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蓼科日記

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蓼科・東急リゾートタウン
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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。
毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2017年>


 
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 <2004年> (2004年分は、こちらからリンクします。)

 <2005年> (2005年分は、こちらからリンクします。)

 <2006年> (2006年分は、こちらからリンクします。)

 2007年> (2007年分は、こちらからリンクします。)

 <2008年> (2008年分は、こちらからリンクします。)

 <2009年> (2009年分は、こちらからリンクします。)

 <2010年> (2010年分は、こちらからリンクします。)

 <2011年> (2011年分は、こちらからリンクします。)

 <2012年> (2012年分は、こちらからリンクします。)

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 <2014年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

 <2015年> (2015年分は、こちらからリンクします。

 <2016年> (2016年分は、こちらからリンクします。
 

2017年

10月

10月30日 秋色濃く、晩秋へ

昨日は台風22号の影響か、一日中雨だった。夜になると激しくなり、風も出てきて先日、ベランダに上げた薪も雨に濡れる始末。色づいた木々の葉もこの台風で散り、庭は枯葉と木々の枯れ枝でいっぱいだ。
カラマツの黄葉もさらに進み、晩秋に近づいたことを知る。買い物に出かけた道の向こうの八ヶ岳に冠雪を見た。冬の訪れでもある。秋色濃く、晩秋から初冬へ慌ただしく、季節は移り行く。

      
      写真左・ 夕日射し込む林         写真右・山荘の上のカラマツも黄色に
 

10月21日 薪作りに強力助っ人来荘

冬ストーブ用の薪材を買った。水楢や樫の木など、これまでのカラマツより火持ちの良い広葉樹材を12本ほどだ。重くてひとりでは動かせない。そこで足柄山に住む今村さんに来ていただいた。家の暖房は薪のみという筋金入りの薪割り名人である。奥様の夏子さんともども朝早く見えた。いつもは泊りがけだが、今回は老犬を知り合いに預けてきたとかで日帰りだ。
到着早々、チェーンソーで切ってもらう。私も3本ほど切っていたのだが、電動とガソリンでは力が違う。
電動では固くて太い丸太はなかなか切れないが、ガソリンは力強くあっと言う間に切れ、そのスピードが違う。2時間もしないうちに12本は薪材に変わった。私は途中から薪を並べるベランダ下の整理に変わった。昨年の長雨で積んでいた薪にカビが生え、次第に広がり、下部の薪から上へそのカビが移りつつあった。
先日キノコ狩りに来た愛媛の池内さんによるとキノコではナミダタケと言い、放っておくと家の基礎材についたらエライことになるという。なので、カビが生えてしまった薪は正常なものと分け、地面に砂利をまき、さらに炭をまいた上に材木を敷いて、その上にこれから割る薪を並べることにした。下にある薪はすべて上のベランダに移し、そこでカビ材と正常材に分けた。カビの生えた薪は箱に入れ、これから燃やしていこう。
私が妻とベランダ下の薪置き場を整理している間に、今村さんは薪材を作り終え、節のあるものはまさかりで割れにくいだろうからと、チェーンソーで割れ目をいれてマサカリで割ってくれた。感謝感激である。

      
      写真左・ 裁断直後の薪材            写真右・ベランダに移動した薪
 

10月18日 娘の親友が母校で講義

長女穂梓の日本女子大付属高校時代の同級生・土屋とも子さんが、母校の日本女子大の先生になり、社会人講座で講義をするとのことで本女へ妻と一緒に聞きに行った。専攻はアメリカ史らしく、演題も「カリフォルニアを知る」だ。私にとっても関心ある分野なので興味津々で出かけて行った。
アメリカ史となると猿谷要先生の西部開拓史を思い出すが、彼女は近代のカリフォルニアが専門らしく、カリフォルニアワインやハリウッドの成り立ちなど、現在のカリフォルニアをベースにした話が中心だった。その点、少し盛り足りなかったが、娘と同級だった人が成長して、大学の先生になっている姿を目にしただけでもうれしかった。これからの活躍を祈る。

      
     写真左・ 土屋とも子先生          写真右・講座・カリフォルニアを知る
 

10月15日 ホーミカミングと同期会

大学を卒業して50年になる。早稲田では卒業生を招待するホームカミングをやっているが、我々1968年卒業生は最後のホームカミングということで出席した。大隈講堂は人生の荒波を乗り越えたと思われる人たちでいっぱいだった。政治評論家・後藤謙次さんが講演、卒業45年の後輩だ。早稲田出の総理大臣は7名いるが、いずれも短命なのが惜しい。次の早大出の総理は長く活躍してもらいたいとの話であった。
最後は「都の西北」を大合唱して終わった。その後、この機会に集まろうと岳文会6期から8期までの合同同期会に参加した。我々は7期だが、ホームカミングも重なって、いつもは出てこないメンバーも来て、にぎやかだった。来なかった同期や先輩の消息を聞くと、病気で思うようにならなくなった人が多く、健康でこの年まで生きてこられたことに感謝したいと思う。わが人生も今日のホームカミングと同期会で一段落したような気がする。

           
        写真左・ 校歌斉唱                 写真右・同期会
 

10月13日 奥志賀のきのこは蓼科と違う

先週の蓼科に引き続き、奥志賀キノコ狩りだ。あいにく雨模様だが、吉田名人指揮のもと、奥志賀渓谷に向かう。去年より秋の訪れが早く、もう奥志賀は枯葉舞う季節だ。今回は大滝(オオゼンと読む)入り口に車を停めた途端、森の中にキノコびっしりの木を発見。藪をかき分けながら近づくと、ブナハリタケがびっしり付いている。みんなで手分けして木からむしり取る。下を見ると、倒木の下になめこもあるではないか。実を壊さないように、慎重に採る。このあと私は車で移動して脚立と竿を運んで、大滝からハーモニカ滝へ歩いてくるみんなを待つ。脚立は高い木の上に生えたムキタケを採るのに必要だ。竿2本をガムテープで縛り、長くして脚立に立って下からつつこうという訳だ。待つことしばし、途中にもう1本、ブナハリタケの木があったという。ムキタケを下から突いて収穫し、帰途についた。ムキタケにしても、ブナハリタケも蓼科には見られないキノコだ。片や蓼科でポピュラーなハナイグチは見当たらない。植生がちがう木々の影響だろうか?夜は収穫したキノコいっぱいのキノコ鍋に舌つつみを打ち、最後は阿波踊りを踊っておひらきとなった。

            
       写真左・ ブナハリタケ                写真右・キノコ鍋
 

10月11日 石塚さんの絵

岳文先輩の石塚さんは毎年、入っている団体の絵画展に出展している。今年も案内が来たので、銀座まで出かけていった。水彩画でいつもは山の絵が多いのだが、今年は「大隈庭園からの大隈講堂」と「旧制松本高校」の学校もの2点だ。大隈講堂はわが母校のおなじみの校舎、松本高校は今年3月、伊藤正一さんの偲ぶ会で行ったばかりの校舎、いずれも縁のある建物の絵だったので、ことのほか、興味深く鑑賞した。他の方の「マッターホルン」の絵もすばらしかった。たまに見る、絵画展もいいものだ。

                 
       写真左・ 大隈講堂の絵          写真右・旧制松本高校の絵
 

10月7日 蓼科のキノコ狩り

蓼科恒例キノコ狩り、吉田さんのキノコ仲間の女性2人がやってきた。いずれも菌学会の会員とかで、本格的。矢代さんは千葉で食用きのこ専門、池内さんは愛媛から飛行機に乗ってやってきた。サルノコシカケのような食べられないキノコ専門とか、7年かけて探しあてた「スナヤマチャワンタケ」の話には感動した。二人は山荘の隣の庭にコガネタケを、車の窓越しに見つけたらしく、着いた途端、隣へ飛んで行った。
私が玄関へ出たときは誰もおらず、しばらくして意気揚々と入ってきた。その夜、着いた阿波踊り仲間の矢田夫妻、石塚さん、武藤夫妻を入れて翌朝から、八子が峰の左右の尾根沿いにキノコ探し、左の西尾根にはハナイグチやチャナメツムタケなどが豊富にあった。しかし右の東尾根は皆無だ。以前はサクラシメジをいっぱい採ったのに、どうしたことだろう。

      
       写真左・ コガネタケ                写真右・キノコ狩り
 

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9 月

9月24日 松茸尽くしの松茸山荘

松本市の郊外、旧四賀村の穴沢という所に松茸山荘という如何にも秋の味覚を感じさせる宿がある。
文字通り、松茸料理を食べさせる旧志賀村村営の旅館なのだ。季節初めに行った。松茸酒に始まり、松茸オロシ、松茸土瓶蒸し、松茸ホイル焼き、松茸鍋、松茸天ぷら、松茸茶碗蒸し、松茸ご飯、松茸アイスクリームと松茸攻めのメニューだ。さすがに後半になると、うんざりしてくるが、一生に一度だと思うと、残すわけにはいかない。松茸以外は残しても、松茸だけには箸を出す。この宿の裏は松茸山という名の山で、まさに松茸だらけの場所だという。村民しか入れない場所でこの宿の松茸も原則、ここで採れたものだという。肌ツルツルの温泉もあり、松茸尽くしの一夜はとても貴重な夜となった。

      
       写真左・ 松茸山荘             写真右・松茸尽くしの赤松コース
 

9月23日 久仁子さんを偲ぶ会

オーストリアのチロルに住む久仁子ライターさんが亡くなったのが3年前、このお彼岸を機に、生まれ故郷の岩手県水沢の実家のお墓に分骨するというので、ご主人や前の夫との間にできたRyoma君やBiancaさんを伴って、ライターさんが久仁子さんの骨壺を運んできた。そして生前、交際のあった日本の人々を交えて偲ぶ会が立川であった。亡くなる直前、声掛けする人のリストを作っていたそうだ。私もその中に含まれていたらしく、声がかかった。お付き合いは10数年前にさかのぼる。チロルへのスキー計画を立てていたときに、ツテがあって紹介され、とても親切に教えてくれ、行ったときは家に招待してくれた。
それから数度、訪問する機会があり、そのたびに歓待してくれた。亡くなる年の半年前にお会いしたが、体が相当、弱っていたはずなのにドイツとの国境に近い村のレストランに案内してくれた。偲ぶ会に集まった人は高校、大学時代の友人や、ドイツで、オーストリアで通訳の仕事を通じて懇意になった人など20人ほど。その交際の幅の広さに驚いた。きっかけを作ってくれた東光さんも来て、グリーンツーリズムを日本に導入しようと一緒に頑張ったが高度成長期には難しかったと言う。「今ならブームになったのでは?」と言うと、「そうかも」と言ってられた。ご主人のライターさんには「再来年、チロルへ再訪するつもり」と話し、再訪を約束した。

      
    写真左・ 久仁子さん骨壺と遺影        写真右・Ryoma君とライターさん
 

9月15日 久しぶりの放医研

前立腺ガン治療後、7ヶ月の今日、久しぶりに稲毛の放射線医学研究所の病院に行った。退院後2回目の検診だ。前回は行きに3時間もかかったので、予約時間を1時間遅らせ、11時にしてもらった。ところが今日は順調すぎて10時前に着いた。門から病院へ歩いていくと、入院していたときの散歩道が次から次へと現れてきて、懐かしくあのときの日々が思い出される。籠の鳥のような生活だった。病院の外に出たいと言うと、「インフルエンザが流行っているのでダメです」と制止されたっけ。
診察は10分足らずで終わった。3日前に市立病院での血液検査の結果表を見せると、それで判断し、「まあこんなところでしょうな」と言って終わり。なんの独自の検査もない。これなら電話でも済む。2時間以上かけて来る必要があるのだろうか?いつも疑問に思う3ヶ月検診である。

      
       写真左・ 放医研病院            写真右・なつかしき病院への道 
 

9月7日 秩父沢は大丈夫だったけど

今日も雨降りだ。山内さんは秩父沢が心配だと言う。靴は乾いていないが、歩かねばならない。
鏡平までは沢もないが、シシウド平への道になると枝沢が多く、どこも水がジャンジャンと流れ、4日前に登ってきたときとは激変していた。その沢をひとつずつ慎重に横切って下っていく。心配していた秩父沢は橋も流されていなく、無事通過、ワサビ平の小屋についてすべてが終わった気がした。
ここのソーメンが殊の外、おいしい。新穂高に着いたのが午後1時、それまで圏外だった携帯がようやく通じ、森さんからメールが入っていた。別れた日のうちにワサビ平まで下りて、そこの小屋に2泊しているという。「それじゃ、我々が着いたときは、まだいたのか?」と思ったときにまたメール、新穂高ロープウェイ近くのホテルで温泉に入っていると。「あとで迎えに行く」と返事し、今夜の宿・焼の湯の車を呼び、鍋平の駐車場で私の車をピックアップして、森さんを迎えに行った。これで全員帰還、焼の湯の風呂で5日間の汗を流し、呑んだビールのおいしいこと。この夜は、森さん脱落の話で大いに盛り上がって、我々の北アルプスは終わった。

      
        写真左・ 焼の湯1                写真右・焼の湯2
 

9月6日 元来た道を必死に歩く

昨日の岩苔乗越から高天原への下りは結構きつく、同じ道を戻るのは嫌だなと思い、私個人は雲の平経由で行き、双六小屋で山内夫妻と合流したいと思っていたが、朝から結構な雨降りだ。ひとりでは危ないし、メゲると思ったので、山内さんについて行くことにした。
岩苔乗越で黒部源流経由にするか、鷲羽岳経由にするか決めることになった。雨がひどいと源流経由は渡渉しなければならなくなるので、峰を通ったら安全だから。そして乗越に登りあげたら、風が結構強く、尾根越えもしんどいと源流経由となった。後ろについてきた若者に先に行ってくれと言ったら、「自分も不安なので、ついて行く」と言う。乗越からの下りは沢沿いだが、まだ水はあふれていない。山内さんの下りは結構早いペースだ。自分のペースで歩くとどんどん差が広がっていく。後ろに若者がピタッとついてくるし、差は開くしで焦ってしまう。しかしここで離されたら、渡渉のときが不安なので、必死についていく。

      
       写真左・ 双六小屋            写真右・晴れていればこんな景色も
 

雨は止むことなく降っている。黒部源流まで、何とか渡渉もせず下りてきた。ここで若者は先に行った。
三俣山荘への上りの沢の水の流れの方がひどかった。びしょ濡れになりながら、展望食堂に着き、休憩。ここではじめて食べることができた。ストーブで温まっていると「もうここで泊りたい」という気にもなる。
それを断ち切って、再び雨の中に出た。双六へは巻き道経由だが、ここも上ったり下りたりする。
学生時代に私がリーダーで通ったことがあり、途中の沢にパイナップルが浮いていたのを見た。
「オーイ!パイナップルがあるぞ」と言ったら、みんな飛んできた。「ほら!」と指さしたらない。食料不足で苦しんで歩いていたので、幻想を見たらしい。その想い出の沢を探して行ったがわからなかった。
やっと小屋への下り道につきホッとした。小屋へ入って、落ち着いたところでラーメンを注文した。ここのラーメンは山小屋には珍しく本物で、とてもおいしいのだ。雨の中の行軍を終えて、安堵のラーメンはまた格別だった。
 

