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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。
毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2015年>


 
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 <2004年> (2004年分は、こちらからリンクします。)

 
<2005年>
 (2005年分は、こちらからリンクします。)

 <2006年> (2006年分は、こちらからリンクします。)

 2007年> (2007年分は、こちらからリンクします。)

 <2008年> (2008年分は、こちらからリンクします。)

 <2009年> (2009年分は、こちらからリンクします。)

 <2010年> (2010年分は、こちらからリンクします。)

 <2011年> (2011年分は、こちらからリンクします。)

 <2012年> (2012年分は、こちらからリンクします。)

 <2013年> (2013年分は、こちらからリンクします。)

 <2014年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

 <2016年> (2016年分は、こちらからリンクします。

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 <2018年> (2018年分は、こちらからリンクします。
 

2015年

12月

12月30日 今年の忘年会,話題はオレオレ詐欺
今年の忘年会は6回あった。ソニーのみなさんと忘年会、異業種忘年会、中学校仲間との忘年会、オートルート仲間との忘年会、阿波踊り仲間との忘年会、そして岳文会仲間とが30日にあって打ち止めとなった。間隔を空けての呑み会だったが、年々しんどくなってきた。翌日の午前中は起きられない、毎回乗り越す。妻に怒られることも毎回だ。それでも昔の仲間と久しぶりに会えるのがうれしくて参加する。やめられないのだ。昔から比べるとうんと減ったが、終わったあとのつらさは年々強くなっている気がする。
今年の私の話題は「オレオレ詐欺にひっかかりそうになったこと」だ。暮れのある日の朝、「病院で点滴を受けている間にベッドの下の篭に入れていたカバンがなくなり、携帯、財布、会社の書類が入っていた。
契約書類で相手に渡す金もなくなった」というものだ。名前を言わない。どなた?と聞くと「あれ、わからないの?」と言う。推測して親類のいとこの名前を言うと、そうだと言う。そこから彼は親類になって何かと言う。3回目の電話があったとき、初めて「金を用立ててほしい」とのたまう。「わかった、上司に確認してから都合をつけるよ、上司の電話を教えろ」と言ったら、切ってしまった。彼が無くなったという携帯に電話すると、本人が出るではないか。もう少し延ばして警察と共同で捕まえればよかったかな?と思ったが後の祭りである。それでもこの事件で、いとこと久しぶりに正月明けに会うことにしたのは、よかった気もする。

      
       写真左・忘年カラオケ              右・カラオケ熱唱
 

12月17日 イルミネーションツァー

相模湖と読売ランド、二つのイルミネーションを見るクラブツーリズムの日帰りバスツァーに妻と参加した。立川に午後12時集合、石和のワイン醸造所を廻り、午後3時から昼とも夕食ともわからないご飯を食べて、暗くなって相模湖の旧ピクニックランドに着いた。昔、子供を連れてキャンプや芋ほりに来た所だ。山の斜面にLEDを張り巡らし、英国ベースのイルミネーションが輝いている。光のバッキンガム宮殿の前には音楽隊と騎兵隊もLED作りだ。その音楽隊が演奏をし、衛兵交代の儀式もイルミネーションで行われる。なかなかうまくできていて、楽しい。イルミネーション仕立てのイングリッシュガーデンもあり、妻は大喜びだ。
そのあと行った読売ランドもきれいだったが、演出がイマイチで相模湖に軍配があがるイルミネーションツァーだった。それにしても平日なのにバス二台も出る盛況で、ほとんどがおばちゃんだったのには驚いた。みんな元気で、暇で、時間があるんだね。

      
    写真左・相模湖イルミネーション       右・読売ランドイルミネーション
 

12月6日 早明戦ラグビー
今年の早稲田は弱いが、伝統の一戦なので、期待して行ったが、やはり弱かった。秩父宮で見るのは初めて。全日本代表の藤田も出たが、如何せん、いつもは出ていないので、たまの出場ではチームメートと息が合わないのか、なかなかボールが回ってこない。前半は互角だったが、後半はほとんどが早稲田ゴールサイドに押し込まれての展開で敗れた。点差以上に実力差もあったように思う。このところのラグビー人気もあって、ほぼ満員の中での試合だったことが良かった。

      
         写真左・早明戦               右・ハーフタイム応援
 

12月4日 YHP・OB会、気がかりな分社と年金

HP退職者のOB会が八王子の旧HP本社、今はキーサイト本社のカフェテリアであった。この建物は私がHPの不動産部門を担当していたときの建設だったので、私にとってはメモリアルな場所である。しかし、そのあと、HPがアジレントと分社し、アジレントの建物になった。それもアジレントが昨年、キーサイトと分社したので、今は両方の会社が同居し、オーナーはキーサイトである。
HPは江東区大島に本社を作って、ほとんどをそこに集約したが、この11月にPC、プリンタをHP INC.,サーバー、ソフトをHPエンタープライズに分けたので、ここも二つに分社した。日本名はPC関連が(株)日本HP,サーバー関連を日本ヒューレット・パッカード(株)というのだからまぎらわしい。これで一つだった会社が四つに分かれてしまい、OB会での会社の現況報告が4人によって入れ替わり行われるというややこしさだ。
HPはコンパックやDECという会社も昔吸収しているので、それらの会社のOBも本来ならOB会のメンバーになっていいはずなのだが、あくまでHPOB会は生え抜き、いわば横河ヒューレット・パッカード(YHP)時代からのOBが主体なのだ。コンパックもDECもそれぞれの会社時代のOB会があるらしい。そんなHPOB会なので、集まるメンバーは昔なじみの人ばかり、工場出身が多いのも特徴的だ。
 

私は1973年に途中入社でYHPに入った。その前が富国生命だっただけに、あまりの会社の雰囲気の違いにびっくり仰天したものだ。すべて”さん”付けなので、誰がえらいのかさっぱりわからない。⒑時におやつと牛乳が出るのにもびっくりポンだ。アメリカ本社ではドーナツらしいが、日本ではなじみないとのことでお菓子になった。でも高い物は出せないので、三笠山が若草山のどら焼き、ひよこがことりの名の菓子、亀屋万年堂のナボナがハボナといずれも二流品ではあったがおいしかった。芋ようかんが出るといつも余っていたものだった。全社旅行が毎年あり、全国の全社員が一か所に集合する、伊東のハトやだったり小涌園だったり。さすがに2000人近くなったら入りきれんと支社単位に切り替わった。
そんないい会社もグローバル化で日本独自の経営スタイルが消えて、アメリカの会社になってしまい、挙句は分社、分社でバラバラになってしまった。いつまでHPという会社があるのか不安になってくる。集まったOBの危惧はそれぞれの会社の年金だろう。比較的恵まれている企業年金がちゃんと続くかどうか不安に思うことだろう。私なんか、退職金全額を会社の年金に繰り入れているのでなおさらだ。そんな心配をよそに、いっときお互いの健康をたたえ合い、久々の出合いに乾杯するこんな会合もいいものだ。

      
       写真左・分社後の八王子            右・HP本社・大島
 

12月1日 ゴミ出し注意

蓼科の別荘地のごみ処理は大変だ。道路の所々にゴミ収納庫があり、そこに燃えるゴミと燃えないゴミに分けて置いておくというのがルールだが、それがきちんと守られないのが通常だ。定住となるときちんとするのだろうが、たまに来て使う別荘ではいい加減になる。
写真のように不燃物の瓶にタバコの吸い殻を目いっぱい押し込んで出す人、管理者泣かせの行為なのだ。そして後を絶たないのは粗大ごみを収納庫に押し込んでいく人だ。テレビ、石油ストーブ、扇風機、テーブル等々。以前は「収集できない」と張り紙したり、管理センター前に「迷惑行為展示会」などしたが、あまり効果はなかったようで、晩秋になると増えるところを見ると、必ずしもこの東急別荘地の人だけでないのかもしれない。外から運んできて置いていく輩がいるのではないかと勘ぐってしまう。こうなると各収納庫に監視カメラを付けて見張る必要が出てくるかもしれない。困ったことである。

      
      
写真左・ゴミ捨て注意                右・ゴミ収納庫
 

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11月

11月28〜29日 山岳フォーラム
今年も松本で山岳フォーラムが開催された。「氷壁」の映画もあるということで、妻と一緒に行った。
ナイロンザイル切断事件をベースに井上靖が朝日新聞に連載した「氷壁」は話題となり、菅原謙次と川崎敬三、山本富士子等のキャストで映画化もされた。
ザイルが切れ滑落死した若山五朗の身内の方の真相トークもあり、興味深い企画となっていた。
映画は恋愛がらみになっていたが、当時の山登りの様子や新宿駅や徳澤園の風景がノスタルジックだった。今は山岳博物館でしか見られないキスリングがとても懐かしい。この日は松本のホテルに泊まることにしていたので、帰りに創業82年の洋食屋「おきな堂」に寄り、ビーフシチューを食べた。昔ながらの味でおいしかった。
翌日は、本場アルプス・グリンデルワルドから来たバス運転手さんのヨーデルで幕を開けた。
俳優の小野寺昭さんの山登り談義があり、50歳を過ぎて登山を始め、72歳になっても日本百名山を単独行で歩いているという話にも驚いた。慎重に準備して、無理をしなければ、歳をとっても山歩きはできるのだ。

      
      写真左・山登りトーク               右・本場ヨーデル
 
11月27日 大村美術館

今年のノーベル生理医学賞に輝いた大村智博士は甲州韮崎の人。私がいつも通る甲州街道沿いにその生家と美術館がある。今まで何回となく通っていたが、ノーベル賞のニュースがあるまで知らなかった。
そこで今日、蓼科に行く途中に寄ってみた。韮崎市神山、鳳凰三山の山麓の斜面に村は広がり、生家のそばに開設した美術館の展望室からは茅ヶ岳や金峰山、富士山も一望できる風光明媚な所だ。
美術館のそばには温泉や蕎麦屋もある。すべて大村先生の出資によるものだ、美術館は展示の絵ごと市に寄贈した。蕎麦屋と温泉は身内が切り盛りしている。先生の業績は知っての通りだが、製薬会社と共同して薬品化し、多額の特許料を得た。それを北里研究所の復興に使い、そして故郷に芸術と潤いの施設を建てた。他のノーベル賞受賞者も偉いが、大きな違いはビジネスセンスが大村先生にはあるということだ。単なる研究者ではなく、自らの研究成果をビジネス的にとらえ、それを大きく進化させ、その収益を次の世代を育てる分野に投資し、さらに教養と憩いをマッチングする文化事業にも手を伸ばすという、経営センス抜群の研究者でもある。温泉には入らなかったが、蕎麦屋で冷やしほうとうのようなうどんを頂き、数多くの名画を鑑賞し、晴れた空の下の甲州の山並みを眺めて幸せな時間を過ごした。
”祝・ノーベル賞・大村智先生!”

      
     写真左・美術館からの展望             右・祝大村先生  
 

11月17日 明治神宮野球大会

春の大学野球選手権に該当するような大会が明治神宮野球大会である。秋の東京六大学野球リーグ戦でタナぼた優勝した早稲田が出るというので見に行った。
高校の部もあり、敦賀気比高校と高松商業の決勝戦になった。この夏までの敦賀気比はめちゃくちゃ強かった。この試合も敦賀気比が先取点をとり、そのまま行くかと思っていたら、古豪(最近、ほとんど甲子園にも出てこなかった)高松商業が8回に一挙逆転し、優勝した。番狂わせと言ってもよい結果だろう。
水原茂の母校、高松商業もこのところ鳴かず飛ばずだったが、これで飛躍できるだろうか?
大学の部は、早稲田と亜細亜大の戦いだったが、亜細亜に逆転されて延長14回で早稲田は負けた。
東京六大学は東都大学になかなか勝てないのが実情だ。人気の東京六大学、実力の東都と言われるが、この試合を見ているとなるほどと思う。亜細亜の内野守備が抜群なのだ、難しいゴロも軽々とさばく。
ピッチャーも次々と代わるが、制球よく、早稲田は打てない。「東大がいる限り、六大学は強くならない」と揶揄されるのもムベなるかな、という感じがした明治神宮野球大会だった。

      
 
     写真左・高松商業優勝               右・優勝の瞬間       
 

11月13日 ラーメン博物館
新聞屋からラーメン博物館招待券をもらったので、新横浜へ妻と出かけた。入り口に近づくと、平日とは言え、結構な人だかりがある。人気があるらしい。切符売場で入場券と引き換えたが、シニアは100円らしい。わざわざ招待されてもひとり200円得するだけだった。
地下に昭和の三丁目の夕日時代の街ができていて、ラーメン屋主体の商店がひしめいている。映画館もあり、”地球防衛軍”上映中とある。切符売場もあり、”二枚”と言ったが反応がない。”喜びも悲しみも幾年月”の映画ポスターなどもあって、とても懐かしい。
ラーメン屋は名店を全国から呼び、定期的に交代しているという。面白いことにイタリアとドイツのラーメン屋が出ていた。まずイタリアのラーメン、麺はパスタ生地で打っているとかで、少し固めだが、しょうゆ味はノスタルジアを感じさせる味付けでおいしい。少し休んでから、ドイツのラーメン屋へ。あぶり味噌味ラーメンだったが、味噌がしょっぱく、スープを全部飲めなかった。軍配はイタリアだなあ。どちらもハーフサイズだったが、二杯食べると、さすがに満腹で”すみれ”のラーメンはあきらめた。人気があるらしく、ドイツは来年春で終了の予定を再来年まで延長するらしい。昭和の時代に戻ったひとときを堪能した。

      
      写真左・ラーメン博物館                右・昭和の面影
 

11月5日 すばらしい天気に歩く

文化の日連休に山荘を使っていた人が帰ったので、清掃にやってきた。ひととおり終わった次の日の今日、天気最高、快晴の空が高原に広がる。八子ヶ峰に久しぶりに登ることにする。いつもの登り口から少し歩いたところで、「石油ストーブ、消してきたっけ?」と不安になる。点いていても大丈夫だろうと歩き出したが、やはり心配だ。そこで戻ってみた。ちゃんと消してあった。ふだん無意識でやることは、あとで??と思っても、大丈夫なことが多い。帰京するときの鍵締めもそうだ。何回か、途中まで車を走らせてから戻ったことか。
もう一度、登山口に車を走らせたが、気が変わり、いつもは下りてくる西の登山口から登ることにした。
山荘を作ってから、初めのうちは西から登っていた。林道がかなり上まで伸びていて、急坂が短くて八子ヶ峰に上れるのだ。ここを上ると、東の登山口に下りることになる。急坂が少ないから楽だろうと思っていたが、東への下りは長く、掴まるのが笹だけという坂もあり、ここで何人かが滑り、笹薮に飛び込んでいった。無事に下れば楽だが、滑る危険性が高く、その後、上り方を逆にして、10年以上続いている。徐々に高度を上げ、アルビレオヒュッテを目印に登る東からの道がよいような気になっていた。久々の西からの登りは楽で、草原に出たときの後ろに広がる八ヶ岳の峰々とその長い裾野も捨てたものでない。
昔、滑りまくった東の道も、ロープが張られたり、階段ができたりで下りやすくなったので、これからはたまには西登山口からも登ってみようか。それにしても美しく晴れ渡った空と、遠く、北アルプスの雪を冠った峻峰、噴煙が収まった御嶽、いつまでも見ていたい草原からの光景である。ほんとうに八子ヶ峰という山はいい山だ。

      
      写真左・八ヶ岳秋色                 右・新雪の穂高
 

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10月

10月31日〜11月1日 早稲田、春秋連覇
秋の早慶戦は前の週の明治が法政に負けたことにより、早慶ともに優勝の可能性が出た。早稲田が勝ち点を上げれば優勝というまさに「タナぼた」早慶戦になった。この秋はピッチャー、バッターともに早稲田は春の面影がなく、大苦戦をしていたが、それでも明治に2連敗した以外、東大、法政、立教に負けなしで来て、勝率は高い。慶応に勝てば優勝というチャンスが思いがけなく到来した。
結果としては慶応に連勝して優勝、春秋連覇となった。二戦とも2点しかとれない僅差の勝利だったが、高橋監督の言う「1点差で勝つ」をみごとに実行し、守り切った勝利となった。
二戦目はヒットではなくエラーと暴投で1点ずつの2点であり、まさにこの秋の早稲田らしい戦い方だった。貧打でもエース不調でも勝率8割で優勝はみごとだと思う。豪打のワセダもいいが、守り勝つワセダも悪くない。秋の早慶戦は春に比べて入りが悪いというが、両日とも満員にはならず、応援席は慶応の方が多かった。ホームラン続出の派手な試合を期待する向きには物足りないのかもしれない。

