小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
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蓼科日記

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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。

毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

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2022年

12月

12月31日 海外、思い出のドライブ旅・付録  アルプス・トレッキング

今月はドライブからはずれて、山歩きの旅を紹介しましょう。

7年前にヨーロッパアルプスの山々をトレッキングしました。モンブランやマッターホルンを取り囲むアルプスの尾根歩きの旅です。景色は抜群、すばらしい景色に包まれた8日間でした。
日本の北アルプス縦走とは趣のちがう山歩きでした。北アルプス縦走は尾根に上がると尾根伝いに山小屋がありそれをつないで行くのですが、ヨーロッパアルプスは尾根に登り上げると、反対の谷間に下ってまた登り上げるというパターンが多いのです。谷間には道路が来ていて村もあり、ホテルもあります。尾根上の山小屋と谷間のホテルをつないで歩いていく感じです。快適な山歩きが楽しめます。
 

  神田泰夫と歩くオートルート・モンブランからマッタホルンへの天空の山旅

オートルートとは自動車の道ではなく、フランス語で天上の道という。アルプスの山々を越えて歩くトレッキングルートを言い、一般的にはフランスのシャモニーを起点としていくつかの峠を越え、氷河を横切りながら、スイスのツェルマットまでのルートを指している。
途中谷間の村に下り、ホテルにも泊まり、またそこから登っていく。すべてを歩き通すと2週間以上かかるが、私たちは部分部分を車に頼りながらメインの所を8日間で歩くルートを採った。
歩くのは三年前にニュージランド・ミルフォードトラック、ルートバンを歩いた極楽スキー仲間の森さん夫妻、岳文会後輩の山内さん夫妻と私の5名。行程をお願いしたのはシャモニーに本拠を置くアルプ・プランニング社、代表は神田泰夫氏、グランドジョラス北壁を加藤保夫、森田勝の名クライマーと一緒に冬季日本人登攀ルートを開拓した人だ。
今はシャモニー日本人会長として活躍している。この元名クライマーが私たちのガイドを勤めてくれるという。すばらしい山旅になる予感を感じながら、7月19日の朝、シャモニーを出発した。8日かけて7月26日にツェルマットに到着する予定だ。

      
   写真左・雄大なアルプスを見ながら       写真右・アルプスを歩く
 

宿の近くからバスに乗り、ル・ツールへ。そこからバルム峠・2204m近くまでリフトで上がった。フランスからスイスへの国境越えはあっけなかった。トリアンの村へは長い下りが続いていた。トリアンには奥様でコーディネーターの神田美智子さんが車で待っていてくれた。車でマルティーニへの街に下り、ル・シャブルへの道に入った。
この辺りは数年前、トロアバレーのスキーの帰りにひとりで来た所だ。あのときは冬で電車の旅だったが今は緑あふるる季節。ル・シャブルは懐かしい。昼食に入った所はそのとき泊っていたホテルのすぐ隣だ。私が泊っていた部屋の窓が目の前にある。ビールを冷やす所がなくて非常階段に置いたことを思い出した。その階段も見える。走馬灯のようにそのときの日々が思い出された。そしてロープウェイでヴェルビエへ上がり、スキー場の中へさらにロープウェイで上がっていく。これも懐かしいルートだ。ラショーまで乗継ぎたかったのだが運転しておらず、モンフォール小屋まで自動車道を歩いた。
モンフォール小屋には夕方4時半に着いた。外国で初めての山小屋泊りだ。部屋は2段ベッドで5人一緒、私はトイレが近いので下の段にしてもらった。
夕食はまずはビールで乾杯、スープ、サラダ、ひき肉たっぷりのパスタ、デザートと日本の小屋以上のボリュームだ。味もまずまず、ワインも進み、オートルート最初の夜は更けていく。
(ル・ツール0.45バルム峠2:00トリアン<車0.45>ル・シャブル<ロープウェイ0.30>ヴェルビエスキー場1:15モンフォール小屋・歩き所要4:00)

      
      写真左・バルム峠         写真右・モンフォーレ小屋
 

  3つの峠を越えてプラフルーリ小屋へ

私はぐっすり寝たが、起きたら私のいびきで寝られなかったとの苦情あり。すみませんね。そんな不満も今日の好天でみんな忘れることだろう。
スキー場のコースを上へ上へと登っていく。みんな好調だ。神田さんのペースもちょうどよく、ぐんぐん高度を上げる。スキーコースを外れ、本格的な登りに入る所の上部には冬のとき上がったゴンドラの終着点が見えた。そこからのコースはこぶこぶの岩尾根で、滑るのに難渋したことを思い出した。そんな思い出を噛みしめながら、急坂をラ・ショーの峠に向かった。2940mへと登っていく。昨日のバルム峠に続いて二つ目の峠。岩道の急坂が峠を越えて続く。しばらく下りると、隣の谷から上がってくる道と合流した。

      
     写真左・雪渓を渡る         写真右・アルプスは花いっぱい
 

ここまで岩に描かれていた目印は白二線の間に青一線だったが、合流地点からは白二線の間に赤一線となった。ここからコースが変わるということを示しているのか?
ルビー峠への途中で各国混成のパーティが追いついてきた。ノルウェーやアメリカなどの人たちが多い。彼らはルビー峠で大休止していたが、その後の足取りを見ていると、コース外に入っていったり、パーティの間隔が大きく空いたりでバラバラの様子だ。
神田さんは「ガイドはあまり道を知らず、パーティ内で10m以上も離れたら待っているのが常識なのにそれもしない。ハイキングのガイドレベルだ」と手厳しい。
3つ目のルビー峠は2921m。ルビー峠から大きな圏谷状の中に下り、氷河の名残のような池を廻って再び急な岩道を登った。今日3つ目の2987mのプラフルーリ峠に午後1時過ぎに着いた。はるか下の彼方に今宵の宿、プラフルーリ小屋の屋根が見える。
とても遠いようだったが2時間を切って着いた。氷河からの流れにかかった橋を渡った所から短くはあるが、急坂をあえぐようにして登り切ると小屋の前に出た。いずれの小屋も雪崩を避けるべく台地状の高台にあるのだ。
この日は森さんの奥さんよしえさんの誕生日、神田さんが小屋に話してくれたようで、夕食終わり間際に電灯が消され、泊り客全員の♪ハッピイ・バースデイ・トーユー♪の大合唱の中をケーキが運ばれてきた。ロウソクを消すのかと思いきや、ケーキの中に埋め込まれた花火に点火され、パチパチと花火が燃えてお祝いだ。粋な計らいに森さんは大感激。素敵な山小屋の夜となった。
(モンフォール小屋1::50ラ・ショー峠2:00ルビー峠2:00プラフルーリ峠1:40プラフルーリ小屋・所要7:30)

      
    写真左・ハッピイバースデイ        写真右・プラフルーリ小屋
 

  ディス氷河を目指して

今日も良い天気だ。プラフルーリ小屋を7時に出発、目の前のルー峠を目指す。30分で着いた。5つ目のルー峠、2804m。この峠を越えると岩道から徐々に草付きに変わり、広いアルムの草原に出た。前方下にはディス湖が見える。スイス最大の水力発電ダムだという。

      
       写真左・アルムを行く            写真右・牛と遭遇
 

登ることしばし、ここまで一緒だったミネソタから来たという明るい女性がGood Byeと言って、アローラへ直接下りる道に入って行った。我々はディス氷河のまじかにあるディス小屋へ泊り、明日は氷河を越えてアローラへ行くのだ。草原から岩尾根を登った所が標識はなかったが、地図で見るとシャ峠(Pass du Chat:2547m)と表示されている。
6つ目の峠だ。実はここまでの峠はすべてCol des XXXXと表示されているのにここからツェルマットまではPassになっていた。ColとPassは同じだと神田さんは言うが、日本語だと鞍部と峠に訳す。またこの辺から、フランス語圏からドイツ語圏に変わってくる影響でColからPassに表示が切り替わるのに通じているのかもしれない。シャ峠を越えてもさらに高い尾根が前方に見え、それを越えないとディス小屋には着かない。
圏谷に下り砂地をしばらく回り込み、上り上げてディス小屋に着いた。シャイヨン氷河が眼前に張り出し、その上にはモンブラン・ド・シャイヨンの山、奥にはピーニュ・ド・アローラの山。まさに絶景の真っ只中にある小屋だ。ここまで来たことを祝い、小屋前のテーブルで乾杯!
(プラフルーリ小屋0.30ルー峠1:30ディス湖上の草原1:30ディス湖末端1:00シャ峠上1:50ディス小屋・所要6:20)

      
     写真左・ディス小屋近し          写真右・小屋前で憩う
   

  間一髪、犠牲はテルモス

昨夜の宿・ディス小屋は標高2928m,この山行でいちばん高い所にある山小屋だった。
その小屋が今は真上に見える。今日は氷河を渡って梯子登りの峠越えの日だ。
今年の氷河はかなり上部を通過しないといけないそうだが、案内の印は梯子近くに続いていた。かなり水の流れが速いが真ん中に岩がある場所で氷河を渡る。
神田さんが足場を氷の部分をストックで削り、そこを渡って岩を飛び越して対岸に渡るよう指示する。神田さん自身は渡る前の氷の部分で皆を自分の足を踏んで歩を進めるよう指示し、そこに立っている。女性陣が軽やかに渡り、森さんが渡ろうとしたときグラッときて体が斜めになった。神田さんが支えたので森さんは倒れなかったが、ザックが傾いた勢いでザック脇に挟んでいたテルモス(魔法瓶)が滑り落ち、氷河の流れに消えていった。拾いにいけるかと思ったがそんな悠長な流れではなかった。シューっと言う間に前方の氷の塊にぶつかり、飛んで行ってしまった。森さんの命が助かったのが最上である。

      
    写真左・緊張の氷河越え          写真右・垂直のハシゴ登り
 

 

あとで神田さんが話すには、2,3日前に同じ場所で人が落ち、心臓マヒで死んだそうな。ディス小屋で聞いたとのことだが我々には秘密、渡り終えたあと初めて教えてくれた。これもガイドの役目か。氷河越えのあとは峠越えの試練が待ち受ける。ここは長い垂直な階段を継ぎ足しながら峠に向かうのだ。慎重に登る。登り終えた所がシャドレ峠2855m。7つ目の峠。
ここからアローラの村へ800mの高度差を一気に下りる。前方はるかにマッターホルンが顔を覗かせた。終着点のツェルマットの山がようやく見えてきた。急傾斜の道が麓に近づくにつれ、喫茶店が現れた。下りの疲れを癒すべくビール一杯!ひとしきり休んだあと、アローラの村へ歩を進めた。今宵は村のホテル、グレイシャー。いっぱいの花に囲まれた美しい小さなホテルだった。静かな小さな村にはATMもなかった。神田さんの息子・庄太さんが着替えの袋とトランクを運んできてくれた。カメラの充電器を出した。
(ディス小屋2:00シャドレ峠3:30アローラ・所要5:30)

      
  写真左・マッターホルンが遠くに見ゆ     写真右・花に包まれたホテル
 

  エーデルワイスを見つけた

アローラのホテルからタクシーでマイエンヌ・ド・コテールまで行った。ここは2058m、2916mのトーラン峠まで標高差約900mの登り。牧草地(アルム)の草原を上へ上へと向かう。上を見るといやになるので、下を向いて黙々と歩を進める。周りには紫や黄色の花が咲き乱れていて美しい。その中に小さなエーデルワイスの株があった。周りをみるといくつか咲いている。アルプストレッキングでぜひ見たいと思っていた。こんなアルムで見つけられるとは思ってもいなかった。しばしエーデルワイス・深山薄雪草に見とれ、写真を撮りまくる。
それからしばらく登ってやっとトーラン峠(8ツ目)を越した。ここからはモワーレ湖に下っていく。大きなダム湖だが、その堰堤に着くまでかなり下るのだ。自動車道路がよいか、山道か?と神田さんが聞くので躊躇せず山道を選んだが、かなり遠回りをしたような気がした。

      
   写真左・エーデルワイス発見!        写真右・マークに沿って登る
 

ダムに辿り下り、その堰堤を歩き対岸に出た。ここからまたソルボワ峠へ牧場の中を登っていく。上から1頭の牛がえらい勢いで突進してくる。先頭の神田さんの方に向かってくる素振りを見せたところで停まった。しばしにらみ合い。牛は歩を翻し、さらに下の牛の群れに向かって走り去っていった。そのあとすぐ、上からマウンテンバイクが2台下りてきた。この異様な塊に驚いて牛は逃げ下りたものと思われる。
それからしばらく急なアルムの道を上がり、9つ目のソルボワ峠2835mに着いた。
ここはチナールの谷間からスキー場のリフトが上がってきていた。我々は途中のゴンドラでチナールの村まで下ることにしている。スキー場の草原を藪をかき分けながら近道して、乗り場に着いた。発車時間まで間があったので、隣のカフェテリアに入ってビール一杯。今日の上り下りの苦しさをこれにて解消。チナールのル・ベッソホテルは古い建物だったが居心地はよかった。
(アローラ<車40分>マイエヌンヌ・ド・コテール2:20トーラン峠1:30モワリーダム1:40
ソルボワ峠1:00ロープウェイ乗り場<ロープウェイ0:30>チナール・所要6:30)

      
  写真左・山の説明してくれる神田ガイド        写真右・ソルボワ峠
 

  ワイスホルンは有名な山小屋ホテル

チナールはアローラより大きな村だった。ATMで現金も出せたし、スーパーで明日の昼食も買うことができた。今日の目的地ワイスホルンへはアルムの草原を歩く旅で楽だ。
しばらくチナールの村の上部目指して森の中を登って行く。途中で森さんの携帯に山内さんの奥さんの家族から電話が入っていることに気がつき、日本へかけた。お母さんが数時間前に息を引き取ったという知らせだった。
こちらへ来てから何回か森さんの携帯を借りて容態を聞いていたが一進一退が続いていた。とうとう亡くなったという知らせに悄然となる。ツェルマットに着いたら予定しているチロル行きを中止し、帰国することを山内さんに打診した。「亡くなった母から”私のことでアルプス行きを中止しないでほしい。予定通り行ってくれ”と出発前に強く言われて来たのだし、途中でこの事態になることも覚悟の上。他の身内もそうしてほしいということなので予定通り旅を続けたい」と言う。死の直前までしっかりしていたお母さんだったようだ。

      
       写真左・アルムの農家          写真右・草原に憩う
 

気を取り直して、アルムの道を進んだ。沈んだ気持ちに反し快晴の光はまぶしく、アルプスの山々に囲まれた花咲き乱れる草原はことのほか美しい。大きな牧畜小屋の横を抜け、谷間を大回りして歩を進めた。他のグループやマウンテンバイクの一団が追い抜いていく。彼らのほとんどは次の村・グリューベンへ直接行く道を選んで我々と離れて行った。アルプスの山々と谷間、そして美しい花々に囲まれた小川のそばの草原でカウベルの音を聞きながら昼食を摂った。
私たちの今日の目的地は途中にあるホテルワイスホルンである。1800年代の後半に建てられた山の中にある山岳ホテルなのだ。標高2305mにあり、麓のサンリュックの町からケーブルカーで上っても30分ほど歩かなければならない高所なのだ。4階建ての石造りの重厚な建物だ。尾根をいくつか回り込んでようやく見えてきた。ホテルの前のパラソルには大勢の客が憩っている。大半は麓からの日帰りのハイキング客のようだ。
私たちはその一角に腰をおろし、ビールにした。山内さん奥さんのお母様の冥福を祈りつつ。ホテルはツインやシングルルームなのだが、何せ年代ものなので床がギシギシと音をたて、トイレは階段の踊り場に行かなければならないし、シャワーも共同だ。街のホテルと同じようなわけにはいかないが、歴史を感じさせる貴重な建物だ。神田さんに聞くと、一度つぶれたが何人かの有志で再開し、今に至っているとのこと。そんな長い歴史の感慨に浸りながら床についた。
(チナール5:30ホテルワイスホルン・所要5:30)

      
   写真左・ホテルワイスホルンへ        写真右・ホテルの室内
   

  メイド峠を越えてタトーマンの谷へ

ホテルワイスホルンからはワイスホルン峰が谷奥に見えるはずだが、昨日も今朝も叶わなかった。今日はメイド峠を目指す。森さんはメイドは娘さんのことだと言うので、”乙女峠”ではないかと茶化す。魅力的な名前の峠に向かって歩き出した。
しばらくは牛が放牧されているアルムを登っていくが、上部になるにつれて岩道になった。晴れてはいるが、雲もかかっていて眺望は今ひとつ。時折、ガスの中の道になった。メイド峠は2790m、10ヶ目の峠になった。そこからは圏谷状の谷間の急な下りになった。ここはタートマンの谷になる。はるか向こうにメイド牧草地の牧畜小屋が見える。道はそこに通じていて近づくとインディアンのティピーテントがあった。周辺はキャンプ場にもなっているようだ。しばらく行くと小さな小屋がいくつか見え、小屋の前で家族連れが食事をしている。夏のバンガロー村にもなっているようだ。
 

草付きの斜面から森の中に入っていくと、はるか下に木の間越しに今宵の宿ホテルシュバッツホルンが見えてきた。グリューベン唯一のホテルだという。ホテルと言っても二段ベッド中心のドミトリーのような施設だそうだ。川の音がだんだん近づくと、小さなグリューベン村に入った。いくつかの建物が周辺にあるが、みんな夏の山荘のようである。
あまり常住している雰囲気はない。ここは最後の宿泊地だ。4人部屋と2人部屋に分かれ、私と神田さんが一緒になり、神田さんは上のベッド、私は下のを使うことにした。
部屋は廊下も狭く、2等寝台車の雰囲気だ。食前に外のテラスでブラスバンドの演奏があった。老若男女のメンバー、楽しい楽曲を奏で、すこぶる良い気分で夕食に向かった。行程中、最後の夜ということもあり、ここまでの苦労をいたわりつつ酒も進む。
神田さんからは「みなさん、歳を感じさせないバイタリティでバてもせず、ここまで歩いたのは偉い」と褒められ、「最後の明日もがんばりましょう」と激励された。
神田さんも夏のオートルートを通しで歩くのは今回が初めてとかで、良い経験になったのではないか。
 (ホテルワイスホルン2:40メイド峠2:50グリューベン・所要5:30)

      
     写真左・岩尾根を越えて        写真右・ホテルの庭で演奏会
 

 11ヶ目の峠を越えてフィナーレへ

グリューベンの宿の裏庭に道標が立っている。実はここからすぐ急な登りがまっすぐ延びているのだ。アウグスボート峠3時間と表示されている。グリューベンは標高1800m、峠は2893m、1000mを超す登りがあるのだ。最後の日になってもきつく長い登りが待っていた。ゆっくり一歩一歩と上がっていく。グリューベンの村はすぐ目の下になっていき、上がっていくに従って昨日下ってきた反対側の山の斜面が競りあがってきた。
ティピーのテントも見えた。それが上に見えていたのにしばらくすると、私たちの下になっていった。確実に上がって行く。それはあとわずかでこの山旅の登りが終了することを意味していた。いくつもの峠を越え、氷河を渡りどこまでも続くアルプスの氷壁の山を眼前に、緑なすアルムを歩いてきた素晴らしきオートルートトレッキングのフィナーレがまじかだ。つらい登りも今は最後の快楽に覚えてくる。

      
     写真左・最後の峠に到着        写真右・岩頭に立ちバンザイ!
 

登り着いたアウグスボート峠はこの旅最後の11ヶ目の峠になった。そして今度は最後の下りである。行程表ではツェルマットへの登山電車の駅、サントニコラウスまで歩くことになっている。峠の道標には途中の村ユンゲンのロープウェイまで2時間半と表示されている。文明の利器を使わない手はないと神田さんに訴える。この費用は会費に含まれていないそうだ。「それなら払いましょう。毎日の飲み代を考えれば安いものだ」と。神田さんもこれで納得。
ユンゲンからサントニコラウスまで2時間近い歩きの節約となる。話がまとまれば速いもの。足取りも軽くユンゲンへの森の中を下った。ユンゲンのロープウェイは4人乗りの軽便鉄道のような箱でそれに乗ると下の駅で操作し、動かしてくれる。われわれは2回に分けて下った。下ではおじいちゃんひとりで操作していた。料金も彼に払う。サントニコラウス駅からは鉄道だ。人があふれるツェルマットに着き、この山旅は終わった。
神田さんへの感謝も込めて、トランクを運んできてくれた庄太君とスタッフも入れ8名で日本料理の妙高へ繰り込み、久しぶりの日本食、サッポロビールと日本酒で乾杯だ。終わったよ!!
(グリューゲン3:20アウグスボート峠3:00ユンゲン<ロープウェイ>サントニコラウス
<電車>ツェルマット・所要6:20)

      
   写真左・ツェルマタールの谷間          写真右・完歩を祝う
 

12月29日 雪かき

明日から山荘を使う人が来るので、昨日から準備に入った。この冬は珍しく雪が積もり、30cmほどだ。上の駐車場は無理なので、4号線沿いの入り口の駐車場の雪かきをした。駐車場ができるまで車を一時的に置いておく場所とあたりを見回すと、先月完成したばかりのはす向かいの別荘入り口が空いていたので、そこに停めた。シャベルを持って行こうとしたら、車が来てこの別荘に入るようだ。てっきりまだ使っていないと思っていたので慌てて車を出し、少し先の広めの道のそばに停めて、雪かきをした。おわびの挨拶もしないかったので失礼と思い、翌日、ホテルでお菓子を買って、挨拶がてらお詫びをしに行った。ワンワンと室内から犬の泣き声が響いていた。奥様らしき人が出てきて、恐縮しながらお詫びの挨拶を受けてくれた。

      
 写真左・この車を停めるために雪と汗をかく   写真右・玄関から駐車場を見る
  

12月11日 里山十帖

村上の叔父の奥さんの一周忌があったので列車で行き、その帰途に塩沢の大沢山に開いた「里山十帖」という宿に泊った。前から話題になっている宿だったが、よく知らなかった。”自遊人”というユニークな宿と化学調味料を使わない店や料理を紹介する旅の雑誌だ。これを見て、鹿教湯温泉の宿に行ったことがある。この里山十帖はその編集長が自ら、引っ越してきて始めた宿なのだ。まさに自分の雑誌で紹介したことを実践する宿なのだ。だから部屋造り、温泉、料理に自遊人の主張を盛り込んでいるのだ。確かに料理も地元の野菜や肉を使い、昔からの料理の皿を並べる。さしみや天ぷらは出てこない。ひとつひとつに地のものの香りがある。そしておいしい。温泉も露天風呂は正面に巻機山が来る角度に設置されていて、眺めがよい。部屋も美大の学生と建築家が共同で設計したらしい。寝室、リビング、ベランダにそれぞれ工夫がされていて、リビングのテーブル席は居心地がよい。ベランダには大きな甕の露天風呂もあった。ここに二三泊して、周りの里山歩きしたら楽しいのではないか。

      
  写真左・露天風呂から望む巻機山   写真右・超ローカルな大沢駅から迎えの車で行く
 

12月2日 一年に一回の集まり

もう二十年も前に私が音頭を取って、異業種の施設関連のベンチマーク活動をやったことがある。HPも参加し、マクドナルド、マイクロソフト、リクルート、アムウェイ、ソニー生命など、ユニークな企業が集まっての活動だった。業種がちがうと、働く人の性格や、人柄がちがうことを実感した集まりだった。毎月、活動のあとは、呑み会をやるのが恒例で、これが活動が終わっても、年に二三回、やるようになっていた。こんなに20年も続くとは思わなかったが、今も忘年会をやっているのだ。さすがに一昨年はコロナで中止したが、まだコロナ収束していない去年は待ちきれずにやった。今年はもっと安全と、盛大に新宿でやった。ほとんどの人が、第二の人生に入っている。今回の会場は居酒屋チェーンの庄屋に行った人が、店を予約し、特別な料理を用意してくれた。人生は面白いものである 。

      
   写真左・みんな集まる前に一枚      写真右・まだ全員は来ないけど...
 

