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蓼科日記

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蓼科・東急リゾートタウン
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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。
毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

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2018年

6 月

6月7〜28日 アメリカ・ルート66ドライブの旅

ルート66はシカゴからロスアンゼルスまで約4000Kの米国初の自動車道路だ。1920年代に開通し、インターステイト・ハイウェイに代わるまで、第二次世界大戦後もアメリカ中部と西部をつなぐ国道として使われたマザー道路とも呼ばれる、いわば日本なら国道1号線に相当する大動脈なのだ。イリノイ、ミズーリ、カンザス、オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアの8州を貫いている。
スタインベックの「怒りの葡萄」では、砂嵐で穀物が壊滅したオクラホマ州の農民家族がぼろ車に家財道具一式を積み込んで、果物が実るカリフォルニアを目指した涙と苦難の道路として描かれている。そんな歴史ある道路も今は通る車も減り、沿線のガソリンスタンドやモーテルはつぶれたものも多く、その残骸が歴史の跡をしのばせる。古き良き時代をなつかしむ人たちが、最近はこの道を辿ることも多くなり、日本の街道歩きに似た現象が起きている。妻にとってもルート66は大好きなエルビス・プレスリーが売り出し中の頃、カリフォルニアへ通った道でもある。後期高齢者直前の私にとって、長距離ドライブの最後の機会と考え、全線走破に挑むことにした。

         
 写真左・ルート66は1926−1964      写真右・B ルート66標識バイク用
 

 借りた車は日産アルティマ

ルート66を走るに四駆が望ましい。なぜなら舗装が完全でないダートの道や坂道も多いからというが、レンタカーで四駆を手配するのは至難なので、二駆を手配した。当日、渡された車は日産アルティマ、コンパクトではあるが、日本車なので安心だ。この車は本当によく走ってくれた。途中、アリゾナでダートで猛烈な凸凹道にはまり込んだときは、何度もお腹を打って、どこかに穴が開くのではないかと思ったが、大丈夫だった。パンクもせず、最後まで障害なしに、ルート66約4000K、途中のペイジ、セドナに立ち寄ったり、ルート66後のヨセミテやシリコンバレーを廻ったのが約2000K 、計6000Kを無事走ってくれた。さすが、アメリカ生産ではあるが日本車だ。返す前に40ドルも払って洗車したが、借りる前よりきれいになって、返すことができた。

      
  写真左・こんなダートの道も走った     写真右・日産車で6300K走破
 

6月7〜8日 シカゴからセントルイスまで・イリノイ州

羽田からANAでシカゴに着いたのが7日の朝、早速レンタカーで五大湖のひとつミシガン湖に面するシカゴ中心部のジャクソン通りに向かった。NAVI が導いてくれた。昔はこの通りがルート66の起点になっていたが、今は一方通行でお終点になってしまい、隣のアダムスが出発点である。Historic Route66 Startの標識を探したが、見つからず、やむなくジャクソン通りにあったEndの標識を写真に撮った。
最初の日なので、今晩の宿はルート66沿いの郊外にあるベストウェスタンのモーテルを予約しておいた。ルード66を走るための道路詳細が載っているガイドブックを事前に入手していたが、走ってみると、細かい曲がり角など、ガイドブックには書いてあると思うが、運転しながら読むことができない。NAVIは目的地への最短ルートを示し、ルート66を通るとは限らない。ルート66専用のNAVIもあるのだろうけれでも入手できなかった。こんなわけで、最初から思うようにルート66を走れないのだ。所どころにHistoric Route66の標識もあるが、十分でない。そこで作戦変更、ポイントをNAVIで指定して、そこへ行ったら、しばらくはルート66を走り、??になったら、次のポイントを指定するやり方で走ることにした。今日の宿はベストウェスタン・シカゴカントリサイド

                
    写真左・Endとなっているが始発点      写真右・最初の宿はBestWestern
 

ハイウェイ55を走って、ポイント方式でOdellで下りてルート66を少し走ると古いガソリンスタンドがあった。今は土産物屋になっていて、ルート66グッズを売っていた。プレートを買った。そのまま旧道を走ると、Pontiacの村に入り、Old Log Houseという食べ物屋があり、雨の中を走って入り、ここで昼食。食堂にはルート66関連のいろいろなものを並べていたがその中にKorea Chapterの写真があった。ハーレーダビットソン関連の韓国の団体らしい。日本人のバイク仲間での旅も写真にあったが、オートバイでのルート66の旅もはやっているらしい。
リンカーンが大統領になった当時、住んでいたスプリングフィールドの町をちょっと見て、今日は雨でもあったのでセントルイスまで行くことにした。これで一日稼げるので、後が少し楽になる。夕方のセントルイスのハイウェイはおびただしい車が走り、中心部を抜けるのに苦労したが、ルート66方向の郊外にやっと出て、ホリディインを発見、ハイウェイを下りて行ってみたが満員、通りの反対側にDrury Inn&Suitesという初めて見るモーテルがあり聞いたらOK,しかも夕食も出るという。ビールもタダで飲め、コスパが高い。ここはよい。

