小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
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蓼科日記

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蓼科・東急リゾートタウン
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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。

毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2019年>

 [1月] [2月] [3月] [4月] [5月] [6月] [7月] [8月] [9月] [10月] [11月] [12月]

 <2004年> (2004年分は、こちらからリンクします。)

 <2005年> (2005年分は、こちらからリンクします。)

 <2006年> (2006年分は、こちらからリンクします。)

 <2007年> (2007年分は、こちらからリンクします。)

 <2008年> (2008年分は、こちらからリンクします。)

 <2009年> (2009年分は、こちらからリンクします。)

 <2010年> (2010年分は、こちらからリンクします。)

 <2011年> (2011年分は、こちらからリンクします。)

 <2012年> (2012年分は、こちらからリンクします。)

 <2013年> (2013年分は、こちらからリンクします。)

 <2014年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

 <2015年> (2015年分は、こちらからリンクします。)

 <2016年> (2016年分は、こちらからリンクします。)

 <2017年> (2017年分は、こちらからリンクします。)

 <2018年> (2018年分は、こちらからリンクします。)

 <2019年> (2019年分は、こちらからリンクします。)

 <2020年> (2020年分は、こちらからリンクします。)

 <2021年> (2021年分は、こちらからリンクします。)

 <2021年> (2021年分は、こちらからリンクします。)

 <2022年> (2022年分は、こちらからリンクします。)

 <2023年> (2023年分は、こちらからリンクします。)

 <2024年> (2023年分は、こちらからリンクします。)

2019年

12月
12月27日 お湯が出ない!

明日からゲストハウスを使う人がいるので水入れに来た。水は入ったが給湯器の電源が動かない。すぐに設備の人に来てもらった。寒い中を外の給湯器本体のカバーを外してチェックしているがわからず。正月明けにメーカー(コロナ)に部品確認して対応を考えるとのことでギブアップ。
ゲストハウスのお湯が使えないと困るのでわが家を開放し、台所や洗面を使ってもらうことで私は帰ってきた。しかしだ。正月明けに帰ったお客から「着いたその日に温泉から帰ってきて”お湯”を出そうとしたら電源が切れていた。結局どちらもだめっだった」との知らせ。チェックしてもらったらこちらも故障だという。この冬は万事休すだ。

      
     写真左・問題の給湯器         写真右・今年の雪はこの程度
 

12月25日 蝙蝠の安さん

チャップリンに「街の灯」という無声映画があるが、これに感動した曽祖父の中村幸四郎が歌舞伎に置き換え時代劇にして上演したのが88年前。今年はチャップリン生誕88年、それを記念して現在の中村幸四郎が国立劇場で上演した。妻が見たいというのでクリスマスでもあり娘も一緒に家族三人で行った。歌舞伎とはいえ話は現代的なので、江戸時代の街での物語に変えてはいるがわかりやすい。上演後は幸四郎のトークショーもあり、「江戸時代に花売り娘はいなかった」という史実も知り楽しい歌舞伎だった。

        
     写真左・トークショー          写真右・チャプリンと幸四郎
 

12月19日 予約確認までやった店に行ったら、店がない

今日は富国生命時代の同期の忘年会。YHP時代に外人の接待でよく使った、新宿西口のいしかわを予約しておいた。いつもこの集まりは安い飲み屋なので、もうこの歳だし、ちゃんとした所で呑もうや、ということで、いしかわにしたのだ。前日にはメールで「変更ありませんか?」と店から確認メールも来た。意気揚々と6人で行ってみると、いつもの入り口が変だ。店の名前も変わっている。入ってみると、工事中ではないか。どうしたのか?工事の人が言うには、「もう20人も来てるよ。いしかわはないよ」。そんな馬鹿な、昨日、確認メールまでくれたではないか。結局、いつもの安酒場での忘年会になってしまった。帰って予約した「食べログ」に文句を言ったら、「店からやめたと言ってこない以上、予約管理はやらざるを得ない。迷惑かけてごめんなさい」とだけ。予約して来ない客が多いとニュースになっているが、「予約したのに店がない」の逆ケースがあることにも注意が必要だ。
 

12月17日 恐怖の歯医者

先月から歯医者に行った。1年くらい前に行ったきりだったが、市から「歯の無料点検券」が来たので行くことにした。「もう4年ぶりですね」と言われ、そんなに経っていたのかと驚く。「虫歯が進んでますね。歯槽膿漏になりますよ。歯垢がいっぱい溜ってますよ」などと言われ、通いはじめて、今日は3回目。麻酔をかけて虫歯治療するという。その前に血圧をというので計ったら180、これは高い、もう少し落ち着いてからと再度図っても150、この歯医者の下の階はお兄さんがやっている内科医。ここには毎月来ていて血圧を計っているが、だいたい130くらい。「下で計るといつも低いんですが…」と言うと、歯医者は「下から急な階段を上がってきますからね」とひとこと。妙に納得したが、ガリガリとやられる限りは血圧は下がらないような気がする。
 

12月14日 松本の行列ができる蕎麦屋

松本に茅野市役所に車を置いて、電車で行った。信毎メディアセンターで串田和美の催しがあった。前にお父さんの串田孫一さんの「山のパンセ」があった。それに類するものかと思っていたが、違っていた。よくわからない前衛的な芝居で、あまり面白くなかった。しかし、今回は違う発見があった。信毎の前に東横インがあり、隣のビル1階にある”みよ田”という蕎麦屋だ。行ってみると結構並んでいる。しばらく待って、店に入ると、メニューにとうじソバがある。セットで1600円。まずそばが出てきて、投じで食べる、それが終わると、とうじそばのつゆ鍋に蕎麦の実を入れて、そば雑炊にする。そして最後にセイロ蕎麦が出てきて終わりだ。そのひと種類、ひと種類がとてもおいしいのだ。並ぶ訳だ。信州はそば処だが、どの蕎麦屋も美味しいという訳ではない。茅野駅から山荘までには十数軒の蕎麦屋があるが、美味しいと思うのは2軒だけだ。松本に見つけた”みよ田”。次の3月の松本行きが楽しみになった。

        
     写真左・蕎麦みよ田           写真右・とうじ蕎麦
 

12月6日 東京ステーションホテル

村上から甥が上京してきた。土地相続のもめごと解決のため弁護士に会いに来たのだ。それが終わり夜7時前の新幹線で帰るというので、その前に食事でもと東京ステーションホテルのバーを予約しておいた。ここなら10分もかからず電車に乗れるからだ。昔、YHP時代、デミング賞受審で何回かここに泊ったことがある。大阪から来てその日に帰れないときはステーションホテルに泊まって、朝6時の新幹線に乗れば9時にはオフィスに入れたのだ。シングルの部屋はホーム側なので、早朝から発車ベルで起こされ、寝過ごす心配はなかった。この時代のステーションホテルは昔のままで、バスルームがなかった。その代わり大浴場があってそこに入りに行ったものだ。東京駅の屋根の復元工事のときにホテルも大改装され、今では高級ホテルに変わっている。バーも昔からあるのに何か高級感が漂っている。食事が終わったときは発車の15分前くらい。早く行ってもらったがあとで聞くと、発車2分前に飛び乗ったそうで大変あせったとのこと。悪いことをしてしまった。

      
   写真左・バーカメリアのディナー        写真右・夜の東京駅
 

12月3日 箱根駅伝ガンバレ

八王子へラーメンを食べに行った帰りに駅前に来たらブラスバンドの音が聞こえる。広場を覗いてみるとチアガールが踊っている。「何だろう?」、その近くにはユニホーム姿の若者のグループがいる。看板を見たら「箱根駅伝、八王子地区出場大学壮行会」。そうか、八王子にはいっぱい大学があった。中央大学、法政大学、拓殖大学、創価大学、帝京大学、この5大学が出場するのだ。最多優勝回数を誇る中大も最近は振るわない。予選会を最後に通過したほどだ。ガンバレ中央!そして他の大学も。結果は帝京と創価がシード入りの10位以内に入った。中央はまた予選会からのスタートになってしまった。奮起を期待する。

      
    写真左・箱根駅伝出場校          写真右・エールを送る
 

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11月
11月26〜29日 年末恒例忘年会始まる

11月後半になると宴会シーズンが始まる。今週は2回、26日はスキー仲間・極楽のKick Offパーティ、29日は昔の職場仲間。偶然にもふたつともイタリアンだ。けれど、かなり雰囲気の違う店だった。
26日は代々木駅から数分のラヴォナビータという店、本格的なイタリアン、前菜からメインまでひとりづつの皿盛りで出てくる。ワインもおいしい。スキー仲間が20名近く集まった。終わったあとは近くに住む仲間の行きつけの店、ここは日本酒で乾杯。
29日の職場仲間のイタリアンはタヴェルナウオキン、ウオキンは魚金のイタリアンの店だろう。魚屋が本家なのか、カルパッチョもマグロなど魚の盛り合わせだ。ここは大皿で出てきて、銘々に取り分ける大衆的なスタイルだ。新宿西口から数分、柏木公園の裏にある。店の前の通りからは、高層ビル群が見える。週末なので、店は満員、騒がしい雰囲気の中のイタリアンだった。今年は珍しく、これから毎週、12月いっぱい、忘年会が入っている。忙しい季節が始まった。

         
      写真左・ラヴォナビータ 写真右・タヴェルナウオキン、通りの先には高層ビル
 

11月23日 今年最後の八子ヶ峰

9月の火打山登山で体力の衰えを実感し、来年の北アルプス行のためにもと、八子ヶ峰を頻繁に歩こうと決めた。今日は雪の前の最後の機会と思い、昼からは雨との予報だったので、9時過ぎには歩き出した。まだ陽も射し、青空も見える。尾根に取り付くまでの急坂を登って、大休止。今まではそんなに休む必要もなかったのに、今年はここで座り込むことが多くなった。そこからアルビレオヒュッテまでは問題なく歩いた。ここからの道は平たんなのだが、この季節になると、霜柱でグジュグジュになり、スリップしやすい。できるだけ草付きを歩くのだが、時々ツルッときて驚く。周りのアルプスや八ヶ岳は雲に隠れて見えない。車山のスキー場の一部が白くなっている。もう雪を造って、スキー場開きの準備をしているのだ。誰とも会わない山は静かだが寂しい。もう冬なのだ。
八子ヶ峰西峰から別荘地へ下った。上から枯れた木の間越しに上水貯水槽が見えた。水面が見えたような気がしたので、林道終点から貯水槽へ行ってみた。水面はなく、こんもりした貯水槽の上に何本かのパイプが立っていた。ここからスタートして山荘へ水が来るのだなと知り、管理する人の苦労を知った。

      
   写真左・車山スキー場は雪造り       写真右・わが家の水源地
 

11月14〜16日 続いた岳文OB会

14日の午後、岳文会7期の同期生10名が戸山の文学部門に集まった。女性陣の希望で開催を決めた同期会だ。私は裏方に回った。戸山アリーナの丘の上で、近くにいた学生に写真を撮ってもらった。「ありがとう。50年前には、僕らにも君と同じ青春があったんだよ」と言ったら、「エー!!」とすごく驚いていた。時の流れを感じさせる一瞬だった。一日おいて、こんどは岳文OB会の総会、新宿中央公民館は理工学部の前にある。開始までに時間があったので、理工学部の校内に入った。ここに来たのは商学部入学試験以来だ。もう55年前の話だ。入試会場がここだった。そのときは何か雑然とした構内だったが、今、来てみると、意外にもきちんと整備されたきれいな場所になっている。良い印象に変わった。早稲田も旧きものを残しつつ、近代化しているのには感心する。来年は岳文会創立60周年、昔の部室があった1号館の5階屋根裏に行く企画が楽しみだ。

      
     写真左・岳文同期55年後      写真右・ 理工学部は意外ときれい
 

11月10〜12日 晩秋と初冬を味わった上高地

初雪が穂高の山にあったという話を聞き、閉ざされる前の上高地に行った。徳澤園に泊まろうとしたが、11月3日で終わっていた。帝国ホテルも9日で終り。昔の清水屋、今はルミエスタホテルと洒落た名前になっているが、ここはやっていた。行った日の10日はきれいに晴れていて、青空の中に穂高の山は晩秋の色合いに染まっていた。頂上付近に何日か前の初雪が見て取れた。翌11日は徳澤までと思い歩き始めたが、明神で雨が強く降りだしギブアップ、河童橋へ引き返した。雨の中、観光客は予想外に多く歩いていた。聞こえてくるのは中国語、こんな季節でも外国から来るんだね。河童橋のそばの白樺荘で雨宿りを兼ねて昼食、ここにも外人のお客がおおぜいいた。そういえば昨夜のルミエスタの夕食も隣は欧米系の夫婦だった。ホテルに戻り、温泉に入り、ジャポニカフレンチという日本食風フレンチを食べた。蕎麦がコーヒー茶碗のようなものに入って出てきたのには驚いた。明けて12日、昨日の雨があがり、陽が射してきた。ウェストン碑側の山際を見たら、白い。この宿は霞沢岳の真正面で、穂高は隠れて見えない。田代橋へ行ってみると、岳沢から上の穂高は真っ白に変わっていた。美しい。昨日の雨が、上では雪に変わっていて、こんな素晴らしい光景を見せてくれるのだ。一昨日は秋の終わりの穂高、今朝は冬の始まりの穂高、こんな変わり目の絶景を楽しめるこの季節の上高地はこたえられない。