      
       写真左・優勝旗授与、             右・二階席から観戦
 

10月24日 長女の結婚式 in ソウル
わが家の長女・穂梓が韓国のジョン・ジェフン君と結婚した。36歳になっての春である。
その結婚式がソウルのレストランで行われた。式はレストランの入っているビルの屋上で、披露宴はレストランで。式は友人たちがすべてを仕切り、仲人も、牧師さんもいない。花嫁介在を頼まれていたが、打ち合わせもなくぶっつけ本番だ。新婦の親として挨拶も同様、読む文章を通訳してくれると言ったが、読み通したあと意訳するとのことで、読んだが、意訳はえらく短く、「親として喜んでいる」くらいにしか訳さなかったのだろう。「国の交流は厳しいが、二人の仲のように、乗り越えてほしい」趣旨の内容だったのだが、そんなことには全然触れなかったようだ。
レストランでの食事も一同に会するというようなものではなく、テーブルはバラバラ、部屋も違っていたりして、挨拶や祝辞などない。新郎新婦がテーブルを廻って挨拶するくらい。途中で来たり、帰ったりする人もいて、日本の結婚式とはかなり違った。
本来はもっとざっくばらんで招待されていなくても来てよいらしいが、イタリア料理のコースだったので、さすがに招待客だけに限ったらしい。すべてが終わって、控え室に入ったら、嫁と婿でもらったばかりの祝儀を一生懸命数えていた。この日の支払いはその中から出して、当日払いにするのが普通らしい。顔かたちも似たような隣国なのに風習はだいぶ違うものだ。

      
     写真左・娘の門出家族で              右・二人の門出
 

10月17日 北八ツ池めぐりは遠回り

いつもは7月の海の日連休にやる極楽スキー仲間のトレッキング&広島焼きが、今年は私がアルプストレッキングに出かけたため、秋のこの日にやった。亀甲池や双子池の北八ヶ岳池めぐりにした。
北横岳から亀甲池に下り、双子池に来ると、対岸の靄の中に赤や黄色の木々がモヤに隠れたり、現れたりと幻想的な眺めだ。はっきり見える紅葉もよいが霞の中の彩りもまた良いものだ。双子池の山小屋の裏手を通って林道に出て、雨池峠への林道に向かったら、通行止め、佐久穂への道を行って雨池経由になっている。2年前の雨で土砂崩れになり通行できないとなっている。その前から車が通れない林道になっていたので、復旧する気はないらしい。
仕方なく雨池へのう回路を歩くことにした。雨池は林道の峠上り口から30分も先なので、そのくらいは回り道になるな、と覚悟したが、現実はもっと厳しく、1時間以上のプラスになり、雨池峠への登りでは低体温症でばてた人も出たくらいだった。やっとロープウェイ最終便に間に合った。温泉に入り、山荘に戻ってきたのは夜7時過ぎ、それからの広島焼きは夜遅くまで果てなく続いた。

      
      
 写真左・北横岳頂上                 右・双子池
 

10月11日 山の歌を唄おう at 新宿ともしび
早大岳文会は55周年を迎えた。その記念に「山の歌を唄おう at 新宿ともしび」を開催することになった。55年前はともしびの全盛期、西武新宿駅前にあった店は毎晩、入りきれない客でにぎわっていた。
その頃できた岳文会の仲間の多くはともしびの常連だった。そして会では山の歌を唄い、山の歌の伝統は20年過ぎまで続いていた。しかし、30年くらいたち、会は壊滅の危機を迎え、メンバーはひとにぎりしかいなくなり、山の歌の伝統も消えた。その後、会は苦闘しながら持ち直し、今は100名を超す大クラブになった。しかし山の歌は復活しなかった。ともしびもその後の栄枯盛衰で今は規模を小さくして靖国通りの雑居ビルの6階でこじんまりやっている。岳文会もともしびも同じような歴史をたどってきた。
山の歌とともしびは往年のOB・OGにとって切れないつながりがある。そのともしびで消えていった山の歌を唄おうということで、岳文ひとケタの期を中心に60余名が集まった。ギター演奏とリードは4期の西さん。今は茅ヶ崎を中心に歌声活動のリーダーをやっている。プロ級のOBの伴奏で唄う会は始まった。童謡から始まり、山で、部室で唄った「穂高よさらば」、「岳人の歌」、「守れ権現・・・」と次から次へと続く。ともしびならロシア民謡だと、「カチューシャ」や「トロイカ」にも広がっていく。3時間はすぐに過ぎ、場所を変えて、合同同期会に移った。卒業以来、はじめて岳文の会合に出たという人も何人かいた。夜9時半過ぎ、私の携帯に「母が夕方まで帰ってくると言っていたのですが、まだ帰らない」の電話があった。何十年ぶりに会ったのだから、そんなに早く戻れるわけがない。

      
      写真左・ともしびに集まる             右・西さんの名リード
 

10月3日 キノコの大木発見!

昨年もやった奥志賀キノコ狩りを今年もやった。ブルーエに集まり、みんなで渓谷沿いの森に入って行く。妻と私、きのこ博士・吉田さんは前日に入り、当日午前中に下見に行った。昨年入った渓谷に下りる道沿いの林が候補だ。去年はここでぶなナメコをいっぱい採った。しかし同じ倒木には生えていなかった。あまり収穫がないので、昼食に帰ることにした。その帰り道、もうひと探しと藪をかき分けながら林に入った。
倒木をもう1本、もう1本と追っていくうちに、どこにいるのかわからなくなった。しかし車の通る音が時折聞こえるので方角はわかる。その方向へ向かって道路に出ればよいと行ったら、沢にぶつかり、そこからは急斜面をよじ登らなければ道路には近づけない。仕方なく戻り、別方向で道路に向かうことにして戻りの藪を上りあげたら、左手にキノコがびっしり貼りついている木が見えた。採っていきたいが、時間がない。
午後本番にまた来るとしよう。藪をかき分け、かき分け車に戻った。ブルーエで三輪さん手作りのサンドイッチを食べ、昼からは、片木さん夫妻、三輪さんの奥さん、吉田さん、私の5人で行った。
 

本命はあのキノコ大木だ。初めは森の道沿いにあるナメコなどを採って、全員で林の中をかき分けてキノコ大木を目指した。場所を知っているのは私だけ、と言っても迷いながら見つけた木なので私もよくわからない。方角を定めて進むが、なかなか見つからない。30分近くも彷徨っただろうか、少し下がった所にキノコびっしりの木を発見。しかし午前中に見た位置と何か違う。
ともあれ、木に近づいて見た。見上げるかなり上部までキノコ、キノコだ。「オーイ!ここだ」と叫んでみんなを呼ぶ。四方に散らばっているようで、反応がない。しばらくするとガサガサと近づいて来る音がした。きのこ博士が見えた。「これはすごい!」と博士も驚く。ブナハリタケというキノコだそうな。食べられるとも言う。片木夫妻、三輪さんの奥さんも到着、「えッ、これがキノコ!」とびっくり。持ってきた先にひもがついているスマタのような竿がここで役立つ。手で採れるのは背の高さちょっとまで。その先のキノコは竿を伸ばしてそり落とす。竿の先のひもがキノコの根元にひっかかり、ぐいっと下に引くと、バラバラと落ちてくる。家の建前の餅まきのようだ。バラバラと落ちたキノコを拾い集める。持ってきたカゴやビニール袋に詰める。
その量、おびただし。ブルーエに戻ってきて、テーブルに並べたら、売るくらいの量だった。大豊作、炒めて味付けすると、コシのある、歯ごたえのするキノコだった。

             
      写真左・キノコびっしりの木                右・大収穫
 

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9 月

9月26日〜27日 小津映画祭

今年の小津安二郎蓼科高原映画祭はたいした話題作もなく、平凡だったと思う。なので2日で4本しか見なかった。それも1本は映画音楽コンサートである。
しろくま楽団という箱根宮ノ下の富士屋ホテル専属バンドだったメンバーを基礎としたバンドによる演奏会だ。なかなかうまい。全員楽譜を持たず、2時間半、慕情、エデンの東などの名曲を演奏した。サックスもコントラバスもドラムもうまかった。
司会を務めるキーボードの人も軽妙な話術とテンポのよいリードでうまくまとめていた。ボーカルは声量が弱く、音が演奏に消されてしまうきらいがあったのが残念だった。
映画は「彼岸花」が小津ムード満開で、面白かった。ゲストの司葉子さんが、一挙手一投足すべてに構図があり、梅原竜三郎画伯の名画をバックにした長いリハーサルで気を失ったという話は興味深かった。

      
     写真左・秋日和の原節子、          右・しろくま楽団
 

9月19日 東大また勝った
秋の東京六大学野球が始まった。早稲田の試合は最後の早慶戦しか行けそうもないので、早稲田の出ない東大・法政戦と慶応・立教戦を見に行った。春のリーグ戦で94連敗していた東大が95戦目に勝った相手が法政だ。なんか今日も勝ちそうな予感がしていたが、その通りになった。ピッチャー宮台(湘南高校)が好投し、法政を2回までの2点に押さえ、3回に3点とって逆転、4回にも2点追加して、その後9回まで宮台ー田口のリレーで、5−2と押さえ勝った。東大応援席は大歓声。法政はまさかの焦りで自滅した。
翌日の2回戦も前半リードしていたのに、ホームランで逆転されて負けてしまった。ホームランの前に、東大の監督はピッチャー交代を告げたのに、ブルペンの準備不足で投手が間に合わず、交代を引っ込めたらホームランだ。このあたりが東大の甘さである。
3戦目は法政の圧勝で、東大の勝ち点はならなかった。やはり勢いに乗らなければ東大の勝ち点はない。その意味でも2戦のピッチャー交代の失敗は痛かった。

      
   写真左・東大勝利のスコアボード、       右・東大応援席
 
9月12日 木暮人祭り

蓼科の山荘を建ててくれたマルアサ工房から富士見パノラマスキー場で「木暮人祭り」のパンフレットが送られてきたので行ってみた。ログハウスのイベントと思っていたが、営林署やジビエ肉や川崎市森の家など、種々雑多のブースがあり、ログだけではなかった。ログの彫刻作りがログハウスらしいイベントだったが。「木と森を大切にしよう」という趣旨のようだが、焦点ボケでよくわからないイベントになってしまった。「ログハウス作り」や「薪ストーブいろいろ」など、ログハウスに住む者にとって参考になる催しだったらよかったのに。

      
     写真左・ログ材の彫刻、           右・木暮人祭り風景
 

9月3日 金沢の街
百万石の城下町金沢は大きい。泊った東急ホテルの周りには武家屋敷街が広がる。
家老などの上級武士から足軽長屋のような下層武士までの屋敷だ。
朝、この屋敷町をひとしきり妻と一緒に歩き、バスの迎えで兼六園に行った。前田家の広大な屋敷庭園である。小高い丘陵地に池を作り犀川の水を引っ張り上げ、風光明媚な庭を作り上げた。そのひとつ霞が池前でこの旅唯一の集合写真を撮った。参加者は41名と言っていたが、写真を見ると37名しかいない。4人はどこへ行ったのかね?
風の盆と組み合わせツァーが多いらしく、どんどん観光バスが来て、園内は混雑している。われわれのツァーは切り上げて、近江町市場へ移動。ここでは自由昼食なので、軽いものと思ってうどんにした。立ち食いのような店だったが、冷やしうどんはおいしかった。市場では何も買わずバスに戻った。魚でも買ったのか、発泡スチロールの箱をいくつも持ってバスに戻った人もいた。
小松空港から羽田へ、自由解散なので、小松空港で別れの挨拶。添乗ガイドは182cmもある女性、混雑した場所でもよくわかった。富山地鉄のバスガイドも175cmの大柄女性だったが、彼女が最後に曰く、「いつもは私が目立つのに、今回は負けました」と。

      
     写真左・武家屋敷街、               右・兼六園
 

9月2日 越中八尾・風の盆

越中八尾・風の盆は一度来てみたかった。このために今回のJTBツァーに参加した。
金沢から白川郷、五箇山を廻って、夕刻、八尾の町に入った。市内は交通止めなので、富山地鉄バスの車庫にバスを停め、そこから歩いて市内に向かった。
途中、町流しをやっている踊りに出会ったりで、風の盆の雰囲気は盛り上がる。
13町内、13組の踊りがある。踊りには厳しい制約、町外者お断り、女性は25歳未満の未婚者、男性は30歳未満が踊り手の条件、お囃子はもっと幅広い。胡弓の物悲しいメロディがこの踊りの特徴でもある。阿波踊りのように次から次へと踊りこんで来るのを見ていればよいというのではなく、13町内それぞれの地区が踊りの本拠地なので、時間表を見ながら、その地区へ行かねばならない。
一か所で見たいときは学校の校庭に舞台をしつらえた演舞場に3600円払って見に行く必要がある。あくまで地元の祭りであって、見せるものではないというのが原則だ。
狭い町内の通りでは道いっぱい広がって踊るので胡弓の演奏者は道路脇の家のひさしの下で弓を引かねばならなくなる。その前を観光客が横切ると、「踊りの邪魔だ!どけ!」と胡弓奏者に蹴飛ばされていた。その客はすごすごと通っていったが、「蹴飛ばさなくてもよいだろう!」と突っかかる客だってあってもおかしくない。「われわれの祭りであって観光客のためにやっているのではない」という意識があるようだが、大宣伝して客を呼び込んでいる事実もある。
地元のための踊りと、観光客用の踊りを分ける必要があるのではないか?阿波踊りのように広い通りの両側に桟敷席を作り金をとり、その中を13組が代わるがわる町流しをし、地元の通りはその時間以外に地元民オンリーで踊るとか。一工夫が必要ではないか?

