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蓼科日記

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蓼科・東急リゾートタウン
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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。

毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2007年>


 [1月] [2月] [3月] [4月] [5月] [6月] [7月] [8月] [9月] [10月] [11月] [12月]

 <2004年> (2004年分は、こちらからリンクします。)

 <2005年> (2005年分は、こちらからリンクします。)

 <2006年> (2006年分は、こちらからリンクします。)

 <2008年> (2008年分は、こちらからリンクします。)

 <2009年> (2009年分は、こちらからリンクします。)

 <2010年> (2010年分は、こちらからリンクします。)

 <2011年> (2011年分は、こちらからリンクします。)

 <2012年> (2012年分は、こちらからリンクします。)

 <2013年> (2013年分は、こちらからリンクします。)

 <2014年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

 <2015年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

 <2016年> (2016年分は、こちらからリンクします。

 <2017年> (2017年分は、こちらからリンクします。

 <2018年> (2018年分は、こちらからリンクします。
 

2007年

12月

12月15日 「クリスマス初すべり
本来ならクリスマスは1週間先だが、23日は私の誕生日。一昨年、この日に極楽スキークラブのクリスマススキーを入れたら、家族からひんしゅくを買った。そこで、今年は一週間早めた。集まる女性たちも、クリスマスイヴは避けてほしいと言っていたので、ちょうどよかったかもしれない。クリスマスイヴに誘ってくれる男性はいないような気もするのだが…?
うっすらと雪景色になっていたが、スキー場は人工で積もらせたゲレンデだけ滑走可能だった。午前中、白樺高原、午後はしらかば2in1と回った。このふたつのスキー場はリフト券が共通なので、ありがたい。しらかば2in1は、少し急な斜面も滑れたので、初すべりとしてはとても楽しかった。シーズン初めて、スキーが雪の上を滑り出す時は、いつもワクワクする。「こんにちは、今年もよろしくね」と雪にささやきたくなる。 夜は山荘でクリスマス・パーティ。近くの店から出前をとってやってきたが、何かイマイチだったので、今年はハイアット・リージェンシー東京から、冷凍真空パックのパーティメニュー料理を取ってみた。当たりだった。6種類の料理はホテルではフルコースで出てくるプレート。真空パックなので味も落ちず、とてもおいしい。付け合せの温野菜は、スーパーであわてて仕入れた野菜を女性陣が料理し、きれいに皿に盛り付けてくれた。シャンパン、ワインもハイアット料理に合せ、ワンランク上を仕入れた。やはりきちんと考えて準備するとうまくいくことを悟った、今年のクリスマススキーだった。残念なのは、参加者の男性が、スキーではなく、スキー場のテラスで滑って転んで、捻挫してしまったこと。本格シーズンに間に合うよう、早い回復を祈る。

   
 

12月9日 「冬の準備」
11月下旬にゲストハウスの浴室のログ壁に防水塗装のペンキ塗りをした。あれから半月も経つのに、しばらくぶりで来た山荘の中は、まだ塗料の匂いがかなり強く漂っていた。窓を閉め切っていたので、外に抜けないらしい。前は春に塗っていた。そのとき、あまり感じなかったのは、窓を開けっ放しにできたからなのだろう。晩秋の室内のペンキ塗りは、窓を開放できないために、中に匂いがこもってしまうようだ。オーナー浴室もやる予定だったがやめた。春に延期した。
その空いた時間に、玄関のベランダ下の薪の移動を行った。三列に奥から並んでいるのだが、前に積んであるものから使うので、前の列が空いていく。薪割りをし新しくできた薪は、空いている前列に積むことになる。古い薪は、奥の列に積んであるから、こうなると、いつまで経っても古い薪は使われず、最近のものばかりを燃すことになってしまう。「先入れ先出し」ではなく、「後入れ先出し」になっている。これは不合理なので、前列が空いている今、最後列の薪を前列に動かし、新しく割った薪を後列に並べる作業をやった。これが大変。まず横から取り出せるよう除雪機や草刈機を置いてある場所を開け、そこから最後列の薪を外に放る。空いた所に、新しい薪を運び込んだ。ベランダ下なので、中腰で出したり入れたり作業が続く。時々、ベランダ床下に頭をぶつけ「イテッ!」。入れ替え作業を終えたときは、ぐったり、鼻の中はホコリで真っ黒になっていた。冬の準備は忙しく、疲れる。

   
 

12月7日 「YHP・OB会」
しばらく出ていなかったYHP・OB会に参加した。信州での生活の話、ペンションの宣伝もしてよいとのことで、パンフレットを持ってイソイソと出かけた。1973年、横河ヒューレット・パッカード(YHP)に入って、2002年に退職するまで29年間お世話になった。当時は測定器が主流ビジネスだったが、いつの間にかコンピュータ会社に脱皮し、測定器ビジネスはアジレントという会社に分社した。名前も横河がとれ、HP100%の会社になった。YHPは昔の測定器主流時代の会社の名前、よき時代に良い会社で過ごした思い出がいっぱいある。経営者の「社員を大事にする」姿勢が隅々にあふれ、働くことがとても楽しかった。毎日10時には牛乳とお菓子が配られた。最初は、アメリカ式にドーナツだったらしいが、日本は和菓子だと言って、どら焼きは「若草山」、ひよこの和菓子は「ことり」、王選手のナボナは「ハボナ」という、今なら名称詐称で訴えられそうなネーミングの菓子が出てきた。でもおいしかった。いも羊羹は女性に人気なかったナ。昨今の不祥事続きの会社を見るにつけ、「社員を信頼し、社員に任せ、その家族にも配慮する」HPの経営姿勢はすばらしいと思う。幾多の変遷はあったが、世界最大のコンピュータ会社に成長した。HP-WAYが生き続けていることをOBとして誇りに思う。 こんな会社の古きOB会だから、とてもなごやか。その場所で、「信州のワーク・ライフ・バランス」と題して、蓼科や志賀での日々を紹介し、ベルサルームズの宣伝もさせてもらった。よい集まりだった。

   
 

12月5日 「お菓子になった小田山荘」
10月に来られた大塚さんの家族、幼稚園に行っているさらちゃんにとって、山荘の天窓はとてもお気に入りだったようだ。お菓子教室で、お菓子で何かを作ろうとなったとき、”蓼科の山荘”にサッと決まったという。そして出来たお菓子の山荘の屋根には、ちゃんとビスケットで天窓がはめ込まれている。ベランダもついている。楽しく、思い出に残るお菓子の山荘だ。妹のユラちゃんも楽しそうだ。こんな形で、蓼科の山荘がふたりの心に刻まれるなら、とてもうれしい。
また来てね。

   
 

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11月

11月18日 「初雪とロングトレイル」
朝から寒々としていると思ったら、チラチラと降り出した。庭がうっすらと白くなった。初雪だ。この冬の訪れは早い。こんな年は、意外と積もらないかもしれない。西高東低のきちんとした冬型になると、蓼科は関東の天気図圏に入るようで寒いが晴れていることが多い。雪も少ない。逆に、昨年のように降るべき所に降らない崩れた冬型になると、蓼科は雪が多い。だからこの冬は平年並みの予想からすると、初雪は早かったが、雪の少ない冬になりそうだ。当たるかな?
そんな雪の舞う高原を下りて、茅野市役所で開かれた「八ヶ岳ロングトレイル・シンポジウム」に参加した。八ヶ岳連峰の裾野を回るトレイルを整備しようという計画だ。別荘地の上の八子ヶ峰もその一部になる。一周するには1週間以上歩く。数百キロに達するロングトレイルになるという。茅野市だけでなく、立科町、佐久市、八千穂町、富士見町、原村、諏訪市、山梨県の北杜市といくつもの市町村にまたがる一大プロジェクトだ。既存の道を整備し、途中にトイレや休憩所を設けるという。今週はここまで、来週はあそこまでとつないでいく。全周すれば、完歩賞が出る。作家の加藤則良さんのアメリカのアパラチアトレイルの話もあり、盛り上がった。早くスタートしてほしい。全部歩くぞ!

     
 

11月17日 「去り行く秋」
雪のように降っていた落葉松も、名残の黄金色がチョッとだけの木々が多くなった。その透けた枝の間から、晩秋の青空が覗く。静かに過ぎていく高原の秋。先週まで人の気配があった道上のヴィラのふたつの家もカーテンが閉まり、街に帰ったようだ。そして夜のとばりが降りると、周りは真っ暗になる。明かりのない所は漆黒の闇に包まれる。一寸先は闇という表現が理解できる。外にいるのが怖くなる。薪ストーブで体を温めながら、チラチラと燃える炎を見ていると、ここだけが別世界のような感じで幸せを感じる。誰もいない晩秋の山荘、寂しさはあるが、いちばん高原の夜を実感できる季節かもしれない。新しい薪を二三本、ストーブに入れて、眠りについた。

   
 
11月11日 「花の木連30周年」
花の木連も30周年を迎えた。その区切りに、衣替えも兼ねて、30周年パーティが新宿であった。毎夏参加していた高円寺阿波踊りは今年で終った。来年からは、趣向を変えて、老人フォームの介護士さんたちを巻き込んだような形にしたいと、花の木のママさんは言う。自分たちだけが楽しむ連ではなく、息抜きがなかなかとれない介護士さんのような人たちに楽しさとリフレッシュできる時間を一緒に作ろうという。社会に役立つ花の木連を目指す。いいじゃないか。パーティの最後は恒例、全員、輪になっての阿波踊り。これが楽しくて、やめられない。

   
 
 
11月4日 「香川京子さんの小津映画祭」
今年の小津安二郎記念映画祭には香川京子さんがゲストで来られた。40年以上前から、「香川京子」は私にとって好きな女優のひとりだった。「ひめゆりの塔」での女学生、「天国と地獄」での社長婦人など、役柄は変わっていったが、いつも清楚できれいな香川さんは憧れであった。だから、彼女が「赤ひげ」で狂った女を演じたときはとても驚いたものだった。その香川さんが蓼科に来て、小津安二郎監督について語った。小津映画は東京物語の一本だけだったそうだ。若い娘役で出ているが、彼女にとって、いちばんうれしかったことは、大好きな原節子と共演できたことだったという。香川京子にとっても、原節子は雲の上の大女優、その人の映画に、一緒に出られるのは大変な喜びだったと言う。映画以外の場で接した香川京子さんは、明るく、歳はとったが相変わらず清楚で、美しく、私のイメージ通りの女性だった。それにしても、原節子さんはどうしているのだろうか?鎌倉の家にこもったまま、数十年経った。元気でおられるのだろうか?

 
  
 

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10月

10月 30−31日 「木曽路は山の中・馬籠」
「木曽路は山の中…」は島崎藤村の「夜明け前」冒頭の語り出し。晩秋のさわやかな空の下、馬込宿から中津川へのひとつ手前の落合宿へ妻と一緒に歩いた。「是より北、木曽路」の石碑がある石畳の道だ。この石碑は藤村の書による明治時代のものだった。もっと古いものと思っていただけに、やや興ざめ。石畳は、江戸時代のもの1割、その後の補修追加が9割。歴史を守るのも、金がかかる。馬籠は宿場としてはそう大きくない。山腹の坂道に並んでいる宿屋の数も限られている。それでも中山道の宿場として有名なのは、ひとえに藤村のおかげだ。藤村はこの村の本陣の末っ子として生まれた。生まれたのは東京、馬籠ではなかった。父の実家としてたまに来ていたらしい。この時代には珍しく、洋行を何度と繰り返していた。洒落者・藤村だったのだ。だから浮名を結構流し、藤村記念館の年譜にはない「裏年譜」も書けるほどだという。妻はそれを知っているので、藤村をあまり快く思っていない。「まだ上げ初めし、前髪の、林檎のもとに見えしとき...」の”初恋”にも「何よ」と言った感じだ。

   
 

         「馬籠は信州でなければならない」
前日、泊った滝見温泉は一軒宿で、一組のお客限定。貸切の木の風呂は、露天風呂もあり、滝の対岸の紅葉を見ながら浸かるのはこの上なく気持ちよい。
ここの親父の、「妻籠からバスで馬籠へ行って、中山道を歩く方がよい」とのアドバイスで、妻籠に車を置き、昨日行った馬籠に戻り、馬籠峠への登りに入った。上がるにつれ、美濃の平野が遠くに広がり、昔の江戸方面から木曽路を歩いて来た旅人にとって、この眺めは、「やっと山道から抜けられる」と安堵したことだろう。峠の手前に、集落があり、ここも昔は宿場だったという。観光客でごった返す馬籠とは大違い、コスモス咲く村の道路では、お婆さんが、枝豆の実を一生懸命落としている。昔ながらの秋の取り入れ風景が広がっている。
昔は宿屋だった古い家の表札は堂々の「長野県木曽郡山口村馬籠峠三千九百拾七番地」。”堂々”の意味は、平成の大合併で山口村は、岐阜県中津川市に住民の意思で移った唯一の越県合併。当時の田中康夫長野県知事は、「藤村のふるさとは信濃の国でなければならない」と最後の最後まで判を押すことを渋った。その気持ちはわかる。私とて、木曽馬籠は”信州木曽”がふさわしいと思っている。しかし住民の日ごろの生活にとって、長野や松本はあまりにも遠い、木曽福島だって結構な距離がある。眼下に見える美濃中津川はすぐそこだ。そけへ行けば日ごろの生活は事足りる。だから住民投票では中津川派が勝った。しかし頑強な信州派もいた。そのレジスタンスがこの表札に表れている。その意気に心の中で喝采を送った。

   
 

         「空き缶捨てる人は買うな」

馬籠峠から妻籠へは下りになる。峠の茶屋の自販機には「空き缶捨てる人は買わないでください」の張り紙。買って飲んだあとに気づいた。「それなら置かなきゃよいのに」 途中、ひと休みする9軒の茶屋があったという立場茶屋の場所には、今はただ一軒の趣のある家が残っていた。秋の日差しの中に、ここまで持ちこたえた服部家、”よくぞ頑張った”と言いたい気持ちだ。

   
 

        「昔の妻籠は何もないふつうの村だった」
大学生の頃、山の帰りに馬籠から妻籠へ歩いたことがある。もう40年以上の昔。その当時でも馬籠は名高たかった。あまり道標もない妻籠への道はふつうの山道だった。自動車道路もなく、のどかな田舎の峠道、中仙道らしいものは「江戸へ、京へ、飯田へ何里」の大きな石標だった。これを過ぎると、妻籠の集落だった。わがふるさと、新潟県岩船郡朝日村となんら変らないふつうの村だった。家も、古いものと新しいものが混在していた。夏の一日、街道を歩く人もまばらで、それほど記憶に残っていない。ところが今はどうだ。観光バスがひっきりなしにやってきて、狭い村通りは人の波、アメリカ、韓国、台湾の人も多い。何の変哲もなかった村が、いつの間に昔の宿場街に統一されている。
村の歴史を見ると、昭和51年に、重要伝統的建造物保存地区に指定され、大改造されたという。電柱、コンクリートの家はもちろん、現代風の看板も外され、道路のアスファルトまではがす徹底ぶりで、江戸時代に戻したという。私が行ったのは、たぶん昭和42年、素顔の妻籠を見た生き証人のひとりだったのだ。