9月5日  「殿、最後のご決断を…」

森さんの奥さんは旦那以上の山好きで、鷲羽岳を登ったときここまで来た。雲の平と高天原は行ったことがないので楽しみだと言っていた。今日はそれが実現する日だ。まだ明けきらぬ5時過ぎに表に出て出発の準備をした。夕べから気になっていたことを森さんにぶつけることにした。「明日はこの山行でいちばん長い距離を歩きますよ。もし不安だったらここで待っているという選択もあります」、二つ返事で「それがよい。待ってるよ」。「ただ明日は雨の予報だし、朝のうちに双六小屋まで行った方がよいと思う」と言うと、奥さんが「この人をひとりで歩かせるのは不安だ、私も残ります」。奥さんの楽しみはこれから先なのに、ここで断念すると言うではないか。「今日のうちに行ける所まで戻ります」とも。
「さあ歩こうか」という段階のお別れとなった。となれば、雲の平経由で高天原へ行くことはない。岩苔乗越経由に変更し、ひとりで歩き始めた。高天原に着いたのは午前10時半、見慣れたザックが入り口にあった。山内夫妻はもう着いているらしい。私も今生最後ともなるかもしれない高天原の温泉に行くことにした。温泉には誰もおらず、しばし一人湯でビールを楽しんでいた、山内さんがヒョッコリ現れた。夢の平へ行っていたと言う。今朝のいきさつを話し、もうひとつ対岸の新しい湯舟にも入って、最後となるだろう高天原温泉を堪能した。

      
      写真左・ 新しい浴槽               写真右・高天原の夕映え
 

9月4日 本場アルプス縦走は北アルプスには通用せず

早朝、5時半には歩き始めた。良い天気で鏡池に映る槍穂高も美しかった。弓折乗越への急坂を山内さんを先頭に登っていく。乗越には1時間半足らずで到着、森さん夫妻もほどなく到着。ここから双六小屋へはいくつかの小さな峰を越える。右手に槍穂、左奥に白山、後方に笠ヶ岳の名峰を見ながらの尾根歩きは楽しい。双六小屋に着いたのは8時過ぎ、ここで朝食とする。森さん夫妻は私がおにぎりを食べ終えた頃、到着。ここから双六岳へはしばらくハイマツの中の急登を行き、途中からアリゾナの砂漠を彷彿とさせる広い台地状の尾根を歩く。振り返ると砂漠の一本道の向こうに槍ヶ岳が浮かび上がってくる。この景色が絵になるのだ。この辺りから森さんの遅れが目立つようなった。頂上で待つことしばし、三俣蓮華への登り下りでもどんどん離れていく。今日は雲の平までの長丁場、三俣の頂上に山内夫妻と私が着いたのが11時過ぎ、まだここから4時間以上かかるので、山内さんには雲の平に先に行ってチェックインしてもらうことにした。それから30分以上経って、森さんは着いた。三俣山頂から見える雲の平の山荘を指差し、「あそこですよ」と教えても、あまり反応がない。

      
       写真左・ 弓折乗越へ            写真右・砂漠の向こうに槍ヶ岳
 

三俣山荘へは下り道、一緒に歩き出すのだが、すぐ離れてしまい、私が三俣山荘の展望食堂でうどんを食べ終わっても来ない。ベランダに出て見ると、テント場辺りをヨタヨタと下りてくる森さんの姿が目に入った。奥さんはその前を歩いている。小屋までしばらくハイマツ林の中に入るので姿は見えなくなる。ほどなく奥さんは現れた。林の奥から「アハハ」と笑い声が聞こえ、すれ違う人にお愛想を言っている森さんの声が聞こえる。「おッ、元気だな」と思ったのも束の間、林から現れた森さんはヨタヨタだ。
先にベランダに来た奥さんは、「限界かもしれません」と言う。雲の平へ行くのは明日にして今日はここまでと決めた。雲の平山荘へ連絡してもらった。先に行った山内さんはこれを聞いて、ホッとしたという。
「たぶん7時を過ぎるな」と思い、途中まで迎えに出ることを考えていたそうだ。本場アルプスを8日間かけて歩いた人がどうしたのだ?と思うが、考えてみると、ミルフォードもアルプスも登りはただひたすらに登るだけ、ミルフォードも大半は上高地から横尾までのような平坦で最後のマッキンノン峠へが登りだった。
そして本場アルプスも牧場から岩場の道、標高差1000mくらいを毎日登り、尾根に着いたらこんどは同じ下りを反対側に下りて行くことの繰り返し。今日のような尾根に出ても、まだコブコブの上り下りが続くことはなかった。森さんはこれに弱かったのだ。本場アルプスを歩けても、北アルプスは違うのだ。

      
      写真左・ ここまでは笑顔            写真右・山内さん三俣頂上
 

9月3日 駐車場探しの2時間がすべての始まり

今日からミルフォード・トラック、アルプス縦走の仲間、森さん夫妻、山内さん夫妻と北アルプス雲の平・高天原へのトレッキングに出かけた。前夜遅く蓼科の山荘に着いた4人は、早朝4時に起きてもらい、4時半過ぎに私の車で出発。新穂高までは上高地方面の道を行き、釜トンネル入り口で左の安房峠へ向かう。
トンネルを抜けて平湯。栃尾を右に曲がって新穂高に着いたのは8時、2時間半のドライブだった。
ところが駐車場を見つけるのに大苦労、川岸の駐車場はいっぱいで西穂高ゴンドラの中間乗り場の鍋平まで誘導されてしまった。ここから登山口までなんだかんだで1時間以上かかり、歩き始めたのは午前10時、2時間以上駐車場探しに費やしたことになる。
わさび平から小池新道に入り、岩だらけの登山道になって、黙々と歩いて、秩父小沢で大休止、シシウド平に来て、昔のオオノマ乗越への道跡などを見て「これが本来の小池新道だ」などと話をした。鏡池に着いたときは午後2時を回っていた。双六小屋まで行く予定だが、もう3時間くらいかかるので、今日はここまでとし、鏡平山荘に入った。双六小屋にキャンセルを連絡してもらって、6人部屋に5人で入った。まずは生ビールで乾杯し、明日のがんばりに期待することとなった。

      
      写真左・ 行きの秩父沢             写真右・鏡平小屋の寝室
 

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8 月

8月26−27日 高円寺の阿波踊りは楽しい

高円寺の阿波踊りは関東一の規模で、二日間100万人もの人を集める。街あげての一大イベントだ。
今年はわれわれ中々連は二日間、踊ることができる。初日の今日、スタートは南演舞場、最後の13番目。これが大変だった。
5時開始なのに、中々連が踊り始めたのが5時50分、踊り終えたのが6時、最初の踊りに1時間かかってしまった。それが尾を引いて、終わりの8時近くになっても中央演舞場から東演舞場への中央線の線路下という状況。最後の乱舞踊り込みもかなわず、ここで打ち止めとした。かなり物足りない内容で本日の踊り終了となってしまった。

            
         写真左・ 出陣               写真右・華やかな女踊り衆
 

翌日曜日は、昨日行けなかった東演舞場スタート、出発順も5番目とよい。但し、前の連が舞蝶連という鳴り物と踊りが派手な連、我々がパフォーマンスをやるにはかなり離れないと、演奏が聞こえないという最悪な状況。純情演舞場で前の連と間を空け、舞蝶連の音に惑わされないようにしようとするが、係員から「もっと詰めろ」との指示、「前の連が終わらないと何もできない」と抗議すると、「そんなことは他の連も同じ、言うことを聞かないと本部に連絡し、来年から出場取りやめにするぞ」と脅す。それでものらりくらりとして舞蝶連が踊り終えた頃、我々のパフォーマンスをスタートした。
何とかうまくやったが、その後、ルック商店街へ入ったとき、谷口さんが来て、「お前の連の提灯はわれわれの言うことをきかない」と文句言われたと云う。「何を、まったくもう」という心境だが、お上には逆らえないと思い、その後は喧騒の舞蝶連につかず離れずの距離で進んだ。最後のルック商店街で舞蝶連は踊りをやめ抜けた。これで我々は自由に踊れるとホッとして、最後の乱舞はみごとに踊り切った。めでたし、めでたし。

      
      写真左・ お囃子連中              写真右・打上げで最後の踊り
 

8月24日 天狗岳はつらかった

9月初めに北アルプス登山を控えているのに思うようにトレーニング登山ができない。先週も雨で中止、そこで今日、天気はあまり芳しくないが行くことにした。向かうは天狗岳。唐沢鉱泉からの回遊コース。
西尾根を登り、西天狗から東天狗に出て、黒百合平経由で戻ってくる、ごく一般的なコース。もう4,5回登って入りコースだ。登りは快調、ほぼコースタイム通りで頂上に着いた。黒百合への下りに入ると、岩道がる。そんなに腹は空いていないのだ。ふつうならトントンと下りられる岩場も、「よっこらしょ」という感じで、休憩も多い。45分のコースが65分、40分のところが80分と大幅な時間がかかる。下りでこんなにも時間がかかると思わなかった。車に戻ったときはグッタリ、山荘に帰ってきてビールも全部飲めず、寒気がする始末。翌朝には回復していたが、こんな調子で来週の北アルプスは大丈夫だろうか?

      
      
   写真左・ 天狗岳                写真右・西天狗頂上
 

8月17日 八子ヶ峰はもう秋

八子ヶ峰はもう秋だった。ナデシコやハクサンフーロの花の向こうに若いすすきがたなびく。夏の終わりの花に蝶々が群れている。夏の終わりの養分をいっぱい取り込むためだろうか。そして秋はやってくる。
今年も例年通りの季節の変わり目なのだが、マツムシ草の花がとても少ないのが気がかりだ。鹿にやられたのか? 西峰の頂上付近はマツムシ草の群落があるはずなのに、今年は少ない。こんなところにも、気候の急変がかかわっているのだろうか?気になる秋の訪れではある。

      
     写真左・蝶々がいっぱい             写真右・ マツムシ草一輪
 

8月11日 ニコマル食堂の阿波踊り

ニコマル食堂は中野にある吉田さん馴染みの店だ。開店4周年の祝いに「阿波踊り」をしたいというので出かけた。6名くらい入ればいつもはいっぱいの店に10名以上の客がギュ―ギューに押し込められている。踊りは店内ではできないので、前の通りで”しめやかに静かに”踊った。それでもみんな楽しそうだった。
これで中々連に入る人が増えればうれしいな。

      
  
    写真左・ 店の中でも…            写真右・踊り終えてニッコリ
 

8月9日 妻とふたりの八子ヶ峰

娘が草競馬を見て、東京へ帰り、山荘に妻と二人だけになった。天気も晴れたし、八子ヶ峰へ二人で行った。私の病み上がりの状態ではちょうどよい山登りだ。妻も元気に登った。途中、彼女の帽子に蝶々が止まり離れない。いくら登っても蝶々は微動だにしないのだ。休んでもそのまま、八子ヶ峰ヒュッテで休憩してもそのまま。草原を歩き、東峰頂上の標識に近づいた頃、さっと帽子を離れて舞い上がって行った。
彼あるいは彼女も八子ヶ峰に来たかったのだろう、そして頂上に着いたので帽子から飛び立っていったのだ。究極の省エネ登山だったのだ。

      
    写真左・帽子に止まった蝶々              写真右・草原を歩く
 

8月6日 高ボッチ高原の草競馬

妻と娘と一緒に高ボッチ高原の草競馬を見に行った。標高1600m、日本でいちばん高い所で行われる競馬レースだ。競馬と言っても賭けるわけでない。ポニーから競走馬まで、えらくサイズの違う種々の馬のレースだ。競馬場も草原を切り拓いた上り下りのあるコース、我々は林の日陰のある場所に席をとった。
スタート地点の近く。スタートも、テレビで見るゲートに入って一斉スタートではない。出走馬が集まってきて、だいたいいるなという状況でスタートの白旗が下ろされる。後ろを向いている馬がいてもお構いなしだ。でも白旗が下ろされると後方で後ろを向いていた馬も向き直って走り出すのだ。コーナーを廻っているうちに、ビリだった馬も先頭に出ることもある。スタートはバラバラでもうまく走れるものだ。ポニーのレースは日本競馬会主催の大会の中部地区決勝を兼ねている
ここで優勝すると、東京競馬場の本選に出れるのだ。だからこんな山の上にも長野だけでなく愛知、三重、石川の駿馬が集まってくる。大きい馬と違い、2周と短いが、そのレースは厳しい。騎手はみな子供だが、手綱さばきはみごとだ。バラバラスタートは変わらないが、本選出場がかかっているので、声援はひときわ大きい。愛知県から来たポニーが勝った。爽やかな空気の中の爽快な競馬大会だった。

      
  
   写真左・ ポニーのレース            写真右・ゴール前の競り合い
 

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7 月

7月23日 意外と楽しい小金井阿波踊り

中々連の姉妹連が新座にできた。「むさし中々連」だ。その発足記念のお披露目が武蔵小金井の阿波踊りとなった。それを盛り上げようと本家からも数名応援に駆け付けた。
といっても、高円寺にはない組踊りなるものがあり、分家はちゃんと練習を積んだらしく、若手を中心に激しいパフォーマンスを繰り広げた。我々ロートルばかりの本家はタラタラと踊るばかりだった。
裏の細い商店街に入ると、高円寺の純情商店街の雰囲気があり、一瞬、高円寺で踊っている錯覚に陥る。むさし中々連のスタートは無事に終わった。

      
    写真左・むさし中々連              写真右・小金井阿波踊り
 

7月15日 高ボッチからの諏訪湖はきれい

高ボッチ高原のボッチは昔話のダイダラボッチに由来していて、大鬼の足で山を踏んづけ平らになった所が高ボッチらしい。その山へ、極楽スキーの仲間で行った。
頂上は駐車場から数分歩くと到着してしまうので、それでは物足りないので、山を下った所にあるひょうたん池へ小一時間ばかり往復することにした。途中まで行ったとき、私は車のキーがないことに気が付いた。靴紐を締めるとき座ったベンチに置いてきたらしい。そこでみんなに行ってもらい、私は戻った。ベンチにあった。ラウターブルンネンの切符売場にはクレジットカードを置き忘れたり、このところうっかり忘れが多くなった。
これも老化現象なのだろう。みんなを待つことしばし、全員そろったところで高原の頂上へ。諏訪湖が眼下に見えて、その向こうに富士山もうっすらと見える。思いがけない美景にみんな歓声を上げる。ここで昼食、夕べ作ったサンドイッチをほおばる。
その後、鉢伏山に移動して、30分の歩きで頂上へ。これで本日の行動は終わり。
疲れもせず、少しは歩けたし、みんな満足そう。このグループのトレッキングはこの程度でよいのかも?山荘へ帰って、恒例の溝上さんシェフの広島焼きでパーティが始まった。今年は砂肝を入れてコリコリ感を出した。楽しきかな運動のあとの温泉と広島焼きパーティ。