      
       写真左・町流し、               右・演舞場での踊り
 

9月1日 北陸新幹線

この春、開通した北陸新幹線。これに乗って越中おわら八尾・風の盆を見に行こうと妻と一緒にJTBのツァーに申し込んだ。金沢に二連泊して八尾を往復するというものだ。
東京駅で駅弁とビール、ワインを買い込んで「はくたか」に乗車。はくたかは長野以降、各駅停車だ。飯山を過ぎ、妙高山を左手に見ながら新潟県に入った。上越妙高駅、高田に新幹線が入らなかったのは高田市民にとっては痛恨だったろう。
新潟県は上越、中越、下越に分かれる。高田、長岡、新潟がそれぞれの地域の中心都市、新潟大学も人文系は新潟、工学系は長岡、教育学部は高田と分けたほど。
新潟と長岡には新幹線の駅ができた。なんで高田には来ないのか!市民は切歯扼腕したことだろう。そんなことを思っていたら糸魚川だ。海が見える。ここから富山県境まで日本海沿いを行き、次が黒部宇奈月温泉、ここから宇奈月は結構遠いのにね。
黒部はYKKの故郷、新幹線ができたのでYKKの本社は東京から移転してきた。何百人の社員家族も引っ越してきて、地元の学校は突然の生徒増でうれしいとか。
富山は教育県、東大合格者も多いので、家族も教育には心配ないだろう。次の富山で下り、バスに乗り、高岡の瑞龍寺へ。前田藩二代目・前田利長の菩提寺だ。ここを見学して金沢へ向かった。今日の泊りは東急ホテル、なかなか良いホテルだ。夕食はフレンチ、ビールとワインで金沢の夜を楽しんだ。

      
     写真左・北陸新幹線、              右・高岡瑞龍寺
 

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8 月

8月29日〜30日 高円寺阿波踊り

今年の夏は急に終わった感じがする。いつもの年は高円寺阿波踊りのときが夏の終わりであったのに、今年は肌寒く、もう秋の気配の中での踊りだった。雨模様もあり、なおさらである。
初日は桃園演舞場スタートだったので、終わりは中央演舞場になり、理想的な展開だった。終わり時刻8時のカウントダウンしているときに、演舞場終点に到達するというタイミングの良さ。控え室のギャラリー久にも最も近い場所で終わった。
翌二日目は逆で中央演舞場スタート、桃園演舞場で終わった。これは控え室にもっとも遠い地点で、帰り路は遠かった。小雨交じりの中を帰ってきた。中々連の参加者もだんだん増えてきて、日曜は60人以上、いたのではないか。提灯を持って踊るのも大変になってきた。歳を感じた阿波踊りでもあった。それでも踊りのあとのビールはうまい。こたえられない。

      
 

7月18日〜8月5日 チロルの日々

チューリッヒ空港で森さん夫妻と別れ、山内夫妻と一緒にチロルに向かう。まず空港でレンタカーを借りる。オフィスを見つけるのに苦労したが、カウンターも人でいっぱい。見ていると、中東あたりからの客が多そうで、何だかんだと係員とワイワイしていてどの客も時間がかかっている。私の番になると係員もホッとしたらしく、手早く受付を進める。なんていったて、日本人は早い。すべてYESで、注文つけたのは「保険はフルカバーで」だけだ。あとは言われるままサインして、駐車場へ。トランクの開け方がわからず往生した。係員が来て、トランク真ん中のVW(フォルクスワーゲン)のマークを押した。何と開いた!「知らなかったなあ」である。この車でこれから一週間強、チロルの谷間を駆け巡るのだ。山内さんもお母様の死を背負っての旅になったが、割り切ったようで元気になりつつある。

      
 

8月1日〜2日 ピッツタール

ピッツタールはエッツェタールの隣の谷間だ。エッツェタールはゼルデンやオーバーグルグルなど有名な村があり、イタリアに抜ける道もあるので、訪れる人も多く、大きな村や町があるのに対し、その隣のピッツタールはどんづまりの氷河にスキー場ができるまでは何もない小さな谷間だった。今でもスキーシーズンを過ぎると、静かな谷間になる。小さな集落が点々とする。車の終点のマンダーフェンにしてもスキーの宿が数軒あるだけだ。そこからリッフェルゼーの湖にゴンドラで上がり、ハイキングコースがある。それを歩こうというのが今回の目的だ。私も初めて入る谷間なのだ。
マンダーフェンのひとつ手前のティフレンという村のホテルガンドルフを予約した。チェックインに応対してくれたチロル衣装の若い女性はとても愛想がよくて可愛い。夕食のサービスにも彼女が来る。
二泊目に「あなたが日本に来たら、テレビや映画のアイドルになれるよ」と言ったら、「Thank you!!」と笑顔で喜んでいた。山内さんは「あんなこと言っていいんですかね」といささか心配していたが…。
リッフェルゼーからタッシャッハ氷河を眺めるハイキングをしたかったのだが、生憎雨になり、リッフェルゼーの湖畔を一回りしただけで終わった。ホテルからマンダーフェンの村までも近く、散歩がてら行ったがとても雰囲気がよく、静かで、ハイキングもできなかったことなので、再訪したいと思っている。
翌日は快晴になり、氷河の上にある標高3440mの展望台まで行ってみることにした。マンダーフェンから、岩山をくり抜いたトンネルの中をケーブルカーで1400m上がり、ピッツタール氷河に出る。そこからCafe3440までロープウェイがある。チロルでいちばん高い所にある喫茶店だ。そこからの眺めはすばらしい。
正面に3774mのワイルドスピッツが聳え、360度が3000m級の山々だ。シュトバイ氷河の上が”Top of Tirol"と言っていたが、ここの方がTopにふさわしいのではないか。開発が遅かったため、"Top of Tirol"を名乗れなかったのは残念なことである。Cafe3440でカフェオレを飲んで、ピッツタールを後にした。

      
     写真左・雨のリッフェルゼー              右・Cafe3440
 

8月3日〜4日 イシュグル

オーストリアのテレビの天気予報番組で、いつも目にするイシュグルは気になる地名だった。スイス国境に近いスキーリゾートらしい。チューリッヒに帰る途中にあるので、最後のチロルとして寄ってみることにした。そしてスキー場の中をハイキングしようと思う。E60高速道路をランデックで下り、パツナウンタールに車を進める。イシュグルはかなり大きな町で、スキーでにぎわってるらしく、町のあちこちで工事だらけであった。泊ったイエガーホテルは坂の中腹にあった。スイス国境の山までスキーリフトで上り、そこから国境を歩いて牧畜小屋がレストランにもなっているパツナウナ・ターヤに下りてこようというコースだ。
まず街中のロープウェイに乗ろうとシルブレッタ・ザイルバーンの駅で切符を買おうとしたら「シルブレッタカード、カード」と言うではないか?カードはないので現金でと言うと、「ホテルでくれなかったか?どこのホテルだ?」と聞く。「ホテル・ジャガー」と言うと、「オー、ホテル・イエガー」、Jの上の・・は”イエ”と発音することを知った。「たった5分で行ける距離なんだから、もらってこいよ」と強硬だ。そこで私が小走りにホテルに戻り、話すと、鍵ボックスから3枚の名前入りのカードを出すではないか。チェックインは昨日しているんだから、そのときくれればいいじゃないか、と文句を言いたかったが、どう話せばよいかわからないので、急いで乗り場に戻った。切符係の人に手を上げて、「Thank you very much !!」とお礼を言った。にこにこ笑っていた。
ゴンドラ、リフトを乗り継いでクライトウシュピッツェの尾根に到達した。ここは国境、昔の税関小屋が残っていた。国境の尾根を歩いた。スイス側にはスイスの目印、オーストリア側には国旗模様が岩に描かれている。この辺りの尾根をサウンド・オブ・ミュージックのトラップ一家は越えてスイスへ亡命したと言われている。そんな歴史的な境界線をしばらく歩いて、オーストリア側のスキー場へと下りて行った。オーストリア側の斜面はいたる所にリフトがかかり、スキー場になっている。スイス側にもスキー場は広がるが、手つかずの山も多い。「自然保護では食ってはいけぬ」と開発優先のオーストリア、自然保護第一のスイスの姿勢の違いがわかるようなアルプスの景色だった。

      
     写真左・スイスとの国境              右・オーストリア側の標識
 

8月5日 イシュグルからチューリッヒへ

パツナウンタールをさらに進んでE60と交わるブルゲンツに出ることにした。しばらくはスキーリゾートの村々を通っていくと、検問所のような所に来た。前の車は金を払っている。有料道路の料金所だった。15スイスフラン、高いなと思ったが仕方ない。しばらく走っているとだんだん風景が変わってきた。広い草原とその先の山波、手前には湖も見える。カナディアンロッキーのような雰囲気になってきた。ホッシュアルペン道路と言うらしい。すばらしい景観の中を上っていき、大きなダム湖の畔に出た。湖ではレガッタの練習をしている。そこからはカーブの続く急な下りになった。
ブレゲンツの町からはE60に乗り、また国境近くで普通道に入り、検問所を通過してスイスに入った。そして再びE60に入った。来るときに目標にしてきたセントギャレンを過ぎ、一路、最後の宿泊地チューリッヒに向かった。これでチロルの旅も終わりである。明日は久しぶりに日本に帰る。さよならアルプス、チロルの山々。

      
     写真左・国境稜線を歩く              右・チロル最後の晩餐
 

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7 月

7月16日〜18日 シャモニーの日々

シャモニーには7月15日の夕方に着いた。暑い。神田美智子さんの話だと、今年は晴天続きでことさら暑いという。30度を超している。シャモニーの標高は1000mなので軽井沢並みなので仕方ないかもしれない。ここでオートルート足慣らしを兼ね3日間滞在する。神田さんのシャレーに泊って翌日はエギュードミディに上った。冬のスキー以来だが、やはり高い。3800mなので下界とちがって寒い。コーヒーショップで温かいココアを飲んだ。イタリアへ続く3連式のロープウェイに乗ることにした。冬は運休なので初体験である。
バレーブランシュの氷河の上をグランドジョラスやシャモニー針峰群を横に見ながら渡っていく。バレーブランシュを滑ったことが思い出される。今はクレパスだらけで誰も滑ってはいない。ロープウェイの終点に着いたら、イタリア側のクールマユールの近くまで別なロープウェイが開通していた。今年からだそうで、初乗りだ。イタリアの谷間に降下していく。下りた所にあったレストランで昼食を摂り、シャモニー行きのバスで帰ってきた。エギュードミディの展望台からはグランコンバンの左にマッターホルンの姿が見えた。明々後日から歩くオートルートはこの山を目指して行くのだ。

      
   写真左・エギュードミディからの展望     右・バレーブランシュ上のロープウェイ
 

7月17日、今日はラックブランへ行くことにした。モンブランやエギュードミディとシャモニーの谷間を挟んで反対側の山にある湖だ。湖面にモンブラン山塊を映すきれいな所だと聞いていた。フレジェールのロープウェイ乗り場から上がり、リフトに乗り継いでから歩き出す。対岸の針峰群を見ながら、ラックブランに向かう。湖は岩山に囲まれた窪地にあった。雲があるせいか、モンブランが湖面に映ることはなかった。そばにあるカフェでオムレツとビールとレモンスカッシュを頼んだ。腹が減っているのだ。ビールにレスカを入れて、ラドラーにして飲む。爽やかな味がたまらない。結構きつい下りをフレジェールのロープウェイまで歩き、そこからロープウェイでシャモニーの街に戻った。時間もまだあるし、ブレバンへ行くことにした。
バスで街の中心で下り、ロープウェイ乗り場まで町の中を上へ上へ歩いた。かなり上部に乗り場があり、そこからやはり二つのロープウェイを乗り継いでブレバンに上がった。時折、小雨もあり、天気は下り坂のようだ。見通しもあまり良くなく、モンブランも中腹から上は雲の中だった。歩くこともせず、再びロープウェイで街に戻ってきた。帰りに鴨肉を探したが、生肉はなく缶詰を買ってきた。今晩は持ってきた蕎麦、そうめん、麺つゆで鴨せいろを作ろうと思う。缶詰の鴨肉はフレーク状になっていて、イマイチだが、味は鴨なので何とか食べられた。持参した蕎麦もそうめんもきれいになくなった。残った麺つゆはシャレーの世話をしている日本人の女性にあげた。醤油や麺つゆはとても貴重だと言っていたから。

             
       写真左・ラックブラン                右・モンブランを望む
 

シャモニー最後の日、天候は雨模様でどうしようかと思ったが、古くからあるモンブラン登山口へのトラムに乗ることにした。これなら雨でも大丈夫だ。路線バスライン1でル・ホッシュまで行き、そこからベルビュ行のロープウェイに乗った。雷で運行中止していたが、30分ほど待ったら動いた。ベルビュでトラムウェイに乗ろうとしたが、しばらく待つので下の駅までハイキングしてそこから乗ることにした。アルムの中の比較的大きい砂利道を下っていった。雨の心配はないようだ。
ひと駅先はコル・ド・ヴォザ、駅員もいない駅だが、乗る人はそこそこいた。トラムはすぐ来た。1904年から動いている100年以上経つ歴史的な鉄道なのだ。エギュードミディのロープウェイができるまでは、モンブラン登山のメインルートだった。今でもこれを使って登山する人も結構いるという。そんな歴史あるトラムに揺られて終点のニ・デーグルまで30分の乗車を楽しんだ。ニ・デーグルは何もない駅だった。30分ほどモンブラン登山道を歩くとレストランがあるというが、雨模様なので中止、乗ってきたトラムでベルビュへ戻った。ロープウェイ乗り場近くのCafeで軽い昼食にした。Cafeなのにコーヒーはないという。山の湧き水を使っているのだが、この夏の晴天続きで枯れてしまったそうだ。下から水を上げてもまずいので出さないことにしたのだと言う。これもアルプス流のこだわりか。シャモニーに戻り、最後の夜は麺つゆをあげた女性の旦那が勤めているCap Hornという店に行った。フランス料理なのに寿司もあるという。これを担当しているそうだ。美味しい寿司に本場のフランス料理、シャモニー最後の夜は優雅に楽しく更けていく。

      
    写真左・モンブラン登山鉄道            右・シャモニー郊外
 

7月19日〜26日 オートルートを歩く (7月30日〜31日以降に掲載)

 

7月27日 たった一日のツェルマット

オートルートを終わってツェルマットに滞在するのはこの日だけ。明日は森さん夫妻とはお別れだ。リッフルゼーの逆さマッターホルンを見に行こうということで、ゴルナグラードへの登山電車に乗った。いい天気だが気温が低い。半ズボンと半袖で来たが寒いことこの上なし、ゴルナグラードでの展望もそこそこにリッフルゼーに向かって歩き始めた。風も冷たく、途中でウインドヤッケを着こんだが、素足には効き目なし、できるだけの速足でどんどん下った。マッターホルンからワイスホルンまで景色は抜群なのだが、何せ寒い。みんなと離れてしまったが、寒さには勝てない。ひとつ下のローテンボーデンの駅の辺りまで来たら、標高が下がったせいか寒さは和らいだ。
リッフルゼーには中国人の団体がおおぜいいた。風があるので、湖にさざ波が立ち、マッターホルンは映らない。しかしここから眺めるマッターホルンは美しい。昨日まではこれを目指して歩いてきたのだ。ここが本当の歩く終点なのだという思いが湧いた。この夜、中華で食事のあと、マッターホルン・イルミネーションを見に行った。今年はウインパーの初登頂から150年なので、それに関するイベントが多い。このイルミネーションもそのひとつ、ヘルンリ小屋からウインパーの登った道を光で頂上まで示そうというものだ。LEDのランプをそのルートに埋め込み、リモートコントロールでひとつひとつ点灯して、山頂まで案内するのだ。
ツェルマット川の橋のたもとの喫茶店のバルコニーで開始を待った。そして夜の8時15分、始まった。まずヘルンリ小屋の第一灯が点き、間隔を置いてひとつひとつ上部の尾根道の灯りが点いていく。オーバーハングの壁を越え、山頂の灯りが点いたときは歓声があがった。3260mのヘルンリ小屋から4478mの頂上まで光の帯で結ばれたのだ。すごいことをやるものだと感心した。

      
       写真左・リッフェルゼー           右・マッターホルンイルミネーション
 

7月18日〜8月5日 チロルの日々

チューリッヒ空港で森さん夫妻と別れ、山内夫妻と一緒にチロルに向かう。まず空港でレンタカーを借りる。オフィスを見つけるのに苦労したが、カウンターも人でいっぱい。見ていると、中東あたりからの客が多そうで、何だかんだと係員とワイワイしていてどの客も時間がかかっている。私の番になると係員もホッとしたらしく、手早く受付を進める。なんていったて、日本人は早い。すべてYESで、注文つけたのは「保険はフルカバーで」だけだ。あとは言われるままサインして、駐車場へ。トランクの開け方がわからず往生した。係員が来て、トランク真ん中のVW(フォルクスワーゲン)のマークを押した。何と開いた!「知らなかったなあ」である。この車でこれから一週間強、チロルの谷間を駆け巡るのだ。山内さんもお母様の死を背負っての旅になったが、割り切ったようで元気になりつつある。

      
 

7月28日〜29日 レッヒタールからインスブルックへ

レンタカー係員の「セントギャレンを目指せ」の言葉に従い、E60をオーストリア方面へ走る。セントギャレンを過ぎるとE60の高速道路は途切れ、一般道に下りた。地図で確認しながら走るとスイスとオーストリアの国境に出た。そのままオーストリアに入り、ほどなくするとE60の高速道路に入った。国境周辺で高速道路がつながっていないのだ。これもスイスの安全を守るための防御策なのだろうか?
オーストリアの谷間からレッヒタールへの側道に入り、ロイテを目指す。ライターさんに会いに行く。昨夏、久仁子さんが亡くなり、今はライターさんひとりで暮らしている。久仁子さんの霊前に線香をあげるための訪問だ。長いレッヒタールの道を走り、夕方4時過ぎに見慣れたホテル・モレーンに着いた。懐かしいライターさんの家を訪問、築100年以上経つ広い館にライターさんひとりは寂しかろう。持ってきた線香をコップに何本かさして火を点けた。独特の香りが部屋に漂った。久仁子さんも日本の香りを感じただろうか?
ライターさんと夕食を共にし、明日はノイシュバンシュタイン城に行くと行ったら、今はピークシーズンなので大混雑で入るのに半日も待つというではないか。翌朝早目にフュッセンに向かった。確かに切符売場は長蛇の列だったが、オーディオガイドの窓口で1時間後の入場切符が買えた。これなら御の字である。山内夫妻は初めての訪問だが、私はこれで5回目だ。前回と前々回は入らず、車で待っていたものだ。今回は案内を兼ねて入った。中国人が多く、オーディオ機器を借りるときに「チャイナ?」と言うので「ジャパニーズ」と返したら、「Sorry」と言って、日本語仕様に調整した。もっと怒る日本人もいるみたいだ。
ノイシュバンの後、インスブルックへ向かう途中、ライターさんから聞いた、ギネス認定の”世界一の吊り橋”に立ち寄った。古いお城の跡が残る岩山から対岸の岩山に架けた吊り橋だ。下を幹線道路が走っている。橋にたどり着くまに結構登るのだ。橋を渡っていると風に大きく揺れ、「大丈夫」とわかっていても恐怖で足が止まってしまう吊り橋だった。

