小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。

毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

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2024年

3 月

3月31日 海外、思い出のドライブ旅 ・番外編
 「はるかなる ドロミテ」2007年

隔年に始めた極楽スキーメンバーでの海外スキーツァー、一昨年の仏ヴァルディゼールに続いて、今年はイタリア・ドロミテを選んだ。
ドロミテはイタリア北部のオーストリアに近く南チロルとも呼ばれるエリアで、第一次世界大戦まではドイツ領であった。戦争に負け、それからイタリア領土になったいわくつきの地域でもある。
オーストリアのインスブルックからは160k、2時間程度のドライブで着く。東京から蓼科に行くとほぼ同じ距離だ。ところが、車以外の交通は国をまたぐせいか不便で、列車で行ってもバスで行っても、国境近くで乗り換えなければならない。そこでわれわれはジャンボタクシーをチャーターした。最初は8人の参加予定だったので8人乗りの大型で予約した。しかし日が近づくにつれ、一人減り二人減りで、最終的には4人になった。

 

8人乗りでは大きすぎると思ったが、荷物も多いことだしとそのままにした。往復で約10万円、ひとり2万5千円の負担だ。この予約の過程で初めて知ったのだが、SkihoppaというWEBサイトがあり、ヨーロッパだけでなくアメリカのスキー場へのチャーターバスを予約できる。
スキー場をインプットすると送迎可能な空港一覧が出てきて、空港を選ぶと8人乗りまたは4人乗りの往復運賃が表示され、空港への到着と出発時刻を入れると、自動的にスキー場への到着、帰りの現地発の時間を指定してくれ、OKならクレジットカードで支払って申し込み完了。とてもよくできたシステム で残念ながら日本のスキー場は対象になっていない。これから外人をターゲットにしようとしている志賀高原や、白馬もこのようなシステムを考え、空港からの足の確保の便を図るべきだろう。日本に来られる外人にとって、レンタカーはむずかしいのでこのような現地に直行するシステムが欲しい。

      
  写真左・宿の窓から望むドロミテ山塊    写真右・セラロンダ・コースを遠望
  

インスブルックのホテルに2月23日に集まり、24日の朝ドロミテに向うことにしていた。Yさんはウイーン経由、Uさんはパリ、Kさんはフランクフルト、私はミュンヘンからとみんなバラバラにバラバラの時間に来ることになっていた。ミュンヘンに前日入っていた私にKさんから、「飛行機トラブルで成田からのフライトが飛ばず、一日遅れる」と連絡してきたのは、インスブルックへ向う寸前だった。ドロミテへ向う24日の夜にインスブルックへ着くことになる。チャータータクシーの出発を朝から夜に変更しなければならない。23日の午後インスブルックの宿に着いて、すぐ電話で交渉したが、「今さら変更できない」の一点張り。オフィスの場所を聞いたら宿から10分の距離、「すぐ行く」と言ってオフィスへ行き、マネージャと直談判、しっかりしたやり手のレディだった。私のジャパングリッシュを苦労しながら聞き取り、ドイツ語であちこちに電話して、車と運転手の空きを調べている様子。しばらくして、OKとなった。変更や夜間の割り増しもいらずホッとした。オフィスの中で働いている人は全員女性だった。
 

時間を遅らせ、インスブルック空港で夜7時にKさんをピックアップして、ドロミテ・コルバラの村へ向った。アウトバーンに乗り、ブレンナー峠を越えてイタリアに入った。雨が降り出し、雪が溶けているのでは、と心配になる。ヨーロッパも暖冬で、出発前の情報では山麓で15cm、山で70cmと積雪はすこぶる少なかった。そのわりには、すべてのゲレンデが「Open」となっているのだが、この雨でどうなることやら。運転するのは背の高い格好よいお兄さん、だがコルバラへの道は初めてらしく、地図を見たり電話をしたりで迷いながら、夜半10時ごろレジデンス・アンジェリカに到着。イタリア語しか話せないおじいちゃんとおばあちゃんが部屋へ案内をしてくれた。建てて間もないコンドミニアムなので、とてもきれいでかつハイテクだ。無事到着を祝って、まずは乾杯!
 

 「ドロミテの前にインスブルック観光」

ドロミテに来る前、出発が朝から夜に変ったことにより、インスブルック市内観光の時間ができた。私は四回目のインスブルックだが、YさんもUさんも初めて。黄金の屋根すぐ近くのホテルだったので、歩くにはうってつけ。観光案内所で交通機関にも乗れ、入館料もタダになる市内パスを買って、まずは背後にそびえているノルトケッテの山へロープウェイで登った。
この山は何となく上高地から仰ぐ穂高連峰に似ていて、インスブルックの街は河童橋あたりに広がっている感じだ。さしづめ街を流れるイン川は梓川だ。ノルトケッテの山は標高2300m、麓の街は800m、標高差1500m、上高地と穂高の標高差も1500mと同じなので、なおさら似た感じがするのだろう。どんよりした日だが、チロルアルプスが春霞の中に見える。とても暖かく、冬とは思えないような陽気だ。頂上近くのロープウェイ乗り場で、なんと「ヤナセ」と書いてある雪かき機を発見、この手の機械はほとんどが本場のオーストリアかドイツ製と思っていたが、日本からの輸入もあるのだ。近づいて製造元を調べると北海道岩見沢の石狩造機という会社の製品だった。きちんとメンテナンスされ、役に立っていることがよくわかる。「日本の中小企業の活躍、ここにあり」という感じで、うれしかった。

  

宮殿や博物館も見てドロミテは夜になるからと、スーパーで買い物をすることにした。ところが土曜は夕方5時閉店であわてた。結果としては、運転手のお兄さんにインスブルック駅中に開いているスーパーに立ち寄ってもらい、買出しは出来たのだがヨーロッパで驚くのは日本との働き方のちがい。スーパーに限らず、ほとんどの店、銀行も観光案内所に至っても昼過ぎから午後4時頃まで閉め、そのあと再開しても夜7時で終わり、土曜は5時まで、日曜は休み。インスブルックの観光地で開いているのはみやげ物屋とレストランくらいだ。24時間営業のコンビニなどない。慣れれば、これでよいのかもしれない。休んで電気も消すのだから環境にも良い。日本は便利になりすぎている。昔の日本はヨーロッパに近かった。店も役所ももっと休んでいた。小樽の市営スキー場など、お昼時はリフトも止まっていた。「顧客主義」が「いつでも開いている」ことにすり変り、昼と夜の区別もつかなくなってしまった。環境問題が声高に叫ばれる今、こんなヨーロッパスタイルを見習うことも大切と思う。

      
    写真左・日本製の雪かき機      写真右・夕暮れのインスブルックの街
  

 「とてつもなく広いドロミテのスキーエリア」

ドロミテのスキーエリアはとてつもなく広い。リフトの数450以上、エリアも12ヶ所に分かれ、全面積は長野県の三分の一の広さになるという。そのエリアをロープウェイ、バスなどでつないでいる。地元の人にとっても、一生かけてすべてのスキー場を回ることが夢というほどの大きさなのだ。
リフト券も全エリア共通がスーパードロミテパス、エリア毎のリフト券もある。信州のスキー場でいうと、志賀高原、野沢温泉、妙高、白馬などがすべて一緒になって、リフトも共通、エリアをつなぐ交通機関が張り巡らされているという感じか。
今回泊ったところはコルバラというスキーのためにあるような小さな村、ドロミテの中心地でセラ山脈をぐるりとスキーで回るセラロンダの基点の場所でもある。セラロンダには右回りと左回りがあり、同じゲレンデを滑らずリフトを乗り継いで一周できる。
 