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11月

11月30日 海外、思い出のドライブ旅  コロラド・ロッキーマウンテン ドライブ

2014年の夏、ネブラスカ州でOregon Trail Association の大会があり、それに合わせてネブラスカの前に大草原の小さな家をカンザス、ミズーリ、ウイスコンシン、サウスダコタなどをドライブした。
大会の後、日本へはデンバーからのフライトなのでコロラド州へ入り、ラブランドに寄り、ロッキーマウンテン国立公園を廻って、デンバーに向かうことにした。そのときのドライブの旅である。
この地域は有名なわりに、日本人の旅行客は意外と少ない。

      
  写真左・ロッキー・エメラルドレイク     写真右・野生動物も多い
   

  Loveland

Kearneyでの大会も終了し、5泊したホリディインを後にして I−80で西に向かった。
目指すはLoveland。私にとって懐かしい町である。
YHPに入って初めてパロアルトのHPに駐在したとき、そこからの出張で訪れた工場がこの町にあり、八王子工場で開発していた製品のアメリカでのまとめ役でもあった親代わりの工場と言ってもよい。35年前でも3000人くらいいた。工場の通路は800m直線で、陸上競技ができると接待役は笑っていた。一日の長いドライブの後、Lovelandのベストウェススタンに入った。
 

 

午後の3時半に着いたと思っているのに、ホテルの部屋の時計は2時半ではないか。1時間得した気になる。マウンテンタイムゾーンに入ったのだ。懐かしのLoveland工場をまず見に行こうとフロントに道を聞いて車で出かけた。
小高い丘陵に「Agilent Technologies」の看板が見えた。入れる所まで入ってみようと看板の出ている道を上がって行った。懐かしいHP独特の窓の広い建物が見えてきた。
日曜なので静かだ。駐車場には車一台ない。構内を廻っても生きているという感じがしない。妻は「使っていないみたいよ」と言う。「まさか」と思いながら車を停め、電気が点いている扉に行って中を覗き込んで見ると、ガランドーだ。他の窓へ行って覗いても同じだ。広大な敷地の中を一回りしてみた。いくら日曜日でも警備員くらいいてもよいのに人なしだ。今はAgilent になったが、HP発祥の第二の故郷とも言ってもよいLoveland工場がこんなになるとは…
ホテルに帰って昔の同僚の今はAgilent の総務部門長をやっている荒川君にメールした。「Loveland工場は今度分社したKeysightの工場として存続しているはず。Lovelandの同じマネージャに聞いてみる」との返事。ほどなくしてそのマネージャから返事は来た。
「面積は10分の1に、人員は5000人を300人まで減らして敷地内のひとつの建物に集約した」。あまり端の建物だったのでわからなかったらしい。この工場の分野のビジネスがここまで縮小していることを意味しているのだろうか?HP創業者のひとりパッカードさんの故郷コロラドの工場がこんな状況に陥ることを誰が予想しただろうか?一日も早い復活を祈る。ホテルへの帰途、寄った街中の湖はロッキーマウンテンを映してきれいだった。

      
    写真左・消された案内板        写真右・ビルの中はガランドウ
 

  ロッキーマウンテン国立公園

Lovelandからロッキーマウンテン国立公園は近い。駐在していたYHPの社員も夏はよく行ったと言っていた。私がLovelandに行ったときはいつも冬だったので、初めて夏に訪れる。
エステスパークの町のビジターセンターの駐車場に車を置いて、”ハイキングシャトル”バスでベアレイクに向かった。
この日はとても良い天気でおおぜいのハイカーが乗り込んだ、途中のビジターセンターでバスを乗り換えて着いたベアレイクは4000mの山を映してきれいだ。もうここで標高3000mを越えているのに驚く。穂高の標高からハイキングルートが始まる。エメラルドレイクまでは約1時間、途中ドリームレイクなど美しい湖や小さな滝を経由する。アメリカ人は滝好きでたいしたことないと思う滝でも写真を撮る人でいっぱいだ。
エメラルドレイクはロッキーの山懐に抱かれたどん詰まりにあった。ここから見上げる山はまだ雪が残り湖面に映えて美しい。妻は息切れがすると言い、標高の高いことがわかる。同じロッキーでもカナダやモンタナのロッキーとは違い、コロラドのロッキーの山波は荒々しくなくやさしさを感じる。南八ヶ岳に対する北八ヶ岳という感じだ。途中でサンドイッチや果物を食べながら来たが、まわりのハイカーは水を飲む程度で、景色を見ながら弁当を食べるという人がいない。ハイキングを楽しむ習慣が違うのか?

      
    写真左・エメラルドレイクで          写真右・ベアレイク
 

  アメリカ最高所の国道を走る

コロラド州に入って分かれて入ったルート34号線は、ラブランドを通り、エステスパークを通り、ロッキーマウンテン国立公園を駆け上がり、通り抜ける舗装された国道で全米最高所を通って反対側の入り口グランドレイクの少し先まで続いている。その高さは3713m、ほとんど富士山と同じだ。雄大な景観が車窓の右、左に広がる。所どころで駐車して景色を堪能する。今日もよい天気で、旅の最後を締めくくるのにふさわしい。西側への下りは針葉樹の森にはいり、カナディアンロッキーを思い出させる。
下りたグランドレイクも標高2000mを越している保養地。素敵な別荘の隣の湖に面した公園でお昼。残り物を挟み込んで作ってきたサンドイッチがおいしい。この旅ではハイウェイのレストエリアや町の公園でこのようなランチが多かったが、小さな村に行ってもきれいな芝生の公園があり、ベンチやテーブル、そしてトイレがあるのがうれしい。
あとはデンバーまでのI-70を通って行くだけだ。デンバー市内に入ったあたりで大渋滞になり30分くらい超ノロノロになったが、そこを過ぎると順調に流れ、空港近くのベストウェスタンに午後3時過ぎに到着した。空港まで7マイルを残すだけだ。ホテルのカウンターで明日帰国すると言ったら、「成田直行便か?ボーイング787の新型機なので楽しみだね」と言われた。デンバーから成田直行便は開設1年たつが、デンバーでは今でも話題になっている期待便なのだ。

      
   写真左・全米最高所のハイウェイ     写真右・グランドレイクで休む
 

  走った距離は5000キロ

空港のホテルと言っても空港まではまだ10キロほどある。大都市空港特有のレンタカーリターンは離れた場所でそこからバスで空港に向かう。二日目にバンパーを木にこすったのを目ざとく見つけられ、事故報告書を書かれた。借りるときオールカバーの保険を追加しているのでたぶん大丈夫だろう。以前は最少限度の保険にしていたが、駐車料金未払いや同じような細かい傷もカバー責任額未満で後日請求されるということがあったので、保険はマキシマムにするようにした。ヨーロッパの方がこの点厳しいようだ。
走った距離は約5000キロ、稚内から鹿児島までの距離が3000キロというからその1.7倍だ。ミズリー、カンザス、アイオワ、ウイスコンシン、ミネソタ、サウスダコタ、ネブラスカ、コロラドと8つの州を走り抜けた。長いドライブだったが、日本に比べて走りやすいので楽しく、そんなに疲れもしなかった。これで帰国して運転すると、しばらく方向指示器とワイパーの位置が逆なのに戸惑うだろう。曲がろうとしてワイパーが動くのだ。右、左の走行はそんなに戸惑わないものだ。
帰りのボーイング787はさすがに新しく快適だ。座席もフラットになり寝心地よい。ビジネスとエコノミーの最大の差は「横になって寝れるか寝れないか」だと思う。ただ最前列のアイルだったので、操縦席前の通路の灯りがいつも点いているのと、通路横の冷蔵庫にしょっちゅう乗務員が来るのが気になった。それでもゆっくり寝て、映画も4本も見て、無事帰国した。成田に着いたらムッとした暑さが戻り、日本を実感した。

         
 写真左・空は広くまっすぐ延びるハイウェイ   写真右・ボーイング787の操縦室
 

11月29日 浴室のペンキ塗り

山小屋は全館ログでできている。典型的なログハウスだ。浴室は風呂場周りはユニットバスだが、壁と天井は木材で覆われている。木は湿気に弱いのでカビが生える。これを防ぐために定期的に塗装しなければならない。2年に1度はするように、塗料はOSMOノーマルクリアでと工務店から指定されている。11月初めに秋の客が帰ったあとに、ゲストハウスの浴室を塗った。そして今日は自宅部分の浴室だ。結構、塗料の匂いが残るので、しばらく使わない期間があるときでないと作業はできない。ゲストハウスは10月末のお客のあとは正月までないので11月初めに、わが家の浴室は明日から12月末までは来ないので今日となった。だから今日のお風呂は鹿山の湯に久しぶりで行こうと思う。塗装はきちんとやることが肝心だ。ベランダはキシダテコールで毎年5月にやっている。だから、18年経った今でもびくともしない。建物はメンテナンスは重要だ。

             
   写真左・ペンキ塗りの前に新聞紙でガード   写真右・既に終ったゲスト浴室
  

11月28日 汗だくの薪割り

9月初めに頼んでおいた薪材がやっと今週届いた。26日に山荘に来てみると、駐車場に転がっていた。以前は丸太数本を頼み、ストーブに入る長さにチェーンソーで切断し、それをマサカリで断ち割っていたが、チェーンソーがしんどくなったので、丸太を40cmくらいの長さに切断してもらい(玉切りという)、それを運んでおいてもらった。数十個の丸太になっていた。
駐車場から玄関脇の軒下の置き場に運んだ。この作業で半日かかった。大汗をかいた。そして今日、薪割りに入った。木の種類によって何度マサカリを打ち下ろしても打ち目はつくが、中に入らないものもある。そういうのは後回しにして、別の種類の丸太にとりかかる。ひと振りでパカンと割れるとすっきりする。そういう木を選びながら、パカン、パカンと割っていく。気持ちよいものである。薪割りの醍醐味はこのパカンにあると言っても過言ではない。数本の丸太を割ってできた薪を玄関下の薪置き場に運ぶ。去年以前に作った薪を事前に左のスペースに移しておいたので、空いたスペースにできあがった薪を置いて行く。今、割った薪はこの冬は使えない。乾燥させて、来冬以降に使うのだ。割った場所から数本の薪を抱えて、玄関下のスペースに屈んで運び込む。この作業で大汗をかく。マサカリで割る作業も汗はかくが、薪運びの方の大汗だ。昨日も駐車場から軒下への移動作業も重くて大汗をかいた。半日の作業で大汗、風呂に火を入れて、昼めし前にお風呂に入る始末だ。まだまだある丸太の山を見てガックリだ。雪が降ってもやらねばなるまい。

      
    写真左・ここに並べるのに大汗  写真右・右が割ったばかりの薪、左は3年物
 

11月26日 新しい蕎麦屋発見!

浴室の塗装と薪割りのため、4日間の予定で蓼科にやってきた。最近来た東急の「蓼科日和」に紹介されていた手打ちそば「傍(かたわら)」で昼食をとることにしていた。知らない蕎麦屋だ。エコーラインで原村蓼科自由農園を過ぎ、一番塚の先の陸橋を渡る手前の曲がり角にこの蕎麦屋はあった。行き帰りによく通る道なのに、こんな所にあるとは知らなかった。小さな蕎麦屋で、土曜日だったこともあってかいっぱいの客だ。車の中で待っていれば呼びにくるというので、ナンバーを記入して、車の中で待っていると呼びに来た。「外のテーブルならすぐに」と言うので、今日は晴れていて暖かいのでOK。運ばれてきたそばは白いものと、黒いものの2種類、ツケ汁も醤油ベースとトマトソースベースの2種類。トマト汁にはオリーブオイルを垂らしてどうぞと。まず最初に来たのが白ソバ、コシがある。ツユもほどよくうまい。トマト汁に入れるとこれもイケる。オリーブオイルを垂らすとうまみが増したようだ。トマト汁が蕎麦に合うなんて考えたこともなかった。意外な発見である。黒ソバもうまかった。東京との行き帰りに楽しみな店がまたひとつ増えた。

          
        写真左・黒ソバ             写真右・白ソバ
  

11月24日 明治神宮野球大会

秋の六大学野球が終わると、神宮球場は明治神宮野球大会が始まる。全国の大学と高校から選ばれた球児たちの大会だ。今日は決勝戦、午前中は広島の広陵高校と大阪桐蔭高校、昨年と同じ組み合わせだ。私が球場に入ったときは、広陵が5−0で勝っていた。「これはいけるぞ」と思いつつ2階席に座ったら、大阪桐蔭があっという間に5点をとって追いついた。こうなると、桐蔭のもの、次の回に1点を入れ逆転。あとはエース前田をマウンドに持って来て逃げ切った。2年連続優勝、広陵はまたもや涙をのんだ。続いて大学は東京六大学、秋の覇者・明治大学と東都大学覇者の国学院、国学院が野球に強いとは思わなかった。意外である。これは行き詰まる投手戦となった。早い回に明治が1点を上げたので、明治の一方的勝負になるかなと思ったが、国学院の繰り出す三投手がいずれも良く、明治は追加点が上げられない。明治もエース村田が好調で点を与えず、9回を投げ切り、1−0で明治が優勝した。点はたったの1点で勝負がついたが、緊張感のあるよい試合だった。

      
     写真左・高校の部表彰式        写真右・明治神宮野球大会ポスター
 

11月17日 武田家終焉の地

日野への帰り道、勝沼で高速を下り甲州街道沿いを走り、武田勝頼終焉の景徳院に寄った。
天正10年(1582年)3月、甲斐国国主・武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍の侵攻により、甲府から移転した本拠であった新府城(韮崎市)を放棄し、郡内領主・小山田信茂を頼り落ちのびるが途中で信茂は離反し、天目山において滅亡した。徳川家康は勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため田野郷一円を寺領として寄進し、景徳院を創建した。この場所にはここで自害した勝頼、妃、長男をはじめ最後まで従った腹心の家臣10数名の墓がある。
ここに寄ったのは、八王子の松姫最中から八王子へ生き延びた松姫の話を妻がしたのを聞いて、次に蓼科へ行ったときに寄ってみようということだった。松姫は信玄の娘、勝頼とは兄妹の関係だが、織田・徳川軍が武田家滅亡に兵を進めたとき高遠城へ避難、しかしここも危ないと逃避した。途中、親族の死や武田家滅亡の報に悲しみながらも、兄仁科盛信の遺児・勝五郎と督姫、兄武田勝頼の遺児・貞姫、小山田信茂の遺児・香具姫を連れて八王子に至り、尼寺に入った。その後は徳川家康の庇護を得て一生を終えた。勝頼と一緒に行動していたと思っていたが、別行動だったのだ。松姫最中は妻のお母さんの遠い親戚筋の店が作っていると聞いていたので、松姫にはことさら関心があったのだ。妻も景徳院で勝頼の墓を見て、感慨深そうだった。

      
     写真左・武田勝頼自害の地         写真右・武田勝頼親子の墓
 

11月17日 農家レストラン

小淵沢から茅野へ抜ける国道沿いに「農家レストラン」の看板を通るたびに見ていたが、入ったことはなかった。蓼科の帰り道、「蕎麦ばっかりでは」と言う妻のために寄ってみた。看板とはちがう農家らしくない洒落たレストランだ。農家を改造してと思っていたがそんなものではなさそう。ハーベストテラス八ヶ岳と、洒落た名前がついている。店内から前面に甲斐駒ケ岳が望める展望のよいレストランだ。広いバルコニーにもテーブルがあり、”バルコニー席は60分以内に”のお願いが出ているくらいだから、晴れていればバルコニー席は賑わうのだろうな。スパゲティやピザなどイタリアンが中心だ。私はスパゲティ、妻はピザを頼み、少しづつ分け合った。まあまあの味だ。食後は、ベランダから芝生に下りてみると、農園もそばにあり、ここで栽培したものを出しているらしい。だから”農家レストラン”なのかな。

      
 写真左・レストランベランダからの眺望     写真右・ハーベストでの昼食
  

11月15日 ロボット配膳車”すわ子ちゃん

上高地の帰りに諏訪湖サービスエリアに寄った。500円残った地域クーポンを使い切るために、行きに見ておいた”いなごのつくだ煮”を韓国のジェフンへの土産を買おうと寄ったのだ。以前、蓼科のホテルのバイキングに連れて行ったとき、ジェフンは、いなごを何度もお代わりして食べていた。品切れになったほどだった。お目当てのいなごはあった。ちょうど昼頃だったので、昼食もここでと食堂に入った。ここで見たのはロボットが配膳する車”すわ子ちゃん”。料理のお盆を載せて注文したテーブルまで運ぶ。頼んだお客はロボットからお盆を取る。空いたお盆も載せると洗い場へ運んでいく。その分、店員さんは少なくてすむ。実に合理的で、見ているとロボットもスムーズに動いている。すわ子ちゃんが来るのはディズニー風のメロディでわかる。なかなか楽しい光景であった。

      
 写真左・配膳ロボット”すわ子”ちゃん登場 写真右・すわ子ちゃんから料理を受け取る
 

11月14日 帝国ホテルでの昼食

今日は恒例の明神池ハイキング。いつもは小梨平側から明神へ行って、明神橋を渡って明神池へ、帰りは岳沢側の道を通って河童橋に帰ってくるという順路だが、今日は反対から、岳沢側から明神池へ行った。明日で上高地は閉山するというのに意外に多い観光客、台湾だろうか、中国語が河童橋あたりに響いている。天気は晴れて暖かいせいか、穂高はうっすらと雪がついている程度、明日で閉山とは信じられない。この温暖化で冬の訪れが遅くなっているのだろうか?閉山を11月末にずらしてもよいのでは?と思うほどだ。河童橋に戻ってきて、五千尺と白樺荘で長野県クーポンでお土産の買い物、有効期限は明日までなので今のうちに使わないと。12,000円分ももらっている。上高地帝国ホテルでお土産と昼食をと、レストラン・アルペンローゼへ歩を進めた。クーポンで食事もお土産もと思っていたのに、入り口に「クーポンは使えません」の掲示、「帝国ホテルはさすがだね」と訳の分からない感慨。それでも昼めしは食べねばならぬ。二人とも3000円のカレーライスを、私は生ビールも。

      
   写真左・帝国ホテルのビーフカレー    写真右・今年の晩秋の穂高に雪はない
 

11月13日 今年も来ました”上高地”

晩秋の上高地に来るのが恒例になったのは4年前から。11月に入ると落葉の季節になり、寒い日には雪も降る。ホテルも安くなる。晴れた空に浮かぶ新雪の穂高、この上ない景色が目の前に広がるのだ。何十回と来た上高地なのにこの季節は数少なかった。妻も好きな晩秋の上高地に今年も来た。泊まりはルミエスタホテル、帝国ホテル近くの梓川対岸にあるホテル。穂高を背にするので、窓からは霞沢岳と六百山が見える。何と言っても、ここの売りは温泉。昔は清水屋だった。松本から飛騨へ抜ける街道だった頃からの宿場、隣の温泉ホテルとともに宿場の宿だった。日本の登山の黎明期には、ウェストンや高村幸太郎、芥川龍之介等が泊った宿でもある。ここのフレンチと和食フレンチは帝国ホテルより上だと思うが、如何?和食フレンチは最近、純粋な和食化してきている。これまた梓川の瀬音を聞きながらの和食は趣がある。ここに2泊して、明神や大正池までハイキングするのがおきまりの日程。今回もそうしよう。今年は割引クーポン対象期間なので、宿代は2泊2人で16,000円も安くなり、さらに12,000円分の買い物券もつく。今年は得な滞在となった。

      
    写真左・ ほう葉の上にステーキが       写真右・今晩は和食で楽しむ
  

11月2日 秋が過ぎていく

11月に入ると、タウンセンターあたりの紅葉が赤く染まる。もみじを人工的に何本か植えているので、これらの樹々の赤と周りのカラマツの黄金色がみごとに調和して、最高の景色を見せてくれる。今日はよく晴れているので、新聞買いは歩いて行ってみようと思う。1時過ぎに山小屋を出て、上へ上がり、アカマツの小径に入り、下へおりていく。何本かの別荘地への側道を横切り、スキー場へ出た。今日は山の濃淡がはっきりしていて、杖突峠のある山並みの向こうに薄墨色の中央アルプスの峰々がきれいに並んでいる。しばし憩いながら、山の景色を楽しむ。スキー場を過ぎて、センター街に出ると、道路沿いの紅葉のオンパレードだ。何人もの人がカメラを構えて、もみじに見入っている。幸せな時間だ。紅葉を楽しんで、売店へ行って、信濃毎日新聞を買って、3時のバスで帰ってきた。ほどよい運動にもなった。

      
 写真左・タウンセンターのみごとな紅葉 写真右・手前の尾根の向こうに中央アルプス
 

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10月

10月31日 海外、思い出のドライブ旅 ルート66エピローグ

ルート66のドライブはカリフォルニアのサンタモニカで幕を閉じた。そのあと、ヒューレットパッカードに勤めていた頃、滞在していたシリコンバレーのパロアルトの町へこの度のエピローグとして行くことにしていた。
直接行くのは能がないので、ヨセミテ経由で行こうと思う。そこまでは、西部劇映画の撮影場所でもあったローンパインの町や第二次世界大戦のとき、敵国人となった日本人を収容したマンザナール日本人収容所の跡地も訪ねてみようと思った。今回はそんなルート66エピローグ「パロアルトへの道」のドライブ物語である。