  
     写真左・晩秋の上高地          写真右・新雪・初冬の穂高
 

11月7日 デイケアセンター・ショウ

10月に武蔵村山で見るはずだった、デイケアサービスショウを今日、相模大野の劇場で見た。台風で中止になり、その振替で相模大野となった。新聞で妻が探した公演なのだ。高齢者のデイケアセンターでは合唱や遊戯をやるが、歌うのは童謡ばかり。中尾ミエが慰問に行って、「自分も通う日が近いが、自分たちが青春のときの歌はプレスリーやビートルズだった。童謡ではない。それならそんな時代に育った自分たちのデイケアセンターを作ろうではないか」とその夢をミュージカルにしたのだ。妻も同感とこの公演を申し込んだのだった。デイケアに集まってくるのはボケた人、謹厳実直な老人、何も反応ない人、さまざまだが、中尾ミエ扮する歌手が中心になって、ロックンロールを奏でると、エレキギターを引き出したり、プレスリーばりに歌ったりといろいろな老人が青春をよみがえらせるのだ。こんなデイケアなら、妻も行ってみたいと言う。楽しいミュージカルだったが、考えさせるミュージカルでもあった。

  
   写真・デイサービスショウの舞台 
 

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10

10月31日 韓国から薪割り助っ人

韓国ソウルから屈強な男性4名と女性3名が、蓼科に薪割りに来てくれた。上の娘の旦那の友達一行である。着いた途端に、上着を脱いで、斧で割り始めた。固いので、チェーンソーで十字に刻みを入れてから割った方がいいよ、と見本を示したのに、彼らはそんなことはせず、丸太に斧を振り下ろした。意外と簡単に割れた。力の差を感じた。若いっていいね。それに彼らは軍隊で薪割り訓練を受けているので、プロ並みの技術を持っているのだ。私が東京に帰る前には、2時間くらいで、大半のストックを割っていた。「もっとないのか?」と、娘を通じて聞かれたが、もう終わりなのだ。今回は山荘に3泊するので、あとはゆっくり遊んでと伝えた。御礼は飲み放題の酒と寿司と温泉だ。国同士は仲悪いが、個人同士はとても仲良しなのだ。

      
     写真左・薪割り順調            写真右・薪出来上り
 

10月19日 奥志賀きのこと紅葉

奥志賀でのキノコ狩り、先日の台風で秋山郷への奥志賀渓谷の道に入れなくなってしまったので、山菜狩りのスキー場の中や白樺苑地を廻ることにした。スキー場の中の道路沿いで大ぶりなハナイグチを見つけたが、後が続かない。小沢さんの別荘前からの苑地の林でチャナメツムタケの群落とナメコを見つけた。これですべてであった。今年はキノコの不作年だ。上田の松茸園も苦労しているという。夏の暑さが残ったままで、秋になったというのに地面の中は夏の温かさで生えないのだ。そういえば紅葉も遅いようだ。この状態が続くと、キノコが出てくるころには雪が降ってくるかもしれない。キノコ大凶作の年である。

      
    写真左・大きなハナイグチ       写真右・これは毒のテングダケ
 

10月16日 帝国ホテルでの朝日セミナー

朝日新聞の主催の地球環境のセミナーに申し込んだら、「北アルプスの水と森」セッションが当たり、出かけていった。帝国ホテルである。朝日ともなると豪勢な場所でセミナーをやるんだね。長野支局の山担当の近藤幸夫記者が司会で、大町市長と女優の釈由美子がゲストだ。釈さんは、松本の山岳フォーラムのゲストでもあったので、彼女の山好きは良く知っているし、話もうまい。見かけは派手だが意外と堅実な女優さんだ。大町市長は大町市の水道は北アルプスの水を最小限の浄化で給水していること、水資源を守るために北アルプスの森林のメンテナンスに力を入れている。と情熱を込めて話す。そんなすばらしい水環境に引かれて、近々、サントリーが「安曇野の水」工場を操業開始するという。大町の水が全国に配給されることが待ち遠しい。

        
 写真・牛越大町市長    釈由美子さん    近藤幸夫山岳記者
 

10月10日 旧花の木の今

きのこの吉田博士は、B級グルメの通でもある。食レポもやっていて、その関係で覆面調査も受けている。その縁で、大久保の回転寿司に行った。二人一組で調査するのだという。味だけでなく、店の雰囲気、トイレの清潔さ、店員の対応なども採点対象だ。数十項目の採点を食べながら、スマホに打ち込んでいく。報酬は食事代程度だが、初めての経験で面白かった。その後、明治通りから花園神社に歩いて、久しぶりに新宿ゴールデン街へ。花の木はなくなったが、その店はスタッフだった女性が「白」という名前に変えてやっている。そこへ行った。中のしつらえは変わっていなかった。私のボトルがあった棚もそのままだ。一瞬、そこからボトルが出てくる錯覚に陥った。変わったのは客筋だ。ほとんどが外人だ。まえは扉も窓も閉めていたが、今は開放しているので、通りがかりの外人が中を覗き、入れないか、確認していく。インターナショナルな街になったが、売れない作家のたまり場だった頃がなつかしく、それがここには合っていると思う。

      
     写真左・ 元花の木店内       写真右・外人も増えたゴールデン街
 

10月5日 足柄から薪割り助っ人

薪材の丸太を仕入れたので、それを薪に切っていく作業がある。まずストーブに入る長さに、薪材をチェーンソーで切り、丸太を作り、こんどはそれにマサカリで薪材に割る。前回は広葉樹の丸太ばかりを買ったら、硬く重くて、往生したので、今回は柔らかいカラマツを入れ、半々にした。このチェーンソー仕事に、足柄山から今村さんと息子さんが来てくれた。今村さんは足柄山の自宅は薪ストーブだけでやっているという、この道のプロだ。薪材も周りに声をかけて、集め回るという。ウチは買うしかないが、この丸太材を切るのが大変なのだ。非力な電動チェーンソーでは時間がかかる。今村さんはオイルのチェーンソーなので、機動力があり、強力だ。二人がかりで、半日で十数本の丸太材が、薪用丸太に切り刻まれた。私はもっぱら置き場作りの役割だ。そして数本は薪までマサカリで切ってくれた。あとは今月末の韓国軍団の仕事である。大汗かいた一日が終わり、温泉で汗を流して、夜は妻の手料理で酒盛りとなった。食べ物屋経営の経験がある息子さんは「おいしい、おいしい」と言って、メモを取っていた。帰ってからお母さんに話す材料となったようだ。いつも来る今村さんの奥さん、夏子さんは老いた犬の面倒で今回は来れなかったのだ。

      
   写真左・カットされた薪用丸太群    写真右・薪を並べるパイプ列都心の夕陽
 

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9 月

9月28日 きのこダメ、八子ヶ峰はさわやか

今年のキノコ狩り,第一弾は蓼科。みんな飽きてしまったのか、参加表明ゼロ、きのこ博士・吉田さんとたった二人で、10年前に始めた頃の山に入ってみたが、きのこの気配、まったくなし。
サクラシメジを採った山は笹薮もその頃より薄くなっていた。収穫なしで、イグチがいっぱい採れた尾根にも入ったが、まるでなし。べニテングだ。真っ赤な株が三つ見つけたが、毒キノコなのだ。
山荘の駐車場横の林に見たこともないひょろっとした大きなキノコ発見!唐笠ダケだという。
茎に白いリングがある初めてのキノコだ。食用になるが、味はないというが、これくらいしかないので、近くにあった小さなイグチと一緒に味噌汁にした。
 

あまりの不作にキノコ狩りはやめて八子ヶ峰を歩くことにした。
最初の急坂を登った所からの尾根道に昔、クロカワを見つけたことがあった。真っ黒なキノコで、ダメと思ったら、きのこ博士が「イヤ、食用かも?」と言うので、7株ほど採った。
しらかば農園で見てもらおうと、持って行ったら、店先に同じものが「一株・1700円」で売っているではないか、1万円以上の収穫だったのだ。焼いて醤油をつけて、白ワインと一緒に食したら、とてもおいしかった。この感激は、この時限りで、毎年ここを通るたびに探すのだが、見つからない。
幸せはあのときだけだったのだ。今年もなかった。八子ヶ峰ヒュッテが珍しく開いていた。
紅茶とビールがいずれも400円と同じ値段なのが不思議だが、吉田さんはビール、私は紅茶でひと休み、少し寒かったので温かい紅茶はとてもおいしく感じた。爽やかな初秋の山を歩いて、蓼科のキノコ狩りは収穫ゼロで終わった。

            
 写真左・カラカサダケの向こうに山荘入口  写真右・カラカサダケいざ出陣
  

9月24日 新丸ビルからの夕陽

フコク生命時代の先輩、三森さんと中島さんとの定期的な呑み会は、いつも昼の新丸ビルのソバキチという蕎麦屋。今年も今日、ここでひとしきり呑んで、そのあと、皇居側の喫茶店に入って、また生ビール、泡がとてもクリーミーなビールだった。西に目をやると、夕日が皇居越しのビルの向こうに沈んでいく頃だった。都心で夕焼けを見ることはめったにないので、何か、感慨深く、ビル越しの夕暮れの光景が心に沁みた。みな、歳を取り、こんなちょっとした光景にも感動するようになったのだ。

      
     写真左・都心の夕陽           写真右・昔の仲間
 

9月15日 新しい小田家の墓

私の父の墓はふるさとの新潟・塩野町にある。祖父の代から全員がここに数基並んでいた。今年の冬、叔父が死に、本来ならここに埋葬するのだが、叔父が檀家総代時代にここのお寺の坊主と裁判沙汰を起こしたこともあり、すんなりと埋葬するわけにはいかないのだ。葬式も別な寺の坊主にやってもらった。そんなことで、お墓を村上の長楽寺に移すことになった。これまでは死んだ人個別の墓だったが、「小田家一族の墓」ひとつにまとめることになった。村上で医者をやっている甥がまとめてくれた。父の墓も一緒になることから、今日の新しい小田家墓開基と叔父の納骨の催しに日帰りで出かけていった。長楽寺は庭が立派な大きなお寺だった。ここなら安心だ。新しい「小田家の墓」は黒御影の立派な墓だった。甥はよくやってくれる。新潟から村上への往復に乗った白新線の車窓からは、稲刈りまじかの田んぼの黄色い光景がずっと続いていた。新潟の景色である。

      
   写真左・新しい小田家の墓        写真右・ 越後平野の秋いざ出陣
 

9月6日 火打山からの眺望

高谷池ヒュッテの朝は早い。5時半の朝食後、一寝入りしてから高谷池の向こうに見える火打山に登りに行った。最初は快調で、昨日のバテも回復したかと思っていたが、上りにかかったら、途端に息が切れてきた。休み休みしながら登っていくと、台湾からきた夫婦に会った。はるか南に見える富士山のシルエットを教えたら、すこぶる喜んでくれた。頂上でも周りの山を教え、「私は全部登ったよ」と言ったら、驚いて、歳を聞いたので、「75歳」と言ったら、さらに驚いていた。いい天気で、北アルプスから南アルプスまで、八ヶ岳、富士山、目の前の妙高山、雨飾山、すばらしい眺望だ。何とか今年も、ほどほどの山歩きができたことに感謝して下山した。赤倉温泉にでも泊まろうかと思ったが、電話したら「2万円」と言われ、やめて、杉野沢の立ち寄り湯に入って、蓼科に帰ってきた。