      
  
  写真左・ 諏訪湖をバックに        写真右・いつもながらのお好み焼き
 

7月1〜5日 グリンデルワルドの日々
7月1日 ラウターブルンネンへ舞い戻り

スイスの旅も後半、ミューレンからグリンデルワルドへ移動する。電車とロープウェイを乗り継いで、ラウターブルンネンへ下りた。ここから鉄道で一回乗り換えてグリンデルワルドへ行った。ホテル・アルピナは駅に近いが少し上るので、スーツケースを上げるのに苦労したが、ことなく到着。
チェックインのとき、クレジットカードがないことに気が付いた。部屋に入って、あちこち探したが見当たらない。最後に使ったのはラウターブルンネン駅で切符を買うとき。フロントへ行って、事情を話すと、主人は電話をかけてくれた。名前は「HIKO ODA」ですねと、駅員は言った。ラウターブルンネンへ舞い戻ることになった。
心配が消えた往復の列車の旅は景色も余裕を持って見れて快適である。老化現象でだんだんこんなことが増えてくるのではないかと不安になるが、まずはひと安心である。
ホテルに帰ってきて、受付の主人にお礼を言う。明日からはグリンデルワルド周辺を歩く。楽しみだ。

      
   写真左・ホテル・アルピナ           写真右・ラウターブルンネン駅
 

7月2日 30年前にはグリンデルワルドにも氷河があった

晴れた空の下を楽しいハイキングと思っていたのに、朝から雨だ。持ってきたガイドブック「スイスアルプスの旅」を読むと、グリンデルワルドにも氷河があり、氷河が割れる轟音が時々聞こえるという。そこへ行こうと、村はずれのプフィングシュテークのゴンドラリフトに乗った。ここから氷河へは森の中の道を水平にミルヒバッハの山小屋へ向かって歩く。途中トンネルを抜けて、山小屋へ着いたときはまだ昼前。ミルクコーヒーを頼み、外のテーブルで雨に煙る対岸の岩山の上に山小屋のようなものを発見した。
親父さんに聞くと、第一次世界大戦前に作られた氷河見物用のゴンドラ駅の跡だという。ゴンドラ下に氷河が来ていて、氷をくぐるトンネルもあったという。大戦が始まり、客が来なくなり、ゴンドラはたった4年間の営業で終わったという。今はその廃墟が山の上にある。親父は興に乗ったのか、奥から30年前の写真を持ってきて、ミルヒバッハの小屋からでも当時は氷河がまじかに見えたと話す。確かに写真は小屋のテラスでおおぜいの人が食事していて、その先に氷河が見える。
持参したアルプスの旅のガイドブックを見ると、1992年発行でほぼ30年前だ。道理で、当時はグリンデルワルドで氷河見物ができると紹介されていたのだ。今は何もない。
氷河はかなり上部に後退して、仰ぎ見る角度になってしまった。それにしてもこのガイドブックはカラーで美しく、30年前のものとは思われない。古本屋で買ったことを思い出した。

      
  写真左・ 30年前にここに氷河が…       写真右・ゴンドラ展望台廃墟
 

7月3日 思い出のクライネシャイデックからのハイキング

42年前、私たちは新婚旅行でこの地に来たことがある。そのときはラウターブルンネンから左手の壁をケーブルカーで上がった所のウェンゲンに泊って、ユングフラウヨッホへ登山電車で行った。クライネシャイデックはグリンデルワルドからの登山電車と交わる所だ。そのクライネシャイデックへ、今日はグリンデルワルドからの電車で行く。
村を外れると、電車はグングンと登って、広い牧場を横切って行く。左手はアイガーの大岩壁だ。クライネシャイデックは両方の登山電車が着いて、ごった返している。ほとんどはユングフラウヨッホへいく客だ。
我々は駅を離れて、グリンデルワルドへのハイキングコースに入った。牧場の道は、途中で牛の群れに阻まれたり、アルペンローゼの花を見つけたりで楽しい。行くて前方には昨日目の前に聳えていたヴェッターホルンの山が雲の切れ間からの光に輝いている。2時間半ほど歩くとアルピグレンの駅に着いた。ここから下は急な道であまり歩き甲斐がないと、宿の親父に聞いていたので、駅でしばらく時間をつぶし、下りの登山電車に乗って、ホテル・アルピナへ帰った。このホテルのベランダから眺めるアイガーも美しい。

      
  写真左・クライネシャイデック駅           写真右・アルペンローゼ
 

7月4日 シュレックホルンは名峰だ

42年前の新婚旅行のときは、グリンデルワルドまで来て、具合が悪くなり、キャンプ場の草原に寝てから宿のあるウェンゲンに帰ってしまった。そのとき行くつもりだったフィルストへのゴンドラへ今日乗る。42年前のリベンジである。当時はゴンドラでなく二人乗りのリフトだったと思う。30分以上の行程は寒いと凍え死にそうと誰かが言っていた。
今はゴンドラに代わり、優雅な気分のリベンジだ。フィルスト展望台はそこそこにアルプバッハゼーへの道をたどる。この湖までは観光客が難なく来れる。湖で記念写真をと準備したら、青年が「撮りましょうか?」と声をかけてくれた。私の帽子を見て、「韓国のSK野球チームのですね」と。聞くと韓国からの家族旅行とか、「ウチの娘がソウルに…」と言って仲良くなる。彼はこの帽子を買ったときの対戦相手LGツインズのファンだと言った。その人たちと別れ、われわれはロッティホーンの山腹を廻ってブスアルプへの道を歩いた。岩の道や、快適なお花畑の道を軽快に歩き、遠くにはユングフラウの山々を見ながら、これぞアルプスハイキングだ。天気もよく、4泊した成果が今日に出たという感じだ。先のミューレンでも3日目が良い天気、グリンデルワルドもそう。やはり旅はその地に4泊することが肝要と思う。

      
  写真左・花の向こうにシュレックホルン           写真右・道の向こうに…
 

7月5日 帰国の日

3週間近い旅も今日終わる。早朝6時に車が迎えに来た。日本語旅行案内所の安東所長自らが運転してチューリッヒ空港へ送ってくれる。アイガーの東稜線の小屋の灯りと登山電車アイガーバンド駅の灯りが白みかえた空に消えていく頃、グリンデルワルドを後にした。空港まで2時間半、スイスの思い出を、42年前の記憶とミックスしながら反復する。朝のラッシュで人通りの多いチューリッヒの街を抜けて、空港へ着いた。
ポーランド航空のカウンターはこじんまりしていた。ワルシャワ乗換で成田へ向かう。
この旅で感じたのは国のあり方だ。スイスのように永世中立でどの戦争に関与せず、国民を守り、豊かな国を作り上げている国もある。ただ物価は高い。リトアニアの4倍もするのではないか?高い税金を払っても幸せを守るにはこの生き方でよいという自負が感じられる。一方、リトアニアはポーランド、ドイツ、ソ連に侵略され続けてきた。
だから今、NATOに加盟し、EUに入り、その庇護のもとに独立を維持しなければならない。ウクライナへのロシア侵攻で「次は自分たちだ」との恐怖も感じている。しかしEUに加盟したことは別な問題も生み出した。EU圏内の往来自由化は若者のリトアニアから出て行くことを加速させてしまった。国内に働き手が少なくなってしまう。豊かな国作りの障害となるのだ。国を守り、発展させ、幸せに暮らすとはどういうことか、考えさせる旅でもあった。

      
     写真左・ 明けいくアイガー           写真右・成田への機内
 

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6 月

6月27〜30日 アルプス展望台・ミューレンの日々

リトアニアとポーランドでユダヤ人迫害の歴史を見て、何とも言えない気持ちを、少しでも和らげようとスイスを最後の訪問地にした。我々夫婦にとっては新婚旅行以来、42年ぶりのベルナーオーバーランドへの旅だ。ミューレンは前回の旅では行かなかった村だ。
ラウターブンネンからゴンドラ、ケーブルカーを乗り継いで標高1600mにある村。駅から近いホテル・アルピナに泊った。リトアニアやワルシャワのホテルから比べるごく小さい村の旅館という風情。ベランダからはユングフラフの岸壁がそそり立ち、その左にメンヒ、アイガーと続く。まずはアルメントフーベルのケーブルカーでひと上がりして、お花畑の牧場をミューレン村に下った。目の前に繰り広げられるユングフラウ連峰とその右に連なるブライトホルンへの峰々、迫力満点のアルプス絶景の中を歩いて行った。
ホテル・アルピナの食事は素朴だが、味付けは柔らかく、日本人向けの料理だった。
まずはよし。

      
  写真左・42年ぶりのベルナーオーバーランド
                              写真右・ビールの向こうにもアルプスの峰
 

翌日、朝は晴れていたが昨日の夕立のせいか、霧が谷間に立ち込め、どんどんと上に上がって行く。ユングフラグエリアの天気中継を見ると、シルトホルンもユングフラウヨッホも晴れている。これなら谷間の霧が消えたら快晴だと読んで、シルトホルン行きに決めた。
ゴンドラに乗って、しばらくの間は展望も利き、昨日歩いた牧場や休んだ場所も下に見えた、しかし上りに従い、雲行きおかしくなり、シルトホルン展望台に着いた時はもうガスの中同然だった。途中のブリスクから歩き始めて湖が眼下に見えていたが、近くに行ったらもうガスの中で湖見えず。そこから急降下の道を谷間に下りて行く。左右に広がる斜面はとてもきれいな花畑。晴れいたらどんなに美しいことか。
途中の岩で昼食、ずっと下に見えていた人が上がってきた。トレランスーツの女性、シルトホルンへ行くという。「少なくとも2時間以上かかるよ」と言うと、ワオーと言ったが登って行った。雨が降りだし、水の流れが激しい小川を横切るのに苦労してようやく草原地帯に到着した頃、くだんの女性が戻ってきた。「雨が強くなったのであきらめた」とのこと。「それでよい、よかった」。

      
    写真左・ 雨の中でもお花はきれい        写真右・ミューレンの村の中
 

6月23〜26日 ショパンの街・ワルシャワそしてアウシュビッツ

リトアニアの後、ワルシャワへ戻った。ワルシャワでは中央駅前のマリオットホテルに泊まった。高層の部屋からはソ連時代に作られた科学技術館という時代がかった高層建築のビルがある。後日、行ってみて展望台へ上った。そのときのエレベータが驚きだった。10人も乗ればいっぱいになるエレベータの中におばちゃんが椅子に座ってボタンを押している。元々狭い室内に立つと5人は入るスペースをおばちゃんが悠然と座り、場所をとっているのだ。まだソ連時代の遺構と習慣が残っているのではないかと思った。
着いた翌日、アウシュビッツ収容所へのツァーに参加した。ワルシャワから2時間半、列車に乗り、クラコフ駅に下り立つとガイドのマルタさんが迎えに来ていた。クラコフ大学の日本語科を出て、大阪大学に留学したとかで日本語は流暢、特に王宮の歴史には詳しく、覚えきれない皇帝の名前と業績をよどみない日本語で説明してくれたが、ほとんどを聞いた直後に忘れてしまった。
アウシュビッツへクラコフから車で2時間弱、内部の案内はアウシュビッツ唯一の日本人ガイド・中谷さんがやってくれた。いろいろな情報で知ってはいたが、おびただしい服、化粧品、靴、カバン、髪の毛を見て、そしてそれらの物を残して行った人々を死に追いやったチクロガスの缶を見ると、この人たちの悲惨な最後を直視できなくなる。
先日見たリトアニア領事館でのビザ発行記録、これで救われた人がいる一方で、このおびただしい死者の数、人間の業の違いがこうも大きいのかと思うと言葉がない。
「最近の日本のヘイトスピーチを私は心配しているんですよ。そんな動きが、人を差別しとんでもない方向に世の中を変えていくのではないでしょうか?」と言った中谷さんの言葉は重い。

      
        写真左・死への線路              写真右・人間焼却炉
 

ワルシャワはショパンの街である。生まれは郊外、育ったのはワルシャワ。ショパンの曲のメロディはソフトで優雅だ。一夜、1時間ばかりだったが、王宮近くでショパンのメロディを楽しんだ。ピアノはKAWAI、河合楽器製だ。奏者は新鋭のプロ見習いと思える人で、情感たっぷりに弾くピアノの音は、素人の私でも身に沁みてくる。
フレディリック・ショパンは愛国の人でもあった。ポーランドを愛しながらも、内乱やロシアによる攻撃などに侵略されるポーランドを後にしてフランスで音楽活動を続けた。そしてフランスで一生を終えた。ポーランドも同様、侵略者によって国の運命を何度も変えた。リトアニア人はソ連とポーランドを毛嫌いする。いずれからも過去、侵略されたからだ。
クラコフでお世話になったマルタさんに言わせると、リトアニアと統合時代がポーランドがいちばん誇りにする時代、ハプスブルク家が支配した時代は離れていたせいか統治が弱く、ポーランド人にとって幸せな時代、ソ連時代が最悪、口にしたくない時代という。
リトアニアとポーランドでは見方が違うものの、ソ連時代を嫌うのは共通である。

      
       写真左・ショパン博物館           写真右・入道雲を背景に演奏
 

6月20〜23日 杉原千畝のリトアニア

第二次大戦初期、リトアニアの領事だった杉原千畝が苦悶の末、発行した日本通過ビザで6000人ものユダヤ人が救われたという話は有名だ。その史跡を訪ねるべく、リトアニアのカウナスに来た。リトアニア語はわからないし、現地の人もほとんど英語が通じないということなので、トラベロコというサイトを通じて現地の日本人にガイドをお願いすることにした。リトアニア人のご主人が車を運転し、綾さんが案内してくれた。残念なことに旧領事館の建物は外装工事中で外観は見ることができなかったが、内部の領事室には入れた。机にタイプライターが置かれ、手書きのパスポートのレプリカが机上にあった。そこにある発行名簿を見るとほとんどがポーランド系のユダヤ人だ。杉原領事が決断したきっかけはある日朝突然、領事館の門に100人を超すユダヤ人が集まっていたことだった。その人たちはオランダ系ユダヤ人で、オランダ領事館発行のオランダ領キュラソー入国ビザを持っていた。そこへ行くために通過する日本のビザが必要だった。
戦後落ち着いた頃、当時の日本のオランダ大使鷹取さんの元にリトアニア・オランダ領事だった身内の方が訪ねてきて、「オランダ領事館が入国ビザを発行したばかりに、杉原さんには大変な迷惑をかけてしまった」と。そして杉原領事が発行を決断した以降はナチスドイツに攻撃されていたポーランドから大量のユダヤ人が日本領事館に来ることになったのだ。杉原さんは領事館閉鎖後、滞在したメトロポリス・ホテルやカウナス駅でもビザを書き続けた。いずれにも記念碑があり、そこも私たちは訪れたのだった。