       
 写真左・ローンパインの西部劇スクリーン    写真右・ヨセミテ風景
     ・ミュージアム
 

  マンザナール経由でヨセミテへ

ヨセミテまでは楽勝と朝9時過ぎに出たが、これが長かった。途中ローンパインの町でフィルム博物館を見つけ寄った。ここはハリウッドに近く、無声映画の頃から西部劇撮影によく使われたという。「大いなる西部」や「ローハイド」にも使われたそうだ。この町を出て12マイル行った所に第二次大戦のとき日本人が強制収容された日本人リロケーションサイトがある、今はアメリカ国立公園局が管理していて、ロナルドレーガン大統領の「This was mistake」と謝ったビデオを流すビジターセンターがある。ここで亡くなった人の慰霊塔で涙しつつ深く一礼。
同じ敵国のドイツ人やイタリア人には何もおとがめなかったのに日本人だけにこんな目に合わせて不公平と言うと、妻は「真珠湾を攻撃したのだから仕方ない。ここでは三食保証され安全に生活できただけでもよかった。その頃の日本は空襲の連続でたくさんの日本人が死んだし、食べ物もなかった。満蒙開拓団の人たちの方がもっとかわいそう」と反論。それもそうかな?そのあとヨセミテまでが長かった。公園入口まで2時間以上かかり、そこから宿のBig Trees Lodgeまでも2時間、着いたのは7時を過ぎていた。

      
 写真左・マンザナール日本人収容所慰霊塔    写真右・収容所内の監視塔
 

 

国立公園のヨセミテはとても広いのに主な宿は3軒しかなく、1年近く前に予約したのによいホテルはいっぱいでとれたのが、このBig Trees Lodgeだった。これがバスなしで共同シャワーとなっていて「まあ仕方ない」と思っていたが、部屋に入ったら「トイレがない」と妻が言う。「そうか、日本はトイレと風呂が別々が普通なのだが、アメリカはバスと言うとトイレとセットなんだ」と理解したが、夜中にトイレに行ったら部屋は鍵が自動ロックされてしまい、トントンと扉をたたいて妻を起こす始末。朝になってフロントに行って「バス付に変えてくれ」と頼んだが、満杯でダメとのこと。

      
 写真左・BIG TREES LODGE外観は立派だが   写真右・ロッジの朝食、おいしい
 

  ヨセミテ滞在

この日は午前中短いトレッキングをして、昼に帰ってきてシャワーを浴び、部屋の前のベンチでツナサンドとビール、ジュースで昼食。高級な山小屋に泊っていると割り切ればよいと考えを変えた。夕食はサタデイバーベキューに参加。夕方5時からの2時間だが、ロッジの前の会場は夕陽をさんさんと浴び暑くてかなわない。唯一の後ろの木陰にセットされたテーブルがまず取られ、我々はその前の背中に太陽を浴びる場所。汗かきながら肉をほおばった。
翌日はヨセミテの中心のヨセミテバレイに車を走らせた。1時間もかかる。駐車場は満杯で駐車禁止の立て札を移動させて、その場所に確保した。ミラーレイクまで1時間強のハイキング、これまた暑くてかなわない。今日は摂氏36度くらいで冷たい水がいちばんだ。今晩のディナーはロッジでの晩餐、旅の終わりを祝いたい。

      
  写真左・西日を受けて暑いバーベキュー     写真右・ヨセミテバレー
 

  なつかしきPalo Alto

ヨセミテのロッジでの最後の朝食を食べて、シリコンバレーのパロアルトに向かった。最後の行程に入った。クリークサイドインに午後3時過ぎに到着。ここは40年前、HP時代に3ヶ月泊っていたモーテル、1泊25ドルだった。今は超高級モーテルになって一泊300ドルも取る。
明日は昔の仕事仲間のダン・マーティンに会って食事するのが最後の行事だ。その前に今晩の食事の総采を買いにスーパーへ。ここまで来ると、寿司、豆腐もある。寿司とサッポロビールを買って、無事ここまで到達したことを祝おう。アメリカンチェリーも買ったら、これがとても甘くおいしい。帰りに洗車に寄ったら、3,000円もした。すべて手洗い、中の座席まできれいにしてくれた。気になっていた、アリゾナの悪路でこびりついたタイヤの裏のバンパーの泥まできれいに取ってくれた。高いだけのことはある。
帰国の日、サンフランシスコ空港に走らせレンタカー返却のため、レンタカー専用のビルに入ったら借りた会社を忘れた。バジェットと思いそのフロアに入れ契約書を見たら、ダラーだった。フロアが違うと言われ、抜け道を教えてもらい、何とか無事返却。最後までバタバタした旅となった。

      
    写真左・旧友ダンマーチンと         写真右・最後の洗車

 

10月22日 八子ヶ峰の紅葉

山荘の利用者の入れ替え作業のため蓼科に来た。娘から不要不急の外出はしないようにと言われているが、山荘仕事は必要ということでOKをもらっての来荘である。準備の合間を使って、八子ヶ峰に上がった。今年唯一の紅葉トレッキングだ。八子ヶ峰にはナナカマドもないので、鮮やかな紅葉は期待できない。登山道沿いの広葉樹の赤とカラマツの黄がメインである。数人の子供を含むグループが私を追い越して紅葉の森に入っていった。2,3組の家族のようだ。アルビレオヒュッテで休んでいたら、夫婦が追いついてきた。反対側からは犬連れのカップルだ。薄い青空で風もなく、暖かい土曜日なので、紅葉狩り登山の人も多いのだ。
北アルプスは薄曇りの中に穂高や常念は見えるが、槍ヶ岳は見えない。御嶽はどっしりしている。歩く登山道はすすきがたなびき、秋まっさかりである。途中、鮮やかな赤に染まった木があり、その向こうの蓼科山がみごとで、パチリ。秋の八子ヶ峰歩きは美しく、楽しい。10月末でも生き残ったマツムシソウやハクサンフーロ、ナデシコなどが見られたものだが、今日の通り道には何もない。気候変動で咲き残らなくなったものか、鹿に食べられてしまったものか、寂しい。

      
   写真左・紅葉の登山道を行くグループ    写真右・紅葉の枝の向こうに蓼科山
  

10月8日 初孫は無事に誕生

無事、生まれた!2800グラムと小柄だが、元気な女の子が生まれた。私たちは立ち合いできず、初見は5日後だが、立ち会えたお父さんの裕紀君が写真を見せてくれた。お父さんだけは、連日の抗原検査をクリアして、出産に立ち会うことができた。産院にとっても、コロナになってから初めての立ち合い者だったそうで、段取りに苦労していたようだ。                 13日に退院して、私が迎えに行った。初めてみる孫は胎児そのものだったが、日を追うごとに赤ちゃんらしくなっていく。成長が速い。昼と夜が逆転しているらしく、昼はぐっすり寝ているが、夜中に泣き出している。娘はけなげに、夜中もミルクを作って授乳している。もう母親なのだ。あの小学校入るまでおしめをしていた子が・・・。

      
        写真左・孫誕生          写真右・コンチェルト産院
  

10月6日 今日、産院へ入る

9月28日にコロナ感染、即、日本医科大永山病院にコロナ妊婦として入院した娘が1週間ぶりに昨日帰宅し、今日、隣の産婦人科に入った。病院での帝王切開も覚悟していたが、まだ出産には間があるということで、療養してOKだったら本来の産院に戻すという方針が示されて安堵した。本来の予定日は10月13日だったのでまだ早いと思っていたのだが、最近は産院の都合で計画出産方式で早目の出産もあるようで、コロナ感染した翌日は産院に入院する予定になっていた。そして3,4日後に出産という手筈だった。コロナ病院も出産が切迫していると思ったらしいが、意外や、まだ間があるということで、コロナ隔離期間明けまで持たせてくれた。そして今日、隣の産院に歩いて入院した。3日後に出産させるとのことだ。この1週間のバタバタと心配は少しやすらいだ。無事、生まれてくることを切に祈る。

         
       写真左・明日入院         写真右・日本医科大永山病院
 

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9 月

9月30日 海外、思い出のドライブ旅  ルート66 B

ルート66はシカゴからロスアンゼルスまで約4000Kの米国初の自動車道路だ。1920年代に開通し、インターステイト・ハイウェイに代わるまで、第二次世界大戦後もアメリカ中部と西部をつなぐ国道として使われたマザー道路とも呼ばれる、いわば日本なら国道1号線に相当する大動脈なのだ。イリノイ、ミズーリ、カンザス、オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアの8州を貫いている。
今月はいよいよ終点サンタモニカに向かう。アリゾナからカリフォルニアに入るところで道を間違えてしまい、ネバタ州へ入ってあわてて戻ったが、辿った道は本来のルート66ではなかった。こんな失敗もあったが、バクダットカフェの手前でルート66に戻ることができた。苦労をしながら、何とかEnd Of Route66のサンタモニカの海岸にたどり着いた。
スタインベックの「怒りの葡萄」では、砂嵐で穀物が壊滅したオクラホマ州の農民家族がぼろ車に家財道具一式を積み込んで、果物が実るカリフォルニアを目指した涙と苦難の道路として描かれている。そんな歴史ある道路も今は通る車も減り、沿線のガソリンスタンドやモーテルはつぶれたものも多く、その残骸が歴史の跡をしのばせる。古き良き時代をなつかしむ人たちが、最近はこの道を辿ることも多くなり、日本の街道歩きに似た現象が起きている。妻にとってもルート66は大好きなエルビス・プレスリーが売り出し中の頃、カリフォルニアへ通った道でもある。後期高齢者直前の私にとって、長距離ドライブの最後の機会と考え、全線走破に挑むことにした。(2018年6月)

             
 写真左・ルート66は1926年から1964年まで     写真右・ルート66完全走破
 

  ルート66もっとも人気コースへ

グランドキャニオンへ行く列車の発車駅ウイリアムズへ寄って、ルート66の最も人気コースへ行こうと思う。なぜ人気かというと、セリグマンからキングマンの間の165キロは、ハイウェイが別ルートを通ったため、ルート66旧道がそっくり残り、古きモーテル、スタンド、土産物屋など満載の街道一の人気コースなのだ。快適なセドナを後にフラッグスタッフからルート66に戻り、旧道を中心に旅を続けた。ダートの道を行こうと、通常のコースに分かれてダート気味の道に入ったがこれが大問題。急に工事専用のような道になって、線路と高速道路の間の超ハードな砂利道に入ってしまった。車の底に石や溝があたるたびに妻は悲鳴を上げ、「ハイウェイ、ハイウェイ」と叫ぶ。ハイウェイ回避の設定をナビにしたので、それを「ハイウェイ優先」にして、即刻ハイウェイに戻りたいとの叫びなのだが、「こんな所でハイウェイ指示しても戻れるわけがない、ふつうの道に出るまで格闘しなければならい」と諭すが、こんなに慌てふためいた妻を見たのは初めてだった。やっと横に走る舗装道路に出てホッとした。後ろをついてきたもう1台のドライバーと「やれやれ」とお互い指をたてて別れた。ウイリアムズの駅ではちょうどグランドキャニオン行きの列車が発車するのを見ることができた。

      
    写真左・セドナの宿の庭       写真右・グランドキャニオン行き出発!

 

 

セリグマンにはミルクシェイクが有名なデルカディーロの店がある。ミルクシェイクで作って来たサンドイッチを食べ、昼食とした。付近の土産物屋を見て、旧道を走った。途中のハックベリーの雑貨屋で、主人から「三沢にいたことがある」と言われ、つい土産を買ってしまったりした。キングマンに泊ることにしていたが、肝心のエル・トロバトレモーテルが見つからない。ここは各部屋に有名なスターの名前がついていて、エルビス・プレスリーもある。かなり進んだ所にあった。はずれだと思っていた場所が町の中心だった。親父がとうとうとしゃべり、チェックインに時間がかかる。エルビスルームを確保、この部屋ではないが、プレスリーは兵役訓練でこの町に来て、このモーテルに泊ったそうだ。部屋には3枚の若い頃のエルビスの写真。妻はご満悦。

      
     写真左・ミルクシェイクの店     写真右・三枚のエルビスに囲まれて
 

  いよいよカリフォルニアへ

宿の親爺はカリフォルニアへの道はつづら折りの道が続く、昔はダートだった、と言っていた。ところが出だしで道をまちがえ、ラスベガス方面に行ったり、ルート66を走っていると思ったら「Welcome ネバダ」の看板が出てきて、また戻ったりで、ハイウェイでまずは目的地に着くことを先決にして、ハイウェイに乗ったところで、些細なことで妻を叱ってしまった。妻は「日本にすぐ帰りたい。こんな旅行はやりたくない」と言って泣き出すし、ひと波乱。
映画の撮影に使われたバグダットカフェに着いて、アイスティーとバッファローバーガーでようやく機嫌復旧。しかし今日の宿を決めていなくて、これを見つけるのにひと苦労、ロス前のかなり大きな町サンバーナディノに入って探すが見つからず、ガソリンスタンドで聞いたホテルに行くと閉鎖されていたり、その間、ナビで妻が探したホリディインに行くと満室、もう一回ガソリンスタンドに聞いたヒルトンインに行ったら、付近にベストウェスタンやデイズインがあった。ヒルトンに聞こうとしたら、妻は「もったいない」と言って、向かいにあったクオリティインにチェックインしたのが町について2時間後、これまたホトホト疲れた。

      
     写真左・道にもルート66         写真右・バクダッドカフェ
 

  今日はゴールのサンタモニカ

ルート66、最後の日、マグドナルド第一号店ミュージアムがあるというのでまずここを訪問。この日はロスに入ったらできるだけ忠実にOLD66ルートを走ろうと、パサデナの町からNAVI頼みで、サンセット通りに入り、ヴィバリーヒルズを通って、サンタモニカ通りに入った。これを直進し海岸に着けばそこが終点。それが長かった。ようやく2時過ぎに最終地点に入ったが駐車場が満杯で、レストランの駐車場に入れ、高い料金を払って、最終地点のポールへ行き、記念撮影。妻の背に手を回し、長い旅のナビゲータ役をねぎらった。サンタモニカの海岸は人であふれていた。この日は、できるだけ次の目的地のヨセミテに行く方向の道の町に宿泊すべく、夕方の猛ラッシュの5車線ハイウェイを渡り抜いて、ようやく郊外に出たときは6時過ぎ、ランカスターという町に来てベストウェスタンの看板発見、ここに投宿、もう8時過ぎ、ルート66完走記念してビールで乾杯、ぶっかけうどんがおいしかった。

         
写真左・マックミュージアムには日本コーナーも   写真右・ルート66完走
  

ルート66を忠実になぞっての完全走破ではなかった。ポイントの点と点を結ぶ走破となったが、それでも達成感は高い。ガイドブックをきちんと読み込めば忠実に走れたかもしれないが、英語のガイドブックなので瞬時に読み込むことは無理だし、標識もハイウェイ下り口にあっても、その先の分岐にはなく右へ行っていいものか、左かで迷うことも多かった。大きな街中に入るとなおさらだ。ナビゲータの役割は重要で、過去に走ったことがある人でないと難しい。それでも何とかやり終えて、苦労をかけた妻に感謝したい。

      
 
写真左・ エルビスで始まり(シカゴ市内) 写真右・エルビスで終わる(アリゾナ・キングマン)
  

9月28日 小田家の悲劇・すべては私の感染から

まいってしまった。いちばん罹ってはいけないときにコロナに感染してしまった。明日から娘がわが家の隣の産婦人科に入院するというときに。出産直前なのに、産院にはいれなくなった。悪いことに娘も感染、妻も感染、一家全滅である。出産がとても心配だが、受け入れてくれる所は数少なく、今は保健所の調整待ちの状態だ。最悪である。帝王切開でもよいから、無事生まれることを切に祈る。
それにしてもどこで感染したのか?25日から喉の調子がおかしく、微熱もあったので、24日の新小岩行きが原因かもしれない。十分、注意していたのに...。こういうときには動かず、じっとしていることが必要なことを実感した。大反省である。                                何とか病院が見つかったと保健所から連絡があり、迎えの車に入って病院に向かった。無事出産を切に祈る。妻は送迎車を見送ったあと、泣いて涙が止まらない。「かわいそうだ」と。娘は気丈に笑顔で出かけたが…。
 

9月24日 ワセグリと慶応ワグネル

早稲田のグリークラブと慶応のワグネルソサエティの合同演奏会が足立区であるというので、行ってみた。新小岩の駅から15分も歩く、結構遠い所なのだ。新小岩の駅は葛飾区なので、足立区は隣の区になるのだ。だから遠いのだ。公会堂は広く、観客は7割くらいの入りか。「都の西北♪」と慶応塾歌で幕開け、グリークラブは隠れキリシタンの伝統的な歌をベースにした歌曲、ワグネルは「真夜中」という合唱組曲。どちらもよく響きうまい。特にワセグリは低音部の響きがいい。ワグネルは反対に高音部がいい。低音部はいまイチだ。アンコール曲のワセグリの「大漁唄い込み」も迫力あった。総合的にはワセグリの勝ちかな。両校一緒の合唱のあと、紺碧の空、若き血を歌い、早稲田の「光る青雲」のケイオウ倒し♪のところで、どんどんと足を鳴らすおなじみのポーズ、慶応は♪おお打てよ砕け 早稲田を倒せ 慶應 慶應 慶應義塾 叫べよ高く 覇者の名を♪と「我ぞ覇者」を高らかに歌い上げる。いずれも古関裕而の作った歌であることが面白い。宿敵・早慶の歌合戦は楽しく終った。

    
        写真左・両校のペナント       写真右・ワセグリ、ワグネル勢ぞろい
  

9月11日 秋の六大学始まる

昨日から秋の六大学野球が始まった。春は東大に勝っただけで終わったわが早稲田の秋に奮起を期待して、神宮に出かけた。昨日は加藤の力投で2-0で法政に勝った。今日は二戦目、履正社出身の清水が先発、期待されて早稲田に入って3年目、ケガ続きでこれまでは満足な結果を残していない。今日はどうかと思っていたら、意外といい具合だ。6回までゼロに抑え、後続に託した。今日も2-0で勝った。2試合ともゼロに押さえて、勝ち点1だ。ピッチャーがよければ、ゼロに抑えられるのだ。点は少なくても勝てればそれでよい。それにしても、本来の内野に応援団が入っての応援は大学野球の醍醐味を倍加してくれる。点が入ったときに響く「紺碧の空」、チャンスのときに響く、「大進撃」、「コンバットマーチ」。すべてよし、これからの早稲田の進撃を期待する。

     
     写真左・試合前のノック        写真右・応援団、内野にカムバック
  

9月3−6日 北アルプス表銀座

去年の今頃は森さん、山内さんたちと雲の平、高天原、双六を歩いていた。みんなで歩くのも一区切りしたので、今年は私ひとりで、歩くことにした。高天原に行きたいのは山々だが、なにせ遠く、時間がかかる。そこで、久しぶりに燕から常念、蝶が岳への表銀座を歩くことにした。私が本格的に山に目覚めた青春のコースである。あのときは先の東京オリンピックで早稲田の記念会堂がフェンシング会場になったので、急に10日もの休みができたのだ。燕山荘の山小屋でジャボチンスキーの重量挙げをテレビで見たことをはっきり覚えている。1964年で、山の上にもテレビが入るようになっていたのだ。そのときの歩くコースが燕から槍ヶ岳に向かったのか、大天井から常念に向かったのかは覚えていない。山より、ジャボチンスキーが印象に残った山登りだったのである。                                                       そして今回は八子ヶ峰あたりをトレーニングとして歩いているだけではダメなことを実感した後期高齢者の山登りとなった。

        
  写真左・穂高駅前の登山モニュメント     写真右・表銀座先の槍ヶ岳
  

9月3日 中房温泉は大雨の中、到着

昔は夜行列車で来て、バスに乗って中房に朝着いて登り始めたものだが、今は昼着いて、その日はテント泊か温泉泊になる。私は蓼科から出たので昼過ぎの電車で松本へ行き、大糸線に乗換え穂高下車。14:50のマイクロバスで中房温泉に向かった。今夜の宿は中房温泉旅館だ。ほぼ満杯のバスは渓谷沿いにぐんぐん上がって行く。途中から大雨になった。有明荘でほとんどの客が下り、終点は私ともうひとりのおばあちゃんだ。旅館まではひと歩きあるのだが、大雨である。そこへ宿の運転手が来て、車で送るという。ありがたい。宿に着き、私の予約したのは山小屋部の部屋だった。浴衣に着替え、まずは温泉へ。いくつもあるのだが、不老の湯と御座の湯の二つに入った。御座の湯は松本藩主やウェストンも入ったお風呂だとか。歴史ある秘湯の温泉である。

      
 
    写真左・中房温泉ロッジ部       写真右・中房温泉ロッジの夕食
  

9月4日 山小屋が見えてからが遠い

燕への登りは合戦尾根といって、結構きつい。第一ベンチ、第二...と四つのベンチを過ぎて、合戦小屋に着く。ここは休憩だけの小屋で、燕山荘への物資運搬のロープウェイの終点となっている。ここのスイカは有名だ。切り分けられたスイカにかぶりつき、失われた水分の補給をする。ここから合戦尾根の頂上に出ると、上に燕山荘が見える。すぐそこのような気がするが、一気に行けば20分くらいか。歩き始めたらすぐ息切れし、足が進まなくなった。10分も歩かないところで大休止。もうすぐだと思うと、歩くのはどうでもよくなってきた。結局、小休止のはずが大休止となり、小屋までは40分もかかった。このあたりから、翌日以降に続く不調の始まりがあったのだ。小屋に着き、落ち着き、着替えして飲んだ生ビールのおいしさは格別であった。

      
   写真左・ 合戦小屋ではスイカ必食       写真右・見えてからが遠い
  

9月5日 大天井への登りが何ときついこと

朝から快晴の良い天気。槍ヶ岳もはっきり見える。表銀座の縦走が始まる。あまり起伏のないコースを槍に向かってあるくのは気持ちいい。大天井岳に近づくにつれ上り下りが少し激しくなるが、大過なく大天荘分岐に来た。ここからは標高2800mまでの上りだ。歩き始めは足がしっかり出ていたのだが、だんだんフラフラしてくる。そこで小休止、そんなことを繰り返しながら登っていくが、きついきつい。完全に足に来ている。やっとの思いで大天荘に着いた。もうここで泊りたくなったが、まだ11時前で予約もしていない。今は予約制なので、決めた行程を簡単に変えられない。カップヌードルとコーラを買って、お昼にした。東天井岳から横通岳への道に入っていく。大半はなだらかな尾根歩き、東天井を過ぎ、横通への尾根道は長い。廻った所で終わりかなと思うと、さらに尾根が続いている。上り下りはたいしてないのだが、長いとそれだけで足が進まない。ようやく常念小屋が真下に見えてからも長かった。やっとの思いで、小屋に到着。「生ビール!」と言ったら、「今はやってない、缶ビールだけ」と。ガックリ。20年前に三木と一緒に歩いたときは、「生ビールあります」の看板につられ飲んだら、そのあとの常念への登りで大バテし、脱水症状のまま蝶が岳の小屋へ倒れ込んだことがあった。その生ビールがもうないのだ。

      
    写真左・横通岳の先に常念岳が    写真右・小屋が見えてからがきつくて長い
  

9月6日 蝶あきらめ下山、これがさらにきつい

蝶が岳へは常念小屋の前の常念岳を越えねばならない。ところが台風の余波で朝から風がめっぽう強い。小屋の親爺は常念越えを危険だからやめろという。予約していた蝶が岳ヒュッテからも「無理するな、キャンセルOK」のメール。一の沢へ下山することにした。初めて通る道だ。小屋では4時間の歩きというが、4時間半みて、タクシーの予約をお願いした。昨日までの足の状態では少しかかるな、ただ下りだから大丈夫かなと。少し歩き出したら「第1ベンチ、山荘まで800m」という標識が出てきた。「ここは下り初めが第一でそのあと、第2、第3となるのかな?」と思ったが、そのあと第2ベンチは現れなかった。最終水場、胸突き八丁などという標識に変わっていった。下りだから楽と思ったが、大半が河原沿いなので、岩、石がゴロゴロ、それを越していくうちに足が進まなくなっていく。森さんが岩道で苦労していたのがわかる気がした。休む回数も増えていく。休む時間も長くなる。50分歩き10分休みが40分20分になり、30分30分になる始末。最後の山の神あたりではフラフラ、少し屈んだら、そのまま崩れ落ちるように水の流れている山道に倒れ込んでしまった。お尻もザックもずぶ濡れだ。こんな転び方は初めてだ。ケガなかったのが幸いと山の神の賽銭箱に少しばかり寄進した。やっとの思いで、一の沢の駐車場へ6時間もかかって着いた。呼んだタクシーは先着の客を乗せていってしまったらしく、空いてるタクシーが乗せてくれた。シャクナゲの湯という立ち寄り温泉に行ってもらった。そこで、温泉に入り着替えした。牛乳1本、コーヒー牛乳1本、ソフトクリーム、冷やし紅茶を立て続けに飲んだ。喉がかわいて仕方がない。軽い熱中症になったのだろうか?こんなときビールを飲みたいと思わないのはなぜだろう?

