おばあちゃん、おかあさん、子供たちみんなが出てきて、重いスーツケースを三階の部屋まで上げてくれた。部屋のリビングの窓全面にドロミテの岩峰が広がる。ベランダは花一面。美しく、快適な部屋だ。さあ、これから一週間、ここで暮らすのだ。

           
   写真左カレンダーそのままの景色      写真右・ドロミテの景色

 

朝の陽射しがまぶしい。サン マッダレーナ滞在の日が始まった。まずは村の周辺を歩いてみよう。何といっても村のシンボルの教会を目指そう。宿Reburgの上手の道路から、教会は近そう。しばらくバス道路を歩き、農家の横の細い道に下りていくと、教会へつながる道に出た。鐘の音が聞こえる。それも時を知らせる音でなく、ジャンジャカ鳴っている。坂を上がり、教会の横に出ると、祭礼のパレードが教会の境内へ吸い込まれていく光景に出会った。民族衣装に着飾った人、神輿の上にマリア様を載せかついでいく少女たち。楽隊も後ろから行く。そして村の人か、普通の服装の人たち。夏の祭礼らしい。いっぱいの人で、教会には入れそうもないので、外壁を回り、カレンダーの景色、”絵になる展望台”を目指すことにした。
裏庭にはパーティの準備か、ワインやビールがいっぱいあった。細い道路沿いに、多くの車の列、参加者は近くまで車で来て、パレードは村里からではなく教会下から始まった様子だ。
展望台へ高度を上げるにつれ、教会とアルム、そこに点在する農家、そしてバックのドロミテ岩峰のバランスよい景色が広がってくる。野辺の祠を覆う木の下にベンチがあり、ここから見る風景が最も美しいと言われている。縦列駐車の長い車の列も教会の下に見えて、今日は特色ある景色になっている。そこから上へ少し行き、森の中へ入っていく道はパノラマコースと名付けられている。これを歩き、村の概要を知ろう。木の間越しに教会やアルム、そして村の屋根々々を見ながら歩く。小さな村なので、パノラマコースから下りると、そこはもうかなり村から離れていた。道路を村へ戻り、ガストホフ・エーデルワイスのテラスでビールを飲みながら、昼食を摂って、本日の下見は終わった。

      
    写真左・夏祭りの隊列         写真右・宿の窓からの景色
  

夕方5時過ぎに、教会からその展望台への道を歩いた。夕日の村と教会がいちばん綺麗と聞いていたから。教会の墓地にメスナー家の墓がふたつあった。どちらかがあのレインホルト・メスナーの家のものではないだろうか?最初の日に来た展望台へ上がっていく。教会に夕暮れの陽があたり、ガイスラー山系の岩山も明るく輝き、まさに絵葉書の中の光景が目の前にある。この時間帯がいちばん明るいような気がする。展望台のベンチに妻と座り、夕暮れの変化していく教会と村の風景を7時近くまで楽しんだ。ほんとうに美しく、清らかで静かな村だった。

      
  写真左・カレンダーの中に入った二人     写真右・マルモラーダ方面の景色
  

8月28日 北アルプス縦走直前トレーニング

来月初めに一週間の山歩きをする。メンバーはニュージランド・ミルフォードトラックやヨーロッパアルプスを一緒に歩いた仲間だ。みな後期高齢者だが、元気だ。6月にはトレーニング一環として、蓼科山に登った。地図のコースタイムより大幅超過でなんとか歩いた。
今日は、最後の自主トレーニングで、私ひとりでいつもの八子ヶ峰だ。天気は久々に晴れて暑い。東登山口から森の中に入り、急登を登っていく。汗が湧き出て、背中はびっしょりだ。最初の20分で尾根のとっつきに来るのだが、ここまでが苦しい。昔はそんなにきつくなかったのに、今ではしんどい。岩に腰かけ深呼吸する。ここから30分登り、八子ヶ峰の縦走コースに出る。ここまで上ると、もう終わったような気がする。ここからはなだらかな尾根道がヒュッテ・アルビレオまで続く。右手に八ヶ岳、南アルプス方面、左手に中央、御嶽、北アルプス方面の展望を楽しみながらゆっくり進む。
森から抜け出したので陽射しはきついが、今日は風が吹いていて、その風は冷たく心地よい。ハクサンフウロの花が可憐に咲いているが、去年は結構あったナデシコが見当たらない。マツムシソウも西峰で一輪見ただけだ。ススキの穂が伸び出していて、山はもう秋だ。尾根道はそうでもないのだが、東急トレッキングコースの部分に入ると、道が笹や草に覆われて、道が完全にふさがれている。何度も歩いている道なので心配ないが、初めて通る人は不安だろう。コロナ禍で歩く人も少ないと、手入れをしていないようだ。いつもの年はきれいに刈り取られているだけに、その落差が激しい。それでも快適に3時間で歩き終え、鹿山の湯に直行して、本番前のトレーニングを終えた。

      
  写真左・盛夏のアルビレオヒュッテ     写真右・道は夏草に覆われて...
  

8月23日 運転免許認知症検査

今年の12月に運転免許の更新を迎える。その案内ハガキが来た。認知症検査をしてから高齢者講習に進むというプロセスになり、以前は一緒にやっていたものを分離した。認知症検査の結果で、次の講習のレベルが違うことになる。まずは認知症検査で76点以上をとって、普通の高齢者講習に進むことが必要だ。以前の検査で私はギリギリセーフだったので、今回は心配だ。
そこで、インターネットで試験問題を予習することにした。試験に出るのと同じ問題がインターネットにあるのだ。本当の認知症の人は、事前に覚えても当日は忘れてしまうので、問題を事前にもらしても大丈夫らしい。しかし、16種類の絵を覚えておいて、あとで思い出すのはきつい。A,B,Cの3種類の絵があるが、今回はCが出た。全部を覚えるのは至難の業なので、「武器」、「楽器」、「体の一部」、「電化製品」などの種類を覚えておくことにした。府中の試験場までの電車、バスの中で、繰り返し暗記を確認した。そして本番、種類がさっと出てきたので、ブランク状態での回答でも14ヶまでの絵はすぐ書けたものの、2ヶだけヒントの種類が出てきても思い出せなかった。結果は88点、まずは合格ラインを大きく越えたので、次は2時間の講習に進む。来月16日が楽しみだ。

            
     写真左・認知症検査問題1      写真右・認知症検査問題2
  

8月11日 盛夏の奥志賀行き

蓼科10日ほどいる間に、奥志賀のブルーエに行くのが恒例になった。今年は、蓮池にオープンした池袋大勝軒の山ノ内店に寄る楽しみも増えた。新宿の大勝軒は池袋の味とちがい??と思っていたが、やはり人気なかったらしく、店にあったパンフレットでは消えていた。
ここ志賀高原の大勝軒は、オリジナルの山岸さん直伝の味を受け継いでいておいしい。今回、私はメンマざるにした。妻はふつうの中華そばだ。注文している人を見ると、温かいラーメンが多い。この暑いのにと思ったが、志賀は1500m近いので涼しく、熱いラーメンでもよいのかも。次に来たときは、熱い中華そばにしてみよう。メンマざるは、つけ汁の味もよく、最近のこってり系が苦手な私にはちょうどよい。ブルーエは和食の夜だった。凜ちゃんの高校も甲子園にあと一歩まで来たのに残念なことをした。出場していたら応援に行っていたとか。

      
   写真左・奥志賀の草原         写真右・志賀高原の大勝軒
  

8月9日 蓼科東急ホテル フレグラント

景ちゃんと裕紀君が束の間の夏休みで、蓼科に来て最後の夜、東急ホテルのレストラン・フレグラントへ食べに行った。ホテルは送迎OKで、夜7時にホテルの車が迎えに来てくれた。
年配の運転手は、「こういう所に滞在するのは素敵ですね」などとお世辞を云う。帰りも同じ運転手だったので、チップを渡すととても恐縮していた。フレグラントのフレンチは上品で、バイキングより落ち着いて、やはり高原のホテルにはふさわしい趣だ。ハーベストの方が、眺めがよいが夏はバイキングだけだし、送迎なしなので混んでいる時期は東急ホテルの方がよい。優雅な夕食となった。

      
     写真左・景ちゃん夫婦          写真右・家族4人で
  

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7 月

7月31日 海外、思い出のドライブ旅・日本人の西部開拓史 カリフォルニア・コロマ

西部開拓はアメリカ東海岸から新天地を求めて西部へ移民する人たちが主流だが、西海岸から、同様に新天地を求めて移住する人達もいた。その中に戊辰戦争で負けた会津若松藩士もいたことを知っているだろうか。会津藩は崩壊し、大半の武士は下北半島に追いやられ、彼の地に斗南藩を開いた。これとは別に20名ほどの武士たちは武器商人のドイツ人に連れられて、太平洋を渡ってカリフォルニアに来た。エルドラドという黄金の地だ。近くのコロマのアメリカン川で金が発見され、ゴールドラッシュに沸いた地だ。
若松コロニーという農場を開き、お茶や桑の木を植えた。1868年のことである。アメリカン川で金が発見されたのが1848年、20年経っていた。もう金はほとんど採れず、一攫千金は幻になり、農業で身を立てることにした。これは日本人第一号の移民であり、最初の農場だった。しかし三年で農場は破綻し、帰るべき故郷を失った武士たちは散りジリになった。そのドイツ人の子どもの子守として一緒にやってきたのが「おけい」。夕方になると、農場の小高い丘にのぼり、暮れ行く西の方角をじっと見つめ、はるか会津の故郷を思い出していたという。そのおけいは病に倒れ、19歳の若さでアメリカの地に没した。
 