   
 

10月28日 「蓼科山に初冠雪」
昨日の大雨はどこへやら、朝から快晴、”チェロとフルートの夕べ”に参加した人、数名で八子ヶ峰に登った。アンナさんも一緒、ふつうの革靴だったので心配だったが、ぬかるみになっていないことを期待して出発。急坂を越え、唐松林に入ると、黄金色に包まれた。
山の上は、唐松の紅葉の真っ只中だった。蓼科の高原から、八ヶ岳の中腹まで続くゴールデンカーペット。蓼科山の頂は真っ白だった。初冠雪の山々と黄一色の木々、チロルの秋もこんなではないかと、ドイツ人のアンナに聞いたが、そうかもねという返事。北アルプスの穂高、槍ヶ岳、白馬も、御岳も、木曽駒も、甲斐駒も、北岳も、八ヶ岳もみんな真っ白。夕べの雨は、山の上では雪になっていたのだ。来た人、みんな感嘆の声を上げた。私も、こんなにすべてがそろった八子ヶ峰は初めてだ。青空、紅葉、雪、展望…

   
 

10月27日 「チェロ&フルート、高原の秋に響く」
一昨年の同じ時期に初めて開催した片貝さんのチェロの夕べが、今年は、鎌倉さんのチェロ、風田川さんのフルートも加わり、アンサンブルコンサートに発展した。観客にもドイツからのアンナさんも交じり、インターナショナルな演奏会になった。アンナさんは、参加された中村さんの会社にインターシップ研修で来られている大学生。今日、学期の試験成績発表の日とかで、ソワソワしていた。インターネットで合格を知り、大喜び。ドイツのお母さんに電話をしていた。日本の田舎の高原の山荘にいることで、お母さんはビックリ、それもチェロ&フルート演奏会だということでさらにビックリしていたという。日本人もやるもんだ、粋な楽しみ方を知っていると感心していたのかもしれない。それにしても、蓼科の山の中から、海の彼方の国の試験の結果をインターネットで知り、携帯電話でドイツと即つながるという時代、たったこの間までは、想像もできなかった。
片貝さんのチェロは格段の上達ぶりで驚いた。前回の、キーッとときどき調子はずれの音を、今か今かと期待していた私は少々がっかりしたが、鎌倉さんのCDのシンフォニーに合わせてのチェロは、まるで交響楽団の演奏を聴いているよう。風田川さんのフルートソロ、小諸馬子唄の伸びやかな音色は、信州の高原にふさわしく、胸に染み入る響きであった。小林さんはこれに触発され、正調小諸馬子唄を独唱し、それに誘発され、次から次へと民謡が飛び出し、果ては軍歌まで出て、晩秋の高原の夜は更けていった。こんな催しは、初めての人もすぐ仲良しになれてよい。

   
 

10月 20−22日 「卒業して50年、信州での同級会」
♪うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川…♪ ふるさと新潟県朝日村塩野町小学校は、まさにこの歌のような環境の中にあった。早春の硬い雪の上を遠足する凍み渡り、春が来ればワラビ採り、秋にはイナゴ取り、落穂拾い。これらは全部、学校の行事だった。ワラビ、イナゴは茹でて、落穂は脱穀して業者が買ってくれた。その金は子供会のグローブやバットになった。60人の同級生みんなでせっせせっせと働いたものだった。この仲間たちが、信州湯田中に50年ぶりで集まった。
長野駅での集合では、顔がわからず、”塩野町小”の看板が頼りだった。もう数人の仲間はこの世にいない。「毎年、誰かが欠けていくようになった。ハヨ、ヤロゼ」の呼びかけで、私が幹事になって、信州にした。集団就職で散った仲間は、なぜか名古屋に多い。どこからも来れる場所で、長野となった。遠くは島根県から来てくれた。温泉に入り、昔の写真をPCプロジェクタで写しながらの近況報告は、[Before After]みたいで盛り上がった。カラオケの最後は、”ふるさと”を大合唱した。校歌のなかったわれわれには、校歌代わりの歌なのだ。

   
 

         「雑魚寝で過ごした山荘の一夜」
翌日、「1日延ばせる人は蓼科へ」と募集したところ、15名も来てくれた。長野から、上田、白樺湖経由でやってきた。「もっと近いと思っていた。新潟行くより遠い」の声もあった。白樺湖から蓼科への展望台から見た、八ヶ岳へ広がる高原の紅葉に、みな歓声を上げた。「布団が足りないから、何人かはペンションで」と言ったら、「海水浴のこと考えれば、みんで雑魚寝でよい」との反響で、山荘の隙間に布団を敷き詰めての夜になった。次から次へと出てくる思い出話で、小学校卒業50年目の同級会は、時間の経つのを忘れるほどだった。

   
 
翌朝は故郷のイワフネコシヒカリの新米で朝食。富士市へ帰る勝子さんを茅野駅で下ろし、諏訪大社、松本城を回って、長野駅で新潟へ帰る人を下ろした。3日間ともよく晴れて、信州の山のほとんどが見渡せた。みんなよい思い出を抱いて、それぞれの家に帰っていった。50年のご無沙汰は、会って10分も経たないうちに昔に戻れることもわかった。訛りも自然に出てくる。「面白うて、やがて哀しき同級会」かな?
 
10月12 −14日 「リベンジ上高地、リベンジ志賀高原」
今年7月の上高地ウォーキングも昨年10月の志賀高原トレッキングも、雨で不本意な結果だった。当初からのリベンジ志賀高原の企画に、上高地リベンジをプラスすることになった。リベンジシリーズである。上高地は金曜の平日にしたので、何人来てくれるか不安だったが、6名の美女と野獣が集まった。木曜の夜、東京を出て、蓼科の山荘に泊まり、翌日、上高地を歩いて、その足で奥志賀に向かい、志賀高原トレッキングメンバーと合流する。朝、その日から山荘を利用する人のために、布団の取替えなどをみんなにやってもらって、出発。前と同様、沢渡からタクシーで上高地入り。穂高は雲に覆われているが、午後には晴れると読んだ。岳沢への道を左に見ながら、明神池、徳沢へと歩く。今年の紅葉は遅く、梓川沿いは「色づきはじめ」程度。新村橋から、前穂高の岩壁を説明して、徳沢へ。徳沢園で全員チャーハンで昼食、草原でつかの間の休息をとり、河童橋へ戻った。吉田さんにとって、3年前に買ったトレッキングシューズの履き初めの日となった。念願のトレッキング、上高地スタートでよかったね。                                                

   
 
ベルサルームズで作ってもらった弁当を持って、志賀山、四十八池トレッキングに出かけた。今日はよい天気。志賀高原の紅葉はちょうど見ごろ。志賀山の急登を、昨日、歩き始めたばかりの吉田さんが心配だったが、何とか登っていく。彼女の感想。
「昨年初夏に購入したトレッキングシューズも無事デビューを果たし、心配していた左足首は、連日最後の方に少々痛んだものの大事に至ることなく皆さんと行程を共にできて良かったです。最後の熊の湯も良かったですねぇ。重心定まらずフラフラしている私は、やっぱり高低差のあるお山は怖くて、あんな獣道(!)みたいなところを歩くのに、どうして皆平然とした顔をしていられるのか、大きな不思議です。でも、熊谷さんのステップ指導は大変ありがたく助かりました!
三輪さん、土曜日に帰京しましたが、ご挨拶もせずに失礼しました。
りんちゃんが随分としゃべるようになっていてビックリしました。新しいお夕食のメニューも大変おいしかったし、ランチボックスの炊き込みご飯もと〜ってもおいしかった!です」
これにて一件、落着。
 
10月6日 「気になる御嶽山」
山荘の上に広がる八子ヶ峰からは、信州のほとんどの山が見渡せる。目の前に立ちはだかる蓼科山。その左手から、浅間山、四阿山、根子岳、遠くに横手山、妙高山、戸隠山、白馬岳、鹿島槍、槍ヶ岳、常念岳、穂高、乗鞍、御嶽、木曽駒ヶ岳、空木岳、仙丈岳、甲斐駒、北岳、八ヶ岳の峰々。その中でも、どっしりとして大きい山・御嶽山。八子ヶ峰から見えるすべての山を登ってみようと目標を立ててから、いつも気になっていた。まだ登っていない最後の3000mの山だから。天気が安定する日をずっと待っていた。天気予報では、大陸の高気圧が張り出し、しばらく良い天気が続くという。それならと、5日の夜、山荘を出て、木曽福島の旅館に素泊まりして、翌朝、登り口の田の原に向かった。
スキー場への投資で財政が傾き、平成の大合併でも仲間はずれにされた王滝村を通った。田の原まで続くスキー場は広大かつ立派なロープウェイやリフト、大変な投資額と想像つく。御嶽山は信仰の山だから、登山道も立派、七合目、八合目と登る目印もはっきりしていて、富士山並みに整備されている。10月なのにいっぱいの人が登っている。朝は頂上まで見通せるほど晴れていたのに、時間がたつに連れガスがかかってきた。頂上に着いたときは、見通しは利くものの、どんよりしていた。そのうちに風が吹いたかと思うと、急激に寒くなり、防寒具や手袋をつけなければならなくなった。寒風に雪が舞ってきた。エライことになった。雪が積もる前に下山しなければならない。追い立てられるように下っていくと、青空に変り、陽も照り出し、暑くなってきた。中腹の紅葉も日に映えて美しい。あの風が吹き出し、雪が舞ったとき、冬型の前線が通過していったのだろう。10年以上前の同じ頃、木曽駒ヶ岳で同じような目にあったことがある。あのときは、一日崩れっぱなしになったので、雪も積もり、あちこちで遭難事故が発生した。この季節の西高東低は要注意なのだ。

   
 

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9 月

9月23日 「堀辰雄文学館」
北軽井沢から蓼科への帰りに追分にある堀辰雄文学館に寄った。二回目の訪問だが、いつ来ても心が落ち着く所だ。わが青春のルーツともいうべき、堀辰雄文学。中でも「風たちぬ」の感動が、その後の私の人生の指標となったと言ってもよい。「いつかは高原に住みたい」と思い続け、蓼科の山荘につながった。堀辰雄の軽井沢の山荘生活にあこがれていた。現実はそんなロマンティックなものではなく、掃除洗濯、草刈、薪割り、ペンキ塗りに追われる生活だが、それでも心は満たされている。                                  亡くなったときの家がそのまま残されており、伏していた4畳半の座敷が印象的だ。そこに掲げらている書は、新築祝いに川端康成が贈った自書のもの。東京での葬儀委員長も勤めた。弔辞に「君の文学は、高原に永遠に刻まれるだろう」趣旨の言葉もあり、そのとおりになった。葬儀の写真の中に、室尾犀星や佐藤春夫などの交友深い作家がいるのは当然だが、ちょっと肌合いのちがう井伏鱒二も写っていたのは意外な発見だった。もうひとつの発見は、「風たちぬ」の同じ題名で、立原道造の作品が堀辰雄の前にあったことだった。今なら盗用で騒がれるのではなかろうか 。
堀辰雄が晩年を過ごした追分の家のしっとりと雨に濡れた庭を去るときには、数名いた他の客は既に帰り、静寂が戻っていた。

   
 

9月22日 「菅平・根子岳」
蓼科の山荘の上にある八子ヶ峰は展望のよい草原である。眼前には蓼科山がそびえ、八ヶ岳、南アルプス、中央アルプス、北アルプスから妙高、横手山、浅間山まで一望に見渡せる。この中でまだ登ったことのない山を片付けていくのが、私の目標になっている。そのひとつ菅平にある根子岳へ行った。
北軽井沢の熊谷さんの別荘に泊まり、秋空の菅平牧場から白樺林を抜け、カヤトの原を登っていった。総勢8名。空澄み渡り、ススキの穂が風にゆれ、少し赤味がかってきた初秋の山は清々しい。汗ばむ体に秋の風もさわやかだ。そんなに急な登りはないが、下りもないひたすら登り一本の道。2時間足らずで、頂上に着いた。平種なし柿がおいしい。秋の山登りは、柿があるので、楽しみも増える。
隣の四阿山は日本百名山、根子岳は花の百名山なので、セットで歩く人が多い。四阿山から来る人、向かう人で、頂上はにぎわっていた。われわれは登ってきた道を牧場へ戻った。搾りたての牧場の牛乳がとてもおいしい。途中、四阿高原ホテルの温泉に入った。山の中の決して条件がよいとは思われない場所に立派なホテルがあり、お客も結構入っている。菅原洋一やさとうむねのりのコンサートもあったようだ。気持ちの良い湯につかり、秋のトレッキングは終った。

      
 

9月21日 「八子ヶ峰秋色」
秋の澄み渡る空になった。こういう日は遠くの山を望遠するに限る。
朝食もとらず、八子ヶ峰に登った。当りであった。まだ朝の雲海たなびく茅野の町の向こうに中央アルプスが輝き、御嶽山、乗鞍も雲の上だ。明日登る根子岳もくっきり見える。誰もいない早朝の頂で、今年も秋が来たことを悟った。

   
 

9月19日 「ひと風呂1万円」
八ヶ岳登山口の美濃戸に建てた友人の別荘に行った。露天風呂を造ったので入りに来ないかということだった。別荘は昨年の夏、完成したが、露天風呂は今年の春までかかった。薪で大釜の湯を沸かし、それを風呂に竹筒で注ぐ、屋根もかけ、洗い場も設置した本格的な岩風呂だ。建築費に二百万かけたという。薪は敷地の伐採で豊富だが、結構使うという。早速、つかわせてもらう。岩風呂から眺める森の緑が目に染みる。竹筒からチョロチョロ流れるお湯もなかなかオツである。少し温めのお湯は長湯にちょうどよい。ゆっくり入ったあとの、湯上りのビールはおいしかった。
冬は寒くて入れない。使えるのは初夏から初秋くらいまでとか。これからの人生で入れる回数から、建築費、光熱費をベースに割り出すと、ひと風呂1万円くらいになるという。近くにはひと風呂300円の村営温泉もある。ありがたく浸かった露天風呂だった。

   
 

9月18日 「ペンションのペンキ塗り」
奥志賀ベルサルームズのダイニングの外にあるベランダは、長年の風雨にさらされ、かなり汚れていた。この春、蓼科のベランダのペンキ塗りをやり、そのコツもつかんだので、思い切ってやることにした。
サキスフォンの合宿のお客が帰ったあとの午後開始。幸い、天気はよい。蓼科より古い建物なので、床は黒ずんでいる。ペンキ塗りの前に、汚れを落とすサンダーがけをすることにした。電動サンダーの振動が腕に伝わり、しびれてくる。左手に持ちかえると押さえが弱い。最後は両手でゴシゴシと磨いていった。夕暮れ迫る頃、ようやく終った。サンダーがけに半日かかった。
次の朝、ペンキ塗りにとりかかった。蓼科と同じキシダテコールを端から、塗っていく。余ったら、蓼科でも使えるようにと同じ色にした。ベランダの前の木々の梢が手すりを覆っているところもあり、その場所は緑がかっている。葉緑素がベランダにも染み込んでいるようだ。昼前に最後の扉前を塗り終えた。昨日半日、今日半日でまる一日かかったことになる。ああシンド。