      
   写真左・富士山ははるか彼方に          写真右・高谷池
   

9月5日 高谷池は遠かった

ここのところ二日くらいは晴れそうだというので、山登りに行くことにした。燕から槍ヶ岳、槍平に下りて、新穂高へと考えていたが、3,4日かかり、雨にあいそうなので、妙高山の裏にある火打山へ笹が峰から行くことにした。これなら2日で往復できる。昔、黒沢池までヘリコプターで上がり、春スキーで火打山には行ったことがある。そのときはすべて白銀の世界だった。今は初秋、だが暑い。杉野沢観光協会へ途中、電話して高谷池ヒュッテの予約をしたら、午後3時までには到着せよとのこと。登り始めるのが11時過ぎと言ったら、遅れそうなときはヒュッテへ連絡をと携帯番号を教えてくれた。笹が峰の登山口からは木道を快調に飛ばし、黒沢橋に1時間で到着、これなら3時まで着けるわいと思った。が、そこからの十二曲がりの急坂でバテた。これを登り切れば尾瀬のような平坦な湿地帯に入るのでは?と予想していたが、下りてくる人に聞いたら、ずっと登りが続くというではないか。確かに十二曲がりを終わっても、結構な上りが続き、富士見平に来た時は2時半過ぎ、3時までには小屋に着きそうもない。電話して遅れることを伝えた。意外にも「気を付けて」のやさしいお言葉。そこから上ったり下りたりしながら、4時ちょっと前に着いた。まずビール、”生ビール”と出ていたので、”生”と言ったら、夕方5時以降でないと出せないと言う。なぜ?と訝ると、サーバーに電気が必要で、自家発電が5時からなのでと。「納得」、缶ビールでバテた体を少し癒した。

        
     写真左・十二曲がりの道        写真右・高谷池ヒュッテ
 

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8 月

8月24−25日 阿波踊り終われば秋がやってくる

高円寺の阿波踊りは、今年は24,25日の両日参加となった。中々連も11年目を迎えて、かなりサマになってきた。新座のこぶし連が参加するようになり、分裂騒動を経て、むさし中々連に衣替えしてから、彼らの踊りに磨きがかかり、中々連の踊りもレベルが上がった。人数も増え、高円寺の連らしくなった気がする。
幸い、両日とも雨の心配がなく、楽しく踊ることができた。私が預かっていた頃の道具や浴衣は、雑然として捨ててもよいものも相当数あったが、そのままにしていたので、箱の数は膨大だったが、矢田さんが預かってくれてから、整理整頓が進み、今年の私の運搬はとても楽だった。車内にかなり余裕があったほどだ。
そんな矢田さん夫妻に男踊り賞と女踊り賞が授与されたことは、とてもよかった。
踊り終わったあとのギャラリー久での打ち上げは楽しい。最後の〆のひと踊りはいちばん嬉しい時間だ。

      
      写真左・いざ出陣          写真右・ 前の連のかわいい踊り子
  

8月13−14日 蓼科滞在の恒例

夏の蓼科に滞在するときはいつも娘がいたが、今年は用があるとかで、妻と二人だけの滞在となった。
いつもの近くのハイキングは、今年は鷲ヶ峰、八島湿原のそばの山だ。昨年秋に泊った鷲ヶ峰ヒュッテにランチを頼んだら、夏は泊り客だけとかで、登るだけにした。おにぎりとサンドイッチを持って、1時間強の登山に出かけた。頂上で美ヶ原を探したり、諏訪湖を眺めたりして下山。
翌日は、恵泉女学園のガーデン見学日、去年からこれも恒例行事になった。
ここのガーデニアンに庭つくりの指導を受けている川合さんが車の整理をしていた。「今年も来たよ」とあいさつして、ガーデンツァーに参加した。春になると庭の先のカラマツ林越しに雪の八ヶ岳が見えるそうだ。

      
      写真左・鷲ヶ峰頂上           写真右・恵泉ガーデン
   

8月4日 鷹ノ巣温泉

叔母の葬式が終わって、直会代わりに小田家の食事会を吉源でやった。真夏とあって鮭料理ではなく、村上牛のサイコロステーキが出た。このあと運転をするので、ノンアルコールだ。
おなか一杯になってから、鷹巣温泉に向かった。関川村にある米坂線沿いの山峡の温泉だ。
昔から行きたい場所だったが縁がなかった。駐車場から吊り橋を渡って玄関に入る。ほとんどの客室が離れの部屋、露天風呂もついた広い部屋。124uとは、わが家より大きいではないか。
昼の肉で腹ふくれていて、夕飯までには空かせねばならぬと対岸の鷹ノ巣山に登ることにした。
20分で登れると案内があったが、これがなんと、途中からは岩だらけの急坂になる。
岩角に足を乗せ、鎖で体を持ち上げなければならない所もあり、あと頂上少しの所で妻はギブアップ。私だけが頂上の見晴らし台まで上がった。眼下に温泉の建物が見え、米沢方面への車もひっきりなしに走っている。県境近くにはスキー場のような山の切り開きがある。思った以上に見晴らしはよい。
宿に帰ってきたときは、シャツも半ズボンも汗でぐっしょり、飛び込んだ温泉の気持ちよさ。夕食に肉の鍋が出た時はさすがに食べきれなかった。少しの山登りでは、昼のステーキはこなれなかったようだ。

      
   写真左・鷹ノ巣山からの眺望           写真右・肉鍋は食べきれず
 

8月4日 叔母の葬儀は私が喪主

かねてから療養中だった叔母が亡くなったのが6月28日、クールマイユールに滞在していたときだ。いとこに頼んできたとはいえ、骨を拾えなかったのは心残りだった。
葬儀は8月として、帰国して、骨壺を入間の葬儀社で引き取り、一昨日、私の車の後ろの座席に骨壺を座らせ、シートベルトをタスキがけにして、転がり落ちぬように固定して、村上まで運んだ。
そして今日が叔母の葬儀と納骨だ。いとこの中で私がいちばん年長なので喪主を務めた。
本来なら叔母が嫁いだ板垣家がやるのが筋なのだが、子供もいない、板垣の身内は認知症で介護状態ということで、小田がやらざるを得なかった。だから出席者は小田家の本家、分家だけというこじんまりしたものになった。
結婚してから苦労の多かった叔母で、私はこの叔母に小さいときから育ててもらっているので、育ての親なのだが、ここ数十年はいろいろなことが重なり不義理をしていた。そんなことへの罪滅ぼしもあり、喪主を務めることになった。身内だけの寂しく、しんみりした葬儀だったが、ふるさと近くのお寺に埋葬されたことは、せめての慰めになったのではなかろうか。

      
   写真左・座席に十字掛けの骨壺             写真右・納骨
 

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7 月

7月13日 ああ野麦峠

極楽スキーの夏バージョン「広島焼きとトレッキング」は、野麦峠へ行った。かの有名な”女工哀史”の峠である。信州側から峠まで1.3キロの旧街道が残っている。
飛騨の若い娘が諏訪湖周辺の紡績工場へ出稼ぎに通った峠道だ。年に1回、ふるさとに帰れるのは正月だけ。雪の中を登って帰った。そして正月が明けると、この道を工場へと戻ったのだ。体が悪くなると、即、帰郷を命じられた。兄の背中で峠にたどり着き、「飛騨が見える」と言って命絶えた娘もいた。そんな悲しい物語が残る野麦峠だが、峠の資料館で説明を聞いたら、体を悪くした人もいたが、大半は健康に勤め上げ、飛騨に帰って90、100まで長生きした女工さんも多いという。
諏訪の片倉製糸は女工さんのために大理石風呂を作り、健康増進にできるだけのことをした。信州と飛騨では、女工哀史の評価には正反対だが、峠の資料館長の話は、的確な説明で女工哀史だけではなく大半は幸せな生き方をしたというまっとうな説明であったことが嬉しかった。

      
   写真左・ 野麦峠道のお地蔵様         写真右・とうじ蕎麦の昼食
  

6月15日〜7月8日 北イタリア〜スイスへの旅
7月1日 セントバーナード博物館

シャモニーはフランスだが、次のマルティーニの町はスイスになる。この町は以前、スキーでヴェルビエに行ったとき、立ち寄ったことがある。山の中の小さな町だが、モネ、ドガ、ルノアールなどの名画が数多く展示されている美術館がある。またローマ時代の劇場などの遺跡もあり、印象深かった。しかし、美術館ではロダン展などやっていて、あの名画は今は展示されていなかった。ローマ遺跡の劇場跡も何かフェスティバルでもやるらしく、入れなかった。
セントバーナード博物館は、以前来た時は冬ではく製の犬が展示されていただけだったが、今回は本物のセントバーナード犬、それも親犬から子犬までいっぱいいた。明日、向かうセントバーナード峠で、冬の道で遭難した人に首に下げた酒を与え、気付をし、峠の修道院の避難所に案内したという犬なのだ。救助犬で、とても大きい。見るとこわいが、おとなしい性格で人が近づいても吠えない。妻は並んで記念撮影をした。

      
   写真左・セントバーナード犬の家族     写真右・見かけよりやさしい犬
  

7月2日 峠の修道院ホスピス

救護犬で有名なサンベルナール峠はスイスとイタリアの国境にある。標高2400mの高地だ。ここに修道院があり、ホスピスという巡礼者や旅人の休憩所がある。今はガン患者など、死を目前にした人の身体的ならびに感情的な苦しみを緩和する目的でつくられた療養所や病院もホスピスというが、昔は遭難した旅人の救護所でもあった。サンベルナール犬は遭難者を発見し、気付薬の酒を飲ませ、このホスピスまで連れてくる役目だった。
修道院には礼拝所があり、参拝に行こうとして、入り口の透明なガラスにおでこと右ひざをしたたかぶつけ、今でも膝の痛みが残っている。このサンベルナール峠のホスピスは今、オーベルジュ・ホスピスの名でホテルになっていた。夕食も提供するホスピスだ。部屋もきれいで、窓からの眺めも国境の湖越しにイタリアの建物が見えて美しい。酷暑だったシャモニーやマルティーニから来た我々にとっては極楽の場所だ。
セーターを着ないと寒い。夕食のミネストローネスープは上品な味でおいしかった。ひざの痛みとともに、この旅でいちばん印象に残る場所となった。

      
  写真左・ ホスピスの部屋からの眺め       写真右・ 修道院礼拝堂
  

7月3日〜5日 涼しいチェルビニア

標高2400mから下ってきたイタリアのアオスタの町はまた酷暑に戻っていた。ここにもローマ時代の遺跡が残り、道に迷いながらもその一つにたどり着き、見学した。ここからサンベルナール峠を越えてスイスにローマ軍は侵入していたのだ。混雑しているアオスタからチェルビニアへの道に進んだ。
チェルビニアはツェルマットの反対側、マッターホルンをイタリア側から望むスキーの村だ。モンテ・チェルビーノがイタリアのマッターホルンの呼称。スキーの村だけに、夏の人出は少ない。しかし標高が2000mあり、涼しく快適な避暑地でもある。泊りはメゾン・ブレンバというアパートメント。
これがわからない。何度か上へ行ったり、下へ行ったりして、電話をかけた。迎えにくるということなどで、待つことしばし。案内された所は、すごく大きなマンション、この中の一室が我々の部屋。分譲したマンションの一室を買って、これを貸し出しているようなのだ。管理を委託されているのかオーナーなのかわからない女性が、お客が来ると下の町から上がってきて対応している。クールマイユールのシャレー同様、部屋は広くて、使い勝手がよさそうだが、何せ寒い。表示盤は20℃になっていて、触るなの表示、地域空調でコントロールしていて、最適温度に保っているというが、夏の20℃は寒いんじゃないかい。同じ棟の中の他の部屋には誰もいないようで寂しい。やはりここは冬の町なんだなと実感した。

      
  写真左・借りた客室のあるマンション   写真右・イタリア側からのマッターホルン
  

シャモニーで痛めた妻の足もまだ完治していないこともあり、ロープウェイを3本乗り継いでスイス国境の場所まで行くことにした。ロープウェイは6人乗りや、スキーを中に立ててその周りを囲んで乗るタイプ、最後は100人以上は乗れる大きなゴンドラだった。20年前にツェルマットにスキーに来た時、晴れた日にチェルビニアまで滑ってきたことがある。昼めしを食べて帰っていった。たぶんその時にも乗ったゴンドラだと思うのだが、思い出さない。眼下の草原は冬は一面のスキーのスロープになる。思い出の場所のはずだが、季節がちがうと全くわからないものだ。
上りついたプラトーローザは3480m、マッターホルンの上部は雲にかかってしまったが大きい山だ。この高地には雪が残り、長いTバーリフトが2本かかっていて、おおぜいスキーをやっている。山小屋でミネストローネの昼食を摂った。ここのスープはこってりしていた。帰りのゴンドラはイタリアのどこかのスキークラブの若者でいっぱいだった。みんなグッタリしている。午前の雪の状態のよいときに滑って昼になったら切り上げ、麓に帰るのだ。こんな風に1年中滑るのだから、強いはずだ。
翌日は村の周辺の草原を歩いて、アルプスの生活は終わった。