      
  写真左・Odellのガソリンスタンド      写真右・Old Log Cabin
 

6月9日 ミズーリ・スプリングフィールズへ

セントルイスで西部開拓モニュメントのタワー・ゲートウェイアーチに上った。ここから西部開拓の歴史が始まった。ミシシッピ川対岸のカンザス州インデペンデンスが馬車や牛車時代の西部開拓の始発点、オレゴントレイルが始まる。この歴史の道は既に何度か旅して、オレゴンまで制覇している。
今日は車の旅の歴史だ。ハイウェイ44でスタントンで下りた。ここには”世界初の銀行強盗ジェシージェームズが身を隠していたという洞窟がある。今は観光地として人を集めている。大きな鍾乳洞もあり、面白かった。
スプリングフィールドという町に宿をとった。ここはプレスリーがよく使った宿で、玄関前には彼の愛車のキャデラックが置いてあった。部屋の絵もプレスリーを描いたもの。妻はすこぶる満足の宿になった。宿もプレスリーを売りにしているらしく、看板下の電光掲示板には”Elvis Stayed here 1956"と出ている。彼が売り出した頃、まだ飛行機はポピュラーではなく、車でこの道を通ってラスベガスのショーやハリウッドでの映画撮影に出かけていた。夕食はうどんとコールスローサラダ。宿:ベストウェスタンレイルヘヴン

      
      写真左・Elvis             写真右・Stayed here
 

6月10〜11日 カンザスからオクラホマへ

ルート66はミズリー州を抜けるとカンザス州の南部を少しかすめる。ハイウェイ44は通らないので、そのまま行ってしまうと、カンザスを抜かしてしまうので、途中でBaxter Springsの町に向かった。ここはルート66が通っているカンザス州の町だ。そこからできるだけ忠実に旧道をなぞり、オクラホマ州に入った。
Aftonを過ぎて、Vinitaの寂れた町で昼食。中華料理があったので迷わず入った。妻はチャーハン、私は焼きそばを注文した、味はまずまずで箸が使えるのがうれしい。コーラが缶にストローをつけて出てくるのには驚いた。若い賢そうなお兄ちゃんがウェイターをしているが、ここの息子なのか?この町で生きていくには未来がないような気もする。
「怒りの葡萄」ではオクラホマでの未来に失望した若者がこのルート66をカリフォルニアを目指すストリーだが、その話を何か思い出した。途中、世界一のトーテムポールや青いクジラ公園を横目に見ながら、Tulsaの町からまたハイウェイ44に乗った。今日の宿はオクラホマシティのホリデイイン・エクスプレスだ。毎日走ってから、翌日の泊る町が決まったら、ネットで宿を予約するようにした。ホリディインもそうして決めた宿だ。オクラホマシティは州都だけに大きく、ハイウェイをいくつか渡ってNAVIの案内で到着した。ここまでシカゴから1400Kの距離だ。

           
  写真左・ルート66バナーがあちこちに     写真右・途中の町の中華屋で
 

オクラホマシティから西へ向かうハイウェイは40号に代わる。その道をYukonで下り、旧道をEl Renoの町に入った。ここにはルート66の大きな看板がある。Gearyからダートの道に入った。砂埃は舞うが、道はそれほど凸凹しておらず走りやすかった。今日はクリントンに泊ることは決めていた。ここにはエルビス・プレスリーが定宿にしていたTrade Winds Innというモーテルがあり、エルビスファンの妻にとっては避けることができない町なのだ。しかしネットの評価は最低で、「こんなモーテルにエルビスが泊ったとは思えない」 など悪評タラタラなのだ。さすがにこれでは、と敬遠し、ヒルトン系のHampton Innに予約を入れておいた。
お昼ごろに町に着いたので、宿の前にあったモンタナステーキの店で、アメリカに来て初めてのステーキを食べた。おいしい。まだチェックインには時間が早いのでこの町にあるルート66博物館に行くことに した。NAVIにセットした通りに行くのだが、どんどん町を離れるではないか。もう一度、モーテルに戻ってみたら、目と鼻の先にあった。NAVIはどうしたのか?
この博物館はまさにルート66沿線のヒストリー満載だった。博物館の前に、泊まろうとしたTrade Winds Innがあった。古く大きいモーテルだ。エルビスはここの215号室に泊って、その番号札はファンに取られてしまい、ルームナンバーなしの部屋になっているとの話だったが、行ってみると、新しい隣の部屋と字体も大きさも違うルームナンバーがかかっていて、ここかとすぐわかった。何の変哲もない部屋だ。大きなモーテルだが、メンテナンスが行き届いておらず、ネットのように、「ほんとうに、ここにエルビスが…?」と思うような所だった。

      
    写真左・ELRenoの壁画     写真右・エルビスが泊った部屋番号が大きい
 

6月12日 テキサスへ

クリントンの隣はElk City、ここにはNational Route66 Mueseumという博物館がある。今、気が付いたのだが、昨日のNAVIの狂いはここを指していたのではなかったか?開館前に行ったので、隣接する民芸博物館の昔の町模様などを眺めているうちに開館。ルート66を走った車の歴史などもあり、興味深かった。
オクラホマからテキサスへ入る道は平原の中を走り、あまり州を越える感じがしないまま、テキサスに入っていた。シャムロックからマクリーン、アランリードと小さな村をいくつか通り、途中のジェリコあたりだろうか、小さなレストランで昼食。ようやく旧道の走り方に慣れてきた感じだ。今日のメインイベントはアマリロ郊外のキャデラック・ランチ、テキサスの富豪が西海岸から芸術家を呼んで作ったアート、大地に突き刺さったペンキ塗りの10台のキャデラックが並ぶ。けったいな芸術だ。何もない平原に突如、車の串刺しのようなものがあらわれる光景は異常でもある。みんな国道に車を停めて、見に行っている。我々も行こう。 