   
 

9月16日 「サキスフォンの調べ」
ベルサルームズが開業したのは昨年の敬老の日の連休。ちょうど1年経った今年も、サキスフォングループ”なめらーか”が合宿で使ってくれた。久しぶりにサキスフォンの音色が響き渡った。                            演奏目当てに来られた他のお客様を案内して、志賀山から四十八池ハイキングに出かけた。昼、ペンションにいると練習の音で落ち着かないことへの配慮でもある。四十八池の湿原には草紅葉が始まっていた。秋が近づいている 。
夜、私たちの夕食の途中から、練習成果演奏会が始まった。まさにディナーショーである。10名余りのサキスフォンが一斉に奏でた最初の結婚交響曲には鳥肌が立つほどの迫力があった。クラシック中心のグループだが、途中に混ぜるジャズの軽やかな曲、浜辺の歌の美しい日本のメロディなど、われわれ聴衆への配慮もみごとだ。昨年より、一段と力をつけたグループに成長している。森の音楽堂で演奏会をやろうとの話にも発展してきた。来年がまた楽しみである。

   
 

9月10日 「台風の置きみやげ」
関東を直撃した台風9号が去った。このおかげで週末に蓼科の山荘に来る予定だった卓球合宿の友人グループもキャンセル。そこで次の家族連れが来る10日の昼ごろ、山荘に到着した。駐車場に着いて発見したのは、20m以上の高さに伸びていた大きな落葉松が一本、根元から折れ、山荘の屋根すれすれに横倒しになっていたことだ。
もし山荘に直接倒れていれば、屋根を直撃、壊れていたと思う。幸い、屋根の庇を少しかすめて、斜めに倒れてくれていた。ゲストハウスの玄関近くにも枝がかかっている。今日から使うゲストが来る前に片付けなければならない。昼飯は後回しにして、早速、チェーンソーを取り出し、伐採作業に入った。まずは枝を取り払い、長い丸太にした。次に、1mくらいの長さに丸太を切っていった。この長さにしておけば、あとでもう一回チェーンソーを入れて、斧で割りやすくなる。20本くらいの丸太ができ、屋根下に積んだ。切り取った枝は庭に繁っている灌木の陰に運び、目立たないように積み重ねた。後片付けが終ったのは午後3時すぎ。遅い昼食となった。
ベランダに出てみると、もう一本、細く伸びた落葉松が斜めに倒れかけ、他の松が支える形になっていた。このままではいつかは倒れること確実だが、一人ではどうにもならない。管理事務所に依頼し、近日、倒してくれることになった。
これもチェーンソーで処理しなければならない。今年の晩秋は、薪割りでまた忙しくなりそうだ。

   
 

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8 月

8月31日 「夏の終わり」
夏の終わりを感じるとき、ひとつは山荘の周りの別荘から聞こえていた子供たちの声が聞こえなくなるとき。夏休みにおじいちゃんやお父さんの別荘に滞在していた子供たちも二学期が近づくと、汐が引くようにいなくなり、大人たちの世界に戻っていく。隣の戸田さんも、雨戸を閉めて大阪に帰っていった。
ふたつめは、タウンセンターの売店に山積みされていた日経新聞が売れ残っているとき。夏になると日経が真っ先に売れ切れるので、これだけ特別に平積みでどっさり用意される。最盛期には、昼ごろには無くなっている。それが、20日を過ぎたあたりから、夕方行っても、残っていることがある。ビジネス戦士たちが、高原でつかの間の休息をとり、都会に戻っていった証しでもある。
そして三つ目、流れる雲が薄くなっていくとき。テラスで安楽椅子に腰掛け、高い唐松の木立の上に広がる空を見上げるのは至福のひとときと言ってよい。
青空に漂う雲は、真夏、夕立前の雲は厚く、大きい。大きな塊が動いていく。
9月が近づくにつれ、薄く、サラサラと、イワシ雲のように細かくなって流れていく。「風たちぬ」の世界が来ている。この頃になると、昼寝にもタオルケットが必要になってくる。今年の秋の訪れは、いつもより早い気がする。

     
 
8月26日 「最後の阿波踊り」
花の木連が高円寺で踊るのも今年が最後。
30年を区切りとして、連を畳むと花の木のママさんが決断した。新宿ゴールデン街にあるスナック「花の木」が発祥。店のお客が意気投合して、踊り出したことから始まり、30年経った。その間、親から子に引き継がれ、店には来ないが、踊りには来るという人が多くなった。そしてメンバーも高齢化した。キリのよい今年で閉めようとのこと。
私は10数年前からの参加で、踊りだけで入れてもらい、店にはあまり行かないひとりでもある。高円寺には三晩で延べ100万人も集まる。花の木連は土、日の二晩の参加。演舞場に連が踊り込んでいくとき、紹介される内容も今年は「お世話になりました。さようなら」である。見物客からは「エー、やめちゃうの」とのため息も聞こえる。数年前から、提灯持ちと言って、連の名前の入った提灯棒を持って真っ先に踊りだすのが私の役目になっている。だから観客の反応もすぐわかるのだ。これで最後としんみりしているところに、見ている人の「やめるな」が聞こえると涙が出そうになる。寂しい、つらい、悲しい最後の阿波踊りとなった。「区切りがつく」と悟っていた仲間も打ち上げのあとの二次会では、「やっぱりやめたくないね」としんみりしていた。

     
 

8月20日 「れいかちゃん、彩香ちゃん、ややちゃん」
大学時代のスキー仲間の深沢さんの親族のみなさんが来られた。年恰好が近い三人の小学生の女の子も一緒だった。着いた途端から、「スゴイ、スゴイ!星が見える部屋はどこ」と興奮して、はしゃいでいた。毎日、高原を歩き回っていた。札幌の小野さんからの残っていた冷凍ジンギスカンで、テラスでバーベキューをやることにした。ガスのジンギスカン鍋では足りそうもないので、コンロに炭火も焚いた。両方で、ミソ味、塩味のジンギスカン肉、モヤシ、キノコ、キャベツなどを山盛りに焼き、スパークリングワインのコルクを空に飛ばして、パーティ開始。子供たちは「おいしい」と喜び、大人たちも「外での焼肉とビールは最高」と笑顔。91歳のおじいちゃんは、新潟・直江津の生まれとかで、私が村上と知り、「蓼科で同県人と会うのはうれしい」と興に乗り、尋常小学校や都の西北を歌いだした。
小学2年生のれいかちゃんの手紙「ログハウス貸してくれてありがとうございました。ジンギスカンおいしかったですね。またらいねんおねがいします。たてしなにくるのをめっちゃたのしみでした。本とうにありがとうございました」。
彩香ちゃんもややちゃんも素敵な手紙を置いていってくれた。大事にとっておくから、また次の夏にも来てね。

   
 
8月5−17日 「”大いなる西部”の旅」
私にとって小さい頃見た洋画は西部劇ばかりだったような気がする。幌馬車を襲うインディアン、それに立ち向かう騎兵隊。まさに大いなる西部の大平原に繰り広げられる合戦は汗握る場面の連続だった。そんなノスタルジーをかきたてたのは、20年も前になろうか、アメリカ出張で滞在していたデンバーで、休日に旅したワイオミングの荒野を横切る西部開拓史のメインルート、オレゴントレイルのワダチの跡を見つけたときだった。「この道を何万人もの開拓者が、西へ西へと、向って行った」と知って、胸が高鳴った。博物館に置いてあった「オレゴントレイル協会」に即、申込み、会員になった。この団体は、ワダチの跡を保存する活動を行っている。そして毎年、街道沿いの町で大会を開く。今年は、ネブラスカ州のスコッツブラフ。ふつうの日本人、いやアメリカ人でも知らない町。しかしわれわれオレゴントレイル・マニアには外せないところなのだ。
妻と一緒にシアトル乗換え、デンバー経由でワイオミング州都のシャイアンに飛んだ。”シャイアン”も胸高鳴る名前ではないか。インディアンの種族の名前でもあり、全インディアンが年に一度、大集合する町だ。ロディオでも知られる”大いなる西部"の首都でおある。ここから今回の旅は始まり、ジョンウェインの映画の大半が撮影されたアリゾナを廻って帰ってくる旅程だ。

   
 
8月6日 「旅のはじまりはトラブルから」
シャイアンまではシアトル、デンバーで二回乗り換えて向う。ところがシアトルからデンバーへの乗り継ぎ便が遅れること4時間、シャイアンに着いたのは最終便で夜10時半、不安だったトランクが奇跡的にも遅れに合せて一緒に着いたのは幸運だった。飛行機も空港も小さく、タラップを下りたら隣で荷物も下ろしていて、その中にわれわれのトランクを見たときは小躍りした。ハーツのレンタカー窓口で、ホテルの行きかたを何度も聞いていると、「あなたが最後の客なので、5分待ってもらえれば、店を閉めて案内してあげる」という。これ幸い、ハーツのおばちゃんの先導で、深夜の”大いなる西部”第一夜のホテルに、日本から24時間かけて無事到着した。
翌朝、シャイアンのOld West Museumに行き、開拓の歴史とロデオのビデオを見て、これからの旅の知識を仕入れた。売店でワイオミングの車のプレートがないかと聞くと、フリーマーケットの場所を地図に親切に書き入れてくれた。ここで前から欲しいと思っていたロデオ図案のワイオミング州のプレートを手に入れた。このあと、スコッツブラフでネブラスカ、オレゴン、モンタナなどのプレートも仕入れた。今は、山荘の書斎の壁を飾っている。ちなみにアメリカでは、ライセンスプレートと言い、ナンバープレートでは通じなかった。ハーツのオバちゃんも、博物館のオバちゃんもとても親切だった。アメリカの田舎のホスピタリティに接し、気持ちよい旅のスタートになった。

   
 
8月7日 「チムニーロック・ミッチェルパス」
チムニーロックはアメリカ西部開拓の歴史でも有名な場所。ミズリー州インデペンデンスを出発した幌"牛"車隊が、目指した最初のエポック的な場所でもある。ミズリーからオレゴンまで、6000k、半年の旅には馬では無理で、幌馬車ではなく、幌牛車が実際には使われた。平原に隆起した煙突状の岩山は、はるか遠くからよい目印になった。ここへ幌馬車で行った。一般の人がいけない、岩山真下まで行ってくれる。これが協会主催のツァーの特色。馬車に乗り、まさに開拓民気分で荒野を揺られていく。
夕方は、旅人が西へ越したミッチェルパスにある公園でサンドイッチパーティとウェスタンミュージック、そして西部のすばらしさを世に知らしめた ヘンリージャクソンの伝記のお話。この日の夕暮れはすばらしかった。峠の向う、ワイオミングの彼方に沈んでいく夕日が真紅に空を染め上げ、スコッツブラフの岩山を茜色に輝かせた。レプリカで置いてある幌車がよいエッセンスとなり、西部開拓の旅の夕暮れを想像させた。

     
 

8月8日 「フォートララミー・深いわだち」
大会では、歴史学者たちの話があるが、聞いてもよくわからない私たち夫婦は、フォートララミ−に出かけることにした。
午前中はミッチェルパスの前に旅人が良く使ったロビドーパスに行った。砂利道を砂ほこりを巻き上げながら廻った。砂利道はこわい。前に来たとき、車を横転させたことがあるので恐怖感があり、スロースローの運転だ。少し遠回りになるロビドーパスはカリフォルニアで金が発見された1849年、一日でも早く金探しをしたい旅人のために、直線的に行けるミッチェルパスが整備され、ほとんど通らなくなった旧道である。ゴールドラッシュは、いろいろな所に近道を切り開いた。大会会場に戻り、ランチを取ったあと、フォートララミ−へ向った。
大会会場には飯を食いにいくことばかりで、ろくに話を聞かない日本人を不思議に思ったかもしれない。300人の参加者の中で、日本人はわれわれだけなので目立つのだ。黒人もインディアンもメキシカンもいない、白人だけの集まりなのもこの会の特徴だ。
曾おじいさんやあばあさんが、苦労してたどり着いたカリフォルニアやオレゴンから来て、「自分たちの今はこうしてあるのだ」を確認する自分のルーツを辿る組織でもあるのだ。
フォートララミーはワイオミング、「ララミー牧場」はこのあたりが舞台である。ララミーという町も近くにある。西部への道半ばに、しばしの休息をインディアンの襲撃から守る目的でこの砦は作られた。またインディアンとの交易所でもあった。ここに騎兵隊が常駐し、旅人の安全を守った。今は広い草原の中に、兵隊の宿舎、食堂、オフィス、ホテルなどの跡地やレプリカが並ぶ。ツワモノどもの夢の跡に星条旗がワイオミングの風にはためいていた。近くの町には、旅人が「ここを何年何月何日」に通ったことを岩山に切り刻んだレジスターロック、幌牛車が何千台、何万台も通過したとき、自然に岩が切り込まれて舗装したようになった山道など、その時代を彷彿とさせる名所旧跡があり、オレゴントレイル・マニアにはこたえられないエリアでもある。私は二回目の訪問だが、改めて昔の人の苦労を偲んだ。

   
 

8月9日 「アッシュホロー」
アッシュホローはチムニーロックより東部側、開拓者が休息をとるに最適な場所だった。大平原の中に緑に包まれた山、オアシスの池など水にも恵まれていた。ここにトレーディングポストを置き、しばらく滞在する家族の子供のためには、学校も作られた。ここへバスハイキングに出かけた。参加者は圧倒的におじいちゃん、おばあちゃんなので、歩くことは苦手、バスハイクが人気ある。この日も二台満員の盛況ぶりだ。オレゴントレイルは西部の荒野を貫いていると言っても、川の流れにつかず離れず沿っている。ミズリーは大西洋に注ぐミシシッピーの上流、その支流のノースプラット川沿いにトレイルはある。川に忠実に沿うと沼地や崖に難渋するので、幌牛車が走りやすい平原を選ぶ。しかし平原は水を得にくいので、キャンプ地は川の近くになる。ここアッシュホローもそういう場所だ。いくつもの小山を越えて、このオアシスにたどり着いたとき、みなホッとし、しばらく滞在したくなるような所である。私たちもランチはみんなで池の近くの林の中のテーブルを囲んで、サンドウイッチを食べた。
ノースプラット川はワイオミングのロッキー山脈が源流だ。ここを越えると太平洋に注ぐコロンビア川の支流、スネーク川に代る。この分水嶺がサウスパス、けわしいロッキーがこのあたりだけゆるやかな草原に変わるという場所をオレゴントレイルは越していく。実にみごとなルートハンティングなのだ。この峠には以前、今村さんと一緒に行ったことがある。オフィスの話をしていて、なんかの話の中で「サウスパス」を知っていた稀有の日本人だった。それが縁で今では、山荘の薪割りも教わるようになった。

   
 