      
   写真左・ここは下り1番が第一ベンチ     写真右・山の神賽銭箱に寄進
 

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8 月

8月31日 海外、思い出のドライブ旅  ルート66 B

ルート66はシカゴからロスアンゼルスまで約4000Kの米国初の自動車道路だ。1920年代に開通し、インターステイト・ハイウェイに代わるまで、第二次世界大戦後もアメリカ中部と西部をつなぐ国道として使われたマザー道路とも呼ばれる、いわば日本なら国道1号線に相当する大動脈なのだ。イリノイ、ミズーリ、カンザス、オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアの8州を貫いている。今月はテキサス州からニューメキシコ州に入り、サンタフェとグランツで泊り、ルート66の長いドライブの休息を取るべく、アリゾナ州のペイジとセドナにショートステイした。そこまでのドライブを紹介する。
スタインベックの「怒りの葡萄」では、砂嵐で穀物が壊滅したオクラホマ州の農民家族がぼろ車に家財道具一式を積み込んで、果物が実るカリフォルニアを目指した涙と苦難の道路として描かれている。そんな歴史ある道路も今は通る車も減り、沿線のガソリンスタンドやモーテルはつぶれたものも多く、その残骸が歴史の跡をしのばせる。古き良き時代をなつかしむ人たちが、最近はこの道を辿ることも多くなり、日本の街道歩きに似た現象が起きている。妻にとってもルート66は大好きなエルビス・プレスリーが売り出し中の頃、カリフォルニアへ通った道でもある。後期高齢者直前の私にとって、長距離ドライブの最後の機会と考え、全線走破に挑むことにした。(2018年6月)

              
 写真左・ ルート66は1926年から1964年まで     写真右・ルート66の看板
 

 ニューメキシコ・サンタフェへ

州境に近いエイドリアンがルート66の半分ずつの距離でロス、シカゴまで1139マイル、Mid pointの標識があるというが、見つからない。その先のツクムカリの博物館に写真はあった。テキサスからニューメキシコに入ると、高地に来たという感じで、モニュメントバレーのような山々が見える。ここからサンホンの町までは舗装されていないダートの道をしばらく走る。砂ぼこりを巻き上げて走るが、乾いているので走りやすい。ツクムカリに来た。モーテルが沿線にたくさん並ぶ、まさに宿場町である。道半ばを過ぎた所なので、泊まるには適した位置なのだろう。町を抜けようとする所にルート66博物館があった。
ここにもエルビス・プレスリーの等身大写真があり、妻はご満悦。ルート66最後の1950年〜1960年代の、この道を通過した最大のスターなのかもしれない。旧道とハイウェイ40を交互に走りながらサンタローザの町に入った。ここはルート66がサンタフェ経由になるか、アルバカーキ直行になるかの分かれポイントだ、分去れ、中山道と北国街道が分かれる軽井沢の追分のような所だ。この砂漠のオアシスのような街に水深40mもあるブルーホールと呼ばれる湧き水の池がある。夏はダイビングスポットで池の脇の岩から、たくさんの若者が飛び込んでいた。ひとり、若いお嬢さんが飛び込もうとしては何度も躊躇して飛び込めない。うしろに順番で長い列ができるのだが、お構いなしに逡巡している。男性から促されてやっと飛び込んだのは15分後くらいか。

      
    写真左・ダートの道も走った      写真右・中間点の看板、博物館で発見

 

 サンタフェでの宿探し

サンタフェグリルで昼食して、我々はサンタフェへ向かう。しばらく走って、ハイウェイ40なのに気づく。これはアルバカーキ直行ルートではないかと、サンタローザへ戻っていった。私の頭の中では、サンタローザの町で分岐すると思っていた。地図を見ていた妻は、ハイウェイ40の途中から分かれていると言う。そこで側道に出て確認。その通りだった。サンタローザから17マイル走った所でルート84に行くのだった。これがルート66でもあったのだ。その道に入ると車の数がめっきり少なくなったが、サンタフェに近づくにつれ増えていった。ラスベガスとロスアンゼルスを結ぶハイウェイ25と合流するからだった。旧道から新道へ切り替わっていく現実を見たような気がした。
サンタフェの町に入ったが、今日の宿は決めていない。ウロウロしている間に、妻はNAVIでセントルイスで泊ったDrury Inn系列と思われるホテルを見つけた。NAVIに導かれそこに到着。Drury Plaza Hotelと一段上の格式だ。フロントに聞くと一泊300ドル、3万円だ。観光地サンタフェでは仕方ないかと投宿。ここも前と同様、二食付き、ビール付きであった。夕方、街に出て、露店が並ぶ旧市街で妻は気に入ったブレスレットを見つけた。60ドル、現金のみという。慌てて、銀行へ行ってATMを聞いた。5時過ぎなのに、銀行は夕方5時閉店の表示があるのにまだやっている?そこで気がついた。時差が1時間遅れて、ここはまだ4時なのだ。

      
   写真左・ブルーホールへ飛び込む       写真右・サンタフェの町で
 

 ニューメキシコ・グランツへ

立派なDrury Plaza Hotelを後にして、今日はGrantsまでの旅、ここも妻お目当てのエルビス宿泊モーテル泊りだ。アルバカーキまでルート66と重なっているハイウェイ25で行き、アルバカーキのOld Townを目指した。サンタフェ同様、アルバカーキもプエブロインディアンやメキシコ系の文化が残っている。
美術館に入ってその文化の一旦にふれ、ハイウェイ40に乗った。ハイウェイの下り口に時々”Historic Route66"の標識が出ている所があるので、そういう所では下りるようにしている。こんどもLagunaという所で下りた。ちょうど昼どきだったのでガソリンスタンド横の喫茶店のガラス窓を見たら”World Famous Laguna Burger"とあるではないか。「よし、これだ!」と店に入り、注文。World Famous と言うほどのものではなかったが、おいしかった。グランツに近い村でSky Cityの看板発見、山の上に町があるんかと標識に従ってかなり走ったら崖っぷちに出た。そこにSky Cityの案内板、町ではなく昔、戦のときの砦であった。グランツにはSands motelというELVIS Roomのあるモーテルがある。その部屋に泊れるのだ。
部屋の中にはエルビスの写真と結婚したときの証明書写しが。1971年となっているが、その頃のエルビスは絶頂期で「こんな所に泊るはずがない」と言う。翌朝、フロントに聞くと、プリシアと結婚してからここに来て、私たちの部屋に泊ったのは事実だと言う。妻は半分??ながら、納得。ふつうのクラシックなモーテルだ。ここまで見てきたエルビスの宿はすべて古いモーテル、それでもその地ではハイクラスのモーテルだったんだろうな。

        
   写真左・World Famous...      写真右・エルビスルームに泊った
 

 休息の地、アリゾナ・ペイジ、セドナへ

4000キロの道を走り続けるのはしんどいので、途中、休息の日を設けることにした。それがペイジとセドナだった。ペイジではアンテロープキャニオンに行き、セドナではパワースポット巡りをして、しばしルート66から離れよう。ニューメキシコ最後の地はギャラップ、ここにはホテルエルランチョという、往年、西部劇等の撮影時にスターが泊ったホテルが今も健在だ。モーテルとはちがい、格調が高い。ロビーには多くのスターの写真が飾られ、客室にはジェーンフォンダやハンフリーボガードの名がついている。
メテオシティからアリゾナ大隕石孔に行った。5万年前、直径45mの隕石がここに落ち、直径1200mの大きな穴を作った。ほぼ完全に衝突の跡が残っているのは世界でもここだけだそうな。ウインスローの町では、私は知らないがイーグルスの代表曲にちなんだ青年の像が街角に立っている。近くのメキシカンタコで昼食。フラッグスタッフで右折してペイジへの道路に入った。ここから212kの所にある。蓼科までより遠い。泊りはカントリインBYラディソン、一昨年泊ったイギリス・エジンバラのラディソンホテル系らしい。町に着いてどこかと見渡したらあった。NAVIでは出てこなかったので、困ったなと思っていたが、ホッとした。

      
    写真左・エルランチョホテル        写真右・隕石が落ちた穴
  

アンテロープキャニオンに行くことにした。個人では入れない所なので、地元発のツァーに参加した。
12時30分集合、13時出発。トラックに揺られてアンテロープ入り口まで行く。そこからガイドについて岩の割れ目に入っていく。長い年月をかけて川の流れが砂岩を切り刻んで、複雑な割れ目を作った。その割れ目の中に入り、上を見ると太陽の光が岩の割れ目に入り込み、美しい帯状の光線が注ぎ込むのだ。得も言われぬ光景とはこういうことを言うのだと思う。
奥へ奥へと進んでいく。ガイドは造形された岩を指さし、リンカーンの顔というが、どれが顔なのかさっぱり理解できぬ。30分くらい進むと、反対側の谷間に出た。この谷間に川が流れていたことがわかる。ここからもと来た道を戻ってツァーは終了。不思議な景色だった。

      
 写真左・ アンテロープキャニオン入り口   写真右・アンテロープキャニオン内部
  

ペイジに2泊したあと、セドナに移動した。フラッグスタッフから南へ24マイル(38キロ)と近い。
セドナの町に入ったら大渋滞だ。予約しておいた宿は沿線には見当たらない。NAVIでも出てこない。わからないので、開いていてお客のいないギャラリーで聞いた。とても親切なお姉さんで、地図に印をつけてくれた。それを頼りに行くがわからない。右往左往しているうちに、妻が地図でその通りが別な方向にあると言う。まさかと思って、そこへ行くとホテルはあった。セドナ・スプリング・リゾート、コンドミニアムホテルだった。台所もついている。長期滞在者も多いのだろう。予約は1泊だったが、ここに2泊することにした。
2日目のセントルイスまで行き、余裕の出た1日をここにあてた。翌日はパワースポット巡りと2ケ所行くことにした。最初は空港近くのエアポートメサ、宿から近かった。ここからはセドナの町が眼下に見える。
座禅を組んで、パワーに没頭しているお嬢さんがいた。またヒューストンに駐在している日本人家族にも会った。もう一つはベルロック、「直感と決断の山」とも呼ばれ、力強いパワーを与えてくれるスポットだそうな。セドナの南、駐車場から30分ほど歩く。暑い夏の太陽を浴びてのハイキングとなった。この町は安室奈美恵が来たことで、日本の女性の憧れの場所になったという。予想以上にきれいな景色で、良い町だ。

      
     写真左・ エアポートメサ         写真右・ベルロックへ
 

ペイジとセドナの休日は長距離ドライブが毎日続いていたので、とてもよかった。最初の4日間くらいは時差ボケも相まって、とても疲れ、夕飯を食べると、すぐに寝る始末。だんだん慣れてきたが、ドライブ中に猛烈に眠くなることがあった。そのときはしばらく横になった。また持ってきた東京六大学の応援歌CDをかけ歌うと、なぜか眠気が覚める。紺碧の空しかり、若き血しかり、紫紺の歌しかり、センポールサンシャインしかりである。娘がくれた安全運転お守りのためにも事故を起こすことはできない。この4日間の休息はとても良かった。

      
    写真左・お守りをつけて走る        写真右・車もしばし休む
  

8月27日  長坂の蕎麦屋”月舎”

蓼科からの帰り、妻のライングループのGIさんが推奨していた、長坂の蕎麦屋”月舎”に行ってみた。ナビで検索すると、富士見高原のハチマキ道路を走らせ、小淵沢から清里へ抜ける道に入り、途中で右折、甲斐小泉の駅近くの踏切を越して、しばらく走らせると、”月舎”の大きな看板が左手に見えた。ここかと思ったら、少し先で右折しろと表示、しばらく走っても右折するような通りはなく、戻ってみると、看板の前に”大型車侵入禁止”の砂利道があり、100mくらい先に”月舎”の看板があった。私の車は小型なので、おそるおそるその道に入った。
こじんまりした家で、周りに薪がいっぱい積んである。冬は薪ストーブなんだな。鴨せいろ、おかわり付き1720円を注文、ザル2枚ということだな。待つことしばし、長方形のザル2枚に盛られた蕎麦とこぶりの器に入った、鴨汁が出てきた。鴨は細かく刻んであるようだ。そばはほどよい太さの手打ち。ツユが少し甘いかな?2枚のそばを食べるには、ツユはもっと大きな器に入ってほしい。蕎麦湯で薄めて飲むのも物足りない量であった。おいしいが、何か物足りなさの残る味であった。付近にはイタリアンなどの店もあり、小泉周辺の別荘族が集まるのだろう。その人たち目当ての店の一軒なのだろう。

      
      写真左・ 月舎の前          写真右・月舎の鴨せいろ蕎麦
  

8月16日  東京会館でのバイキング

きのこ博士の吉田さんから、東京会館のバイキングに誘われ、行ってみた。日比谷の有名な老舗のレストランだ。創業100年とか、終戦後は駐留軍に接収され、近くにある連合国総司令部にいたマッカサー元帥の食事処にもなったレストランである。吉田さんはなんとこの東京会館の株主であり、今日は株主優待の食事会ということらしい。招待をありがたく受け取り、はせ参じた次第である。
吉田さんの家族も別な日に来るらしく、相当の株を持っているらしい。まずは生ビールでのどを冷やしてから、最初にそば、それからオードブル、ローストビーフ、ケーキと、バイキングらしくまぜこぜの料理を頂いた。久々の高級レストランの食事はおいしいが、緊張もした。東京駅への帰りに焼き鳥屋に寄って、飲んだビールでホッとした。

      
      写真左・東京会館玄関        写真右・バイキングに乾杯!
  

8月16日 アパッチ砦

夕方の東京会館の前に渋谷で映画「アパッチ砦」を見た。ジョン・フォード特集の映画週間とかで、シネマヴェーラという名作座のような映画館だった。ジョン・フォードといえば、駅馬車、黄色いリボン。アパッチ砦は1948年の作品で黄色いリボン、リオグランデの砦と続くフォード騎兵隊三部作の第一作とか。私は初めて見る。画面に広がるのは石柱が立ち並ぶモニュメントバレーの大荒野、そこをおなじみのメロディに乗って、騎兵隊が疾走する。居留地から逃げ出したアパッチ族を武力で制圧しようとするが、反撃にあい、ヘンリー・フォンダ扮する司令官は戦死する。友好的な交渉を主張していた大佐ジョン・ウェインがその後を継ぎ、平和的に納めるというストリー。インディアンをバッタ、バッタと殺す、今では許されない画面が迫力ある。西部劇華やかなりし時代の映画だ。ストリー単純、撃ちあい満載の面白く、なつかしくそしてはかない気持ちになる映画であった。

          
     写真左・アパッチ砦ポスター      写真右・アパッチ砦の一画面
  

8月11日  八子ヶ峰の夏の花

9月初めに北アルプスを歩こうと思うので、その前にトレーニングをと思いつつ、なかなか踏ん切りがつかない。蓼科に滞在しているときがチャンス。今日は晴れ間の多い日なので、思い切って行くことにした。東登山口に車を停めて、いつものコースに入った。笹薮が登山道を覆い、所々、道を外す。どうも管理が行き届いていない。センターに一報入れねばならぬ。順調に尾根道に上がり、縦走路に入った。ハクサンフーロの小さな花が道端に咲いている。去年はほとんど見なかったが今年は復活したようだ。ナデシコも咲いている。アルビレオヒュッテへの登り道には、まだ若いススキの穂がゆれていた。もう山は秋なのだ。ヒュッテの先の草原に、ひまわりに似た花(マルバダケブキという花らしい)がいくつも咲き乱れ、そこに蝶々が止まっていた。アサギマダラも飛んでいた。途中のピークではおおぜいの登山客がお昼を摂っていた。「今日はなんか人が多いな」と思ったら、今日が山の日の祝日なのに気が付いた。みんなその記念で登ってきたのかな? 歩いても歩いても、マツムシソウの花に一輪も会わなかった。この季節になると、いっぱい咲いているのに。去年はハクサンフーロがだめで、今年はマツムシソウなのかな?

      
      写真左・ アサギマダラ          写真右・ナデシコの花
  

8月8日  蓼科東急ホテルのディナー

今日は景ちゃん夫妻の最後の夜、東急ホテルのディナーを予約し、夜7時過ぎに迎えの車が来た。ホテルは送迎してくれる。ハーベストは人手不足なのか、コロナ終息までは送迎しないとのことだった。妻と裕紀君は洋食、景ちゃんと私は和食を注文した。このホテルでの和食は初めてかもしれない。次から次へと運ばれてくる小ぶりの和食の皿はどれもおいしかった。洋食より、いいかもしれない。このホテルに、前に穂梓ちゃん夫妻と来た時は、バイキングだったような気がする。そこにイナゴ料理があって、ジェフンは何皿も食べていた。私も懐かしくてお代わりして食べた。イナゴは小学校のとき、学校で採りにいく行事があった。私たち子供はいつも採っていたので、なんともないのだが、赴任してきたばかりの女の先生は「気持ち悪い」と言って、なかなか取れなかった。それも翌年になると、慣れて、チョイチョイと採れるようになったいた。そんなことを思い出したホテルのディナーだった。

      
   写真左・ 蓼科東急ホテルのディナー       写真右・和食の一皿
  

8月6日 ちょっと早いが誕生日祝い

何を思いついたのか、韓国から穂梓ちゃん夫婦が日本に来るという。景ちゃん夫妻が蓼科に来るのに合わせ、一晩だけみんなで蓼科で晩餐することになった。穂梓ちゃんたちは5,6日の2泊、景ちゃんたちは6,7,8日の3泊、6日だけが共通の日だ。一昨年の景ちゃんの結婚式はコロナ真っ盛りのときで、ジェフンは来れず、穂梓ちゃんだけが日本に来て出席した。だからジェフンはまだ裕紀君に会ったことがない。今は、ジェフンも次の就職待ちで時間があり、この機会に会おうということらしい。蓼科で初めて、二人の娘夫婦の顔合わせである。そして8月10日は穂梓ちゃんの誕生日、ちょっと早いが、誕生祝もやることにした。ヌーベル梅林堂に注文したフルーツケーキに6本のロウソクを立て、ほしちゃんにひと息吹いてもらい、めでたく誕生祝いとなった。こうやって家族みんながそろうのはうれしい。あと何回できるな?

      
    写真左・ほしちゃん、ひと吹き       写真右・Happy Birthday ケーキ
  

8月6日  もうひとつの”登美”

夕べ、穂梓ちゃん夫妻が蓼科に着いた。午後、羽田でレンタカーを借り、4時間かけてドライブしてきた。着いてみんなで食事、久しぶりの会話で夜は遅くなった。そして今朝は、なかなか起きず、朝昼兼ねて、諏訪の登美で蕎麦を食べるという。私も妻も同行し、蕎麦を食べたら、彼らは真澄前で下り、地酒利き酒ツァーをして、電車で茅野に帰ってくることになった。私の車で諏訪へ向かった。霧ヶ峰へ上る道に入り、かなり上まで行って、立石公園への道に入った。立石公園は最近の「君の名は」で舞台となった場所らしく、聖地ツァーで賑わっていた。そこの駐車場に停め、さらに上へ歩くこと数分で登美に着いた。午前11時開店で数分前だったが、入れてくれた。眼下に諏訪湖が広がり、景色最高の店だ。蓼科の登美との関係を聞いたら、兄弟で始めた店で、姉妹店だったが、今は経営者が他人に代わり、名前だけが同じ登美で残ったという。だからか、メニューもかなり違っていた。穂梓ちゃん夫妻は、天ざる蕎麦、妻はとろろ蕎麦、私は揚げなす蕎麦を頼んだ。この場所でこの蕎麦を食べるのは、前に来た韓国の友人も感激していたらしく、今回も絶対はずせない場所だったという。確かにおいしかった。味のベースは蓼科の登美も諏訪の登美も、ルーツが同じだけに、似ていてよい味だ。すばらしい景色とおいしい蕎麦、よいバランスがとれていた。

      
     写真左・店からの眺め絶景     写真右・諏訪の登美の蕎麦もおいしい
  

8月1日  野球伝来150年記念試合

日本に野球が紹介されて、今年は150年目とか、それを記念してプロ野球と社会人・大学の試合が神宮で行われた。プロといっても、23歳以下の若い選手だ。と言っても、完全試合をやったロッテの佐々木は出てこない。比較的、活躍途上の選手が中心だ。日ハムの清宮、中日の根尾、ロッテの藤原、広島の中村将成、小園などが出てきた。大学からは我らが早稲田の蛭間、立教の山田など、山田と根尾、藤原は大阪桐蔭では同期だった。いくら若手ばかりのプロと言っても、プロはプロ。一方的な試合になるのではと思っていたが、意外や意外、アマもがんばる。蛭間は2安打も打って、終わってみれば、8対6の惜敗だった。後半に出てきた日体大の矢澤は投手としても、打者としても力があるらしく、DH制を彼のときははずして、打者として登場させ、みごとタイムリーで2者をホームインさせた。試合後のインタビューで、「こんなにおおぜいのお客さんの前で試合をやるのは初めてなので、とても燃えました」と言ったのがアマチュアらしかった。期待した清宮は4打数無安打だった。残念!