           
   写真左・NAVIがまちがえた博物館?     写真右・キャデラックランチ
 

今日は、アマリロ辺りで泊ろうとしていたが、妻が昔のクラシックな平屋建てのモーテルに泊まりたいというので、ニューメキシコ州境あたりまで行こうと走っているうちに理想的なモーテルを発見。長い平屋で部屋前に駐車するモーテル、その名もカントリインだ。部屋に入ると、昔なつかしい作り、昔とちがうのは冷蔵庫と電子レンジがついているところ。これがあるから、毎日ソバやカレーライスが食べられるのだ、出発時に買ったポリエステルのクーラー箱に毎朝、モーテルの製氷機から氷を詰め、野菜やハム、飲み物を冷やしながら運んでくるのだ。ホリデイインやハンプトンイン(ヒルトン系)など大手のホテルがモーテル経営に乗り出したのは最近の話、こちらは4,5階建てでエレベータもあり、荷物を運ぶのに苦労しない。ただどこも同じような作りなので趣に欠ける。古いモーテルは味があるのだが、空調がうるさく、バスルームが狭い。新しいのを選んだり、古いのにしたり、走る状況に合わせて旅をするのが楽しい。

     
  写真左・古き時代のモーテル        写真右・室内はこんな感じ
 

6月13日 ニューメキシコ・サンタフェへ

州境に近いエイドリアンがルート66の半分ずつの距離でロス、シカゴまで1139マイル、Mid pointの標識があるというが、見つからない。その先のツクムカリの博物館に写真はあった。テキサスからニューメキシコに入ると、高地に来たという感じで、モニュメントバレーのような山々が見える。ここからサンホンの町までは舗装されていないダートの道をしばらく走る。砂ぼこりを巻き上げて走るが、乾いているので走りやすい。ツクムカリに来た。モーテルが沿線にたくさん並ぶ、まさに宿場町である。道半ばを過ぎた所なので、泊まるには適した位置なのだろう。町を抜けようとする所にルート66博物館があった。
ここにもエルビス・プレスリーの等身大写真があり、妻はご満悦。ルート66最後の1950年〜1960年代の、この道を通過した最大のスターなのかもしれない。旧道とハイウェイ40を交互に走りながらサンタローザの町に入った。ここはルート66がサンタフェ経由になるか、アルバカーキ直行になるかの分かれポイントだ、分去れ、中山道と北国街道が分かれる軽井沢の追分のような所だ。この砂漠のオアシスのような街に水深40mもあるブルーホールと呼ばれる湧き水の池がある。夏はダイビングスポットで池の脇の岩から、たくさんの若者が飛び込んでいた。ひとり、若いお嬢さんが飛び込もうとしては何度も躊躇して飛び込めない。うしろに順番で長い列ができるのだが、お構いなしに逡巡している。男性から促されてやっと飛び込んだのは15分後くらいか。

      
    写真左・ダートの道を走る      写真右・中間点看板、博物館で発見
 

サンタフェグリルで昼食して、我々はサンタフェへ向かう。しばらく走って、ハイウェイ40なのに気づく。これはアルバカーキ直行ルートではないかと、サンタローザへ戻っていった。私の頭の中では、サンタローザの町で分岐すると思っていた。地図を見ていた妻は、ハイウェイ40の途中から分かれていると言う。そこで側道に出て確認。その通りだった。サンタローザから17マイル走った所でルート84に行くのだった。これがルート66でもあったのだ。その道に入ると車の数がめっきり少なくなったが、サンタフェに近づくにつれ増えていった。ラスベガスとロスアンゼルスを結ぶハイウェイ25と合流するからだった。旧道から新道へ切り替わっていく現実を見たような気がした。
サンタフェの町に入ったが、今日の宿は決めていない。ウロウロしている間に、妻はNAVIでセントルイスで泊ったDrury Inn系列と思われるホテルを見つけた。NAVIに導かれそこに到着。Drury Plaza Hotelと一段上の格式だ。フロントに聞くと一泊300ドル、3万円だ。観光地サンタフェでは仕方ないかと投宿。ここも前と同様、二食付き、ビール付きであった。夕方、街に出て、露店が並ぶ旧市街で妻は気に入ったブレスレットを見つけた。60ドル、現金のみという。慌てて、銀行へ行ってATMを聞いた。5時過ぎなのに、銀行は夕方5時閉店の表示があるのにまだやっている?そこで気がついた。時差が1時間遅れて、ここはまだ4時なのだ。

      
   写真左・ブルーホールへ飛び込む      写真右・サンタフェの町で
 

6月14日 ニューメキシコ・グランツへ

立派なDrury Plaza Hotelを後にして、今日はGrantsまでの旅、ここも妻お目当てのエルビス宿泊モーテル泊りだ。アルバカーキまでルート66と重なっているハイウェイ25で行き、アルバカーキのOld Townを目指した。サンタフェ同様、アルバカーキもプエブロインディアンやメキシコ系の文化が残っている。
美術館に入ってその文化の一旦にふれ、ハイウェイ40に乗った。ハイウェイの下り口に時々”Historic Route66"の標識が出ている所があるので、そういう所では下りるようにしている。こんどもLagunaという所で下りた。ちょうど昼どきだったのでガソリンスタンド横の喫茶店のガラス窓を見たら”World Famous Laguna Burger"とあるではないか。「よし、これだ!」と店に入り、注文。World Famous と言うほどのものではなかったが、おいしかった。グランツに近い村でSky Cityの看板発見、山の上に町があるんかと標識に従ってかなり走ったら崖っぷちに出た。そこにSky Cityの案内板、町ではなく昔、戦のときの砦であった。グランツにはSands motelというELVIS Roomのあるモーテルがある。その部屋に泊れるのだ。
部屋の中にはエルビスの写真と結婚したときの証明書写しが。1971年となっているが、その頃のエルビスは絶頂期で「こんな所に泊るはずがない」と言う。翌朝、フロントに聞くと、プリシアと結婚してからここに来て、私たちの部屋に泊ったのは事実だと言う。妻は半分??ながら、納得。ふつうのクラシックなモーテルだ。ここまで見てきたエルビスの宿はすべて古いモーテル、それでもその地ではハイクラスのモーテルだったんだろうな。