8月10日 「ラッシュモアマウンテン」
スコッツブラフ最後の日は、妻が関心を持っていた四人の大統領の顔が岩山に彫られているサウスダコタ州のラッシュモアマウンテンに出かけ、夕方6時までには、バッファローステーキが出る野外パーティに戻ってこようという強行軍だ。
約600k、大阪までの距離に匹敵する。朝早く、スコッツブラフから北へ向った途端、家一軒ない大荒野の一本道に出た。行き交う車もまばら、ひたすら制限速度をちょっと越す程度で走る。以前、こんな誰も走っていないワイオミングの田舎道でスピード違反で捕まったことがあるので、要注意なのだ。
あのときは今村さんがいて、お巡りさんに「Can you close the eye?」と頼んでくれたがダメだった。そして罰金を払ったら、お巡りさんが「Thank you very much!」と言ったので、私は反射的に「You are welcome」なんて言ってしまい、あとで「何がWelcomeだ」と落ち込んだことなどが思い出される。
約4時間かけて着いたラッシュモアマウンテンの周りの変貌には驚いた。20年前に来たときは、ふつうの平地の駐車場に入れて、展望も平地からだったのに、今は岩山に4階建てくらいの駐車場ができ、その先、大統領の顔の真下に甲子園のアルプス席のような観客席がある。バックスクリーンの上部に大統領の顔がある感じだ。あの時の夜、真っ暗闇の中で偉大な大統領と岩山彫りの映画が上映され、終了直後、パッとライトアップされたと同時に、アメリカ国歌が流れ、全員総立ちで合唱するという感動的というか異様な光景に出くわしたことを忘れない。
帰りも4時間かけスコッツブラフに帰って、大会最後のイベント、野外劇場に参加した。小さい子から年寄りまで何十人もが総出で、開拓の道を、みんなが助け合いながら歩き、オレゴンに到着、喜びの歌を合唱する姿は、ラッシュモアマウンテンの国歌よりも感動した。この日の野外劇場を包んだ夕暮れもまたすばらしかった。久しぶりのオレゴントレイル協会のイベント参加、充実したネブラスカの旅となった。

   
 

8月11−12日 「デュランゴ・シルバートン」
スコッツブラフ空港からデンバー経由でコロラドの西南端に位置するデュランゴに着いた。ロッキー山脈南部の避暑地。シルバートン鉄道でも有名な所。
ゴールドラッシュに湧く時代、鉱山鉄道として、デンバーから延びた蒸気機関車の鉄道が今では、観光用にデュランゴとシルバートンの間を毎日走っている。コロラドの渓谷を這うようにして登っていく。とても人気があり、毎夕、翌朝のキャンセル待ちの列が駅にできる。
私たちは正月明けに予約したので、フリードリンク、お土産つきの特等車の席がとれた。朝8時にデュランゴを出発、町を抜け、森を通り、渓谷をどんどん上がり、断崖絶壁を這って、広い河原に出たら、シルバートンは近い。昼前に西部の開拓町の雰囲気漂う小さな町に着いた。
町をひと回りしても1時間もかからない。レストランでサンドウイッチを食べて、帰りの汽車に乗った。ほとんどの人が同じ車両にいた。特等車には世話役のオバちゃんがいて、車窓からの風景や鉄道の歴史を説明してくれる(半分もわからなかったが)。飲み物もしょっちゅう持ってきてくれかいがいしい。
夕暮れのデュランゴの町に帰ってくると、機関士は汽笛をひんぱんに鳴らし、街角でカメラを構えて見ている人たちにサービスしている。ハイウェイを横切る踏み切りでは、たくさんの車が辛抱強く待っていた。町と汽車ポッポが一体となっているような幸せな風景だった。

   
 

8月13日 「メサベルデ」
デュランゴから車で1時間足らずのところに国立公園メサベルデがある。自然景観を主体とする国立公園の中にあって、メサベルデは古代インディアンの遺跡保護が目的の国立公園だ。紀元前5世紀頃、古代人が渓谷の岩壁にいくつもの村を作った。サンドストーンの柔らかな土が、岩壁をくりぬきながら住居や祈祷所や広場を作り、そこに百人単位で住める村が出来上がっていった。広く大きな岩が屋根となり、上の平原からは見えず、敵の侵略からも守りやすい仕組になっている。数百年、そこで生活していたと思われるが忽然と姿を消し、1800年代に発見されたときは誰もいなかった。文字も残していないので、真実は謎のままだ。ニューメキシコ州のサンタフェやタオスには、同じような住居の作りが見受けられるので、ここに移り住んだのではないかと推測されている。
メサベルデには予想外に感動した。岩壁にかかっているはしごを上り下りして、その場所に行くのだが、古代人の知恵に驚き、天井の岩に手形が残っていたり、煮炊きした煙が天井の岩をこがし煤がたまっているなど、とても現実的でもあるのだ。この公園のロッジのベランダから見た果てしなく広がる平原の地平線にも感動した。”大いなる西部”の大いなる発見でもあった。

    
 

8月14日 「フォーコーナーズ・モニュメントバレー」
ユタ州、コロラド州、アリゾナ州、ニューメキシコ州が直角に接する部分を国道が通過する。この地点は4コーナーズと言って、記念碑がある。ここに入るにもひとり3ドルの入場料がいる。それを管理するのはインディアン。ビジターセンターとは名ばかり、掘っ立て小屋に数枚の写真や地図があるだけ。周りはインディアンの装飾品のお土産屋。そんなに買っているとも思われない。このあとグランドキャ二オンまでの道路沿いにも同じようなテント掛けのお土産屋をたくさん見た。このあたりはインディアンリザベーションの名のもとの居住地になっている。これも白人による白人のための西部開拓の犠牲の象徴だ。インディアンはリザベーションという囲いの中で生活すべしという強制策で追い込まれていった。第二次大戦の日本人収容所と同じだ。リザベーションの中に石油が金が発見されると、リザベーションを変更し、またインディアンを別の地へ追い立てた。インディアンの視点から見ると、西部開拓史は迫害の歴史でもあるのだ。このことを忘れてはいけない。
モニュメントバレーはジョンフォード監督の西部劇の舞台になった名だたる名所。ゴールディングロッジは撮影の宿泊に使われた。今では日本からの観光客もおおぜい泊まる宿だ。ここにジョンウェインのミュージアムがあり、なつかしい西部劇の名場面が展示されている。日本語の映画ポスターもあった。しばし古き楽しき映画の思い出に浸った。妻の父は大の西部劇ファンだった。いくつも見に連れていってもらったとか、窓外に広がるモニュメントバレーの夕暮れの光景を前に「お父さんを連れてきたかった」と妻はシンミリしていた。ここもナバホ族インディアンの居留地が広がっている。撮影華やかなりし頃は、インディアンも敵役でエキストラ出演機会が多く潤っていたとか。今は「先住民差別につながる」でウェスタンムービーが少なくなり、インディアン襲撃などの場面はカット、ここの先住民にとっては収入パッタリで大打撃とか。ドンパチ、インディアン悪者の時代が懐かしいようだ。

   
 

8月15日 「グランドキャニオン・フェニックス」
大いなる西部の旅も今日で終わり、明日はフェニックスから日本へ飛び立つ。
モニュメントバレー近く、カイアンタの宿を7時過ぎに出た。今日はフェニックスまで600キロのドライブだ。赤茶けたアリゾナの砂漠をグランドキャニオンに向う。東ゲートから入った。入場料25ドルは今まででいちばん高い。さすがは"グラキャン"だ。最初のリムからの眺めに妻は感嘆。さすがグラキャン、やっぱりグラキャンというところか。はるか下にコロラド川の流れが見える。妻は若いときこの川下りツァーに申込み、催行人数が集まらず、中止になったとか、「行かなくてよかった」と実物を見てホッとしていた。すこしドルの現金が足らなくなってきたので、公園にあるメリルリンチで両替した。このときの行員は一万円を見たのは初めてらしく、お金の百科事典のような本で一生懸命チェックしていた。そのあと、先輩のところに行って、再確認、やっと両替ができた。現金の円をここで替える人はあまりいないようだ。                                                                                              フェニックスの町には夕方7時ごろ入った。これまでの田舎町とはちがい、大都会、はじめて4車線の高速道路に入り、夕方のラッシュもあり、大変な車の流れになった。行く先のホテルへのインターがわからず、ラッシュの中で焦った。翌朝の空港のRent a car returnの場所にも驚いた。空港ターミナル近くになったら、Rent a car returnは空港の外を指している。いくつかの信号を廻りまわって、空港からかなり離れたとてつもなく大きいレンタカー専用のビル駐車場に入っていった。さすがアメリカ。車の国である。大いなる西部で廻った州はワイオミング、ネブラスカ、サウスダコタ、コロラド、ニューメキシコ、ユタ、アリゾナの7州。いずれも思いで深い所であった。
     
   
 
8月15日 「泊った宿と食べ物」
私たちの旅は、ヨーロッパでもアメリカでも、原則レンタカーの移動で、宿はキッチン付きか少なくともレンジ、冷蔵庫付きでなくてはならない。そば、ラーメン、カレーなど日本食をたっぷり持っての旅なのだ。ザルは必携品だ。今回も、キッチン付きはなかったが、ほとんどレンジ、冷蔵庫付きの宿を予約した。ホリディインやヒルトンインなど、ワンランク上のモーテルにはこのような設備はない。必然的にベストウェスタンなど、地元の人が経営しているモーテルが主体となり、値段も安い。そんなモーテルでも100ドル近くになっているのに驚いた。20年前は高くても50ドルくらいだったのに。外で食べるのは昼、サブウェイやケンタッキーなどが中心になる。朝はほとんどのモーテルがコンチネンタルブレックファストつきだった。あるモーテルで、ワッフル用の粉を溶かしたカップを、オートミルと思い、飲んで驚いたことだ。近くのテーブルの人が、あわてて注意したときは時すでに遅しだった。「日本人はメリケン粉を飲むよ」とみんなで笑っていたことだろう。恥かいた。

    
 

今回の旅ではパソコンを持たない代わりに、携帯電話を海外仕様を成田で借りていった。ヨーロッパにスキーに行ったとき、同行者がどこでも日本と簡単に話せていたので便利そうだった。ところがアメリカは電話会社が分散しているらしく、AUの提携会社は日本人旅行者の多い地域しかサポートせず、ネブラスカやコロラドの山の中はダメだった。行きのシアトルや帰りのサンフランシスコあたりはOKなのだが、ほとんど役にたたなかった。ヨーロッパの事情とだいぶ違っていた。
 

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7 月

7月31日 「今日、梅雨明け」
昨日は土砂降りで、せっかく倉敷から来てくれた岳文会の先輩も二年続けてゴルフができなかった。明けて31日、朝から澄み切った青空が広がる。「これは梅雨明けの空だ」と感じた。昨日の雨は、梅雨最後のあがきだったのだ。
ゴルフ組は未練を残しながら帰っていった。札幌からの先輩は、穂高ジャンダルム行きが中止になり、明日札幌に帰る。
それなら梅雨明けの北八ヶ岳を歩こうと10時前に山荘を出た。ピラタスロープウェイから縞枯山、茶臼山を越えて麦草峠へ向った。昨年のスノーシューハイキングで、女性軍から苦情続出の縞枯の登り。確かに急登、冬は雪道の一直線の登りになるので、さらに厳しいかもしれない。文句が出たのも仕方ない。
急登が終るとヒョコッと頂上に出る。冬、来たときには隠れていた頂上の標識が2m近い高さだったことに気づく。ということは、積雪もそのくらいあったのだ。せいぜい50cmくらいと思っていたので、山に入ると北八ヶ岳でもかなりの積雪があることを認識した。
梅雨明けを実感するのは、八ヶ岳連峰が緑に映えてくっきりと眺望できること。
真夏になると気温が上昇し、霞がかかる。夏空でこんなにはっきり眺められるのは、梅雨明けの雨上がりのときなのだ。快適な夏山の始まりだ。
麦草峠に昼過ぎ着いた。ヒュッテのラーメンが空いた腹にすこぶるうまい。
帰りは雨池を回り、普段、ここはダダッタ広い池なのだが、今日の澄み切った空気の中では、回りの緑がまぶしく美しい池に衣替えしていた。
「やっと、待っていた夏が来た」を実感した一日だった。
  
   
 
7月21日 「きれいになった庭」
足柄山に住む今村さん夫妻とその部下の中西さん家族が来られた。
今村さんとは中西さんを通じて知り合った。お互い同い年で、アメリカの西部開拓の歴史が好きということで意気投合した。ワイオミング・キャスパーで1週間近く、オレゴントレイルを味わった仲でもある。薪ストーブの師匠でもある。
奥様はわが山荘のアジサイ「アナベル」を、一昨年、植えてくれた。
去年から白く清楚な花が夏の山荘の庭を彩ってくれている。みなさんが、得意分野の手伝いをしてくださった。今村さんは、ログ廃材のカッティング、奥様や中西さんは、庭の草刈。花が咲きそうな草を残し、他は刈り取る。これが結構、判断に困る。どれが咲くのか、咲かないのか。草刈機もうかつに使えない。それでも数人がかりで草薮と格闘したら、きれいに刈り取られ、咲いてる花はきちんと残った。すっきりした庭に変わっていた。草刈も人数次第でこんなに速く、きれいになるのだ。
これまで、庭や林の中の草をみんな刈って、芝生状にしようかと真剣に考えていた。しかし、この5月に湯布院の玉の湯ホテルの庭を見て、気が変わった。どうってことない雑草が生茂っている庭。それが回りの景色にマッチして、自然に落ち着くのだ。草取りしていた人に聞いた。どう手入れしているのかと。「何も植えていません。生えている雑草を高さやかたまりがちぐはぐにならないように抜いているだけです」。これでいいのだと、ハタと膝を打った。
そんなわけで、今年は残すものと抜くものを分けての草刈。玉の湯のように、整然とはいかなかったが、抜くものを徹底的に処分したら、すっきりした。
今村さん、中西さんありがとう。
     
 
7月14日  「雨の上高地」
極楽恒例のトレッキング、去年は木曽駒ヶ岳、ちょうど梅雨中休みの日に登り、雨にあたらず登れた。しかし今年は台風が近づき荒れ模様。
せっかく来たのだからの声に押され、コースを変え、大正池から河童橋まで歩き、帝国ホテルで昼食を食べて帰ってくるという、ごく一般的な観光コースに切り替えた。
蓼科から朝出て、沢渡から3台のタクシーで、大正池に着いたのが10時半頃、田代池やウェストン碑を回って河童橋に着いたのは昼ごろ、ビジターセンターで時間をつぶし、帝国ホテルで豪華とはいえないが、それなりに高いランチを取って、上高地を後にした。収穫はモヤがかかる雨の梓川は美しかったことだった。”穂高は見えず、梓美し”だった。
夜は恒例の広島焼きパーティ、12人分のビッグな広島焼きを作るには3台のホットプレートをヒューズを飛ばしながら駆使した。
年を重ねるにつれ、広島焼きの厚みは増してきていて、今年のソレはかなりの厚さになる。「エイッ」とひっくり返すのにも力が入る。時々、ホットプレートを飛び出すものもある。味はおいしく、みな満足だ。いつもがんばってくれる、広島出身の溝上さん、ありがとう。