私は右回りが面白かった。さしづめ八ヶ岳山脈の回りをリフトがかかっていて、それをつないで清里、富士見、蓼科、佐久、小海、野辺山とスキーで回るという感じだろうか。志賀高原並みのスキー場がいくつもつながっているようだ。
ドロミテは岩山が連なる、ヨーロッパアルプスでもユニークな山容をしている。その岩山の間がスキー場になっている。山の上から眺めると、以前行ったことのあるチロルのエッツェタールのオーバーグルグルあたりの連峰も見えた。
最初はセラロンダの左回りを滑った。一周するのにほぼ一日かかる。昨夜の雪が降り積もったゲレンデは朝日に映えてすこぶる快適だ。心配していた積雪もコースにはたっぷりある。村にはないのに、ゲレンデは夜中に人口雪などで整備しているらしい。スキーがビジネスの中心になっている地域だけにしっかりしている。峠にリフトで上がり、滑ると村に下る。村中の道もコースになっている所もある。スキーを脱いで、道路を渡るとまたリフトが待っている。その繰り返しが続く。村の中にはピッツァリアと呼ばれるレストランが数多くあり、休むのに困らない。

          
   写真左・さあ、セラロンダへ出発     写真右・セラロンダコースの途中で
  

 「標高3200mからの大滑走」

次の日は、セラロンダを離れて標高3200mのマルモラーダに行った。ロープウェイを3本乗り継いで山頂近くまで上り上げる。ギューギューに詰め込まれた車内に突如、イタリア国家の大合唱が起こる。混雑も楽しくしてしまう陽気なイタリア人だ。
山頂は晴れていても風冷たく寒い。記念写真を撮って早々に滑り出す。結構きつい斜面が続くが、広いのであまり怖くない。レストランのあるPasso Fedaiaまで、標高差1800mのダウンヒルだ。硬く絞まった雪面にエッジを切り込んで慎重に、ほどよいスピードで滑り下りていく。ドロミテの岩峰がどんどんせり上がっていく。そしてフェダイア峠(Passo Fedaia)まで来ると、汗ばむほどの暖かさに変っていた。
峠のレストランでまずビール、そしてきのこのスパゲッティ、おいしかった。帰りは昨日のセラロンダと同じ道を通るのは面白くないと途中からCol Alto経由でコルバラへ帰ろうと思った。ところがコースを間違え、ひと山越えた別の谷間に下りてしまった。San Cassianoという村だった。リフトの最終時間も迫り、戻ってもつながらない。レストランでタクシーを呼んでもらい宿へ帰ってきた。25ユーロ。こんなハプニングも楽しい。
  

中一日おいて、今度はセラロンダの右回り(時計回り)に挑戦。途中でマルモローダへ行く道と分かれ2500mの峰に上がり、そこから700mの高度差をカーブを描きながら滑っていく。ここが面白かった。ほどよい傾斜に気持ちよくスキーが切り込んでいき、よく曲がる。日本からオガサカのスキーを持ってきた甲斐があった。このカービングスキーはすこぶる調子良い。
スキーを一旦、休止し、ポルドイ峠から約3000mの岩山にロープウェイで登った。晴れ渡った空の下、オーストリア、スイス、イタリアのアルプスの峰々が美しい。下にはドロミテのスキーエリアが広がっている。セラロンダのコースは変化に富んでいてとても面白い。ロープウェイで隣り合わせになったドイツ人夫婦はドロミテに2週間、そのあとチロルのサンアントンに1週間滞在するという。日本からはるばる来て、1週間じゃもったいないとも言う。働くことが好きだとも言っていたが、その原動力はこのようなバカンスをしっかり取っていることなのだろう。ワーク・ライフ・バランスである。

      
写真左・マルモラーダからイタリアアルプスを望む 写真右・マルモラーダの大斜面
  

 「銀メダルのふるさと・コルティナ」

中一日は、コルティナダンペッツォの街に出かけた。ドロミテ最大の街、リゾートの街である。1956年、日本人初の冬のオリンピックメダリストが誕生した町でもある。回転銀メダリスト・猪谷千春、トニーザイラーに続いての2位。日本中が興奮し、小学校5年生だった私にも脳裏に焼きついているコルティナダンペッツォの名前だ。そのあと、ジャンプやスケートで日本は金メダルを獲得したが、冬季五輪の花、アルペン競技では、50年経った今でも猪谷さんのメダルだけだ。それだけ偉大な銀メダルだったのだ。その町にやってきた。
コルバラからはバスでファルツァレゴ峠まで行き、そこでコルティナ行きに乗り換える。5分の待ち合わせで連絡している。コルバラの案内所でバス乗り場を聞いたら、「遅れたら峠で2時間待たなければならない」と言う。不安は的中した。峠に着いても、バスはない。峠の茶屋で昼過ぎのバスまで待った。やっとコルティナに着いたら、こんどはすべての店が午後のお休みに入っていた。レストランで時間をつぶし、街を歩き回り、夕方ようやくお目当てのショッピングを終えたときには、コルバラへの最終バスはなくなっていた。タクシーでご帰還、75ユーロ。しかし夕方までコルティナにいれたので、夕日に輝く山々とコルティナの街の美しい景色をたっぷり楽しめた。アルプスの町らしく、坂が多いが、古くしっとりとした素敵な町だ。

        
 写真左・ コルチナダンペッツォの街並み  写真右・コルチナの街のシンボル教会塔
  

 「レジデンス・アンジェリカ」

泊った宿はレジデンス・アンジェリカ。家族で経営する一昨年できたばかりの新しくきれいなコンドミニアム。台所も清潔、食器や調理器具も整っている。寝室が二つあり、中央にリビングキッチンのついた60uの立派なしつらえだ。他にも数部屋あり、大きな建物だ。鍵はすべてカード式、玄関もスキールームもサウナ・ジャグジーもこれがないと入れない。スキールームには、靴を鉄のハンガーのような取っ手に吊るすと自動的に靴の中も表も乾燥するという最新式の乾燥機が据え付けられていた。エレベータもあって、相当な投資なのではないか。おじいちゃん、おばあちゃんがいて、お手伝いのメードさんもいる。若夫婦は他の町に平日暮らし、週末にここに来ると言う。子供をそこの学校に通わせているというが、働いてもいるらしい。夕方、近くの小さなスーパーに買い物に行ったら、おじいちゃんがレジの袋入れをやっていた。おばあちゃんも朝、きちんとした身なりで出かけて行く。
  

「ローンの返済で一族郎党みんなで働かざるをえないのではないか」とひとしきり、話題にしていた。ところが、スーパーに買い物に行くたびにおじいちゃんがいて、5%割引してくれる。単なるパートならそこまではできないと、少し見方が変ってきた。週末に若い奥さんが来たときに聞いたところ、スーパーはおじいちゃんと兄弟でやっていると言う。経営者だったのだ。道理でいつもいるはずだ。この村でも裕福な一家のようだ。だからこんな立派なコンドミニアムを作れるのだという結論になった。メードさんも、おばあちゃんもおじいちゃんも若奥さんもみんな親切で、とても快適な宿だった。

      
   写真左・最新のスキー靴乾燥機     写真右・レジデンス・アンジェリカ
  

 「ロイテであわてたこと」

ドロミテのスキーも終わり、インスブルックへ戻ってきた。Uさんは、午前中のフライトで日本へ帰っていった。3人は明日帰る。その時間を利用して、ノイシュバンシュタイン城の近くのチロルの町ロイテに住んでいる久仁子さんを訪問することにした。チロルに詳しい人として、昨年東京でお会いした。ドイツに留学、オーストリアの人と結婚し、観光や視察でドイツに来る日本人のガイドをしながら、フュッセンに10年ほど住んでいたが、昨年ロイテのご主人の実家に移って来た。ロイテではただ一人の日本人らしい。
インスブルックからロイテに行くには列車で、ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで乗り換え、再びオーストリアに入るルートで約3時間かかる。雨が強く降っている日だった。ロイテの駅に久仁子さんが迎えに来てくれ、Yさんの希望のノイシュバンシュタイン城に行った。私は30年前の新婚旅行、数年前の家族旅行に続いての3回目、ここに来るとドロミテでは会わなかった日本人がいっぱいいる。最近は中国人の観光客も多くなった。インスブルックも日本人は少なかったのに、中国人は多かった。