若松コロニー史跡碑が今はゴールドトレイル小学校になった敷地に建てられ、小学校裏山の上におけいの墓がある。この小学校は会津若松の小学校と姉妹校になっていて、学校の壁には富士山や鶴の絵が描かれている。毎年5月にはOKEI Festival が開かれるという。ここで始めた日本式農業がその後、カリフォルニアの農業に広がり、おおぜいの日本人が農業や庭作りに参加するルーツにもなったと言われている。失敗はしたものの種はまかれ、日本人による西部開拓史の始まりの場所でもあるのだ。一部の会津藩士は、この地を離れ、当時、完成直後だった大陸横断鉄道の補修工事に加わり、線路が東へ伸びるに従い、カリフォルニアからユタへ移動し、ユタ、ワイオミング界隈に定住し、線路の補修工事や石炭採掘で生計をたてたという。日本人の西武開拓史はワイオミングあたりで終ったのだ。

      
     写真左・おけいさんの墓     写真右・小学校に作られた富士山と鶴の絵

 

カリフォルニアのおけいの墓の記念碑が会津若松にもあると聞いた。会津若松駅の案内所で場所を聞いた。背あぶり山の公園にあるという。東山温泉近くから背あぶり山スカイラインに入り、上ること十数分、OKEI MONUMENTという標識があった。それに従って歩くとすぐ、黄金が丘(Gold Hill)という大きな石碑が現れた。その上にカリフォルニアで見たと同じ、おけいさんの墓があった。レプリカにしたとのこと。墓からは会津若松の町が一望できる。カリフォルニアの開拓地の丘に毎夕登り、はるか西の空を見つめ、ふるさと会津を偲んでいたというおけいさん。ここならいつでも若松の町が眺められる。寂しいがロケーションは最高の所だ。

      
    写真左・黄金の丘モニュメント       写真右・おけいさんの墓レプリカ
  

7月30日 百段階段で山登りトレーニング

家の近くに百段階段という113段の急な階段がある。6か所の踊り場があるほどの急な階段だ。ここを上ると、一本道の桜並木が市役所に続いている。夕方、日が陰った頃、この階段を一気に上がるのが、このところの日課になっている。9月の初めに、最後の北アルプス縦走のトレーニングだ。薬師沢から雲の平への登りは急坂が続くので、その訓練でもある。一気にと言っても、急いで上がる必要はない。ゆっくり、ゆっくり踊り場で休まず、上がって行く。数分で上りついた所には車止めの手すりがあり、それに腰かけて息を整える。呼吸は苦しく、ゼーゼーハーハー言いながらしばらく休む。前は休まず、そのまま桜並木を歩いていったのに、このところは大休止をとらないといけない。それだけ体力が落ちたということだろう。仕方ない。コロナ禍の北アルプスは、山小屋も予約制で、人数も半分に制限され、行く登山者にとっては快適なことだろう。ワクチン接種を終えた高齢者4人で、楽しんでこようと、毎日、百段階段をゼーゼーハーハー言いながら登っている。

          
   写真左・百段階段ボーダー手すり?     写真右・市役所へ続く桜並木
  

7月9日 一年半ぶりの外呑み会

去年の1月に中々連の新年会でみんなで呑んだとき以来、一年半ぶりの外呑み会に出かけた。
ワクチン接種も完了したきのこ仲間の呑み会だ。築地のたけ乃という吉田さん、行きつけの店。
夕方5時集合、小雨の中を出かけて行った。武藤さん、去年のキノコ狩りに来た堀さんの4人だ。
ビールはサッポロの赤ラベル、懐かしいビールだ。刺身の盛り合わせも、生ガキも築地だし、いきがよくおいしい。アジフライを頼んだら、半身にしたアジをそのまま揚げて、カリっとしていて、すこぶるおいしい。こんなおいしいアジフライは初めてだ。やはり、みんなでワイワイ言いながら呑むのは楽しい。家でひとり飲みが続いていたので、居酒屋での呑み会はなつかしく待ちに待ったものだった。
家に帰ったのは9時前だったので、夕方5時から2時間呑んで、食べて7時過ぎには家路についたのだろう。このときは蔓延防止下だったので、7時までは呑めていたので、ギリギリセーフだったようだ。もっと自由に呑める日が早くきてくれることを切に望む。

      
     写真左・一年半ぶりの呑み会        写真右・アジフライ美味
  

7月1日 駒ヶ根高原・季澄香

駒ヶ根高原には今年の早春、星空観賞で行った。そのとき泊ったのが駒ヶ根リンクスというホテル。そこでリンクスの料理長が腕をふるう割烹旅館がオープンしたことを知った。それが季澄香(ときすみか)。ネットで調べると、そば割烹の宿と出ている。これはいいと、ワクチン接種完了記念に予約した。少し高いが、まあいいだろう。本降りの雨の中を到着した。木造のシックな建物で、ロビーはホテルのように広く、腰かけてのをチェックインだ。通された部屋はツインベッドの部屋、庭に面して、まるい大きな風呂がある。大浴場はなく、すべて個室に温泉が引いてあるのだ。早速、ひと浴びすることにした。首までつかる深さだが、少しぬるめの湯で心地よい。雨の庭を眺めながらの温泉は極楽、極楽。夕食は食事処に行く。今晩はわれわれ以外にもう一組だけだった。そば仕立てのいろいろな料理が出てきて、お目当てのそばが来た頃には、おなかいっぱいの状況だが、箸をつけた。細く切られたそばは甘味があり、柚子をたらしたつゆととても相性がよく、おいしかった。翌朝の朝食も、そばガレットがメインでおいしかった。そば尽くしの一夜に満足した。また来たい宿だが、勘定を見て、そうは来れないと実感した。

      
     写真左・接種完了乾杯!        写真右・まるい陶器の風呂
  

7月1日 杉原千畝記念館

前夜は美濃加茂のマリオットチェーンのフェアフィールドインに泊まり、少しアメリカ旅行の気分が出た足で八百津町の杉原千畝記念館に向かった。八百津は岐阜の山間いの小さな町、その街中なのか、郊外なのかも区別できない丘の上に記念館はあった。記念館の外には人道の丘公園が広がり、その中に木造りのモニュメントがある。記念館の展示は、杉原がナチスに追われたユダヤ人にヴィザを発給するに至ったいきさつとその後のユダヤ人の道程がパネルで説明され、リトアニア・カウナスの日本領事館の執務室も復元されている。この机で杉原は2000通を越すヴィザに署名捺印した。本国の指令を無視してまで。日本の外務省は何度も「まかりならぬ」と指令してきたが、最後は「命には代えられない」とヴィザ発行を決断する。思うに、もし杉原が早稲田ではなく、東大出の外交官だったら、指示をしてくるのは自分の先輩、知り合いだったことだろう。そんな先輩の指示に背くことはできただろうか?先輩のいない早稲田出だったから、決断できたのではなかろうか。今は早稲田が生んだ最大の偉人として、大学にも、リトアニアにも記念碑が立っている。杉原は東大でなく、早稲田でよかったのだ。

      
    写真左・杉原千畝記念館        写真右・人道の丘モニュメント
  

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6 月

6月30日 海外、思い出のドライブ旅・西部開拓の道 A サウスパス、ロックスプリングス

インデペンデンスロックでの大休止で疲労を回復させた開拓民(幌牛車隊)は、サウスパスへ向かう。サウスパスはロッキー山脈の一部であるが、峻険なカナダから伸びるロッキー山脈がなだらかになり、高原状になった所を通過する峠である。この峠を越えると、それまで東のミシシッピ川に流れていた川が、西のコロンビ川に流れるようになる。分水嶺のサウスパスを越えると、西部のエリアに入るのだ。大きな山場を越えるのだ。しかし、西部に入ったといえど、まだワイオミング州、先のユタ、アイダホを過ぎなければ、コロラドには到達しない。道半ばだ。それでも、この峠を越えることは大きなエポックメーキングになるのだ。ここに車で到達するには、ワイオミングハイウェイ28で西に向かい、ロッキー山脈の登りに入った所の間道を左折する。
確か標識が出ていたような気がするが、オレゴントレイルのガイドブック、地図で確認しながら走るとよい。今はナビでも指示するかもしれない。峠はなだらかな平原になっていて、石の標識が立っている。ここは数万の開拓民が通っていったと思うと感慨深い。夕暮れに来ると、はるか西部に沈んでいく夕陽が美しく、先の旅路の安寧を祈るようで涙が出てくる。この峠を越えるオレゴントレイルも残されていて、それを辿って、西にも行ける。途中でハイウェイ28に出れるのだが、かなりの悪路なので、車体の低いセダンにはお奨めできない。たっぷりサウスパスを堪能したら、元来た道でハイウェイに戻るのがよい。戻る前に、直進するとサウスパスシティという宿場に行くこともできる。ここは峠を越える前の準備に開拓民が滞在した所で、今はホテル、郵便局など宿場のレプリカがあり、オレゴントレイルの旅の記念品も買える村になっている。
先月紹介したチムニーロックからサウスパスまでは、オレゴントレイルの見所が多く、西武開拓の歴史や西部劇に興味ある人には必見のエリアである。