      
   写真左・ スキーから帰ってくる人      写真右・ スキー場の草原を歩く
  

7月6日〜7日 マジョレ湖の夕日

この旅、最後はミラノの北、湖水地方にした。コモ湖が有名だが、帰りの空港に近いマジョレ湖を宿泊地にした。地球の歩き方に載っていたモン・トックホテル、ハーフボードの夕食付がお奨めと紹介されていたのでそれにした。二つ星のホテルなので、部屋はそれなりで、冷房はない。食堂にはあるが、それが何と三菱電機のクーラーなのだ。フィレンツェのアパートも三菱だった。三菱電機、がんばるね。
ここの女将さんがきびいしい人で、激しい夕立が来たとき、部屋にズカズカと入ってきて、ベランダや窓のシャッターをバタバタと閉め、「気を付けて!」と強くのたまった、ような…。しかし夕食はおいしく、最後の夜のウインナーシュニツェルのようなカツレツは絶品、妻のミネストローネもおいしかったようだ。

          
    写真左・ モントックホテル        写真右・三菱電機ここにあり
  

マジョレ湖にはミラノ出身の貴族・ボッロメオ家が所有するベッラ島とマードレ島があり、いずれにも宮殿がある。遊覧船で島めぐりをした。最初のマードレ島の宮殿はお妃様のために建てられたというが、庭園が美しい。白いクジャクがいて優雅な島だ。次に行ったスペリオール島は土産物と食べ物屋だけの島だった。島めぐりの遊覧船が昼どきに寄るので、そのお客目当ての島になっている。
ベッラ島にはボッロメオ家の本殿があり、ナポレオンが滞在した間がある。第二次大戦の前、ムッソリーニがドイツと作戦会議を開いたのもこの宮殿だったとのこと。この島々を望むのが、我々が泊っているストレーザの町だ。島めぐりを終え、夕飯を食べて、まだ明るい湖畔を散歩した。対岸の山の上にホテルがあるらしく、その灯りが周りが暗くなっていくにつれて、だんだん輝きを増して来る。
スイスの山に日が沈み、辺りが暗くなり、湖に夜のとばりが降りて、今回の旅は終わりを迎えた。

      
   写真左・マードレ島の白クジャク      写真右・暮れなずむマジョレ湖
  

7月8日 さあ日本に帰る日だ

こんなにも帰る日を楽しみにした旅はなかった。トラブル続きで、妻は「帰りたい」を何度言ったことか。私だって「帰りたい」と思ったが、「それを言っちゃおしまい」とこらえていたのだ。
ミラノのマルペンサ空港へは車で1時間、これで日本へ帰れるのだ。高速に乗ってしばらく走り、ローカルな道に下りて、ガソリンを入れ、朝8時過ぎに空港へ着いた。いつものことながら、レンタカーを返す場所探しに苦労した。ローカル、マイナーな会社だったので、駐車場も端の方、ハーツの陰に隠れたような所だった。係員が車を点検し、「ノーダメージ、ノープロブレム!」とにっこり笑ったとき、この旅は終わった。

この旅には後日談がある。帰国した当日、昼過ぎに自宅に帰ってきて、昼めしもとらず、私は市役所へ。ミラノ警察の盗難届のコピーを持って。盗られた財布の中には健康保険証が入っていた。
翌日、市立病院の定期健診を予約していたので、保険証が必要なのだ。保険証はすぐ発行してくれた。次に向かったのは小金井の運転試験場、明後日には蓼科へ車で行かねばならないので、運転免許証が必要なのだ。国際免許証では運転できない。試験場では、盗難のいきさつを詳しく書けと言う。ミラノ警察の届けを出したら、「外国で無くしたんなら、まあ出てこないね」と言って、ミラノ警察の届けは無視された。2時間もかけてもらった盗難届は何の役にもたたない。海外旅行保険も現金は対象外という。銀行カードも再発行に10日以上かかった。お盆の墓参りの帰りに入ったうどん屋でJAFカードがあれば100円引きと書いてあった。それではJAFカードを、となったところであの財布にはJAFカードも入っていたことを思い出した。

        
     写真左・ ボナッティ小屋       写真右・氷河の水とマッターホルン
 

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6 月

6月15日〜7月8日 北イタリア〜スイスへの旅

今年の海外旅行は妻の行きたい場所を優先して、そのあと私の希望を足して、イタリアのフィレンツェ、ミラノ、そしてアルプスのイタリア側、クールマイユールやチェルビニアとフランス・シャモニーなどを廻る25日間の長期になった。
旅の初めからトラブル発生し、次から次へとさまざまなトラブルが続き、大変な旅行となった。
いつも楽観的な私も、気が滅入ることが続いて参ってしまった。
日本の安全がいかに外国では安全でないことがわかった。そしてこのトラブル処理の過程で、日本企業はグローバル化が遅れていることも実感した。教訓に残る旅となった。

      
     写真左・ミラノのドーモ聖堂       写真右・モンタンベール登山鉄道
  

6月15日 トラブルの幕開け

成田を定時で飛び立ったスカンジナビア航空(SK)は順調に飛んで、定時にコペンハーゲン空港に降りた。
しかしゲートに入らず、滑走路に止まったままだ。直前に豪雨があり、飛び立てない飛行機が多く、ゲートの空き待ちだという。ようやく入ったが、ここからトラブル序章が開いた。
ラウンジで待てど、ミラノ行き接続便の時刻直前になっても出発ゲートが表示されない。係員が調べてくれて、ミラノ行きSK便は欠航、ルフトハンザ航空のフランクフルト経由でミラノ行きに振り替えるという。当初の夜7時着は無理で、11時過ぎミラノ着になるという。タクシーを予約しているが、変更しなければならない。
国際電話で変更を頼んだ。フランクフルト行は最後尾の予備席のような狭い所、コペンハーゲンまでのビジネス席とは雲泥の差。文句は言えない。やっとミラノ空港に着いたが、予約したタクシーはいない。電話をすると、時間が空いたので、他の客を運んでいて、空港に来るのは夜中の1時過ぎになるという。「待てない」と空港にいたタクシーをやっと見つけて、乗った。アパートに着いたときは夜中の1時を回っていた。

      
   写真左・ ミラノのアパート室内       写真右・アパートの中庭
  

6月16日〜19日 ミラノの地下鉄にご用心

昨夜は遅かったので昼前に起きて、ミラノ中央駅に行って、まずクレジットカードで500ユーロほどキャッシュングした。それから地下鉄で一日券を買った。買い方がわからず少し戸惑ったが何とか買え、財布をスラックスのポケットにねじ込んだ。地下鉄2号線に乗った。結構、混んでいて入り口付近の手すりに掴まった。後ろから肩をたたかれたので振り向いたら南米系の小柄な中年男がいた。「何か?」と言おうとしたら、前方を指さすので、その方向を見たら、何もない。また振り向いたら、今度は別な方向を指さす。何もない。”あっち向いてホイ”を繰り返しているうちに次の駅に着き、男は消えた。ポケットを探ってみると、財布も消えていた。すぐにすられたことをわかった。目的の駅に着き、駅員へと探したがだれもおらず事務所もない。財布には現金とクレジットカード、健康保険証、免許証など一式が入っていた。スフォルツ城に行くつもりだったので、そこで警察とATMを聞いた。届けなければならないし、金がない。幸い妻がVISAカードの家族用を持っているので、それで金を引き出そう。通りにあったATMで引き出そうとするが、出てこない。おかしいなと思いながら別なATMでやっても同じだった。日本のVISA発行しているセゾンに国際電話をした。「家族カードにはキャッシュング機能がない。ショッピングは本カードと同じにできる。」、「何とか旅行期間中だけでもキャッシュング可能にできないか」と頼んだ。「社内で検討する」ということだった。

      
     写真左・ミラノの地下鉄           写真右・スフォルツ城
  

「ポケットに財布を入れるなんて!」、「あんたはいつも大丈夫だしか言わないから!」とさんざんなじられたが、返す言葉がない。現金がないと次のフィレンツェのキャッシュオンリーのアパートに払えないのだ。もう1枚盗まれたJCBカードに電話したら、再発行してミラノのJCBプラザで受け取れるとの話、これはよいとよく聞いたら、パリで発行し、ミラノに届くのは5日先とのこと、それではミラノを離れたあとなので万事休す。
警察への届けも明日にして、気晴らしにドーモの屋根に上って、古き街を一望し、プラダ、ルイヴィトンなどのブランドが密集している通りをうつろな目で廻って、アパートに帰ってきた。

  

6月17日 警察は3時間待ち

翌17日、ミラノ中央駅の交番へ行って被害届をしようとしたら、「本署へ行ってくれ、そこなら日本語で被害届を出せる」とお巡りさんが言う。本署は地下鉄3番線で二つ目の駅なので、地下鉄に乗った。
妻の周りに南米系の女性たちが2,3人いた。「昨日も車内にいた人のようだ」と言う。そうこうするうちに次の駅に着き、その女たちは下りて行った。妻のザックの上が開き、中に入れていた布袋が床に落ちていた。袋の中の財布もあった。しかし開けて見ると、ユーロや日本円の札がそっくりない。「またやられた!」。女たちの中に身重の女がいて、昨日、席を譲ろうとしたので覚えていたという。同じグループにやられるなんて!

  

警察への届けは2人分になってしまった。探しあてた本署の事故受け付けは3時間待ちという。銀行の順番カードのような札をもらい、狭い待合室で順番を待つ。バックパッカーや家族連れなど、いろいろな国からの被害者がいっぱいいるのだ。「みんなやられたのね」と何だか親近感をもってしまう。
妻もやられたことでさらにガックリなのだが、私はホッとした気もするのだ。昨日の妻のなじりが消え、落ち込んでいる。「仕方ないさ」と余裕をもって慰めることもできる。二日続けての災難なのに苦笑いで時間をすごした。途中で帰る人もいて、2時間くらいで私たちの番が来た。
事前に書いておいた日本語バージョンの届け用紙を持って、係官の部屋に入った。日本語の用紙を見ながら、パスポート番号や生年月日、名前を別な用紙に記入し終わったら、それと届書をコピーして、「ハイ」と渡してくれて終わりだ。何も聞かない。届けの「盗難」「紛失」のチェックだけ見て終わりなのだった。いちいち聞いてる暇なんてないんだね。

      
     写真左・ ミラノ警察の本署         写真右・荘厳なドーモ屋上
  

6月18日 夢に見ていた最後の晩餐

ミラノ最後の日、予約していた最後の晩餐ツァーに参加した。「最後の晩餐」はレオナルド・ダビンチのモナ・リザと並ぶ名画中の名画、旧ドミニコ派修道院の食堂の壁に描かれている。第二次大戦のときは連合軍の空爆からこの絵を守るために大量の土嚢を積んで、破壊から守ったという。小学校の授業でこの絵の存在を知ったときから、見たいと思っていた。その絵に、今日会えるのだ。高鳴る胸をおさえながら、薄暗い建物に入った。
15分限りの参観なのだ。窓からの自然光の中に、あの名画が浮かび上がっていた。何度も修復されているとはいえ、淡い色彩の中に際立つキリスト、そして暗く顔を隠して描かれているユダの姿。じっくりと何度も凝視して、堪能した。ミラノにはこの絵を見るために来たと言ってもよい。他はどうでもよかった。夕方の薄暮の中の古い修道院の一室にある世界の宝、ダビンチのレガシーを感じられた時間であった。

      
    写真左・「最後の晩餐」の前で     写真右・名画中の名画「最後の晩餐」
  

6月19日 JCBとVISAの差

ミラノ中央駅から汽車でフィレンツェに向かった。特急のエグゼクティブ席、飲み物、食事つきの豪華版だ。
フィレンツの宿に着いたとき、アパート管理人がUPSの封筒を渡してくれた。これは道中、気になっていた物だ。
ミラノで盗難に遭い、スッカラカンになり、セゾンカードに妻のカードにキャッシュング機能をつけてくれるよう頼んでいたが、警察で順番待ちをしているときに電話があり、「無理だが、緊急カードを発行できるので、アメリカのVISA本社に電話を入れてくれ、話はしてある」ということだった。
着信払いの電話を入れたら、翌日には届けられるので次の滞在先を教えてくれと言われ、このフィレンツェのアパートの住所を連絡した。JCBでは5日かかると言われたのに、VISAは翌日届けられると言う。それもアメリカから。
ここはイタリア、どんなに早くても3日はかかるだろう。その疑問をぶつけると、「カードはドイツで作成し、宅急便で翌日配達」と言うではないか。それが現実となっているのが、もらったUPSの封筒なのだ。いちばん気がかりだったキャッシュングもATMでできた。これでここの宿代も払える。世界的なVISAと日本中心のJCBの力の差を実感した盗難事件でもあった。