          
      写真左・杉原さんの領事室           写真右・カウナス駅の記念碑 
 

カウナスからの泊っているヴィルニスへの帰途、ホテルの対岸の新市街地にある河岸公園の中にある杉原千畝記念碑に寄った。この記念碑は杉原さんの名誉が回復した2001年に早稲田大学が立てたものである。そこには「校友として世界に誇るべき氏の功績を称えて記念碑を建立する」と刻まれている。彼は卒業はしなかったものの英語の先生になるべく早大の門をくぐり苦学しているとき、外務省の語学留学生試験の広告を見て応募、合格して外務省職員となってハルピン大学でロシア語を習得し、紆余曲折を経てリトアニア領事になり、歴史的事実の当事者となった。外務省は職務違反として戦後、免職にしたが、助けられたユダヤ人が「そんな人物はいない」と言い張る外務省のウソを暴き、杉原さんの名誉を回復したのだった。
早稲田はこの事実をそのとき初めて知り、「わが早稲田にそんなすばらしい人物がいたことは誇りである」として、創立125年の新聞広告では”早稲田が輩出した偉人”のトップで紹介した。今では早大に杉原千畝研究会ができ、毎年、高校生を引率して、ユダヤ人排斥の歴史を研究に来るほどだ。同じ早稲田を出た私としても涙が出てくるほど嬉しい記念碑だ。、記念碑の建つ公園に日本から植樹された桜が満開になるとおおぜいの市民が集まると、案内の綾さんが話してくれた。来年の桜が咲いたら写真を送ってほしいと頼んだのだった。

      
      写真左・早大モニュメント           写真右・早大の誇るべき校友
 

リトアニアでは首都ヴィルニスに滞在し、旧市街など廻った。行った中で印象深かったのはやはり戦争の歴史跡だった。訪れたテレビ塔には1990年のベルリンの壁崩壊から端を発する独立運動をソ連軍が抑圧し、それに抵抗した14人の犠牲者の写真が掲示されている。私はその事件を知らなかったが、常に他国の侵略を受けてきたリトアニア人の最後の抵抗になってほしいと思った。そしてリトアニアを離れる直前に行ったKGB博物館、ナチスドイツの後にソ連に制圧されたリトアニアでそれに抵抗した人々を拷問し、シベリアへ流民として何十万人も追いやったのはKGBだった。その歴史を残した旧KGBの建物、多くの囚人室、拷問の部屋、そして通りに面した外壁にはここで命を落とした人々の名前が刻まれている。ユダヤ人だけでなく、戦争の犠牲者は他にも多い。そしてその歴史は今でも続いている。今のリトアニアの平和が永遠に続くことを祈らずにいられない。

      
       写真左・KGBの囚人室         写真右・壁に刻まれた犠牲者の名前
 

6月19日 初めてのポーランド航空

今日からリトアニア、ポーランド、スイスの旅に出発だ。飛行機は初めて乗るポーランド航空、去年から日本に乗り入れた。ビジネスクラスの座席はANAのように個別ではないが、2人隣合わせで各自フラットシートになり、居心地は悪くない。食事も和食、洋食とも味も良し、ポーランドのビールも美味しい。日本人のスチュワーデスはいないが、日本語を話すポーランド人スチュワーデスがいて不都合はない。問題は映画、洋画に日本語訳が全くなく、楽しみにしていた妻は大不満、仕方なく邦画を見たが、4本のみで見る価値ありは2本のみ、これには参った。長時間過ごす機内で唯一の楽しみがこの状況では、他のヨーロッパ系航空会社より少し安いとは言え、次回は選ばないと思う。

      
      写真左・ポーランド航空             写真右・ビジネスクラス
 

6月18日 義母の四十九日法要

5月15日に亡くなった妻の母の49日法要と納骨を行った。本来なら7月2日なのだが、明日から海外旅行に出かける我々の都合で早めてもらった。本立寺で4名の朗々としたお経による供養のあと、お墓に行き、納骨を行った。既に寺男によってお墓が開けられていて、お父さんの骨壺が見えた。その奥にも二つあるらしい。お父さんの親のものらしい。そのお父さんの隣にお母さんの骨壺が並べられた。お父さんが生きていた頃はよくお母さんが怒っていたものだった。久しぶりに一緒になったお墓の中では仲良くしていてくれるかな?

      
      写真左・永見家のお墓             写真右・墓の下に納骨
 

6月17日 神宮でのヤクルト・日ハム交流戦

明後日からヨーロッパ旅行というのに、交流戦のチケットが余っているというので、娘・景と一緒に神宮に出かけた。日ハム・ヤクルト戦、神宮に六大学以外で野球見に来るのは初めてだ。3塁側内野席、ダックアウト近くの良い席だ。早慶戦並みに観客はいっぱい入っている。試合はヤクルト山田のスリーランなどでリード、ヤクルトのブキャナン投手の前に日ハムは凡退を繰り返し、5−0の一方的ヤクルトの勝利。日ハムファンの景はガッカリ。近藤抹消、大谷出遅れ、中田不調ではどうにもならない日ハムの現状を象徴する試合であった。

            
       写真左・試合も白熱            写真右・大学野球とは違う応援
 

6月9〜11日 韓国へ新居訪問

娘の穂梓が住むソウルの新居を訪問した。ジェフン君ともども金浦空港に迎えに来てくれ、タクシーで向った。東京で言えば立川あたりの郊外に位置する新居だが、羽田相当の金浦から都心を抜けて相当走ったが、2000円程度という安さだ。ソウルはタクシーが安いのが助かる。
新居は3LDKの広さで二人には十分のようだが、押入れがない韓国のアパートでは一室をクロゼットにしなければならない。まあそれでも今までより良くなったと二人は満足そうだった。
翌日は韓国のプロ野球見物に連れていってくれた。ナイターは5時から始まるので、この時期、夕日が強く暑さ厳しい中での観戦だ。LGツインズとSKワイバーンズとの試合、ジェフンのひいきではないそうだが、SKに勝ってほしいということでSK側の3塁側外野に近い最前列に入った。夕陽を真正面に受け、サングラスがないと見ていられないが、ビール片手の観戦は日本と同じく心地よい。応援団はマイクを使っていてすこぶる激しい。SKがリードするとLGが追いつきの白熱した試合で8回にホームランでSKがリードして逃げ切った。面白さは日本のプロ野球と同じでレベルも遜色ない。楽しい韓国旅行となった。

      
       写真左・新居の居間             写真右・韓国のナイター試合
 

6月2日 奥志賀・初の山菜採り

奥志賀ブルーエの組合員対象の山菜狩りが初めて行われた。昨年秋のキノコ狩りが好評だったので山菜狩りも、ということになった。堅木さんを除く組合員全員と私のフコク生命時代の先輩4名も加わり、三輪さんの案内で、まずは小澤征爾さん別荘近くの白樺苑路に入った。
ここには行者ニンニクが密生している。山菜博士・吉田さんも行者ニンニクは初めてという。白い茎からニンニクの香りがするが、ウルイのような葉っぱである。別荘地の道路沿いにはタラの芽もハリギリ、コシアブラ、別荘地入り口の土の中にはヤマウドもあった。
スキー場には名前は忘れたが食べられる白い花もあった。これらの山菜の数々は三輪さんのひと腕上がった料理の数々となってテーブルを賑わし、楽しい山菜狩りとなった。

      
     写真左・行者ニンニク探して            写真右・ヤマウド掘り
 

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5 月

5月28、29日 7月極楽トレッキングの下見・茶臼山

28日は美ヶ原に続く峰のひとつ茶臼山へ行った。扉峠の駐車場に停めて登った。
最初は険しい林の中の道だ。25分ほどで尾根の始点に出た。そこからは眺めがよい。霧ヶ峰、車山の向こうに八ヶ岳が見え、南アルプスの北岳は甲斐駒の右に出た。
八子ヶ峰からは左なのに。仙丈の右手に懐かしき塩見が見える。私にとって三千メートル峰、最後に歩いた山なのだ。しばしの休憩のあと、八子ヶ峰を思わせるような草原の道を行き、林に入ると急になる。頂上が見えるが、最後は急そうだ。
前を家族連れが登っていく。小さい子は追いつこうと走ったりしているが、バテなければよいが、と心配になる。最後の草付きの急登を終えたら頂上だった。思いのほか人が多い。地元の公民館の集まりのようなことを言っていた。ここからの眺めもすばらしい。
残雪の穂高も目の前だ。ここまで1時間半、帰りは1時間だったので2時間半のトレッキングはちょうどよいかも。帰りは八島湿原のそばにある鷲ヶ峰にも登った。目の前に見えている頂が頂上と思っていたらその先にあった。往復1時間ちょっと、ここも尾根は草原で気持ちのよい山である。

      
     写真左・頂上へ登る家族連れ           写真右・茶臼山頂上
 

5月28、29日  高ボッチ、鉢伏山

29日は塩嶺峠の先の高ボッチにまず行った。甲州街道を、峠を越えて右手に入り、細い道を上がっていくと高ボッチ高原の草競馬場に出る。少し走らせると広い駐車場があり、頂上はすぐだ。登頂する前にひょうたん池という所へいくことにした。
駐車場から下りて行く。800メートルと出ていたが、行けども行けどもそれらしきものはない。途中で林道に出た。さらに下りて、左手下に水たまりのようなものが見えた。
そこがひょうたん池だった。ここまで下りること30分近く、800メートルより長い、1キロくらいあるのではないか?水が少ないが東屋などもあり、ハイキングスポットとして何とかしたいという気持ちが見て取れる。
戻って、林道に出た所に駐車場まで400メートルと出ていた。そこからおおよそ計りながら歩いたが駐車場まで少なくとも500メーターはあるような気がした。高ボッチ高原の頂上は5分で着いた。諏訪湖が目の下に大きく見え、その先に南アルプス全山が見える。光岳まで見える。すばらしい南アルプス展望台だ。鉢伏山へはしばらく車を走らせていく。鉢伏山荘は駐車料金をとる。ここに泊る人はほとんどいないだろうから、仕方ないか。3月に長野県の防災ヘリコプターが墜落したのはこの山の近くだ。
頂上への途中、小高い丘に登ったら花と酒瓶が置いてあった。その先の林に墜落、全員死亡したのだった。林の中に白く地面が出ている所が墜落現場なのだろう。合掌。
頂上へは30分もあれば登れる。途中に若山牧水、喜志子夫妻の歌碑があった。ここを通ったのだろうか?この山も眺めがよい。ことに眼下に広がる松本平の景色がすばらしい。昨日の茶臼山も目の前に見える。登りだした扉峠の茶屋も見えるので全行程が一望できる。帰りは崖の湯に下りて、以前泊ったことのある薬師平茜の宿に寄って露天風呂で汗を流した。

      
   写真左・諏訪湖の向こうに南アルプス          写真右・鎮魂の花と酒
 

5月22日 あとちょっとで百歳だったのに…

妻の母が亡くなった。今日は告別式。今年の8月6日で百歳になる直前の死だった。ここ数ヶ月は寝たきりだったので仕方ない。直前まで介護の世話にならなかっただけでもよかった。元気に一生を終えたと言えよう。骨を拾うとき、とても少ないのに驚いた。小柄だったががっちりしていたので、もっと骨太だと思っていた。ウチの犬が死んだときの量とたいして変わらないような気がする。来月18日に納骨する。身内とごく身近な親類だけの参列者10名だけの質素な葬式だったが、お経だけは菩提寺から3名の和尚が来て、その読経はの合唱はすばらしかった。ひとりの声量が豊かで、朗々と響く読経は極上の合唱であった。合掌。

      
       写真左・若すぎる遺影                写真右・花で送る
 

5月20日 立教は優勝なるか?

早稲田が出ていないのに神宮へ行った。明治・立教の優勝争いが見たかった。今日が一回戦だ。じっくり見たいので、内野2階席だ。双方の応援がよく聞こえる。
席についたときにもう1点、明治が入れていた。立教は、どうしたことか、まるで打てない三者凡退が続く。明治は加点して2−0、九回表にもう1点、最終回でようやく立教にヒットが出たがもう手遅れだった。ノーヒットノーランになるところだった。金縛りにあったような立教の攻めであった。これが20年近く優勝していないチームのプレッシャーというものなのだろう。
翌日は立教が勝ち、これで緊張が溶けたようで、3回戦も立教勝利。早慶戦で慶應が1敗すると立教が優勝となる。早慶戦で慶應は1敗してしまい、立教は久々の優勝を果たした。おめでとう。

      
         写真左・立明戦                  写真右・明治勝つ
 

5月19日 あっけない3ヶ月検診

前立腺ガンの治療が終わったのが2月、3ヶ月検診の日が来た。午前10時というので朝早く出かけた。しかし京王線を使ったのがまずかったのか、新宿まで渋滞し、その後も連絡スムーズでなく、稲毛の放射線医学研究所病院に着いたのが予約時間ピッタリの10時、3時間かかった。
市民病院と違い、予約時間からあまり間がなく呼ばれた。辻先生が対応、「どうですか?」、「体力落ち、体が汗かきやすくなりました」、「PSAレベルは?」、「3月に市民病院で検査したらゼロでした」、「それは結構、次に来るときに、最新のデータを持ってきてください」、「ここで血液や尿の検査はしないのですか?」、「二重にしてもムダなので、市民病院のデータで十分です」。これなら電話でも済むのではないかと思ったが、そこまでは言わなかった。ただ話をするだけに3時間もかけて来るのはかなわないなと思ったが、それで回復が確認できるなら、ま、いいかなと納得した。次は9月15日だ。
 

5月9日 岩殿山はけわしかった

岩殿山は大月の街のそばに聳える岩山で頂上には岩殿城址がある。大河ドラマ「真田丸」では城主小山田信成が主君・武田勝頼をここに案内する途中で裏切り、勝頼は天目山で自害を余儀なくされた因縁の城跡でもある。稚児落としと呼ばれる、切り立った崖もある、険しい山城だ。いつも蓼科への往復で目にする場所だったので、一度寄ってみたかった。
頂上付近のアンテナのようなものも見えるので、頂上までは車で行けるものと思っていた。ところがである。近くに寄ってみると麓を廻る道路はあるが、上へは通じていなかった。麓に車を停めて登っていくしかなかった。これが結構険しいのだ。標高634mの山だが、岩山なので、道も急で階段も多い。きつい坂道をジグザクと上り、小一時間かかった。しかし上からの眺望はすばらしく大月の市街と桂川が眼下に見える。防御のための城としては天下の要害となる。戦国の世には名城だったと思わせる岩殿山だった。

      
        写真左・急な上り道               写真右・眼下は桂川
 

5月7日 蓼科の桜は今が満開

蓼科湖のそばの聖光寺はトヨタが建てた交通安全祈願のお寺だ。この境内の桜の木は若いが、みごとな花を咲かせる。いつも信州の桜どころの最後を飾るべく、5月の連休の頃が見ごろなのだが、今年は少し遅く、連休が終わった今日が満開となった。
ゴールデンウイークは過ぎたものの、結構な人出で、境内は花見客でにぎわっていた。残雪が少しある蓼科山をバックに咲き誇る桜は美しい。周辺の桜も今が見ごろで、東急の別荘地への道沿いの桜もきれいだ。山荘の庭の桜はまだ小さなつぼみなので、5月15日頃が見ごろではなかろうか。ようやく高原にも春がきたことを実感した。