      
     写真左・野球伝来150年      写真右・プロU23 対学生・社会人の試合、
                        打つはプロ
  

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7 月

7月30日 海外、思い出のドライブ旅  ルート66 A

ルート66はシカゴからロスアンゼルスまで約4000Kの米国初の自動車道路だ。1920年代に開通し、インターステイト・ハイウェイに代わるまで、第二次世界大戦後もアメリカ中部と西部をつなぐ国道として使われたマザー道路とも呼ばれる、いわば日本なら国道1号線に相当する大動脈なのだ。
イリノイ、ミズーリ、カンザス、オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアの8州を貫いている。今月はセントルイスからテキサス・アマリロまでのドライブを紹介する。
スタインベックの「怒りの葡萄」では、砂嵐で穀物が壊滅したオクラホマ州の農民家族がぼろ車に家財道具一式を積み込んで、果物が実るカリフォルニアを目指した涙と苦難の道路として描かれている。そんな歴史ある道路も今は通る車も減り、沿線のガソリンスタンドやモーテルはつぶれたものも多く、その残骸が歴史の跡をしのばせる。古き良き時代をなつかしむ人たちが、最近はこの道を辿ることも多くなり、日本の街道歩きに似た現象が起きている。妻にとってもルート66は大好きなエルビス・プレスリーが売り出し中の頃、カリフォルニアへ通った道でもある。後期高齢者直前の私にとって、長距離ドライブの最後の機会と考え、全線走破に挑むことにした。(2018年6月)

        
 写真左・ルート66は1926年から1964年まで
                 写真右・ルート66の博物館は沿線沿いにたくさんある
 

 ミズーリ・スプリングフィールズへ

セントルイスで西部開拓モニュメントのタワー・ゲートウェイアーチに上った。ここから西部開拓の歴史が始まった。ミシシッピ川対岸のカンザス州インデペンデンスが馬車や牛車時代の西部開拓の始発点、オレゴントレイルが始まる。この歴史の道は既に何度か旅して、オレゴンまで制覇している。
今日は車の旅の歴史だ。ハイウェイ44でスタントンで下りた。ここには”世界初の銀行強盗ジェシージェームズが身を隠していたという洞窟がある。今は観光地として人を集めている。大きな鍾乳洞もあり、面白かった。
スプリングフィールドという町に宿をとった。ここはプレスリーがよく使った宿で、玄関前には彼の愛車のキャデラックが置いてあった。部屋の絵もプレスリーを描いたもの。妻はすこぶる満足の宿になった。宿もプレスリーを売りにしているらしく、看板下の電光掲示板には”Elvis Stayed here 1956"と出ている。彼が売り出した頃、まだ飛行機はポピュラーではなく、車でこの道を通ってラスベガスのショーやハリウッドでの映画撮影に出かけていた。夕食はうどんとコールスローサラダ。宿:ベストウェスタンレイルヘヴン

      
      写真左・Elvis            写真右・ Stayed here

 

 カンザスからオクラホマへ

ルート66はミズリー州を抜けるとカンザス州の南部を少しかすめる。ハイウェイ44は通らないので、そのまま行ってしまうと、カンザスを抜かしてしまうので、途中でBaxter Springsの町に向かった。ここはルート66が通っているカンザス州の町だ。そこからできるだけ忠実に旧道をなぞり、オクラホマ州に入った。Aftonを過ぎて、Vinitaの寂れた町で昼食。中華料理があったので迷わず入った。妻はチャーハン、私は焼きそばを注文した、味はまずまずで箸が使えるのがうれしい。コーラが缶にストローをつけて出てくるのには驚いた。若い賢そうなお兄ちゃんがウェイターをしているが、ここの息子なのか?この町で生きていくには未来がないような気もする。「怒りの葡萄」ではオクラホマでの未来に失望した若者がこのルート66をカリフォルニアを目指すストリーだが、その話を何か思い出した。途中、世界一のトーテムポールや青いクジラ公園を横目に見ながら、Tulsaの町からまたハイウェイ44に乗った。今日の宿はオクラホマシティのホリデイイン・エクスプレスだ。毎日走ってから、翌日の泊る町が決まったら、ネットで宿を予約するようにした。ホリディインもそうして決めた宿だ。オクラホマシティは州都だけに大きく、ハイウェイをいくつか渡ってNAVIの案内で到着した。ここまでシカゴから1400Kの距離だ。

          
 写真左・ルート66バナーがあちこちに       写真右・途中の町の中華屋で
 

オクラホマシティから西へ向かうハイウェイは40号に代わる。その道をYukonで下り、旧道をEl Renoの町に入った。ここにはルート66の大きな看板がある。Gearyからダートの道に入った。砂埃は舞うが、道はそれほど凸凹しておらず走りやすかった。今日はクリントンに泊ることは決めていた。ここにはエルビス・プレスリーが定宿にしていたTrade Winds Innというモーテルがあり、エルビスファンの妻にとっては避けることができない町なのだ。しかしネットの評価は最低で、「こんなモーテルにエルビスが泊ったとは思えない」 など悪評タラタラなのだ。さすがにこれでは、と敬遠し、ヒルトン系のHampton Innに予約を入れておいた。
お昼ごろに町に着いたので、宿の前にあったモンタナステーキの店で、アメリカに来て初めてのステーキを食べた。おいしい。まだチェックインには時間が早いのでこの町にあるルート66博物館に行くことに した。NAVIにセットした通りに行くのだが、どんどん町を離れるではないか。もう一度、モーテルに戻ってみたら、目と鼻の先にあった。NAVIはどうしたのか?
この博物館はまさにルート66沿線のヒストリー満載だった。博物館の前に、泊まろうとしたTrade Winds Innがあった。古く大きいモーテルだ。エルビスはここの215号室に泊って、その番号札はファンに取られてしまい、ルームナンバーなしの部屋になっているとの話だったが、行ってみると、新しい隣の部屋と字体も大きさも違うルームナンバーがかかっていて、ここかとすぐわかった。何の変哲もない部屋だ。大きなモーテルだが、メンテナンスが行き届いておらず、ネットのように、「ほんとうに、ここにエルビスが…?」と思うような所だった。

      
    写真左・ ELRenoの壁画     写真右・エルビスが泊った部屋番号が大きい
 

 テキサスへ

クリントンの隣はElk City、ここにはNational Route66 Mueseumという博物館がある。今、気が付いたのだが、昨日のNAVIの狂いはここを指していたのではなかったか?開館前に行ったので、隣接する民芸博物館の昔の町模様などを眺めているうちに開館。ルート66を走った車の歴史などもあり、興味深かった。オクラホマからテキサスへ入る道は平原の中を走り、あまり州を越える感じがしないまま、テキサスに入っていた。
シャムロックからマクリーン、アランリードと小さな村をいくつか通り、途中のジェリコあたりだろうか、小さなレストランで昼食。ようやく旧道の走り方に慣れてきた感じだ。今日のメインイベントはアマリロ郊外のキャデラック・ランチ、テキサスの富豪が西海岸から芸術家を呼んで作ったアート、大地に突き刺さったペンキ塗りの10台のキャデラックが並ぶ。けったいな芸術だ。何もない平原に突如、車の串刺しのようなものがあらわれる光景は異常でもある。みんな国道に車を停めて、見に行っている。我々も行こう。

          
  写真左・NAVIがまちがえた博物館?      写真右・キャデラックランチ
 

今日は、アマリロ辺りで泊ろうとしていたが、妻が昔のクラシックな平屋建てのモーテルに泊まりたいというので、ニューメキシコ州境あたりまで行こうと走っているうちに理想的なモーテルを発見。長い平屋で部屋前に駐車するモーテル、その名もカントリインだ。部屋に入ると、昔なつかしい作り、昔とちがうのは冷蔵庫と電子レンジがついているところ。これがあるから、毎日ソバやカレーライスが食べられるのだ、出発時に買ったポリエステルのクーラー箱に毎朝、モーテルの製氷機から氷を詰め、野菜やハム、飲み物を冷やしながら運んでくるのだ。ホリデイインやハンプトンイン(ヒルトン系)など大手のホテルがモーテル経営に乗り出したのは最近の話、こちらは4,5階建てでエレベータもあり、荷物を運ぶのに苦労しない。ただどこも同じような作りなので趣に欠ける。古いモーテルは味があるのだが、空調がうるさく、バスルームが狭い。新しいのを選んだり、古いのにしたり、走る状況に合わせて旅をするのが楽しい。

      
    写真左・古き時代のモーテル        写真右・室内はこんな感じ
 

7月27日 都立冨士森高校勝つ

西東京地区の高校野球予選が神宮球場で行われている。準々決勝は4試合、本来一日二試合なのだが、雨で中止になったので、まとめて4試合が今日行われた。日大三高、国士館、東海大菅生が勝ち、最終試合は日大鶴ケ丘と冨士森の対戦だ。冨士森は八王子にある都立高校で下馬評にもあがらない高校だ、片や日鶴はシード校の常連である。どう見ても、冨士森は分が悪い。準々決勝まで来たことが奇跡なのだ。応援席も日鶴側は満席に近いのに、冨士森側は半分にも満たない。4試合目だから夕方5時半開始、すぐにナイターになった。「コールドになるだろう」と思い、見ていくことにした。一回の表に、なんと走者2,3塁まで攻めていて、日鶴のキャッチャーがパスボール、球が転々としている間に二者生還、2点上げてしまった。その裏、日鶴は1点を返したが、4回、5回と冨士森は加点して4-1、もしやと思った直後、日鶴は3ランホームランで同点に追いついた。これで終わりと思ったが、冨士森の甲斐投手が粘りのピッチングでその後、加点を許さない。とうとう延長に。10回表に、代わった投手を冨士森は攻めて、1点もぎ取った。その裏の日鶴の攻撃を何とか押さえて、勝った。全員、ベンチを飛び出し、まるで優勝したような光景が目の前に広がった。私の周りの席はほとんどが日鶴の卒業生のようだったが、ガックリ、離れた席でバンザイをしている人は冨士森の卒業生ではないだろう。判官びいきで残っていた人なのだ。暑い夏の夜に、いいものを見せてもらった。

      
    写真左・優勝したような騒ぎ        写真右・勝利の校歌演奏
  

7月17日 久しぶりの広島お好み焼き

極楽スキー仲間の夏の恒例・広島焼きパーティもしばらくやっていなかった。コロナもあるが、もう20年以上経過したスキー同好会もそろそろ解散の時期だと思ったからだ。私の高齢化がいちばんの理由だが、幹事の永瀬君はまだやりたいようなので、第一次極楽スキークラブは幕を閉じ、次の世代はそれなりにやるということで、締めの広島焼きをやろうということになった。シェフの溝上君は砂肝やほたての新バージョンの具材も加わり、豪華になった。懸案のロールイカもつるやで買うことができた。今まで以上の厚い重ねの広島焼きになった。楽しみにしていた私は、前日から、三々五々集まるメンバーに忠実につきあったため、肝心の広島焼き当日は朝から、重度の二日酔いで食べ物も、水も受け付けない状態に陥った。みんなの盛り上がりを寂しく見ているだけだった。最後に、私のために作ってくれた大きなお好み焼きを翌日から三日かけて食べた。おいしかった。

      
     写真左・ボリューム満点!         写真右・完成をじっと待つ
  

7月10日 早稲田スポーツ125年

早稲田大学にスポーツ推進の体育部ができたのが、まだ東京専門学校時代の125年前。これを祝って、大隈講堂で早稲田スポーツ125年式典が開かれた。校友会案内に申し込んでいたらしく、招待メールが来たので、出かけていった。早稲田は125年にこだわるが、これは大隈重信が人間は摂生して生きれば、125才まで生きるとの説から来ている。創立125周年も祝われたし、大隈講堂も125尺で建てられている。会は田中総長挨拶から始まり、河野洋平稲門体育会会長、伊藤慶応義塾長の祝辞、岡田武史元サッカー日本代表監督の講演と学生企画の「早稲田スポーツクイズ大会」と続いた。早稲田には44の体育会所属のスポーツクラブがある。今年、その中でも、野球、ラグビー、競争(駅伝)の3つのクラブ強化のためにアシックスと共同で資金強化を行うという話があるというが、河野さんは「3つに限らず、すべてのクラブを強化すべきではないか」と言っていた。同感である。いずれにしても、最近低迷している早稲田スポーツを盛り上げることはOBとして期待している。

      
 写真左・早稲田スポーツ花形・野球の応援   写真右・大隈重信侯と大隈講堂
 

7月6日 三年越しのヨーロッパスキー打上げ

フランスのヴァルディゼールとシャモニにスキーに行ったのは3年前、2020年2月だった。シャモニは期せずして、岳文OBだけのスキーとなった。帰ってきたのが2月14日、このときコロナが始まった。シャモニを離れる前の日に、「隣村でシンガポールからの客がコロナを持ち込み、村がロックダウンされた」と聞いたが、帰国した日本も同様のコロナ旋風が始まっていたのだった。東京で打上げをやろうと話していたのに、それどころではなくなった。それからじっとしていて、ようやく落ち着いてきて、札幌の小野さんの上京に合わせて、今日、新宿で打上げをした。糸賀先輩、後輩の深田夫妻も来て、全員そろった。「あのとき決断して行ってよかった。延ばしていたらもう行く機会がなくなっていた」、「ヴァルディゼールで一緒だった糸賀さんの高校同級生の人は変わった人だったね」などなど、当時の思い出話に時が経つのも忘れた。一次会を終わり、小野、糸賀、小田の三人は、おもいで横丁の小さな店に場所を替え、さらに呑み会を続けるのだった。仲間は楽し!

      
 写真左・ヴァルディゼールで岳文会OB・OG    写真右・ シャモニー針峰群
  

7月1日 ”エルヴィス”ロードショー

オースティン・バトラー演じるエルヴィス・プレスリーは本物にそっくりと、エルヴィス友の会の妻が言う。彼女にとっては待ちに待った映画「エルヴィス」の公開日、私も一緒に見に行った。妻は二日後もまた別な映画館に見に行ったほどだ。エルヴィスが世に出た頃、マネージャーのトム・ハンクス演じるトム・パーカーが曲者、強欲で稼げる舞台しか出演させない。エルヴィスは日本やドイツにも行きたいのだが、無国籍者のトム・パーカーは外国には出れないので、ラスベガスのヒルトン・ホテルと長期契約を結び、エルヴィスの外国行きを阻んでしまう。以前、ラスベガス・ヒルトンには泊ったことがあるので、その時を思い出し、興味深かった。ハワイ公演の衛星放送で日本のファンはお茶を濁した理由のバックグラウンドが推測でき、ファンでない私にも面白い映画であった。妻のエルヴィス好きはますます高まり、8月14日のエルヴィス祭を楽しみにしている。

        
   写真左・”エルヴィス”ロードショー   写真右・若き日のエルヴィス・プレスリー
  

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6 月

6月30日 海外、思い出のドライブ旅  ルート66 @

ルート66はシカゴからロスアンゼルスまで約4000Kの米国初の自動車道路だ。
1920年代に開通し、インターステイト・ハイウェイに代わるまで、第二次世界大戦後もアメリカ中部と西部をつなぐ国道として使われたマザー道路とも呼ばれる、いわば日本なら国道1号線に相当する大動脈なのだ。イリノイ、ミズーリ、カンザス、オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアの8州を貫いている。
スタインベックの「怒りの葡萄」では、砂嵐で穀物が壊滅したオクラホマ州の農民家族がぼろ車に家財道具一式を積み込んで、果物が実るカリフォルニアを目指した涙と苦難の道路として描かれている。そんな歴史ある道路も今は通る車も減り、沿線のガソリンスタンドやモーテルはつぶれたものも多く、その残骸が歴史の跡をしのばせる。古き良き時代をなつかしむ人たちが最近はこの道を辿ることも多くなり、日本の街道歩きに似た現象が起きている。妻にとってもルート66は大好きなエルビス・プレスリーが売り出し中の頃、カリフォルニアへ通った道でもある。後期高齢者直前の私にとって長距離ドライブの最後の機会と考え、全線走破に挑むことにした。(2018年6月)

          
 写真左・ルート66は1926年から1964年まで  写真右・バイク用ルート66道標
 

  借りた車は日産アルティマ

ルート66を走るに四駆が望ましい。なぜなら舗装が完全でないダートの道や坂道も多いからというが、レンタカーで四駆を手配するのは至難なので二駆を手配した。当日、渡された車は日産アルティマ、コンパクトではあるが日本車なので安心だ。この車は本当によく走ってくれた。途中、アリゾナでダートで猛烈な凸凹道にはまり込んだときは何度もお腹を打って、どこかに穴が開くのではないかと思ったが、大丈夫だった。パンクもせず最後まで障害なしに、ルート66約4000K、途中のペイジ、セドナに立ち寄ったり、ルート66後のヨセミテやシリコンバレーを廻ったのが約2000K 、計6000Kを無事走ってくれた。さすが、アメリカ生産ではあるが日本車だ。返す前に40ドルも払って洗車したが、借りる前よりきれいになって、返すことができた。

      
  写真左・
こんなダートの道も走った      写真右・走った距離は6300キロ
 

  シカゴからセントルイスまで・イリノイ州

羽田からANAでシカゴに着いたのが7日の朝、早速レンタカーで五大湖のひとつミシガン湖に面するシカゴ中心部のジャクソン通りに向かった。NAVI が導いてくれた。昔はこの通りがルート66の起点になっていたが、今は一方通行でお終点になってしまい、隣のアダムスが出発点である。
Historic Route66 Startの標識を探したが、見つからず、やむなくジャクソン通りにあったEndの標識を写真に撮った。
最初の日なので、今晩の宿はルート66沿いの郊外にあるベストウェスタンのモーテルを予約しておいた。ルード66を走るための道路詳細が載っているガイドブックを事前に入手していたが、走ってみると、細かい曲がり角などガイドブックには書いてあると思うが、運転しながら読むことができない。NAVIは目的地への最短ルートを示し、ルート66を通るとは限らない。ルート66専用のNAVIもあるのだろうけれでも入手できなかった。こんなわけで、最初から思うようにルート66を走れないのだ。所どころにHistoric Route66の標識もあるが、十分でない。そこで作戦変更、ポイントをNAVIで指定してそこへ行ったら、しばらくはルート66を走り、??になったら、次のポイントを指定するやり方で走ることにした。今日の宿はベストウェスタン・シカゴカントリサイド

           
   写真左・ENDとなっているが始発点    写真右・最初の宿はBEST WESTERN
 

  ルート66は韓国人、日本人に人気

ハイウェイ55を走って、ポイント方式でOdellで下りてルート66を少し走ると古いガソリンスタンドがあった。今は土産物屋になっていて、ルート66グッズを売っていた。プレートを買った。そのまま旧道を走るとPontiacの村に入り、Old Log Houseという食べ物屋があり、雨の中を走って入り、ここで昼食。食堂にはルート66関連のいろいろなものを並べていたがその中にKorea Chapterの写真があった。
ハーレーダビットソン関連の韓国の団体らしい。日本人のバイク仲間での旅も写真にあったが、オートバイでのルート66の旅もはやっているらしい。
リンカーンが大統領になった当時、住んでいたスプリングフィールドの町をちょっと見て、今日は雨でもあったのでセントルイスまで行くことにした。これで一日稼げるので、後が少し楽になる。夕方のセントルイスのハイウェイはおびただしい車が走り、中心部を抜けるのに苦労したが、ルート66方向の郊外にやっと出てホリディインを発見、ハイウェイを下りて行ってみたが満員、通りの反対側にDrury Inn&Suitesという初めて見るモーテルがあり聞いたらOK,しかも夕食も出るという。ビールもタダで飲めコスパが高い。ここはよい。

      
  写真左・ODELLのガソリンスタンド     写真右・Old Log Cabinレストラン
 

6月24日 八子ヶ峰全山縦走

HP時代に同僚だった荒川さんが定年後の楽しみのひとつに山登りがしたいとのことで、蓼科の山荘に来た。ニュージランド以来の山登りグループの森さん夫妻と山内さんも誘った。森さんは、今夏、穂高を目指すとかで、そのトレーニングも兼ねている。天狗岳か八子ヶ峰で逡巡したが、八子ヶ峰全山縦走にした。全山はだいぶ前に1回やったことがある。4時間くらいと記憶している。山荘を出てしばらくは別荘地内の道路歩き、30分くらい歩いて、こぶし3号線の登山口に着いた。ここからしばらく急な登りが始まる。秋のキノコ狩りに来る定番コースでもある。数年前にムラサキシメジを見つけたことがあり、それから毎年来るが、それ以来、お目にかかったことがない。そんな斜面を登って行く。しばらくぶりの登山道のせいか苦しい。足元もおぼつかず、時々、後ろに反り返ってしまう。中腹からゆるやかになるが、足を出すのがつらい。
 

広葉樹林からカラマツ樹林に入ると、いつものショートカットコースとの合流点が近い。やっとのことで、慣れ親しんだ地点にたどりついた。大バテである。山荘を出てから3時間。ここからはいつもの道、尾根歩きのゆるやかな草原に出て、あとは快調に終点のハーベストを目指す。八子ヶ峰西峰を過ぎ、ハーベストへの道に入るのも久しぶり、意外と痩せ尾根を歩くことに気がついた。結構ここから長く、ハナイグチのキノコがよく採れる別荘地帯を過ぎた。ここで安心したのか、前へ大転びした。すぐ起き上がれたが、そのまま立ち上がれなくなったら終わりだなと自覚した。やっと着いたハーベスト。合計6時間、予想以上に長かった。21000余の歩数だった。ああ疲れた!!