      
   写真左・フィレンツェへの特急車内      写真右・フィレンツェ駅
 

6月20日 大混雑のフィレンツェ

フィレンツェはローマと並ぶイタリアの観光都市、世界中から人が集まる。さしづめ日本なら京都、歴史の町だ。ドーモ聖堂には長い人の列、屋上に上がる予約は一週先まで埋まっているほどだ。ミラノがレオナルドダビンチなら、フィレンツェはミケランジェロだ。かの有名な男性ヌード像の「ダヴィデ」は宿の近くのアカデミア美術館にある。おおぜいの人をかきわけて、ダヴィデの前に立ち、若い男の裸の像をじっくりと見た。彼はまだ童貞の若き勇士と見た。年齢は18歳くらいか、”ルネサンス文化、ここにあり”の象徴でもある。それにしても人の多さにはうんざりである。

      
    写真左・ 観光客でいっぱい     写真右・「ダヴィデ像」も人でいっぱい 
  

6月21日 アパートの鍵にひと苦労

フィレンツェで借りたアパートはビルの2階にある。ビルの入り口を開けて、2階に上がったら、部屋を開ける。ふたつの鍵がある。これがなかなかの曲者なのだ。入り口のカギで苦労して、また部屋のカギで苦労する。管理人は近くのOKカフェのマスターだ。どうにもならず頼みに行くと、「ノープロブレム」と言って来てくれる。
ビル入り口のカギの開け方コツは彼に習って1回でOKだったが、部屋のカギには大苦戦、2日続けて来てもらった。3日目も開かない。OKカフェに行ったら、今日はノープロブレムおじさんはお休み。他の人に連絡してくれと頼むと、「俺たちはアパートと関係ない」とケンモホロロ。何とか連絡してくれたが、チェックインの時に来たお兄さんが、「なんでわからないんだ」と機嫌悪い。
日中、街を観光してても帰ったときのカギを考えると憂鬱になる。4日目は、「今日はノ―プロブレムおじさんがいますように」と祈りながら、部屋のカギを回したら、一発で開いた。歩いた疲れもすべて飛んでいくほどの喜びだった。

      
     写真左・ OKカフェで朝食    写真右・ミケランジェロ広場からの市内展望
  

6月22日〜24日 トリノでの日々

フィレンツェの4日間を終え、トリノへの汽車に乗った。ピサの斜塔の町や西海岸を通って行くと思っていたら、ミラノから来た線路を戻るではないか。何のことはない、ミラノまでは同じ線路を戻ってミラノ中央駅に入り、それからアルプス沿いにトリノに向かうのだ。これならフィレンツェから旅を始めて、ミラノ、トリノにすればよかったと悔やんだ。
ミラノからトリノは1時間足らずなのだ。トリノの宿は駅前のホテルジェノバ、8日間のアパート生活から解放され、フロントにクラークもいる、鍵の心配もない。バスタブもあり、久しぶりにお風呂に入った。シャワーばかりだと疲れがとれない気がする。ゆっくり湯舟に横になると本当にうれしい。日本人はやはりお風呂でしょう。
トリノの街は観光客も少なく、落ち着いている。王宮へ行ったら、休日は無料とかでなお嬉しい。
昔、トリノがイタリアの首都だった時代があったとか、古き良き街である。映画博物館などもあり、キネマの歴史がわかり、とても居心地のよい街だった。ここでレンタカーを借り、明日からはアルプスの山の街めぐりの旅になる。

      
      写真左・トリノの王宮         写真右・トリノの街の電車
  

6月25日〜27日 モンテビアンコ〜グランドジョラス大展望

トリノの街を抜けて、ハイウェイに乗るまでにひと苦労したが、あとはスムーズにクールマイユールの町に着いた。
予約しておいたレジデンス・グランシャレーを見つけるのに何人かの人に尋ねた。フロントがあり、駐車場もあり、快適なアパートメントホテルだ。冬のスキー客が主体の宿なので、きちんとしている。ベランダからはアルプスの山々を望めて、陽の長いヨーロッパでは夜9時になっても明るいのだ。暮れなずむ峰々を眺めながらのビールは格別だ。
喧騒の町々をやっと抜けて、山の町に落ち着いた喜びがふつふつと湧き上がる。

      
   写真左・ クールマイユールの街       写真右・ベランダで夕涼み
  

次に行くシャモニーの反対側の町なので、モンブランの形も違って見える。真っ白な頂は変わらない。イタリア語ではモンブランはモンテビアンコと言う。その並びにグランドジョラス岩峰がそびえ立つ。
フェレの谷はアルプス連峰をまじかに臨む美しい谷間だ。その谷のラバシェイの村からボナッティ小屋を目指して歩いた。標識がない道を「たぶん大丈夫」と歩いていると、後ろから若いカップルが来た。聞くと、大丈夫という。林道を上がっていくと、標識があり、ここから山道に入った。高度を上げるにつれ、グランドジョラスの岩峰が対岸に迫ってくる。放牧の牛の群れの横を通ると、草原に出て、小屋の屋根が見えた。小屋の前のベンチにはおおぜいの登山者がいる。子供連れも多い。ここまでなら2時間なので誰でも来れるのだろう。
モンテビアンコからグランドジョラスへ続くアルプス大展望を前にしてのサンドイッチは格別だ。景色を堪能して帰路に着いた。インターネットの登山記には牛の群れを抜けて行くと下りる道があると書いてあったが、ラバシェイの村が下に見えるのにそんな道は出てこない。反対から来た人に聞くと、クールマイユールの近くまで行かないと谷間に下りる道はないと言う。牛の群れまで戻り、元来た道を下ることにした。ちゃんとした地図を持たず、ネットの記事を信じて歩いたのが浅はかだった。

      
 写真左・
ボナッティ小屋の向こうにモンブラン 写真右・小屋の正面にグランドジョラス
  

6月28日〜30日 シャモニーは暑い

今朝までいたクールマイユールは標高1200m、昼は暑かったが、夜は涼しくなった。シャモニーの昼下がり、街の気温表示板は34℃を示していた。ここの標高は1000m、もうシャモニーは避暑地ではない。軽井沢と同じになった。泊ったのはシャレージャポニアール、数年前、オートルートトレッキングでお世話になった神田さん夫妻が経営している宿だ。日本人の客ばかりなので、気楽だ。冷房がないのでここも暑い、日が暮れて、庭のベンチに座って、モンブランの山を見上げるのが唯一の夕涼みだ。
翌日は、ブレバンのゴンドラに乗り、山の上から林道を下ってシャモニーに帰ってきたが、これがきつかった。妻は買ったばかりの靴で靴擦れを起こし、しばらく苦労した。翌日は歩かないですむモンターンベール鉄道でバレーブランシュの氷河の谷間に行き、すばらしいシャモニー針峰群の景色を堪能した。その夜は、泊まっていた畠中さんのグループとシャレーでパーティ、寿司屋の桂から寿司盛りを買って来て差し入れ、みなさんが作った鶏のステーキ、ぜんまいの煮物やらで楽しい夜となった。畠中さんたちとは以前、ここで会い、その後、蓼科のゲストハウスの常連になった人たちだ。蓼科での再会を期し、シャモニーを離れた。

      
     写真左・山に集う子供たち      写真右・宿の庭からの夕焼けモンブラン
  

6月1日 奥志賀山菜狩り

恒例の奥志賀の山菜狩り、今年は参加者がいないということで山菜博士の吉田さんも来ない。教えがいのない連中ばかりでは気乗りがしないようだ。私は予定にも入れていたことだしと行ったら、堅木さん夫妻が来るという。それはよいと、この日の午後いつものようにスキー場の第1リフト沿いの藪道を上がって行った。
去年はわらびがいっぱい出ていたが、今年は雪解けが遅かったのか少ない。ウドもまだ出ていなかった。タムシバの白い花は咲いていた。コシアブラとタラの芽も健在だった。最後に別荘地のしらかば園地に行って、行者ニンニクの葉を摘んで、帰りに下水処理場近くの土手でウドを引き抜いて帰ってきた。夜はそれらを配した、三輪さんの料理で楽しい夕餉となった。

      
    写真左・タムシバの花を摘む      写真右・収穫した山菜をあしらった一皿

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5 月

5月29日 ポストの中の鳥の巣

人の手が入っても動じなくなった郵便ポストの鳥の巣、ヒガラらしい。私が不在のときにせっせとふ化に励んでいるらしい。久しぶりに来て、ポストを覗くと、親鳥の羽が見えたり、ジージーという音をたてて威嚇する。開けた途端に飛び出してきたこともある。子鳥が育って巣立っていったのかはわからないが、まだ親鳥が来ているから、ふ化していない卵もあるのだろう。そろそろ6月、巣立ちの刻である。

      
     写真左・ ポストの中の巣       写真右・巣から飛びだった親鳥
  

5月23日 春の八子ヶ峰

韓国から戻ってきて蓼科に来た。爽やかな日が続いているが、東京は夏日が続き、暑いと言う。
蓼科は朝晩は冷えて、床暖房をしている。夜は石油ストーブを点けることもあるほどだ。
そんな今日は暖かく、空も青く、トレッキング日和だ。八子ヶ峰は、5月の初めに登ったときより、緑が増している。アルプスの山々は気温が高いせいか、霞がかかったようだが、白い峰々は良く見える。南アルプスの甲斐駒ケ岳や北岳のあたりは雲に覆われて、仙丈ケ岳だけが見える。八ヶ岳連峰の山梨県側の空にも大きな雲の塊があるところを見ると、山梨県は曇っているのかもしれない。
アルビレオヒュッテの前で休んでいると、後ろから子供たちの声がする。近くの小学校の遠足だろうか。引率の先生がヒュッテの前を通り過ぎようとしたら、”エー、休まないの?疲れたよ!!”の大合唱だ。先生は仕方なく、”ここで休憩!”。子供には勝てないようだ。暖かくのどかな尾根道をアルプスの絶景に囲まれて歩くのは気持ちよい。いつまでもここにいたいと思うほどの春の八子ヶ峰だ。

      
     写真左・八ヶ岳の峰々        写真右・休憩を勝ち取った子供たち
  

5月18日 昌徳宮の庭

ソウル3日目、朝からしとしと雨が降っている。ソウル中心街の裏にそびえる北岳山に行こうと計画していたが、これではダメだ。以前、北朝鮮の特殊部隊がこの山を越えて、大統領府に侵攻しようとしたことがあったらしく、それ以来、入山禁止になったエリアだ。
今は開放されたが、山へ入るには身分証明書が必要、我々はパスポートが必要な山なのだ。何となくスリルがある山登りになりそうで、行きたかったが次回に回し、娘が景徳宮に連れていってくれた。昔の皇帝の館、ここの裏手は広大な庭園になっている。日本語ガイドがあり、その時間に行った。
ガイドが「今日は雨が降って、人数が少なくよかったですね」と言う。晴れた日は200人もいて、ガイドどころでないらしい。今日は十数人と説明もよく聞こえる。皇帝がよく散歩した庭園や湧き出ている泉など、山の中の王宮庭園の雰囲気で、雨の中でも十分楽しめた。終わった所は以前来たことがある、坂の街・北村の入り口だった。趣のある喫茶店で休み、くるみ饅頭の店まで歩き、バスで帰ってきた。
ソウルの市内バスは結構混んでいて、下りるときは早めに準備して出口近くに来ていなければならない。そうしないと下りられないこともあると娘は言う。日本のバスは、「止まるまで席に座って、立たないように」と逆である。まだ韓国の老齢化は進んでいないのだろうか?