      
      写真左・桜の向こうに蓼科山           写真右・寺の参道と桜
 

5月2日 信州の山は美しい

清々しく晴れたので、八子ヶ峰に登った。今季2回目だが、体力低下の影響は続いていて、最初の20分の急登がつらい。時々休んで呼吸を整える。縦走路に到達してまたも大休止。ここまでは「戻ろう」と思ったこともしばしばだったが、休んで飴をなめていると元気が出てきた。ここからは尾根道なのでそんなに急な上りもないので大丈夫。
八ヶ岳を見通せるところにきたら、いつもより山がはっきり見える。今日の大気はきれいで、遠くまで見えるのだ。尾根を進んでいくと蓼科山の右手に四阿山と根子岳、その間に志賀高原の横手山がはっきり見える。こんなことは珍しい。左奥には妙高、火打、高妻、戸隠も白く輝いている。後立山連峰、槍、穂高、乗鞍、御嶽、中央・南のアルプス。今日の山々は殊の外美しい。信州の神々しい山に囲まれてのトレッキングは楽しい。
八子ヶ峰はいい山だ。

      
        写真左・大休止                  写真右・残雪の穂高
 

5月1日 鹿にやられた庭の花

早春の庭は緑もなく寂しいので、木鉢に土を入れて花を植えておく。ルピナスとマリーゴールドにした。鹿が食べる花はダメなので、マリーゴールドはOK、ルピナスは危ないので中央に植え、マリーゴールドで囲むようにした。3日間くらいは何もなく大丈夫だったが、今日、庭で物音がしたので、見ると数匹の家族連れの鹿が水仙のあたりにいた。そして花鉢を見たら、無残な形で食い荒らされていた。マリーゴールドは引っこ抜かれて鉢の外に転がり、ルピナスも同様だ。引っこ抜いたが食べてはいないようだった。植えては抜かれ、荒らされ、また植えなおす、この繰り返しが始まる季節となった。
            
        写真左・鹿来る前               写真右・鹿来た後
 

5月1日 ベランダのペンキ塗り

今年は建物全体の塗装をやることにした。屋根もやるので見積もりは百万を越す。
少しでも安くとベランダは自分でやる。昨日、キシダテコールを買った。いつもの物がなかったのでチーク色にしたが、少し濃いようだ。よく晴れた空の下、ベランダに塗っていく。今回はオーナー側の階段にも塗った。玄関ベランダは屋根があるので、雨にもあたっていないし、残りの量も少なかったのでやらないことにした。塗った所と塗らない所の差ははっきりしている。いつもペンキ塗りが終わると、ひと仕事を終えたような気がする。
専門家に頼んだ所の塗装は我々が海外へ行っている6月にやってもらうことにしている。

      
      写真左・塗装後のベランダ        写真右・左部分は塗装後、右部分は塗装前
 

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4 月

4月29日 八子ヶ峰にはまだ雪が…

今年初めての八子ヶ峰トレッキング、ガン治療後の体力低下の実態を検証できる機会でもある。
東急トレッキングコース東入り口からいつものように登り始めた。ここは最初から急坂が続く試練の道だ。いつものように歩を進めるが、息遣いが激しい。もう急坂が途切れ、横にトラバースするはずなのにと思うが、急坂は終わらない。やはり苦しいのだ。やっと横に行き、もうひと登りをして最初の息継ぎ休憩の場所に来た時はホッとした。その後も苦しく、カラマツ林を過ぎて尾根道に出たときはへたばっていた。ザックに座り、飴をなめてしばし休んだ。やはり体力低下ははっきりした。
その後は道も高低差が緩やかになり持ち直して、ヒュッテに着いた。天気は快晴で、すべての山が見え、白銀の峰々が美しい。東峰頂上を越え、下りの林に入ると残雪が道をふさぐ。滑らぬように気を付けて通過した。最高の天気の中をスキーリフト下り場まで行って、しばし横になった。暖かくて気持ち良い。西峰過ぎて、東急への下りに入ると、歩くペースも安定して復活の気配を感じた。これからも続けて歩けば体力回復が期待できそうだ。そのあと、温泉に入って、腹の出具合を確認してガックリだ。痩せる努力もしなければならない。

      
     写真左・頂の向こうに北アルプス           写真右・残雪の登山道
 

4月27日 山荘周りは小さな春

山荘周りの雪も溶け、水仙の芽が出てきた。水芭蕉は小さな花を咲かせた。小さな春がやってきた。
ポストを開けたら、鳥の巣ができていた。やわらかい草が敷き詰められている。これからヒナがやってくるのだろうか。山荘をオープンした春にもポストに巣ができたことがあった。開けた途端に親鳥が飛び出して来て、びっくりして尻もちをついたほどだった。それ以来の久々の巣作りだ。ヒナが育つまではそっとしておかねばならぬ。郵便が来ないことを祈る。山荘の周りは小さな春がいっぱい詰まっている。

      
     写真左・今年も咲いた水芭蕉         写真右・ポストの中に鳥の巣が…
 

4月22日 初めての西武球場
西武球場でライオンズ・日ハム戦を見た。娘の景は大の日ハムファン、日ハム側のボックスシートを手配してくれた。ひとり6千円、食事・飲み物付きの豪華観戦である。妻と娘と一緒に行った。
西武球場は初めて行った。今年からメットライフ球場と言うらしい。肝心の日ハムは6連敗中で冴えない。娘のお気に入りの中田も怪我で出ていない。大谷もいない。一昨年の早稲田のエース・有原が投げたが、味方の貧打で点入らず、ライオンズにじわじわと攻められ、点をとられ、代わった谷本はホームランを打たれる始末。終わってみれば10対1の東大並みの敗戦だった。大勢が決したところで球場散歩に出かけた。日ハムの1塁側だけだったが、応援席は敗戦確実なのに攻撃となると旗を振り、ラッパを鳴らして、みんな立ち上がって大声援なのだ。大学野球との違いはみんなひいきの選手のユニフォームを着ての応援なのだ。8回を終わって10-0なので、早目に出て立川行きのバスに乗った。9回にやっと日ハムが1点返したのはバスの中で知った。負けたが初めての西武メットライフ球場の野球見物は楽しかった。

      
    写真左・日ハムの応援むなしく…           写真右・西武球場
 

4月21日 日野の桜もなかなかのもの
わが家の近くには百段階段という急な階段道がある。多摩の断層の一部は崖になっていて、そこに階段をかけたものだ。ここを上り切ると、日野市役所へ続く一本道でセンターラインは桜並木だ。これが満開になると見事だ。散歩しながら、花見が楽しめる。市役所の前は公園でここにも大きな桜があり、見ごろになると多くの家族連れが子供を遊ばせながら花見をしている。
この一帯の今年の見ごろは4月10日過ぎだった。昔の市役所だった保健センターの近くには八重桜の木があり、びっしりと花をつける。こちらは百段階段上の桜が散りだした頃、満開となる。ちょうど今頃だ。ウォーキングで百段階段を上がり、市役所からバス通りを駅に向かい、百段階段から続く坂を下って、ローソンを右に第一小学校へ向かうと、八重桜に着く。春爛漫のこの時期、日野の散歩も楽しいものだ。

      
       写真左・やっと満開              写真右・信号の先の八重桜
 

4月17日 中学の仲間が快気祝いを…

私の通った中学校は新潟県村上市立村上中学校だ。昭和35年(1960年)に卒業している。その頃の仲間で毎年会っているが、今年は私のガン治療からの生還を祝っての快気祝いを銀座4丁目の店でやってくれた。みんなの友を心配する気持ちがとてもうれしい。昭和35年というと、ローマオリンピックの年だった。次が東京オリンピックなので、テレビでオリンピックを見たものだ。「あかしあの雨がやむとき」がはやっていた。西田佐知子さんもリバイバルで一度くらい、紅白歌合戦に出てほしい。浩宮様が生まれた年でもあり、近日天皇になられる話が聞こえてくると、感慨深い。みんなその後、村上高校へ進学し、それぞれの道に散っていって、今、再び会う機会ができた。人生苦労しながら今日まで生きてきた。もっと長生きしたいものだ。朝ドラ「ひよっこ」で集団就職の汽車の画面が出てきた。私たちの仲間でも中学を出て、集団就職列車で東京に行った同級生も結構いた。見送りに行った村上駅の夕暮れの光景を覚えている。そこで小学校以来会っていなかった塩野町小学校の仲間も同じ列車に乗っていった。そしてその仲間はもういない。鬼籍に入っている。ドラマで、駅を列車が離れる画面が出てきたら、むしょうに涙が出てきた。

      
     写真左・快気祝いのケーキ         写真右・中学の仲間が祝ってくれた
 

4月15日 東大の応援”まだ一点!!”

春の六大学野球が始まった。勝負より、各校の応援歌や応援メドレーを聞きたくなる。早稲田は出ていないが、今日は東大の応援席に入って宮台君の応援をしよう。入ったときはもう4点とられていて、芳しくない。そのあとも慶應にコンスタントに点をとられる。それでも応援席は「まだ1点!」と叫んで、意気高い。「ケイオー、酒好き、女好き、好きだらけー!」と野次る。まだ1点の積み重ねで10点とられたところで、応援席を出て外野に廻った。ここならビールを吞みながら観戦できる。応援メロディがよく聞こえ、ウキウキしてくる。特に次の立教・法政戦の立教の応援メロディは軽やか、リズミカルで好きだ。春の神宮の外野で応援メロディの中で過ごす時間はとても楽しい。

      
       写真左・東大応援席              写真右・神宮に歌声響く
 

4月14日 千鳥ヶ淵の桜
六本木の新国立美術館で知人の出展した絵を妻と一緒に見た帰りに千鳥ヶ淵へ行った。もう散り始めの情報だったが噂の桜見物だ。お堀に垂れ下がる桜は見事だ。水面は桜吹雪が積もっていて、その中をボートが行く。とても美しい。少し、満開を過ぎているものの、散りゆく桜に身をまかせながら花見も乙なものだ。

      
      写真左・千鳥ヶ淵の桜と             写真右・落花盛ん
 

4月11日 雪の北軽井沢  
昨日の快晴がうって変わり、朝から雪である。昨日みた横に伸びる虹はこの前兆だったのか?万座から三原までの道はずっと雪が降りっぱなし。下りだけにスリップしないようゆっくり行く。幸い、後ろから来る車もいない。三原から北軽井沢へは今度は上りになる。途中、滑って追突した事故処理の現場を通り過ぎた。4月に入ったのスタッドレスタイヤを外したのだろう。この時期が危ないのだ、私も4月20日過ぎに滑って車を壊したことがある。
鎌原村の観音堂に行った。隣に博物館があって天明の浅間山大噴火の歴史を紹介している。天明三年(1783年)、浅間山が噴火し、溶岩流がこの村を襲い、観音堂に逃れた数十名が助かっただけで、村は全滅した。日本のポンペイなのだ。観音堂には15段の石段があるが、災害の前には50段あったが、残りは埋まってしまった。1979年の発掘調査ではこの石段の下に女性の二人の死体が発見された。娘がお婆さんを背負って観音堂へ逃げる途中で溶岩流にまきこまれたらしい。調査では溶岩流はドロドロではなく、大量の灰だったようだ。この日は北軽井沢も雪で、鬼押出しも雪の中、軽井沢の街に下りてきても雪だった。

      
       写真左・鎌原観音堂               写真右・観音堂境内
 

4月10日 万座の雪上散歩  

昨日、奥志賀から下へ下りて、菅平経由で万座温泉・ホテル聚楽へ来た。ここで二泊して湯治である。
硫黄泉のなかなかいい温泉だ。とくに露天風呂がいい。今日は湯治でゆっくりする日。そうは言っても、天気がよいので雪上散歩に出かけた。ホテルを出て、湯畑へ向かう。途中から雪に覆われている公園へ雪道を上がっていく。妻はスノーシューを持ってきたが、使う必要もないほど、雪が硬く締まっている。
小さい頃、これを凍み渡りと言って、早春の遠足だった。公園上の東屋で万座全体を一望し、湯畑へ下りて行った。草津と比べると素朴な湯畑である。ここでゆで卵でも売ればいいのに。自動車道路へ歩いて、牛池へ行った、まだ雪に埋もれて、池は見えなかった。近くのプリンスホテルで買い物をして、時間があるので、再び公園の東屋に上がり、ホテルで作ってもらったおにぎりを食べた。帰りに晴れた空を見上げると、虹が横一線に見える。不思議な現象だったがホテルの人に聞くと、大気の層が二つに分かれるとその間に虹が発生することがあるのだそうだ。ホテルの露天風呂でゆっくりし、夜はバイキングで一杯やり、楽しい湯治であった。ホテルの部屋にはマッサージ機があり、コストパフォーマンスの良い宿だった。

      
   写真左・聚楽の露天風呂(ホテルHPから)       写真右・雪上散歩
 

4月8日 奥志賀での春スキー

今冬はガン治療で極楽スキーに行けなかった。今年で20回目の記念スキーだったのに。春スキーにはぜひ参加したいと思っていた。昨日、妻と一緒に奥志賀に来て、ブルーエに泊った。
凜ちゃんの長野日大中学の合格祝いを持って。奥志賀から長野まで通うつもりだと言う。「ガンバレ、凜ちゃん!!」そんなこともあり、前日は吞み過ぎた。とても滑れる状況ではないが極楽メンバーと滑ったが、何せ足元も覚束ない。ガン治療で体力が弱ったところに、二日酔いと来てはどうにもならん。それでも焼額まで行って、ロープウェイに帰ってきて、サンクリストフでアイスクリームを食べて帰ってきた。夜まで休憩して、前のオードヴィーへ出かけてみんなと食事して、コモトへ移動してペンションを閉めるという親父さん夫婦と別れをして極楽春スキーは終わった。それにしても非常に疲れた一日だった。

      
     写真左・凜ちゃんおめでとう         写真右・コモトさんお世話になりました
 

4月7日 神代桜はまだ五分咲きか
神代桜は408-0000にある。以前は武川村だった。樹齢2千年とも言われる立派な桜だ。いつもは4月のはじめが見ごろだが、今年はまだ五分咲きだった。雨の中、相当な見物客がいる。バスツァーも多い。桜がまだのときの用意にか寺の前は菜の花畑でここは真っ黄色の満開だ。神代桜から株分けした樹々も幾本かあり、本体は木やパイプで支えられて何とか持っているが、そう長くは持たないと思っての準備だろう。
雷で本体の中央部が無くなり、左右に分かれた幹が残って花を咲かせている。桜の生命力の強さを感じさせる木である。