         
    写真左・ノイシュバンシュタイン城           右・世界一吊り橋
 

7月30日〜31日 シュトバイタール

インスブルックの故宮にザッハートルテがあるのを初めて知った。ウイーンのホテルザッハーが喫茶店を出しているのだ。軽い昼食を摂り、デザートにトルテにウイーンナーコーヒーを頼んだ。豪華なカフェを楽しんだあと、シュトバイタールに向かった。4回目だ。
ノイシュティフトのホテルと思っていたが、見当たらない。案内所で聞いたら、二つ手前のカンプルという村だと言う。戻って村の入り口の案内板を見てもない。もう一度案内所に戻って聞くと。もっと先のスーパーの前の道を入るのだと言う。改めて行くと、あった。大きなホテルだ。部屋も広く、ベランダには花が咲き乱れていてとてもきれいなホテルだった。あたり!である。
翌日はエルファーリフトで上り、ピンニスタールへハイキングに出かけた。これは3回目だ。勝手知ったる道とろくにチェックもしなかったが墓穴を掘ってしまった。エルファーリフト終点で「ピンニスアルム」の道標を見たので、これでよいと思って歩を進めたが、歩けども森の中で、あの雪の山々を見ながらの草原の道に出ない。どんどん下って、ピンニスアルムの小屋に出てしまった。本来ならカールアルムの小屋の次の山小屋である。仕方なくカールアルムへ自動車道路を歩いて、逆ルートで行こうとしたら、アルペンウェグ(展望小道)に直接登る道を見つけた。これならメインの展望コースに行けるとわかったので、急登をゆっくりゆっくり上がっていった。見慣れた美しいオーストリアアルプスを展望するアルムに出た。
しばしチロルの山と谷間を俯瞰して、エルファーリフトに戻ってきた。逆コースとなってしまったが、結果的には長い自動車道を歩かないですんだので、これで良かったかもしれない。シュトバイタールを去る日は氷河を見たいと山内さんが言うので、シュトバイ氷河に行ってみた。グレッチャーバーンのゴンドラを乗り継ぎ、”Top of Tyrol"の終点に着いた。
以前来た時はここで氷河スキーを楽しんだが、今は氷河が解けて巨大なカバーをかけて溶ける速度を遅くしようとしている始末。スキーはもう無理のようだ。温暖化の影響がこんな山の上にも表れているのだ。

      
       写真左・アルペンウェグ            右・Top of Tyrol
 

7月19日〜26日
      
神田泰夫と歩くオートルート・モンブランからマッタホルンへの天空の山旅

オートルートとは自動車の道ではなく、フランス語で天上の道という。
アルプスの山々を越えて歩くトレッキングルートを言い、一般的にはフランスのシャモニーを起点として、いくつかの峠を越え、氷河を横切りながら、スイスのツェルマットまでのルートを指している。途中、谷間の村に下り、ホテルにも泊まり、またそこから登っていく。すべてを歩き通すと2週間以上かかるが、私たちは部分部分を車に頼りながら、メインの所を8日間で歩くルートを採った。
歩くのは三年前にニュージランド・ミルフォードトラック、ルートバンを歩いた極楽スキー仲間の森さん夫妻、岳文会後輩の山内さん夫妻と私の5名。行程をお願いしたのはシャモニーに本拠を置くアルプ・プランニング社、代表は神田泰夫氏、グランドジョラス北壁を加藤保夫、森田勝の名クライマーと一緒に冬季日本人登攀ルートを開拓した人だ。
今はシャモニー日本人会長として活躍している。この元名クライマーが私たちのガイドを勤めてくれるという。すばらしい山旅になる予感を感じながら、7月19日の朝、シャモニーを出発した。8日かけて7月26日にツェルマットに到着する予定だ。

      
 

宿の近くからバスに乗り、ル・ツールへ。そこからバルム峠・2204m近くまでリフトで上がった。フランスからスイスへの国境越えはあっけなかった。トリアンの村へは長い下りが続いていた。トリアンには奥様でコーディネーターの神田美智子さんが車で待っていてくれた。車でマルティーニへの街に下り、ル・シャブルへの道に入った。
この辺りは数年前、トロアバレーのスキーの帰りにひとりで来た所だ。あのときは冬で、電車の旅だったが、今は緑あふるる季節。ル・シャブルは懐かしい。昼食に入った所はそのとき泊っていたホテルのすぐ隣だ。私が泊っていた部屋の窓が目の前にある。ビールを冷やす所がなくて、非常階段に置いたことを思い出した。その階段も見える。走馬灯のようにそのときの日々が思い出された。そしてロープウェイでヴェルビエへ上がり、スキー場の中へさらにロープウェイで上がっていく。これも懐かしいルートだ。ラショーまで乗継ぎたかったのだが、運転しておらず、モンフォール小屋まで自動車道を歩いた。
モンフォール小屋には夕方4時半に着いた。外国で初めての山小屋泊りだ。部屋は2段ベッドで5人一緒、私はトイレが近いので、下の段にしてもらった。
夕食は、まずはビールで乾杯、スープ、サラダ、ひき肉たっぷりのパスタ、デザートと日本の小屋以上のボリュームだ。味もまずまず、ワインも進み、オートルート最初の夜は更けていく。
 (ル・ツール0.45バルム峠2:00トリアン<車0.45>ル・シャブル<ロープウェイ0.30>ヴェルビエスキー場1:15モンフォール小屋・歩き所要4:00)

      
       写真左・バルム峠                 右・モンフォーレ小屋
 

7月20日 3つの峠を越えてプラフルーリ小屋へ
私はぐっすり寝たが、起きたら、私のいびきで寝られなかったとの苦情あり。すみませんね。そんな不満も今日の好天でみんな忘れることだろう。
スキー場のコースを上へ上へと登っていく。みんな好調だ。神田さんのペースもちょうどよく、ぐんぐん高度を上げる。スキーコースを外れ、本格的な登りに入る所の上部には冬のとき上がったゴンドラの終着点が見えた。そこからのコースはこぶこぶの岩尾根で、滑るのに難渋したことを思い出した。そんな思い出を噛みしめながら、急坂をラ・ショーの峠に向かった。2940mへと登っていく。昨日のバルム峠に続いて二つ目の峠。岩道の急坂が峠を越えて続く。しばらく下りると、隣の谷から上がってくる道と合流した。

      
       写真左・雪渓を渡る             右・アルプスは花いっぱい
 

ここまで岩に描かれていた目印は白二線の間に青一線だったが、合流地点からは白二線の間に赤一線となった。ここからコースが変わるということを示しているのか?
ルビー峠への途中で各国混成のパーティが追いついてきた。ノルウェーやアメリカなどの人たちが多い。彼らはルビー峠で大休止していたが、その後の足取りを見ていると、コース外に入っていったり、パーティの間隔が大きく空いたりでバラバラの様子だ。
神田さんは「ガイドはあまり道を知らず、パーティ内で10m以上も離れたら、待っているのが常識なのにそれもしない。ハイキングのガイドレベルだ」と手厳しい。
3つ目のルビー峠は2921m。ルビー峠から大きな圏谷状の中に下り、氷河の名残のような池を廻って、再び急な岩道を登った。今日3つ目の2987mのプラフルーリ峠に午後1時過ぎに着いた。はるか下の彼方に今宵の宿、プラフルーリ小屋の屋根が見える。
とても遠いようだったが、2時間を切って着いた。氷河からの流れにかかった橋を渡った所から短くはあるが、急坂をあえぐようにして登り切ると小屋の前に出た。いずれの小屋も雪崩を避けるべく台地状の高台にあるのだ。
この日は森さんの奥さんよしえさんの誕生日、神田さんが小屋に話してくれたようで、夕食終わり間際、電灯が消され、泊り客全員の♪ハッピイ・バースデイ・トーユー♪の大合唱の中をケーキが運ばれてきた。ロウソクを消すのかと思いきや、ケーキの中に埋め込まれた花火に点火され、パチパチと花火が燃えてお祝いだ。粋な計らいに森さんは大感激。素敵な山小屋の夜となった。
(モンフォール小屋1::50ラ・ショー峠2:00ルビー峠2:00プラフルーリ峠1:40プラフルーリ小屋・所要7:30) 

      
     写真左・ハッピイバースデイ             右プラフルーリ小屋
 
7月21日 ディス氷河を目指して

今日も良い天気だ。プラフルーリ小屋を7時に出発、目の前のルー峠を目指す。30分で着いた。5つ目のルー峠、2804m。この峠を越えると岩道から徐々に草付きに変わり、広いアルムの草原に出た。前方下にはディス湖が見える。スイス最大の水力発電ダムだという。
森さんの奥さんは腰の調子が悪いらしく、下りがきついようだ。神田さんがザックを持ってくれることになった。森さんの旦那さんはニュージランドのミルフォードやルートバーンのときのような下りの不安定さがない。足もふらつかず、調子がよいようだ。本人も自覚しているらしく、しゃべりも饒舌だ。草原の下りを終えると自動車も走るダム沿いの砂利道に出た。その道をひたすら歩く。
途中、牛の群れが前方から近づいてきた。角をぶっつけあったり遊びながらやってくる。この牛たちは角突き試合にも使われる牛だと神田さんは教えてくれた。ダムの終点近くには大量の水が滝のようにダムに噴射しているトンネルがあった。山から流れを集めてトンネルを掘って、ダムに呼び込んでいるのだそうだ。すごい流れで、この上に乗ったら、あっという間にダムに水没、即死だろうな?などと思った。その近くから放牧地にもなっている山に取り付いた。

      
       写真左・アルムを行く                右・牛と遭遇
 

登ることしばし、ここまで一緒だったミネソタから来たという明るい女性がGood Byeと言って、アローラへ直接下りる道に入って行った。我々はディス氷河のまじかにあるディス小屋へ泊り、明日は氷河を越えて、アローラへ行くのだ。草原から岩尾根を登った所が、標識はなかったが、地図で見るとシャ峠(Pass du Chat:2547m)と表示されている。
6つ目の峠だ。実はここまでの峠はすべてCol des XXXXと表示されているのにここからツェルマットまではPassになっていた。ColとPassは同じだと神田さんは言うが、日本語だと鞍部と峠に訳す。またこの辺から、フランス語圏からドイツ語圏に変わってくる影響がColからPassに表示が切り替わるのに通じているのかもしれない。シャ峠を越えても、さらに高い尾根が前方に見え、それを越えないとディス小屋には着かない。
圏谷に下り、砂地をしばらく回り込み、上り上げて、ディス小屋に着いた。シャイヨン氷河が眼前に張り出し、その上にはモンブラン・ド・シャイヨンの山、奥にはピーニュ・ド・アローラの山。まさに絶景の真っ只中にある小屋だ。ここまで来たことを祝い、小屋前のテーブルで乾杯!
(プラフルーリ小屋0.30ルー峠1:30ディス湖上の草原1:30ディス湖末端1:00シャ峠上1:50ディス小屋・所要6:20)

      
       写真左・ディス小屋近し             右・小屋前で憩う
 

7月22日 間一髪、犠牲はテルモス
昨夜の宿・ディス小屋は標高2928m,この山行でいちばん高い所にある山小屋だった。
その小屋が今は真上に見える。今日は氷河を渡って、梯子登りの峠越えの日だ。
今年の氷河はかなり上部を通過しないといけないそうだが、案内の印は梯子近くに続いていた。かなり水の流れが速いが真ん中に岩がある場所で氷河を渡る。
神田さんが足場を氷の部分をストックで削り、そこを渡って岩を飛び越して対岸に渡るよう指示する。神田さん自身は渡る前の氷の部分で皆を自分の足を踏んで歩を進めるよう指示し、そこに立っている。女性陣が軽やかに渡り、森さんが渡ろうとしたとき、グラッときて体が斜めになった。神田さんが支えたので森さんは倒れなかったが、ザックが傾いた勢いで、ザック脇に挟んでいたテルモス(魔法瓶)が滑り落ち、氷河の流れに消えていった。拾いにいけるかと思ったがそんな悠長な流れではなかった。シューっと言う間に前方の氷の塊にぶつかり、飛んで行ってしまった。森さんの命が助かったのが最上である。
      
      写真左・緊張の氷河越え             右・垂直梯子登り
 
あとで神田さんが話すには、2,3日前に同じ場所で人が落ち、心臓マヒで死んだそうな。ディス小屋で聞いたとのことだが、我々には秘密、渡り終えたあと初めて教えてくれた。これもガイドの役目か。氷河越えのあとは峠越えの試練が待ち受ける。ここは長い垂直な階段を継ぎ足しながら、峠に向かうのだ。慎重に登る。登り終えた所がシャドレ峠2855m。7つ目の峠。
ここからアローラの村へ800mの高度差を一気に下りる。前方はるかにマッターホルンが顔を覗かせた。終着点のツェルマットの山がようやく見えてきた。急傾斜の道が麓に近づくにつれ、喫茶店が現れた。下りの疲れを癒すべくビール一杯!ひとしきり休んだあと、アローラの村へ歩を進めた。
今宵は村のホテル、グレイシャー。いっぱいの花に囲まれた美しい小さなホテルだった。静かな小さな村にはATMもなかった。神田さんの息子・庄太さんが着替えの袋とトランクを運んできてくれた。カメラの充電器を出した。
(ディス小屋2:00シャドレ峠3:30アローラ・所要5:30)

      
  写真左・マッターホルンが遠くに見ゆ        右・花に包まれたホテル
 
7月23日 エーデルワイスを見つけた

アローラのホテルからタクシーでマイエンヌ・ド・コテールまで行った。ここは2058m、2916mのトーラン峠まで標高差約900mの登り。牧草地(アルム)の草原を上へ上へと向かう。上を見るといやになるので、下を向いて黙々と歩を進める。周りには紫や黄色の花が咲き乱れていて美しい。その中に小さなエーデルワイスの株があった。周りをみるといくつか咲いている。アルプストレッキングでぜひ見たいと思っていた。こんなアルムで見つけられるとは思ってもいなかった。しばしエーデルワイス・深山薄雪草に見とれ、写真を撮りまくる。
それからしばらく登ってやっとトーラン峠(8ツ目)を越した。ここからはモワーレ湖に下っていく。大きなダム湖だが、その堰堤に着くまで、かなり下るのだ。自動車道路がよいか、山道か?と神田さんが聞くので、躊躇せず山道を選んだが、かなり遠回りをしたような気がした。

      
     写真左・エーデルワイス発見          右・マークに沿って登る
 

ダムに辿り下り、その堰堤を歩き、対岸に出た。ここからまたソルボワ峠へ牧場の中を登っていく。上から1頭の牛がえらい勢いで突進してくる。先頭の神田さんの方に向かってくる素振りを見せたところで停まった。しばしにらみ合い。牛は歩を翻し、さらに下の牛の群れに向かって走り去っていった。そのあとすぐ、上からマウンテンバイクが2台下りてきた。この異様な塊に驚いて牛は逃げ下りたものと思われる。
それからしばらく急なアルムの道を上がり、9つ目のソルボワ峠2835mに着いた。
ここはチナールの谷間からスキー場のリフトが上がってきていた。我々は途中のゴンドラでチナールの村まで下ることにしている。スキー場の草原を藪をかき分けながら近道して、乗り場に着いた。発車時間まで間があったので、隣のカフェテリアに入ってビール一杯。今日の上り下りの苦しさをこれにて解消。チナールのル・ベッソホテルは古い建物だったが居心地はよかった。
(アローラ<車40分>マイエヌンヌ・ド・コテール2:20トーラン峠1:30モワリーダム1:40
ソルボワ峠1:00ロープウェイ乗り場<ロープウェイ0:30>チナール・所要6:30)