   
 
7月1日  「村上の友、来たる」
中学、高校、大学と一緒だった友、斉藤君が奥様と一緒に、はるばる越後村上から車で来てくれた。村上からは北陸道、信越道、中央道経由のロングドライブ。一昨年、脊髄を損傷して足が本調子でない、斉藤君にはつらかったようだ。それでも、いつもの調子で、明るく振舞っていた。
彼は大学卒業と同時に「ローカルエコノミーに貢献する」と、東京に未練残さず、さっさと新潟に帰っていった。今は信用金庫の役員をやっている。職住接近で、オフィスに行くのも10分足らず、夕方5時にはさっと帰り、風呂に入って7時には夕飯、8時には寝るという。まさにワークとライフの切り分けがきちんとできている。他の会社も同じだという。地方ほど、ワーク・ライフバランスがうまくいっているのかもしれない。
蓼科の夜を過ごしたあと、翌日は海野宿、小布施経由で奥志賀ベルサルームズに宿泊した。海野宿で街並みを散策しようとしたが、彼は途中のベンチで待っているという。小布施では、車で待っていた。病み上がりの体に、長時間のドライブはこたえているのかもしれない。それでも「疲れた」とは決して言わない。気をつかっているのだろう。
奥志賀では夕食後、早々と休んだ。彼にとって夜8時過ぎまで起きているなど、考えられないのかもしれない。大学卒業して約40年、別々な人生を歩んできた。生き方もちがっていた。考え方もちがってきた。しかし共通項は「多感な年代を一緒に過ごした」ことであり、生き方、考え方がちがっても、自然に分かりあえるのは、そのせいであろう。友よ元気で、早く足を治してほしい。
翌朝、村上へ再び、長いドライブで帰っていった。

   
 

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 月

6月28日 「霧ヶ峰のレンゲツツジ」
霧ケ峰のレンゲツツジは7月のニッコウキスゲに負けずとも劣らないと聞かされていた。もう終ったかなと思いつつ行ってみた。
ニッコウキスゲが咲き乱れるコロボックルヒュッテの周りはそれほどではなく、車山肩へ続く歩道沿いが見ごろのようで、多くのカメラマンが三脚を立てていた。ちょうどコバイケイソウも咲き始め、レンゲツツジの赤とコバイケイソウの白が美しい。十分絵になる風景が広がる。しかしお客はそれほどでない。やはり霧ヶ峰といえばキスゲの花が人気なのだろう。
コロボックルヒュッテの傍に「キスゲの歌」の歌碑が出来ていた。昨年作られたらしい。作詞はコロボックルヒュッテオーナーの手塚さん。

   
 
6月26日 「モミの木は残ったかな? 」
山荘ができてから、毎年、クリスマスになると木鉢にモミの木を植え、クリスマスツリーにして一冬越した。春になって、庭に植え替えることにしていた。
植木屋の話だと、土の中の凍土がゆるむのは蓼科は5月末、その頃、植え替えなさいと言われた。最初の春は忠実に守った。1ヶ月も経つとモミの木は茶色くなり枯れた。土から引っこ抜いて、捨てた。昨年は、鉢の中で春までに枯れた。二年続けてダメだった。今年の木は、下は少し枯れかけていたが、上はまだ緑のままだった。そして5月中旬、雉が屋根にぶつかり墜死したとき、雉を埋葬する隣に同時にモミの木を植え替えた。しばらくすると、木の穂先にまるい緑の玉が出来た。それが日増しに大きくなりはちきれそうになった。マツカサみたいなのができるのかなと思っていたら、はちきれたあとに、新緑のモミの針葉が広がってきた。新しい葉と古い葉は、緑の濃さがはっきりとちがいどこが新芽かよくわかる。モミの木の高さも植え替えたときより、高くなった。次のクリスマスにはここに電飾しようか。ようやく三年目にして、「モミの木は残った」かな?

   
 
6月25日 「庭の草取り」
来週、はるばる越後村上からの友人を迎えるべく、山荘の掃除をしながら、山荘の周りを見ると、緑は夏まじかで濃くなり、たったこの前までの淡い新緑は木々の鬱蒼の中に消えていた。下の駐車場から山荘へ上がってくる枕木の道の咲き終わったタンポポの葉や他の雑草が道を蔽い、どうも見苦しい。下から見るとあばら家へ続く廃道みたいな雰囲気だ。そこで草取りをやることにした。
草刈機を使うほどの大きさでないので、軍手で一本一本抜いていく。腰かがめで前進しながらの作業はことほか汗をかく。びっしょりになるので、長袖の上着を脱ぎ、Tシャツになった。これが災いの元だったらしく、虫に食われたらしく、その後しばらくムヒのお世話になる羽目になった。顔のあちこちも刺された。
発見は、タラの木が生えているところには、ヨモギも一緒に繁っているということだった。タラは芽だけが必要な木、ヨモギも草餅でも作らないといらない植物。
両方ともバッサバッサと引き抜く。このとき、刺されたのかな? 日が暮れてしばらくやってようやく、ほぼ階段道の草取りは終った。周りの生茂った緑と階段の白さのコントラバスが気持ちよい。
     
 
6月23日 「山田牧場・満山荘」
山田牧場は志賀高原の熊の湯からの笠岳の肩を越えて延びている林道を下ったところに広がっている。ベルサルームズの冬シーズンのご苦労会と他の宿泊施設視察を兼ねて、三輪さん家族と一緒に、家族だけでやっている満山荘という温泉宿に行った。コモトペンションのおばちゃんも一緒だ。
東京組は軽井沢から、私は蓼科からアルプス展望の温泉宿に集まった。
先週は志賀高原からアルプス全山が見えたが、この日は曇っていて、少ししか見えなかった。山田牧場には牛が放牧され、広い草原は冬はスキー場になる。尾根を越えれば熊の湯や木戸池が近い。ゴンドラでもかければ志賀高原とつながる近さだ。スキーブームが続いていれば、それはあったかもしれない。牧場の周りには、チロル風のペンションなどもあり、ちょっとヨーロッパアルプスの村の雰囲気もある。
満山荘は、純粋な日本の宿、おじいちゃん、おばあちゃん、息子夫婦でやっている、日本秘湯の会の宿。おじいちゃんの話によると、オープンした頃は、学生の合宿が主で、一泊三食で500円くらいだったとか。東京や名古屋のいろいろな大学に集客宣伝に回って必死に学生客を誘致したという。それが秘湯ブームやスキーでお客も増え、増築増築で今の宿は創業時の6倍の大きさになり、もう学生客に頼らなくても、週末はいつも満員になる評判の宿になった。
夕食の切り盛りは家族だけでやることもあり、今回のベルサルームズ経営視察の目的にもなった。部屋数も10室程度でベルサ並み。料理は旬のものが並びおいしい。忙しいようで、説明などもサッと終るのが難という声もあった。
温泉は手作りらしく、荒々しく、外からも見え、同行の女性はおじいちゃんに見られたとかで、翌朝、観賞料代わりにジャムをおじいちゃんからもらっていた。何とも素朴かつ人間的な宿だった。三輪さんもいくつか、参考になったことがあるようで、そのひとつは「一品ずつ出していくと、手が回らず、食事の間が空いてしまうことがある。ここは、最初に三種類くらい同時に出すので、その間に次のものを調理する時間がとれ、お客さんを待たせない」ことがこれからのヒントになったという。

        
 
6月16日 「奥志賀集客作戦」
奥志賀のベルサルームズの冬の営業も終わり、夏に向けて、そして来シーズンの冬に向けての集客作戦を考える時期になった。
今年の冬は、暖冬雪不足のニュースが行き渡ったせいか、スキーに支障のなかった志賀高原全体も、お客は減ったという。ベルサルームズは開業の年だったので、初めてのお客さんばかりだった。この冬のお客が来年にもつながるリピーターを多く確保したかったが、実のところ、われわれの予想を下回った。ということは基礎票固めが不十分でシーズンを終ったことになる。ただ救いは、オーストラリアと香港からのお客様に1週間の長期滞在をしていただいたこと。長期のお客さんを増やすことが目的のひとつだっただけに、希望の芽は外人客にありと判断した。そこで、日本にいる外人さんをメインの顧客にしているというエジプト人のレダさんを紹介していただき、キャンペーンをやってもらうことにした。
そのためにはレダさんに志賀高原やベルサルームズを見てもらう必要があると、この週末に紹介者の東光さんやその友人の方々を奥志賀に案内した。アルプス全山が夕方までくっきりと見えるすばらしい天気に恵まれた。奥志賀のグランフェニックス前の草原にもタンポポの綿毛が夕暮れの中に舞う、幻想的な光景もあり、レダさんも「思った以上によい所、ベルサルームズも部屋数2つ3つの民宿みたいな宿と想像していたが、ホテル並みの大きさで、部屋も広く、食事もおいしくVery good、これなら外人客も喜ぶ」と太鼓判を押してくれた。レダさんのお国やアラブの人にとっては、「緑の野山や白い雪があこがれという。アラブの国は茶色の砂漠がほとんどだからという。志賀高原はまさに憧れを満たしてくれる場所なのだそうだ。さあこれからの、レダさんの協力で始まる集客作戦が楽しみになってきた。
   
 

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5 月

5月28日 「ミヤマキリシマ、ちょっと早かった」
九州、久住連峰はミヤマキリシマという小ぶりなピンクのツツジが山全体を覆うことで有名。見ごろは6月初めというが、春先の予想では今年は早そうとのこと。そこで4月初めに、登る前の黒川温泉、登ったあとの湯布院の宿を押さえ、途中は坊がつる草原の法華院温泉の山小屋に泊る予約を整えた。満を持して行った久住山。外れた。特に今年は山の上が遅く、6月10日頃になるという。
登りはじめの牧ノ戸峠の標高1200mあたりや法華院温泉あたりは咲いていたが、肝心の山全体ピンクになるという平治岳や大船岳はまだだった。しかし、初めての九州の山登りは、とても印象に残る山旅だった。
標高は蓼科の八子ヶ峰程度の1800m足らずなのに、アルペンティックな雰囲気や、山上の池、山腹から立ち上る活火山の煙、草千里のように続く草原そして南国の山らしい曲がりくねった木々に囲まれた森の道など、とても楽しかった。妻は、中岳から法華院までの急な下りが続くのに閉口したらしく、後半はバテテいたが... 
久住山は百名山のひとつなので、平日とはいえ、おおぜい登っていた。われわれ同様、ミヤマキリシマ目当ての人も多かったようだ。この日は夏のような日差しで暑かった。黄砂のせいで、遠くまで見通せず、春霞の中のような風景だった。遠くまで来たのに残念だったが、また来たい山となった。
こんどはミヤマキリシマが咲いたと知ってから来よう。

   
 
5月21日 「ベランダのペンキ塗り」
三年くらいたったらベランダのペンキ塗りをしてくださいと工務店から強く言われていた。別荘で最初にダメになるのは、ベランダだという。雨がストレートにあたる場所だからだろう。しばらく晴れの日が続く天気予報の出ている日に、思い腰を上げてペンキ塗りにとりかかった。
キシダテコールという塗料を畳10枚分くらいの量という缶を買ってきた。約1万円、結構高いんだね。ベランダの椅子や、テーブル、バーベキュコンロなどを片付け、おもむろに端から塗り始めた。手すりの縦柵に刷毛を運ぶと、ポタポタと下に垂れる。1万円の何円分かが垂れていると思うと惜しい。
それから少しケチになり、べっとり刷毛にペンキをつけないようにした。そうすると、所どころマダラになってしまう。ケチると、ペンキが木材に塗り込まれず、効果薄いのではないかと不安になり、またたっぷりつけた。3分の2くらい進んだところで、1万円分のペンキはなくなった。
山の下のホームセンターに車を走らせ、5千円分を買い足した。階段のステップにはたっぷりとしみ込ませ、ペンキ塗りは終った。
5月とはいえ、直射のベランダは暑く、麦藁帽をかぶっての作業だった。
外の仕事のあとの、冷やし中華は格別においしかった。

   
 
5月15日 「タンポポ咲き乱れ、桜も咲いた」
今年の庭はタンポポの花盛りになった。この3年間、綿毛が飛散したせいか、山荘への道は、上の駐車場からも、下の駐車場からもタンポポがびっしり敷き詰めたように黄色一面になり、とてもきれいだ。
去年、いっぱい咲いていた上のヴィラの横の道や下の曲がり角の横浜の幼稚園別荘の庭は、今年はそれほどでもない。きれいに咲きそろうのには、周期があるのだろうか?ということは、来年のウチの庭はたいしたことないということか。
4月の末に、つぼみをつけていた、昨年、タンポポの道のそばに植えた3本のソメイヨシノの特に1本に淡いピンクの花がようやく咲いた。つぼみはふくらみつつあったが、連休明けには葉が伸びだし、開花はないかとあきらめていたが、葉に隠れつつ、いくつか花を咲かせた。他の2本にも二つ三つ咲いているが、寂しい。
来年は、三本ともに花が咲きそろうことを期待したい。それには、少し、枝を切った方がよいのかもしれない。

       
 
5月14日 「雪まだらの道に難渋」
この冬、スノーシューで歩いた北八ヶ岳の道を雨池から麦草峠へ逆に、妻と一緒に歩くことにした。5月末の九州久住山ミヤマキリシマ登山の足慣らしにと。
ピラタスロープウェイから縞枯小屋の横を通り、雨池峠を越えたあたりから、下りの道は残雪に覆われていた。林道まで出れば消えているだろうと考えていたが、下りても雪があった。
雨池への森の中も雪、そして所々でドフッと膝までもぐってしまう。足跡をちょっと外すと、ドフッとくる。雨池へ出ると、さすがに雪は消え、2月に歩いた雪上の湖面はきれいな水をたたえていた。砂浜状になっている池の周囲を回り、麦草峠への道に入った。
冬には雪の上で気がつかなかったが、湿地帯を木道が林道まで続いていた。しばらく雪のない快適な道を歩いたが、そのあと森の中の峠への登りに入ってからが大変だった。スノーシューで歩くコースは夏道とちがうルートだったので、雪が消えかかった今、ほとんど歩く人もいないので、足跡不鮮明、木に取りつけてある赤い紐の目印だけが頼りの道になっていた。それも時々、見失う。
そこで藪こぎ状態で進むと、ドフッ、ドフッの連続。雪どけの池になっている所にはまり、右足は靴の中までぐっしょり水浸しになってしまった。後ろから来る妻に、恐怖心を抱かせないように、取り繕うのに必死になる。
迷い迷いながら、やっと夏道と合流した。雪どけの時期には歩くものでないことを悟った。久住山の足慣らしにと来たのに、とんだ本格的なルートファインディングの藪こぎになった。ほとほと疲れた。しかし、妻はゴールデンウイークに行った高尾山の頂上直下の登りより楽だったと言う。女恐るべしである。

   
  