      
       写真左・昌徳宮            写真右・ 昌徳宮の裏庭
  

5月18日 愛おしいミンキー

娘の家庭で犬を飼い始めた。小さいポメラニアン。これが可愛いのだ。しかし悲しい過去を持っている犬だと言う。前の飼い主の虐待にあって捨てられ、保護犬として保護されていた。声も出ず、傷ついた状態で保護され、介抱してようやく動けるようになったとき、「飼わないか?」と声かけられ、見た途端にOKしたそうだ。どうも女性に虐待されていたらしく、男性になついてくるそうだ。ジェフンをご主人様と思っているようだ。私にもすぐなつき、ソファに座った途端、飛んで来てそばに飛び乗り、顔を近づけてくる。おなかを撫でてやるとおとなしくしている。声が出ないのはかわいそうだが、至って元気だ。年齢も不明で、娘は10歳くらいでは?と言うが、元気に走り回るのを見ると、もっと若いような気がする。家の中をちょこまかと走り周り、人なっつこいので、とても愛おしい。

         
       写真左・ミンキー           写真右・ ジェフンに抱かれて満足
  

5月17日 敵地での勝利 NCダイノス

ソウル訪問の主目的は野球観戦、娘夫婦のひいきチームのNCダイノスを応援することにある。NCダイノスは韓国南部の昌原市を本拠地とするチーム、ソウルではLGツインズと対戦、つまりビジターで来て、LGと対戦するのだ。以前、LGの試合はSKワインバーズ戦を見たことがある。そのときと同じ球場、こんどはNC側の応援席だ。球場はLGの本拠地だけあって、9割方、LGの応援で、NC側は3塁側の応援席周辺に小さく固まっている。しかし試合は別物、NCがよく打ち、ホームランも出て、LGを圧倒する。NC応援席はヒートアップ、娘も旦那のジェフンも立ち上がって大声で応援歌を歌い、点が入ると歓喜する。周りもみんな大騒ぎだ。片やLGは人数で圧倒する応援も回を重ねるごとに声援が小さくなり、人数も減っていく。終わってみれば昨夜に続き圧勝だ。娘は「昨日、勝っているので、今日は負けてもいいのだ」なんて言っていたのに、大喜びだ。日本のプロ野球以上に、熱くなる応援は韓国プロ野球の見ものである。

      
     写真左・夫婦で声援            写真右・選手名もハングル
  

5月17日 漢江の奇跡

野球の始まる前に漢江の遊覧船に乗った。野球場近くの船着き場からの40分程度の船旅である。
乗船前に船着き場近くのコンビニでアイスクリームを買って、ベンチで食べたらその脇に屋外レンジのようなものが並んでいる。見たら、カップヌードル給湯器や電子レンジだ。コンビニで買ったら、ここでチンして食べるのだ。コンビニのカウンターでのサービスはないようだ。所変われば、やり方も変わるのだね。
船からの眺めは、両側にビルだらけ、それもマンションが圧倒的に多いのだ。先に進むと、オフィスビルが多くなる。”漢江の奇跡”という言葉があるが、両側の繁栄を見れば、それもうなづける。家電、鉄、造船、工業では日本を追い抜き、IT分野でも凌駕した。日出づる国は日本ではなく、韓国なのだ。
なぜそうなってしまったのか?平成の失われた30年が悔やまれる。

      
   写真左・漢江遊覧船で妻と娘       写真右・ カップヌードル給湯器
 

5月12日 スコアボードも母の日仕様

神宮球場で早明戦、前の試合の東大応援席に入って気が付いた。外野のスコアボードが何か違うぞ?よく見ると、両チームの選手名がみんなピンクの文字で書かれている。いつもは黒文字なのに。なんでかな?そうか、今日は母の日だ。粋な演出だな。ささやかではあるけれど。だけど早稲田は明治に負けて万事休す。勝ちたかったな。

      
   写真左・母の日スコアボード         写真右・ 東大の応援席
  

5月8日 今年初めての山歩き

八子ヶ峰は私の山登りのバロメータになっている。2時間半のコースがしんどくなり、3時間以上かかるようになったら、やばくなる。春、雪が溶けたら、登ってみる。最初の20分の登りがスムーズか?
今日は、登りはじめて間もなく、息切れしたが、そんなに苦しくない。タイムも20分でいつもの所に到達した。まずは大丈夫。登りが緩くなるカラマツ林に着き、本道と合流し、ザックを座布団にして座って休み、水を飲んだ。以前は立ったまま休んだ。やはり少し衰えたかな。そこからはアルビレオヒュッテまで休まず歩き、小休止。
八子ヶ峰東峰を左に見て、下り、来月になるとレンゲツツジが真っ赤に染める斜面を登り上げ、展望のよいピークで大休止、白く輝く北アルプスを正面に、左へ乗鞍、御嶽、木曽駒ヶ岳、空木岳、そして南アルプス・仙丈ケ岳、甲斐駒、北岳、左手に八ヶ岳と信州のほぼ全山を眺めつつお茶を飲む。まさに至極の時なり。今年も何とか歩けそうだと自信を抱いた。はるかなる山旅は今年も続く。

      
     写真左・春の八ヶ岳連峰            写真右・ 北アルプスも
 

5月8日 聖光寺の桜

いつも連休の頃、満開になる蓼科聖光寺の桜がまだ残っているか?と見に行ったところ、満開は過ぎ、落花盛ん一歩前の状態で残っていた。さすがに見に来る人は少なかったが、まだまだ見ごたえがある桜であった。ゴールデンウイークはいつもの年に増して、今年は賑やかだったことだろう。駐車場から上を見たら、桜の木々の上に蓼科山の頂上が顔を出していた。桜越しの蓼科山も風情がある。

      
      写真左・聖光寺の桜          写真右・ 桜の上に蓼科山
  

5月5日 土方歳三150年

新選組の土方歳三は日野の生まれである。今年は土方最後の戦い(函館五稜郭)から150年ということで、町あげての祭りとなっている。こんどの日曜には新選組パレードもある。ふるさど博物館では土方歳三展を開催、妻はまだ行ったことがないというので、博物館へ行ってみた。
入って正面に日野高校生が作った、マッチ軸の土方歳三肖像画、そこから中に入ると、日野を中心に土方の生涯と新選組の戦いの歴史。とても興味深く歴史をたどることができた。新選組の評価にはいろいろあるが、公家の学校・学習院の警護にもあたっていたことを初めて知った。幕末まで、学習院は京都にあったのだ。明治維新で公家が東京に移ったので学習院も移転、そして公家以外の人にも開放されたのだ。道理で学習院出の人はプライドが高いわけだ。

      
   写真左・マッチで作られた土方像      写真右・ 子供にも人気の新選組

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4 月

4月27日 あーあの早稲田

「監督が代わったときが、優勝のチャンス」が、東京六大学野球の定石という。なぜなら東大を除いた五大学の実力は伯仲しているので、何かのモチベーションがきっかけとなって力が出るからだ。小宮山監督に代わった今春シーズンは絶好のチャンス。前の高橋監督に代わったときも、春秋と連覇した。最初の東大戦は無難に勝ったので、今週の明大戦は最大のヤマ場になる。ここで勝てば、優勝へまっしぐらとなるはずだ。
というわけで、第一戦の今日、応援席に入った。初回に幸先よく、明治の森下の立ち上がりを攻めて、1点先取。しかしそのあとがよくない。ランナーを出すが、後が続かない。東大戦でホームランを連発した4番加藤も打てない。早川投手が頑張って何とか押さえていたが、7回から打たれはじめ、気が付くと7−1とみごとに逆転された。ここで、応援ギブアップ。家路についた。案の定、翌日も負けて、勝ち点を逃がしてしまった。明治に負けて万事休すという感じだ。あーあ、監督代わってもダメかと嘆息の週末である。

        
      写真左・神宮の応援席        写真右・今年の六大学野球ポスター

4月25日 やっと咲いた水芭蕉、

この冬は雪が積もらないまま春を迎えた。そのせいで水が少ない。いつもなら満水になる庭の下の小さな池も干からびたままだった。そのせいか、いつもなら水芭蕉の白い花が咲き出す4月になっても池のほとりは殺風景だった。
しかし4月初めにまとまった雪が降ったので、池に水が入ったようで、ようやく白い花が咲き始めた。これが春到来の挨拶のようなものである。次に水仙が咲いてくれるといいのだが、葉は出ているのだがつぼみが見当たらない。鹿に食われてしまったか?花が咲くと、毒があるので食べないが、つぼみの頃なら毒が少ないのか、食べるようだ。
マリーゴールドも食べなかったのに、最近は食べられることがある。毒性や香りも慣れてくると薄まってしまうのだろうか。
郵便ポストに、今年も鳥の巣が作られていた。まだヒナは生まれていないが、これも以前は、人の手が少しでも触れていると、親鳥は近づかず、放棄していたのに、一昨年あたりからは、少しのことには驚かず、ポストに時々手を入れているのに、せっせと子育てするようになった。鹿も、鳥も、生きていくのに図々しくなってきているのかもしれない。

      
    写真左・今年も咲いた水芭蕉       写真右・今年も作った鳥の巣
 

4月24日 夢の湯

「監督が代わったときが、優勝のチャンス」が、東京六大学野球の定石という。なぜなら東大を除いた五大学の実力は伯仲しているので、何かのモチベーションがきっかけとなって力が出るからだ。小宮山監督に代わった今春シーズンは絶好のチャンス。前の高橋監督に代わったときも、春秋と連覇した。最初の東大戦は無難に勝ったので、今週の明大戦は最大のヤマ場になる。ここで勝てば、優勝へまっしぐらとなるはずだ。
というわけで、第一戦の今日、応援席に入った。初回に幸先よく、明治の森下の立ち上がりを攻めて、1点先取。しかしそのあとがよくない。ランナーを出すが、後が続かない。東大戦でホームランを連発した4番加藤も打てない。早川投手が頑張って何とか押さえていたが、7回から打たれはじめ、気が付くと7−1とみごとに逆転された。ここで、応援ギブアップ。家路についた。案の定、翌日も負けて、勝ち点を逃がしてしまった。明治に負けて万事休すという感じだ。あーあ、監督代わってもダメかと嘆息の週末である。

      
     写真左・夢の湯の夕食          写真右・ひまつぶしコンサート
 

4月23日 期待に違わぬ雪の大谷

妻が行きたいと言っていた”雪の大谷”見物に立山黒部アルペンルートに出かけた。雪の壁の中をバスが通るというあれだ。扇沢から電気バスで黒四ダムに出た。ここでのお昼は名物黒部ダムカレー。ライスをダム堤防に見立て、カレールーが湖水だ。堤防ライスを湖水カレーに崩しながら入れていき食べる。まずまずのお味だ。
黒部ダムからケーブルカーで黒部平へ上がり、そこからロープウェイで大観峰へ上がった。ロープウェイから覗くと、室堂から黒部へ下る斜面におおぜいのスキーヤーが滑っていた。室堂から一乗越へ上がって、この谷を滑るのだ。20年くらい前に会社のスキー仲間と来て滑ったことがある。そのときはあまり滑りよくなかった印象がある。大観峰からの後立山連峰の眺めは迫力ある。いつもは長野側から眺めているのだが、反対側から眺めるとなかなか山が特定できない。しかし針の木岳や蓮華岳は近いのでなんとかわかった。

      
    写真左・黒部ダムカレー崩れる       写真右・大観峰からの展望
 

大観峰から室堂へはトロリーバスで行く。室堂のホテル立山が今日の宿、ホテルで長靴を借りて、早速、雪の大谷見物に出かけた。雪の高い壁が両脇に聳えているバス道路の片側を歩行者専用にしている。壁の上には細い青空が広がる。時々通るバスが、いちばん壁の高い箇所では、とても小さく見えるのだ。
この日の壁の高さはいちばん高い所で16mと表示されている。夕方のホテルのガイドでは、16mは一週間前の数値なので、そのあと晴れ続きで実際は15mくらいではないかと言っていた。もっとも高いときで20mだというが、ここ数年はこの値にはいかないそうだ。温暖化で雪も少なくなっているのだろう。しかし15mだって、十分に高い。
”雪の大谷”は、やはり一度来てみる価値のある所だった。着いてすぐと、夕方5時からのホテルのガイドツァーと、2回も約500mの雪回廊を往復したので、いささか疲れた。温泉に入り、標高2450mのホテルのフランス料理でビールと日本酒を楽しんだら、そのあとのスライド説明会では寝てしまい、しばしば妻に突かれる始末だった。
いつもはテントか山小屋の立山でのホテル泊まりは、快適ではあるが、何か違和感も持った。でも楽しい一日であった。

            
     写真左・雪の高さは16m         写真右・最大の壁の前で
 

4月12日 示現会のあとは小伝馬町へ

IBMに勤めていて、仕事関連で知り合いだった三宅康夫さんが故郷・長崎に帰ってからしばらく経つが、絵の団体・示現会の案内を毎年送ってくれる。今年ももらった。そこで六本木の国立美術館へ妻と出かけた。長崎の海を題材にした絵が中心、今年も港町の風景だった。示現会の絵は風景中心の具象画が多いので、見ていて楽しい。山の絵がたくさん出展されているのも好ましい。だから毎年、楽しみにして いる。
絵のあとは歴史探訪に出かけた。妻が市のシルバーセンターで聞いてきた幕末の長崎のオランダ商人の江戸城訪問の話の舞台になっている小伝馬町界隈を見たいというので、日比谷線で小伝馬町に出た。ここには吉田松陰が処刑された刑場跡や牢獄模型などがある。また長崎からの物資を扱っていた長崎屋の跡地(ビルに代わっているが)がある。江戸幕府に定期的に挨拶に来たオランダ商人は長崎屋に滞在していたという。動乱の幕末の歴史の史跡がいっぱいあるのが小伝馬町界隈なのだ。都心の街を歴史の角度から歩いてみると結構面白い。

      
    写真左・三宅さんの絵と・・・        写真右・伝馬町処刑場跡
 

4月11日 旧友の墓参り

学生時代の岳文会の仲間の同期が大晦日に亡くなっていたことを知り、同期の仲間で墓参りに行った。
東上線の氷川台、有楽町線や副都心線が入っている駅で、東上線の本線に平行に走っている線であることを行ってみて初めて知った。良く晴れた空の下の墓地には桜が舞っていた。その後、サイゼリアでお昼となったが、ワインを赤と白を頼んだら、大きな1ℓボトルが2本来たのには驚いた。その後、どう帰ってきたのか覚えがない。
次の朝、行った仲間から「ダウンコートが違っている」とのメールが来た。見ると確かに自分のものでない。
財布の中にタクシーや高田馬場のカラオケの領収書がある。これでかろうじて思い出した。カラオケに行きたいと言って、氷川台から高田馬場へタクシーで出て、そこから家へ電車で帰ってきたのだった。1ℓワインのなせる業だったのだ。