      
  写真左・山の説明してくれる神田ガイド         右・ソルボワ峠
 

7月24日 ワイスホルンは有名な山小屋ホテル
チナールはアローラより大きな村だった。ATMで現金も出せたし、スーパーで明日の昼食も買うことができた。今日の目的地ワイスホルンへはアルムの草原を歩く旅で楽だ。
しばらくチナールの村の上部目指して森の中を登って行く。途中で森さんの携帯に山内さんの奥さんの家族から電話が入っていることに気がつき、日本へかけた。お母さんが数時間前に息を引き取ったという知らせだった。
こちらへ来てから何回か森さんの携帯を借りて容態を聞いていたが一進一退が続いていた。とうとう亡くなったという知らせに悄然となる。ツェルマットに着いたら、予定しているチロル行きを中止し、帰国することを山内さんに打診した。「亡くなった母から”私のことでアルプス行きを中止しないでほしい。予定通り行ってくれ”と出発前に強く言われて来たのだし、途中でこの事態になることも覚悟の上。他の身内もそうしてほしいということなので、予定通り旅を続けたい」と言う。死の直前までしっかりしていたお母さんだったようだ。

      
       写真左・アルムの農家               右・草原に憩う
 

気を取り直して、アルムの道を進んだ。沈んだ気持ちに反し、快晴の光はまぶしく、アルプスの山々に囲まれた花咲き乱れる草原はことのほか美しい。大きな牧畜小屋の横を抜け、谷間を大回りして歩を進めた。他のグループやマウンテンバイクの一団が追い抜いていく。彼らのほとんどは次の村・グリューベンへ直接行く道を選んで我々と離れて行った。アルプスの山々と谷間、そして美しい花々に囲まれた小川のそばの草原でカウベルの音を聞きながら昼食を摂った。
私たちの今日の目的地は途中にあるホテルワイスホルンである。1800年代の後半に建てられた山の中にある山岳ホテルなのだ。標高2305mにあり、麓のサンリュックの町からケーブルカーで上っても30分ほど歩かなければならない高所なのだ。4階建ての石造りの重厚な建物だ。尾根をいくつか回り込んでようやく見えてきた。ホテルの前のパラソルには大勢の客が憩っている。大半は麓からの日帰りのハイキング客のようだ。
私たちはその一角に腰をおろし、ビールにした。山内さん奥さんのお母様の冥福を祈りつつ。ホテルはツインやシングルルームなのだが、何せ年代ものなので床がギシギシと音をたて、トイレは階段の踊り場に行かなければならないし、シャワーも共同だ。街のホテルと同じようなわけにはいかないが、歴史を感じさせる貴重な建物だ。神田さんに聞くと、一度つぶれたが、何人かの有志で再開し、今に至っているとのこと。そんな長い歴史の感慨に浸りながら床についた。
(チナール5:30ホテルワイスホルン・所要5:30)

      
    写真左・ホテルワイスホルンへ           右・ホテルの室内
 

7月25日 メイド峠を越えてタトーマンの谷へ

ホテルワイスホルンからはワイスホルン峰が谷奥に見えるはずだが、昨日も今朝も叶わなかった。今日はメイド峠を目指す。森さんはメイドは娘さんのことだと言うので、”乙女峠”ではないかと茶化す。魅力的な名前の峠に向かって歩き出した。
しばらくは牛が放牧されているアルムを登っていくが、上部になるにつれて岩道になった。晴れてはいるが、雲もかかっていて眺望は今ひとつ。時折、ガスの中の道になった。メイド峠は2790m、10ヶ目の峠になった。そこからは圏谷状の谷間の急な下りになった。ここはタートマンの谷になる。はるか向こうにメイド牧草地の牧畜小屋が見える。道はそこに通じていて近づくとインディアンのティピーテントがあった。周辺はキャンプ場にもなっているようだ。しばらく行くと小さな小屋がいくつか見え、小屋の前で家族連れが食事をしている。夏のバンガロー村にもなっているようだ。
草付きの斜面から森の中に入っていくと、はるか下に木の間越しに今宵の宿ホテルシュバッツホルンが見えてきた。グリューベン唯一のホテルだという。ホテルと言っても二段ベッド中心のドミトリーのような施設だそうだ。川の音がだんだん近づくと、小さなグリューベン村に入った。いくつかの建物が周辺にあるが、みんな夏の山荘のようである。
あまり常住している雰囲気はない。ここは最後の宿泊地だ。4人部屋と2人部屋に分かれ、私と神田さんが一緒になり、神田さんは上のベッド、私は下のを使うことにした。
部屋は廊下も狭く、2等寝台車の雰囲気だ。食前に外のテラスでブラスバンドの演奏があった。老若男女のメンバー、楽しい楽曲を奏で、すこぶる良い気分で夕食に向かった。行程中、最後の夜ということもあり、ここまでの苦労をいたわりつつ、酒も進む。
神田さんからは「みなさん、歳を感じさせないバイタリティでバてもせず、ここまで歩いたのは偉い」と褒められ、「最後の明日もがんばりましょう」と激励された。
神田さんも夏のオートルートを通しで歩くのは今回が初めてとかで、良い経験になったのではないか。
 (ホテルワイスホルン2:40メイド峠2:50グリューベン・所要5:30)

      
      写真左・岩尾根を越えて           右・ホテルの前で演奏会
 

7月26日 11ヶ目の峠を越えてフィナーレへ
グリューベンの宿の裏庭に道標が立っている。実はここからすぐ急な登りがまっすぐ延びているのだ。アウグスボート峠3時間と表示されている。グリューベンは標高1800m、峠は2893m、1000mを超す登りがあるのだ。最後の日になってもきつく長い登りが待っていた。ゆっくり一歩一歩と上がっていく。グリューベンの村はすぐ目の下になっていき、上がっていくに従って、昨日下ってきた反対側の山の斜面が競りあがってきた。
ティピーのテントも見えた。それが上に見えていたのに、しばらくすると、私たちの下になっていった。確実に上がって行く。それはあとわずかでこの山旅の登りが終了することを意味していた。いくつもの峠を越え、氷河を渡り、どこまでも続くアルプスの氷壁の山を眼前に、緑なすアルムを歩いてきた素晴らしきオートルートトレッキングのフィナーレがまじかだ。つらい登りも今は最後の快楽に覚えてくる。

      
      写真左・最後の峠に到達            右・岩頭に立ち万歳 
 
登り着いたアウグスボート峠はこの旅最後の11ヶ目の峠になった。そして今度は最後の下りである。行程表ではツェルマットへの登山電車の駅、サントニコラウスまで歩くことになっている。峠の道標には途中の村ユンゲンのロープウェイまで2時間半と表示されている。文明の利器を使わない手はないと神田さんに訴える。この費用は会費に含まれていないそうだ。「それなら払いましょう。毎日の飲み代を考えれば安いものだ」と。神田さんもこれで納得。
ユンゲンからサントニコラウスまで2時間近い歩きの節約となる。話がまとまれば速いもの。足取りも軽くユンゲンへの森の中を下った。ユンゲンのロープウェイは4人乗りの軽便鉄道のような箱でそれに乗ると下の駅で操作し、動かしてくれる。われわれは2回に分けて下った。下ではおじいちゃんひとりで操作していた。料金も彼に払う。サントニコラウス駅からは鉄道だ。人があふれるツェルマットに着き、この山旅は終わった。
神田さんへの感謝も込めて、トランクを運んできてくれた庄太君とスタッフも入れ8名で日本料理の妙高へ繰り込み、久しぶりの日本食、サッポロビールと日本酒で乾杯だ。終わったよ!!
(グリューゲン3:20アウグスボート峠3:00ユンゲン<ロープウェイ>サントニコラウス
<電車>ツェルマット・所要6:20)

      
   写真 左・ツェルマータールの谷間          右・完歩を祝う

 
7月10日 絵本美術館

「ばばばあちゃん」は娘の愛読書だった。その絵本美術館が八ヶ岳山麓にあると知ったのは妻である。
時々、東京との往復に通る八ヶ岳農場の近くだった。先月来たときは休館日だった。
今日は金曜日なので開いていた。森の中に瀟洒な洋館の美術館だった。雨の中を行ったのだが、雨に覆われた木々は瑞々しく光り、なつかしいばばばあちゃんの絵が並んでいるのは好ましかった。中には喫茶コーナーや読書室もあり、来た人は時間をかけて過ごしているようだ。岡谷に本館があるようなので、こんど行ってみたいと思った。

      
      写真左・絵本美術館                 右・美術館休憩室
 

7月9日 山荘の庭今昔

たった4年前の山荘の庭は花いっぱいだった。今村さんの奥様が植えてくださったアナベルが年々大きくなり白いきれいな花がたくさん咲いていた。4年たった今年は何もない。枯れたのではなく、この4年間にすべて鹿に食われたのである。少しずつ減ってはいたが、まさか鹿とは思わず、自然減と思っていた。
しかし、まだつぼみの頃に、その穂先が何本か無くなっているのに気づき鹿の仕業だと知った。網をかぶせたりしたが、花が開いたので網を外すと、その花も無くなってしまった。こんな攻防を繰り返して完敗を喫した。全滅である。その後、ルピナス、百日草だと試したがダメである。鹿の嫌がる花を調べて植えてみたが、スズランは食べないと聞いていたが、食べられた。今では春の水芭蕉、水仙と夏のマリーゴールドだけがかろうじて庭に残った花である。残念なことである。

      
      写真左・2011年夏、                右・2015年夏
 

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6 月

6月27日 立川のオクトーバーフェスト

オクトーバーフェストはドイツのビール祭り。秋のミュンヘンのそれは有名だが、今日はまだ6月なのに、立川でオクトーバーフェストがあるという。ビール好きの私は妻と一緒に昭和記念公園に出かけていった。
梅雨の晴れ間の公園にはドイツや日本の地ビールの屋台が出て、いろいろな種類のビールやソーセージが並んでいる。舞台では景気のよい音楽が奏でられ、それに合わせて、ドイツ衣装のお姉さんを先頭に、おおぜいの人が列を組んで練り歩く。それが一段落するとディスコのような雰囲気で舞台前で手を振って踊り狂う。たいした量のビールを飲んでいないのに、盛り上がっている。
ピルスナータイプのビールを二杯飲んだ。どうも地ビールはしつこい味がするので苦手だ。その中でもピルスナーは日本のラガービールに味が近いのでいちばん飲みやすいのだ。妻の分も飲んで、帰りに日高屋に寄ってラーメン、冷やし中華と生ビールを飲んだ。この値段がトータル1210円、オクトーバーフェストでのビール一杯が1400円だったのに比べるとすごく安い。そして日高屋の生ビールの方がずっとおいしかった。

      
 

6月25日 上野の美術展
3月にソウルに行ったときに、娘が世話になっている呑み屋のママさんのパートナー、ベイ・ジン・ヒュンさんの絵の展覧会が上野の美術館で開催されることを聞いていた。それが今週だ。都美術館だというので、妻と行ってみた。パンフレットももらっていた。簡単にわかるだろうと思っていたが、美術館に入ってもそんな看板はない。案内に聞いても知らないという。いくつかの団体の絵画展や書道展をやっているので、その中にあるのでは?と言う。ひとつひとつチェックするしかない。まずは無料の団体展を覗いたがない。韓国人の出展はあるのだが、彼のものはない。最後に有料の朔日会展に寄った。二階の展示室は先刻、覗いていたのでその旨話すと、お金は要らないので探してよいとのこと、具象画の多い会場を進んでいくと最奥の誰もいない会場にパンフレットに載っていたオーロラのような絵が数点あった。その絵には彼の名前があった。やっと見つけた。朔日会という絵の団体のメンバーであったのだ。彼のパンフレットにはSolo Showと記されていたのでてっきり個展と思ってしまっていた。絵には詳しくないので、良い絵なのかどうかはわからないが、見つけ出して安心した。ホッと一息つき、妻のお目当ての同じ美術館でやっていた英国博物館展を見に行った。こちらの会場は人でいっぱいだった。帰り路は妻が見たことがないと言う西郷さんの銅像を通って駅に出た。西郷さんの犬は愛犬ではなく猟犬で持っている手綱は鞭だと女房に教えられた。

          
 

6月25日 震災のひまわり

日野の自宅の庭に大輪のひまわりが咲いた。高幡不動駅での3年前の震災募金のとき、大船渡市の吉浜小学校のひまわりの種をもらい、庭に植えたら、今年花開いたものだ。あの苦しみへの対価として、咲いてくれた。ふつうのひまわりと違う、大切なものだ。よく咲いてくれた。復興しつつある被災地の話を聞くにつれ、被災された方々の苦労が偲ばれる。
あれから4年目、鉄道が復旧した話を聞くたびに「よくぞつながった」とその苦労と努力に頭が下がる。黄色いひまわりに明日への復興の祈りをささげながら、太陽を浴びてすくすく育つことを祈る。

        
 

6月23日 天狗岳は蓼科山より高い

アルプストレーニングの二日目、天狗岳に登る。唐沢鉱泉から黒百合平への道をとった。苔むす森の中を昨日とはうってかわった緩やかな登りが続く。木漏れ日が今日の山登りを祝福してくれる。最近の大雨で沢沿いの道は巻き道を余儀なくされた所も多い。2時間足らずで黒百合山荘に着いた。ジュースを買って持参のおにぎりを食べた。天狗岳へは中山峠越えの道を行く。峠は近く、そこから東天狗への稜線を登っていく。上に見えるコブコブの岩頭が頂上と思っていたが、もうすぐという所で会った人に聞くと、その岩頭から先が頂上で、まだ30分近くかかると言うではないか。あれあれとさらに頑張る。やっと頂上の道標が見えてホッとしたが、思ってみるとこの道は初めてだ。天狗岳には3回目だが、いつも西天狗経由だった。
縦走でも天狗は通った記憶がない。東天狗の頂上は2646m、蓼科山より高いことを知った。北八ツの盟主なのに百名山にも入っていない。八ヶ岳でひとくくりにされ、赤岳が総代になってしまったようだ。今日は西天狗から唐沢鉱泉に下りる。えらく急な西天狗から岩だらけの下り道で森さんは苦労している。下りには弱いのだ。下っているときに雷が鳴りだした。山内さんが急かせる。第2展望台で水を飲んでいると、早く林の中に入れと追い立てる。「まだ遠いから大丈夫じゃない?」と言っても「こんな所で当たったらたまったものじゃない」と追い越してぐんぐん下っていく。雹が降り出し、雷の音も近くなった。先頭に立ち急いで長い森の道を唐沢鉱泉を目指した。4時過ぎに下りた。
宿の温泉に入れてもらったが鉱泉の沸かし湯なのでぬるい。それでも長い時間つかっていると温まる。
山内さんは雷が嫌いなそうだ。岳文時代の後輩の古谷君を思い出した。熊も逃げ出すような風采なのに、雷嫌いで、太郎平にテントを張ったとき、雷鳴するどく大雨になった。テントの周りの溝をもっと深く掘ってこいと命じたら、テントの中で「いやです。恐い」とガタガタ震えていた姿を思い出す。岳文50周年で卒業以来、会ったとき、「雷は今でも嫌いか?」と聞いたら、「ダメです。恐い」と言っていた。

      
 

6月22日 蓼科山遭難検証
7月中旬から行くアルプストレッキングのトレーニングでメンバーが蓼科の山荘に集まることにした。山内さんは遅れて、天狗岳だけとなったが、森さん夫妻は昨日来て、今日は蓼科山に登る。
森さんは2年前に極楽スキーの仲間と一緒に登ったことがあるが、奥さんは初めてで蓼科山が百名山30頂目だという。記念山行を兼ねて、女ノ神茶屋から登りだした。ここは途中から岩道を一直線に登り上げ、頂上付近は岩だらけの山稜となる。3時間弱で頂上に立った。
お昼を食べて、蓼科山荘へ下り、天祥寺ヶ原への道に入った。この道は前回の登山で森さんが迷った所だ。昨年、迷い道を検証すべく、私ひとりで来てみたが、どこで違う道に入ったかはわからなかった。迷ったとき、小屋の指示に従い、仲間が携帯で「戻れ」と言ったら、森さんが「立派な道が目の前にある。ここを戻れとは何事だ!」と怒ってきて、「そのまま下りてください」と答えたいきさつのある場所なのだ。張本人が来たというのに、迷い入った場所がわからない。結局あやふやのまま下りてしまった。「あれは何だったのか?」今でも謎の登山である。