      
   写真左・レンゲツツジ、最後の群落       写真右・歩いた仲間
 

6月13−14日 裏磐梯高原ホテル

村上からの帰りは磐越道を通って、裏磐梯に行った。お目当ては裏磐梯高原ホテルである。なんかの旅番組で紹介されていた皇室御用達のホテルとか。上高地の帝国ホテルや、他の山岳ホテルに比べて、知られていないホテルだ。行ってみてビックリ、外観がもろ山岳ホテルの趣きなのだ。
ログではないが、木材を貼り詰め、屋根も上高地帝国ホテルのような外観、ロビーに入ると前面に広がる湖、その向こうに磐梯山の爆裂火口、湖・弥六沼はこのホテル専用だという。広くて、いっぱいの図書が並ぶ宿泊者専用ラウンジ、部屋からも湖が目の前、温泉露天風呂からも湖面が望める。余裕のあるすばらしい雰囲気のホテルだ。しかし、旅の本にも出ないこのホテル、聞くと経営は竹中工務店とか、なぜゼネコンが? 磐梯山が明治以降に爆発し、この地に沼が現れ、温泉も沸いた。ここにひなびた宿ができて、太平洋戦後にその宿を建て替えようと竹中工務店が受注したが、工事開始直後に施主が破産してしまった。施工の竹中工務店が引継ぎ、施主と施工が同一になったのがホテルの始まりとか。その後、今の形の山岳ホテルに建て替えて、多くの皇室の方々を迎え入れるようになったとのこと。ホテルの従業員の対応も丁寧。すばらしい隠れた名ホテルと言えよう。少し歩いた五色沼湖沼群も美しかった。

      
    写真左・裏磐梯高原ホテル           写真右・弁天沼
  

6月12日 村上の法事

コロナで延び延びになっていた二つの法事で故郷村上に行った。三年前に亡くなった医者の叔父と私を母代わりに育ててくれた叔母である。叔父は息子の私といとこの医者がやるが、板垣家に嫁いだ叔母は板垣家にやれる人がいなくなってしまい、代わりに私が喪主をつとめることになった。お寺も板垣家は東林寺、小田家は長楽寺と違う。まず東林寺で叔母の三回忌をやった。このあとの板垣家の慰霊は誰がやるのか気になるところだ。そのあと長楽寺に移動して、叔父の三回忌だ。昨年暮れに亡くなった叔父の奥さんの納骨も同時に行った。小田家の墓は塩野町の寺騒動で、村上へ一昨年移したばかりで新しい。長楽寺は庭園が美しく、この地域の庭園巡りのひとつにもなっていて、この日も庭見物の観光客が来ていた。ふたつの三回忌、納骨の三つのイベントを終えて、身内だけで能登新でお昼をとった。昼懐石とかで村上の鮭の味一式が少しずつ盛られて、村上の味を堪能できた。縁側には村上の名物、鮭吊るしが何本も吊るされていた。腹は切り裂かず、真ん中を残している。切腹を嫌った村上藩の遺産である。

      
      写真左・長楽寺の庭          写真右・村上名物”吊るし鮭”
  

6月5日 今年も採れたネマガリダケ

奥志賀の山菜採りの日、昨日はスキー場のリフト下で蓼科には見られないシオデやタムシバの花をたくさん収穫した。ウドも出ていた。今日はチシマザサの下に生えるネマガリダケが目的だ。幸子さんに案内してもらい、これぞと思うチシマザサの繁みに潜り込んだ。ある程度まで笹薮をくぐり下りてから、上へ向かって這いつくばって上がって行く。そうすると、土の中から出始めたタケノコが見つけやすい。タケノコは土の中から上へ向かって伸びてくる。10cmくらい出てきているのがちょうどよい。タテにぽきっと折る。あまり土の中まで掘って折る必要はない。タケノコの先っぽの方がやわらかくておいしいのだ。それがわからず土の中を掘り返して根元近くで掘っていたが、あとで意味のないことをやっていたのを知った。ウドもそうである。葉に近い上の方を食べるのだ。笹薮を下へ、右へと動いていたら下に道路が見えた。別荘地へ行く道路の近くまで下りていたのだった。ここで上へ向かって這って行く。「オーイ、オーイ」と上から呼ぶ声が聞こえる。「もうそろそろ上がろう」との合図らしい。上へ上っていくとタケノコ群落を見つけ、そこで止まってしまった。そのかたまりを収穫して、やっと山道に出たら他のメンバーはかなり先の方にいた。動いているうちに方向感覚が狂ってしまうらしい。

      
    写真左・ネマガリダケ収穫       写真右・リフト下の山菜収穫
  

6月2日 シジュウカラ、無事巣立つ

4月末の連休前に郵便ポストにシジュウカラが巣を造り始めて1ヶ月余り、卵を数個置いたのが連休明け、それから親鳥が一生懸命温めてふ化し、ひな鳥が生き延びて、今日来てポストを開けたら、4,5羽のひな鳥が折り重なるように巣の中にいた。もうそろそろ巣立ちらしい。親鳥がベランダの前の木に止まり、しきりに鳴いている。「どけ!」と言ってるらしい。ポストを閉めてガラス窓越しに見ていると、二羽の親鳥が交互にポストにエサを運んでいるようだ。二羽ということは母鳥と父鳥だろうか?オスも一緒に子育てをするのだろうか。一羽がポストに入ると、もう一羽はすぐ後で羽をバタバタさせながら待っている。ひな鳥もかなり大きくなってきているので食欲旺盛らしい。そんな状態が三日ばかり続き、静かになったなと思ってポストを開けたら、も抜けの空であった。みんな無事に巣立ったらしい。今年も時々のちょっかいにもめげず、子育てを完了した。来年もまたやってくるのだろうな。

      
     写真左・巣立ちまじかのヒナ        写真右・危険察知の親鳥
  

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5 月

5月30日 海外、思い出のドライブ旅  大草原の小さな家

最近でもBSTVでは時々、「大草原の小さな家」が放送される。まだ鉄道が走っていなかった頃、アメリカ西部は移民者の憧れの地だった。より良い生活を求め、多くの移民が馬車や牛車で家族と一緒に西部を目指した。この物語はそんな家族の日々の生活を描いた記録である。インガルス家が歩いた道をできるだけ物語に忠実に辿ってみた。ウイスコンシン、カンザス、ミネソタ、サウスダコタ、ミズーリとアメリカ中西部を移り住んでいた。今の時代では、車がないと辿れない旅である。但し、旅程の関係で、実際には最初の訪問地は著者ローラ・インガルスがさ最終的に落ち着いたミシガン州マンスフィールドから私たちの旅は始まるのだが、ここではインガルス一家の辿った旅に編集している。

      
  写真左・ドラマの大草原の小さな家       写真右・ローラ著作開始の碑
 

インガルス家はサウスダコタ州のデスメットの町に落ち着いた。お父さんはもっと西部へ行きたかったようだが、お母さんはここを終の棲家にすることを望み、街中に家を建てた。ローラはこの町で、アルマンゾ・ワイルダーと結婚した。そして二人の新天地を求めてミズリー州に移り住むことにした。二人での馬車の旅が始まった。
私たちの「大草原の小さな家」巡りのドライブ旅はカンザスシティからミズリー州へ向かうことにしたが、そこへ行く前に西部開拓の歴史を記念する博物館に寄ることにした。           カンザスシティの半分はミズリー州に入っている。その郊外にインデペンデンスの町がある。
ここはオレゴントレイルの出発地だった。それを記念する博物館もあり、隣にはOCTA(Oregon California Trail Association)の本部もある。まさに西部開拓の始点だ。展示している物は他のトレイル博物館と大差ないが、出発点のミュージアムなので感慨深い。じっくり眺め、庭も散歩し、OCTAの事務所の中も覗いてからローラ・インガルス、「大草原の小さな家」執筆地であり、終焉の地でもある。ミズリー州マンスフィールドに向かった。泊りは森の中のキャビンである。
  

マンスフィールドはローラにとって最後に幌馬車の旅をして夫のアルマンゾ・ワイルダーと娘のローズと落ち着いた町というより村なのだ。だから「大草原の小さな家」物語の最終章なので、順番は逆なのだが、次の旅程を考えるとここからスタートした方が都合よいので、マンスフィールドから始めた。宿のキャビンから400mの所にローラ家族が住んでいたロッキー・リッジ農場があり、自宅が今は「ローラ・インガルス記念館」になっている。家はアルマンゾ自らが森の木を切って建てた。台所の棚なども手作りだ。ローラ自慢の台所だ。ここで彼女は65歳になったとき、娘のローズの励ましと勧めで彼女の家族の西部開拓の旅を書き、出版することになった。
「小さな家(Little House)」シリーズは9巻に及び、その物語は開拓民自らのフロンティアヒストリーであった。アメリカ国民必読書として、学校の教科書になった。だから今でも小学生や中学生がいっぱい訪れる。館内には物語に出てくる父さんのギター、マンスフィールドで土地を買うために大事にしまってきた100ドル紙幣が消えた筆箱など実物が展示されていた。(この100ドル札は筆箱の下に移動していたのをローラが発見し、大事に至らなかったのだが)。

      
    写真左・ロッキーリッジの家    写真右・ワイルダー家の墓、ローラもここに眠る
 

<次のペピンの前に、西部劇スターと「マジソン郡の橋」の町に立ち寄った>
インガルス家一家の旅の始まりのウイスコンシン州ペピンははるけくも遠い。途中で泊る必要があるので、そこをアイオワ州のウィンターセットという町にした。ウインターセットは西部劇の大スタージョンマンスフィールドから約300マイル、500キロのドライブで、朝8時半に出発し、ウインターセットの町に入ったのが午後4時半、あと30分でジョンウェイン記念館は閉まる時間だ。宿より先に直行し、閉館ぎりぎりでガイドツァーに参加することができた。薬屋の息子だったジョンウェインの家はとても小さく、以前行ったエルビスプレスリーの生まれた家を彷彿とさせた。ショットガンハウスである。
 

ジョンはここに3歳までしかいなかったので、その後、帰ってくることはなかったようだ。見学したあと、この日の宿、B&Bにチェックイン。まだ日没まで間があるので「マジソン郡の橋」の舞台になったローズマンブリッジに行くことにした。屋根のかかった橋である。この橋にクリント・イーストウッド演じるキンケイドをメリル・ストリーブ演じるフランチェスカが案内したことから、二人の四日間の愛が始まるのだ。そして20年後、フランチェスカ(メリル・ストリーブ)が亡くなったとき、後片付けをしていた子供たちが母の死の前に届いていたキンケイド(クリント・イーストウッド)の手紙と遺灰を見つけ、母の遺灰と一緒にローズマン・ブリッジから川に撒き、20年間ふたりで温め続けてきた愛がようやく実るのだ。そんな思い出の橋を見ての帰り、夕食に入ったのはノースサイド・カフェ、ここも二人で待ち合せをしようとしていたカフェで、名前もそのままで映画に出てくる。この町は古き映画ファンには欠かせない町なのだ。

      
   写真左・ジョン ウェインの生家      写真右・「マジソン郡の橋」撮影地
 

5月28日 優勝がかからない早慶戦

優勝がかからない早慶戦は見る気もなかったが、「弱いときこそ応援しなきゃ」と言う、慶応出の先輩に誘われて、神宮に出かけた。両校とも優勝の芽はなくなったが、晴れた神宮には予想以上の観客が来ていた。さすが、早慶戦である。と言っても、現役学生は野球目的ではなく、サークルの新人歓迎を兼ねて、試合後の呑み会目当で集まっている輩も多いのだ。
始球式に13歳のハンディキャップを持った国久君が小さい体で、ノーバウンドで捕手のミットに納まったときは大歓声が上がった。ハンディキャップ支援で慶応野球部は野球好きの子供を準部員として迎え、週末には一緒に練習をしているという。始球式を終えた国久君の笑顔が美しい。すばらしい支援だと思う。早稲田は50年に1度の不作と言われているが、7-2で予想通りの負けであった。秋に期待するしかない。

      
       写真左・国久君の始球式         写真右・応援団は左の外野席、
                                学生の応援は右の内野席
  

5月21日 都電荒川線散歩

岳文OB会企画の荒川線散歩に参加した。10人ほどで都電1日パス400円を買い、まずは鬼子母神で降りた。鬼子母神参りは初めてだ。子宝・安産の神様とかで、娘の10月の安産を祈願した。
ここに行く通りに手塚治虫がアトムで売り出した頃、住んでいた家がある。今は都の登録文化財になっている。次に庚申塚で降り、巣鴨とげぬき地蔵へ行った。ジジババの原宿と言われる商店街には年寄りが好きそうな甘味屋や洋装店が並んでいる。ユニクロならぬババクロ、ジジクロショップだ。この巣鴨地蔵商店街の通りは旧中山道なのだ。日本橋をたち、ここを通って最初の宿場、板橋宿へつながる通りなのだ。そのあと、飛鳥山で渋沢英一記念館を見学し、ここで解散。大半の人は早稲田へ戻って、打上げ宴会に行った・楽しい散歩であった。歩数は1万歩だった。

      
   写真左・とげぬき地蔵商店街         写真右・チンチン電車
  

5月14日 下社の里曳き

春の恒例行事「山菜採り」に4人集まった。ちょうど下社の御柱里曳きに重なったので、前日13日の小雨の中で山菜狩りをして、今日は下諏訪へ御柱見物に行くことにした。車を市役所に置いて、電車で下諏訪へ。結構乗っている。下諏訪の駅から春宮を目指して歩いた。しかし、春宮には氏子しか入れないということなので、春宮への木落としを行う道路に上がってみることにした。本来の木落とし坂から春宮へ続く道はこの上にあるはずだと前の御柱祭の経験から推測して行ってみると当りであった。通りから、春宮へ入る側道の付根に出た。ちょうど春宮二の御柱が側道へ曲がる直前の所で大休止をとっていた。待つことしばし、木やりの歌声とともに太くて長い御柱が、大曲がりしながら側道へ入って行く。武藤夫妻と深水さんは初めて見る御柱曳航に感動していた。下社の御柱には左右横に張り出すメドデコがなく、ラッパ隊もいない組も多いので、派手さに欠ける。両方そろう上社の里曳きの方が見ごたえがある。6年後に期待しようと話しながら、帰ってきた。

      
     写真左・春宮二の御柱隊          写真右・下諏訪駅
  

5月7日 よその家の水仙

山荘前の4号線を歩いていくと右手に急な壁地の上に別荘がある。その壁地を利用して、段々にスイセンが植えられている。もう見ごろは過ぎたが、まだいっぱい花が咲いている。わが家のスイセンは鹿に食べらえて、今年は二輪しか咲かなかった。ところがここのスイセンはみごとに咲いている。違いは段々の壁地であろう。これだけ急だと鹿も近寄りがたく、近づいたとしても食べにくいのだろう。柵などしなくても、急斜面に植えれば、どんな花でも大丈夫なのではなかろうか?スイセンは毒なので、鹿は食べないというのはウソだ。球根には毒があるので食べないが、花になると毒は薄まってしまうのか、慣れてくるとどんどん食べられてしまうのだ。

      
  写真左・きれいに咲いてるよその水仙   写真右・わが家は水芭蕉だけが無傷
  

5月4日 上社の里曳き

木下家のお父さん、お母さん、裕紀君を里曳きに案内した。高速バス駐車場に車を停めて、そこから宮川伝いに前宮方面へ歩いていった。御柱屋敷をちょうど最後の前宮四の御柱が出るときだった。ラッパ隊の響きが大きく聞こえ、御柱祭の雰囲気が伝わってくる。通りに出ると米沢・北山・湖東の我が地区の御柱がその前にいて、威勢よい響きをかきならしている。ラッパ隊にもうまいへたがあり、我が地区はメロディに変化があり、そろっていていちばんうまいのではないか。前宮へ近づくにつれ、人も増え、前宮一の御柱が前宮への急坂へ挑もうとする直前だった。ここでは国道から急角度で御柱を鳥居に曲げて、そこから一気に急版を引っ張り上げる工夫が必要な難所である。まずはメドデコに人を載せたまま鳥居をくぐるので、ぶつからないよう左右に御柱を振りながら進まなければならない。これが第一関門だ。前宮一はここをうまくクリアして、小休止、そこから急坂を引っ張りあげるが一気にいかない。途中で止まり、前部に人を増やして、やっと引っ張り上げた。こんな所に、今回の地元の氏子だけ参加という制約が利いてきてしまうと実感した。東京や名古屋に行った地元の若い人を呼べないというのが痛い。茅野高校の同窓会も今年はやらないのだろうな。いつも御柱のときやっているのだが...。

      
     写真左・上社御柱は派手     写真右・前宮鳥居に向かう前宮一の御柱
  

5月3日 木下家、蓼科に集合

下の娘が木下浩紀君と結婚したのが一昨年、去年の5月連休にご両親に蓼科の山荘に来てもらうことにしていたのだが、コロナ落ち着かず、直前で断念。そして今年になった。今年はコロナも下火となり実現した。景ちゃんと裕紀君は1日から来ていたが、ご両親は今日、到着。松本に泊り、松本城に行ったが混んでいて、あまり見れなかったとか。ビーナスラインを通って、3時過ぎに到着、まずは温泉に行ってから、夜の宴会が始まった。福寿屋にまだ残っていた真澄のアラバシリが殊の外うまい。木下のお父さんはビールばかり が良いよう。アサヒのスーパードライが好きと言う。木下家と小田家の親類付き合いのスタートに乾杯!

      
  写真左・木下家・小田家がそろった       写真右・ベランダの食卓
  

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4 月

4月30日 海外、思い出のドライブ旅  大草原の小さな家

最近でもBSTVでは時々、「大草原の小さな家」が放送される。まだ鉄道が走っていなかった頃、アメリカ西部は移民者の憧れの地だった。より良い生活を求め、多くの移民が馬車や牛車で家族と一緒に西部を目指した。この物語はそんな家族の日々の生活を描いた記録である。
インガルス家が歩いた道をできるだけ物語に忠実に辿ってみた。ウイスコンシン、カンザス、ミネソタ、サウスダコタ、ミズーリとアメリカ中西部を移り住んでいた。今の時代では、車がないと辿れない旅である。但し、旅程の関係で、実際には最初の訪問地は著者ローラ・インガルスがさ最終的に落ち着いたミシガン州マンスフィールドから私たちの旅は始まるのだが、ここではインガルス一家の辿った旅に編集している。

      
  写真左・ドラマの大草原の小さな家    写真右・ドラマのローラ・インガルス
 

私が大学生の頃、テレビで放映されていた「大草原の小さな家」の舞台はミネソタ州のウォルナット・グローブだったような気がする。ローラがやんちゃ盛りの小学校の頃だったので、物語としてはちょうどよかったのかもしれない。しかし実際はこの村にはインガルス家は1874年から2年間、1877年から1年間の足かけ3年間しかいなかった。最初の2年間はバッタの大群にやられせっかく育った穀物が全滅、その後1年半くらいは知人のホテルを手伝いにアイオワ州のバーオークに行き、西部開拓の夢、忘れられず再びウォルナット・グローブに戻ってきている。
  

この村では最初、洞穴の住居に住み、その後は家を建てた。その洞穴のレプリカがローラ・インガルス記念館の敷地にある。英語ではダッグアウトと言う。野球のダッグアウトが半地下の場所にあることを考えると、語源はこのような洞穴にあるようだ。現実にあったサイトはもう崩れ落ちてしまっているが、プラムクリークの岸辺や草原は物語の光景を十分に思い出させる。ここでローラはやんちゃな子供時代を送っていたようだ。
1879年、父さんが鉄道工事の仕事を見つけて働いていたサウスダコタ州のデ・スメットへその当時通じたばかりの汽車で移住し、ウォルナット・グローブを離れた。そんなに長い期間住んでいたわけではなかったが、テレビドラマの影響か、この村のインガルス家への入れ込みはすごい。記念館も立派だし、毎夏には昔のテレビの出演者を呼び、ローラ劇場も開催するなど、「大草原の小さな家」を村の観光資源として十分に活用している。

      
  写真左・ウォルナットグローブの街看板     写真右・Dougout洞穴住居
 

サウスダコタのデスメットはミネソタのウォルナット・グローブから100マイルほどの距離。父さんが鉄道工事の管理の仕事を引き受け単身で出かけ、数か月後に家族を呼び寄せた。そのときは既にデスメットまで延伸していた汽車に乗って引っ越した。もう西部開拓の時代も馬車から汽車に変わっていたのだ。このデスメットでインガルス家は土地をホームステッド法(自営農地法)で、ただで取得し最終的にこの町に落ち着いた。ローラはここでアルマンゾ・ワイルダーと結ばれることになるのだが、彼女一家はさらにミズリー州のマンスフィールドへ移住した。デスメットでの第一号の開拓移民だった父さんは、教会や町の仕事で何かと頼られる人材となっていった。落ち着くまでの何年間は7ヶ月も続いた厳しい冬やローラの家の火事や、生まれた男の子の死など、波乱が続いたが、子供たちが大きくなるにつれ、インガルス家に落ち着いた幸せがやってきた。ローラの「大草原の小さな町」や「長い冬」など、この町を舞台にした作品はいくつもある。そしてローラはこの町出身の最大の偉人として讃えられることになる。
ここもまたウォルナット・グローブ同様、インガルス家一色で夏休みは家族連れでにぎわう。町自体も開拓時代の雰囲気を残し、駅前通りの各建物には130年前にそこが誰の店だったのか、掲示板が貼られている。中山道の宿場のようだ。ここに二泊し、インガルス家の家や農場を見て廻った。アメリカの西部開拓の歴史をひとりの家族を軸にして見てきたこの一週間はとても感慨深いものがあった。

      
  写真左・父さんと母さんの最後の家     写真右・インガルス家の自営農地
 

4月30日 山荘にも春が来た

ようやく寒かった蓼科にも春が来た。来たと思うと速い。もう聖光寺の桜は満開から散り始めに変わっている。わが家の小さな桜も満開だ。と言っても、ヒョロヒョロと上に伸びた桜の木に小さな花をつけているだけなので、うっかりすると見落としてしまいそうだ。
郵便ポストにも恒例の小鳥の巣が作られている。ただ造り始めの先々週に開けてしまったので、その後、寄り付かなくなってしまった。卵を置いてからなら何度開けても小鳥は卵を温めに戻ってくるが、まだ巣作り初めで卵がないときに開けると、寄り付かなくなってしまうようだ。今年はヒナを見れないのが残念だ。水仙もつぼみがいっぱいあったのに鹿に食べられたらしく、今日来たら2輪しか咲いていなかった。

      
       写真左・春の山荘          写真右・細かく咲く桜
  

4月19日 今季、初めての八子ヶ峰

昨日の雨が上がりきれいに晴れた今日、今シーズン初めて八子ヶ峰に登った。雪が残って歩ききれそうもないようなら、戻ってこようと思いながら歩き始めた。思いのほか順調に縦走路まで上がった。ここで大休止、やはり疲れを感じる。年取ったな。稜線沿いの道は雪もなく快適だ。蓼科山もきれいに見える。アルビレオヒュッテを越して森の中の下り道に入ると雪が道をふさいで歩きにくくなった。ツーインワンスキー場の上部に来ると雪が結構残っていて歩きにくい。それでも快調に越してスキーリフトまで来た。まだリフトに椅子がかかっていたので、それに腰かけて八ヶ岳から南アルプスへの景色を堪能した。西峰から東急リゾートのコースを下り、西登山口に下りた。ここから15分ほど歩いて車に戻った。所要3時間、まあ歳相応なコースタイムだ。八子ヶ峰歩きは、老化進行状況のよいバロメーターだ。