         
     写真左・World Famous…       写真右・エルビスルームに泊まる
 

6月15〜18日 休息の地、アリゾナ・ペイジ、セドナへ

4000キロの道を走り続けるのはしんどいので、途中、休息の日を設けることにした。それがペイジとセドナだった。ペイジではアンテロープキャニオンに行き、セドナではパワースポット巡りをして、しばしルート66から離れよう。ニューメキシコ最後の地はギャラップ、ここにはホテルエルランチョという、往年、西部劇等の撮影時にスターが泊ったホテルが今も健在だ。モーテルとはちがい、格調が高い。ロビーには多くのスターの写真が飾られ、客室にはジェーンフォンダやハンフリーボガードの名がついている。
メテオシティからアリゾナ大隕石孔に行った。5万年前、直径45mの隕石がここに落ち、直径1200mの大きな穴を作った。ほぼ完全に衝突の跡が残っているのは世界でもここだけだそうな。ウインスローの町では、私は知らないがイーグルスの代表曲にちなんだ青年の像が街角に立っている。近くのメキシカンタコで昼食。フラッグスタッフで右折してペイジへの道路に入った。ここから212kの所にある。蓼科までより遠い。泊りはカントリインBYラディソン、一昨年泊ったイギリス・エジンバラのラディソンホテル系らしい。町に着いてどこかと見渡したらあった。NAVIでは出てこなかったので、困ったなと思っていたが、ホッとした。

      
    写真左・エルランチョホテル       写真右・隕石が落ちた穴
 

アンテロープキャニオンに行くことにした。個人では入れない所なので、地元発のツァーに参加した。
12時30分集合、13時出発。トラックに揺られてアンテロープ入り口まで行く。そこからガイドについて岩の割れ目に入っていく。長い年月をかけて川の流れが砂岩を切り刻んで、複雑な割れ目を作った。その割れ目の中に入り、上を見ると太陽の光が岩の割れ目に入り込み、美しい帯状の光線が注ぎ込むのだ。得も言われぬ光景とはこういうことを言うのだと思う。奥へ奥へと進んでいく。ガイドは造形された岩を指さし、リンカーンの顔というが、どれが顔なのかさっぱり理解できぬ。30分くらい進むと、反対側の谷間に出た。
この谷間に川が流れていたことがわかる。ここからもと来た道を戻ってツァーは終了。不思議な景色だった。

      
    写真左・アンテロープ入り口       写真右・アンテロープ内部
 

ペイジに2泊したあと、セドナに移動した。フラッグスタッフから南へ24マイル(38キロ)と近い。
セドナの町に入ったら大渋滞だ。予約しておいた宿は沿線には見当たらない。NAVIでも出てこない。わからないので、開いていてお客のいないギャラリーで聞いた。とても親切なお姉さんで、地図に印をつけてくれた。それを頼りに行くがわからない。右往左往しているうちに、妻が地図でその通りが別な方向にあると言う。まさかと思って、そこへ行くとホテルはあった。セドナ・スプリング・リゾート、コンドミニアムホテルだった。台所もついている。長期滞在者も多いのだろう。予約は1泊だったが、ここに2泊することにした。
2日目のセントルイスまで行き、余裕の出た1日をここにあてた。翌日はパワースポット巡りと2ケ所行くことにした。最初は空港近くのエアポートメサ、宿から近かった。ここからはセドナの町が眼下に見える。
座禅を組んで、パワーに没頭しているお嬢さんがいた。またヒューストンに駐在している日本人家族にも会った。もう一つはベルロック、「直感と決断の山」とも呼ばれ、力強いパワーを与えてくれるスポットだそうな。セドナの南、駐車場から30分ほど歩く。暑い夏の太陽を浴びてのハイキングとなった。この町は安室奈美恵が来たことで、日本の女性の憧れの場所になったという。予想以上にきれいな景色で、良い町だ。

      
    写真左・エアポートメサ          写真右・ベルロックへ
 

ペイジとセドナの休日は長距離ドライブが毎日続いていたので、とてもよかった。最初の4日間くらいは時差ボケも相まって、とても疲れ、夕飯を食べると、すぐに寝る始末。だんだん慣れてきたが、ドライブ中に猛烈に眠くなることがあった。そのときはしばらく横になった。また持ってきた東京六大学の応援歌CDをかけ歌うと、なぜか眠気が覚める。紺碧の空しかり、若き血しかり、紫紺の歌しかり、センポールサンシャインしかりである。娘がくれた安全運転お守りのためにも事故を起こすことはできない。この4日間の休息はとても良かった。

      
   写真左・お守りつけて走る         写真右・車もしばし休む
 

6月19日 ルート66もっとも人気コースへ

グランドキャニオンへ行く列車の発車駅ウイリアムズへ寄って、ルート66の最も人気コースへ行こうと思う。なぜ人気かというと、セリグマンからキングマンの間の165キロは、ハイウェイが別ルートを通ったため、ルート66旧道がそっくり残り、古きモーテル、スタンド、土産物屋など満載の街道一の人気コースなのだ。
快適なセドナを後にフラッグスタッフからルート66に戻り、旧道を中心に旅を続けた。ダートの道を行こうと、通常のコースに分かれてダート気味の道に入ったがこれが大問題。急に工事専用のような道になって、線路と高速道路の間の超ハードな砂利道に入ってしまった。車の底に石や溝があたるたびに妻は悲鳴を上げ、「ハイウェイ、ハイウェイ」と叫ぶ。ハイウェイ回避の設定をナビにしたので、それを「ハイウェイ優先」にして、即刻ハイウェイに戻りたいとの叫びなのだが、「こんな所でハイウェイ指示しても戻れるわけがない、ふつうの道に出るまで格闘しなければならい」と諭すが、こんなに慌てふためいた妻を見たのは初めてだった。やっと横に走る舗装道路に出てホッとした。後ろをついてきたもう1台のドライバーと「やれやれ」とお互い指をたてて別れた。ウイリアムズの駅ではちょうどグランドキャニオン行きの列車が発車するのを見ることができた。

      
    写真左・セドナの宿の庭      写真右・グランドキャニオン行き出発!
 