      
 

6月20日 まだ咲いていてたレンゲつつじ
30年前に一緒に仕事をやっていた当時の仲間が山荘に来た。HPでサポート業務の時代である。その頃の細かいことは忘れてしまったが、楽しい仲間であったことは覚えている。昨年11月、立川で久々に会って、今日の蓼科集合を決めていた。八子ヶ峰のレンゲつつじがいちばんきれいな時期だからである。
しかし今年は季節が10日ほど早く進んでいるので、満開は過ぎていた。しかしまだ散り行く前の最後の姿をとどめていて、山は真っ赤に染まっていた。初めての人にとってはこれでも驚きである。
梅雨の合間の晴れの日だったが、周りの山は八ヶ岳すら雲に隠れているありさまだったが、下りてくるまで降られなかった。温泉に行ったときは結構、降り始めていた。夜のパーティは盛り上がり、ビールもワインも底をつくほどだった。昔の仲間と飲み、語り合うのは楽しいものだ。

      
 

6月14日 早稲田、大学野球選手権で優勝

春の東京六大学野球で優勝した早稲田が大学選手権に出場した。神宮と東京ドームでの戦いで、二回戦から出場の早稲田は初戦は東京ドームで東海大北海道キャンパスとだった。
応援席は神宮と同じ500円、ドームの方が割安感があるが、応援は場馴れしていないので落ち着かない。選手はどうなのだろうか?5回コールドで勝ち、準々決勝からは神宮で専修大学とだった。ナイターになったが、これが実質的な決勝戦だった。この春いちばんの白熱した試合となり、4−3でやっと勝った。準決勝は上武大とで7回コールドでしりぞけた。
そして決勝は流通経済大と、6回まで3−1とリードされていたが、リーグ戦同様、後半に打つ早稲田の本領を発揮し、7回に連投の疲れが見えた剛腕生田目投手を打ち崩し、9回にも石井のホームランで追加点、8−5で勝利してみごと大学日本一になった。
上武大も流通経済大も関東の大学だが、応援はほとんどが野球部員のようで、ブラスバンドもこじんまりしていて、チアガールも少数、校旗もなし、校歌もなしで、ひたすらがなり立てる応援だった。早稲田のスマートな応援がひときわ際立つ大学野球選手権であった。

      
 

6月8日 初夏の乗鞍高原

上高地の帰りに乗鞍の休暇村に泊った。来てみたかった宿だが、日曜の夜というのに結構おおぜいのお客がいた。値段が手ごろで、部屋や設備がきちんとしているので人気があるのだろう。
夕食は一品だけ事前に注文しておき、あとはバイキングという形式だった。ヨーロッパの夏のホテルのやり方に似ている。近くには池があり、そこからの乗鞍岳が美しい。帰りに一瀬牧場に行ったら、レンゲつつじが満開で赤い花と乗鞍岳の組み合わせが絵になる風景だった。

      
 

6月7日 第69回ウェストン祭
戦後まもない1946年に始まったウェストン祭が69回目を迎えた。過去二度ばかり出たが、今回は妻と一緒に上高地に行ってみた。会場のウェストン碑の前には安曇小学校の子供たちをはじめ山好きの人々がおおぜい集まっていた。
戦時中は敵国人の碑として取り壊しを命じられたが、日本山岳会の会員がそっと外し、戦争が終わるまで自宅に隠しておいた。戦争が終わり、元の場所に据えられて、毎年6月第一日曜にウェストンの功績を偲ぶ催しが始まったのだ。
本来は前日の土曜日に島々から徳本峠を越えて上高地まで歩き、翌日ウェストン祭に参加するのだが、何せ徳本峠越えは長い。私は学生時代に三回も歩いているので、もうごめんだ。一回は越えることが目的だったが、あとの二回は土砂崩れでバスが来なくなり、仕方なく上高地から島々へ歩いたのだった。

      
   (写真左:安曇小学校5年生の合唱)
 

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5 月

5月31日 祝賀会

パレードが大学構内に入り、大隈銅像後ろての商学部前の広場が祝賀会場だった。
櫓が組まれ、校旗が飾られている。檀上に選手があがり、総長、監督、主将の順に挨拶する。総長のところでは、「休講!」のシュプレヒコールが湧き、その後に重信副将が「明日は授業に出ましょう!」と返し、爆笑の渦。
この日好投で勝ち投手になった一年生ピッチャー小島の「早稲田に入ってよかった」のひとことに大拍手。紺碧の空、都の西北を選手ともども大合唱して終わった。初めて最後まで見て、後輩との呑み会には出れなかったがとても楽しい気分で大学を後にした。

      
 

5月31日 優勝パレード
40数年前の学生のとき以来の優勝パレードに参加することにした。絵画館前で待つことしばし、校旗、ブラスバンドを先頭に動き始めた。
千駄ヶ谷スケートリンク前では慶応の帽子を振る人たちを発見、”若き血”が自然に合唱され、返礼する。清々しい。新宿伊勢丹前には大勢の通行人が「優勝したの?」と聞く。学生時代はここで抜けて、飲みに行ってしまったことを思い出した。今日は最後まで歩くぞ!2時間過ぎてようやく早稲田通りに入り、各店に「優勝おめでとう」の紙が貼られ、大きな幟を出しているところもあり、地元に来た感じがする。
馬場下から大隈講堂への道に入り、正門で終りと思いきや、都電に続く細い商店街に入っていく。通りの両側の店の二階、三階から紙ふぶきがまかれ、紺碧の空もひときわ大きく歌われ、優勝パレードを実感した。ふるまいのカルピスウォーターで乾いたのどを潤した。社会学部へ続く東門(?)から大学の構内に進む。大学を2/3ほど廻ってようやく構内に入るのだ。

      
 

5月31日 閉会式

早慶戦第二戦は優勝が決まったものの、完全優勝がかかる一戦なので、早稲田側は満杯。一方の慶応側はガックリきたのか、空席が目立つ。
ルーキー小島の先発に驚いたが、いつもの安定した投球でスタートした。早稲田は初盤先取点、中盤、後半加点するといういつものパーターンで7点とった、方や慶応は小島から2点返すのが精いっぱい、8回からは抑えのエース、わが新潟生まれ、新潟育ちのアンダースロー吉野の流れるような投球に翻弄され、最終回もヒットで出したランナーを5・4・3のダブレプレーで殺し、ゲームセット。
すべての大学から勝ち点を上げる完全優勝だった。閉会式は紺碧の空のマーチで、早稲田を先頭に各チームが入場、河原主将に天皇杯が授与された。首位打者、最高防御率とも早稲田、ベストナインに6名も入るなど、早稲田が席巻した春のりーグ戦だった。

      
 

5月30日 早稲田優勝
早慶戦が始まった。神宮は超満員。10時半に球場へ小野さんたちと行き、岳文後輩の高橋君と合流、2枚余った応援席券の買い手を探しに行ったときに、高橋君から電話。
最後の4人が内野に入れるのですぐ戻って来いと。応援部の女性の案内で入った。
翌日の応援席が伊藤忠のビル近くまで並んでやっと外野の応援席に入れたので、この日の内野に入れたのはどんな手を高橋君は使ったのか?グリークラブ、ショッカーズのイベントのあと、慶応応援団が来ての”若き血”など恒例のイベントが終わり、大竹の先発で試合は始まった。
硬軟おりまぜての大竹のピッチングが圧巻、慶応を3安打に押さえてのシャットアウト、早稲田も剛腕加藤の前にはいつもの打線も湿りがち、それでも石井の外野犠牲フライ、キャプテン河原の勝負強い二塁打などで5安打で4点と効率的な攻め方で勝った。
”優勝!!”、9回裏慶応の攻撃をゼロに押さえて。大竹の周りにナインが突撃する。
もみくちゃにされた大竹は号泣、昨秋の自分のふがいない投球で落とし、優勝を逃がしたことがとても悔しかったらしく、そのリベンジを果たした今日、悔し涙はうれし涙に変わったのだ。私が久しぶりで神宮通いを始めてから初めての優勝なので、私も嬉しい。
”早稲田の栄光”を肩組みあいながら歌い優勝を実感した。そのあと、新宿に出てビールで乾杯、二次会にも行ったのだがその後の記憶は定かでない。
 

      
 

5月26日 二週続けての八子ヶ峰

春の訪れが早かったのは高原だけでなく、山の上も同じようだ。八子ヶ峰に登ったら、日当たりのよい中腹のレンゲつつじはもう芽を通り越して赤いつぼみになっている。
あと一週間もすれば咲きそうな気配だ。いつもは6月中旬以降が見ごろになるのに、今年は早そうだ。木々の緑もいつもより早く濃くなっている。今日は先週より天気がよく、暖かく歩いている人も何人か見かけた。いつ来ても気持ちよい山だ。先週は今年初めてだったので、ゆっくり歩いたが、今日は夏のアルプス行きのトレーニングも兼ね、休まずに歩いた。一周して、車に戻ってきたが、初めて2時間を切って1時間50分で歩いた。
今まででいちばん早いタイムだ。まだ捨てたもんじゃない。

      
 

5月22日 バラを探して…
結婚記念日(5月29日)に鉢植えの小さなバラがよいと妻が言うものだから、ザ・ニュースペーパーの舞台を見るついでに多摩センターのフラワーパークに行ってみた「自分が気にいったもので安いもの」と条件がつくので、勝手に決めることはできないのだ。
春の花があふれ咲いている園内にはバラも幾種類かある。ただ売ってはいないらしく、鉢植えもない。今がいちばん春の花が咲く季節なのだろう、山型にした花壇もパンジーやすみれに覆われて美しい。後ろに回って手を広げると花柄のスカートをまとったようになる。妻にポーズをとってもらい、ハイ一枚!

      
 
5月21日 美しい春の早稲田構内

早慶戦の学生応援席のチケットを今日から生協で売り出すというので、早稲田に行った。爽やかに晴れた初夏の日の大学構内は緑濃く、大隈銅像の周りのベンチには大勢の学生がいた。私もその一角の椅子に腰かけ、しばらく学生たちを見ていた。
ちょうど午前10時頃だったので、構内にどんどん学生諸君が入ってくる。校舎へ向かう学生の姿は昔と比べるとしゃれている。バンカラの香りする学生などひとりもいない。
女子学生の姿も多い。私がいた時代は数えるほどしかいなかった。商学部などはチラホラ、田中真紀子の大声が特に目立ったものだった。そんな昔のことを思い出し、お昼前のひとときを過ごしていると、遠い日のここに通った光景がよみがってくるのだった。

      
 

5月16日 恒例花の木ツァー
毎年恒例になった花の木山菜ツァーで20名が山荘に集まった。8名はペンションに泊ってもらった。今年の山菜は季節が速く、もうタラの芽もコシアブラも大きく伸びてしまっていた。ワラビがかろうじて採りごろだった。コシアブラとこごみをスーパーで買ったほどだ。メインディッシュは鴨だったので、山菜が不作でもそれほど困らない。
日本酒を昨夜、かなり飲んでしまったらしく、足りなくなった。山菜博士の吉田さんに持って帰ってよいと言った別な日本酒を「やっぱり出して」という羽目になった。これもすぐ空っぽになり、あとはウイスキーとワインで我慢してもらった。翌朝は⒑数本の空瓶が転がっていた。

      
 

5月6日 今年も咲いた山荘の桜
去年は見た記憶がなかった山荘の桜が今年は咲いている。木が伸びたので、白いソメイヨシノの花弁が上へと広がっている。花弁はみな小さく、遠くから見ると花が咲いているように見えない。それでも咲いてくれると嬉しいし、美しい。
三本植えた桜の木だが、真ん中の一本は咲かない。前は咲いていたような気がするが、なぜだろう?咲いている二本に囲まれて、日当たりが悪くなったためかしら?来年は咲いてもらいたいものだ。鹿に食べられない貴重な花なので。

      
 

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4 月

4月28日 江戸城ウォーキング

阪急交通社がやっている江戸城めぐりツァーに参加した。東京駅から歩きはじめ、九段下に抜けるという歩きだけのツァー。なだ万弁当付きでひとり約4千円、ガイドはつくが特別な所に入るでなし、公開されているエリアを歩けだけだからかなり収益性の高いツァーだと思った。
二重橋から大手門へ、そこから旧江戸城内に入り、番所、富士見櫓などを経由して広い芝生のエリアに出る。左端の遊歩道は松の廊下の場所だという。手前の芝生は徳川幕府の執務エリア、奥の芝生は大奥だという。ここに3000人の女性がいたというが、ガイドの言うにはとても3000人は住めない広さなので、徳川時代の累計の人数だろうとのこと。さもありなん。さらに奥に天守閣跡がある。明暦の大火で焼け落ち、再建しようと前田藩に命じて瀬戸内から運んだ石で土台の石垣を組んだところで、保科正之から「待った」がかかった。戦もない世になったのに天守閣とは?それより江戸の街を復旧させることが先決だ。天守閣の金は町の復興に廻せと。保科正之の名声を高めた采配がここにある。ここから田安門のある北の丸公園に出て、弁当をもらって公園で食べて終了。武道館ではポール・マッカートニーの公演がある日で、おおぜいのファンでごった返していた。

      
 

4月26日 早稲田、立教に勝つ
六大学野球第3節は早立戦と慶明戦、いずれも三戦までもつれた。早立2戦は早稲田がリードしていたのに最終回に追いつかれて引き分け、今日の3戦になった。昨日とはうって変わって、連続ホームランが出たりして、9−0で早稲田の圧勝、投手も竹内、小島の完璧リレーだった。この調子でいくと春の優勝も夢ではない。
慶応が明治に勝ったので勝ち点2は法政と早稲田だけ、再来週の早法戦が大きな山場である。来週の明法戦で法政が負けると、ぐっと早稲田が有利になるような気がする。久々の優勝に期待したい。

      
 
4月24日 鹿との戦い

春になり山荘の庭にも花が芽生え始めた。スイセンの芽が出て、水芭蕉は白い花を開いている。
4つの木鉢に春スキーの帰りに買ったルピナスと芝桜を植え込んだ。一週間経って来てみると、すべてきれいになくなっている。ルピナスはこれまで食べられたことがなかったので安心していたのに・・・。
そこでローズマリーを植えた。鹿が食べない保証付きの花なのだ。匂いがきつ過ぎるのか。
そしてまた一週間後に来てみたら、左端の鉢はきれいに無くなっていた。二つめの鉢は一本抜いたところで止めている。三つ目と四つ目の鉢の花は健在だった。ひとつ食べて、二つ目に来て、まずかったのか、おなかが痛くなったのか、途中でやめたものとみられる。
再びローズマリーを補充して、それにラベンダーを追加した。ラベンダーも食べないということなので。
どうだろうか?