      
 写真左・蓼科山冠雪とヒュッテアルビレオ   写真右・リフトの向こうに北アルプス
  

4月17日 須坂の桜

早朝スキーのあと、須坂の版画美術館に立ち寄った。人形博物館と一緒にあり、大きなひな壇にいっぱいのお雛様が壮観だ。その後、菅平越えの道に入った。途中の小川沿いの桜並木がみごとなことは以前ここを通ったとき知ったので、再び期待して通ったところ、まさに見ごろの満開である。車を停めて、しばし満開の桜をめでた。信州の桜は美しい。高遠もいいが、このような名もない道沿いの桜もいいものである。

      
      写真左・須坂大ひな壇         写真右・須坂の桜並木
  

4月17日 奥志賀の早朝スキー

今シーズン最後のスキーは、奥志賀週末早朝スキーである。朝6時半から8時までの1時間半、週末だけのサービスで奥志賀エクスパートコースが開放される。圧雪車できれいに整えられたゲレンデを滑るのは、ことの他楽しい。ただ年と共に転ぶのがこわくなり、急斜面はシュテムターンで曲げなければならないのが残念だ。この早朝スキーだけのために、昨日の夕方ブルーエに着いた。この季節には珍しく、2組のお客がいた。1時間半1700円のリフト代がかかるが、締まったゲレンデのスキーは最高のしめくくりになる。エクスパートコース3本、う回路の森の中のコース3本、滑って今年のスキーは終った。

      
   写真左・奥志賀エクスパートコース    写真右・斜面に張り付くスキーヤー
  

4月13日 武藤先生、ご苦労様

早稲田の武藤先生が定年を迎え、今日、阿波踊り仲間でのご苦労会があった。場所は都電荒川車庫前のふじ屋、先月も来た所だ。ここは気軽に楽しく呑めるところだ。武藤先生とは花の木連のつきあいだ。最後の連長でもあり、いつもゼミの学生を阿波踊りに借りだし、スタッフとして働いてもらうのだった。この学生たちも、今は社会の第一線で活躍している。セコムの役員になった者もいる。またゴールデン街の花の木の常連の先生でもあり、いつも左奥の席に鎮座していたものだ。花の木の蓼科パーティでは、鴨肉の切り落としの担当だった。その縁で、今も山荘の山菜狩りやキノコ採りに来てくれる。阿波踊りは引退されたが、呑むことを通じて花の木連、中々連との絆が続いている貴重な大学教授なのだ。ほんとうにご苦労様でした。

      
    写真左・武藤先生にバラ一輪贈呈       写真右・おいしいワインもあった
  

4月13日 コロナ明けの早大構内

都電に乗る前に、早稲田の校内に入ってみた。コロナの頃は門も閉ざされ寂しかったが、この春は学生がいっぱいだ。大隈講堂前にも、大隈銅像付近にも学生がワンサといる。サークルの呼び込みも活発のようで、あちこちで名前やスマホの番号を聞き出している光景が新学期らしい。大隈庭園に入ってみると、芝生に多くの学生がなごんでいた。韓国の校友から贈られた、大きな鐘楼があるのを初めて知った。たまに母校の校内を歩いてみるのも楽しいものだ。

      
   写真左・ 賑やかになった大学校内       写真右・紺碧の空歌碑
  

4月10日 六大学野球開幕

春は神宮の六大学野球で始まる。試合を見るのも楽しいが応援団のブラスバンドも楽しいのだ。今年の早稲田は何十年来の投手の不作で、東大が早稲田なら勝ち点をあげられるかも、という状況らしい。そんな弱い早稲田も応援しに行くのも楽しいではないか。初戦の慶応ー東大は、順当に慶応の勝ち。次の早稲田ー法政は、意外にも接戦、9回にホームランが出て1点差まで詰め寄ったが、4ー3で法政が接戦を制した。残念ではあるが弱いと言われていたので、あまりガックリしない。驚いたのは早稲田の応援団がいないこと。直前にコロナが発生し、自粛となったとのこと。法政だけの応援になってしまったが、エール交換では法政の応援団が「都の西北」を演奏してくれ、1回と9回の早稲田の攻撃のときは「紺碧の空」を響かせてくれた。早稲田の応援席から拍手喝采、粋なことやるね。法政に感謝である。

      
     写真左・いよいよ試合開始      写真右・二日目に復活したワセダ応援団
 

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3 月

3月31日 海外、思い出のドライブ旅  大草原の小さな家

最近でもBSTVでは時々、「大草原の小さな家」が放送される。まだ鉄道が走っていなかった頃、アメリカ西部は移民者の憧れの地だった。より良い生活を求め、多くの移民が馬車や牛車で家族と一緒に西部を目指した。この物語はそんな家族の日々の生活を描いた記録である。
インガルス家が歩いた道をできるだけ物語に忠実に辿ってみた。ウイスコンシン、カンザス、ミネソタ、サウスダコタ、ミズーリとアメリカ中西部を移り住んでいた。今の時代では、車がないと辿れない旅である。但し、旅程の関係で、実際には最初の訪問地は著者ローラ・インガルスがさ最終的に落ち着いたミシガン州マンスフィールドから私たちの旅は始まるのだが、ここではインガルス一家の辿った旅に編集している。

        
  写真左・ドラマの大草原の小さな家    写真右・ドラマのローラ・インガルス
  

ミシシッピ川対岸のウイスコンシン州に渡るには町のはずれの橋を渡って、左に行けばペピンに行けたのに、交差点を直進してしまい、しばらくミネソタ側を次の橋まで走るはめになってしまった。やっとウイスコンシンに入り、左へ曲がるとペピンはすぐだった。道路沿いの観光案内所のような所がローラ・インガルスミュージアムだった。そこであらましを学習し、ローラが生まれたサイトにドライブした。町から離れること7マイル、今は畑地帯になっている平原の一角にログハウスが建っていた。二回建て替えたというだけに比較的新しい大きめの小屋だった。寝室も独立してあり、きちんとしている。1867年にローラはここで生まれた。2年後にカンザスへ移住し、その2年後にはまたここに戻ってきている。近くにはおじいさん、おばあさんの家もあり、親族に囲まれた安心できる場所だった。
しかしインガルス家の父は自分の広い土地を持ちたく、西部開拓の夢多き野心家だった。物ごごろついた頃のローラも幌馬車で旅することが大好きなフロンティア娘になっていた。一方、母や姉さんのメアリーは教会や学校のある近くに住むことを望む都会派だった。その両方を実現すべく、インガルス家はここを起点にして開拓の旅を続けたのだ。すべてがここから始まった。

      
 写真左・ローラが生まれた家(レプリカ)      写真右・インガルス家記念館の内
  

インガルス一家の西部開拓の歴史はウイスコンシン州のペピンから始まる。そこから3か月もかけて辿りついた地がカンザス州インデペンデンスだ。今でも小さな村のまま残っている。
ローラがまだ2歳のとき、一家はインデペンデンスに来た。ここに小さな小屋を建て、一家だけの開拓の生活が始まったが、長く続かなかった。たった2年で再びペピンに戻っている。理由は1869年当時のこの地はインディアンの土地として政府が決めてしまったから、立ち退かなければならなかったのだ。だからその家は取り壊されて無くなっていたが、1935年に「大草原の小さな家」が出版され人気を呼ぶと、地元が建っていた場所を調べ、その地に当時のレプリカを建てた。
大きさや雰囲気はローラに聞いたそうだ。やっと探し出して行った地には、とても小さな丸太小屋がポツンと建っていた。もう夕方で案内所も閉まっていた。ローラが幼かったこともあり、ここでの生活はあまりローラの日記には詳しく書かれていない。インディアンの問題がなければ、もっと長く住めただろうに。インガルス家の最初の挫折と言ってよい。

      
  写真左・カンザス・インデペンデンスの家   写真右・家の内部(レプリカ)
      (レプリカ)
  

3月30日 春が来た!満開の日野の桜

日野といえば、桜フィルムの小西六本社の桜が有名だが、多摩川沿いの清掃工場付近の桜がもっときれいだ。少し行きにくい場所なので、人は少ない。しかし知っている人は毎年来る桜の名所だ。掘割りの反対側は清掃工場群なので、それを隠すように流れを覆い隠すべく、両岸から満開の桜の枝が水面に張り出している。こんな風景が数百メートル続き、浅川と多摩川の合流近くで桜並木は終わる。
樹齢数十年だろうかのソメイヨシノの木は幹にも直接花をつけていて、まさに樹全体が満開なのだ。妻と数十分、美しい桜並木を歩いた。近くの日野高校のグランドでは、夏の甲子園を目指して練習に余念がない。ネットで隔てているが、道路に野球少年が立っていて、「こんにちは!」と大きな声で挨拶する。「球、飛んでくることあるの?」と聞くと、「めったにありません」と答える。野球の練習と満開の桜、これもまた早春の風物詩である。

       
   写真左・ゴミ処理場に咲く桜満開       写真右・こんな所にも咲く桜
  

3月24日 死ぬ思いの手術

昨年、運転免許更新のとき、再検査でひっかかり、適切な度の眼鏡に替えることを条件に免許更新できたといういきさつがあり、いやいやながら眼医者に行った。「かなり左目の白内障が進んでいる」との診断で、手術をすることになった。小さい頃から、目薬も入れられぬほどの目の恐怖症を持っている私にとっては重大事。それを話すと、先生は「病院で全身麻酔をかけて手術するしかない」と言う。それは大ごとなので、死ぬ覚悟を決めて局部麻酔で、今日、手術台に横たわった。目に照射されていることはわかる。メスのチリチリという音も耳に響く。血圧計を巻かれている左腕にも、右手にもぐっと力が入る。これでは血管が切れるのではと思い、力を抜く努力をする。こんな状態が続くと気絶するなと思った頃に、「チリチリ」の音は止まった。「終りました」の先生の声、生きている実感が蘇った。眼帯をして、フラフラしながら家に帰った。翌日、眼医者で眼帯をはずした時の、はっきり見える快感は忘れられない。視力は1.2に戻っていた。

      
    写真左・いとう眼科の入り口         写真右・いとう眼科はこのビル4階
  

3月13〜21日 「神戸・長崎の旅」
3月13日 神戸・早速、異人館へ

今日から神戸、長崎へ1週間の旅に出た。この歳まで、唯一行ったことのないのが長崎県、神戸は妻のお気に入りの異人館めぐり、二つを組み合わせて幕末維新史跡巡りの旅とでも言えようか。久々の新幹線で新神戸に着いたのが早い午後、異人館街の北野ホテルにチェックイン、すぐに異人館が建ち並ぶ北野の街に出た。まずは風見鶏の館、近くのもえぎの家、もえぎの家はアメリカ領事館であったらしい。急な坂を上がったところにうろこの館、いずれも明治に入って、外国との交易が長崎から神戸に拠点を代えてから建築されたものだ。
どの館か忘れたが、戦前住んでいた家族の娘が戦争で母国に帰国し、戦後になって年老いてから、忘れがたき神戸の家を再訪したという。多感な少女時代をすごした神戸はいつも心に残っていた楽しい時代であり、数十年ぶりのわが家訪問に涙したという。その後もしばしば訪れたという。この夜は、神戸牛を堪能した。

       
      写真左・風見鶏の館          写真右・うろこの館
  

3月14日 世界一の朝食

泊ったのは北野ホテル、「世界一の朝食」で名高い。バイキングではなく、テーブルいっぱいに並べられた、料理、ジュース。半熟卵も殻にはいったまま、上から金属の小さなボールを落として割る。ポトフ、生ハム、タピオカなどなど、パンもクロワッサン、フィナンシェなど多彩、余ったら持っていくようにと紙袋まで用意されている。ジュースも飲むサラダと称して野菜、フルーツなど5種類。
1時間以上かかる朝食となった。2泊したので、二度も世界一の朝食を味わった。二泊目の朝は卵料理がオムレツに代わっていた。このホテルは、異人館仕様でクラシック、部屋も広く、外のベランダも広い。神戸に来て以来、神戸牛や洋食ばかり食べ続けていて、翌日は無性に蕎麦がたべたくなった。異人館街に蕎麦屋は皆無、聞くと三宮まで行かなければないらしい。仕方なく2泊目の夕食は、ファミリーマートで蕎麦や冷やし中華を買ってきて食べた。この方が口に合う。

      
   写真左・北野ホテル世界一の朝食        写真右・北野ホテル
  

3月15日 唐津で江頭さんと会う

長崎に行く前に、江頭さんに会うことにした。HP時代の同僚で同い年、不動産部で、設備担当のエンジニアとして、大変お世話になった人である。定年退職後、実家のある佐賀県唐津に帰っていた。しばらくは元気だったが、糖尿病から透析を受ける体になり、かなり弱まったと聞いていた。「もう会えない」と、この機会に今生の別れを、と思って、博多に泊り、唐津を往復することにした。
博多から地下鉄、JR線を乗り継いで、唐津に夕方着いた。ここでスイカが使えるのに驚いた。迎えに来てくれた奥さんが運転する車で早稲田佐賀高校や虹ノ松原を見て鏡山へ、佐用姫伝説の像を見て展望台へ。夕日に輝く玄界灘は美しく、呼子へ続く海岸線はきれいだ。江頭邸へ行き、しばし歓談。江頭さんは思いのほか元気そうだ。透析後は疲れるが、それ以外は至って快調だという。これならまだ長生きしそうだと実感した。そのあと、娘さんも一緒に、行きつけのレストランへ行って、洋食コースをごちそうになった。江頭さんと行く店はほとんどが居酒屋だった。こんな洒落たレストランにも来るとは予想外であった。孫には金がかかるとこぼすが、うれしそうでもある。唐津の駅で別れるときに、「もう一回、東京で会いたいね。会えそうだね」と笑顔で話した。よかった、よかった。

      
   写真左・江頭さんと久しぶり一緒に        写真右・唐津の海
  

3月16日 何はともあれ”グラバー邸”

長崎本線・特急かもめで長崎へ直行。この線は初めて乗る。観光客よりビジネス客が多いようだ。諫早に着いたら、もう長崎は近かった。泊りはANAクラウンプラザ長崎、長崎駅から車で向かう。”何はともあれグラバー邸”というのが長崎観光のキャッチフレーズ、その前に四海楼でちゃんぽんをと思ったら、本日お休みとのことで、フロントで教えてもらった店へ行った。”本日はちゃんぽん、皿うどんのみ”なので、迷わず二人ともちゃんぽん。妻は、具材に何が入っているかわからず、不安な味だったと言う。私は気にならず、おいしかった。
そのあと、グラバー園へ、長崎は江戸時代の鎖国で海外に開かれた唯一の港町だ。グラバー邸のあたりは異人さんの屋敷が立ち並んだ異人街なのだ。江戸時代、通商を許されたオランダは出島に閉じ込められた世界が住む場所だった。しかし幕末になり、イギリス、ドイツ、アメリカが開国を迫りに来て、居住区域を広げる必要からこの長崎南山手地区をオランダ以外の国の居住区にした。グラバーはスコットランド人だった。時代が明治に入ると、さらに東山手地区にも広がっていた。今も両方の地域には多くの異人館が残る。しかし、日本が正式に開国してから、通商の中心は神戸、横浜に移り、異人さんも移っていき、長崎は寂しくなっていった。華やかな長崎の時代は幕を閉じたのだった。

      
      写真左・グラバー園入り口          写真右・グラバー邸
  

3月17日 軍艦島の子供たちは?

長崎でいちばん行きたかったのは軍艦島だ。端島が正式名だが、海から見る角度によって軍艦にも見えることから軍艦島が通称となった。元はここは、岩礁で周りをコンクリートで固め、そこに住居や学校、商店街を作った炭鉱島なのだ。ほとんどが作られた島、それを三菱鉱業が自力でやった。如何に石炭が金になっていたかを証明する場所だ。1900年頃から、本格的な採掘が始まり、岩礁も徐々にコンクリートで大きくなっていき、町が作られていった。
1960年には人口密度が世界一に達した。私が小学校4年のときだ。今でも私たちは小学校時代の同級会を故郷新潟でやっている。形は変わっているが母校にも立ち寄れる。半分以上の友はふるさとの実家に暮らしている。しかし軍艦島には今は誰もいない。暮らしていた日本最初の鉄筋高層住宅も廃墟になっている。学校も廃墟だ。ウクライナの爆撃後のアパートのような姿を島にさらしている。一緒に暮らし、学んだ人たちには帰りたくても帰れない、帰っても意味のない島になってしまった。同じ年頃の人たちはどんな同級会をやっているのかと思うと切ない。戦争とは違う廃墟になった故郷を見て、どう思うだろうか。崩れつつあるコンクリートビル群を眺めていると涙が流れた。

      
      写真左・軍艦島全景            写真右・すべて廃墟
  

3月18日 四海楼のちゃんぽん

朝から雨模様なので、近辺を歩くことにした。ホテルが建っている所は1865年に外人用のベルビューホテルがあったという。当時は最先端のホテルでこの敷地の中に日本初の電信施設が設けられたようだ。その前には香港上海銀行長崎支店の石造りの建物も残っている。当時の長崎港桟橋前の一等地だったのだ。香港上海銀行の内部は立派で、カウンターが昔の銀行らしく重厚である。南山手の坂道を上っていくと、立派な教会があり、その右手がグラバー園の入り口だった。その左手に大浦天主堂、中に入るには1000円必要だ。ヨーロッパの教会はどこも金を取らないのにな、と思いながら天主堂をバックに写真を撮って、入らなかった。
一昨日、食べ損ねた四海楼のちゃんぽんを食べに行った。大きなビル全体が四海楼。ちゃんぽんで建てたビルだ。30分は待つということだ。やっとありついたちゃんぽんは薄味系でリンガーハットの野菜たっぷりちゃんぽんの方がおいしいような気がする。お腹を満たしたあとは、歩いて出島に行った。雨もあがり、歩きは快調だが、道を間違え、遠回りしてしまった。出島の中は、昔のオランダ屋敷が再現されていて、面白い。オランダの通商史は1年任期で、そのうち3ヶ月を江戸幕府詣で費やすので、かなり忙しい滞在だったようだ。オランダ商館長はカピタンと呼ばれ、クリスマスも晩餐も賑やかにやっていたようだ。狭い出島から簡単に出れないのが悩みだったろう。

      
  写真左・香港上海銀行内部カウンタ―      写真右・四海楼全景
  

3月19日 爆心地で祈りのあとは卓袱料理

市電の一日乗車券を買い、平和公園に行った。市電は5分おきに来て便利だ。まずは原爆資料館、長崎は三菱重工の造船の町、これが狙い目だったのだ。落としたのは長崎北部の山手であまり三菱の施設がない所、グラバー邸などがある南、東山手地区とも丘陵地を挟んで離れている。この丘陵のおかげで、爆風はグラバー邸近辺には及ばず、建物は残ったようだ。極地型原爆だったようなきがする。それでも7万人い以上の命が一瞬に奪われた。平和記念像の後、浦上天主堂を廻り、永井隆記念館に行った。長崎の鐘のモデルになった永井先生、原爆の悲劇を訴え続けて生を閉じた。合掌。
原爆の史跡めぐりを終えて、長崎駅に出た。新幹線開業を前に大きなおみやげセンターが開店していた。9月に新幹線が走るが、佐賀県の武雄温泉までなのだ。その先、博多までは未定なのだ。なんと佐賀県知事が反対しているという。新幹線サイズの広軌ではなく、在来線サイズの狭軌にしろということらしい。それなら在来線の上を走れるし、建築コストも少なくてすむということらしい。一理はあるが、長崎から武雄までは広軌でそこから新鳥栖まで狭軌、またそこから広軌というのは現実的でない。困ったものだ。長崎から東京まで新幹線で来れるのはいつになることか?
混んでいる長崎駅を後にして、市電でめがね橋へ、名所のひとつであり、繁華街の中にある。それを渡って思案橋へ向かい、迷いながら卓袱料理・浜勝を探しあてた。ここは予約なしでも卓袱が食べられるという。かなり待つと聞いていたが、着いたらすぐ通されたので驚いた。一人膳コース4700円を頼んだ。和と中華が混じり合った幾種類もの小皿が出てくる卓袱料理は物珍しく、楽しく、おいしい。長崎の夜らしい夕食だった。

  
             写真左・爆心地の標識

          
              写真右・卓袱料理
  

3月20日 上五島町のキリシタン教会めぐり

五島列島の隠れキリシタンの話に興味を持っていたので、最後の一日は船で五島へ日帰りの旅をした。事前に九州商船に日帰りパック旅行を予約しておいた。行くのは中通島の上五島町、メールで送られてきたファイルの行程表では福江港経由で奈良尾港下船、貸切タクシーで案内と記載され、”福江港では降りないよう”にと朱字で念が押されていた。奈良尾で待っていたのは2台のタクシー、今日は2組の客らしい。小田様のタクシーに乗った。ところがもう一組のタクシーの客が来ないと、運転手が騒いでいた。あとで聞くと、福江で降りてしまったらしい。メールのファイルを読まなかったのか、プリントしてこなかったのか。九州商船は代金を振り込むと、切符と地図を送ってくるが、行程表は入っていない。メールで連絡済だからだ。ここに落とし穴があったのだ。あとで聞くと、福江から別な港へ連絡船で来て、2時間遅れで急いで廻って、帰りは同じ船に乗ったようだ。インターネット不得手の人だったのだろう。我々は順調に海のキリシタン洞窟や教会を廻って、有川港でおいしい寿司と五島うどんを食べて、長崎への船で帰ってきた。
鯛の浦協会で聞いた、明治に入って教会建築のとき、信者は今の金にして1軒30万円出したという。そして建築にも勤労奉仕なのだ。信仰の気持ちはここまで強いものか。江戸時代は隠れての信仰だったが、明治になって解禁されたものの、しばらくは迫害が続いたそうだ。海の洞窟での信仰も明治なってからの話だし、中通島にある29の教会もすべて、明治以降に建てられたものだ。迫害は近代になっても続いていたのだ。

        
    写真左・海岸洞窟のマリア像         写真右・頭ヶ島天主堂
  

3月12日 神田すみれの”渋沢栄一伝”講釈

先月の大森美香さんの渋沢栄一裏話の次は講談・神田すみれさんの”渋沢栄一伝”である。本来は同じ日に行われるよていだったが、何かの都合で今日になった。コロナにでも罹ったのかな?
講談なので、よどみなく話はテンポよく進む。すみれさんが自分で仕込んだネタなので、、どんどんと行きたいところなのだが、あまり話す機会がないのか、途中、話のつなぎを忘れるような場面も。
それもご愛嬌だ。日本女子大創立にかかわったいきさつの話がなかったのは物足りない。「女子教育に力を入れた」だけでは、何だかわからないではないか。話は面白かっただけに本女の話が出なかったのは残念だった。

      
     写真左・神田すみれ講談会        写真右・成瀬記念講堂内部
  

3月5日 庄野潤三さんの石神井時代

庄野潤三さんが石神井公園に住んでいた頃を中心とする展示会が石神井公園の文化館で開かれているというので、稲門会の講演会のあとに行ってみた。今年は庄野さんの生誕100年だという。
ひょんなことから庄野さんのお嬢さん・今村夏子さんの旦那さんと知り合い、蓼科の山荘にも何度か一緒に来ていただいた。それも薪割りの労働付きで…。今村さん(旦那さん)は薪ストーブ派なので、薪割りはお手のもの、奥様も一緒に割ってくれる。いわば私の師匠だ。昔から庄野さんの作品を愛読していた。家庭の日常を描いた作品は、ほのぼのとしていて明るい気持ちになる。小説というよりエッセイに近い。石神井公園時代はまだ勤めながら書いていた。夏子さんはまだ幼く、自転車に乗せられて、師と仰ぐ井伏鱒二さんの荻窪の家に時々連れていってもらったそうだ。そんな縁で今村さんを井伏さんから紹介されたようである。石神井公園のあと、庄野一家は川崎生田の山の上に家を建て、引っ越し、現在に至っている。

      
    写真左・生田の山の家(写真)        写真右・庄野潤三展ポスター
  

3月5日 西東京稲門会”中林美恵子教授講演会”

西東京稲門会の結成20周年記念の講演会があるという知らせを日野稲門会からもらった。講師はTVでおなじみの政治学者・中林美恵子早大教授だ。ウクライナのこともあり、保谷まで聞きに行った。三鷹から保谷行きのバスに乗った。今は保谷も田無も、西東京市になっているのだ。
市民会館での講演は、アメリカ政治に詳しい中林先生らしく、ウクライナ問題をアメリカ側の視点で見た分析と日本がどう係わるべきかが主題であった。日本はあくまで、平和的、経済支援をすべきで、決して軍事的支援に踏み込んではいけないとの提言は同感である。時機を得た有意義な講演会であった。

      
     写真左・西東京稲門会会場        写真右・中林先生、熱弁!
  