      
    写真左・樹齢2千年と言われるが         写真右・桜より水仙が満開
 

4月2日 善福寺川の桜はほぼ満開
阿佐ヶ谷に住んでいる極楽スキー仲間が近くに引っ越し、隣が善福寺川で、そこで花見をやるとの誘いが来た。先週は井之頭公園がまだ咲いてなかったので、天気もよし、喜んで出かけて行った。
ほぼ満開の樹の下に場所をとっておいてくれたので、そこで早速、宴が始まった。井之頭と比べて人出も多くなく、静かな花見ができる。良い所だ。ほぼ満開の樹の下だったが、川の下流に目をやるとその辺の木はまだつぼみのようだ。場所によってかなりの差がある。今年は開花が早かったのに、その後の天候不順で満開になるのに手間取っている。1時間くらい花見をして、友人のマンションの集会室に移って、さらに本格的な宴となった。ここも立派なスペースで天候を気にすることもなく、ゆっくりと呑み、食べられる。良い所に引っ越してくれて、友に感謝する。

      
     写真左・花見は宴会に限る            写真右・善福寺川の桜
 

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3 月

3月28日 越路吹雪メモリアル

越路吹雪が亡くなって36年、若手の宝塚OGを中心とするメンバーでの追悼演奏会が日生劇場であった。この劇場は越路が生きていた頃のロングリサイタルが毎年開かれていた所。私も数回行ったことがある。越路吹雪を知ったのは大学1年のときのスキー合宿のゲレンデ食堂、同期の仲間と昼飯を食べていたら、「ジュークボックスで越路吹雪を聞かないか?」と言う。店の片隅にあるジュークボックスで「サントワマミー」を聞いた。ジンとしっとりくるいい曲、何枚かのコインを入れて何度も聞いた。これが越路との出会い。
いつものリサイタルはシャンソンを中心にジャズ、日本の歌などバラエティ豊かだった。亡くなったときはほんとうに悲しかった。今日の舞台は宝塚の後輩たちが代わる代わる、越路のヒットナンバーを歌った。
みなさん、歌唱力もあり、舞台こなしもよく、先輩を慕う乙女たちの思いが伝わるコンサートだった。ゲストの前田美波里の”ミロール”もよかった。特別ゲストのペギー葉山の老いてなお元気な歌声と姿も麗しかった。

            
     写真左・越路吹雪メモリアル           写真右・華麗なフィナーレ
 

3月25日 紋別空港は一日一便しかない
早朝5時22分に日の出を見にホテルの展望デッキに行ったが、今日は曇りで出てこない。日の出岬なのに残念なことだ。部屋に帰って、朝風呂へ。冷えた体に温かい湯は心地よい。朝食のバイキングに山盛りのイクラもある。カレーを食べたあとだったが、茶碗にご飯をよそって、イクラをかけてハラコめしにした。
うまい!今日の帰りは紋別空港13:40発のフライト。ゆっくりでいい。ホテルのバスで11時に出発。
流氷岬に寄って、12時過ぎに空港着。喫茶カウンタ―でサッポロクラシック生ビールとたらこスパゲッティで北海道へお別れ乾杯。小さな飛行場で、アメリカのネブラスカ州スコッツブラフ空港を思い出す。スコッツブラフは日に数便飛んでいたが、ここ紋別は羽田からの一日一便だけだ。以前は札幌の丘珠からの便もあったらしいが、今はない。たった一便のために、空港整備員、カウンター、売店、喫茶など数十名がスタンバイしている。我々が飛んでしまえば、明日まで何もない。大赤字だろう。だけどこの便が無くなると、地元の人はもっと困るので、補助金を出してでも乗ってくれる人を維持しようと努めている。涙苦しい努力なのだ。オホーツク紋別空港が続くことを祈る。

      
       写真左・紋別空港              写真右・一日一便へ乗り込む
 

3月24日 50年ぶりの雄武駅

朝、ホテルから郵便局へ歩いてみた。ついでに村の中心街を歩いた。部屋から見えた雪の斜面は村の小さなスキー場だった。Tバーリフトがあった。そこから少し行くと、村役場、入ってみると珠算コンクールのカップや賞状がずらり、ここの中学校はオホーツクでは一番のようだ。道大会になるとベスト5、全国大会となると20位くらいのレベルになる。まだまだ努力しなければいけない。村の中心街は狭い。
ひと回りして、ホテルに帰って、雄武への旅支度。北紋バスが待っていた。雄武は50年前の大学卒業旅行のとき通った町。そのときは網走からここまで鉄道があった。ここでバスに乗り換え、北見枝幸へ、ここから再び鉄道に乗って稚内へ行ったのだ。興浜線という国鉄の線路があって、雄武と北見枝幸の間が未開通区間だったのだ。結局つながることなく、1985年に廃線となり、駅も消えた。今その場所には道の駅がある。昔の鉄道があった頃の写真が何枚も貼ってあった。50年前の旅行なのに、ここを通ったことははっきりと覚えている。よほど印象深い駅だったのだろう。道の駅周辺で蒲鉾など買って、再びバスに乗って日の出岬のホテルに着いた。部屋は広く、オホーツク海を前面にして、温泉も広く、居心地のよいホテルだ。

      
    写真左・旧雄武駅敷地は道の駅に      写真右・ホテルの窓からオホーツク海を望む
 

3月23日 あなたの知らない北海道の旅
クラブツーリズムのパンフレットに「あなたの知らない北海道の旅」というのがあった。オホーツク沿岸の西興部村と雄武町へ行く旅だ。20,000円の助成金がつき、割安なパッケージ旅行だ。羽田からオホーツク紋別空港へ飛び、そこから西興部村へ送迎バスで行き、特にあちこち見て廻ることのないフリープランなのだ。次の日は隣の雄武町へ移動する。いずれも公営的なホテルに泊まる。雄武は以前通ったことがあるので名前は知っていたが、興部は知らない。そんな知識だけで紋別空港に下り立ち、迎えの村のバスに乗った。村の職員らしい人がホテルまでの予定を知らせたが、動き始めてからは無言。
「あなたの知らない北海道の旅」に来たのだから、せめて村の生い立ちや産業、見所などの説明があってもよいのに、何もわからないではないか。案内された道の駅で「この村は林業と牧畜主体」とわかった。
村のホテルに着いて、隣に木工美術館があるというので行ってみた。木工の自動車やクリスマス村など、みごとな木工工芸品が並んでいて、すばらしい所だ。案内書には全長5キロのフットパス(ウォーキングコース)もあるという。こんな良い所なんだからもっと活用して観光客を呼べばよい。助成金まで払って我々を呼んだのだから、積極的に売り込むことも必要なのではないか?

      
  写真左・興部村のからくり人形演奏会        写真右・村のストリート
 

3月19日 快晴の予報だったのに…上高地

岳文OB会の冬の行事「スノーシューハイキング」は今年、私の入院の都合で、2月に行えず、3月春分の日連休に移した。早春のことでもあり、スノーシューでもないだろうと、「早春の上高地へハイキング」にしたが、日にちを変えたせいか、参加者がもともと少なかったのに直前になってキャンセルがあり、15期の大曾根君だけになった。
天気予報は絶好の快晴、それなら行こうと7時前には山荘を出て沢渡へ車を走らせた。塩尻を過ぎても、常念岳が見えない。霞がかかった空模様で、山は雲の中だ。沢渡に着いた頃にはパラパラ、雪が舞う始末。快晴予報なのに、一体どうしたことか?山はまだ冬なのだ。
バスで中の湯に行った。バス停は釜トンネル前なので絶好の位置だ。ふた停留所で運賃980円は高いな。田舎なので仕方ないか。釜トンネルに入ってヘッドランプを点けようとしたが、電池切れ。チェックを怠った。大曾根君は持ってないので、暗中模索で歩くことに。ただ所どころ、案内板の灯りがあるので、それを目標に進めばよい。やっと暗闇の釜トンネルを抜けたら、そこに新しい上高地トンネルができていた。
去年の冬来たときには工事中のトンネルだった。約600mの長さで、釜トンネルと違ってほぼ平坦だ。
大正池に来ても穂高の展望なし。今年は補修工事もやってないようで、河童橋への道路は除雪されていない。我々は田代池へのバイパスへ入り、河童橋を目指した。雲のかかった上空にヘリコプターの音が響く、それも複数のようだ。「まだ山小屋への荷揚げの時期でもないのに?」と大曾根君は訝る。
翌日の新聞でわかったのは、この日、西穂高で2件の滑落があり、1件は長野県側へ、1件は岐阜県側へ落ちたとのこと。視界不良でこの日は救助できなかったが、翌日、信州側は無事救出、飛騨側は自力で下山していたようだった。

      
      写真左・上高地トンネル           写真右・河童橋は人でいっぱい
 

3月17日 百段階段で体力作り
先の白馬スキーでの体力の衰えを実感し、近くにある百段階段でトレーニングすることにした。
この階段は114段あり、傾斜も急できつい。ここを毎回3,4回上り下りしようと思った。昨日は3回、上がったら息が切れた。今日は4回に挑戦した。真ん中あたりまでは軽いのだが、そこから上となると、毎回「まだか、まだか」となる。足も重くなる。最後のブロックの14段は特にきつい。上り詰めると、ゼーゼーだ。
下るのは楽だ。下へ着いてまた上る。さすがに4回目は最初から足が重い。それでも歯を食いしばりながら、足を持ち上げて歩を進める。やっとの思いでたどり着いた坂上で振り返ると、わが家近くのセイコーエプソンのビルが大きく見えた。

            
        写真左・百段階段             写真右・エプソンは春霞の中
 

3月15日 ホルモン療法も終った

前立腺ガンはホルモン療法を併用することが多いという。手術や放射線での治療と同時に、男性ホルモンを抑えるために女性ホルモンを注入する。ガンレベルによって数ヶ月か数年かかるが、私の場合は6か月間だった。今日はその6か月目、PSAレベルも限りなくゼロに近づき、副作用だった肝機能障害の指標も正常に戻ったので、今日でホルモン療法は終わりとなった。模様見の診療は3ヶ月先。
重粒子線治療の模様見も3ヶ月先なので、ひと山越えた感じだ。ただホルモン療法を終えると、PSAレベルが上がる人もいるらしく、私の小学校時代の友人も重粒子線治療をやってがん細胞がなくなったはずなのに、数年経ったら、PSAレベルが上がり、再び治療しなければならなくなったと言っていた。
油断大敵である。
 

3月5日 感動的だった伊藤正一さん偲ぶ会
白馬でのスキーの帰り、松本に寄った。旧制松本高校で伊藤正一さんの偲ぶ会があった。
伊藤さんは三俣蓮華小屋の主だったし、雲の平小屋のオーナーでもあり、この地域の山の素晴らしさを世に教えた人でもある。その人生は「黒部の山賊」に詳しい。バブルの頃、営林署が山小屋の地代を「売上比例方式」に変えたことを「何事か!」と国を訴えたことでも知られている。私はその裁判中、小屋に泊まり、支援者になった縁で偲ぶ会の案内をもらった。この訴訟は初めはほとんどの山小屋が「そうだそうだ」と一丸となっていたのに、営林署の脅しに、一抜け二抜けとなり、最後は蝶が岳小屋だけとなったという裁判だった。最高裁で敗訴となり、伊藤さんは潔く負けを認め、係争中、中断していた小屋の修繕や改築にすぐ取り掛かった。国を訴えたら、逆に「撤去命令」を出され、裁判の期間は何もできなかったのだ。
会場には伊藤さんの元気な笑顔の写真、思い出の写真やカメラ機材が飾られ、友人のチェロ奏者の追悼演奏、ふたりの息子さんの「父の遺志を継いで、山小屋と黒部源流の自然を守っていく」という決意表明があり、気骨ある伊藤正一さんを偲ぶにふさわしい会であった。

      
      写真左・思い出の写真展          写真右・遺影をバックに長男挨拶
 

3月3,4日 こんなに遅い初すべり、稲門会スキー

ガンの治療で行けなかったスキーに今シーズン初めて行った。日野稲門会の白馬スキーである。
幹事の高橋さん、永山さんとロッジ風白馬(旧太平洋セメント保養所)で会い、早速、咲花ゲレンデに行き蕎麦を食べて滑りに行った。最初は恐る恐る滑り出したが、曲げているうちに調子が出てきた。これは問題ないと思ったのもつかの間、ほどよい急斜面を長く滑っているうちに、太ももの上がビンビンしてきた。
山を長時間歩くとくるアレである。この日は時間も短かったので早く切り上げたので、病み上がりだからこんなものかと終わった。次の日の午前中も大過なく終わり、午後パノラマの大斜面を滑っているうちにビンビンと来始めた。長く続く斜面では、ビンビンと合まって、足がそろわなくなる。そのビンビンの痛みというかつらさがだんだんひどくなって、ついにギブアップ。午後早めに切り上げて、宿に帰って寝る始末となった。気がつかなかったが、ガン治療の副作用は思いのほかあるようだ。ホルモン療法では筋肉の衰えが来て、腕立て伏せができなくなるという話も聞いたが、それと同様な太もものビンビンなのだろう。
汗をかきやすくなったのも副作用だ。そういえば、白馬に来る前に蓼科の山荘で、薪の運び出しとカビ取りをしたときに、疲れていつもの半分くらいの量で作業をやめたのも、副作用のようだ。これは大変だ。
しばらく体力の復活に真剣に取り組まなければいけない。しかし、スキーは楽しい。そしてその後の呑み会もまた楽しい。

      
      写真左・第一ケルンで             写真右・紺碧の空合唱
 

3月2日 久しぶりの山荘に雪が降る
1月から2月にかけて入院していたので、山荘にはご無沙汰。この間に使われた人の水入れ、雪かき、水抜きは管理センターに頼んでいたので、その詳細もわからず若干不安だった。そんなこともあり、白馬での稲門会スキーの前に山荘に来た。着いた昨日は庭の土も出ていて、早春を思わせた。去年より雪は多いものの、例年と比べると少なかった。ところが今朝になってみると、出ていた土も真っ白に雪で覆われていた。夕べから降ったらしい。まだ降っている。新聞を買いに行って帰ってきても降っている。
夕方になって止んだものの、30センチ近く積もったのではないか?真冬へ逆戻りしたようだった。薪ストーブをガンガン燃やし、こたつも出して、久しぶりの雪の中の山荘生活を楽しんだ。こたつに入って、外の雪景色を見ていると妙に落ち着くのだ。冬の山荘生活は何かと面倒だが、落ち着くとこたえられない幸せを感じる。

      
        写真左・雪の庭                 写真右・雪の山荘
 

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2 月

2月24日 どうしてこんなことに?