         
    写真左・サウスパスの道標       写真右・サウスパスへの道
 

ロックスプリングスはオレゴントレイル沿いの町ではないが、近くにトレイルの東部と西部の分水嶺サウスパスがある。ロックスプリングスは1869年に近くのユタ州オグデン近郊で東と西から同時に工事していた大陸横断鉄道がドッキングし、汽車を走らせるに必要な石炭で栄えた炭鉱町である。駅前には「Mining Town」の大きなアーチが架かっている。今は16,000人ほどだが、100年以上前の石炭ブームのときは、いろいろな国から出稼ぎ者で溢れていたという。その中に多数の日本人がいたことはほとんど知られていない。日本人の西部開拓の終着点の町でもあるのだ。写真の墓は広島県出身の天崎才吉さんで1904年(明治37年)2月29日に42才で亡くなっている。
「大日本帝国廣島縣豊田郡佐江崎村産,行年四十二才」と彫られている。”大日本帝国”と記載されている墓はこれだけで、他よりひときわ大きいので、それなりの人だったのではないかと偲ばれる。(その後の合併繰り返しで佐江崎村は今は三原市になっている) 明治の末期から大正にかけて、この地で亡くなった100人ほどの墓がここにはある。
  

最初にこの町に入った日本人は1869年に大陸横断鉄道がつながり仕事が無くなった会津藩の武士達と言われている。鉄道の保線で食いつないでいたところへ石炭ブームになり、ロックスプリングスはMining townとして多くの労働者を必要とした。当時の日本は米の凶作で困窮していた「おしん」の時代だった。口入屋の斡旋で多数の若者が全国からこの地に出稼ぎに来た。200人を越す日本人が“Jap Camp”と呼ばれる飯場に住んで、稼いで日本へ帰る日を夢見ながら炭鉱労働に従事してた。落盤事故などで命を落とした人がこの地に埋葬されているのだ。天崎さんもその一人だったのではないだろうか?たいていの墓に出身県が記載されている。帰郷叶わず、異国の土となった悔しさが滲んでいる。広島県、岡山県、福岡県など西日本の人が多いのが特徴的だ。
100基ほど日本人の墓があったが、その一割以上は名前も県名もない石だけのものだ。私の故郷、新潟県もひとりおり、「新潟縣北蒲原郡加治村箱岩・小林栄之父之墓」で、1921年(大正10年)没となっていることから、この人はロックスプリングスに住みついたあと、死亡したものと思われる。部落名も書かれているので、追跡は容易と考え、現在の新発田市に問い合わせた。「この部落に小林姓はひと家族いるが聞いたが心あたりない。部落の長老にも聞いたが、アメリカへの出稼ぎがあったことも知らない」との回答が来た。本格的な日本人の出稼ぎが始まったのが1880年代だから、140年も前の話は風化しているようだ。生まれ故郷の人も知らない歴史の事実が日本からはるか離れたアメリカの大西部の町には現存しているのだ。

         
     写真左・天崎さんの墓          写真右・日本人の墓群
  

ロックスプリングスで多数の日本人の墓を見た。その中で、詳細に生まれ故郷まで書いてあった人、数人の故郷に問い合わせしていた。大半は「その家はもうない。知っている人もいない」という返事が返ってきた。その中の一人「上野友吉さん」の上野家の墓を管理しているという方から連絡あり、訪ねることにした。広島市安佐北区安佐町宮野という所。広島から可部線という中国山地に入っていくローカル線に乗ること40分、終点可部からタクシーで30分、宮野集落は太田川沿いの山の中の村だった。連絡頂いた浜辺さんが家族総出でお墓の前で待っていてくれた。
驚いたことに「上野友吉さん」の墓がここにもあった。亡くなった日付も同じだった。浜辺さんによると、数年前、アメリカの日系の人がこの墓を訪ねてきたという。ロックスプリングスの上野さんの墓には生年月日も刻んであった。生まれた日を知っている人が近くにいたことを意味する。身内の人も一緒にアメリカに渡ったのだろう。その人は生き延びて、アメリカに係累としてつながっているのだ。残していった住所を見せてもらうと、デンバー郊外だった。旦那さんはアメリカ人、上野家の血筋はアメリカに同化しながら残っていた。浜辺さんと上野さんの家も昔はつながりがあったようだ。いろいろと話を聞かせてもらった上、帰りには広島焼きまでご馳走になった。とても親切なご家族だった。縁は不思議なものである。
                        (参考「アメリカ西部開拓と日本人」鶴谷寿著・NHKブックス)

            
    写真左・上野さんの故郷の墓          写真右・アメリカの墓
  

6月30日 昭和村と岐阜清流里山公園

ワクチン接種完了を記念して、岐阜への小旅行に出かけた。美濃加茂市にある昭和村、昭和の時代の風俗やたたずまいを残そうと企画されたパークである。この近辺には、明治村、大正村が以前からあり、これに昭和が加わって三大時代村が構成されることになった。昭和は、たったこの間まで現存した時代であり、我々が育った時代なので、展示されているものすべてが「小さい頃、よく遊んだな」と思い出す。また古い建物も移築されている。
”双六小学校”は昭和40年まで、使っていた北アルプスの麓の旧上宝村にあった校舎だ。昭和6年に建てられたとかで、我々の塩野町小学校と同年代だ。講堂入り口が校舎への入り口でもあることなど、同じだ。我々の学校は取り壊され、鉄筋に代わり、4年前に廃校になってしまった。木造時代の校舎を残しておけば、今頃、生きているみんなで集まり、昔のようにワイワイ騒げたのにと悔やまれる。そんな私たちの小さい頃を自然に思い起こさてくれる昭和村だ。

      
     写真左・双六小学校             写真右・昭和村村内
  

6月15日 蓼科山登山

9月初めに北アルプスを1週間歩くにあたって、事前トレーニングをしようということで、仲間と蓼科山に登った。女の神茶屋から急登を4時間かけて頂上に着いた。コースタイムは2時間半だから、相当へたばって着いたと思うでしょうが、そうではない。普通のペースで歩いてもこれだけかかるのだ、下りの将軍平から天祥寺原経由で竜源橋までもコースタイム2時間半なのに、やはり4時間かかった。もう歳なのだ。衰えを実感したが、それでも歩けたことは自信になるし、何時間かかろうが、歩き通すことが大切と考え、北アルプスに挑もうとおもう。
この山登りで老いたことのもうひとつの事例が、物忘れである。下りてくる竜源橋と、登り口の女の神茶屋は30分ほど離れているので、下ってきてさらに30分上るのはつらいと、私の車を竜源橋に、相方の車を女の神茶屋に置くことにした。そして頂上に着いたときに、ザックの中を見たが、車のキーがない。どこでどうしたかの記憶もない。下って、相方が女の神茶屋の駐車場に行ったら、私が山靴に履き替えた道路脇の石の上にあったそうだ、履き替えるときに無意識的にそばに置いたようだ。こんなことが毎月のように起きる。アルツハイマー型認知症ではないか?検査してもらった方がよいかも?

      
      写真左・岩の急登を登る         写真右・頂上へあと一息
  

6月13日 信州岩波講座

信濃毎日新聞社主催の岩波講座が松本で開かれ、聞きに行った。岩波書店の創始者は信州諏訪の出身、出版界には、筑摩書房、みすず書房など信州人が創業した出版社が多い。岩波講座はこの信州の代表的論壇企画である。今日の講演者は寺島実郎氏、現在、テレビや実業界で活躍する論客である。今の日本の産業の凋落はどこに原因があるのかを、いろいろな角度から切り込んだ。印象に残ったものをひとつ紹介する。三菱重工の航空機開発の話だ。新素材を使い、日本の技術力で航空機としては申し分のない性能まで引き上げた。しかしアメリカでの型式認定がとれない。これがないと発売できないのだ。なぜか?アメリカは今でも、「ゼロ戦の記憶」から、日本に飛行機を作らせたくないのだ。ボーイングと同じ機材、レベルならOKを出すだろう。しかしそれ以上の物は望まないのだ。それを突破するには、技術だけではダメで、いろいろな角度から練り上げたシナリオと戦略が必要なのだ。それを「総合エンジニアリング」という。一企業のがんばりだけでは突破できない壁がある。産業界、政府が一緒に作り上げる戦略が必要になる。日本が今の沈滞から抜け出すには、総合エンジニアリングが必要なのだ。

    
         写真左・寺島実郎さん       写真右・会場の松本市民芸術館
  

6月9日 ワクチン接種完了

二回目のコロナワクチン接種が終わった。すっきりした。私の前に夫婦で接種したおじいちゃんが、終わったあとの15分待機のときに話しかけてきた。「やっと終わってすっきりしましたよ。予約を自分たちで取るのは難儀だったので、娘に取ってもらって、手数料で1万円上げましたよ」。「私も同じですよ。パソコンからなかなかつながらず、あきらめていたら、女房の分をやっていた娘から電話がきて、取れたよと言うので私の分も頼んだら取れました。若い人はジャニーズの切符獲得で慣れているからお手の物なんですって。ウチも1万円上げました」。いずこも同じ若者頼りのワクチン予約争奪戦なのだ。
  