5月13日 「雉も鳴かずば…」
夕方、ドンと戸が風で閉まるような音がしたので、閉め忘れたかと思ったとき、べランダに何枚もの鳥の羽がハラハラと落ちてきた。
もしかして、鳥の巣でも作られたかと、2階のベランダに出たが、その気配なく、屋根の上から、まだ羽が舞ってくる。外へ出て、隣の庭から眺めると、屋根一面に羽が散乱していて、どうも鳥が屋根にぶつかった様子だ。
しかし影も見えないので、飛び立ったのかと家に入ろうとしたら、下の道路近くの林の中に草とは思えない茶色の塊が見え、行ってみると雉の死骸だった。羽もかなり抜けていたので、屋根の羽の正体は、この雉にちがいない。
本来なら雉鍋にしたいところだが、その気にもなれず、モミの木を植え替える予定だったので、急遽、穴を二つ堀り、モミの木のそばに葬むった。モミの木が成長するのを見るたびに、この雉のことが思い出されることだろう。 山の中の生活には、いろいろなことが起きる。
     
  
5月5日 「チェロの音で始まる蓼科の春」
山荘の5月は、毎年、チェロの音で始まる。
Kさんがチェロ合宿と称し、一週間滞在し、練習に精を出される。今年はお友達もチェロ持参で来られ、ベランダの陽光の中で、美しいメロディが奏でられた(時には、とんでもない音も響くが。失礼)。
昨年中断した、晩秋の「チェロコンサートの夕べ」を今年はやろうということになった。Kさんも、仕事の環境が変り、落ち着かない昨年だったが、今年は大丈夫のようだ。今から、秋の夕べが待ち遠しい。

 

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4 月

4月29日 「2007年の春も八子ヶ峰トレッキングから」
前日の雪で天候に不安もあったゴールデンウイークのスタートだったが、今日はすばらしい晴天。原稿書きの予定を放棄、そそくさと登山支度にとりかかる。
先日、開店したばかりのタウンセンターのおにぎり屋に行って、昼食を仕入れ、登り始めた。半年ぶりの八子ヶ峰だ。昨年の登り初めは残雪を踏みしめてだったが、今年は、昨日の雪が林の中にチラホラ残るだけだった。
一汗かいて尾根道に出ると、まばゆい白さで南、中央、北のアルプスの尾根が見渡せた。木曽駒と乗鞍の間にどっしりと鎮座する御岳山。しらかば2in1のスキーリフト降り場でおにぎりをほおばる。降り場は板敷き、陽に温められて心地よい、食後の昼寝と30分以上まどろむ。「気持ちよさそうね」と通り過ぎる人の声がする。何時間でも寝ていたいくらい気持ちよいのだ。
スキー場上に今年は、山の案内板が設置されていた。これまで志賀高原ではないかと推測していた山が、横手山であることを確認した。菅平の根子岳、四阿山と篭の戸山の間に見える白いピークが横手山だった。「そうだ、Sさんは今、志賀で滑っているはずだ」と携帯電話をかけた。ところが東京にいると出たSさんは言う。話しているとどうも変だ。私の番号登録が間違っていて、Mさんにかかっていた。しばらく別な話をして切る。うららかな春の日のミステーク。山荘に帰ってきて、風呂に入り、ビールを呑んで昼寝して、夜は泊っているKさん手作りのカレーをおいしく頂き、結局は仕事せず一日終った。これも良きかな。

   
 
4月26日 −28日
 「鹿、わが庭に。季節外れの雪」
ゴールデンウイーク間近い4月末の夕暮れに、ふと窓から庭を眺めると、二頭の鹿が草を食べている。通りの草薮では時々見かけていたが、庭で見るのは初めてだ。カメラを窓越しに向けても気づかない。そこで一枚、ズームにしてもう一枚、フラッシュがついたら、気づいたらしく、こちらを見る。しばらくすると、また草を食べ始めた。欲を出して、ベランダに出て撮ろうと、ドアの鍵をそっと外す。「カチャン」というか細い音だったが、鹿は敏感で、その音とともに、道路を越えて駆けていってしまった。ふきのとうの芽がなくなっていたのは、もしかしてこの鹿のつがいの餌になっていたのかもしれない。
別荘地の桜もチラホラ咲き始めた頃、突然の雪になった。一天にわかに暗くなったと思ったら、ストレートに雪が降り始めた。あっという間に付近はまっ白になった。そんな降りの中、Kさんから、「タウンセンターで後続車を待っている」という電話、すぐ上がってくるようにとせかした。タウンセンターから上になる標高約1500mの山荘は、下は小降りでも本降りになっていることが多い。登れなくなる可能性もあるので、まずは山荘に着くことが肝心なのだ。雪がおさまって、しばらくすると、そんなに晴れているわけでもないのに、きれいに消えていた。あの大雪の一瞬は何だったのだろうか。春の夢のような雪だった。
     

 
4月21日 −22日
 「山荘に響く阿波踊り笛の音」
花の木連に入れてもらって10年以上になる。毎夏、高円寺阿波踊りに参加し、数年前には個人賞までもらい、その表彰状は私の宝もの、山荘の書斎に飾っている。発祥の地・新宿ゴールデン街・花の木のママさんとその仲間「うまいものを味あう会」のみなさんが、山荘を使ってくれた。春の宴をここでやろうという。メンバーの半分くらいは、踊り仲間でもある。
献立がすごい。・鹿肉ステーキ ・帆立て焼き,アスパラ,生椎茸・まぐろ刺身・野菜サラダ・筍とわかめの煮物・山菜の天麩羅・人参の醤油漬け・そらまめ,つけもの(いぶりがっこ,野沢菜・乾きもの(ピーナツ他),果物(でこぽん)・まぐろ丼・夜食 稲庭うどん、と旬のものが目白押し。
それをみなさんで手分けして調理、Yさんは庭で採ったフキノトウの天ぷら、温泉へ行く道すがら摘んだ葉わさびのヌタ、K.Mさんは鹿肉のステーキ、Nさんは持参の刺身包丁でマグロの塊からすばらしいトロを、Tさんはタッパーに用意してきた野菜でサラダつくり、ママさんは筍料理、菜の花とアサリの煮物(伊勢丹で900円した菜の花が、ここでは180円だったとガックリしていたが)と、ふたつの台所を駆使して作り始めたら1時間くらいで食卓に勢ぞろいした。N.Mさんは席順のくじ係、Kさんは持参のギターでカントリソング、忙しい台所の人たちを和ませる。役割が自然に決まり、美食パーティが始まった。残るのではないかと危惧した、料理の数々はどんどん片付いていく。どれもすこぶるおいしい。さすがである。 食後、Yさんが笛で阿波踊りのメロディを奏でだしたら、花の木連のメンバーは自然に踊りだした。テーブルの周りが演舞場に早変り、笛の音と笑い声がログハウスに夜遅くまで響いていた。

   
 
 「薬師堂の桜」
「落花盛ん」の高遠へ、花の木のみなさんと出かけた。たった一週間でこんなにちがうものか。人が少ない。駐車場もガラガラ、あの騒然としていた公園は、花びら舞い散る春の終わりの静けさに戻りつつあった。城址公園の一角から、しだれ桜のおおきな枝ぶりが望まれ、その桜は今がみごろのようだ。そこへ車で行った。古いお堂を包み込むように桜が覆っている。田園の中のお堂、そしてガードをするようにそびえている桜、美しい昔の趣がそこにはあった。薬師堂のしだれ桜は発見だった。
N.M.さんの句。
 野わさびの辛味ほろほろ口の中 春の恵みに酒また旨し
 国道にも落花盛んの表示あり しまい桜を高遠に観る
                                                                              
K.Mさんのこの旅の感想
落ち葉を踏んでの散歩,温泉,山荘のデッキでの語らい,翌日を考えなければ一晩中でも飲んでいたい気分でした。
日曜日は、わざわざ高遠まで案内していただき、予期せぬ慶びを得られました。
高遠は前から言ってみたいと思っておりましたが、シーズン中の混雑を考え、二の足を踏んでおりました。「落花盛んな中でしたが」ではなく、「落花盛んだからこそ」の楽しさを味わえたと思います。
桜色一色ではなく、淡い緑と桜色、桜色の絨毯も、あれだけ桜が集まるとすばらしいものでしたし、桜一色の様子を思い描くのにも充分な桜が残っており、両方が楽しめた、得をしたような気分です。
ほんのり桜色の固まりに見えるお城と、城と離れて大きく存在を主張している満開のしだれ桜もすばらしいものでした。
江戸を遠く離れた地で、何世代か前の人々がどのような気持ちでお城の桜、しだれ桜をうえ、藩の学校を作ったかは、我々が見習わなければならない点があるように感じました。昼食のそばやのポスターにあった「秋の高遠城」も、いずれの機会にと楽しみにしております。
      
  
4月14日 −16日
 「友、シンガポール、香港から来る」
HPで働いていた時代、日本はHP Asia/Pacific Regionの一員だったので、よく香港やシンガポールでミーティングがあった。その当時の仲間が、北京でのミーティングが開かれる前に蓼科の山荘に来てくれた。ヒコの新しい人生を垣間見たかったようだ。
着いた日は暖かく、茅野駅は桜が咲いていた。蓼科まで来ると、まだ雪が残り、冬景色なのにみんなびっくりした。ゲストハウスへの駐車場から玄関までの階段には、屋根からの雪が残っていて、みんなが来る前に雪かき作業をやったほどだ。この冬は、積雪は少なかったが3月に入り寒く、新雪もあったので、4月に入っても例年以上に残っている気がする。
日本の職場の後輩も集まり、雪の残るスキー場を下り、温泉にも行った。私が退職する直前に企画していた冬の札幌でのミーティングが景気悪化で中止になったことが彼らにとってすこぶるガッカリだったようで、”Missed Sapporo、Very disappointed" とくやしがること、しきりだった。中には、家族旅行で札幌に行きリベンジした人もいたとか。あの頃は、ミーティングもペナンなどのリゾートでもやれる良き時代だった。

   
 
 「高遠の桜は満開、松本城は桜吹雪」
彼らにとって、実にGood Timingな蓼科滞在だった。満開の高遠の桜、そして滞在期間中は良い天気だった。
高遠に行った日は満開の日曜日。杖突峠を越え、高遠の町に近づくにつれ、渋滞が始まり、街中に入ったときは交通整理のガードマンも、コントロール不能に陥っていた。どの駐車場も満車なので、好きな所で空き待ちをしてくれ、と言う。それなら、城址公園前がよいと、道一杯に歩いている人をかき分けて、ソロリソロリと車を登らせた。幸いにも空いていた。
しかし何という人の数だ、道路もいっぱい、公園内もいっぱい、店もいっぱい、公園の橋の上は案内係が、立ち止まるなと声をからしていた。しかし、橋の上から見える桜の波と木曽駒ヶ岳の白い山並みのバランスよい景色を写真に収めるので、立ち止まるなと言っても誰も聞いてはいない。それほど美しい高遠の満開の桜だった。遠方よりの友も、混雑ぶりにはビックリしていたが、目のすぐ上に広がるコヒガンザクラのすばらしさには感嘆していた。日本人の桜好きの理由が少しは理解したようだ。

   
 
高遠の桜の下で焼きそばやみたらし団子でランチのあと、伊那からハイウェイに乗り、松本に行くことにした。高遠の町を離れて、伊那への道筋は、これから花見に向う観光バスと乗用車の列が何十キロも延々と続いていた。たぶん後ろの車が駐車場に入れて、城址公園へ行く頃は日が暮れ、夜桜見物になるのでは? と、われわれの幸運さを喜んだ。外来の友も、「Hiko! Good decision!」と、ガードマンがコントロール不能と言ったとき、もっとも混んでる道に突入していった、私の判断をほめてくれた。
伊那インターから高速道路に乗った。入口周辺からしばらくのハイウェイ沿いも、すばらしい桜並木だったが、みんな、眠りについていて、すばらしさを味わったのは私だけ。
松本城は、高遠に比べると人出は少ないが、お城と桜のコンビネーションが美しく、散りはじめの桜吹雪を浴びての花見になり、みんなは高遠よりも、松本城の桜を気に入っていたかもしれない。お城の中は混雑していて、天守閣まで登り着くのに40分くらいかかったのではないだろうか。ここで私は発見した。常念岳頂上から蝶ヶ岳への下った肩のところに槍ヶ岳の穂先が見えることを。街から槍ヶ岳を望めるのは、高山だけと思っていたが、松本からも見えるのだ。山好きにとって、このような発見は応えられない興奮を覚えるのだ。
遠来の友も、山荘に2泊して、あずさで成田空港に帰っていった。
美しい春の空に輝いた高遠、松本城の桜は、きっと生涯の日本のよい思い出となることだろう。
     
 

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3 月

月24日  「バックカントリー草津」
昨年は、志賀まで行ったにもかかわらず中止になった、横手山から草津へのバックカントリースキーが今年は実現した。
志賀高原観光協会の主催、1月の申込み開始ですぐ満員になり、極楽スキーメンバーは4名しかエントリーできなかったが、直前にキャンセルがあり、希望していた7名全員が行けることになり、めでたし、めでたし。
天気予報は夕方から雨、それまでは何とか持ちそうとのことで蓮池をバスで出発、熊の湯から3本リフトを乗り継いで横手山へ。渋峠から整備されていないコースに変る。しばらくは夏の自動車道路を登り、芳ヶ平への斜面に入る。
目指すは芳ヶ平小屋の赤い屋根、インストラクターの松本さんが小刻みなターンで結構急なスロープに滑り込んでいく。では私もと滑り出したが、予想以上に雪は重く、曲がるにはジャンプが必要だった。昔はジャンプターンは得意だったのに、短いカービングスキーになってからは、トップもテールも一緒に上がってしまい、どうも格好悪いし、着地もドサッていう感じで気持ちよくない。でもそんなことを言っている場合ではない。後ろから50名の人が滑ってくるし、松本さんはどんどん下に行くし。できるだけ、上体を低くして、膝を思い切って曲げると幾分安定して、転ぶ不安から若干解放された。

   
 
芳ヶ平の小屋は避難小屋と思っていたが、管理人もいて、お客も結構入っているようだった。近くにはテントもあった。ここをベースに山スキーを楽しむ人もいるようだ。今年は雪が少なく、ガイドさんもコースファインディングに苦労していた。笹薮の中を滑ったり、かろうじて雪が残っている橋の上を恐る恐る渡ったり、草津に近づくと、林道が所々雪が消えていて、スキーを脱いで歩きもした。しかし、ゲレンデにはない、荒っぽい斜面と、登りもあり、スリリングな道もあり、意外性に富むスキーだった。湿雪に足をとられ、よく転んでいる人もいたが、それでもみんな楽しそうで、病み付きになったのではないか?
お昼は芳ヶ平を過ぎた、森の中に開けた場所で、渋峠でもらったパン、三輪さんが遭難用に作ってくれたおにぎり、ワインも、持ってきたものと、観光協会が用意してくれたものと、豪華なランチとなった。草津の温泉のあとは、車内で志賀高原ビールやジュースもふるまわれ、至れり尽くせりのサービスだった。バスで志賀高原に帰り始めた頃、雨が降り出し、天気予報どおりになった。ぐっすり寝ているうちに蓮池に夕方5時半過ぎに到着。楽しいバックカントリーは終った。来年は万座か、再び草津か。