      
                (写真左・ルピナス、右・マリーゴールド)
 

4月16日 高遠は満開

妻はまだ高遠の桜の満開を見たことがないというので、南木曽、寝覚ノ床を廻って伊那から高遠に出て、城址公園に行ってみた。
まだつぼみの時か、散ってしまった時にしか行ってないそうだ。平日なので、入り口前の駐車場に入れた。少し花びらが散りはじめてはいるが、満開に変わりはない。
ゆっくりと歩き、濠の池にも下りて水に浮かぶ花びらを愛で、ベンチに座って夕暮れの満開の花を楽しんで山荘に帰ってきた。

      
 

4月16日 寝覚ノ床

浦島太郎が竜宮城から帰ってきて、玉手箱を開けた所がここ寝覚ノ床だ。
木曽川の濁流が大きな岩々を通り抜ける場所、岩と流れと対岸の緑の木々が絵になる光景を作っている。浦島堂という祠が岩の上にある。中には浦島大明神の神棚が祀られていた。
どういうわけか外人客が多い。彼らに竜宮城の話はわかるのだろうか?
妻が岩を渡るのに苦労していると手を差し伸べて助けてくれたり、二人の写真を撮ってくれたり親切だ。
「あなたは何にもしてくれない」と非難される。帰りの岩歩きでは手を貸してあげたというのに・・・。
手遅れか。

      
 

4月16日 南木曽のミツバツツジ

先月、福沢桃介記念館へ行ったときに、受付のおばちゃんに「ミツバツツジの頃にまたいらっしゃい。とってもきれいなんだから」と言われて、今日、来てみた。
満開と思われる日なのだが、もう散って茶色になっている木もあるのに、まだつぼみばかりという木もあり、桜のように一斉に咲くというものではないようだ。相対的には満開なのだろう。
濃いピンク色の小さな花が丘一面を覆い、きれいである。ナギソミツバツツジという種類もあるとかで、町はこの丘にたくさんのツツジを植え、公園にしている。
ピンクの丘を前に、アイスクリームを妻とふたりで食べて帰路についた。

      
 

4月11日 春スキーとラドラー

恒例の極楽スキー、春の部。シーズン〆のスキーである。とてもよく晴れた日で、快適ではあるが、気温も高くなって、雪の状態はよくない。前傾するとググッとブレーキがかかる。そこで前を上げるように後傾で滑るとよい。しかしこれは転びやすくなり、二回も大転倒して、肩をしこたま打って、なかなかその痛みがとれない(4月末になってもまだ痛い)。それでもこの季節に滑れることは楽しい。
ヨーロッパスキーでおなじみのラドラーというビールがサントリーから売り出されたので買ってきた。
ビールをレモネードで割ったドイツのビールである。汗かいたあとに飲むとさわやかなのだ。アルプスのスキーでは定番の味だ。滑り終わってまだ汗ばんでいるときに飲むのが最高なのだが、今回は宿の冷蔵庫に入れてあるので、帰ってきて風呂上りに飲んだ。これもまたさわやかだ。

      
 

4月5日 雨の花見

中々連の花見の日であるが、朝から雨模様になってしまった。朝のうちは上がっていたので、井の頭公園にやってきた。大川さんが場所取りをしてくれていた。桜は落花盛んの状況だが、まだ十分残っている。晴れたらきれいなのに残念だ。
それでも昼過ぎになると、結構集まってきて、20名近くになった。みんなこんな雨の中をよく来たものだ。傘を差しながらお酒を飲み、つまみを食べる。傘のまま踊り始めた。鉦と笛のメロディが流れ始めると近くの花見客も入ってきて、雨中の傘さし阿波踊りも結構盛り上がった。
踊り終わったあとは、予約しておいた吉祥寺駅のビヤホールへ移動して、ようやく傘なしの宴会となった。(終わった頃は雨が上がっていた。それで傘を忘れてしまい、翌日取りに行く羽目になったが…)

      
 

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3 月

月31日 桜の穴場

3月も終わりのこの日、日野周辺の桜も咲いたようだ。妻と散歩がてら桜見物に出かけた。多摩川に架かる日野橋から百草方面への多摩川に沿って、日野市のごみ処理場や日野高校がある。その土手下の通りに桜並木が1キロ近く続いている。満開の今日は、すこぶる美しい。そこそこの人が見物に来てはいるが、名所と言われる桜ほどの人出はない。市の広報にも紹介されていない穴場である。
日野高校の横を通ったら、道路でランニングしていた野球部の生徒が「コンニチワ、コンニチワ」と丁寧に挨拶してくれる。気持ちのよい生徒たちだ。「甲子園目指してがんばれ!」と声援を送る。もうひと息で行けるかもしれないレベルに達した高校なので、その日が待ち遠しい。

      
 

月28日 春の息吹
さしものこの冬の豪雪も終った。屋根まで届いていた雪もだいぶ消えたが、給湯器の水抜き栓にはまだかがんで腕を下に入れないと届かない。目の高さで届いていたのに…。庭の雪も融け始め、土が出た所には水仙の花の芽が出てきた。春は近いが、軒下の雪が無くなるのはゴールデンウイークの頃ではないだろうか?雪が少なくなっていくのは寂しい気もするが、ストーブのいらない春がやってくるのはうれしいものだ。

      
 

3月27日 満蒙開拓記念館

南信州の阿智村には満蒙開拓記念館がある。満州開拓の移民の歴史だ。長野県はもっとも多くの移民を送り出した県であり、その悲劇の歴史を記憶に留めるという意味では適切な場所なのだろう。村民の多くを送り出し、戦後ほとんどが帰って来なかった村の村長は責任をとって自殺したという歴史もある県なのだ。父の兄もそのひとりだった。満州で徴兵され、ソ連の収容所送りのトラックの上で死んだという。私と同い年だったいとこも引き揚げの途中死んだ。お母さんひとりが帰郷したときは丸坊主姿だったという。男に変装して難を逃れながら帰ってきたのだ。そんな悲劇の歴史を詰め込んだ記念館は涙なしでは見れなかった。医者をやっていた祖父は長男を殺したソ連憎しで凝り固まっていて、一時はソ連寄りだと朝日新聞の購読をやめたほどだった。満州の歴史は日本の侵略の証しでもあるが、それに国策として駆り出された農村の若者の悪夢の歴史でもあるのだ。

      
 

 

3月26日 福沢桃介記念館

南木曽に読書発電所というのがある。「よみかき」と呼ぶ。その発電所をはじめとして、木曽川にいくつもの発電所を作って財をなしたのが福沢諭吉の娘婿の福沢桃介である。埼玉の貧しい農家から慶應義塾に入り、その才能を見込まれ、諭吉の娘婿となり欧米に学んで、電力事業に乗り出したという人物だ。ここで発電した電力は関西電力に送られている。長野県は中部電力だが、発電所工事の資本は関電の前身の大同電力が出したことによる。この地に桃介は別荘を建て、ここに学生時代からの馴染みだった川上貞奴と住みながら工事の進捗を管理したという。その家が今は記念館となっている。近くには桃介橋という日本初の石造りの吊り橋がある。これは工事資材を運ぶために木曽川に架けられた橋である。諭吉と桃介の妻は桃介の女癖を快しとせず、東京では貞奴を家には決して呼ばなかったという。”三田の色魔・KEIO”と早慶戦では揶揄されるが、その伝統はここに所以しているのかもしれない。

      
 

月25日 新滝、清滝

スキーの帰りに御嶽神社の清めの滝でもある新滝と清滝に行った。新滝は清滝より上部にあり、水量も多い。雪の残る山道を鎖に掴まりながら滑らぬよう慎重に登っていくと、小屋が見えてくる。滝修行をするときの着替え小屋だ。男女別にある。氷柱が並んでいるこの時期にはさすがに誰もいない。清滝は水量ほどよく、滝の裏側にも入れて、滝修行にはちょうどよいのではないかと思われる。滝浴びの注意として、”首を傾げて首筋に水を浴びないこと”とある。むち打ちになってしまうと書いてある。温泉の打たせ湯で、よく私は首筋に落下する湯を浴びているのだが、これもよくないのだろうか?とても気持ちいいのだが・・・

              
 

月25日 おんたけ2240
去年の秋、噴火して多数の死者を出した御嶽山。その麓の王滝村はもともと夕張に次ぐ財政破綻の村だった。生活の柱になっていた御嶽登山や冬のスキーがすべてストップしてしまい、生きる術を奪われてしまった。そんな苦境の村の一助になればと思い、規制範囲の縮小で、先月末にやっとオープンしたおんたけ2240スキー場にやってきた。
あしなが育英会の女子高校生のポスターがあると思ったら「うれしくて涙がでそう。2015シーズンオープン」とあるではないか。みんな待っていたのだ。初めて来たスキー場だが、いまだ活発な噴煙を上げている御嶽山を見上げながらのゲレンデだ。
標高2240mがこのスキー場の上部、ここから滑るとほどよい傾斜のスロープが結構長く続き、この日は晴天、気温も低く、雪質も良く、とても快適に滑れる。正面には木曽駒ヶ岳から始まる中央アルプスの峰々、景色もすばらしい。
パノラマコースの回遊コースに入ったら、田ノ原の大きな建物と広い駐車場があった。ここからは間近に御嶽が、登山道となる尾根も見える。しかしその前には赤い規制線の網。登りたくても行けないのだ。そんな制約の多いエリアだが、スキー客も平日なのに結構多く、昨年同期とほぼ同じ入れ込みだというから、ひと安心だ。
泊った滝旅館は島崎藤村も滞在したことのある御嶽神社宮司の経営する老舗、他に泊り客はなかったが、噴火の時は、マスコミ各社の宿舎としてにぎわったという。登山客も泊っていたというが、幸い客には被害がなかったそうだが、みんな灰をかぶって帰ってきたそうだ。

           
 

3月24日 贄川のレターポスト

中山道贄川宿は塩尻から京へ向かう中山道・木曽路入り口の宿場である。ここには関所があった。今は復元された建物が残っている。ここ贄川の名物はレターポストだ。郵便局の前にある。戦後まもなく作られた試作品の赤いポストで、投函口の下にLETTERと文字がある。ふつうの赤いポストは「郵便」と印字されている。
実はこの占領下の時代を偲ばせるポストは日本に三個しが現存していない。九州と千葉とここ贄川なのだ。ゆうパックが入れにくいので、四角いポストに置き換えられているが、ここのポストは歴史的価値があるので、このまま使い続けられることだろう。

           
 

 

3月20−21日 稲門スキー志賀高原

日野稲門会スキー第二弾は志賀高原。奥志賀のブルーエに集まったのは高橋夫妻、その友人の谷さん、板東さん、そして永山さんと私の6名。谷さん以外は八方の時と同じ。谷さんは早稲田理工卒で高橋さんとデザイン研究会の仲間だという。今回も私がいちばんの若輩だ。20日の午後、奥志賀ゴンドラを滑り、焼額から一瀬Bコースまで行って奥志賀に戻ってきた。まずまずのコンディション。翌21日は快晴の朝となり、横手山へ遠征することにした。寺小屋から東館、ぶな平まで順調だったが、東館の迂回コースを通った高橋夫妻とぶな平で待ち合せをしたが、なかなか来ない。道を間違えたとかでやっと落ち合ったときは、蓮池から熊の湯へのシャトルバスの時間ギリギリとなった。急いでジャイアンツへ下り、リフトで上がって、蓮池興銀前(今は池の平というが)のバス停へ急いだ。何とか間に合い、熊の湯下車、第3クワッドリフトで上がって横手中間リフトに出た。最後の二本のリフトを乗り継いで山頂のボルシチ食堂へちょうどお昼に到着。
全員ボルシチを食べて、午後2時過ぎの横手リフトから出るバスに乗るべく下った。帰りのバスには十分な余裕で乗れた。疲れたという高橋夫人にはバスで奥志賀直行で帰ってもらい、他5名は池の平で下車して滑っていくことにした。
ジャイアンツで私は大転倒したが、何とか起き上がり、西舘から高天原に出て、一瀬、ダイヤモンドを抜け、焼額に帰ってきて、第2ゴンドラでトイレ休憩をした。みんなここまで横手から休んでおらず、午前中もお茶タイムなしで横手まで行ったものだから、「こんな休みなしのスキーはきつすぎる、年寄りには酷だ」とクレームしきり。極楽では普通なのにね。それでも全員無事、奥志賀に帰着。
夜はリンゴで育てた信州牛のしゃぶしゃぶで宴会となり、昼の疲れも吹っ飛んで盛り上がった。最後は都の西北で〆て、この冬はじめての日野稲門会スキーは成功裡に幕を閉じた。来年が楽しみである。

      
 

3月10−13日 ソウルへの旅

上の娘・穂梓がソウルに韓国語留学に5月まで行っているので、その陣中見舞いを兼ねて、3泊4日で行ってきた。羽田から2時間半のフライトだから、沖縄に行くようなものだ。時差もなく、生活習慣も似たような国だから、外国という気がしないが、言葉はさっぱりわからない。
HP時代、2回行ったが、1回は日帰りというビジネストリップだった。見たい所も特にないが、休戦状態の板門店は唯一行きたい場所なので、今回は板門店ツァーを予約しておいた。
 

3月10−13日 板門店

ソウルから1時間半も車で走ると北朝鮮との境(国境とは言わない)・休戦ゾーンに入る。休戦ラインを挟んで南北2キロの幅が休戦ゾーンなのだ。
ここにある韓国の村は税金なしだという。北朝鮮側にある村は人の住んでないハリボテ村なのだとか。国旗掲揚塔だけが異様に高く、ヘンポンと北朝鮮国旗が翻っている。
板門店の会議室はプレハブの粗末な建物だが、中央にあるテーブルの真ん中に設置されているマイク線が境界線だという。窓の外をみるとコンクリート板を挟んで南側は舗装され、北側は砂地だ。南側には韓国軍の兵士が立ち並んでいる。
北側は少なく、正面にある北側の板門閣の建物前の兵士もひとりだけだ。指さしをしたりすると発砲される危険性があるのでしないようにと言われ緊張する。
板門店に着いたとき署名させられた書面には「ここでの事故はすべて自己責任」と書いてあった。韓国側の兵士はみんな若く、背が高く、英語の話せるエリート兵士だという。家柄のよい若者を選りすぐって配置するのだそうだ。帰りに寄った、北朝鮮が堀った地下トンネルは興味深かった。地下700mの所をソウルに向かって掘り進んであった。
完成するとソウル市街近くまでに達するはずだったという。このトンネルを北の兵士が通って、攻撃するはずだったのだ。こんなトンネルが4ヶ所で発見されている。まだあるかもしれないが、北側は炭鉱を掘っていたとシラを切っているのだという。今でも日本の隣国は臨戦態勢にある現実をここで知った。

      
 

3月8日 原発反対デモ

去年の冬、オーストリアのスキー場でドイツ人の弁護士と約束した「原発反対のデモに参加する」機会がやってきた。花の木のグループで国会請願デモに参加した。
会場の日比谷野外音楽堂はいろいろな幟がたなびきにぎやかだ。その中に「早大生の会」という幟があった。全共闘の時代にはどの大学もデモ、デモ、デモで盛んだったのが、今はさっぱりだ。”在野、反骨”の早稲田は昔はこういう催しには多くの学生が出たものだが、今日はこじんまりしている。それでもやるだけ立派だ。他に大学生は津田塾大学生のグループがあるくらいだ。デモ行進で国会目指した。「原発反対!さっさとやめろ!」に続いて「アベシンゾウもさっさとやめろ!」とコールするのが気にいった。

      
 

3月6 新宿駅の小さな店ベルク

新宿東口を出て地下鉄に続く通路の左横にベルクという店がある。何かあるなと思っていたが、ベルクというのは本ではじめて知った。喫茶兼ビヤホール兼軽食という立ち席主体の小さな店だ。ここのコーヒーも生ビールもハム、パンも本物というので、客は多い。もう開店してから50年近く経っているがオーナーのJRからは立ち退きめいた嫌がらせもあるのだそうだ。それに敢然として、オーナーは立ち向かい店を守っている。そしてお客もサポートしている。いつまでもこんな雰囲気の店は続けてほしいものだ。ビールもハムもおいしかった。

      
 

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2 月

月23日 屋根まで届いた雪

スキーの帰りに山荘に寄った。この前に来た時、屋根に残っていた雪がかなり落ちていた。そしてその落雪がほとんど屋根の高さまでに達しているのだ。
その雪が壁に取り付けられた給湯器までに達している。このままにすると、給湯器が壊れてしまう。水入れや水抜き作業もままならない。浴室の窓から見てもうず高く雪の山だ。まだ屋根には落ち切れていない雪が残っていて、これ以上落ちると、さらに状況は悪くなる。今日は雪かき作業をしなければならない。

          
 

月22日 田淵行男記念館

豊科に田淵行男記念館があることは知っていたが、これまで行く機会がなかった。
白馬のスキーの帰りに寄ってみた。こじんまりした山荘風の建物が好ましい。高山蝶の写真や繊細画の展示は彼の本骨頂だが、それと同じタイミングで撮影された常念や鹿島槍の白黒写真もとてもよかった。戦後間もないころの静かな北アルプスの情景が一枚、一枚の写真に写っている。
彼は東京師範から先生になりいくつかの学校を転々として、その間に高山蝶や山の研究をきわめていった。その原点が両親が亡くなって、1年間だけ親類に預けられた台北の中学時代だったというから恐れ入る。道を究める人は幼い頃に芽を出しているのだ。

      
 