 

ロイテの久仁子さんの家へ入ったのが夕方5時近く、ご主人も迎えてくれた。100年経っている建物というが、大改装したこともあってか、とてもよい雰囲気の邸宅だ。少しも古さを感じさせない。来年予定しているチロルトレッキングのコースのアドバイスなどをしてもらい、ちょうど3月3日なので、とチラシ寿司を作ってくれていた。チロルでいただく日本の味は格別だった。
帰りは7時22分の電車ということだったので、ご主人に駅まで送ってもらい、停まっていた列車に飛び乗ったところ、反対側に動き始めたではないか。あわて て下りたところ、時間がまちがっていたらしく、インスブルックへつながる本日の最終列車はもうないとのこと。久仁子さんのご主人も見送っていて、反対に走り出したのでびっくりし、駅員に緊急電話を運転席にかけて止めてもらったらしい。「サヨナラ」で別れた久仁子さんのところに舞い戻り、タクシーをフュッセンから呼んでもらった。インスブルックまで180ユーロ、帰りは電車道ではなくフェルン峠を越えてイムストからアウトバーンに乗ってインスブルックへ戻った。2時間ちょっとかかったが、列車より速かった。
今回の旅ではタクシーに乗る機会がいくつかあったが、日本と比べ安いと思った。インスブルックまでは100k以上あるのに、2万8千円程度、コルティナからは約50k・12,000円。新宿から30kの我が家日野まで15,000円かかるのと比べると割安だ。ガソリンの値段は日本より高いくらいなのに。

      
   写真左・インスブルックの駅     写真右・久仁さんが作ってくれたちらし寿司
 

3月30日 銀座界隈・文学散歩

岳文会の文学散歩に久しぶりに参加した。銀座、日本橋界隈を巡るコースだ。この界隈の文学作品は少ない。しかし、文壇の有名人が通った店は多い。そんな所を含めての散歩だ。まずは東京八重洲口の新しいビル谷間にある南町奉行所跡、遠山の金さんの奉行所だ。まさに高層ビルの谷間のまた谷間に、発掘された土台の石が残る。常盤橋に行き、ここが江戸城大手門への正門だったことを知る。日本橋は三井不動産の開発拠点だが、コレド室町の一角に神社がある。元々は、界隈に散在していた小さな神社を先の開発のときに、白木屋やら室町ビルの屋上に移したものを、コレド室町の再度の開発のときに、下に下し、稲荷神社を再建したという。日本橋の新たなランドマークとなり、若い人の参拝が絶えない。ビル一軒分の収益は減ったが、地域振興としてはよい投資ではなかろうか。
 

前に妻と行ったことがある伝馬町牢屋敷跡にも行き、小伝馬町から地下鉄で銀座へ移った。ここは谷崎潤一郎が生まれた所だが関西へ移り、晩年にまた戻り、ひいきにした料理屋「浜作」、太宰治が通ったバー「ルパン」などを廻った。銀座並木通りの片隅に、石川啄木の碑があった。ここに初期のの頃の朝日新聞の社屋があったという。23才で死ぬまでの3年間、ここで校正係として働いていた。寂しくて切ない、若き啄木の晩年だった。銀座ライオンで休憩し、生ビール2杯、もう歩かなくてよいと思ったが、まだ若い岳文OBは歩くと言い、交詢社などを巡り、泰明小学校で島崎藤村と北村透谷の碑を見て終了。新橋のガードをくぐった、西洋立ち飲みバーでまた乾杯して解散した。

         
写真左・日本橋のビルの谷間に再建された神社   写真右・銀座にある石川啄木記念碑
 

3月21日 早すぎた花見

さくら回廊・お花見クルーズに行った。門前仲町の地下鉄駅近くの隅田川支流の大横川を遊覧船が廻る。昨年の今頃にも行って、水面近くまで垂れ下がる満開の桜を楽しんだ。今年もそれを期待して出かけたのに、つぼみもふくらんでいない。開花のだいぶ前という状態だ。吉田さんが用意したおつまみセットで私のホイリゲ・ワインとで宴会になった。こうなるとまさに花より団子だ。桜はダメということで船は隅田川に繰り出した。永代橋をくぐると竹橋のIBM本社ビルが見えてくる。社会人の頃、ここにはよく来た。ファシリティ関係の責任者になったとき、この分野の先輩であるIBMに学びに来たものである。当時、私の務めるHP社はコンピュータはまだ未熟で、その道のIBMははるか向こうの会社だった。ライバルとはみなされていなかったので、ほんとうによく教えてくれた。視野が広く、心が広い、すばらしい会社であった。今でもその伝統はつながっているのだろう。そんな昔のことを思い出しながら、スカイツリーが目の前に見える清澄橋でUターンして帰って来た。桜はまだだったが、昔を思い出させるなつかしい船旅となった。

      
  写真左・お花見遊覧船で隅田川遊覧       写真右・スカイツリー遠望
 

3月13日 秘湯を守る会50周年

日本秘湯を守る会という組織がある。日本各地にある素朴な秘湯の宿のネットワークする会だ。その会が50周年になるという式典が、有楽町の朝日ホールであった。「テルマエ・ロマエ」のヤマザキマリさんが世界の温泉事情の話をして、そのあとは秘湯の宿経営者との座談会という趣向。50年前は高度成長期に向かって、日本全国 が活気に満ち、全国の大手温泉地は社員旅行などであふれ、旅館もビルに替え大型化していった。バスも入れない山奥の秘湯の宿は見向きもされなくなっていた。
それを危惧した、朝日旅行会が寂れつつある秘湯をネットワークし、個人客をターゲットにした旅行策を打ち出した。全国2000軒の宿に案内を出し、33軒から入りたいとの賛同を得たが結成会議に参加したのは13軒、東京へ出る交通費にも苦労した宿が多かったのだ。それでも、地道に活動を続けるうちに徐々に増えて、今は144軒の宿が加盟し、運営も軌道に乗って来た。団体旅行が下火になり、個人旅行が増えている現在、大型旅館より家族的な旅館が好まれる傾向になり、山深い秘湯の宿は人気となっているのだ。こんごの課題は地熱発電が本格化すると、温泉に影響出るのではないかと危惧し、秘湯の宿は反対の方向なのだ。

    
   写真左・お祝いの桧枝岐歌舞伎       写真右・日本秘湯を守る会
 

3月8日 蓼科に本格的な冬が来た

白馬に行くときも大雪警報が出ていたが、それほどの降雪はなかった。帰って来た蓼科が大雪になっていた。行く前の駐車場は雪に埋もれ除雪しないと停められず、道路の真ん中に車を停めたまま、駐車できる分だけのスペース作りの雪かきをした。ほぼ出来上がった頃、管理センターの車が来てしまい、あわててバックで駐車場に入ろうとしたら、反対側の道路脇の除雪した雪の塊りに前の左前輪バンパーがひっかかって、めくれてしまった。それでも無理やりバックして駐車させた。センターの女性事務員はびっくりして、帰りに寄りますと言って4号線の奥へ走っていった。めくれたバンパーを元に戻るか試したら、とんとんとはめ込んでいくではないか、ちょっとの違和感はあるがほとんど元の形に収まった。そういえば、前にも同じようなことがあった。整備工場に聞いたら、いちばん子供や老人にぶつかりやすい所なので、メーカーも壊れやすく、戻しやすくしているのだと言っていた。帰りに寄った事務員も元に戻っているのを見てとても驚いていた。そのあとも雪は降り続き、2月までまるでなかった雪が急激に増え、3月になってようやく冬がやってきたような感じだ。