   
 

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2 月

2月23日− 3月4日
 「はるかなる ドロミテ」
隔年に始めた極楽スキーメンバーでの海外スキーツァー、一昨年の仏ヴァルディゼールに続いて、今年はイタリア・ドロミテを選んだ。ドロミテはイタリア北部のオーストリアに近く、南チロルとも呼ばれるエリアで、第一次世界大戦まではドイツ領であった。戦争に負け、それからイタリア領土になったいわくつきの地域でもある。オーストリアのインスブルックからは160k、2時間程度のドライブで着く。東京から蓼科に行くとほぼ同じ距離だ。ところが、車以外の交通は国をまたぐせいか不便で、列車で行ってもバスで行っても、国境近くで乗り換えなければならない。そこでわれわれはジャンボタクシーをチャーターした。最初は8人の参加予定だったので8人乗りの大型で予約した。しかし日が近づくにつれ、一人減り二人減りで、最終的には4人になった。8人乗りでは大きすぎると思ったが、荷物も多いことだしとそのままにした。往復で約10万円、ひとり2万5千円の負担だ。この予約の過程で初めて知ったのだが、SkihoppaというWEBサイトがあり、とヨーロッパだけでなく、アメリカのスキー場へのチャーターバスを予約できる。スキー場をインプットすると、送迎可能な空港一覧が出てきて、空港を選ぶと、8人乗りまたは4人乗りの往復運賃が表示され、空港への到着と出発時刻を入れると、自動的にスキー場への到着、帰りの現地発の時間を指定してくれ、OKならクレジットカードで支払って申し込み完了。とてもよくできたシステム、残念ながら日本のスキー場は対象になっていない。これから外人をターゲットにしようとしている志賀高原や、白馬もこのようなシステムを考え、空港からの足の確保の便を図るべきだろう。日本に来られる外人にとって、レンタカーはむずかしいので、このような現地に直行するシステムが欲しい。

   
 
インスブルックのホテルに2月23日に集まり、24日の朝、ドロミテに向うことにしていた。Yさんはウイーン経由、Uさんはパリ、Kさんはフランクフルト、私はミュンヘンからとみんなバラバラにバラバラの時間に来ることになっていた。ミュンヘンに前日入っていた私にKさんから、「飛行機トラブルで成田からのフライトが飛ばず、一日遅れる」と連絡してきたのは、インスブルックへ向う寸前だった。ドロミテへ向う24日の夜にインスブルックへ着くことになる。チャータータクシーの出発を朝から夜に変更しなければならない。23日の午後、インスブルックの宿に着いて、すぐ電話で交渉したが、「今さら変更できない」の一点張り。オフィスの場所を聞いたら、宿から10分の距離、「すぐ行く」と言って、オフィスへ行き、マネージャと直談判、しっかりしたやり手のレディだった。私のジャパングリッシュを苦労しながら聞き取り、ドイツ語であちこちに電話して、車と運転手の空きを調べている様子。しばらくして、OKとなった。変更や夜間の割り増しもいらず、ホッとした。オフィスの中で働いている人は全員女性だった。
時間を遅らせ、インスブルック空港で夜7時にKさんをピックアップして、ドロミテ・コルバラの村へ向った。アウトバーンに乗り、ブレンナー峠を越えてイタリアに入った。雨が降り出し、雪が溶けているのでは、と心配になる。ヨーロッパも暖冬で、出発前の情報では山麓で15cm、山で70cmと積雪はすこぶる少なかった。そのわりには、すべてのゲレンデが「Open」となっているのだが、この雨でどうなることやら。運転するのは背の高い格好よいお兄さん、だがコルバラへの道は初めてらしく、地図を見たり、電話をしたりで迷いながら、夜半10時ごろ、レジデンス・アンジェリカに到着。イタリア語しか話せないおじいちゃんとおばあちゃんが部屋へ案内をしてくれた。建てて間もないコンドミニアムなので、とてもきれいで、かつハイテクだ。無事到着を祝って、まずは乾杯!
 
 「とてつもなく広いドロミテのスキーエリア」
ドロミテに来る前、出発が朝から夜に変ったことにより、インスブルック市内観光の時間ができた。私は四回目のインスブルックだが、YさんもUさんも初めて。黄金の屋根すぐ近くのホテルだったので、歩くにはうってつけ。観光案内所で交通機関にも乗れ、入館料もタダになる、市内パスを買って、まずは背後にそびえているノルトケッテの山へロープウェイで登った。この山は、何となく上高地から仰ぐ穂高連峰に似ていて、インスブルックの街は河童橋あたりに広がっている感じだ。さしづめ街を流れるイン川は梓川だ。ノルトケッテの山は標高2300m、麓の街は800m、標高差1500m、上高地と穂高の標高差も1500mと同じなので、なおさら似た感じがするのだろう。どんよりした日だが、チロルアルプスが春霞の中に見える。とても暖かく、冬とは思えないような陽気だ。頂上近くのロープウェイ乗り場で、なんと「ヤナセ」と書いてある雪かき機を発見、この手の機械はほとんどが本場のオーストリアかドイツ製と思っていたが、日本からの輸入もあるのだ。近づいて製造元を調べると北海道岩見沢の石狩造機という会社の製品だった。きちんとメンテナンスされ、役に立っていることがよくわかる。「日本の中小企業の活躍、ここにあり」という感じで、うれしかった。宮殿や博物館も見て、ドロミテは夜になるからと、スーパーで買い物をすることにした。ところが土曜は夕方5時閉店であわてた。結果としては、運転手のお兄さんにインスブルック駅中に開いているスーパーに立ち寄ってもらい、買出しは出来たのだが、ヨーロッパで驚くのは日本との働き方のちがい。スーパーに限らず、ほとんどの店、銀行も観光案内所に至っても昼過ぎから午後4時頃まで閉め、そのあと再開しても夜7時で終わり、土曜は5時まで、日曜は休み。インスブルックの観光地で開いているのはみやげ物屋とレストランくらいだ。24時間営業のコンビニなどない。慣れれば、これでよいのかもしれない。休んで電気も消すのだから環境にも良い。日本は便利になりすぎている。昔の日本はヨーロッパに近かった。店も役所ももっと休んでいた。小樽の市営スキー場など、お昼時はリフトも止まっていた。「顧客主義」が「いつでも開いている」ことにすり変り、昼と夜の区別もつかなくなってしまった。環境問題が声高に叫ばれる今、こんなヨーロッパスタイルを見習うことも大切と思う。

   

ドロミテのスキーエリアはとてつもなく広い。リフトの数450以上、エリアも12ヶ所に分かれ、全面積は長野県の三分の一の広さになるという。そのエリアをロープウェイ、バスなどでつないでいる。地元の人にとっても、一生かけてすべてのスキー場を回ることが夢というほどの大きさなのだ。リフト券も全エリア共通がスーパードロミテパス、エリア毎のリフト券もある。信州のスキー場でいうと、志賀高原、野沢温泉、妙高、白馬などがすべて一緒になって、リフトも共通、エリアをつなぐ交通機関が張り巡らされているという感じか。今回泊ったところはコルバラというスキーのためにあるような小さな村、ドロミテの中心地でセラ山脈をぐるりとスキーで回るセラロンダの基点の場所でもある。セラロンダには右回りと左回りがあり、同じゲレンデを滑らず、リフトを乗り継いで一周できる。私は右回りが面白かった。さしづめ八ヶ岳山脈の回りをリフトがかかっていて、それをつないで、清里、富士見、蓼科、佐久、小海、野辺山とスキーで回るという感じだろうか。志賀高原並みのスキー場がいくつもつながっているようだ。ドロミテは岩山が連なる、ヨーロッパアルプスでもユニークな山容をしている。その岩山の間がスキー場になっている。山の上から眺めると、以前行ったことのあるチロルのエッツェタールのオーバーグルグルあたりの連峰も見えた。最初はセラロンダの左回りを滑った。一周するに、ほぼ一日かかる。昨夜の雪が降り積もったゲレンデは朝日に映えてすこぶる快適だ。心配していた積雪もコースにはたっぷりある。村にはないのに、ゲレンデは夜中に人口雪などで整備しているらしい。スキーがビジネスの中心になっている地域だけに、しっかりしている。峠にリフトで上がり、滑ると村に下る。村中の道もコースになっている所もある。スキーを脱いで、道路を渡ると、またリフトが待っている。その繰り返しが続く。村の中にはピッツァリアと呼ばれるレストランが数多くあり、休むのに困らない。

   
 
 「標高3200mからの大滑走
次の日は、セラロンダを離れて、標高3200mのマルモラーダに行った。ロープウェイを3本乗り継いで山頂近くまで上り上げる。ギューギューに詰め込まれた車内に突如、イタリア国家の大合唱が起こる。混雑も楽しくしてしまう陽気なイタリア人だ。山頂は晴れていても風冷たく、寒い。記念写真を撮って早々に滑り出す。結構きつい斜面が続くが、広いのであまり怖くない。レストランのあるPasso Fedaiaまで、標高差1800mのダウンヒルだ。硬く絞まった雪面にエッジを切り込んで慎重に、ほどよいスピードで滑り下りていく。ドロミテの岩峰がどんどんせり上がっていく。そしてフェダイア峠(Passo Fedaia)まで来ると、汗ばむほどの暖かさに変っていた。峠のレストランでまずビール、そしてきのこのスパゲッティ、おいしかった。帰りは昨日のセラロンダと同じ道を通るのは面白くないと途中からCol Alto経由でコルバラへ帰ろうと思った。ところがコースを間違え、ひと山越えた別の谷間に下りてしまった。San Cassianoという村だった。リフトの最終時間も迫り、戻ってもつながらない。レストランでタクシーを呼んでもらい、宿へ帰ってきた。25ユーロ。こんなハプニングも楽しい。中一日おいて、今度はセラロンダの右回り(時計回り)に挑戦。途中でマルモローダへ行く道と分かれ2500mの峰に上がり、そこから700mの高度差をカーブを描きながら滑っていく。ここが面白かった。ほどよい傾斜に気持ちよくスキーが切り込んでいき、よく曲がる。日本からオガサカのスキーを持ってきた甲斐があった。このカービングスキーはすこぶる調子良い。スキーを一旦、休止し、ポルドイ峠から約3000mの岩山にロープウェイで登った。晴れ渡った空の下、オーストリア、スイス、イタリアのアルプスの峰々が美しい。下にはドロミテのスキーエリアが広がっている。セラロンダのコースは変化に富んでいてとても面白い。ロープウェイで隣り合わせになったドイツ人夫婦はドロミテに2週間、そのあとチロルのサンアントンに1週間滞在するという。日本からはるばる来て、1週間じゃもったいないとも言う。働くことが好きだとも言っていたが、その原動力はこのようなバカンスをしっかり取っていることなのだろう。ワーク・ライフ・バランスである。

   
 
 「銀メダルのふるさと・コルティナ
中一日は、コルティナダンペッツォの街に出かけた。ドロミテ最大の街、リゾートの街である。1956年、日本人初の冬のオリンピックメダリストが誕生した町でもある。回転銀メダリスト・猪谷千春、トニーザイラーに続いての2位。日本中が興奮し、小学校5年生だった私にも脳裏に焼きついているコルティナダンペッツォの名前だ。そのあと、ジャンプやスケートで日本は金メダルを獲得したが、冬季五輪の花、アルペン競技では、50年経った今でも猪谷さんのメダルだけだ。それだけ偉大な銀メダルだったのだ。その町にやってきた。コルバラからはバスでファルツァレゴ峠まで行き、そこでコルティナ行きに乗り換える。5分の待ち合わせで連絡している。コルバラの案内所でバス乗り場を聞いたら、「遅れたら峠で2時間待たなければならない」と言う。不安は的中した。峠に着いても、バスはない。峠の茶屋で昼過ぎのバスまで待った。やっとコルティナに着いたら、こんどはすべての店が午後のお休みに入っていた。レストランで時間をつぶし、街を歩き回り、夕方ようやくお目当てのショッピングを終えたときには、コルバラへの最終バスはなくなっていた。タクシーでご帰還、75ユーロ。しかし夕方までコルティナにいれたので、夕日に輝く山々とコルティナの街の美しい景色をたっぷり楽しめた。アルプスの町らしく、坂が多いが、古くしっとりとした素敵な町だ。

     
 
 「レジデンス・アンジェリカ」
泊った宿はレジデンス・アンジェリカ。家族で経営する一昨年できたばかりの新しくきれいなコンドミニアム。台所も清潔、食器や調理器具も整っている。寝室が二つあり、中央にリビングキッチンのついた60uの立派なしつらえだ。他にも数部屋あり、大きな建物だ。鍵はすべてカード式、玄関もスキールームもサウナ・ジャグジーもこれがないと入れない。スキールームには、靴を鉄のハンガーのような取っ手に吊るすと自動的に靴の中も表も乾燥するという最新式の乾燥機が据え付けられていた。エレベータもあって、相当な投資なのではないか。おじいちゃん、おばあちゃんがいて、お手伝いのメードさんもいる。若夫婦は他の町に平日暮らし、週末にここに来ると言う。子供をそこの学校に通わせているというが、働いてもいるらしい。夕方、近くの小さなスーパーに買い物に行ったら、おじいちゃんがレジの袋入れをやっていた。おばあちゃんも朝、きちんとした身なりで出かけて行く。「ローンの返済で一族郎党みんなで働かざるをえないのではないか」とひとしきり、話題にしていた。ところが、スーパーに買い物に行くたびにおじいちゃんがいて、5%割引してくれる。単なるパートならそこまではできないと、少し見方が変ってきた。週末に若い奥さんが来たときに聞いたところ、スーパーはおじいちゃんと兄弟でやっていると言う。経営者だったのだ。道理でいつもいるはずだ。この村でも裕福な一家のようだ。だからこんな立派なコンドミニアムを作れるのだという結論になった。メードさんも、おばあちゃんもおじいちゃんも若奥さんもみんな親切で、とても快適な宿だった。

       
 