2月21日 日野稲門会のスキー

地元の日野市の稲門会がスキー同好会を作った。私も幹事の一員としてこの活動に加わっている。その初回のスキーが白馬で行われた。参加者7名、先輩の永山さんの会社の保養所が白馬にあるので、まずはここを使わせてもらうことにした。和田野の東急ホテルの近くにある太平洋セメントの保養所である。立派な建物だ。本来は2階が玄関なのだが、大雪でその階段が埋もれていて、1階の乾燥室から出入りする。
20日の昼集合ということで、娘の景を日野駅に送ったその車で白馬に向かった。10時半過ぎには着いてしまった。待つことしばし、全員がそろい咲花ゲレンデのゲレ食のそばで昼食、ここのそばがおいしかった。やはり蕎麦はつゆが決めてだと思う。
八方尾根には何回か来ているが、咲花からスタートするのは初めてだ。黒菱へ続く尾根へのリフトで上がったが、ガスって見通し利かず、早々に下におりた。
下りるに従い、ガスは晴れてきて、咲花の隣の国際から兎平にリフトを乗り継いで上がったときには見通しがはっきり利くようになった。兎平からパノラマコースの広大な斜面を快適に滑って、この日の締めとした。兎平や黒菱あたりまで上がると、木々がない白一色の斜面となり、フランスのヴァルディゼールを思い出した。

      
 

翌日は快晴、この冬いちばんの天候となり、ウキウキした気分でリフトを乗り継いで八方池山荘まで上がった。尾根に出ると白馬三山がくっきりと青空の中に並び、絶好の写真となった。
黒菱へのスロープは結構、コブコブがあり、苦労しながら滑りおりた。
カフェテリアは天気の良さに繰り出したスキーヤーであふれかえり、バラバラにやっと席を確保したほど。ビール二杯にスパゲッティで腹ごしらえをして、兎平へ下りたあと、黒菱に戻り、スカイラインコースを下り、昨日同様、国際から兎平へ上がって、パノラマコースを快適に滑った。私は咲花で生ビール400円の看板を見て、早々にスキーを切り上げた。
宿への帰り道で黒い財布が落ちているのを発見、開けてみるとオーストリア50ドル札がぎっしり詰まっていて、ドライバーライセンスなどもあるので、持ち主ははっきりしている。リフト券売り場へ戻り、届けてきた。宿で稲門会メンバーでの夕飯前のひと飲みのとき、この話で盛り上がった。たぶんオーストラリアの金持の物で、「日本人はまじめだ。戻ってくるとは奇跡だ」という話になり、後日、小田さんはオーストラリアに招待される等々、拾い物の話だけで30分は大盛り上がりになった。それにしてもこれまで知らない人ばかりだったのに、スキーと早稲田の共通項でここまで和気あいあいになれるのは幸せなことだ。
 

月16日 新しい煙突

1月に雪の重みで倒れた煙突を取り換えて、新しいものが雪をかいた屋根に備え付けられた。試運転のため帰京を一日延ばした。
こんどの煙突はストーブの口径にもピッタリできちんとはまっている。前の煙突は乗っかっていただけなので、時間が経つにつれて外れて行った。薪を燃してほどなくすると、煙突は熱くなり、その放射熱で上部から温まってきた。前は断熱性が高い煙突だったのか、触っても熱くなく、上が温まるには時間がかかった。こんどは部屋全体の温まり方が速いような気がする。これで和室での寝泊りもする必要がなくなり、本来のベッドで久しぶりにゆっくり寝た。

      
 

2月14日 北八ツのスノーシュー

昨日来ることになった岳文15期の大曾根さんも入れて、6名でピラタスロープウェイで坪庭に上がり、麦草峠へスノーシューで向った。昨夜までは、雨池経由で麦草峠へ出て、縞枯れ山・茶臼山を廻ろうなどと威勢がよかったが、朝起きたら、もう8時で二日酔いも加わって、あえなく回遊コースはあきらめて、麦草直行とあいなった。
ロープウェイを下りたら、歩く人の方がスキーヤーより多いくらいだ。それでも五辻への道に入ると、ほとんど歩いておらず、大半は縞枯山荘方面へ行った模様だ。歩き始めは指先が凍えるくらいに寒かったが、陽射しも時折出て、次第に体は温まってきた。
見晴らし台に出ると、北岳から甲斐駒、仙丈ケ岳への山々と原村から富士見への高原が一望でき、冬の景色に歓声が上がる。雪が多く、倒木も多々あり、道はそれを避けて通るので一直線には行かない。五辻の東屋には雪がうず高く積もっていた。オトギリ平は雪原にクリスマスツリーのような木々が立ち並び、美しい。2時間半くらい歩いて麦草ヒュッテに着いた。
薪ストーブを囲んで、作ってきたサンドイッチと小屋に頼んだココアで昼食。おなかが空いていたのでおいしい。帰りはしばらくメルヘン街道を下ってから出逢いの辻への道に入って、元来た道に合流して、坪庭に戻ってきた。天気もまずまずの晴れ模様で、ことのほかの大雪で樹氷状態になった木々と雪の美しさがスノーハイキングの楽しさを増してくれた。北八ツはスノーシューのベストエリアである。

      
 

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1 月

1月31日 極楽・志賀高原スキー

28日に森さんと二人で奥志賀入り、その夜は三輪さん一家とブルーエで夕食を摂り、翌日は絶好のコンディションの中をサンバレーまでスキー遠征した。
ガラガラのゲレンデを滑り終えてサンバレーのグリーンに入ったら客は誰もおらず、昼過ぎなのに「今日初めての客です」と言われた。2時近くまでいたがそれまでも次の客は来なかったので、我々は”今日初めてで最後の客”だったかもしれない。
前半の志賀高原ベストコンディションと打って変わって、みんなが来た31日は八甲田山彷徨のような状況となった。先発した若手精鋭軍とグリーンで落ち合う約束をして、われらスーパーシニア&予備軍は後を追った。途中から猛吹雪に変わり、幾多の困難をモノともせず、目的のサンバレーのレストラン・グリーンに到達、そのとき味方の援軍がいないことを発見、「天はわれらを見捨てたり!」と慨嘆、悲憤に暮れた。
しかし温かい肉うどんで落ち着き、温泉に浴した者は、恨みを洗い落として、奥志賀へバスで帰還した。その後は、菅野氏、平出氏の還暦祝いと楽しき歌声で、昼の苦労を偲び、良き仲間との出会いに感謝して、笑顔でこの冬の奥志賀極楽を終わった。

          
 

1月28日 大草原の小さな家キルト展

東京ドームでキルト展がやっていると妻が言う。今回のテーマは”大草原の小さな家”だそうな。「行こう」と出かけてみた。
思った以上の人出である。人だかりがしているので覗いてみると三浦百恵さんの作品が展示されていた。山口百恵である。紹介のポートレートもあったが、面影を残しているものの歳相応の顔になっていた。それでも天地真理と比べると雲泥の差だ。
作品は色使いが薄く、地味だ。大草原の家のテーマにふさわしく、丸太小屋やその室内が作られていて、そこに幾種類ものキルトが展示されていた。キルトそのものより、テレビドラマの「大草原の小さな家」が放映されているのに見入ってしまった。
私は疲れたので内野席で妻の見終わりを待つことにして、サイダーを飲みながらうたた寝をした。昨夏の”大草原…ドライブ”を懐かしく思い出したキルト展だった。

      
 

1月25日 中々連の新年会

阿波踊りの中々連、恒例の新年会、今回は高円寺の控室になっているギャラリー久で行うことにした。アテにした所がふさがっていたこともあるが、結果的にはここで良かった。料理は踊り本番同様のケータリングだが、和食中心のメニューにしたら、これがなかなかよく、好評だった。参加者も予想より多く25名にもなった。新年を祝い、今年の夏も元気に踊ろうと誓い合い、初踊りでパーティを締めた。

      
 

1月19日 鹿の被害

鹿が急増し、庭の花はほとんど食い尽くされるので、春から秋にかけての庭は殺風景になってしまった。
冬は雪が積もり、鹿も食べ物に困るらしく、立木の樹皮をむしりとって食料にしているらしい。しかしどんな木の皮でも良い訳ではないらしく、食べられる木は限られている。隣の家との境界に生えている雑木の皮がきれいにはがされていた。近くの大きいきの樹皮もはがされ始めている。こうなると、木は枯れてしまう。以前、クリスマスツリーにしていた樅ノ木もやられてしまった。同時期に植えた桜の木の皮は食べない。もっと食糧難になると食べ始めるのだろうか?この冬は雪が早く多いので、これから春になるまで、丸裸になる木はもっと増えることだろう。

      
 

1月18日 野沢のスキー

野沢でスキーをやるのは15年ぶりくらいだろうか?川島さんたち家族連れでさかやに泊ってやって以来のような気がする。初めて野沢にきたのは1970年頃、スキーブームで日陰ゲレンデから上ノ平まで上がるのに4時間かかった。ゴンドラもなく一人掛けのリフトの時代だった。そのとき滑った牛首コースは急で狭かった思い出がある。今回滑ったスカイラインコースは長く広い尾根が下まで続いていて晴れた日の滑走は爽快だ。この尾根が牛首と思っていたが、違うようだ。地図を見ると、スカイラインとシュナイダーの間に牛首と表示のコースがあった。牛首も広くなったなあと思って滑っていたが、本来の牛首は相変わらず狭いそうだ。

      
 

1月17日 還暦祝い

スキー仲間の菅野秀雄さんが60歳・還暦を迎え、野沢に集まったメンバーでお祝いをした。宿に頼んでおいたケーキで祝った。宿の住吉屋は野沢温泉きっての老舗で、銘宿として名高い。建物は古いが、居心地のよい配慮が随所にある。食べ物も、昔ながらの雪国の食事で素朴だがしゃれている。イモナマスは私の田舎でも冬、よく食べたものだ。住吉屋で出されて、数十年前の我が家の食卓を思い出したほどだ。
野沢温泉は昔、スキーブームの頃、旅館や民宿のサービスの悪さで評判を落とし、スキーブームが去って閑古鳥が鳴いた。私も1970年ごろ泊った民宿は8畳に10人詰め込まれ、布団がなくなった押入れに寝たことがあった。ボルは、サービスは悪いはで客足が落ちたとき、村の危機がやってきて初めて気がついた。客を呼び戻そうと住吉屋を筆頭に、全村あげて「おもてなし」改革に取り組み、現在につながった。
今ではどの宿に泊まっても、居心地のよい雰囲気がある。どん底に落ちて気がついた賜物である。

      
 

月15日 道祖神祭り

野沢温泉の道祖神祭りは有名だ。どんど焼きともいう。雪国ではポピュラーな催しで、私の田舎の新潟朝日村では”塞ノ神”と言った。各家から藁束や雑木を集めて、雪の原に積み上げて火をつけて燃やし、残り火で餅を焼いたり、酒を温めて無事息災を祈るものだ。野沢の祭はもっと大がかりで、丸太で櫓を組み、城塞にしてその上に若い年男が群がり、丸太周りを墨で顔を真っ黒にした若者が守り、藁束に火をつけた攻撃側の若者が櫓に火を放とうとするのと一戦を交えるのだ。ひととおりセメギあいが続いたところで、長老が出てきて手打ちをして、丸太櫓に火が放たれ、夜空高く火が燃え上がるという壮大な火祭りだ。観衆の6割は外人客だという。これを目当てに来るスキー客も多い。夜の10時ごろ、ようやく丸太の城が焼け落ちて祭りは終わった。

      
 

1月14日 初めての歌舞伎座

日本人として歌舞伎は一度は見ておかないといけないと思いつつ、これまでその機会はなかった。また興味もなかった。だんだん歳をとり、先が見えてきた今、新装なった歌舞伎座も見たいしと思い、妻と一緒に歌舞伎見物に出掛けた。妻も初めてだという。エルビス・プレスリー一筋の彼女にも歌舞伎は縁遠かった。東銀座の歌舞伎座前は人でごった返し、記念写真を撮るのにもひと苦労。劇場内は華やか、女性は着物姿が多い。座席も広め、隣の枡席にはテーブルがあり、幕間には豪華な幕の内弁当を広げている人がほとんどだ。まさにディナーショーである。われわれは歌舞伎見物のしきたりを知らないので、幕の内弁当も予約せず、カツサンドなどを食べてしまった。芝居は番町皿屋敷がトップで、これは岡本綺堂作なので、芝居のセリフでわかりやすかった。そのあとの板東玉三郎の女暫や猿之助や勘九郎出演の安達ケ原の鬼女物語・黒塚となると、セリフが歌舞伎調となりわかりにくい。有料のイヤホンガイドという意味がここで初めてわかった。芝居日本語を口語日本語に訳してくれる仕組みがあったのだ。緞帳も永谷園やら清水建設やら4種類もあり、それが交互に入れ替わる。提灯が劇場内を取り囲みとても華やかな雰囲気である。芝居の合間の「○○屋!!」という掛け声も飛び交い、他の芝居小屋とは違う歌舞伎座独特の雰囲気は、やはり日本文化と思った。

      
 

1月14日 初めての明治神宮

歌舞伎座へ行く前に、これもまた人生初めての明治神宮へお参りに行った。初詣では東京一の有名神社なのに行ったことがない。テレビで明治神宮造成の歴史を見たら、明治天皇没後、全国から多くの木の寄進を集め、神宮の森をこしらえたという。そしてその森は最小限の手入れしかしないので、ほとんどが原始の状態だという。そんな予備学習をして行ったので、ことさら面白かった。神社そのものより、参道の周りに広がる森が印象的だ。100年弱でこんなにも大きな森ができるなんて。神宮の周りには高速道路があり、車の騒音が近くに行くと聞こえるが、内宮は静寂だ。東京のど真ん中にこんな自然あふれる場所があるのはとても貴重だ。全国の酒蔵から寄進された酒の菰樽がずらりと並んでいるが、ふるさと村上の大洋盛を発見! 何かとても嬉しかった。

      
 

1月10日 景ちゃんの招待

末娘の景が、妻と私の誕生祝に立川の和食の店に招待してくれるという。妻はこの1月2日、私は12月23日なので近い。散財させるのは悪いと思いつつ、喜んで招待に応じた。京料理の店で個室、上品な感じの料理が一皿ずつ出てくる。どれもおいしい。隣の部屋からは先の箱根駅伝の話が漏れ聞こえてくる。青山学院出の人の集まりかしら?ほどよく酔い、気持ちよく店を後にした。景ちゃん、ありがとう。

      
 

1月9日 煙突トラブル

正月、山荘を使っていた人が帰り、掃除と水抜きに5日ばかり滞在した。雪が多い正月で、屋根からの雪が落ち、外の水道管も曲がって埋もれている始末。滞在中は晴れの日が続き、薪ストーブ上の屋根の雪が、焚いていたので温まったせいもあり、どどっと落ちた。そのとき、煙突に何らかの力が加わったのであろうか、落ちる方向とは反対側に傾いてしまった。このまま傾きが強くなると、屋根との間に隙間が開き、そこから雨水が漏ってくる。山小舎ができて、初めての冬にもそんなことがあり、バケツを室内の煙突管にぶら下げてしのいだものだった。また同じことが起きると困るので、建築屋に頼んだら、屋根から雪がすべて落ちないと危険で上がれないという。「オイオイ、それでは困るではないか。半分、屋根の雪は落ちているのだから、命綱をつければ大丈夫」とクレームをつけ、ようやく行ってくれることになった。(その後、どうなったことか?先日寄ったときはまだ水漏れはなかった)

      
 

月4日 日野七福神

箱根駅伝も終ったし、妻が散歩したいと言うので、それでは日野七福神でも廻ってみるかと歩き出した。市民プール近くの延命寺は壽老尊、まずここに行った。意外と人出が多い。御朱印帳を持ってスタンプラリーをしている人もいる。浅川の土手に出て、陽光の中を南平方面に歩く。途中、中大の体育会寮の前を通った。ひっそりしている。箱根駅伝は苦杯をなめシード権も落とした。寮の壁の垂れ幕ポールに「箱根駅伝優勝!」の垂れ幕が翻るのはいつのことか、名門・中央大学の復活を望む。豊田方面へ緩やかに坂を上がっていくと、善生寺に出る。ここは大黒天だ。お土産屋もあり、ここで甘酒を買った。穂梓ちゃんの友人の伊藤あゆみちゃんもお参りに来ていた。来週、韓国から一時帰国するよと伝えたら知っていた。連絡を取り合っているらしい。浅川からの崖上の道を歩いて散歩は終わった。

      
               (写真左:延命寺、 右:善生寺)
 

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