セリグマンにはミルクシェイクが有名なデルカディーロの店がある。ミルクシェイクで作って来たサンドイッチを食べ、昼食とした。付近の土産物屋を見て、旧道を走った。途中のハックベリーの雑貨屋で、主人から「三沢にいたことがある」と言われ、つい土産を買ってしまったりした。
キングマンに泊ることにしていたが、肝心のエル・トロバトレモーテルが見つからない。ここは各部屋に有名なスターの名前がついていて、エルビス・プレスリーもある。かなり進んだ所にあった。はずれだと思っていた場所が町の中心だった。親父がとうとうとしゃべり、チェックインに時間がかかる。エルビスルームを確保、この部屋ではないが、プレスリーは兵役訓練でこの町に来て、このモーテルに泊ったそうだ。部屋には3枚の若い頃のエルビスの写真。妻はご満悦。

      
    写真左・ミルクシェイクの店     写真右・3枚のエルビスに囲まれて
 

6月20日 いよいよカリフォルニアへ

宿の親爺はカリフォルニアへの道はつづら折りの道が続く、昔はダートだった、と言っていた。ところが出だしで道をまちがえ、ラスベガス方面に行ったり、ルート66を走っていると思ったら「Welcome ネバダ」の看板が出てきて、また戻ったりで、ハイウェイでまずは目的地に着くことを先決にして、ハイウェイに乗ったところで、些細なことで妻を叱ってしまった。妻は「日本にすぐ帰りたい。こんな旅行はやりたくない」と言って泣き出すし、ひと波乱。
映画の撮影に使われたバグダットカフェに着いて、アイスティーとバッファローバーガーでようやく機嫌復旧。しかし今日の宿を決めていなくて、これを見つけるのにひと苦労、ロス前のかなり大きな町サンバーナディノに入って探すが見つからず、ガソリンスタンドで聞いたホテルに行くと閉鎖されていたり、その間、ナビで妻が探したホリディインに行くと満室、もう一回ガソリンスタンドに聞いたヒルトンインに行ったら、付近にベストウェスタンやデイズインがあった。ヒルトンに聞こうとしたら、妻は「もったいない」と言って、向かいにあったクオリティインにチェックインしたのが町について2時間後、これまたホトホト疲れた。

      
    写真左・道にもルート66         写真右・バクダッドカフェ
 

6月21日 今日はゴールのサンタモニカ

ルート66、最後の日、マグドナルド第一号店ミュージアムがあるというのでまずここを訪問。この日はロスに入ったらできるだけ忠実にOLD66ルートを走ろうと、パサデナの町からNAVI頼みで、サンセット通りに入り、ヴィバリーヒルズを通って、サンタモニカ通りに入った。これを直進し海岸に着けばそこが終点。それが長かった。ようやく2時過ぎに最終地点に入ったが駐車場が満杯で、レストランの駐車場に入れ、高い料金を払って、最終地点のポールへ行き、記念撮影。妻の背に手を回し、長い旅のナビゲータ役をねぎらった。サンタモニカの海岸は人であふれていた。この日は、できるだけ次の目的地のヨセミテに行く方向の道の町に宿泊すべく、夕方の猛ラッシュの5車線ハイウェイを渡り抜いて、ようやく郊外に出たときは6時過ぎ、ランカスターという町に来てベストウェスタンの看板発見、ここに投宿、もう8時過ぎ、ルート66完走記念してビールで乾杯、ぶっかけうどんがおいしかった。

         
写真左・マックミュージアムには日本コーナーも   写真右・ルート66完走
 

ルート66を忠実になぞっての完全走破ではなかった。ポイントの点と点を結ぶ走破となったが、それでも達成感は高い。ガイドブックをきちんと読み込めば忠実に走れたかもしれないが、英語のガイドブックなので瞬時に読み込むことは無理だし、標識もハイウェイ下り口にあっても、その先の分岐にはなく右へ行っていいものか、左かで迷うことも多かった。大きな街中に入るとなおさらだ。ナビゲータの役割は重要で、過去に走ったことがある人でないと難しい。それでも何とかやり終えて、苦労をかけた妻に感謝したい。
 

6月22日 マンザナール経由でヨセミテへ

ヨセミテまでは楽勝と朝9時過ぎに出たが、これが長かった。途中ローンパインの町で、フィルム博物館を見つけ寄った。ここはハリウッドに近く、無声映画の頃から、西部劇撮影によく使われたという。「大いなる西部」や「ローハイド」にも使われたそうだ。この町を出て12マイル行った所に第二次大戦のとき日本人が強制収容された日本人リロケーションサイトがある、今はアメリカ国立公園局が管理していて、レナルドレーガン大統領の「This was mistake」と謝ったビデオを流すビジターセンターがある。ここで亡くなった人の慰霊塔で涙しつつ深く一礼。同じ敵国のドイツ人やイタリア人には何もおとがめなかったのに日本人だけにこんな目に合わせて不公平と言うと、妻は「真珠湾を攻撃したのだから仕方ない。ここでは三食保証され安全に生活できただけでもよかった。その頃の日本は空襲の連続でたくさんの日本人が死んだし、食べ物もなかった。満蒙開拓団の人たちの方がもっとかわいそう」と反論。それもそうかな?そのあとヨセミテまでが長かった。公園入口まで2時間以上かかり、そこから宿のBig Trees Lodgeまでも2時間、着いたのは7時を過ぎていた。
国立公園のヨセミテはとても広いのに主な宿は3軒しかなく、1年近く前に予約したのに、よいホテルはいっぱいでとれたのが、このBig Trees Lodgeだった。これがバスなしで共同シャワーとなっていて「まあ仕方ない」と思っていたが、部屋に入ったら、「トイレがない」と妻が言う。「そうか、日本はトイレと風呂が別々が普通なのだが、アメリカはバスと言うとトイレとセットなんだ」と理解したが、夜中にトイレに行ったら部屋は鍵が自動ロックされてしまい、トントンと扉をたたいて、妻を起こす始末。朝になってフロントに行って、「バス付に変えてくれ」と頼んだが、満杯でダメとのこと。