6月7日 もうすぐ巣立ち

毎年恒例のポストの中のシジュウカラの巣作り、今年も5月の連休の頃から始まり、毎日少しずつ葉っぱやわらをポストに運んでの巣作り、中旬に来たときには、親鳥が入って身動きしない。産卵開始なのだろう。それまではポストに入っていても、開けた途端に飛び出してきて、びっくりするのだが、卵を抱え始めると、ポストをノックして反応ないので、留守かな?と思って、開けると巣の中にいるではないか。そして5月末になると小さなヒナが巣の中で動いている。この頃になると、親鳥はエサ探しで外出していることが多い。そんなときに鉢合わせすると、近くの木の枝に親鳥は止まっていて、キーキーと鳴いている。「早くどけ!」と言っているのだろう。それでもこの家の家主はポストを開けるだけで、それ以上の悪さをしないと思っているから、毎年、春になると巣作りにやってくるのだ。そして6月の中旬、巣の中は空っぽになった。今年も、ちゃんと育って巣立ちしたようだ。よかった、よかった。来年も待ってるよ。

      
      写真左・巣の中のヒナ        写真右・巣立ったあとのポスト
  

6月5日 採れた採れたタケノコ!!

志賀高原はタケノコ採りでも有名な場所だ。奥志賀の森の中にもある。ブルーエの奥さん”さっちゃん”は、既に名人の域に達している。林の中をしばらく行き、「この辺で藪の中へ」と言われたあたりで、繁みに潜り込み、下を見ると、細いタケノコの芽が土の中から出ていた。一本引き抜く。周りをを見ると、近くに芽がいくつも出ていた。引いて横に折ると、ポキンとタケノコが採れる。その繰り返しをしながら藪の中を下に行ったり、横に行ったりしながら笹薮を移動する。ある所から、まったく目にしなくなった。そこが切れ目だった。タケノコが生えるのは千島笹らしい。この笹を見つける所から始まるのだ。寝曲がり竹は別の種類らしい。熊の湯周辺に多いそうだ。採ってきたタケノコは、まず笹むき器で縦に切れ目を入れ、上から笹を剥き、白いタケノコの幹にして、根元の硬い部分をナイフでそぎ落とし、タケノコにする。これを鯖の水煮と味噌で味噌汁にすると抜群にうまいのだ。長いタケノコは笹のまま、焼いて、笹を1枚1枚はいで、中身を出し、塩をつけると、最高の酒の一品になる。笹剥き器なるものが、この地域には売っているというのにも驚いた。初夏のタケノコ探しは志賀高原の風物詩である。

    
       写真左・収穫全容            写真右・剥いたタケノコ
  

6月4日 志賀高原の大勝軒

冬にスキーに来た時、一ノ瀬スキー場に池袋の大勝軒ができたことを聞いていた。しかし寄る機会がなかったので、来シーズンにやってればいいがな?と心配していた。以前、横手山にスターバックスができたときにはひとシーズンで終わってしまった。大勝軒もこんな風になるのではと危惧していた。信濃毎日新聞に「志賀高原に山ノ内大勝軒夏季店オープン」の記事が出ていた。夏は蓮池の旧ロープウェイ駅の中でやるらしい。今、ここはバスステーションになっている。大勝軒の創業者・山岸さんはこの山ノ内町の出身で、故郷で開業することを夢に見ていたらしい。夏は一ノ瀬ではダメなので、ここにしたらしい。ちょうど山菜採りで奥志賀に入る日、吉田山菜師匠と行ってみた。開店二日目、平日なのにいっぱい車が止まっている。
祝いの花輪も並び、はなやかな雰囲気。タケノコ入りモリ蕎麦にした。寝曲がり竹入りのつけ麺だ。待つことしばし、太めの麺を汁に入れ、すすってみると、懐かしい池袋大勝軒の味だ。おいしい。新宿などにも支店が出たが、何か、味がちがっていた。しかし、ここ志賀高原の店の味はオリジナルに近い。病みつきになりそう。志賀高原に来る楽しみがひとつ増えた。

      
      写真左・山ノ内大勝軒          写真右・開店祝いの花
  

6月1日 夏めく八子ヶ峰

関西までは梅雨入りし、信州も時間の問題と思っていたが、毎日晴れている。雨のシーズンになると、出にくくなるので、よく晴れた日は、八子ヶ峰に出かける。晩夏の北アルプスのトレーニングも兼ねて。いつもの駐車場に車を停めて、森の中を上っていく。尾根に出てしばらく行くと、山ブドウのつるが木にたくさん絡まっている場所に出た。よく見ると、まだ若い花の芽もあるので、いくつか採ってビニール袋に入れた。天ぷらにしてみようと思った。先月、吉田師匠が来た時に揚げた天ぷらの中で、いちばんおいしかったのは山ブドウの花だった。とても甘いのだ。その味が忘られない。春と夏の境のようなうららかで爽やかな八子ヶ峰を歩く。
東峰頂上の標識の先の草原に入ってみて、しばらく先で、八ヶ岳方面を見ると、アルビレオヒュッテがとても大きく見えることに気がついた。今までここまで入ったことはなかった。途中の頂で、作ってきた赤飯のおにぎりを食べた。おいしい。霞の中のアルプスを見渡しながら、下りて来て、そのまま温泉に向かい、いい汗を流した。山ブドウの花の天ぷらが楽しみにして帰ってきた。

             
  写真左・アルビレオヒュッテが目の前に      写真右・来週登る蓼科山
  

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5 月

5月31日 海外、思い出のドライブ旅・西部開拓の道 @

私の人生も終盤に近づいている。まだ旅行したい気分はあるのだが、海外はだんだん厳しくなるだろう。そこで、私が旅して、日本にはあまり知られていないとっておきの場所を紹介しておこうと思う。今回はアメリカ西部開拓史のドライブルート、チムニーロックからフォートララミー、インデペンデンスロックである。
西部開拓というとジョンウェインの映画の舞台、モニュメントバレーなどが有名だが、この場所はニューメキシコだ。本当の西部開拓の道は、ミズリー州インデペンデンスからカンザス、ネブラスカ、ワイオミング、ユタ、アイダホの州を通ってオレゴン州までのルート、オレゴントレイルが本道だ。大平原とロッキーの山越えがある地味で長い半年にわたる牛車による旅なのだ。ちゃんとした道などない。大平原での目印は所々にある岩山だ。チムニーロックはネブラスカの平原に聳える煙突状をした岩山で、目印としては最適で、開拓史上では有名なランドマークだ。ここを目指して何台もの幌馬車(牛車)は横一線に平原を走って行く。縦につながると、前の車の砂塵で砂だらけになるので、横一線で走るのだ。はるか先にこの尖塔が見えると旅人はホッとする。今、ここに行くにはドライブしかない。
このエリアのオレゴントレイルを辿るには、州道92号線のスコッツブラフの町の空港からレンタカーが便利だ。ワイオミング州首都シャイアンからも半日のドライブで到達する。チムニーロックの麓までは車で行けるが、尖塔の先に登ることは不可能だ。周りの平原とロックの位置関係を展望するとよい。
スコッツブラフの町は小さいが、オレゴントレイルが通過し、近くのボビドーパスを抜けると、ネブラスカからワイオミングになる州境の町だ。このあたりには開拓者の轍の跡がそこかしこに残り、志なかばで倒れた旅人の墓がいくつも残っている。ボビドーパスからしばらく川沿いに行くと、フォートララミーに到着する。

      
      写真左・チムニーロック         写真右・フォートララミー
  

ここはララミー砦で、西部への開拓者の群れをインディアンから守る砦であった。また同時に敵対しない原住民との交易の場所でもあった。広いサイトには、騎馬隊の宿舎やオフィスのレプリカが展示されていて、当時の旅の風景が垣間見ることができ、興味深い。TVドラマの「ララミー牧場」の舞台は、もう少し西にララミーという町が現存していてその辺りでの生活を描いている。フォートララミーで英気を養った開拓者はさらに西に向かう。ほどなく岩山地帯に入り、その岩山を幌馬車(牛車)で登って行った跡が深い轍となって残っている。何百台、何千台の車がここを通っていったのだ。Deep Rutsと呼ばれている、西部開拓史の名所でもある。近くの岩には通過した人々のサインが刻まれていて、レジスターロックと名付けられている。
さらに西に向かうと、大きな岩山に到達する。インデペンデンスロックだ。春まだ浅き頃、ミズーリのインデペンデンスを出発した旅人が、この岩山に到達するのは7月4日の独立記念日の頃なので、インデペンデンスロックと名付けられた。出発して約3ヶ月してようやくここに着いた旅人は、独立記念日を祝いながらしばしの大休止をとった。その岩山に登り、そこかしこに家族の名前を刻んだ。ここもレジスターロックと同じように、旅人のメモリアルパークになったのだ。インデペンデンスロックから眺める景色は雄大で、東にフォートララミー、西にサウスパスの方角が望める。西部への道も、ようやく半分にさしかかり、期待が不安を少しばかり上回るようになってくるのだった。
チムニーロックからインデペンデンスロックまでは、二日あればドライブできる距離、開拓者の苦難の旅の跡がくっきりと残り、ランドマークも豊富で、オレゴントレイルの名所が集中している絶好のエリアだ。近くにキャスパーというワイオミング州では比較的大きな町があるが、ここには太平洋戦争を回避するために暗号でやりとりしたときに使われた暗号「まりこ」の実在する寺崎外交官の娘・マリコ テラサキ ミラーさんが今でも住んでおられる。
日本ではこのエリアの観光案内書はないので、スコッツブラフの空港やインフォメーションセンターで「Oregon Trail」のパンフレットをもらうことだ。また事前に調べたい場合はOregon California Trail Association (https://octa-trails.org/)のサイトを見てもらいたい。
参考書・「西部開拓史/猿谷要・岩波新書」