今日は中々連の幹部会の集まり。久しぶりでの呑み会だ。中野のニコマル食堂はお囃子リーダー・吉田さんの懇意の店、最近の集まりによく使われる。食べ物もおいしく酒が進む。1月の入院以来、呑む機会がなく、先日の温泉が久しぶりだったが、家族旅行ということもあり、そんなに飲んではいない。今日も抑え気味に飲んでいたつもりだったのだが、やはり酒量は増えていたのだろう。気がついたときは真夜中の秋葉原駅だ。私の家は日野なので真逆の駅だ。店を出た記憶も、金を払った記憶も、駅へ行った記憶もない。呑み会の後半から記憶がぷっつりと消えている。もう終電もなくなって、仕方なくタクシーで日野の家へ帰還した。翌朝の気分はそんなに悪くない、体のけだるさはあるもののの二日酔いという感じでもない。
どうしたことだろう。加齢と病み上がりの体にはそこそこの酒でも危険ということか。ガックリである。
(その後、仲間に聞いたところ、財布を出すのに手間取ったが中野駅までタクシーで行き、電車に乗って帰ったとのこと。みんなに迷惑はかけていないようでよかった)
 

2月16日 娘夫婦と温泉へ
韓国に嫁いだ長女・穂梓夫婦と房総鴨川へ温泉旅行に行った。夫のジェ・フン君は海が見える温泉希望とのことで鴨川にした。ここは50年近く前に会社(フコク生命)の旅行で2度ほど行ったことがあり、鴨川グランドホテルの風呂は海のそばにあった記憶があるのでここにした。
穂梓はアワビ焼き、伊勢エビ、金目鯛を部屋食で食べたいという。グランドホテルはこの三点メニューコースがあり、部屋食も可能なので希望通りとなる。羽田でピックアップし、海ほたる経由で千葉県に渡った。東京ドイツ村に行った。春まだ浅しで、菜の花畑くらいしか花もない。そのあと笠森観音という所へ行ったのだが、ここが思いがけず良い所だった。お目当ては黒い招き猫を売っているということだった。
ジェ・フン君は以前からお土産に買っていきたいと招き猫を探していたこともあって、内陸の大多喜と少し方角違いなのだが行くことにした。山の上に「四方懸造(しほうかけづくり)」という様式の本堂がそびえ立っていて迫力がある。その下の茶店にはいろいろな招き猫が売られていた。観音様に子授けを祈願して、鴨川に向かったがナビの示す道は山の中ばかり。「ほんとうに海に出るのか?」と疑問も後ろの席から聞こえ、夕陽が輝く頃、山の向こうに海岸が見えた。ホテルは外見は50年前と同じで古くなっていたが、内部は改装され、海の回廊という温泉施設もできていて、ここからは海がよく見えた。夕食も豪華、私も久々の生ビール、娘夫婦は獺祭四合瓶を注文して大満足であった。退院して初めての旅行、温泉はとても楽しかった。

      
        写真左・笠森観音                写真右・一族乾杯
 

2月11日 岳文先輩の葬式&思い出の地へ
岳文会2期の加藤義明さんは私の5年先輩だが、歳は3つ上の76歳。長身でスマートなジェントルマン、現役の頃は接点がなかったが、50周年記念行事のときはその準備で大変、お世話になった。その加藤さんがすい臓がんで亡くなられた。ガンがわかって、一か月足らずで亡くなったという。それまでは普通に元気に暮らしていたというから、すい臓がんの怖さがわかる。身体の奥深い所にあるすい臓はガンに気づくのも遅く、重粒子線でもなかなか難しいと言っていた。目黒の五百羅漢寺という所で葬儀があった。地図を見ると目黒と不動前の中間だ。高校のとき住んでいた場所にも近い。出棺を見送ったあと、ちょっと寄ってみようか。

      
      写真左・岳文会の花も             写真右・お別れの挨拶
 

高校時代、不動前に住んでいて、隣の武蔵小山の小山台高校へ通っていた。葬儀場の五百羅漢寺とは反対側の五反田寄りだ。高架になって昔の面影がなくなった不動前の駅を越して、攻玉社高校のそばを通って、昔住んでいた場所に向かった。あの頃、攻玉社は不良のたまり場みたいな学校だった。
通学時に会うのが怖くて、遠回りをしたものだった。ところが今では都内有数の進学校、東大に毎年、数名合格する。変われば変わるものだ。私が住んでいたと思しき場所がわからない。あまりにも変わってしまい、見覚えのある建物は何もない。周辺を一周して、駅に戻り、武蔵小山へ行ってみることにした。
武蔵小山の駅は地下になっていた。母校は目の前、今でも六角塔が校舎の上にある。門が空いていたので中に入ると、玄関前に数年前のセンバツ高校野球出場記念碑があった。この年、21世紀枠で出場できたのだ。文武両道が評価されたということだ。ちょうど昼どきだったので、自慢亭を探して行った。
昔と同じあたりに看板が出ていた。ここのタンメンをよく食べにきたものだった。中はすっかり変わってしまったが、タンメンは昔と同じ味のようだった。50年以上前ともなると、その当時の味も忘れてしまうものらしい。

      
      写真左・5懐かしき湯麵            写真右・甲子園出場記念碑
 

2月9日 晴れて退院!
最後の日である。今日も位置決めは一発だったが、隣のF室の照射が遅れていて、しばらく寝たままで待たされた。照射台のある部屋はE室、F室のふたつあり、私は全回E室だった。前立腺ガンは主にE室が使われるらしい。「終了しました」の声で、すべての照射が終わった。
記念写真を、と思い、看護婦さんに頼んだら、「私が撮りましょう」と技師の方が親切に立ち位置などを指示してくれ、照射台近くで撮ってくれた。帰り支度をして、旅行カバンに衣類などを詰め込んで、1階の会計へ持っていき、宅急便をお願いした。会計は358,810円だった。重粒子線治療の314万円は既に決済しているので、この金額は入院関連の費用だ。このうち個室代が23万円強占めているので、健康保険対象は12万円位となる。〆て約350万円のガン治療だった。22日間の入院生活はこれで終了だ。
放医研の門を出た時、スーッと肩の力が抜け、安堵の感情が湧いてきた。刑務所を出た受刑者もこんな感情を味わうのではないだろうか?見舞いに来られた平林さんに教えてもらったイモ屋さんに寄って、大学イモをお土産に買って家路についた。入院中は青空ばかりだったが、今日は珍しく冷たい雨降りであった。

            
     写真左・最後の照射を終えて         写真右・稲毛名物・大学いも
 

2月8日 明日でお別れ
12回の照射の11回目が今日だ。明日で終了する。治療結果と今後について、一日早めて今日の午後、先生がやってくれるという。明日は照射と支払いだけということになる。照射はこれまででいちばんスムーズだった。照射台に仰向けになり固定枠をかぶせて、位置調整に今までは何度も医師と看護婦がやってくれた。5回くらい別室から小走りに来てやっていた。それが一段落すると、照射と反対側の天井からカメラが下りてきて、位置を定め、決まると、カメラが上がって照射開始というのが段取りだった。
ところが今日は、寝てすぐに「位置が決まりました」のアナウンス、カメラも下りずに照射が始まった。こんなこともあるんだ。昼を過ぎていたので、早く弁当食べたくて、はしょったんじゃないよな?終わって病棟へ帰ると、みんな昼食は終わっていて、ひとりでテレビを見ながら食べた。
そして午後3時近くに粕谷医師から治療結果と今後の療養について説明があった。「お酒は控えましょう」と書いてあったので、「退院したらすぐに、呑み会があるんですけれど…?」と聞いたら、「ほどほどということで」のお答え。了解!「温泉も控えましょう」とあったが、これも「ほどほど」と理解して聞きはしなかった。次の来院は5月19日、3か月後だ。面談を終え、最後の構内散歩に出かけた。夕陽を浴びている病院や研究棟の建物ともお別れだ。戦前は陸軍の敷地だっただけに広い場所にいくつものビルが建って、大学構内のような雰囲気がある。最後の散歩となると、少し感傷的になる。実験動物慰霊碑に深々と頭を下げて、感謝して散歩は終わった。

      
    写真左・明日で病室ともお別れ        写真右・病室の外はスカイブルー
 

2月7日 あと三日

今日も快晴、湿度低く、気温も低い。あと三回の照射で治療は終わる。10回目の今日はお昼に終わったので、昼食は遅くなった。重粒子線治療の副作用が少し出てきた。おしっこの出が弱くなり、スムーズに出ないこともしばしば。特に夜中にトイレに行くと、すっと出ない。中途半端な形で布団に戻ると、また行きたくなる。巡回医に話すと、2,3週間後には元にもどるでしょうとのこと。安心した。
照射した左右の腰下の部分に少し赤味が出てきたようだ。私には見えないのだが、看護婦さんが教えてくれた。これに痒みが加わると本格的な副作用らしいが、まだその気配はない。これはかなり時間がかかるが、徐々に消えていくとのこと。もっとも大きい副作用は股に刺激を与える自転車には一生乗れないとのこと。食事のときのテーブル仲間は、「通勤に使っているので困った」と頭を抱えていた。数年前にすべての自転車を処分した私には関係ない。

      
       写真左・病院の朝食              写真右・病室からの夕陽
 

2月3日 いちご大福買ってわが家へ帰宅
籠の鳥のような生活をおくっていると、金曜の今日が待たれて仕方がない。月曜まで家に帰れるのだ。
こんなにわが家が愛おしく思うとは知らなかった。妻の嫌味も懐かしいほどだ。午前ギリギリに治療が終わると、洗濯ものをそそくさとまとめ、バッグに詰め込んで放医研の門を出た。
稲毛の駅内の和菓子屋で、いちご大福を買って、駅そばを食べて、電車に乗った。東京駅でさらにいちご大福を買い足した。妻から「またこんなに買って来て」と文句を言われるのがわかっているのに、買わないでいられない。家への道が長く感じられる中央線だ。来週木曜で治療は終わる。あと三日間、我慢すれば自由な世界が待っていると思うと頬も自然とゆるんでくる。

      
       写真左・放医研風景               写真右・放医研病院
 

2月2日 実験動物慰霊碑
8回目の照射が終わり、部屋に戻ってきて、構内散歩に出かけた。何回か歩いているうちにこの構内で何が行われているのか、想像できるようになった。
実験動物慰霊碑というのが一角にある。碑文を読むと、実験で使った動物を、「これも人間の病気克服のために犠牲になったのだ。悪く思わないでくれ」との趣旨が刻まれている。近くの建物のフロア案内には「マウス作業室」やら「ラット作業室」、「動物照射室」などの表示があり、動物を使って実験しているのがわかる。放射能が病気の快復にどう影響し、役に立つのかをまずは動物で実験し、人体への適用を研究しているのだろう。
「アルツハイマーへ放射線応用」などの発表資料が展示されている建物もある。ここは放射線を医学に活用することを総合的に研究している国の最大機関なのだ。いくつもの建物はその研究目的別に構成されているようだ。その集大成のひとつが、私がかかっている重粒子線ガン治療なのである。この分野では日本が世界の最先端を行っているようだ。
今日の待合室にはオーストラリアから治療に来たおばさんが通訳を介して説明を受けていた。私もその研究に寄与しているひとつのモルモットでもある。

      
      写真左・実験動物慰霊碑            写真右・動物実験室の表示
 

2月1日 階段は 206段
今日から重粒子線治療は後半戦に入った。昨日のような便つまりもなく、9時過ぎには終わった。
病室から治療室までは長い道のりだ。病棟5階の部屋から地下1階まで下りる。この階段が141段。
地下から病院の治療フロアの廊下をまっすぐ行き、右折すると両壁に写真やら絵が飾ってある廊下を進む。この突き当りまで行くと間違いで(これは前に書いたが重粒子棟という昔の治療棟だったよう)、ちょっと手前の左折する廊下に行く。再び突き当たって右折すると、新治療棟行きのエレベーターがある。
これに乗り、2階に出ると、まっすぐ行く道と右折してまた左折する道がある。まっすぐはまちがいでPET棟とある。治療室は右折・左折の道を行く。長い中2階の渡り廊下を進むと新治療棟に入る。右手にエレベータがあり、これに乗って地下2階へ行く。エレベータに乗らず階段を下りると、やや複雑だが65段下りても治療室に着く。合計206段の階段を往復すると、それなりの運動になる。
私はできるだけ、階段を使うことにしている。退院したら2週間後にスキー、そのあとに釜トンネルを歩いて上高地へ行く予定があるので、体力を少しでも維持強化しておく必要があるのだ。病院では階段歩きと構内散歩が唯一の運動と言ってもよい。

      
     写真左・病室からの階段             写真右・治療棟への廊下
 

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1 月

1月31日 治療やり直しの後は成田山へ

今日は6回目の照射、折り返しの半分だ。治療台に横になり、位置合わせをしていたら、「便が詰まっているので、浣腸で出したあとでやり直し」と言われ、一旦病室に戻ったら、催してきて通じた。しかし看護婦は「指示されているから」と浣腸をした。水くらいしか出なかったと思うが、これでやり直しはうまくいった。
前立腺ガン治療ではお通じが主要なテーマなのだ。下剤の利き方がお昼頃なので、その前に順番が来ると、今日のようなことがこれからもおきそうだ。困ったな。
 

それでも昼前に終わったので、午後は成田山へ行こうと思い、外出許可をもらおうとしたら、インフルエンザ警報が出ているので、人混みに行かれては困ると言う。「インターネットが使えず、メールのチェックもしたい」と言ったら、「それなら仕事で外出にして」とOKが出た。
いそいそと駅へ向かい、総武線で千葉へ、乗り換えて成田に午後1時半頃に着いた。駅前に参道入り口の大きな石灯籠があり、それに従って商店街を歩いて行くと、だんだん門前町の雰囲気になった。うなぎ屋が多いのに驚いた。”成田屋”市川團十郎の大好物だったことから、ウナギがこの門前町の名物になったとのこと。大きな寺で、交通安全と病気回復のお守りを買った。
帰り道に観光案内所を見つけ、そこにWIFI可能と出ていた。通じた。メールが200件余り入っていて、大半の削除作業をやり、返信をしようとしたが行かない。受信は可能だが、返信は電波が弱いのか、ダメなようだ。それでもかなりの作業ができたのでよかった。暮れなずむ夕焼けの中を病院に帰ってきた。

      
      写真左・成田山新勝寺              写真右・成田山参道
 

1月28日 だるま市
娘はインフルエンザで自分の部屋で寝ている。ドア越しに会話をしただけで、昨日から一度も会ってない。娘も気をつかって、下におりてこない。寂しいけれど仕方ない。
今日は高幡不動のだるま市だ。妻とお不動様まで歩いて行った。晴れてあまり寒くない今日はウォーキングに最適だ。万全を期して、マスクをつけた。お不動様は三が日に負けず劣らずの混雑だ。今年初めてのお詣りに列の中に入って、少しずつ前進して最前列に来て、お賽銭を投げ入れ、インフルエンザにかからぬように、娘も早く治るように、前立腺ガン治療も無事終わり、完治するように、そして山登り、スキーに復帰できるように、おまけに6月の中欧・スイス旅行まではおばあちゃんが無事生きてるようにとかなり多めのお願いをした。そして緑の小さなだるまを買った。緑は健康、病気回復の色だそうな。退院したらひとつ目を入れ、完治確認したらもう一方に目を入れようと思う。