      
  写真左・ マンザナール収容所慰霊塔  写真右・BIG TREES LODGE外観は立派だが
 

6月23〜24日 ヨセミテ滞在

この日は午前中、短いトレッキングをして昼に帰ってきて、シャワーを浴び、部屋の前のベンチでツナサンドとビール、ジュースで昼食。高級な山小屋に泊っていると割り切ればよいと考えを変えた。
夕食はサタデイバーベキューに参加。夕方5時からの2時間だが、ロッジの前の会場は夕陽をさんさんと浴び暑くてかなわない。唯一の後ろの木陰にセットされたテーブルがまず取られ、我々はその前の背中に太陽を浴びる場所。汗かきながら、肉をほおばった。翌日はヨセミテの中心のヨセミテバレイに車を走らせた。1時間もかかる。駐車場は満杯で駐車禁止の立て札を移動させて、その場所に確保した。
ミラーレイクまで1時間強のハイキング、これまた暑くてかなわない。今日は摂氏36度くらいで冷たい水がいちばんだ。今晩のディナーはロッジでの晩餐、旅の終わりを祝いたい。

      
  写真左・西日を受けて暑いバーベキュ     写真右・ヨセミテバレー
 

6月25〜27日 なつかしきPalo Alto

ヨセミテのロッジでの最後の朝食を食べて、シリコンバレーのパロアルトに向かった。最後の行程に入った。クリークサイドインに午後3時過ぎに到着。ここは40年前、HP時代に3ヶ月泊っていたモーテル、1泊25ドルだった。今は超高級モーテルになって一泊300ドルも取る。
明日は昔の仕事仲間のダン・マーティンに会って食事するのが最後の行事だ。その前に今晩の食事の総采を買いにスーパーへ。ここまで来ると、寿司、豆腐もある。寿司とサッポロビールを買って、無事ここまで到達したことを祝おう。アメリカンチェリーも買ったら、これがとても甘くおいしい。帰りに洗車に寄ったら、3,000円もした。すべて手洗い、中の座席まできれいにしてくれた。気になっていた、アリゾナの悪路でこびりついたタイヤの裏のバンパーの泥まできれいに取ってくれた。高いだけのことはある。
帰国の日、サンフランシスコ空港に走らせレンタカー返却のため、レンタカー専用のビルに入ったら借りた会社を忘れた。バジェットと思い、そのフロアに入れ、契約書を見たら、ダラーだった。フロアが違うと言われ、抜け道を教えてもらい、何とか無事返却。最後までバタバタした旅となった。

      
   写真左・旧友ダンマーチンと         写真右・最後の洗車
 

6月6日 板東さんの写真展

日野稲門会のスキー仲間の板東さんが青山で写真展を開いた。スキーの打ち上げも兼ねるということで、アメリカ出発直前ではあったが行ってきた。板東さんはプロのカメラマンで、昔ながらの白黒ネガを得意とする。現像も自分でやるそうだ。水の風景を主体としたテーマだったが、奥志賀や湯沢、四国の沈下橋なども出てきて、行ったことがある土地の写真に興味をひかれた。これからもますます活躍して頂きたい。

      
     写真左・作品のひとつ             写真右・鑑賞する
 

6月1〜3日 奥志賀山菜

今年の春は早かったので、奥志賀の山菜はあまり収穫ないのでは?と思ったが、なんのなんのワラビやヤマウドがたくさん出ていた。そしてネマガリダケも初めて採った。これは大変だ。タケノコがありそうな急斜面の笹薮に身をかがめて入り込み、下から上へと這いつくばってタケノコを探す。見つけたら、根元深く掘って、引っ張り、ナイフで根元を切る。這っての作業なのでしんどい。熊もタケノコ好きで取りに来るというから、こんな所で鉢合わせしたら逃げることはできないな。などと思いながらのネマガリダケ採りは怖いが、面白い。

      
     写真左・ネマガリダケ         写真右・ネマガリダケの一品 
 

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5 月

5月25日 知らなかったちまきの秘密

今頃の新潟は、ちまきの季節だ。ひと月遅れの節句に田舎ならどの家庭でも作ったものだ。今はメーカーが作って売っているが、昔は一家総出で作ったものだ。
ふるさと塩野町でも笹を細長い三角形にして、そこにもち米を入れて、もう一枚の笹でフタをして蒸していた。私が死ぬときは最後にふるさとのちまきを食べて死にたいと思っているほどおいしいのだ。
湯沢で集まったとき、岩原駅前の文吾屋さんがちまきをみんなにお土産だと言って、持ってきてくれた。正三角形のちまきだ。駅や物産店で売っているのも正三角形だ。「うちの田舎は長細い二等辺三角形だよ」と言ったら、文吾屋のかあちゃんが、「米が少ないときは細長くするのさ、入れる米が少なくてすむから」。愕然とした。「そうか、うちの村は貧しかったのか。ちまきに入れる米にも苦労していたのか」。越後湯沢は米どころだ。
それでも不作のときは細長くしたという。わが村はいつも貧しかったんだなあ。生まれてこの方、うちの田舎のちまきの形を誇りにしていたのに、この真実を知って、わが村の人々の苦労の歴史を初めて知った。