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2 月

2月28日 海外、思い出のドライブ旅  アウシュビッツ

アウシュビッツは忌まわしい地名である。ワルシャワの南、クラコフ郊外にある。クラコフは京都のような歴史ある街、美しい街である。その近くにナチスドイツの殺戮の跡があるのだ。
ワルシャワに行ったらぜひ行きたいと思ったが、妻は行きたくないと言う。第二次世界大戦の象徴的な場所を見ておくべきだと説得し、無理やり連れていった。実に悲劇的な、ナチスのエゴ丸出しの場所であった。ワルシャワからクラコフまで列車で行き、そこからガイドの車で案内してもらった。

      
      写真左・クラコフ城          写真右・アウシュビッツ収容所内部
  

リトアニアの後、ワルシャワへ戻った。ワルシャワでは中央駅前のマリオットホテルに泊まった。
高層の部屋からはソ連時代に作られた科学技術館という時代がかった高層建築のビルがある。
後日、行ってみて展望台へ上った。そのときのエレベータが驚きだった。10人も乗ればいっぱいになるエレベータの中におばちゃんが椅子に座ってボタンを押している。元々狭い室内に立つと5人は入るスペースをおばちゃんが悠然と座り、場所をとっているのだ。まだソ連時代の遺構と習慣が残っているのではないかと思った。
着いた翌日、アウシュビッツ収容所へのツァーに参加した。ワルシャワから2時間半、列車に乗り、クラコフ駅に下り立つとガイドのマルタさんが迎えに来ていた。クラコフ大学の日本語科を出て、大阪大学に留学したとかで日本語は流暢、特に王宮の歴史には詳しく、覚えきれない皇帝の名前と業績をよどみない日本語で説明してくれたが、ほとんどを聞いた直後に忘れてしまった。
アウシュビッツへクラコフから車で2時間弱、内部の案内はアウシュビッツ唯一の日本人ガイド・中谷さんがやってくれた。いろいろな情報で知ってはいたが、おびただしい服、化粧品、靴、カバン、髪の毛を見て、そしてそれらの物を残して行った人々を死に追いやったチクロガスの缶を見ると、この人たちの悲惨な最後を直視できなくなる。先日見たリトアニア領事館でのビザ発行記録、これで救われた人がいる一方で、このおびただしい死者の数、人間の業の違いがこうも大きいのかと思うと言葉がない。「最近の日本のヘイトスピーチを私は心配しているんですよ。そんな動きが、人を差別しとんでもない方向に世の中を変えていくのではないでしょうか?」と言った中谷さんの言葉は重い。

         
     写真左・収容者の持ち物           写真右・遺体焼却炉
  

アウシュビッツ収容所内部を見たあと、ユダヤ人が運ばれてきた列車の線路と収容所へのゲートを見に行った。長い線路が前面に伸び、この先から多くのユダヤ人がギューギュー詰めにされて、こちらへ運ばれ、このゲートをくぐって地獄の収容所へ入っていったのだ。線路の先にプラットフォームのようなものが見えるが、ここで下されたのかもしれない。おびただしい殺戮の始まりの場所なのだ。       二度と起こしてはならない忌まわしい歴史の跡を見た。繰り返したはいけない歴史が、今はウクライナで起こっている。プーチンは現代のヒットラーかもしれない。ゆゆしいことである。

      
    写真左・ 収容所へ続く線路        写真右・収容所構内への鉄路
  

2月26日 渋沢栄一は本女の三代目校長

”青天を衝け”が終わってしまい、毎日曜の楽しみがなくなったが、渋沢栄一の評価はドラマ後でも高い。日本女子大は創立の立役者でもあった渋沢栄一を三代目の校長に迎えている。こんな関係をドラマの脚本家である大森美香さんを迎えて、成瀬記念講堂で講演会が開かれた。
長女の母校の関係から、セミナーの案内状をもらった。ドラマの裏話も含めて、とても面白い話であった。渋沢は幕末のパリ万博に出かけ、そこで日本の儒教ベースの女性の生き方が西洋とは大違い、女性もひとりの人間として社会で活躍していることに感銘し、帰国後、鹿鳴館や東京女学館など女性が活躍する場所や学校設立にかかわった。しかし、そこで活躍する女性は「気位が高い」とか「鼻持ちならない」との声が聞こえてきて、「日本ではまだ早い」と感じていたところへ、日本女子大の創始者・成瀬仁蔵が大隈重信の紹介で訪ねてきて、協力と支援を求めた。「まだ早い」と何度も断ったが、成瀬の引き下がらない情熱に負け、しぶしぶ承諾したそうだ。
そして二代目の学長が急逝し、次の校長を頼まれたときは90歳、家族は反対したそうだが、最後の務めと言って引き受けたという。朝ドラ「あさが来た」も大森さんの脚本、この主人公の広岡浅子も本女の創立メンバーのひとり。このセミナーを聞いていたこの春、卒業する学生が、「”あさが来た”を見て、日本女子大に入りたいと思いました。渋沢栄一さんと大学との関係の話を今日聞いて、本当に良い大学に入り、卒業できることを誇りに思います」と、最後に発言したのが感動的だった。ウチの娘もここに入れてよかったと思った。

          
      写真左・成瀬記念講堂         写真右・「ドラマで歴史を紡ぐ」
  

2月13日 茅野は沈んだ

蓼科の近く、いつも行くスーパーの農協の壁に「小平選手、北京オリンピック出場おめでとう」の看板が年明けからかかっていた。小平さんの実家はこの近くにある。
この看板は”金メダルおめでとう”にかけ替えるつもりでいたろうに。なんとスピードスケート500m、17位とは!!あとで聞くと大会前にねんざしていたとか、ケガをおしての出場だったのだ。
前のピョンチャンオリンピックのときは金メダル、茅野市役所から駅までパレードも行われ、茅野は燃えた。しかし、今回は「残念!!」である。それでも小平さんは長野県の、茅野の誇りである。

    
               写真・出場おめでとう!

    
      写真右・がんばる小平選手
  

2月11日 村上は燃えた!

スノーボードハーフパイプの平野歩夢君は私の中学校の50年後の後輩といってよい。というのは私の母校・新潟県村上中学校は卒業後、分割され、瀬波中学校や山辺里中学校と統合し、村上第一中学校と村上東中学校になってしまった。
平野君は第一中学校だが、そのルーツは村上中学校、だから後輩なのだ。誇るべき後輩だ。何と言っても”金メダル”、新潟県初の冬季オリンピック金メダルである。新潟日報は号外を出した。
「郷里村上は沸いた!」「村上のヒーロー!」と、大きな見出しが踊る。うれしいではないか! 凱旋パレードが3月21日に行われるそうだ。行きたいのだが、九州旅行中のときで残念!                              2月11日の昼は平野君で”村上は燃えたのだったが、その夜、日付は変わった12日の深夜、同じ村上市の三幸製菓で火災発生、6人が亡くなった。ほんとうに”村上は燃えてしまった”。合掌。

     
    写真左・郷里村上沸いた!!         写真右・ 村上のヒーロー
  

2月3日 一ノ瀬スキー場の大勝軒

昨日から奥志賀に来てスキーをやっている。森さんと一緒だ。今日は朝から雪降りで風も強く、奥志賀のリフトは止まっている。早々と「今日のスキーはやめッ!!」となり、シャトルバスで一ノ瀬の大勝軒へラーメン食べに行くことにした。夏は蓮池の山の駅でやっているが、冬場はスキー場のレストハウスに移ってくるのだ。
着いたのがまだ11時過ぎで、それほど客は多くない。モリメンマを頼んだ。味はよし、量もよし、メンマもうまい。最近の横浜家系などのコッテリが苦手な私にとって大勝軒のスープはとても心地よい。
これぞ中華そばである。それにしても客はジジババばかりだ。町田市スキー協会のゼッケンをつけてラーメンをすすっているのは爺さん、婆さんなのだ。平日のスキー場は年寄り天国なんだね。

      
      写真左・山ノ内大勝軒          写真右・めんまモリソバ
  

2月2日 今日は快晴、八ツ、甲斐駒くっきり

蓼科から志賀高原にスキーに出かける朝、天気は快晴、ドライブも気持ちよい。ビーナスラインを走り、蓼科山登山口の手前の展望台に来たら、遠く南アルプスもよく見える。いつもは通り過ぎるのだが、あまりの青空に魅かれて停車した。
左手に大きな蓼科山、そこから伸びる北八ッヶ岳連峰、そして南八ッ、阿弥陀岳が目立つ、その右手奥に南アルプスの甲斐駒、そしてさらに右手には中央アルプスが見える。いい天気の中に広がる、蓼科高原から八ヶ岳から南アルプス、中央アルプスの景観はここビーナスラインの売りでもある。しばし景色を眺めて、志賀に向かった。

      
    写真左・展望台からの八ヶ岳連峰      写真右・青空の中の南アルプス
  

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1 月

1月31日 海外、思い出のドライブ旅  杉原千畝のリトアニア

今回はバルト三国のひとつリトアニアでの話。ここでは在住者の日本人の車で案内してもらった。いわば人任せなドライブの旅だったが、杉原千畝の足跡を首都ヴィルニスからドライブして、カウナスの旧日本領事館へ行った。きれいな町だが、第二次世界大戦が始まった頃、ここはナチスから逃れようとするユダヤ人が日本のヴィザを求めて集結した町でもあった。

      
     写真左・ヴィルニスの市街   写真右・ワルシャワからリトアニアのフライトは小型機
  

第二次大戦初期、リトアニアの領事だった杉原千畝が苦悶の末、発行した日本通過ビザで6000人ものユダヤ人が救われたという話は有名だ。その史跡を訪ねるべく、リトアニアのカウナスに来た。リトアニア語はわからないし、現地の人もほとんど英語が通じないということなので、トラベロコというサイトを通じて現地の日本人にガイドをお願いすることにした。リトアニア人のご主人が車を運転し、綾さんが案内してくれた。残念なことに旧領事館の建物は外装工事中で外観は見ることができなかったが、内部の領事室には入れた。机にタイプライターが置かれ、手書きのパスポートのレプリカが机上にあった。そこにある発行名簿を見るとほとんどがポーランド系のユダヤ人だ。杉原領事が決断したきっかけはある日の朝突然、領事館の門に100人を超すユダヤ人が集まっていたことだった。その人たちはオランダ系ユダヤ人で、オランダ領事館発行のオランダ領キュラソー入国ビザを持っていた。そこへ行くために通過する日本のビザが必要だった。戦後落ち着いた頃、当時の日本のオランダ大使鷹取さんの元にリトアニア・オランダ領事だった身内の方が訪ねてきて、「オランダ領事館が入国ビザを発行したばかりに、杉原さんには大変な迷惑をかけてしまった」と。そして杉原領事が発行を決断した以降はナチスドイツに攻撃されていたポーランドから大量のユダヤ人が日本領事館に来ることになったのだ。杉原さんは領事館閉鎖後、滞在したメトロポリス・ホテルやカウナス駅でもビザを書き続けた。いずれにも記念碑があり、そこも私たちは訪れたのだった。

        
     写真左・杉原さんの執務室         写真右・カウナス駅の記念碑
  

カウナスからの泊っているヴィルニスへの帰途、ホテルの対岸の新市街地にある河岸公園の中にある杉原千畝記念碑に寄った。この記念碑は杉原さんの名誉が回復した2001年に早稲田大学が立てたものである。そこには「校友として世界に誇るべき氏の功績を称えて記念碑を建立する」と刻まれている。彼は卒業はしなかったものの英語の先生になるべく早大の門をくぐり苦学しているとき、外務省の語学留学生試験の広告を見て応募、合格して外務省職員となってハルピン大学でロシア語を習得し、紆余曲折を経てリトアニア領事になり、歴史的事実の当事者となった。外務省は職務違反として戦後、免職にしたが、助けられたユダヤ人が「そんな人物はいない」と言い張る外務省のウソを暴き、杉原さんの名誉を回復したのだった。早稲田はこの事実をそのとき初めて知り、「わが早稲田にそんなすばらしい人物がいたことは誇りである」として、創立125年の新聞広告では”早稲田が輩出した偉人”のトップで紹介した。今では早大に杉原千畝研究会ができ、毎年、高校生を引率して、ユダヤ人排斥の歴史を研究に来るほどだ。同じ早稲田を出た私としても涙が出てくるほど嬉しい記念碑だ。、記念碑の建つ公園に日本から植樹された桜が満開になるとおおぜいの市民が集まると、案内の綾さんが話してくれた。来年の桜が咲いたら写真を送ってほしいと頼んだのだった。

      
 写真左・早稲田が建てたヴィルニスの杉原記念碑  写真右・「早稲田の偉人」銘板
  

リトアニアでは首都ヴィルニスに滞在し、旧市街など廻った。行った中で印象深かったのはやはり戦争の歴史跡だった。訪れたテレビ塔には1990年のベルリンの壁崩壊から端を発する独立運動をソ連軍が抑圧し、それに抵抗した14人の犠牲者の写真が掲示されている。私はその事件を知らなかったが、常に他国の侵略を受けてきたリトアニア人の最後の抵抗になってほしいと思った。そしてリトアニアを離れる直前に行ったKGB博物館、ナチスドイツの後にソ連に制圧されたリトアニアでそれに抵抗した人々を拷問し、シベリアへ流民として何十万人も追いやったのはKGBだった。その歴史を残した旧KGBの建物、多くの囚人室、拷問の部屋、そして通りに面した外壁にはここで命を落とした人々の名前が刻まれている。ユダヤ人だけでなく、戦争の犠牲者は他にも多い。そしてその歴史は今でも続いている。今のリトアニアの平和が永遠に続くことを祈らずにいられない。

      
     写真左・KGBの収容所          写真右・殺された人を記した外壁
  

1月25日 三回目の接種はモデルナ

2回目の接種から7ヶ月を過ぎて、やっと3回目の接種券が来た。妻が一緒に申し込んでくれて、今日25日に市の保健センターの集団接種に行った。歩いて数分なので、集団接種はモデルナだが、早い方がよいと思った。副反応はファイザーより、出やすいと聞いていたので不安。翌朝、射った左肩が少し痛く、熱も少しあるようだが、倦怠感ははっきりしていた。ソファに横になってダラダラと過ごしたが、熱は上がらずたいしたことなさそうなので、検温もせず、一日を過ごした。翌々日、肩の痛みは少し残っているが、倦怠感は消え、体調はふつうに戻っていた。熱もない。これで副反応は終ったようだ。大過なし。3回目ワクチンは即抗体ができるということなので、これで安心、スキーにも堂々と行ける。後日、妻も接種したが、2日目の午後発熱し、38度1分まで上がったが、翌日は平熱に戻った。やはり体質によって副反応には差があるようだ。
 

1月21日 冬の4号線住まいはただ一人

冬の別荘地は寂しい。家の前の4号線の側道沿いは、11月末までには少なくとも4軒の家に定住者がいた。いずれも家の前に車がいつもあった。晴れた今日の夕暮れにこの冬初めて歩いてみた。ウチからいちばん近い定住者の木部さんは車がなかった。しばらく前に寄ったらしい車の跡があったが、家への雪の上には足跡がない。郵便だったかも? 次のチェンさんはここを定住用に買ったので住んでいる。「冬がこんなに雪があるとは思わなかった」とぼやいていたが…。下の入り口で一生懸命、木にチェーンソーを入れている姿が見えた。その先の神戸ナンバーのフォード車の家は、車なし、上の家への階段に踏み跡があるが、住んでいるとは思えない。4号線、どんづまり近くの宮田さんも昔からの定住者だったが、この冬は車なし。だんだん歳をとってきて、冬の寒さはこたえるのだろう。この冬のしらかば4号線定住者はチェンさん一人のようである。

      
     写真左・誰もいない4号線       写真右・唯一の4号線住人の車
  

1月18日 稲 大隈重信没後百年トークイベント

我らが母校の創設者・大隈重信侯の没後100年とかで、早稲田や佐賀県ではいろいろな記念行事をやっている。1月⒑日の命日には大隈講堂で記念式典と慶応、早稲田の教授による福沢・大隈の交友や政治体制論の講演会があった。福沢と大隈は経済、政治体制で同じ方向性を持っていて、強い交友関係があったという。英国型の立憲民主制をふたりとも目指していたが、それに対して伊藤博文たちはプロシャ型体制を志向して対立、大隈は下野させられた。経済も外債による積極経済の福沢・大隈に対して、松方蔵相は緊縮型経済で対立、緊縮型で国民は貧しく、国家経済もじり貧になって松下は退陣した。早慶創設者は同じ考えで世の中を志向し、おなじ理想で若者の教育に注力したのだった。18日には大隈の生涯の「威風堂々」の本を書いた作家の伊東潤と脳科学者・茂木健一郎の対談による「大隈重信論」。岳文会の50周年記念式典をやった小野講堂で開催され、行ってみた。渋沢栄一が脚光を浴びているが、渋沢を招き入れた大隈の度量の広さ、貨幣制度の改革、鉄道・通信制度の導入、女子教育などは、大隈がきっかけをつくり、渋沢が計画を詰めたのだ。渋沢、福沢が1万円札になるなら、大隈がそれ以上になってしかるべきだ。など、評論が八方破れに広がっていくのが面白かった。

      
    写真左・記念トーク会場       写真右・小野講堂からの大隈講堂時計台
  

1月13日 赤倉観光ホテル

赤倉観光ホテルは帝国ホテルやホテルオークラを創った大倉喜七郎が昭和初期に建てた。山の上高地帝国ホテル、ゴルフの川奈ホテルに並ぶ、冬のリゾートホテルとして国策的に建てられた。瀟洒なスキー場のど真ん中に建つホテル、戦前は外人の冬の社交場だった。今は露店温泉付きの部屋もでき、誰でも泊まれるホテルになったが、その雰囲気は洒落ている。部屋の窓下をスキーヤーが滑り降りて行く。あまりにもゲレンデが近いので、ランチに戻ってきて、ビールを飲んだら、もうスキーはどうでもよい気分になる。滑るより、滞在を楽しむホテルなのだ。レストランも3つあり、豪華だ。ただ玄関が狭く、フロントが風呂屋の番台のようで、スキーや荷物が玄関を占領しているのは頂けない。ロッカーや荷物置き場をあまり考えていなかったのだろう。そんなところは昔風だ。車のない時代は、ここに来るには最小限の荷物しか持てなかったのだろう。そんな古臭さはあるが、いいホテルには違いない。

            
     写真左・赤倉観光ホテル        写真右・ホテルのラウンジ
  

1月12日 エンジンかからず

赤倉へ行く前に蓼科に寄った。雪が多く、4号線側の玄関スペースに車を入れるのにひと苦労した。出かける朝は、昨日降った雪で車は埋もれていた。雪下ろしをしながら、エンジンをかけ温めていたが、さあ出発とスタートボタンを押したが動かない。エンジンがかからないのだ。やり方がまずいのかと販売店のネッツトヨタに電話して聞いたが、指示に従ってもかからない。「JAFに頼んでくれ」とのこと。JAFは「大雪で依頼殺到、何時になるかわからないので、家で待っていて」と言う。ストーブで待っていたが、陽が射して暖かくなってきたので、試しに車に行って、エンジンをかけたら、動いた。寒くてエンジンが凍っていたのいか?JAFに断りを入れて出発した。その後、ゲストハウスを使った人もエンジンかからず、愛車アウディを松本まで運んで修理したという。軽油は零下7度程度で凍って動かなくなるらしい。受け取りに行くときの茅野駅までのタクシー代はアウディが持ってくれたらしい。さすが外車が動かなくなると、サービスがいいのだね。やはり金持ちは、車が故障しても優雅なのだ。

            
     写真左・エンジンかからず        写真右・庇から張り出した雪塊
  

1月1日 今年のおせち

娘もいなくなり、妻とふたりだけの正月も二回目だ。クリスマスに続き、ふたりだけの暮れから正月の日々だ。静かなものだ。おせちも量が少なくなり、皿に盛るだけで済む簡易型になった。これでいいのだ。ふだんは食べない、伊達巻やきんとんをつつきながら、ビールを飲むと、幸せになる。おおぴらに朝から飲めるのはうれしい。こうやってひとつひとつ歳をとって、寝ながらお屠蘇をチューブで流し込む日も来るのかと不安になるが、そのときはそのときで仕方がない。死ぬ前の最後に食べたいものは、ふるさとの三角ちまきといつも言っているが、実際は食べれないのだろうと思う。餅と同じで、のどに詰まってしまうのだろう。あと何年、こんなおせちを食べれるのかな?

      
     写真左・今年のおせち          写真右・三年前のおせち
  

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