 「ロイテであわてたこと
ドロミテのスキーも終わり、インスブルックへ戻ってきた。Uさんは、午前中のフライトで日本へ帰っていった。3人は明日帰る。その時間を利用して、ノイシュバンシュタイン城の近くのチロルの町ロイテに住んでいる久仁子さんを訪問することにした。チロルに詳しい人として、昨年東京でお会いした。ドイツに留学、オーストリアの人と結婚し、観光や視察でドイツに来る日本人のガイドをしながら、フュッセンに10年ほど住んでいたが、昨年ロイテのご主人の実家に移って来た。ロイテではただ一人の日本人らしい。インスブルックからロイテに行くには列車で、ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで乗り換え、再びオーストリアに入るルートで約3時間かかる。雨が強く降っている日だった。ロイテの駅に久仁子さんが迎えに来てくれ、Yさんの希望のノイシュバンシュタイン城に行った。私は30年前の新婚旅行、数年前の家族旅行に続いての3回目、ここに来ると、ドロミテでは会わなかった日本人がいっぱいいる。最近は中国人の観光客も多くなった。インスブルックも日本人は少なかったのに、中国人は多かった。ロイテの久仁子さんの家へ入ったのが夕方5時近く、ご主人も迎えてくれた。100年経っている建物というが、大改装したこともあってか、とてもよい雰囲気の邸宅だ。少しも古さを感じさせない。来年予定しているチロルトレッキングのコースのアドバイスなどをしてもらい、ちょうど3月3日なので、とチラシ寿司を作ってくれていた。チロルでいただく日本の味は格別だった。帰りは7時22分の電車ということだったので、ご主人に駅まで送ってもらい、停まっていた列車に飛び乗ったところ、反対側に動き始めたではないか。あわて、下りたところ、時間がまちがっていたらしく、インスブルックへつながる本日の最終列車はもうないとのこと。久仁子さんのご主人も見送っていて、反対に走り出したのでびっくりし、駅員に緊急電話を運転席にかけて止めてもらったらしい。「サヨナラ」で別れた久仁子さんのところに舞い戻り、タクシーをフュッセンから呼んでもらった。インスブルックまで180ユーロ、帰りは電車道ではなくフェルン峠を越えてイムストからアウトバーンに乗って、インスブルックへ戻った。2時間ちょっとかかったが、列車より速かった。今回の旅ではタクシーに乗る機会がいくつかあったが、日本と比べ安いと思った。インスブルックまでは100k以上あるのに、2万8千円程度、コルティナからは約50k・12,000円。新宿から30kの我が家日野まで15,000円かかるのと比べると割安だ。ガソリンの値段は日本より高いくらいなのに。

   
 
2月9日−11日 「苦しんで楽しんだ北八ヶ岳の森」
新雪を冠った北八ヶ岳の森林はとても美しい。クリスマスカードに出てくるような景色が広がっている。この雪原を今年もスノーシューハイキングした。暖冬の今年、みんなが集まった金曜の夜は、蓼科に雨が降っていた。「こりゃヤバイ」と思ったが、2000mを越すピラタスロープウェイの山頂駅は雪だったらしい。
幸い、薄日も洩れる暖かい日になった。五辻経由で麦草峠に行くことにした。縞枯山、茶臼岳経由は女性軍の反対を受け却下、山麓に広がる雪原を歩くことにした。昨年の縞枯の急な登りに、女性はよほど懲りているらしい。スキーヤーがあふれる頂上駅の喧騒を離れ、森に入ると、とたんに静寂な世界だ。
雪が少ないと聞いていたが、思ったより多い。去年とたいして変わらないような気がする。縞枯と茶臼の鞍部から五辻に下りて来るルートは去年通った道、今日はまだ誰も歩いていない。新雪の中に道も埋もれている。それを横に見ながら、麦草峠へ向う。オトギリ平への雪原はコメツガやシラビソが雪をまとったクリスマスツリーのように立ち並び、ことの他美しい。8人が一列縦隊でスノーシューで進む。
麦草峠には2時間ちょっとで着いた。広々と開けた峠は、メルヘン街道と呼ばれる山岳横断道路が横切っている。冬の間は閉鎖されているので、スノーモービルが峠のヒュッテへお客を運んでいる。静かな麦草峠、同行の女性2人は44年ぶりに来たと、感慨に浸っていた。ワセダの岳文会の新人のとき、八ヶ岳縦走で疲れた体を、峠の草原で癒したという。
そのときのリーダーは、穂高の岩壁に散った。サブリーダーの女性は知床の海に沈んだ。そんな悲劇が、その後起こるとも知らず、この草原で楽しく談笑していたあの夏の日々。二人の感傷が理解できるような、美しい雪原が目の前に広がっている。

   
 
ワインを開けて、晴れた空の下、乾杯。朝、みんな銘々に作ったアメリカンクラブサンドイッチを、温かいコーヒーを沸かしてほおばる。去年は歩くことばかりしか考えていなかったが、今年はちょっとしたピクニック気分だ。余裕が出てきた。
同じ道を戻るのは味気ないと、少し不安はあったが雨池経由でロープウェイ頂上駅に帰ることにした。雨池へは下っていくが結構長い。氷結している雨池に着いたときは、ロープウェイ最終時刻まで2時間を切っていた。少しの不安はだんだん大きな不安になってきた。この季節しか経験できない池の中の横断をした。
誰も歩いていない大雪原に一本の道ができていくのは楽しくかつ美しい。そして行き過ぎてしまった。林道へ出る道を探して、やっとの思いで登ったときには、あと1時間ちょっとで最終便が迫っていた。みんな登りでバテ気味だ。
メルヘンの世界に浸っている余裕などなくなっていた。そこへスノーモービルが空らで走ってきた。バテテいる女性2人を雨池峠登り口まで運んでくれるよう頼んだ。快く引き受けてくれた。
峠登り口に来てみると二人はいない。スノーモービルで林道の先まで行ってしまったようだ。「スワ拉致か」と不安がよぎった。まさかとは思うが、私が峠口で待ち、みんなには先を急いで峠へ登ってもらうことにした。待てど暮らせど、二人は現れない。しばらくすると中島君が下ってきた。二人は先に歩いていたと。ヤレヤレ。急いで登り、みんなを追い越し、ロープウェイへ急ぐ。こんなときはスノーシューが邪魔になるが、小走りになる。乗り場が見えてきたとき、「本日の最終便がそろそろ出ます。乗り遅れないように」のアナウンスが聞こえてきた。やっとの思いで駆け込み、「しばし待たれい〜」。しかし後続はなかなか現れない。最終便はムリなので、従業員を運ぶ業務便で下ってほしいとのこと。「そういう手があったのか」と安心する。しばらくしてみんな到着した。「真の喜び、楽しさは苦労してこそ得られる」を実感した一日だった。

   
 
2月1日−4日 「晴れ渡った志賀高原」
今年も極楽スキークラブの恒例志賀高原スキーパーティの日がやってきた。
水曜の夜、志賀入りした人を皮切りに、木曜、金曜とメンバーが続々と集まってきた。総勢26名。ペンション・オードヴィーも金曜と土曜の夜は、われわれの貸切になる。ドンちゃん騒ぎをしても大丈夫だ。この集まりもかれこれ10年近く続いている。長野オリンピックの98年に、ファシリティマネジメント協会で知り合った人たちで白馬に行ったのが最初だ。このときは数名だった。帰りの日は、開会式当日で、五輪の輪を描いたジェット機が真上を飛んだり、曙の土俵入りをガソリンスタンドのテレビで見たことなどが、スキーより印象に残っている。
翌年から奥志賀高原に場所を移し、年々、参加者が増えていった。横手山へボルシチを、丸池に坦々麺を食べにスキーで行くのが恒例になった。OAさんのピアノ演奏でみんなで歌う”歌声喫茶”も始まった。同宿の他のお客さんに迷惑かけるといけないので、数年前から週末は貸切にするようになった。こうなると貸切に足りる人数を集めなければならない。それもこのところ25,6名と自然に定着してきた。みんなこの週末を楽しみにするようになり、これ一回のみのスキーという人もいる。夜を徹してワイワイガヤガヤ騒ぐために、奥志賀まで集まってくると言ってもよい。

   
 
2月3日の土曜はこれ以上ないというような素晴らしい青空になった。みんなで横手山のボルシチを食べに行く日だ。
志賀高原の74本のリフトを全部乗るというスタンプラリー組、ゲレンデを滑ってつなぐツァー組、そして横手山直行組と3班に分かれて出発した。
私はスタンプラリー組、4人でまずは中途半端に残っているブナ平に行くべく、バスで発哺温泉へ向った。ブナ平を終ったら、ジャイアンツに下り、そしてリフトで上がり、蓮池近くの興銀入口からバスに乗る。
スタンプラリーでいつもは最後まで残る木戸池で下りて、次のバスが来るまでの30分間、まだ残っている新雪を数本滑った。再びバスに乗ったら、横手直行組と一緒になった。われわれは笠岳スキー場で下り、笠岳−熊の湯−横手と、ひとつひとつリフトをつぶしていった。
土曜というのに熊の湯のゲレンデは空いていた。昔は熊の湯は志賀高原のスキーの中心地だったが、奥志賀、焼額ができたことにより、志賀の重心が変化してしまい、ゲレンデがつながらない飛び地になってしまった。
熊の湯から横手へトラバースして、山頂へのリフトを二本乗り継ぐ。空青く澄み渡り、浅間山の煙も間じかに、北アルプスの峰々も白く美しく輝やいている。驚いたのは、山頂周辺の樹氷が例年よりみごとな出来具合で、まるで蔵王の樹氷原に来たようだ。まさに白いモンスターにふさわしい。たぶん今年の雪は暖冬で湿っぽかったので、木々への張り付きかたが多かったのだろう。昼飯前に渋峠を片付けた。

   
 
26人全員もほどなくそろい、予約しておいたボルシチを食べた。
われわれには横手の下のリフト、前山と数本滑らないといけないので、早々に出発、ノンストップで横手山を滑りおり、盲腸線のような横に2本延びているリフトに向った。
1本は高校生の団体で長い行列になっていたので、その前にスタンプラリーでいちばん長く遅い硯川から来ているリフトに向った。これはA線、B線とふたつあるので、2回乗らなければならないが、2回目は改札を入ってすぐ出るというキセル乗車で勘弁してもらう。こうなると滑ることより、スタンプを押してもらうことが目的となる。
前山を滑って、またバスに乗り、蓮池ロープウェイで下り、ジャイアンツの上をまたぐ。今朝登っていったリフトがはるか下に見える。高天原へスキーを抱えてリフトに乗って、残っている高天原を片付け、頂上に着いたのが夕方4時半、ふと私のスタンプ帖を見ると、あと残っているのは真正面に見える西舘山の1本だけ。これを片付ければ終わりだ。
夕日の高天原のゲレンデを猛スピードで滑りおり、最後の1本に向った。幸い、西舘のリフトは5時まで運転していた。最後のスタンプをもらい、満ち足りた気分でバスに乗り、奥志賀に帰ってきた。この夜の歌声喫茶は、仕事をなし終えた気分で、気持ちよく歌えた。「ああ極楽、極楽」
 

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1 月

1月20日 「オーストラリアからの客」
初めての海外からのお客がベルサルームズに来られた。ご主人は日本人、奥さんはオーストラリア、お子さん二人とその友達二人、6人で6泊滞在された。日本語もわかる人が多いので、初めての外人客としては三輪さんにとってもありがたい。私も応援(といってもあまり出番はなかったが)で行った。
最初は、他のペンションに泊まっていたが、3日間で志賀高原を切り上げ、蔵王に行く計画だったそうだ。ところが3日いても、志賀の半分も終らないということで、さらに延長しようと、「それならベルサルームズが良い」との推薦で移ってこられた。こういうとき、キッチン付きスイートルームは売りになる(結局、彼らはそれぞれのプライバシーをも配慮するということで、二人ずつのスタンダードルームになったのだが。この点も外人家族らしい判断だ)。
「一昨年、ニセコ、昨年白馬と行ったが、志賀高原がもっとも面白い」と喜んでいた。そうでしょう。6泊の食事メニューに三輪さんはかなり苦労した。鴨鍋やフォンデューなど、この経験で新たに加わったメニューも多い。2月にも香港から1週間のお客さんが来られる。メニューは安心だ。この冬、志賀で大きく変わったことは、外人さんの姿が多くなったことだ。シャトルバスに乗っているとよくわかる。運転手さんに降りる場所を聞くのはほとんど外人、英語、韓国語、中国語そしてどこの言葉かわからないが、東南アジア系の人もいる。一挙に志賀高原は国際化した。われわれの狙いはここだが、予想より早い展開で英語のホームページも館内案内も間に合わない。(2月の香港からの客用にあわてて館内案内・英語版を私が用意した)。
そしてオーストラリアからの客にいみじくも言われた。「どうして日本の人は家族のために1週間くらいの休暇もとれないのでしょうかね?それでよく家族は文句言わないのですか」と。そうだ、日本人はもっと家族のために、自分のためにも休むべきだ。これからの時代は、ワーク・ライフ・バランスである。

   
 
1月8日 「危機一髪!
吹雪の志賀から蓼科に来てみると、こちらも大雪。
今年の雪の降り方は西高東低型が崩れているので、表日本の天候に近い蓼科も降りやすいのか?雪の量は志賀高原より多いくらいだ。水を含んだ湿っぽい雪のようで、大変なことになっていた。
夏から電線に近い木が斜めになっていて、いつかは倒れそうだな?と不安を覚えていたのが、現実になりつつあった。木の先の枝に積もった雪の重みで、枝全体が垂れ下がり、電線をV字に押し込んでいた。このまま降り積もると、電線は切れてしまう。すべての電気が止まってしまう。「これは一大事」と、枝を切る長い竿を持ち出して、ゆさゆさと揺するが、少しの雪は落ちるが、電線に寄りかかってしまった木を立て直すには至らない。
管理センターから中部電力に頼んでもらい、翌日、来てもらった。どうするのかなと眺めていたら、長く頑丈なノコギリ付きの棒竿で、先の幹をギコギコ切り落とし、木は斜めなものの、何とか電線には引っかからないまでに持ち直してくれた。ホッとひと息。もし来てなかったから、電気が止まっていたかもしれない。
昨年は水道管が本線で凍結、今年は電線と、山荘生活には思いもよらないことが起こる。

   
 
1月6日 長くつらい列」
今年の正月休みは成人の日と隣接したおかげで長い。1月6日の週末も、ベルサルームズはほぼ満室の状況だった。いつもこうだといいのだが。(実はこのあとは、”スキー場には雪がない”との風評のせいか、週末でもお客がパラパラで、オープンしたばかりのベルサルームズも予想以下の入りだ。志賀高原は滑るに十分の雪は積もっているのだが...)
正月明けの連休は大荒れの台風並みの天候に見舞われた。ガスがかかり、雪が降る焼額を滑って、一の瀬のカレー屋に入ったのが午後1時過ぎ。昼食を摂っている間に、外は猛吹雪になった。奥志賀のリフトに電話すると、志賀高原全山のリフトが止まったとのこと。スキーを諦め、バスで帰ることにした。
長く待ったバスがやっと来て、結構降りる人がいたので、われわれは乗れた。途中、車窓から見ると、一の瀬・丸池方面への焼額のバス停は長蛇の列だ。奥志賀から来るバスも、出発地で満員になってくるらしく、乗れそうもない。猛吹雪の中を、幼い子供を両手につないでいる家族も結構いる。「つらいだろうなあ」。第二次大戦時のポーランドの収容所へ入る人々の姿と一瞬ダブって見えた。
全山のリフトが一斉に止まると、滑って帰れなくなるので、こういう事態になることを初めて知った。この日、われわれが焼額を滑っていたとほぼ同じ時刻に、スノーボーダー数名が吹雪でコースを見失い、遭難し、夜中に助けられたというニュースを翌朝知った。あの状況ではムベなるかなと分かるような気がする。
 

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