      
        写真左・二つのちまき         写真右・正三角形は量が多く、細いのは痩せている
 

5月25日 雪国”はここで書かれた
”岩原同窓会”で泊った宿は高半、川端康成の名作「雪国」の舞台となった古い旅館だ。昭和9年から12年にかけて、川端先生はここに滞在して執筆した。そのときの部屋が保存されている。かすみの間の小さな二つ続きの部屋だ。ここに駒子のモデルになった芸者も来たことだろう、窓からは降る雪越しに上越線の汽車が見えたことだろう。
豊田四郎監督の映画もここで撮影されたという。岸恵子も池部良も滞在したという。寒い季節で雪の中での撮影はとてもきつかったそうだ。名作を生んだ宿での”同窓会”は思い出深いものとなった。

      
     写真左・「雪国」はここで書かれた           写真右・「雪国」資料館
 

5月24日 わが青春の岩原スキー場

上越線の列車が清水トンネルを抜けて新潟県に入ると真っ先に正面になだらかなスロープの高原が見える。これが岩原(イワッパラ)スキー場だ。55年前の大学1年のとき、友人の叔父さんが持っている山小屋をシーズン10万円で借りて、冬の毎日、スキーに明け暮れていた。岳文会や探検部の仲間、10人を集めての山小屋暮らしだった。
その当時の仲間で”岩原会”という同窓会をつくり、時々、都内で集まっていたが、なつかしき岩原で、ということになり、越後湯沢に来た。もう山小屋はリゾートマンションの敷地に消えてしまったが、岩原駅前の文吾屋夫妻は健在だ。何かとお世話になった民宿で90歳を超えた二人だが、足腰丈夫で集まりに参加してくれた。
シンガポールからは当初のメンバーだった河合君も若くてきれいな奥さんを連れて参加、温泉で思い出話にカラオケにひと晩、青春時代を懐かしんだ。翌日は山小屋跡地を訪ね、日々滑りまくった岩原のスキー場を廻った。まさに”わが青春の想い出深きイワッパラ”である。

      
       写真左・岩原同窓会の宴            写真右・わが青春の岩原スキー場
 

5月19日 ママさんを偲んで”山菜摘み”
毎年、この季節に花の木のママさんご一行が山荘に来ていた。阿波踊りの仲間や店のお客、いつも20人くらいだった。山小舎には泊り切れないので、半分は上のペンションに素泊まりで泊ってもらった。朝夕の食事は山荘でママさん手作りの料理だった。
2年前からママさんの体が思うようにいかなくなり、中止していたが、「今年も芳しくないので、行ける人でやってください」というメモを幹事の武藤さんがメールした翌日にママさんが急逝した。
今回は追悼山菜狩りツァーとなった。金曜に7人集まり、ママさんの定番メニューだった鴨鍋をやった。味はママさんには及ばないが、おいしかった。翌日は2人加わり、山菜狩り、ワサビ菜やぶどうの葉がいっぱい採れ天ぷらに。わらびもスキー場で採れ、冬の間に貯めておいた薪ストーブの灰であく抜きして、おひたしにした。ママさんの笑顔の写真を囲んで、飲めや食えやの宴会は盛り上がり、最後は恒例の阿波踊り、写真の周りを何度も何度も踊り廻って、山荘の夜は更けていった。ママさんも天国から見ていたことだろう。

      
        写真左・山菜調理風景              写真右・ママさん遺影囲んで阿波踊り
 

5月15日 一周忌の墓地

妻の母があと2か月で百歳という日に亡くなったのが去年の今日。一周忌で八王子の本立寺で身内4人でささやかに執り行った。住職のお経とお墓参りだけのシンプルなもの。お墓に花と線香を供え、手を合わせて終わった、
近くには新井呉服店の立派なお墓がある。松任谷由実の実家である。何代にもわたっての墓なのか、豪勢なものだ。

      
       写真左・一周忌のお墓                写真右・荒井呉服店の墓
 

5月14日 ハイジの村のバラは早かった
北杜市明野にある山梨県民フラワーセンター、通称”ハイジの村”へ行った。バラの季節には少し早いが、今年はどの花も早く咲いているというので期待して行ったが、バラには早かったようで、名物の”バラの回廊”はまだ葉だけだった。
それでもアヤメが見ごろで菜の花もきれいだった。ハイジの村に来たのだからと、チーズフォンデュを食べた。イモ、アスパラ、ウインナが付いて、温かいチーズを絡ませて食べるとおいいしい。この施設の運営は桔梗信玄餅の会社が請け負っているそうで、社員のサービスもよい。以前は県の職員の天下り場所だったそうで、人件費が膨大で運営が行き詰まり、アウトソーシングして息を吹き返したそうだ。いずこもお役所仕事ではうまくいかないのだ。

      
         写真左・ハイジの村                写真右・ハイジの村のお花畑 
 

5月13日 久しぶりの”こぶしの径”

春になって初めて妻と一緒に山荘に来た。八子ヶ峰にでも登ろうと思ったが、「登るのはきつい」と言うので、しばらく歩いていないこぶしの径を下り、ホテルに出て、鹿山の湯に入って、バスで帰ってくることにした。サンドイッチを持っての小ハイキングだ。こぶしの小路は八子ヶ峰正規ルートの登り口の反対側を下りていくもので、わが山荘から取っ付きまで30分くらいかかる。そこからいくつもの別荘地への側線を越え、ペンション街の横を下ると、別荘地入り口から来るメイン道路に出る。そこを渡り、ホテルへのからまつの小径に入る。そこに「荒れているので通行禁止」の看板があったが無視して進む。結果としては歩くには何も障害はなかった。ランチは手前の小川の畔で食べた。鹿山の湯でひと風呂浴びて、夕方5時半のバスで山荘に帰ってきた。ほとんど下りの妻にはちょうどよいハイキングだったのではなかろうか。