          
      写真左・旧友が眠る墓          写真右・ 桜咲く墓地
 

4月10日 思わぬ大雪

スキーの後、蓼科に3日ばかり滞在し、帰る日の朝、驚いた。雪がジャンジャン降っているでないか。あっという間に20cmくらい積もった。山荘の上の駐車場に停めた車も真っ白、このまま雪が増えると、道路への坂が上がれなくなる。あわてて下の駐車場へ移すことにした。移し終えても、雪はどんどん積もってくる。掃除をして帰る頃には30cmくらい積もっていた。植えようとマリーゴールドを買ってきたのに花壇は雪に覆われて無理だ。次に来るときまで東京へ持っていこう。今まで雪が降らなかったその反動が4月になってきたのではないかと思うほどの雪だった。

      
    写真左・あわてて車を動かす         写真右・車は下へ移動
 

4月6日 令和まじかの春スキー

極楽スキーの定番、春スキー。宿は本番と同じ、小林旭オーナーのコンテデネージュ。朝6時から2時間のアーリーバードのスキーが楽しい。きれいに圧雪された硬い斜面はエッジが利いて、とても滑りやすいのだ。春スキーならではの醍醐味が味わえる。滑り終わってからが朝食だ。この日は気温も高くならず、その後も楽しく滑れた。
奥志賀のゴンドラ山頂駅には「令和」と彫られた雪の壁が作られていた。今月で平成は終わりなんだなと実感した。

      
    写真左・さっそく雪で”令和”      写真右・朝の硬い斜面を滑る仲間
 

4月2日 HP時代の上司死す

HP時代の上司だった浅井さんが亡くなられた。パーキンソン病だった。リタイアしたあと、海外進出したい八王子界隈の企業のお手伝いをしたいと言っていたが、それを果たせず、会社を辞めて間もなく病気になられた。
現役の頃は夜遅くまで働き詰めの人だった。人生を仕事だけに捧げたような生涯だった。苦学生で毎日の昼飯に事欠いていたという。横河電機に就職して、昼めしが会社の食券で食べられたことが、いちばん嬉しかったと言ってられた。慎重な人で、なかなか八王子工場建替えにウンと言わなかったが、一旦、OKとなったら、HPの慎重派の役員を説得するためにアメリカまで行ってくれたことは本当にうれしかった。もっと長生きしてほしかった上司である。

          
     写真左・浅井さんの葬儀       写真右・一緒に建てた八王子事業所

4月1日 いきなエイプリルフール

日野の桜も満開になった。今日は4月1日、朝刊に入っていた近くのスーパー・アルプスのチラシにたまげた。
「アルプス山脈店オープン、初の海外進出!」とあるではないか。地図まであり、ユングフラウの近くとのこと。「グリンデルワルドに開店か?」と思って、読み進むと、「駐車場なし、歩きオンリー、店長はおりません」。エイプリルフールの広告チラシなのだ。それにしても粋なチラシではないか。「特別セールは本当です」の下にはいつもの肉や野菜が並んでいた。

      
   写真左・エイプリルフールのチラシ      写真右・日野の桜も満開

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3 月

3月31日 奥肌寒むの花見

中々連恒例の井の頭公園での花見。満開になったばかりの日曜とあって、場所取りには苦労したようで、いつもの所より遠くなり、桜の真下ではなかった。それでも前方を見れば、満開の桜が見え、振り返るとまたそこにも桜、桜。まずは良し。新宿の高島屋で、柿の葉寿司とたいめいけんのカツサンドを買って到着した。
柿の葉寿司は食べやすいので人気だ。酒もたっぷり、30名くらい集まって盛り上がる。そこで、監視人が来ないのを確認して、阿波踊り開始、とすぐ若い女性二人が遠くから走ってきて、飛び入り参加。「私たちも高円寺のさんさん連で踊っているのよ」と笑顔で輪に加わる。”さんさん連なんて聞いたことないな?”と思ったが、踊りはうまい。そうこうするうちに、周りからも飛び入りが増え、外人さんも混ざってきた。少し肌寒い日ではあったが、踊ると体が温まってきて、そのあとの酒はさらにおいしくなるのであった。

          
     写真左・空は青空、心は花見       写真右・桜はウキウキさせる
  

3月27日 早稲田野球部安部球場

今年の早稲田は小宮山監督に代わり、優勝が期待できそうとのことで春のリーグ戦が待ち遠しい。状況視察に東伏見の安部球場の亜細亜大との練習試合を見に行った。ここに行くのは初めて。西武新宿線の東伏見南口を出ると駅前左手一帯は広大な早稲田大学の敷地だった。ここにスポーツ各部の練習場や学生寮が建ち並んでいる。安部球場は敷地のはずれにあり、歩いて10分もかかる遠さだった。入ると安部磯雄先生と飛田穂洲監督の胸像がある。バックネット裏にいくつか座席があり、ここに座り観戦する仕組みだ。目の前がホームプレートなので特等席なのだが、目の高さが低いので、全体が見渡せないという難がある。それでも野球好きの早稲田OBらしい年寄りがおおぜい陣取り、「加藤はドラフト候補だとか、大阪桐蔭から入った中川はすばらしい」などと野球談議に花が咲いている。今日は風が強く、バックネット裏は日当たりがないので寒い。
常連は状況をわかっているらしく、陽射しのある所は花見日和の暖かさにもかかわらず、コート、襟巻、手袋で身を固めている。長年、通っているのだろう。試合は亜大が先行したが、早稲田がすぐ追いつき、2−2の締まった試合で8回裏まで来た。亜大の代わった投手に早稲田は連打を浴びせ、5点とって勝負ありの状況となった。トイレに行きたくてたまらないが、付近に見当たらない。最終回を待たず、球場を後にして駅へ小走りで戻った。開幕まじかい練習試合となると、打者はレギュラーになりそうな選手をほぼ固定化しているが、投手はベンチ入りするかしないか微妙な選手を試しているような感じだ。両校とも4人の投手をリレーしていた。その点では亜大の3番手の投手が甘かった。大学野球は投手力によって、チームの実力がわかることを実感した。

        
 写真左・バックネット裏は本塁に至近距離     写真右・早大安部球場
  

3月19日 ロッテアライリゾート・スキー場

村上の四十九日法要の帰りに、妙高の近くにあるロッテアライリゾートに寄った。スキーが目的だが、韓国のロッテホテルが経営しているという興味もあった。もともとこのスキー場はソニー創設者の盛田昭夫さんの息子が始めたがうまくいかず、ロッテが引き継いだいわく付きのスキー場なのだ。国内ではあまり宣伝していないので、日本人より外人客が多いスキー場だ。韓国人客はそれほど多くないというが、ホテル内には韓国料理のレストランがあり、ロッテホテルらしい。ホテルは立派で室内も広く、快適だ。スキー場はゴンドラ、リフトを乗り継いで、最上部に上ると、結構楽しめる斜面が広がる。傾斜もほどほどで面白い。それに非圧雪のバックカントリーの斜面も広くあり、新雪のあとなどは面白いだろう。
残念ながら、3月半ばの今日は気温が高く、新雪もなく、昼近くになると、雪もやわらかくなり、滑りにくくなった。こんなときに転んだら怪我する危険を感じ、昼めしを食べて終わりにした。雪のよい季節にもう一度来たいところだ。ソウルの娘夫婦を連れてきたのだが、旦那はスキーをやらないのが残念である。

      
    写真左・アライのロッテホテル   写真右・ロッテホテルらしく韓国旗が中央
  

3月17日わがふるさと村上の街

1月に亡くなった叔父の四十九日法要で村上に来た。今回は車で前日に来た。中学以来の親友・斉藤忠義君と会う前に時間があったので、村上駅から田端町を通って、中心の大町まで歩いてみた。
中学のときはよく通った通りだ。こんなに時間をかけて歩くのはそれ以来だ。大町は村上いちばんの繁華街なのだが、シャッターが下りている店が多い。町おこしの優等生と評判の村上だが、実態はこんなものなのだ。
ちょうど”町屋のお雛様めぐり”イベントが始まっていて、そこそこ観光客は来ている。それが救いだ。大町の通りには中学生のときからあった店も結構残っていた。三條屋呉服店、わらたけクリーニング、川村寿司屋、よくパンを買ったトラヤ、ここではコッペパンにコロッケを挟んでもらったり、食パンにチョコを塗ってもらったりした。そして極め付きは庄内町への曲がり角にある益田書店だ。この店には立ち読みで良く通った。もうすっかり寂れてはいたが、まだあるのだ。店に入ると、並ぶ書籍はわびしくなってはいるが昔の香りがする。郷土の本も並んでいて、シリーズ藩物語「村上藩」という書籍を思わず、なつかしくて買ってしまった。村上を離れて60年経つが、来て歩いてみると、紅顔の少年の頃にタイムスリップするのであった。

      
     写真左・昔ながらの店           写真右・うおやの店先     
  

3月8日 早稲田アリーナとその界隈

早稲田大学記念会堂といえば、入学した年に開かれた東京オリンピックでフェンシング会場に使われた。それでその期間中は大学が休みになった。私は1年生だったので、これ幸いと北アルプスに山登りに出かけた。
入学式や卒業式にも使われたこの建物が取り壊され、新しい早稲田アリーナという施設になった。それが完成し、OB会員にお披露目があった。中は昔同様、大きな体育施設で、入卒の式場に使われるが、屋根の部分が庭になっていて散策できる。地下にアリーナ、地上はパークと、しゃれた施設に生まれ変わっていた。
OBが集まるホームカミングもここが会場になるようなので、来てみようと思う。アリーナ建設に5万円寄付したが、それくらいは目じゃないようで、寄付者銘版は10万以上でないと刻まれないようだった。残念! アリーナを見てから、本部構内に移動し、早稲田大学歴史記念館に行った。ここは昨年、開設され、大学の生い立ちや、政治、経済、芸術、スポーツなどの分野の歴史と人物などを紹介している。妻は海部俊樹さんの写真を見て、「海部さんが早稲田出身とは知らなかった」とつぶやく。そんなもんなんだね。私は浅沼稲次郎さんの写真に感動した。暗殺されなければ、社会党最初の総理大臣になっていたかも。スケールの大きい庶民的な政治家だった。

      
     写真左・アリーナ内部         写真右・屋根の上は公園に
  

3月3日 ひな祭りに家族写真

いつも正月に家族で写真を撮っていたが、今年はおせちにもらった大きな蟹を撮っているうちに忘れてしまった。
そこでひな祭りの今日、平成最後の記念に撮った。下の娘は平成元年3月の生まれだ。入社試験のときは面接で、「平成生まれが社会人になるなんて」と驚かれたという。その平成も今年限りで終りだ。たったこのあいだ平成になった気がするが、もう30年も経っているんだね。イチローが平成になってからプロ野球に入ったと聞いて驚く。もっと昭和の時代から活躍してたような気がしてた。災害続きの時代だったが、これからの時代は安らかにと、お雛様に祈った。

      
      写真左・3月3日に祝う          写真右・今は内裏様だけ
 

3月1日 延命治療必要な叔母の状態

叔父が1月に逝って、特養老人ホームに入っている叔母がこんどは長くない、延命治療をするかどうかの判断を身内にしてくれとの知らせがあった。去年の春、行ったときは、トンチンカンではあったが、話もできたのに、もうそんなに弱まってきたのか。叔父より2歳下なので、94歳だし仕方ないか。「延命治療やらない」と身内で決めた。叔父の四十九日に行く前に、様子を見に行った。もう寝たきりと思いきや、看護士さんが着替えさせ、車椅子に乗せて、面会室に連れてきた。もう話はできなくなっていたが、まだすぐには逝きそうにない。思いのほか元気だ。これなら2,3ヶ月は持ちそうではないか。少しホッとして帰宅した。後見人を委嘱している人から連絡があり、万一のときは葬儀等の段取りはしてくれるとのこと。叔母の最後は、これまでの不義理の罪滅ぼしもあり、きちんと送り出しの面倒はみようと思う。