      
       写真左・Deep Ruts        写真右・インデペンデンスロック
  

5月29日 46回目の結婚記念日

今日は46回目の記念日、1975年に結婚して46年になる。妻は25日と思っていたらしいが、今日なのだ。私も時々忘れるくらいだが、妻が忘れるのも無理はない。バラとフルーツケーキを買ってきた。「岸恵子自伝」という本も贈った。日ごろの私の勝手な行動の罪滅ぼしも兼ねてだ。心が通じたかはわからないが、バラを花瓶にいけ、紅茶を入れてくれて、ケーキを仲良く食べた。これでいいのだ。4年後は金婚式だ。それまでは元気でいて、最後の海外旅行をしたいものだ。

          
      写真左・バラ三輪          写真右・フルーツケーキ
  

5月19日 第一回目のワクチン接種

待ちに待ったコロナワクチンの第一回目接種だった。かかりつけの高品医院でうってもらった。何も痛くなく、1日経っ副反応らしきものもなかった。これでひと息ついたが、安心するには次回6月9日の二回目接種が終わってからだ。6日に予約開始と同時にパソコンでアクセスしたが、つながらず、ほおっておいた。妻の分は、娘がスマホでやってくれていたが、初めはなかなかつながらなかったようだが、午後「とれたよ」の知らせ、私もパソコンで再度挑戦したがダメ、娘から「お父さんのも取ってやろうか」との知らせ、「頼むよ」で解決した。パソコンより、スマホがつながりやすかったようだが、ジャニーズの予約取りで娘は鍛えた経験も生きたようだ。情報技術の世界は、年寄りにはついていけない時代になってしまった。

      
   写真左・ワクチン風景(イメージ)          写真右・接種済み券
  

5月16日 植えても、植えても・・・

山荘の庭の花壇に花を植えるが、すぐに鹿にやられてしまうので、客が来る直前にマリーゴールドを買ってきて植え、少しでも長く維持しようとするのだが、二三日でやられてしまう。マリーゴールドは匂いが鹿にはいやらしく食べないと聞いていたが、慣れてくると食べるのだ。今週も山菜採りの人が来た日に植え、まだ茶色の庭に彩を添えたが、三日目の朝には、きれいになくなっていた。こんな繰り返しが、今年も秋まで続くのだろう。鹿がいやがる水仙もこの春はつぼみのうちにほとんど食べられ、ミゼラブルな状態になってしまった。鹿とのいたちごっこの庭作業である。

      
      写真左・植えた直後          写真右・植えて二日後
  

5月15日 山菜パーティ

春は山菜、秋はきのこというのが、私の恒例行事となった。山菜・きのこ博士の吉田さんと阿波踊りで知り合ったことが縁である。「山菜は決まった場所に毎年出てくるから、飽きてきた」と言ったが、今年も早稲田の武藤先生夫妻も来ての山菜採りである。昨年より一週間ほど早かったが、タラの芽はほとんど摘まれてしまっていた。コシアブラはちょうど葉が出たてで、天ぷらにちょうどよい。山ブドウの花も出たばかりだが、採るのに苦労するほどの斜面だ。と言っても、他人の敷地のヘリだから文句は言えない。そんな苦労をして採ってきた山菜は、天ぷらにするのがいちばんうまい。ジョニ黒のハイボールで味わう春の天ぷらは最高である。面倒くさいと言いながら、今年も蓼科の山菜パーティは終った。次は6月初めの奥志賀山菜ツァーである。

      
      写真左・こしあぶら          写真右・ベランダでランチ
  

5月14日 木下夫妻、来荘

下の娘・景が結婚して、裕紀君と一緒に初めて、蓼科の山荘に来た。山登りをしない裕紀君だが、辺りを散歩するのは抵抗なさそうだ。一緒にあかしあの小径を歩いて、鹿山の湯に行ったのだが、火曜・金曜は午後3時からというゴールデンウイークらしからぬルールで温泉に入れず、アイスクリームを食べて、バスで帰ってきた。ドライブして、車山へ行き、リフトで頂上へ上がり、この春からできたはやりの展望テラスから富士山など眺めたりした。最後の夜はハーベストのレストランへ行ったが、連休で送迎できないというので、呑まない景に帰りは運転してもらうことにしたが、前日に運転練習し、往復してもらった。ちゃんと安全に帰ってこられた。「別荘を引き継いでくれないか」と頼んでみたが、管理費に年間50万かかると言ったら、無理と言われてしまった。自分たちの生活を築くことが先決で別荘などはまだまだ先の話だという。無理からぬことではある。

      
      写真左・山荘をバックに         写真右・ハーベストで夕食
  

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4 月

4月27日 ノマドランド

ノマドランドがアカデミー賞をとった。地味な映画である。私にとって、アカデミー賞が決定する前に見た唯一の映画だった。映画の筋書きより、背景となるアメリカの大平原の景色が魅力で映画館に行った。私はアメリカの景色が好きだ。特に、大平原を一直線に伸びる道を車で走るのはたまらない。ルート66も全線走破した。「大草原の小さな家」のローラの家族の旅の跡も走った。そして西部開拓の道、オレゴントレイルの跡も車で、ミズーリ州からオレゴン州まで数年かけて辿った。いずれの旅にも大平原は付き物だった。目標のない平原を馬で、馬車で(実際は馬は体力がないので牛車だった)、旅する日々は長く、厳しく、時には恐怖に満ちた旅だった。そんな旅を現代の話としてノマドランドに期待して見に行ったのだが違っていた。しかしそこには現代の厳しく、寂しい大平原の旅が写されていた。荒野の一本の道は冬の光景が多く、暗かった。大平原の旅は今も、昔も変わらない側面があることを知った。

      
                写真-アメリカの大平原を走る
  

4月24日 早立戦

今日はプロ野球併用日なので、午前10時開始、観客数も5000人に削減とのことなので、早めに家を出て、球場に入ったのが10時15分くらいか、入った所のテレビで早稲田がもう1点とられていた。「あららら」とネット裏の2階席に上がり、座ったらもう3点になり、まだ落ち着かないうちに5点になっていた。1回にして万事休すだ。投げるのはエースで今秋のドラフト候補なるであろう徳山、相手は立教だ。東大の次に弱いと言われる立教なのに、1回で5点とは。その後も加点され、終わってみれば10-3,何たることだ。2週前の東大相手に0-0で引き分けたくらいだから、今年は弱いなと思っていたが、このテイタラクだ。満塁が3回もあったのに、ヒット1本が出ない。打線につながりがないのだ。(翌日も逆転負け)今春の連続優勝はこれでついえた。次の試合の慶明戦は面白かった。ボークてもぎ取った1点が勝敗を決し、慶応が勝った。ここまで4連勝中の立教が優勝するかも?

       
      写真左・一回で万事休す          写真右・神宮球場
  

4月20日 青木村五島慶太記念館

青木村は別所温泉の裏、鹿教湯温泉の近くの村と思っていたが、もっと麻績インターに近い所の村だった。真田資料館に置いてあった「五島慶太と渋沢栄一の関係」というチラシを見て、蓼科の帰り道に来てみた。ここは東急グループの祖、五島慶太の故郷なのだ。村輩出の偉人は、この村の発展にずいぶんと資金援助をしたらしく、村の施設は立派だ。その功績と人を讃えるために昨年4月、五島慶太記念館ができた。今日は開館1周年を祝い、クリヤファイルをもらった。玄関には東急の花輪も飾られていた。渋沢栄一は養蚕の繭玉買いでしばしば信州に来ていたという。明治になり実業家として、英国を視察したとき、工業化の発展で年は、工業地帯と住宅地帯は分かれ、都市郊外に環境のよい住宅地域を開発する必要性を学んだ。五島慶太は東急で鉄道を町と郊外を結ぶ線路網を延ばしていたが、それを利用する通勤者を増やしたかった。渋沢の理想と五島の希望が合致し、今の東横線の田園調布開発につながったのだ。その後、沿線には慶応大学、東京工業大学を誘致し、今では東京でもっとも人気の高い鉄道になっている。