      
 写真左・四号線先の豪邸も雪に埋もれる     写真右・雪に埋もれる3月の山荘
 

3月5〜7日 白馬コルチナスキー場

奥志賀のブルーエに行こうとしたが、ふさがっていてダメと言われた。オーナーの私もダメなほどはやっているのはいいことと解釈して、白馬コルチナに代えた。行ったことのないスキー場だし、すごい外観のホテルも興味深かったので行ってみた。栂池スキー場を越え、白馬乗鞍の右手に入り、白馬どんづまりのスキー場にやってきた。目の前に大きな建物がそびえ立っている。ホテル白馬グリーンプラザというらしい。豪華な外観に劣らず、1階ロビーも派手だ。ただ通された部屋は、ツインベッドと畳敷き10畳との組み合わせで味気ない。5,6人を収容するように作られているようだ。
温泉はよかった。特にジャグジーはスキーの後のしびれた右足のマッサージに最適だった。食事はバイキングで味気なかった。生ビール850円で、飲み放題は1800円、3杯飲めば得になるので飲み放題にした。2泊とも同じような食事だったので、不満が残る宿だった。スキー場は今の私にはほどよい傾斜のスロープが広がっていて楽しかった。隣の白馬乗鞍スキー場とも連結していて、2日目に行き、帰りのコースをまちがえ、39度の圧雪してないグサグサの斜面に入り込み往生した。途中からは一段、一段、横に下りてくる始末。往年の華麗なスキーはどこへやら、無様なスキーのショックでホテルに帰ってきてふて寝となった。スキーはやはり、華麗に楽しく滑りたいものだね。

      
  写真左・ホテル白馬グリーンプラザ      写真右・若者グループの宿泊が多い
 

3月3日 「大誘拐」in 韮崎

新聞に「大誘拐」公演の記事が載っていた。金持ちの老婦人を誘拐し、5千万の身代金を要求したら婦人が「私はそんなに安くない」と怒り、5百億円要求しろと言いだして、てんやわんやになるというストリーが面白そうなので、切符をとろうとしたら東京は売り切れ、近くでは3月3日の韮崎が空いているというので、その足で蓼科へ行ってという計画にした。
金持ち婦人は白石加代子、そのおつきに柴田理恵、刑事が風間杜夫と面白そうなメンバーだ。韮崎の東京エレクトロン文化ホールは、蓼科の帰り道によく通る所なので知っている。韮崎にはもったいないような大きく立派なホールだ。近隣からだけでなく都内ナンバーの車も多く、遠くからもおおぜい来ているらしい。ほぼ満席、先の3人に加え若手の中山優馬を犯人役に加えて、4人だけのスペクタルドラマとなっている。これが実に面白く愉快だ。国家権力への抗議への皮肉もこめて、4人の名優が舞台を盛り上げる。ナマの芝居の面白さを十分に味わった。柴田理恵はこの芝居の公演フィナーレがふるさと富山らしく、その時はきっと大泣きするのだろうな。

      
   写真左・「大誘拐」ポスター       写真右・韮崎東京エレクトロンホール
 

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2 月

2月29日 海外、思い出のドライブ旅 ・番外編
 「アルプススキー休暇」2005年2月〜3月

山荘を閉め、仕事も入れず、2週間のスキー旅行にアルプスに出かけた。目的地はフランスのヴァルディゼールとシャモニー。いずれも名高いスキーエリアだ。スキー仲間10人での旅、ジュネーブ集合・解散にしたら、フライトはみんなバラバラ、KLM、エールフランス、オーストリア航空、ちなみに私はルフトハンザ。どうもマイレージの関係らしい。リタイア組は私と小野さん、他はみんな会社で働いている。よく来れたね。ワーク・ライフ・バランスがみごとにできている。ご立派。この旅行で垣間見た、ヨーロッパのワーク・ライフ・バランスとホテル・コンドミニアム事情を報告したい。この記事は2005年のものである。

      
  写真左・ヴァルディゼールのスキー場で  写真右・スキー場からモンブランを望む
 

  ヴァルディゼール   「平日が混む」

ジュネーブから車で4時間、アルベールビルオリンピックの会場になったスキー場。標高1800mに街があり、ゴンドラが3,500mの山の上まで運んでくれる。とにかく広い。志賀高原の数倍の広さだが、リフト、ケーブルカー、ロープウェイがうまく端から端までつないでくれる。
ホテルに併設されているコンドミニアムに1週間泊った。4LDK、150uの広さがあるので、10人問題ない。広さだけなら私の山荘も同じ大きさだが、ロフト仕様とホテル仕様では使い勝手がちがう。バスタブが3ヶ所、トイレは4ヶ所もある。このようなアパートメントと呼ばれるコンドミニアムやシャレーがホテル以上に多い。

  

スキー休暇となると、最低1週間単位のヨーロッパ、宿泊料の設定も土曜から次の土曜までの1週間単位。2,3泊しても1週間分とられる。日本のような2泊3日なんて考えはない。休むなら最低1週間。中には1ヶ月の人もいる。週末は客の入れ替えで、道路も宿もゴッタがえす。
スキー場は平日が混む。朝のゴンドラ乗り場は長蛇の列、昔の八方尾根のゴンドラを思い出した。日本はスキー人口ががた減りで週末でもリフト待ちなどなくなったが、ここでは健在。冬はスキーが今でも主流、スノーボードは非常に少ない。「あれはアメリカのスポーツでね」と関心が低いようだ。スキー休日の楽しみ方も日本とちがう。朝は10時過ぎにゲレンデへ、昼は2時間くらい日なたでランチ、当然ワインたっぷり。4時ごろ宿に戻ったらサウナを浴びて、8時過ぎにディナー、そのあとスナックで一杯ひっかけて、12時過ぎにディスコ、深夜まで。これを毎日繰り返すのが、ヨーロッパ流とか。われわれもトライしようとしたが、ディスコへ行く気力と体力なしで断念。なかなか国際人にはなれない。

      
   写真左・ヴァルディゼールの街      写真右・シャレーの食堂で乾杯!
  

コンドミニアムの機能はふつうの家と同じ。蓼科の山荘も以前行ったオーストリー・チロルと同様のシャレーを参考にして作った経緯があるので、今回も違和感ないが、値段(1週間60万円)の割りにメンテナンスが今いちと感じた。
例えば、
  ・食器がバラバラ、欠けているものあり
  ・フォーク、スプーンなども同様
  ・洗剤、調味料が用意されていない
  ・洗濯機、食洗機、レンジなど機器の取り扱い説明がない。
これらは他山の石として、私の山荘でも気をつけなければならないことばかり。私はシャンプーや石鹸の補充を忘れがちだが、ここではホテルサービスがついているので、その点はしっかりしていた。

  

 シャモニー 「白馬も見習うべきシステム」

ジュネーブでみんなと別れ、リタイア組の小野さんと私はシャモニーに行った。さすがに2週間の休暇はみんなはむずかしい。「21世紀は知識を活用する競争になる。モノ作りといっても”カイゼン”や”たくみの世界”のことではない」はソニーの出井さんの言葉。「知識社会では人の能力とモチベーションが品質を決める。能力よりモチベーションがより重要になる」は日本テレコムの倉重さんの言葉。モチベーションを高め維持するには、仕事、仕事ばかりではダメ、自分のライフを充実させ、いろいろなことを見聞し、多角的な知識を広げていくことが大切だ。その意味では、ヨーロッパの人のように、長期の休みをとってリフレッシュした心身で職場に戻る習慣を日本人も必要になってきている。
単なるモノ作りは中国に任せればよい、日本はその上のレベルを目指さなければ生き残れない。そのためには、ワーク・ライフ・バランスの考えをもっと企業に理解してもらいたい。ライフは個人だけで考えるものではなく、企業も国もそれをサポートする仕組みを欧米のように充実させる必要がある。