      
       写真左・叔母近影           写真右・さくらホーム     

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2 月

2月22〜23日 奥志賀でのスキー

阿波踊り・中々連の仲間とスキーに出かけた。生まれも育ちも違う7人の男女が阿波踊りで知り合い、その中でさらにスキーという共通項でまとまった仲間だ。今年は徳島生まれ、新潟の大学で学び、白馬黒菱のレストランでアルバイトしたときにスノボーにはまったという横田君も参加した。私は新潟生まれ、大阪にいたとき阿波池田へ行って阿波踊りを覚えた。横田君は徳島生まれ、新潟に来てスノボーを覚えた。お互いの故郷をひっくり返したようで面白い縁を感じた。
22日は晴れて、楽しく滑れた。23日は曇っていたが、滑りに支障なしと、奥志賀から焼額、一ノ瀬、寺子屋、東舘、ジャイアント、丸池を越えて、志賀高原の入り口、サンバレー(法坂)まで滑っていった。
途中で雪が降りだし、寒くなってきたが、がんばった。帰りも滑って帰ろうと、西舘、高天原を滑ったが、焼額で時間切れ、最後はバスで帰還した。このコースは同じ斜面を2回滑らないというバラエティ豊かなスキーが楽しめ、みな満足であったが、気が付いたのはスノボーは縦に滑るには問題ないが、横に動くのは結構大変だということ。横田君は苦労してついてきてくれたが、「来てよかった」のひと言にホッとした。
帰る日はこれ以上ないというほどの好天だったが、スキーはせず、矢田さんが持ってきたドローンを奥志賀の空に飛ばし、撮影を楽しんだ。

      
    写真左・晴れた午後のスキー       写真右・ドローンでの撮影
  

2月17日 日野稲門会新春懇談会

私が地元の稲門会に出るのは、先月のスキーと新春懇談会だ。6月の総会にはこのところ海外旅行と重なり、失礼している。日野に稲門会ができて40周年とかで、今日は午前中に「最後の早慶戦」の映画があった。以前、映画館で見たことがあったが、観客全員ワセダという中で見る「最後の早慶戦」は母校愛あふれる雰囲気の中なので感慨深いものがある。終わったとき、涙している先輩も何人かいた。
この映画の中で、慶応の小泉塾長の戦時とはいえ、リベラルな姿勢を貫く姿には感銘を受けた。そこへいくと、早稲田の田中穂積総長の政府をおそれて、決断できない姿勢は時勢とはいえ、頂けない。
飛田穂洲監督の「学徒動員される部員にはなむけを」との一念で強行突破する姿が頼もしかった。勝負では早稲田が勝ったが、試合でというよりその前の取り組み方では慶応が勝っていた。いかにも慶応と早稲田の校風が如実に表れた映画であった。

      
    写真左・最後の早慶戦上映        写真右・日野稲門会メンバー
  

2月9日 スノーシュー・13年の歴史に幕

蓼科に山荘を開いたときからやっていた早大岳文会OBスノーシューハイキングは今年をもって終了した。と言っても、今年はやれなかった。参加者がなかったからだ。毎年、開催日直前まで申し込みOKにしていると、前日になるとヒョコっと現れる人もいたのだが、今年は皆無であった。私も後期高齢者になり、OB会の幹事も昨年秋で辞したこともあり、これが区切りと思い、終了することにした。
13年間の足取りは下記のとおりだが、思い出に残るのは、冬の上高地のすばらしさだ。4回ほど行き、天候に恵まれなかったときもあったが、晴れたときの冬の上高地から仰ぐ白銀の穂高の姿は神々しく、去りがたい思いになった。麦草峠は山荘から近く、よく行った。途中の森と雪原のコンビネーションはクリスマスカードのような景色が続き、スノーシューハイキングには最適の場所だった。夏はよくても、スノーシューに向かないのは霧ヶ峰だ。雪に覆われた雪原は白一色でガスると、方向がわからなくなる。蓼科の山荘をベースに行った冬の信州の山や高原、いずれも思い出深く、岳文仲間との語らいが楽しい集まりだった。

      
    写真左・初めての頃(縞枯山)       写真右・上高地(2016年)
  


  
2006年 縞枯山〜五辻(参加者5名)
 2007年 麦草峠(6名)
 2008年 霧ヶ峰(10名)
 2009年 上高地(10名)
 2010年 八子ヶ峰、乗鞍高原(7名)
 2011年 麦草峠(6名)2012年 入笠山(7名)
 2013年 上高地(13名)
 2014年 ドロミテスキーのため中止
 2015年 麦草峠(6名)
 2016年 上高地(9名)
 2017年 上高地(2名)この年は3月に実施
 2018年 麦草峠(5名)

      
     写真左・雪原を歩く          写真右・歩いたあとのひととき

2月6日 あさま2000でのスキー

浅間山隣の高峰高原の「あさま2000」というスキー場へ行って、滑ってきた。行ったことのない信州スキー場めぐりの一環。小諸の町からグングン上って、標高2000mの所にスキー場がある。ほとんどが群馬県側だ。
下ると北軽井沢のレタス畑一帯だ。コースが3,4ヶ所あり、傾斜もほどよく滑りやすいが、どれも短くてすぐ終わる。雪も人工雪特有の硬さで、スピードは出るが、カチンカチンして気持ちよくない。天候は晴れているが風が強い。2000mの高さは寒い。午前中1時間くらい滑ったら、すべて滑り終え、リフト券の元もとれたので、カレーうどんを食べて帰ってきた。途中、雷電為衛門も道の駅に寄り、雷電最中が売っていたので、お土産に買った。蓼科に戻り、鹿山の湯に入って、スキーの疲れを癒した。夜はアジフライでビールを呑んだら、ほどよい疲れで9時過ぎには寝てしまった。

           
    写真左・あさま2000スキー場         写真右・雷電記念館

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1 月

1月31日 叔父死して、警官敬礼

新潟の村上で医者をやっていた叔父が96歳で亡くなった。春になったら会いに行こうと思っていたが、ちょっと早い最後だった。小さい頃から私を可愛がってくれた叔父なので、別れはつらい。志賀のスキーから帰ってきて、妻と一緒にすぐに汽車で村上へ行った。通夜も告別式も、ベルホール会津屋という葬儀場だった。田舎の医療に長年従事していたので、おおぜい集まった。警察の検視医も長くやって、警察庁長官賞をもらったこともある。火葬場へ向かう途中、霊柩車は村上警察署に寄った。おおぜいの警察官と職員が一斉に敬礼し、見送ってくれた。感動ものである。段払いの宴で、村の人は「テレビのドラマのようだった」と感激していた。夜中に呼び出され、事故の現場にパトカーで連れていかれた姿も、私が帰郷時に見たこともある。こんな苦労へのお礼の敬礼だったのだろう。誰も気が付かないうちに旅立った叔父への最良の送別だった。

      
      写真左・叔父の葬儀         写真右・私の花も
  

1月28日 今年も最若手の私、稲門スキー

日野稲門会のスキーは5年目だろうか。奥志賀に集まる面々は変わらず、私は今年も最年少。この前の極楽スキーでは長老なのに、こちらでは下働きである。「ハイ、ビール。ハイ、ワイン」と忙しい。みんな80歳近い後期高齢者なのに元気である。着いた昨日は、雪で、奥志賀のリフトは動かなかった。それではと、バスで焼額に行って、昼食を食べて、何本か滑って、またバスで帰ってきた。今日はまずまずの天気で、奥志賀からサンバレーへ向かった。焼額、山の神、ダイヤモンド、一瀬、東館、ぶな平、西舘、ジャイアント、蓮池、丸池と滑りつないで、サンバレーのレストラン・グリーンに昼過ぎに到着。私は生ビールとスパゲッティでゆっくり昼食。帰りは二人は滑って帰るというが、残りの4人は焼額までバス、そこから滑って奥志賀へ戻った。このロングツァーで、みんな十分、滑った気分になったようだ。いつまでも若々しく滑っていただきたい稲門会スキーである。

      
    写真左・稲門スキーの面々          写真右・奥志賀の冬
  

1月25日 小林旭のペンションは立派

極楽スキーの今年の宿舎はコンテ・デ・ネージュ。今までのオードヴィーから追い出されてここになった。オーナーが変わり、「遅くまで騒ぎすぎる。スキー靴で階段を上がっていく人がいる」とで、今年は断られてしまい、幹事が変わるべき宿を探してここになった。経営者は小林旭のペンションだ。管理を任されている木林さんは、ベルサルームズのオープン・パーティのときに手伝ってくれた人で、奥志賀勤務は長い。けれども我々には縁がうすいペンションだった。快く引き受けてくれた。初めて入る建物はがっしりしていて、造りは立派である。食事は洋食フルコース、味もよくおいしい。白ワインは好みのシャブリ。お風呂も広く、快適。窓外の白樺林も夜はライトアップされ、雰囲気はいい。来年もここでの声は多かった。ここを追い出されたら行くところはないのだから、羽目はずさぬように振舞ったつもりだが・・・。唯一の難は、部屋のトイレがウォシュレットでないことだ。

      
  写真左・フルコースの洋食ディナー      写真右・小林旭の肖像画
  

1月20日 中々連は前途洋々

中々連の新年会。昨年の高円寺阿波踊りは盛大だった。100名近い人が踊った。中々連始まって以来の大人数だった。この勢いが続いているのか、新年会も50名を超す集まりになった。若い人が増えているのは頼もしい。姉妹連になった武蔵中々連に若い人が多いのがその要因だ。今年の新座の成人式に出た連員もいてその縁で阿波踊りの依頼もあり、みんなで踊ったという。武蔵中々連は毎週、練習し、やる気のある中々連のメンバーも練習に参加している。年3回の練習で、高円寺本番に出る本家中々連とは心構えが違うのだ。それでいいと思う。「やる気ある人は武蔵中々連へ、ほどほどでいい人は中々連へ」、自然にロートルの本家、ヤングの分家の構図が出来上がりつつある。

      
     写真左・中々連新年会         写真右・最後はひと踊り
 

1月9日 雪の八ヶ岳遠望

東京へ帰るとき、エコーラインを走っていたら、青空の中に白銀の八ヶ岳が美しく並んでいた。三日前来た時は、まだ黒々していた山が、昨日からの降りで白く変わったのだ。やはり冬の山はこれでなければならない。右端の編笠山から権現岳、赤岳、重なってしまう阿弥陀岳、横岳、硫黄岳の南八ヶ岳連峰、そこから左へ続く天狗岳、茶臼岳、縞枯山、北横岳の北八ヶ岳の山々、そして左端の蓼科山。この連なりの八ヶ岳連峰はそんなに大きな山ではないのに、その形が美しいのだ。アメリカのグランドティトンの山並に似ている。八ヶ岳の野で「シェーン、カムバック!」と叫ぶと、アラン・ラッドが馬に乗って駆け寄ってくるようだ。

      
   写真左・阿弥陀岳(右)から横岳へ      写真右・蓼科山(左)と北横岳
    

1月9日 雪来た!蓼科

昨日からの雪模様で朝、起きたら、朝日の中に真っ白に庭は輝いていた。積雪は10cm程度と思うが、庭に黒い物が見えなくなるのは気持ち良い。今年は、蓼科に山小屋を建て14年経っているのに、こんなに雪が降らない冬は初めて、というくらいなのだ。寒いのに雪降らず、西高東低の気圧配置の関東型の天気を引き継いでいた。このまま春になるかな?と思っていたが、やはり雪は来た。これでなければ冬でない。昨日、白樺高原スキー場で今年の初すべりをやったが、スキー場は白いのに、周囲は黒い。何となく違和感を感じながら滑ったが、これでようやく冬になった気がする。

      
    写真左・裏からの雪の山荘          写真右・雪が来た山荘
  

1月5日 八坂神社へ初詣

正月は毎日、食べて、呑んで、テレビを見て、ばかりだったので、体がなまってしまった。体力回復のためにもと妻を誘って、初詣ウォーキングに出かけた。百段階段を上り、中央高速道路沿いに北へ向かい、高速道の陸橋を渡って、明治天皇検閲台(陸軍の訓練場)を通って、下りて、旧甲州街道日野宿・西の入り口にある地蔵様にお参りして、八坂神社へ。初詣客がそこそこいて、拝殿へは列になっている。この1年の家族の健康と幸せを祈願して、帰ってきた。少しは運動になったかな?

      
   写真左・旧甲州街道西の地蔵        写真右・八坂神社参拝の列

1月1日 おせちの目玉はタラバガニ

去年の正月おせちは景ちゃんが頼んだすしざんまいのおせちだった。今年はセットは頼まず、近くの角上魚類で好きなものを買ってきて盛り合わせることになった。妻と景ちゃんで出かけて、いろいろなものを買ってきた。その目玉はタラバガニだ。大きな足を何本か買ってきてくれた。身をむしり出すのにも苦労するほど大きい。身がしまっていて、すこぶるおいしい。こまごましたおせちより、こんな大物ひとつの方が味わい深く、楽しめる気がする。タラバガニおせちは最高である。

      
     写真左・タラバガニがメイン       写真右・今年のおせち料理

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