      
       写真左・高幡不動                写真右・だるまを買う
 

1月27日 インフルエンザの家に帰る
今朝はまた浣腸だ。思い通りには出ないものだ。なぜ大便にこだわるのか看護婦さんに聞いたら。大腸の先端は前立腺の近くにあるため、そこに溜っていると、これをがん細胞と誤認して照射してしまう。そうすると正常な腸を痛めることになるからだという。それは大変だ。しっかり出さねばならぬ。
今日は12番目だったので、昼前に終わり、帰宅の準備をした。昨日、妻から娘の景がインフルエンザにかかってしまったから帰って来ない方がよいのでは?とメールが来たが、何せインターネットがここでは使えなくなってしまったので、何百件メールが溜っているやら、檻の中の生活に疲れ、薄口食事ばかりで濃い目のものも食べたいしで、インフル伝染に万全の備えで行くからと言って、帰ることにした。
何か買っていこうか?と聞いたら、プリンとポカリスエットだという。すぐにポカリは家で買うからいいというので、プリンを買っていくことにした。途中の中華屋で半チャーハン・ラーメンを食べ、濃い口食事にありついた。イオンで文明堂の銀座プリンと千葉名産・落花生を買って、稲毛駅に行ったらルミネのような一画があり、そこでもっとおいしそうなモロゾフのプリンもあったので、それも買って、ひと荷物増えたが、東京駅経由で帰ってきた。前回から4泊しかしていないのだが、どこか遠くから帰ってきたような気がする。蓼科から一週間ぶりに帰ってきてもそんな気持ちにならないのに・・・。

      
      写真左・ある日の朝食               写真右・デイルーム
 

1月26日 記念の治療写真
4回目の照射の日だ。治療現場の写真がOKと聞いたので、カメラを持っていった。看護師さんに記念にと言ったら、快く撮ってくれた。横になって固定され、照射前のポーズである。型決めは意外とあっさり終わった。身体も慣れてきたのかな?
食事のとき、同じテーブルの人3人が今日退院して、昼食はひとりになった。短い期間だが、話題もあって、楽しい食事だったが、私以外のみんな退院してしまうと寂しいものである。今日も西高東低の冬型で雲一つない快晴だ。寒さが少し和らぎ、午後の散歩は暖かかった。

      
       写真左・治療直前                写真右・治療台で笑顔
 

月25日 やっと出た

昨日の下剤がなかなか利かず、今日も浣腸を覚悟したが、10時過ぎにもよおしてきて、お通じになった。その後も続いて、胃のレントゲンのあとの下剤と似た症状である。やっと下剤が利いたようだ。
昨日は13番目で午後だったので、今日は14番目、午後と思っていたら、11時過ぎにお呼びがかかった。午前中、最後の患者になるらしい。昨日、不思議に思っていた照射方法は、食卓同じの人に聞いて、壁際にある看板のような衝立の穴から重粒子線を発射して腰に当てるらしい。昨日は左だったが、今日は右、衝立を動かすのかと思っていたが、寝る位置を逆にするのだった。昨日、頭にしていた位置に足を置き、横になる。位置決めがうまくいかないらしく、3,4回バンドを外して体を動かされた。ようやく固定し、照射! 12時過ぎに終わったので、昼食は12時半になってしまった。

      
      写真左・重粒子線治療棟          写真右・治療棟と病院連絡建物
 

1月24日 放医研散歩
今日の照射は12番目、午前の予測が外れ、午後一番になった。先週もらったお通じ薬が利かず、今日も浣腸になってしまった。今晩からもっと強い水薬を追加することになった。家にいると午後散歩することが多く、そのあとに出る。しかしここでは朝、出ないとだめなようだ。照射も二回目となると、要領がわかってきた。今日は左腰からの照射だ。位置決めに少し手間どったようだが、無事終了。目を開けて見ていたが、どの機械から照射しているのかわからない。光もない。機械が東芝製であることがわかっただけだ。
東芝は経営難で医療機器をキャノンなどに売却しようとしているが、これからの機器にはCANONの文字が刻まれるのだろうか?
治療が終わったのが2時前だったので、構内を散歩することにした。まずは食堂があるという棟を探しに行った。重粒子線推進棟の建物の中にあった。喫茶店もある。メニューもいろいろあるので、昼はここでもよいと思う。試しにこんどの金曜の帰宅前に入ってみようか。構内のフェンス沿いに歩いた。研修の研究員用なのか、ゲストハウスがあった。5棟もある。アパートのような建物なので、結構な人数が収容できそう。
テニスコートやグランドを廻ると警備室のある門に来た。ここを横切り、外部との仕切り塀を沿って、病院に戻ってきた。30分くらいのウォーキングにはなっただろうか。

      
         写真左・喫茶室            写真右・グランドからの放医研建物
 

1月23日 コールスローを買って病院へ戻る
自宅滞在から病院へ戻らねばならない。確定申告用の領収書やカード明細などをカバンに詰め込んだ。病室で支払いの整理をしようと思う。高幡不動まで歩き、京王線、丸の内線を乗り継いで東京駅に出て総武快速線に乗って、夕方5時前に稲毛に到着。駅前のイオンに寄って、牛乳、みかんなど買った。ケンタッキーでコールスローふたパックも買った。夕飯時にコーラのつまみにしよう。ノンアルコールビールもダメと言っているので、せめての慰みにコールスローとコーラで乾杯しようと思う。

      
       写真左・放医研病院              写真右・病室からの夕陽
 

1月21日 ラーメン食べて家へ帰る

重粒子線治療は火曜から金曜までの4日間なので、週末から月曜は家に帰れる。金曜でも帰れたのだが、入ったばかりだったので、今回は土曜の朝飯を病院で食べてから帰ることにした。
駅から放医研までの道にラーメン屋が2,3軒あるが、「千葉白湯しょうゆラーメン」というのが気になっているので、まずここに寄ってから帰ろうと思う。開店まで時間調整をして病院を出た。開店したばかりの時間なのに女性客が2組いた。女性に人気があるらしい。細堅麺で比較的あっさりした味だ。まずまずというところか。総武快速で東京駅に出て中央線に乗る。まだ2泊しかしていないのに旅行から帰ってきた感じだ。蓼科もこんな感じで行ったり来たりしているのに、病院から帰るのは何かおもむきが違う。長いこと留守にしていた家に帰るような感じなのだ。東京駅で桜餅を土産に買って、中央線に乗った。

      
        写真左・治療室                 写真右・病院への道
 

1月20日 いよいよ照射開始!

今日から重粒子線治療が始まる。314万円の治療開始なのだ。身が引き締まる。22人中、19番目なので、午後になる。看護婦さんは「思いがけず早くなることもあるので、午前中から待機するように」と言う。始まる前に、大便を出しておくように言われたが出ない。そこで浣腸である。何とか出て、治療棟へ行く。
これが長いのだ。病院棟の地下に下り、しばらく地下1階を歩いて、治療棟につながる渡り廊下へ出るためのエレベータに乗って、今度は2階に上がる。ここから長い中二階の渡り廊下を歩いて、治療棟に入ると、また地下2階へ下りるエレベータが待っている。これに乗って着いた地下2階に重粒子線治療装置があるのだ。迷わずここまで来るのは奇跡のような気もしてくるほどの複雑さである。
やっとたどり着いて、診察券を出して、待つこと30分ほど、重粒子線装置室に入った。大きなCTスキャナ装置のような機械が鎮座している。下着になって台に横になり、先週作った型を体にはめ、バンドで固定した。照射ポイントを決めるための位置固めを、「ヘソを出すように腰を上げて、おなかは息を抜いて、足を動かさず上げて」などと訳のわからない指示もあるが、バンドを何回もはずして調整しながら行う。
やっと決まったらしく、「照射します!」でいよいよ始まる。2,3分くらい経って、「ハイ終わりました」で今日の治療は終わった。部屋に入って正味15分くらいであろうか。これから12回、これを繰り返すのだ。

      
     写真左・治療棟への長い廊下          写真右・治療フロア入り口
 

1月19日 入院の日

放射線医学研究所病院へ入院の日である。午前11時までに、ということだったので、8時半頃、家を出た。中央線もすぐ座れ、東京駅からの快速総武線にも座れ、10時半に稲毛の駅に着いた。ここから10分余の歩き。今日は背中にザック、手にボストンバッグなので少し重い。病院に着き、5階の病棟で手続きをしたら、看護婦さんに「10時入院となっているのに来ないので、家へ電話した」と言うではないか。
インフォームドコンセントのとき入院時刻を確認したら、11時くらいまでに来ればいいと主治医の先生は言っていたはずなのに…。昼食から病院で、となっていたので、その前に「駅前のイオンに買い物に行きたい」と言ったら、「主治医の許可はとりましたか?」と。まだ着いたばかりなのに、もう患者扱いなのだ。
入院期間中は外出許可がないときの外歩きは構内散歩だけOKで、門から外へはダメ。ノンアルコールビールも紛らわしいのでダメ。看護婦さんは優しいのに、出てくる言葉はきびしい。すぐ昼になり、初めての病院食。メインは鶏のから揚げ、あと二品、ささやかな野菜とささやかなデザート、家の食事と比べると貧弱にみえる。味も薄いが、何とかみんな食べた。これから3週間、この食事と付き合わねばならない。

      
     写真左・ナースステーション            写真右・個室の病室
 

1月14日 快癒祈願の寺めぐりとお守り 

入院まじかの土曜日、久々に七福神めぐりを兼ねて、散歩に出かけた。安養寺の毘沙門天へと歩いていったが、12月にもそこを覗いたことだし、と気が変わり、市民プール近くのお寺の七福神に方向変えした。
行ったお寺は延命寺、壽老尊を飾っている。ガン完治を祈るにはちょうどよいではないか。誰もいない境内でじっくりと完治と長生きを祈願した。賽銭5円ではご利益ないかもしれないが…。もうひとつ大黒天が祀られている善生寺へ歩を進めた。ここは去年の正月に妻と来た寺だ。大黒様には3円しかなかったので、これを賽銭としたが、退院して完治したら、御礼参りに来て、もっと多く寄進しよう。
帰宅してほどなく、娘の景が帰ってきて、入院のお守りをくれた。「病気平癒」と記されている。
医薬祖神・五條天神社のお守りだ。上野公園の中にある神社とのこと。わざわざそこまで行って、買ってきてくれたのだ。娘のためにも、早く完治させねばならぬ。壽老尊で祈り、病気平癒のお守りをもらったので、一日も早く健康な体に戻りたいものである。景ちゃん、ほんとうにありがとう。お父さん、がんばるよ!!

      
     写真左・長生き神様・壽老尊           写真右・娘がくれたお守り
 

1月12日 インフォームドコンセント

型のフィット調整と実験照射のために放医研へ出かけた。今日は家族同伴なので、妻と一緒に行った。
午後2時に新治療研究棟へ直接行き、ガウンに着替え、CTスキャンを受けた。これが型合わせも兼ねているようだ。そのあと、病院へ行き、主治医の辻先生から治療の中身、予定、副作用などの説明を受け、書類に私と妻のサインを記入した。これで治療確約である。10年での完治率は95%と聞き、まずは大丈夫であろう。病室の下見もした。こじんまりした個室であるが、必要なものはそろっていた。
病院を出たときはもう夕暮れであった。1月になり日は長くなったというものの、4時を過ぎると薄暗くなる。今日は娘の景の仕事の終わりを待って、新丸ビルで食事をすることにしていた。妻の夕食作りを省くためでもある。東京駅に着き、新丸ビル地下入り口で待つことしばし、娘が有楽町から歩いて着いた。7階に上がり、自由が丘食堂という洋食屋さんに入った。いつも三森さん、中島さんと来るソバキチと同じフロアだ。野菜サラダやカニコロッケ、マグロほお肉などを頼んだが、どれもおいしい。入院前最後のビールも少し飲んだ。食事のあと、7階のテラスに出て、東京駅の夜景を楽しんだ。駅の向こうに見えるビルには長女・穂梓ちゃんが働いていたリクルートが入っている。あの灯りの中でがんばっていたんだなあと、今はソウルにいる娘を思い出し、少し感傷的になった。

      
     写真左・放射線医学研究所          写真右・新丸ビルからの夜景
 

1月10日 重粒子線治療型つくり

重粒子線治療は放射線の一点照射なので、その方向を決め、動かぬように体にプラスチックのような樹脂の型をはめて固定化して、照射する。その型取りをまずしなければならない。今日はその日だ。朝9時半までに来てくれとのこと。これは大変なのだ。通勤ラッシュの中を都心をつき切らねばならない。まず座れるかが問題だ。そこで豊田始発6時53分の電車に乗るべく、6時15分に家を出て日野駅へ歩いた。6時半過ぎの逆方向の八王子行きに乗って豊田へ。ホームを移って、上り線で待つことしばし、豊田始発の電車が入ってきて座れた。始発ならギリギリに来ても座れるようだ。東京まで行って、総武快速と思っていたが、お茶の水に着いた時、同じタイミングで反対側に総武線・千葉行きが入ってきたので、これに乗った。各駅停車だが時間はある。しかし予想以上に長かった。東京駅から来る快速に3本追い越されて9時過ぎに稲毛に着いた。新治療棟に9時半ギリギリに着いてセーフ。今日は病院ではなく新治療棟へ直接行くことを指示されている。受付の案内で地下2階の治療フロアへ。専用パンツを支給された。浣腸で排泄する。できるだけ体内を空っぽにした状態で照射するようだ。型は大きな厚手のビニールのような生地を温めて柔らかくなった状態で、照射する範囲に巻き付ける。私の場合は前立腺ガンなので下半身が温かい生地で覆われた。そしてすぐに水をかけ、扇風機で風を送って冷却する。冷えた状態で生地をはがすと人の体の型になっていた。これから12回、この型を体に巻いて治療することになるのだ。

      
      写真左・固定具(型)作成            写真右・重粒子治療台
 

1月3日 日野七福神めぐり

正月三日目、箱根駅伝の勝負が見えたし、妻に声かけて京王線三駅近くにある日野七福神詣りに行くことにした。平山城址公園、高幡不動、百草園の三駅だ。高幡不動駅へバスで出ると駅から不動尊境内まで、すごい人の列だ。三が日はこんなに人が集まることを知った。ここは最後にしてまず平山城址公園へ行こう。電車に乗り、二つ目で下り、山側に歩くとすぐだ。宗印寺に布袋様がある。次から次へと参拝客が絶えない。みんなご朱印帳を持っている。お寺も稼ぎ時だ。駅に戻り、百草園へ。真照寺は駅から歩いて5分くらい、幼稚園もやっているらしく、娘たちが行っていたみのり幼稚園と同じ雰囲気の寺だ。ここの恵比寿様にもお参りして、高幡不動までは歩くことにした。川崎街道沿いを行く。日野稲門会の歌うサークルで集まる駅というスナックを横目に見て、モノレールが上に見える。結構遠い。妻が疲れはじめたときに、ようやく駅に着いた。参道は混んでいるので、川崎街道に出て、神社の駐車場から入った。土方歳三の像の裏手に弁財天はあるのだが、本体は寺に保存してあるらしく、社だけが鎮座している。三尊にガン克服、家族みんなの幸せを祈って、三が日は終わった。

      
     写真左・宗印寺の布袋様           写真右・恵比寿様のある真照寺
 

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