  

シャモニーは日本人にもよく知られている山岳リゾート。冬のスキーでも有名、最初の冬季オリンピック開催地でもある。ヴァルディゼールとちがっていくつかのエリアに分かれていて、そのつながりはない。しかし街からエリアを結ぶシャトルバスがひんぱんに走っているので、不便さはない。そして無料。リフト券も全エリア共通。これでエギュードミディのロープウェイにも乗れる。
白馬もこれに見習ったらどうか。お客が減るのを嘆く前に、鹿島槍サンアルピナ、佐野坂、五竜、白馬47、八方、岩岳、栂池、白馬乗鞍、コルティナのリフト券を共通にし、無料のシャトルバスを走らせるような起死回生策を考えられないのだろうか。

        
   写真左・シャモニー針峰を望む    写真右・シャモニーの街へ向かって滑り降りる
  

夏も冬も満員のシャモニーのホテルはちょっとあぐらをかいているかもしれない。泊ったのは三ツ星の中より上のクラスだったが、英国、日本、台湾などフランス語圏以外の客が多いのに、テレビはフランス語放送のみ。部屋の案内書はなし、二人なのにアメニティグッズはひとり分、朝食のバイキングは少し遅く行くとパンと果物だけというありさま。
スキーバブル時代の野沢温泉の宿を思い出したほど。野沢はこのあと、客が激減、サービスの悪い温泉として有名になった。しかし今ではこの反省から、温泉全体が名誉挽回に取り組み、日本でも指折りの名旅館も出現するまでになった。
 

2月23-25日 雪が降る

天皇陛下の誕生日が金曜で、今年は3連休になった。絶好のスキー休みというところだが、この冬は暖冬で雪が降らない。山荘の周りも22日の日中は、まったく雪がない。学生時代のスキー仲間のFファミリーが来るというのに、これではスキーができず、困ったなと思っていた。ところが、22日の夜から雪になり、23日の朝には真っ白になった。ファミリーが到着した昼頃には10cmくらいの積雪になった。みんな大喜びで、ツーインワンスキー場に出かけて行った。翌24日は、さらに降り積もり、30cmを越し、天気も晴れて、最高のスキー日和となった。自然はわからないものである。今年は、もう冬は終わりだと思っていたら、大雪だ。犬は喜び、庭駆け回るではないが、ファミリーのケイちゃんや、エリちゃんは大喜びだ。帰る日の朝まで、庭にそりを出して、遊んでいた。去年の冬に、帰るとき、「帰りたくない」と泣いていたケイスケ君は、今年は、「また来るね」と笑顔で帰っていった。幼稚園から、小学校1年生になっただけで、こんなに成長するんだね。

      
     写真左・2月22日の山荘         写真右・2月23日の同じ場所
 

2月20日 横浜系ラーメン店で春木屋中華そば

期間限定の横浜系こってりラーメン店で、荻窪の名店・春木屋のあっさりラーメンを出すというので、行ってみた。あのこってりラーメン屋が春木屋のあっさり気味のコクのある味が出せるのか、楽しみだった。器も春木屋風、しょうゆ味スープにメンマ、チャーシューも春木屋風に並んでいて、「これは!」とひと口、「オー、春木屋のだ」と思ったが、ひと口飲んで、麺をすすると、何か違和感がある。麺とスープがからみあう旨さがない。スープの味は春木屋風だが、スープをさまさないよう、ラードか何か油を入れてるような感じがする。それが、本来の春木屋のラーメンとはちがう味にしているのではないか? コラボ企画で、春木屋から直に麺やスープを提供してもらってやっていると思うのだが、長年、培われた春木屋本店のコクはマネできないのだろう。でもこれはこれで、春木屋へ行くモチベーションにつながると思った。

    
 写真左・春木屋中華そば、日野に登場  写真右・春木屋ののぼり、はためく
  

2月18日 稀勢の里は早稲田で何を学んだか?

朝日新聞の主催セミナーで稀勢の里が登壇した。横綱稀勢の里は引退後、早稲田大学のスポーツ科学部大学院で学んだことがある。大学院の社会人講座は高校を出ていなくても入れるようだ。ここで稀勢の里は「どこに自分の相撲部屋を持つか?」という課題を与えれた。大相撲は両国国技館で行われるので、どの部屋も国技館に近い所にある。貴乃花のいた杉並区にある部屋もあるがいずれも都区内だ。稀勢の里も、土地代は高いが交通の便を考えて、都区内としたいと発表した。他の受講生のほとんどからは「今さら東京でないだろう。他県でもいいのでは?」の意見だったという。「土地代が安い」、「歓迎される」、「稀勢の里の地元・茨城県でもよいのでは?」等々、発想の転換を促す論点だったという。これに基づき、検討、調べていったら、茨城県牛久市が「ぜひわが町へ」と名乗りを上げたそうだ。牛久市は千葉県と隣り合わせで東京にも近く、出やすい。土地も安く1800坪も確保でき、土俵も2面、1面は地元のちびっ子相撲にも開放できると、将来性もある。新弟子がいっぱい入り、目下、空いている敷地に寮を増築中という。地元は大歓迎し、駅にも「稀勢の里・二所ノ関部屋歓迎」の看板も出た。学び、人の声、意見に耳を傾けることは大切と、稀勢の里親方は語っていた。

    
     写真左・稀勢の里のコーナー      写真右・対談終わり、退場
  

2月15日 寂れた温泉はどうするか?

裏磐梯のあと、那須の温泉に寄った。那須高原は行ったことがない。御用邸もある高級別荘地のイメージがある。板室温泉の宿を予約した。ナビに従い、那須高原インターを下りた。板室温泉は近くでないらしく、開拓農家が立ち並ぶような田園地帯をまっすぐ走る。途中には蕎麦屋、カレー屋、雑多のお土産やなどが立ち並んでいる。蓼科や軽井沢のイメージではない。広い高原の開拓原野と昔からの集落が混じったような風景だ。
目指す板室温泉も、奥まった山のどん詰まりのような谷あいにあった。予約した「温泉旅館・山喜」は外から見るとたいしたことないが、中に入るとこじんまりした宿で、部屋には温泉もつき、なかなかいい雰囲気だ。
夕方、温泉街を散歩に出かけ、驚いた。建ち並ぶ温泉宿のほとんどが廃館、休館なのだ。つぶれているのだ。小山の上にある温泉神社へ這い上がるようにして行った。ニ、三年前の祭礼で10万円を寄進した宿もつぶれている。コロナが廃館を加速したようだ。お土産屋もすべてつぶれていた。こんな温泉街では山喜一軒、がんばっても未来はない。山間いの村全体で考えなければ、発展性はない。インバウンドであふれる野沢温泉や白川郷の例もある。温泉の質は最高、こんなに入るのに抵抗なく長風呂できる湯もない。みんなで考え、人の手も借りて、復活に取り組んでほしいと山喜の人にも言ってきた。