       
       写真左・五島記念館           写真右・青木村風景
  

4月20日 須坂の桜

スキーを終わったあと、志賀の山を下り、須坂から菅平を抜けて蓼科に戻ることにした。時間のあるときは、このコースだ。須坂から菅平に上がる直前の村の郊外に桜並木がある。いつも今頃が見ごろなのだが、今年は早いので終わっているかな?と危惧して通ったところ、まだきれいに咲いていた。道路沿いの小川に沿って、300mくらい桜並木が続いていて壮観だ。この季節はいつも楽しいドライブになる。菅平から真田に下り、ふと真田一族資料館に寄ってみたくなった。この町は真田三代発祥の地であり、城下町であった。と言っても、山城なので、地味な村である。真田一族は合戦じょうずと言われたが、山城専門の武家であることもその一因であろう。資料館脇の茶店で摂ったくるみおはぎ付きのランチは美味しかった。

       
      写真左・須坂郊外の桜         写真右・真田記念館のランチ
  

4月20日 今シーズン最後のスキー

今月初めの奥志賀早朝スキーが楽しかったので、今日も滑りに来た。夕べはブルーエに泊り、今朝1時間半だけのスキーで蓼科へ帰る。昨日は終日雨だったし、気温もそんなに下がっていないので、朝の雪はやわらかいのではないかと危惧したが、ゲレンデは悪い感じではないが、前回よりは凍っていないが、最初の滑りはまずまずだった。エクスパート斜面を3回滑っているうちに、急速に雪がやわらかくなってきた。やはり気温が高いのだ。山道の迂回コースを滑ってみたら、まだ日陰の中だったので、硬い雪が続き、快適だ。2回続けて滑ったが、スノーモービルの跡がついているのが気にいらない。再びエクスパートに戻り、1回滑り、最後は林間の迂回コースを仕上げに滑り、今シーズンの打ち止めとした。コロナで思うようなスキーが楽しめなかったシーズンだったが、無事に滑り通せたことでよしとするか。
       
 写真左・早朝スキーリフトを待つスキー客   写真右・早朝のエクスパートコース
  

4月10日 春のリーグ戦始まる

今日から春の六大学リーグ戦が始まった。最初の試合は早稲田ー東大、前期の覇者と最下位チームが開幕戦になるのが、六大学の決まりだ。昨年秋の蛭間の劇的逆転ホームランで優勝した早稲田が、新たなメンバーで春に臨む。相手は東大だし、これで2連勝してはずみをつけたいところだ。1試合目は順調に前半で6点あげ、楽勝かと思われたのに後半、東大に着々と点を入れられ、1点差に追い詰められた。9回はあわや同点かと思ったところで、何とか逃げ切った。翌2試合目は、東大の繰り出すピッチャーを打てず、0点が続き、終わってみれば0−0の引き分け。何たることか、東大から1点もとれず引き分けとは?打線が弱い。ヒットが出ても続かないのだ。今春の連覇が危ぶまれるスタートとなった。それにしても応援団が入るとこんなに雰囲気が違うものか。外野は応援団専用で、観客は入れないのだが、響いてくる応援歌、コンバット、大進撃などの応援メロディを聞くと浮き浮きしてくる。敵の東大の「闘魂は」や鉄腕アトムマーチも心地よく聞こえる。六大学野球には応援団が欠かせない存在なのだ。

       
      写真左・小宮山監督のノック       写真右・バックネット裏から
  

4月6日 春の八子ヶ峰

蓼科にいる楽しみは手軽に山登りができることだ。春になり、この冬の雪解けは早かったので、もう八子ヶ峰は歩けるだろうと、キャラバンシューズでよく晴れた朝、山登りに出かけた。駐車場に車をおき、短いが急な登り道に入っていった。登りが苦しい。以前より、体が動かなくなっていることに気が付いた。20分で尾根に取りつき、ひと休み、前は立って休んだのに今は、道脇の石に腰かけての休息だ。そこからしばらく登って、カラマツ林を抜けて、縦走路に出てここでは大休止、以前は30分で来たのに、今は40分かかった。アルビレオヒュッテを目指し、歩を進めると、蓼科山が眼前に聳え、右手は北八ツから赤岳、権現への南八ツ岳への稜線がくっきりと望めた。ヒュッテを過ぎると、前方の車山の向こうに穂高から槍ヶ岳の白い峰々が輝く。車山はスキーシーズンが終わったばかりなのか、ゲレンデの白い斜面が残っている。中央アルプスも御嶽も今日はきれいだ。山は雪がついているときが美しい。ツーインワンのスキー場にもまだ雪がいっぱい残っている。八子ヶ峰西峰でも石に腰かけ、周りの山を堪能した。以前と比べると、休む回数が増え、休む時間も長くなった。やっと駐車場に戻ってきたときは3時間を越していた。前は2時間半で回れたのに、歳とともに、歩く速度も遅くなり、休憩も増え、長くなってきているのだ。それでも歩き通せたことを良しとするか。

       
 写真左・スキーゲレンデ残雪の向こうに穂高が    写真右・雪の消えた蓼科山
  

4月3日 春の早朝スキーの楽しさ

一昨年くらいからか、春は奥志賀の早朝スキーが楽しいことを知った。春の雪はすぐグチャグチャになり、滑りにくくなる。ところが、朝は冷え込みで雪が締まり、時には凍ってアイスバーン状態になり、すこぶる滑りやすくなるのだ。そのうまみを生かして、3月末〜5月連休の週末は朝6時半から8時までの間に、きれいに圧雪したゲレンデをリフトを動かして滑らせてくれるのだ。これがたまらなく快適で楽しい。今朝もブルーエに泊って滑ってみた。いつもよりアイスバーン状態でカチンカチンだ。エクスパートコースの上は急斜面だ。ここで転んだら、タダですまなくなると考え、曲がりはボーゲンで恐る恐るだ。それでも徐々にスピードが出てくるので怖い。何とか緩斜面に出て、リフトまでも硬い雪なので、スピードが出る。エクスパートを、2,3回滑っていたら、「小田さん!」の声、見ると、永瀬さんの姿だ。今シーズンは極楽スキーもなかったので、初めてのゲレンデ遭遇である。聞くと、毎週のように、金曜深夜に逗子の家を出て、早朝に奥志賀に来て、昼過ぎまで滑ってから帰る、というのを繰り返したと言う。会社からは泊りのお出かけはするな、というお達しで、苦肉の策でスキーを続けているのだ。感心、感心!そこまでして続けるスキーは楽しいものなのだ。

       
   写真左・きれいに圧雪されたゲレンデ     写真右・早朝スキーを楽しむ人
  

4月1日 神代桜は2000年の長寿命

神代桜は北杜市武川にある樹齢2000年と言われる銘木の桜だ。日本武尊命が植えたと言われる歴史的な桜で、接ぎ木をしながら今世まで生き延びてきたそうだ。数年前に妻と来た時は、雨の日でかつまだ咲き始めのときでみすぼらしかった。今日は晴れているし、今年の桜は早いというしで蓼科へ行く途中で寄ってみた。みごと満開である。老木は支え木でかろうじて枝を維持しているが、それでも桜の花はみごとに咲いている。立派なものだ。歴史を感じさせる名桜である。神代桜から枝分けした孫桜も大きくなり、満開の花を咲かせているが、その桜の向こうに見える甲斐駒ケ岳も雪をまとい立派である。名桜と名峰の組み合わせは、ここ武川を代表する景色である。

       
   写真左・木に支えられて咲く神代桜     写真右・満開の桜の向こうに駒ケ岳
  

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3 月

3月29日 日野の桜も満開

日野の市内にも桜の名所がいくつかある。高幡不動境内の桜は平山丘陵の森の斜面に咲いていて、常緑樹の緑と桜のピンク色がうまく混じり合ってきれいだ。家の近くの百段階段を上がって、市役所に続く直線道路の桜並木はみごとだ。その先には中央公園の桜もある。そしてもうひとつ忘れてならないのは、多摩川沿いのゴミ処理場近くの小川に沿って続く桜並木だ。両岸から桜満載の枝を水面に張り出させて、川を覆う桜景色は壮観である。交通の便がよくないので、人出も少なく、花見には最適なスポットだ。
近くにはアンジャッシュや三浦友和、忌野清志郎が出た日野高校もあり、都立では強豪校の野球部がいつも練習している。今は校舎建て替え中で三階建てのプレハブ校舎だが、完成は2025年と出ているので、この春の新入生はプレハブにり、卒業もプレハブからということになる。これは可哀そうだが、不運とあきらめるしかないか。最後に忘れてならない桜の名所はコニカミノルタの本社工場を取り囲んでの桜だ。もともとサクラフイルムだっただけに、ここの桜もみごとである。この工場の塀の隣は八王子市になるので、日野市は桜とともに税収でも恩恵を受けている。

      
    写真左・市役所へ続く桜並木        写真右・小川を覆う桜
  

3月20日 うかい亭

何年ぶりかのうかい亭である。八王子市内を見下ろす山にある高田屋嘉平の屋敷を移築したとかいう豪邸での鉄板ステーキの店だ。末娘・景の誕生日、結婚二次祝いを兼ねて、裕紀君ともども招待した。コロナで営業時間短縮とはいえ、その短い時間にお客は来るようで満杯だ。魚も加えたコースはバラエティに富み、鉄板で焼いた肉をサイコロにしてくれて食す肉はとてもおいしい。齢をとってくると、1枚の肉よりも、このように小さくしてくれた肉を好むようになった。食事の途中で、結構揺れの大きい地震がきたが、シェフは「山の上は揺れるんですよ」と言って動じない。部屋の飾り棚にあった大きな壺が落ちてくるのではないかと不安になったが、無事おさまった。帰りはタクシーで北島三郎邸の前を通ってもらい、八王子駅に出た。