      
      写真左・温泉神社         写真右・廃墟のような温泉街
  

2月15日 有栖川宮家別邸・天鏡閣

猪苗代湖を見下ろす、小高い丘の上に古い洋風な館がある。これは天皇家の縁戚にあたる有栖川宮家の別邸である。1907年(明治40年)有栖川宮威仁親王殿下が東北を御旅行中、猪苗代湖畔を巡遊した際に風光の美しさを賞し、当時の県知事平岡定太郎の勧めもあり、猪苗代湖を望む高台に御別邸を建設することを決定した。また、諸外国からの使臣や貴賓をお招きするための目的もあったようだ。1908年(明治41年)4月、雪解けとともに起工し同年8月に竣工した 。
なかなか瀟洒な建物である。昭和天皇の結婚のときの新婚旅行にも使われたそうだ。高原ホテルのサービスチケットで無料で入れてもらえた。改装したとはいえ内部は立派で、当時としては最先端をいった建物だったのだろう。最近は映画やテレビの撮影によく使われるそうだ。有栖川宮家はここに、東伏見宮家は蓼科に立派な別荘を持っていた。東伏見宮家の別荘はホテルハイジになって末裔が経営していたが老朽化で手離し、この春からオーベルジュ風の高級ホテルに生まれ変わるそうだ。天皇の縁戚というのは莫大な資産を持っているようだ。150年以上経った今でも、皇族は豊かに暮らせる仕組みができあがっていると見える。

      
      写真左・ 天鏡閣            写真右・立派な食堂間
  

2月13-14 冬の裏磐梯は静か

以前、泊まったことのある裏磐梯高原ホテルから、割引券が送られてきたので泊りに出かけた。スノーシューの道具を携えて。このホテルはなんと言っても、部屋からの眺めがすばらしい。弥六沼を前景に、磐梯山の爆裂火口が目の前に広がる。冬なので弥六沼は真っ白だ。竹中工務店が、施工を引き受けていた発注者が倒産しそのまま建てて、竹中が引き続いて経営しているという変わったホテルなのだ。しかし、サービス満点、料理もおいしく、立派な図書館もあるすばらしいホテルだ。温泉も快適だ。スノーシューを履く必要もなく、ふつうの靴で五色沼めぐりができた。といっても、瑠璃沼止まりで、3つの沼を廻って帰ってきて、図書館の本を借りてのんびりと過ごした。展示室で図書館の歴史のような展示があった。見ると、公共図書館の戦後の取り組みのモデルは日野市立日野図書館に始まるとの紹介があり、ビックリした。巡回図書館は日野が第一号とのこと。当時は共産党の森田市長だった。「道路よりも、図書館を」掲げ、戦後24年間も市長を続けた、名市長だった。裏磐梯で日野市の功績を知るとは意外だった。森田市政のおかげで、市内を走る甲州街道は未だ、単線だ。日野を過ぎて、八王子に入ると複線になる。しかしバイパスができたので、よしとするか。森田市政健在である。

      
 写真左・ホテルの部屋から磐梯山を望む   写真右・凍った弥六沼の向こうに磐梯山
  

2月12日 稲門会カラオケで越路吹雪ショー

前日の11日の夕方、日野稲門会の幹事の方が訪ねてきた。「新春懇親会の出欠確認かな」と思い、「メールで出席の返事を出しましたけど」というと「それが今日でしてね」と言いながら、折詰弁当、缶ビール、お茶を手渡してくれるではないか。”今日”だということを、すっかり忘れていた。ではいつか?というと定かでない。「あるということは知っていて、それがいつかはわからない」。これは完全なボケである。歳をとるということは、こういうことか。それで急に思い出したのが、懇親会の翌日は稲門会カラオケだ。そこで、今日の参加となった。私はテーマを決めて歌うことにしている。今日はすべて越路吹雪の歌でいくことにする。最初は”ろくでなし”、次はサントワマミー。そして初めて歌う”ミロール”、出だしはまずまずだがセリフのところでつまずく、メロディがついていたような、散文調だか?適当にごまかして切り抜けたが、得意の”ラストダンスはは私に” のキーが合わない。散々な越路吹雪ショーになってしまった。さすがに「愛の讃歌」は「越路さんに失礼」と思い、スキップした。次は加山雄三ショーといくか。

      
   写真左・越路吹雪ベストアルバム       写真右・華やかなステージ
  

2月4日 石川県応援演奏会でのこと

石川県の地震応援のチャリティ・クラシック演奏会があるというので、市民会館に出かけた。クラシックは寝てしまう傾向があるので、ホールの最上段、最後部の席に座った。ここなら寝ても大丈夫と。前の方にひとりのおじさん。端の方の席に中学生くらいの男の子とお母さん。あとは誰もいない最後部の席だった。空いていたのだ。演奏が始まって驚いた。前の席のおじさんが体をくねらせながら聞いている。演奏のメロディ、リズムに合わせ、体を右へ左へくねらせ、時折、前にも体を倒す。指揮者のようだ。でも指揮者の動きとは少し違う。体全体で音楽を聴き、体内にメロディを取り込んでいるようなのだ。右前方の中学生を見ると、演奏に合わせ、両手を前へ 、右へ、左へ振っている。これは明らかに指揮者の動きだ。隣のお母さんは静かに見ている。演奏を聞くどころではない。前のおじさんと、右手の中学生を見ているだけで、すごく興奮してくる。最後のブラームスの円舞曲は最高潮だった。音楽は聴くものではなく、見るものだと知った演奏会である。

      
   写真左・チャリティーコンサート        写真右・最後部の座席から
 

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1 月

1月31日 海外、思い出のドライブ旅・「 オレゴントレイル」
 オレゴン・カリフォルニアトレイル アソシエーション

ミズリー州のミシシッピー川から太平洋岸のオレゴン州まで2000マイル(3200K)西部開拓の道は続く。1843年がその第一歩だという。
家族でグループで長い道のりを歩き、牛車に乗って春に出発、秋に到着の行程で半年かけて歩いた。今、その子孫は西海岸に道中のワイオミングやアイダホに住んでいる。歴史的なこの道を保存し、末代まで語り継いでいこうというのがオレゴン・カリフォルニア・トレイル・アソシエイション(OCTA)。会員の大半はこの道をたどってきた子孫たち、白人ばかり。この会に数少ない日本人として私が入ったのは30年前。それからソルトレイクシティ、ペンデルトン、キャスパー、スコッツブラフ、ロックスプリングスと5回の大会に参加し、今回は終着地のオレゴンシティでの開催だ。今回のタイトルは”End of the Trail and Beyond"だ。 この旅は2013年の夏、先月紹介したカナダ・ロッキー豪華列車の旅の前に、シアトルを起点とした。この旅のあとにカナダへ移動して、列車の旅に参加した。

      
   写真左・ミズーリ州の車のプレート      写真右・この車を牛に引かせて
  

  「フォートバンクーバー」

この日の朝、シアトルに成田から着いた。レンタカーでオレゴン州に向かう。大会が開かれるクラッカマスの町までは3時間くらい。高速5号線で一直線だ。偶然にも借りた車のプレートはミズリー州だ。今回のイベントにふさわしい。ミズリーからオレゴンまでがオレゴントレイルの行程だから。途中2回ほど、レストエリアで休憩し、コロンビア川を渡ってオレゴン州に入った。
クラッカマスはオレゴンシティ直前の町、会場の関係でより大きなクラッカマスになったようだ。クラッカマスインに荷物を置いて、会場のホテルに向かい、参加登録した。
記念講演を聴き、昼のサンドイッチを食べ、午後のワークショップは聞いても分からないのでスキップ、フォートバンクーバーに行くことにした。行き方を聞いたら、受付のおばちゃんが自分の車からナビを外してきて調べてくれた。オレゴントレイルのもうひとつの終着点でもあるのだが、対岸のワシントン州なので、あまり関心ないらしい。今朝来た道を戻り、再びコロンビア川を渡って、太平洋に向かって左折した。町を離れ、だんだん寂しくなった所にフォートバンクーバーの史跡はあった。もともとは、まだこの地がアメリカ領土でもない頃、イギリスのハドソンベイ会社が交易の場所として開いたものという。

  

その後、西部開拓の人たちが東から来て、コロンビア川沿いのダレスで山越えでオレゴンシティに向かうか、川を筏で下るか選択を迫られたとき、金のかかる筏を選んだ人が着いたのがフォートバンクーバーだった。金持ちルートの終着点なのだ。
その後、ここは軍の基地に転換したらしく、広いサイトに軍の施設とハドソンベイ会社の歴史的建物が同居している。ビジタセンターの横に日本語の石碑があった。「1832年に愛知県知多の漁師、岩吉、久吉、音吉の三人が難破し、アメリカの船に助けられ、ここに着いた。アメリカに来た最初の日本人」ということを記念するものだった。最初の移民の若松コロニーより30年以上前にも日本人は来ていたのだ。
この日の夜、会員ディナーがあった。一昨年のロックスプリングスで仲良くなったJeane & Robert Watson夫妻と再会、お土産の扇子を渡した。とても喜んでくれた。

      
写真左・フォートバンクーバー歴史保存地区  写真右・知多から流れ着いた最初の日本人碑
  

  「バローロードは有料道路」

東から来た開拓民は、終着点近くで最後の判断に迫られる。最短距離だが難路のマウントフッド沿いの山道か、それとも金のかかるコロンビア川筏下り。そこで既に到着していたSamuel Barlowが山道を整備し、有料道路を作った。それがBalow Roadだ。
ゲートは今でもレプリカがその地に残っている。有料道路といえども悪路には変わりなく、ゲートでは「こんな道に金払えるか、返せ!」としばしばもめていたそうだ。その道路入り口をじっと覗きこんでいる一匹の犬がいた。歩きたいのかな? 有料だったBalow Roadは、倒木や草に覆われ、それ沿いに造られた車道をハイキングした。
途中、 Woman's Graveという、あと一歩で半年の旅も終わるというのに、この場所で倒れた女性の墓があった。悔しかったことだろう。マウントフッドをきれいに望める所もあった。帰り道、フォスター農場に寄った。このフォスターは、ケンタッキーのフォスターとは関係ないが、バローの企画に金を出し、バローロードを一緒に造ったという。二人は有料道路で当て、広い農場を持てたのだろう。開拓初期の成功者なのだ。

      
   写真左・バーローロード建設記念碑      写真右・林の中の道に吠えている
  

  「滝からマウントフッドへ」

昨日のバローロードの案内書に出ていたMultnoma Falls へ行きたいと妻は言う。ヒストリック コロンビア ハイウェイルート30沿いにある。それならマウントフッドのTimberline Lodgeにも寄ってこようと大会には出ず、出発した。Multnoma Fallsはこの辺りの名所らしく、いっぱい観光客がいた。落差200mの滝は2段に分かれていて、その分かれ目にビジタセンターがある。メインの滝には遊歩道があり、それをたどっていくと二段目に流れ落ちる所に橋がある。橋を渡ったら、滝の上に行く道があった。行ってみることにした。
ところがこれが意外と長かった。下から見るとすぐなのに、山を大回りして登っていくので長い。やっと着いた。そんなに水流は多くないが、滝になるとかなりの水量になるのだ。滝見物のあと、昨日のバローロードを反対側から上る形のマウントフッドへの道を走った。Timberline Lodgeはまさに森林限界を越えた2500mの高さにある。マウントフッドの山頂がまじかに見える。まだ雪が斜面に残り、今でもリフトが動き、スキーができる。
アメリカのスキー選手の夏季トレーニング地でもある。一泊くらいしたい美しい所だった。

      
    写真左・美しいマウントフッド  写真右・バーローロード有料入り口
  

  「End of the Oregon Trail」

本命のオレゴンシティツァーの日。まず行った所が、The End of Oregon Trail Interpretive Center、最終地〆の博物館だ。それらしく、階段にはオレゴントレイルの主要地点が刻まれている。
スコッツブラフ、サウスパス…。この町にはいくつもの開拓者の家があり、それを周るウォーキングも楽しそう。今日はバスで主要なマクローガンハウスなどを周った。昼食は公園の屋根のついたベンチでサンドイッチ。このとき、端のテーブルにバックパッカーのような若い女性が現れ、様子がおかしい。熱中症かもしれないと、誰かが通報したのか救急車が来た。しかし彼女は乗ろうとせず、押し問答している、そのうちに”シガー、シガー”と叫んで我々のテーブルを周り始めた。手にタバコは持っているので、ライターを欲しいようだ。だが誰も反応しなかった。そのうちにパトカーが来た。救急車とパトカーで話をしたのか、今度はお巡りさんが何か話しかけているが、動こうとしない。業を煮やしたのか、お巡りさん二人がかりで、わめき叫ぶ彼女をパトカーに押し込んで立ち去っていった。のどかな町の静かな公園の思いがけないハプニングだった。

      
 写真左・End of Oregon Trail Historic Site     写真右・Oregon Trail 博物館
  

  「プレスリー降誕」

この夜、The End of Oregon Trail Interpretive Center前の広場で、サーモンディナーパーティがあるというので出かけて行った。広場には舞台が作られ歌手が歌っていた。舞台袖にエルビスプレスリーの写真が飾ってある。妻は喜んだ。「プレスリーショーもあるようなことを誰かが言っていた」と言う。それではと、サーモンディナーのあとは、舞台が見やすい高台に椅子を持っていった。OCTAのメンバーだけでなく、町の人がおおぜい集まってくるところを見ると、町のイベントに引っ掛けてサーモンパーティをやったようだ。確かに食べていたのは広場の一角に集まったOCTAメンバーだけだった。待つことしばし、暗くなりかけた頃、プレスリーは現れた。あの姿、あの歌、そっくりさんとは言えみんな興奮している。妻も、ラスベガスヒルトンのそっくりさんよりずっといい、と手拍子をとっている。確かに若く、動作も似ていて歌もうまい。中盤からは舞台近くに移動して、まじかに見て聞く。最後は握手会のようになった。妻にも「行け!」とハッパをかけたが、恥ずかしがって行かない。あとで悔やんだのではないか。

      
 写真左・クロージングパーティとエルビスショー 写真右・エルビス プレスリー
  

1月26日 1年ぶりの白樺高原スキー

志賀高原のスキーで右半身の痛みがなくなったので、腰と膝を動かすスキーは神経痛によいのではと思いながら、蓼科に帰ってきた。そこで、またスキーがやりたくなり、白樺高原に滑りにきた。ここは急斜面もないので安全だ。ただ人工雪なので、ゲレンデが硬いのが気にいらない。でも仕方ない、スキーが雪の硬さで流されないように膝を曲げ、スキーをおさえながら滑る。スノーボードの技術検定会をやってるらしく、いちばん好きなスロープは立ち入り禁止になっているのも気にいらない。甲信越ブロックの検定会らしいが、甲信はいいが越後新潟県からここまで来るには骨でないかと心配する。ゴンドラから見ていると、大半はきれいに滑っているが中にはこれで検定受かるかな?と思われるレベルの人もいる。スキー検定受験者は減って、若者はみんなスノボーに流れるのでは?と危惧する。ゴンドラとリフトを6回乗って滑ったら、「もういいや」となり、帰ってきた。鹿山の湯に久々に入り、コーヒー牛乳を飲んで満足した。

      
  写真左・スキー場からの北アルプス遠望  写真右・スノーボード検定前の練習か?
 