      
     写真左・うかい亭の食事       写真右・木下夫妻と小田家
  

3月12日 またもやの昼神の星空

信州最南端のスキー場・ヘブンスそのはらは星空観賞でも有名な所だ。季節は違えども、前に来た時も鑑賞コースで宿を予約した。このときは雨模様でプラネタリウムを見ただけでダメだった。3月なら大丈夫だろうと同じホテルを予約したが、またもや昼過ぎから雨でダメ。それでも鑑賞会はやるらしく、早目の夕食を摂って、バス、ロープウェイを乗り継いでスキー場へ。上は雪になっていた。暗い雪空を照らして、このあたりがオリオン座と言われても、ハアという感じだ。宿屋の食事のとき、「2回も同じことが起こるのは、この宿と相性が悪いようだ」と言ったら、仲居さんが「そうですね。次は別の所に泊ってください」と言われてしまった。

      
 写真左・ヘブンスそのはら星空観賞ツァー   写真右・二度目の宿・ホテル阿智川
  

3月11日  早太郎のお寺は広大

千畳敷ホテルの朝食は7時と早い。山小屋並みである。チェックアウトも9時と早い。その頃、始発のゴンドラが上がってきて、登山者が増えた。そそくさと身支度をして、カールの雪原に向かっていった。日帰りで木曽駒ヶ岳へ行ってくるのだろう。まばゆいばかりの晴天である。夕べホテルに泊って朝、駒ケ岳へ向かったグループは既にカール最後の急坂・八丁坂を越えて、浄土乗越に着いたようだ。(この2日後の降雪で、八丁坂で雪崩が発生したが、巻き込まれた人はいなかったようだ)我々は11時前のゴンドラで下りた。
今日の宿・駒ヶ根リンクスへのチェックインにはまだ早いので、伊那名物のソースかつ丼を食べてから、早太郎伝説が残る法前寺へ行った。境内は広く、植物園にもなっているような名刹である。「昔、早太郎という山犬がこの寺に飼われていた。今の静岡県の磐田市周辺に怪物がいて”早太郎はおるまいな”と言いながら、村の娘をさらっていったそうだ。それを聞いた光前寺は早太郎を磐田へ遣わし、怪物と戦い、娘を助け出した。しかし傷を負った早太郎はようやく光前寺に戻り、息絶えたそうだ」この伝説が残る光前寺には早太郎の墓があり、銅像もある。またこの縁で、ここ駒ヶ根市と磐田市は姉妹都市になっているそうだ。この夜、泊ったホテル・リンクスでも星空鑑賞会があり、駒が池まで行き、星空を眺めた。、中央アルプス方面の高い所に光り輝く所が夕べ泊った千畳敷ホテルだと教えてもらい、星空より印象深かった。

      
       写真左・早太郎像         写真右・宝剣岳をバックに
  

3月10日 千畳敷の星空

これまで八ヶ岳観光ホテルや昼神温泉の星空観賞ツァーに参加したが、毎回、天候悪く、星空は見れなかった。三度目の正直で、中央アルプス・千畳敷カールでの星空観賞会に出かけた。標高2600mの中央アルプスにあるホテルに泊って星空を見るのは、さぞかしきれいだろうの魂胆で出かけた。ロープウェイで上がったカールは一面の銀世界、夜までの時間はスノーシューハイキングをカールで楽しんだ。
南アルプス稜線の向こうには富士山がうっすらと見えた。ここから見る南アルプスの中では塩見岳がとても目立つことを初めて知った。空はよく晴れて、今夜こそ星空は見えることだろう。夕食後に始まった鑑賞会、まず星の説明があり、その後、外に出て空を見上げての星座を追う。オリオン座を教えてもらい、そこを起点に冬の三角形、ダイアモンドなどを知り、ふたご座の神話を聞き、感動した。弟よりなんでも秀でていた兄は、弟が死にひんしたとき自分も死んで、弟と一緒にいたいと言ったそうな。兄弟愛にあふれた星座なのだ。

      
      写真左・千畳敷カール         写真右・南アルプス遠望
  

3月2日 早春の蓼科

今年は雪も早く、寒くかったので春は遅いだろうと思っていたのに、2月初めにもう雪が少なくなり、それからひと月後の今日は、裏の駐車場に車が入れるほどに無くなっていた。ただ幹線道路脇には除雪後に残った雪がひとかたまりあるが、車で乗り越えられるだろうと突っ込んだところ、車の腹がひっかかって動かなくなってしまった。シャベルで雪をかき出そうとするが、下の雪は凍っていてかき出せない。お湯を流してみたが、奥までは届かない。困っていたときに、上から除雪帰りの除雪車が来た。手を上げて止め事情を話すと、降りて来て手伝ってくれた。何とか車が動いたあと、除雪車は駐車場までの坂道を往復して、雪をかき出してくれた。ほんとうに助かった。いろいろなことが起こる蓼科の早春である。

      
    写真左・駐車場へ下りる道         写真右・道路はカラカラ
  

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2 月

2月27日 法坂へ、法坂へ

昨日から志賀高原にスキーに来た。1月も一緒だった森さんとだ。今日は雪が舞ってはいるが、だんだん晴れるという予報を信じて法坂のグリーンでの昼食を目標に、奥志賀から滑っていくことにした。法坂は、今ではサンバレーという洒落た名前になっているが、55年前から来ている私には法坂が今でもしっくりくる。今日は土曜なのでどのスキー場もオープンしているので、計画通りにいくだろう。焼額を抜け、一瀬、寺小屋、東館、ブナ平、ジャイアント、蓮池、丸池を経由して、法坂のグリーンに着いたのは昼過ぎ、いちばんの混雑時なのにコロナの影響か、窓側の席は埋まっているが中央部はがらすきだ。こんなに空いているのははじめてだ。森さんはクリームコロッケ定食、私はカツカレーに生ビールだ。森さんはそのあとケーキセットまで注文していた。帰りはバスにしたかったのに、2時間以上空いてしまう。仕方なくまたスキーを履き、蓮池かジャイアントに抜け、西舘経由で帰ってきた。以前は1時間に2,3本あったシャトルバスが、今は1時間に一本、昼過ぎは2時間も空いているのだ。これはまさにスキー客減少を意味しているのだが、コロナが終われば、外人客が戻ってきてさらに増えるだろうから、ヨーロッパのスキー場並みに本数を戻してほしいものだ。

      
  写真左・志賀高原から北アルプス展望     写真右・サンバレースキー場
  

2月27日 厳冬の別荘地

我が山荘の前の側線道路はしらかば4号線、このどん詰まりまで往復するのが、最近、私の日課となっている。夕方4時ちょっと前にテレビの水戸黄門が終わってからの歩きだ。2月末ともなると夕方4時だとまだ明るく、夕日が八ヶ岳を照らしている。これが11月だともう薄暗く、散歩を終わって帰ってくるととっぷり日が暮れている。3ヶ月の差は大きい。4号線沿いにはこの冬を別荘で過ごした人が3組いるらしい。手前から木部さん、多摩ナンバーの車が秋からずっと止まっている。昨冬はいなかったので、今年かららしい。古いスノボーを表札にしたので、冬ごもりはここでと決めたのだろう。その先には中国系フランス人のチェンさん、奥さんは日本人だ。諏訪ナンバーの車に、フランス国旗のステッカーが貼ってある。フランスでは外務省に勤めていていろいろな国の大使館勤務が長かったらしい。退職したとき、どこに住むか奥さんと相談したところ、日本の自然の中に住みたいというので、蓼科にしたらしい。どんづまり近くに豊田ナンバーのトヨタ車、愛知県の人だろう。ここは私が山荘を建てたときからの家なので、もっとも古い4号線の住人でなかろうか?最奥はエアバックのタカタ一族の豪華な別荘、ここからの眺めは最高だ。ここでゆっくり夕日に染まる赤岳、阿弥陀岳を堪能して、わが山荘へ帰途につく。山小屋生活の至福のひとつである。

             
     写真左・夕映えの八ヶ岳      写真右・四号線の最古参居住者と思われる別荘
  

2月23日 山荘は雪の中

”山荘は雪の中”と思ってきたが、あに諮らんや、道路は乾いているし、雪かきで駐車場造りもしなければと覚悟していたのに、ほとんど雪が溶けていて、バックですっと入った。水入れも少し手間取ったが、何とか通水した。ありがたいことではあるが、信州の北側、志賀高原は大雪なのに、同じ県内でも違うものだ。確かに、蓼科は関東型天気範囲ではあるが、こんな寒い冬にはそれなりの積雪はあったのがこれまでの冬であった。白馬でも黒菱平は3mもあるのに、咲花周辺では数十センチだという。標高差もあるが、いつもの年はこんなに差はない。やはり何かおかしい。地球温暖化は、地形のわずかな違いでも影響を出すのかもしれない。