1月25日 荒野に希望の灯をともす

アフガニスタンの医療奉仕に尽力し、後半は荒野を灌漑で緑野に替える仕事に注力し、志なかばで凶弾に倒れた中村哲医師の記録「荒野に希望の灯をともす」映画会が茅野市民館であった。
これが見たくて、昨日、志賀高原から蓼科に帰ってきて、前売券を買いに行ったら売り切れ、当日券も買えるか?という人気だという。元々は3回の予定だったが、人気で2回増やしたというので、その増えた昼過ぎの回に入るべく早めに山荘を出た。市民館に行くと、もう数十人並んでいる。これなら大丈夫と思って並んだら、前の回で100人あぶれているのでそちらが先で、「みなさんはその次」と言うではないか。整理券をもらったら136番、300人収容なのでこれなら入れるだろう。係の人に、「なぜ千人以上入れる大ホールにしないのか?」と聞いたら、「まさかこんなに集まるとは思わなかった」と。
会場に入ったら、茅野市の敬老大会と思うほどのじいちゃんばあちゃんの集まりだった。映画は期待通りのすばらしいものだった。最初、医療に専念していたが、病気のもとは住民の食生活が貧弱なことだとわかり、作物を育てられる緑野を作ることが第一と考えた。そこで砂漠を畑に変えるべく、灌漑で水を引き、森を育て、水田、畑を作っていった。それにより、米、野菜が作れるようになって、住民の食生活は徐々に改善していった。さらに灌漑工事を広げる途中の暗殺だった。目標半ばでの中村医師の死は大きな損失だったが、その遺志をペシャワール会が継ぎ、団体で継続しているという。ただアフガニスタンの政治情勢で思うように進まない悩みもあるそうだ。中村哲医師の功績は、ノーベル平和賞に相当するのではないだろうか。

    
  写真・茅野市民館コンサートホール(映画会場)
  

1月24日 雪の少ない蓼科

暖冬のせいか、蓼科の雪は極端に少ない。庭の大半の地面は出ている。ここ二三日の雪で、少し覆われたものの、陽が照ると消えてしまう。この繰り返しで、なかなか積もるまでいかない。こんなことの繰り返しでこの冬は過ぎていくのだろうか? 新潟県に近い、奥志賀はそれでも雪が降ると、ひと晩で30センチくらい積もるが、この冬はまだ1mもないのではないか?やはり、冬はそれなりの雪が降ってほしい。冬らしい景色もそうだが、夏の水不足も心配だから。

      
 写真左・この日は雪が降った、翌日は溶けた  写真右・これで積雪は10cmくらい
  

1月22-23日 日野稲門会スキー

80過ぎのおじいちゃんばかりの日野稲門会スキーが、この冬も奥志賀で開かれた。八王子早稲田会(ここは稲門会とは言わないんだね)から、青木さんが参加され、まだ71歳の若者である。青木さんが言うには、スキー仲間も年とったら行かなくなり、今はひとりで白馬や志賀に来ているという。70でも歳なら、80は完全に要介護者だ。みんな歳だなと感じることがいくつかあった。昨年も来ていたO夫妻は、旦那さんの調子が芳しくなく、あまりスキー場まで歩きたくないということで、シャモニーに泊った。ブルーエと数十メートルしか離れていないのにと思うが...。Tさんは、夕食中に意識を失いかけ、「救急車!」との騒ぎになりかけたが、安楽椅子に座っているうちに平常に戻り、また食事に復帰した。次の日の法坂へスキーツァーの途中、もうひとりのTさんが「あんまり気分がよくない。ここで休んで宿に帰る」と言って、ダイヤモンドゲレンデでリタイアした。80過ぎの先輩が、次から次へと不調を訴えるのは、やはり老化なんだろうか? 明日は我が身である。

      
    写真左・日野稲門会スキー       写真右・奥志賀エクスパートコース
  

1月13 変わった所での中々連新年会

池袋「スタンドバイミート」で新年会、「おッ!洒落た所でやるではないか」と期待して行った中々連の新年会。駅から歩くことしばし、「このあたりかな?」と探すが、管板もない。通りの反対側に連長が苦笑いしながら立っていた。「ここ」と指さす所は通り側に張り出したビニールテント。テントの隙間から中を覗くと、狭いコンクリート敷きの上にテーブルがあり、26人分の箸と皿がびっしりと並んでいた。「ネットで調べて予約したらここだった」と言う。避難所での新年会の雰囲気だ。宴会の途中で、テントの外にヒョウが音を立てて降りだし、隙間から冷たい風が吹き込み、あわててザックを隙間に置く始末。「こんな所で盛り上がるのかな?」と思っていたが、酒が進んだら、いつのまにか大宴会になっていた。最後は鉦の音に合わせての阿波踊りをテントの中と奥のビル内の店を往復しながら踊り狂った。ネパール系の店員も笑いながら見守っていた。変な場所で変な感じの新年会もまたよきかな。(下の写真の宴会場はガラス張りだが、これは開店当初ではないか?道路にはみ出しているか何かで、テント張りに変わったのではないか?、枝豆の写真はつまみに出たもの、皮のまま食べれて美味であった)

          
 写真左・ガラスのような、ビニールのような? 写真右・意外とおいしい枝豆煮物
  

1月10日 豪徳寺参拝

久しぶりに川島夫妻と夕食を食べる前に、妻と一緒に世田谷豪徳寺をお詣りに行くことにした。高幡不動から下高井戸に出て、東急世田谷線に乗換え、チンチン電車のような車両で進む。宮の上という駅で下車、数分で杉並木がお寺に続く参道を歩いてすぐ豪徳寺の門に入る。この寺は。彦根藩井伊家の江戸菩提寺でこの一帯は井伊家の藩地であったという。寺のかなりの部分には井伊家の歴代藩主の墓が並ぶ。あの桜田門外の変で命を落とした井伊直弼侯の墓もある。その墓と共に有名なのは招き猫である。井伊直孝の時代、鷹狩の帰途、とあるお寺の前で猫が中に入るよう手招きをしていた。猫に従って中に入ると、大雨が降り、危うく難から逃れられたことから、豪徳寺を建てるとき、招き猫を守り神としたそうだ。寺では大小さまざまな招き猫を売っていて、それを買って、寄進すると福があるという。境内の一角には多数の寄進された猫が並んでいる。私たちも小さいものを2体買い、1ケは川島さんに上げた。「福がありますように」

      
   写真左・寄進された猫がびっしり        写真右・井伊直弼の墓
  

1月4日 「海保機進入許可なし」で思い出す「太郎小屋に人影なし」

元旦から、能登地震、羽田の事故と大事件が続き、大変な年明けとなった。羽田の事故では、着陸したJAL機、離陸しようとした海上保安機のいずれかのミスではと調べていたが、4日の朝日新聞に「海保機侵入 許可なし」の見出しで、事故の究明記事が出た。海保機の解釈違いが事故の原因らしいが、管制官の指示表現にも誤解を招くきらいがあるとのことで、今後、表現を変えるようだ。この記事でパッと思い出したのが、「太郎小屋に人影なし」の見出しだ。同じ朝日新聞の60年前、昭和38年(1963)1月の記事である。私が高校3年のことである。愛知大学山岳部13人が正月合宿で薬師岳に入ったまま、帰ってこなかった。この冬は大雪で捜索隊も難航、登山基地となる太郎小屋へなかなか近づけなかった。そして1月22日、朝日新聞のヘリコプターから本多勝一記者が太郎小屋に強行着陸して、誰もいないことを確認した。遭難が確実となったときの記事見出しである。全員遭難、最後の遭難者が見つかるまで、その後数年かかったという大事故であった。「許可なし」と「人影なし」には、おなじような悲劇の影が漂う表現である。

      
   写真左・  「進入許可なし」        写真右・「人影なし」
 

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