      
   写真左・雪は少なく道路はカラカラ     写真右・斑雪の中の山荘
  

2月17日 今度は超音波

ヶ月毎に、私立病院で前立腺ガンの治療後の検診を受けているが、もう5年経ちPSAも低レベルなので、そろそろ半年でもよいのではと期待したら、尿検査で潜血がはっきり出ているとのことで、急遽、超音波で検査するとのこと。膀胱がんのおそれがあるそうだ。CT,MRI、そしてこんどは超音波。齢をとると検査漬けである。下腹部を押されての超音波検査の結果は異常なし。ただ腎臓に結石があるとのことだが、5年前のレントゲンにも映っているので自覚症状がないなら、「まあよし、模様見ということにしましょう」との進藤先生の言で終わった。ホッとした。しかし終わったあとに家まで40分のウォーキングが待っていた。
  

2月9日 散歩事情

先月の志賀高原でのスキーは、ちょっと長めに滑ると、”ぜーぜーハーハー”して、とても苦しかった。前はこんなことがなかったのに。体力が衰えているらしい。で、このところウォーキングに励むことにした。近くの百段階段(実際には112段)をまず上がり、市役所を通って、20号バイパスへ、神明小鳥の森公園の気持ちの良い散策路を歩き、中央線にぶつかって、帰路につく。これで7500歩くらいだ。1万歩歩きたいのだが、それにはもっと距離を延ばさなければならないが、キツイ。市立病院へ午後3時予約で行ったときも往復歩くことにした。診療が5時過ぎに終わるという”何が予約なのか”で、帰りは日が暮れていた。暗い中を40分かけて帰宅した。これでも9000歩。1万歩はきびしい。それでも今までより歩いているし、新たなコースも見つけたし、これでスキーや山登りも楽になるなら、よしとするか?

      
      写真左・脅威の百段階段       写真右・野鳥の森公園散歩道
  

2月5日 ミンキー死す

ソウルに住んでいる娘夫婦が飼っている小犬・ミンキーが急死したとの連絡が来た。夫婦でとても可愛がっていたのに。私たちが行ったときも、すぐに慣れて、ソファに飛んできてじゃれつく姿が可愛かった。死んでわかったことは肺がんだったらしい。死ぬ直前にはたくさん食べていたらしい。死を予感して、天国の旅路の腹ごしらえをしたのか?香典を振り込んだら、娘はその金でペットの慰霊セットをアマゾンに発注し、それがわが家に納品され、韓国に送ることになった。インボイスへの英語での記入に手間取ったが何とか郵便局から送れた。1週間ほどで到着し、祭壇の写真が送られてきた。ミンキーの写真が切ない。旦那のジェフンは毎日涙ぐんでいるそうだ。次の保護犬をもらったようで、その世話に大変そうだが、早く悲しみから抜け出してほしいと祈っている。

            
      写真左・ミンキーの仏壇セット       写真右・ミンキーとジェフン
  

2月1日 横手山のボルシチ

きれいに晴れた月曜日の朝、横手山へのツァーに奥志賀から出かけた。蓮池まではいくつかのスキー場を横断していく。一ノ瀬から寺小屋スキー場へ行こうとしたら、「閉鎖中」の看板、休日しかリフトを動かさないとか。そこで一ノ瀬の壁を下りながら、タンネの森を抜けて、高天原へ。タンネの森のリフトも動いていない。高天原から西舘山に上がったら、西舘のリフトも動いていないが、ゲレンデはきれいに整地されていて滑れそう。誰もいないゲレンデを楽しく優雅にジャイアントまで下った。蓮池へは今年架かった3連結のゴンドラで山の駅へ出てバスで熊の湯へ向かい、横手山でボルシチを食べた。ここのボルシチは渋谷のロゴスキー譲りの味でボリュームたっぷりでおいしい。帰りに発哺で東館へのゴンドラを見たら、これも動いていない。どこもかしこも平日は休業中なのだ。コロナ禍の影響はスキー場にも表れていした。

            
     写真左・横手山名物ボルシチ    写真右・志賀高原のシンボル笠岳遠望
  

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1 月

1月31日 奥志賀スキーは慎重に

スキーは生き甲斐のひとつとなっているが、今シーズンは仲間の企画が次々とつぶれ今回がはじめてのスキーとなった。極楽スキー仲間の大田さん、池田さん、両長老のツァーに加えてもらって、志賀の焼額に来た。いつも奥志賀に滞在しているので、焼額のプリンスホテルに泊まるのは初めて。志賀ツァーのときの通り道のゲレンデだが、気持ちよいゲレンデが広がるエリアだ。大田さんは一昨年、手術後順調に回復しているものの、滑ると気持ち悪くなると言って早目に切り上げる。高令化もあり、体力がなくなってきているようだ。池田さんも元気だが、無理しないスキーに徹している。私だって、転ぶのが怖いので、恐る恐るスキーを操っているのが実態なのだ。天気がパッとせず、来た日28日の午後がいちばんよかった。しかし、コロナ禍の平日のせいか、ゴンドラは午後3:15で終わるというではないか。あと40分くらいしかない。あわてて仕度をしてゴンドラに飛び乗る。リフトも1本しか動いておらず、そのリフトだと思って行ったら運休中、別なリフトだったようで、ゴンドラは運転終了。ホテルまで歩くしかないと思ったが運よく10分後にシャトルバスがあったので、これに乗ってホテルに帰還した。あわただしい初すべりだった。

      
    写真左・スキー場もコロナ対応      写真右・夕食の窓の外は吹雪
  

1月27日 厳冬の別荘地

大寒直後の蓼科は寒く凍りついている。陽射しはあるものの空気は冷たく、散歩もままならない。ゴミ捨てを兼ねて、日向を選んで4号線を散歩した。晴れた空には夕陽に輝く雲が浮かんでいる。森の雪の中に鹿が2頭、夫婦だろうか?こちらを見ていている 。カメラを構えたら飛び跳ねたが、撃たれないと思ったらしくまたこちらを見つめている。カメラを構えても今度は逃げない。「きれいに撮って」とでも言うように、じっと見つめている。今の季節は鹿たちの天下だ。4号線を奥まで歩いたが、滞在しているのは3軒だった。住んでいるのは1軒か2軒、もうひとつは長期滞在かな?こんな季節でもいるというのなら、もう住みだしているのかもしれない。

      
   写真左・人の少ない冬は鹿の天国      写真右・木の間越しに多くの別荘
  

1月27日 駐車は道路脇スペースに

志賀高原スキーの前に山荘に寄って、スキー積み込み、そしてカレンダー交換。水抜きは長いこと来なかったので心配で管理センターに頼んでおいた。下の駐車場を整地するには手間がかかりそうなので、滞在も短いことから、上の幹線脇に停めることにした。道路脇に積まれている除雪後の雪の壁を崩さなければならない。先日の雪は水っぽかったらしく、塊は凍っていて固く重い。シャベルで少しずつ崩し、最後は腕に抱えて、どけた。少し、車線にはみ出しているが、車の量も少ないことだし、ほぼ道路に平行に駐車できるので、これで良しとした。ただ夜、走ってくる車が気が付かず接触する恐れがなきにしもあらずと、後ろに赤い石油ポリタンクを置いて目印とした。

      
   写真左・道路沿いギリギリの駐車      写真右・ここが山荘には便利
  

1月26日 御神渡り消えていた

今年の冬は寒く、諏訪湖の御神渡りの湖水凍結が正月明けに認識したというので、蓼科に行く前に寄ってみた。すわっこランドの前でも見えるということだったが、岸近くは凍っているものの、その先には湖面が広がっていた。どうもこの二三日の暖かさで溶けてしまったようだ。この数年は暖冬で、見られる機会が激減していたので良い機会と思っていたのだが、残念だった。次の機会に期待しよう。

      
    写真左・湖岸は氷でぎっしりだが     写真右・その向こうには湖水面が広がる
  

1月25日 立川の諏訪神社は大きい

立川に買い物に来た。最近よく行く福来軒にラーメンを食べに行ったら休み。その前にある諏訪神社へ寄ってみた。予想外に大きい神社で驚いた。境内も広く、結婚式場と披露宴の建物もある。参道も広く、長く、福来軒は創業100年というから、諏訪神社とともに歩んできた店なのだ。本来の参道は福来軒側ではないが、傍にあることには変わりない。この神社も名前からして、諏訪大社の流れなのだろう。御柱は立っていなかったが。

      
     写真左・諏訪神社山門          写真右・諏訪神社への参道
  

1月12日 リコールの次は板金修理

正月明けに、エンジン部分のリコールがあり、ヤリスを修理に出したばっかりなのに、返ってきたら、こんどは図書館近くの細い道で、左の後部ドアをこすってしまい、またまたネッツトヨタ行きだ。ヤリスになって、初めての自損事故、ぶつけられて修理、リコールで修理、そしてこすって修理とこのふた月で修理の連続だ。先が思いやられる。今月末の志賀高原行きは心して運転しなければいけない。

       
   写真左・ 反射で傷が見にくい       写真右・左後部ドア斜めに傷
  

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