           
         写真左・こぶしの小径                写真右・こぶしの小径を行く
 

5月5日 安心して見られる東大戦
今年の早稲田は、昨年に引き続き弱い。初めに立教に負け、続いての明治にも負け、今日は東大戦。弱いと言っても、東大には負けるわけがない。点が入ったときの、隣の人と肩組んでの「紺碧の空」を歌いたくて応援席に入った。入ったときは3回を終わっていて、スコアボードを見ると、なんと3−1で東大がリードしているではないか。そのうち逆転するだろうと、ゆとりを持って応援席に腰をおろした。やっと6回になって、2点とって同点、最終回にさらに2点で逆転して、勝った。
ヤレヤレではあるが、唯一、安心して見れる試合ではあった。早稲田の弱さはスポーツ推薦で思うように優秀な選手を集められず、ほとんどを早稲田実業の選手に頼らざるを得ないことではないか?同じ水では同じようなレベルの選手しか育たず、競争に乏しい。せめて清宮レベルの早実出身者が来てくれれば、状況を打破てきたのではないかと悔やまれる。

      
          写真左・球場風景                  写真右・一塁側応援席 
 

5月2日 庭の桜が早くも咲いた

蓼科も今年は春の訪れが早く、いつもは連休明け辺りが見ごろの聖光寺の桜も4月20日過ぎに満開で、連休が始まったときには散っていた。わが家に植えたソメイヨシノも、いつもの年は5月中旬なのに、連休早々に咲いた。何も手入れもしないのに幹が太くならず、ヒョロヒョロと伸びて、電線に到達している。枝切りをしなければならないのだが、面倒でそのままにしている。桜の花びらも枝にチラチラとつき、密集して咲いているという感じではない。ほとんど花をつけていない木もある。それでも花びらが春の風に吹かれて散る風景は美しい。

           
      写真左・ひょろひょろと上に伸びる            写真右・横にはパラパラの桜
 

5月1日 八子ヶ峰にも春が来た
朝から良い天気で八子ヶ峰日和だ。草原の八子ヶ峰は、晴れていると信州の目ぼしい山は全部見える素晴らしい展望台なのだ。今シーズン初めての山登りに行った。
ガン治療明けの去年は上るのもやっとだったが、その後、体力も徐々に回復し、昨年の秋は普通に登れるようになった。しかしひと冬越した今は、体力が再び落ちていて、最初の尾根への急坂では息が切れた。蓼科湖への道が分岐する尾根にようやく登ったが、ゼイゼイしてしばらくザックの上に座り込んだほどだった。大休止してから、緩やかな尾根を登っていくうちに息は元に戻った。八ヶ岳にはまだ雪が残り、甲斐駒ケ岳も仙丈ケ岳も白に覆われていた。
連休に入り、八子ヶ峰ヒュッテも小屋番が入って、ベランダにテーブルを出していた。東峰から西峰への尾根筋は心地よい春風が吹き、スキー場上のリフト下り場の板敷で横になってひとしきり八子ヶ峰の春の感触を楽しんだ。こんな気持ちのよい日は久しぶりだ。八子ヶ峰に春が来たことを実感した日であった。

      
         写真左・残雪の八ヶ岳                写真右・春の八子ヶ峰
 

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4 月

4月29日 久々の神宮

昨年秋季リーグ戦には来なかったので、昨春以来の久々の神宮球場だ。
昨日の早明戦、一回戦にかろうじて勝ったので、もしかすると?の期待で応援席に入った。しかし初回に3点とられ、1点ずつ返していくが、明治も1点ずつ加点し、5回を終わったら6対3、今日は見込みなしと応援に見切りをつけて外野に移動して生ビール観戦に変えた。東大並みに点をとられて、終わってみれば15−3。先秋は東大と同率最下位だったが、これでは今年もダメか?
次の慶法戦はいい試合だった。2−2から慶応が3点追加で勝負あったと思ったが法政も急追、8回に2点あげて5−4、最終回も一死三塁という好機。しかし一本が出ずゲームセット。
あの強い法政はどこへ行った。メンバーの高校は大阪桐蔭、横浜、作新学院など、強豪ばかりなのに。こんな状況が続くと、またOBによる監督下しが始まるのではないか。
早稲田だって危ないものだ。

      
       写真左・早稲田応援席                 写真右・慶応応援席
 

4月26日 ポストに鳥の巣、今年は?
昨春にも作られた山荘のポスト中の鳥の巣。しばらくそのままにしておいたが、6月になったので取り除いた。小さな卵が数個、ヒナに孵らず残っていた。
これにこりて、もう作らないだろうと思っていたが、ポストを開けてみたら、今年も草を集めてこんもりと作ってあった。今年は何とかヒナになってほしいと思うのだが、卵があるものかどうかはわからない。山荘ができたばかりの春に作られたときはヒナがいた。
知らずに開けて、親鳥が飛び出してきたときはビックリして尻もちをついたことを思い出す。もう一度、そんな経験をしたいのだが…。

      
      写真左・たっぷりの草のしとね              写真右・鳥の巣全景
 

4月24日 温海温泉で同級会

新潟県岩船郡塩野町村・塩野町小学校が私たちが入り、卒業したときの小学校だ。
それが朝日村に変わり、今では村上市塩野町小学校だ。昭和32年(1957年)卒業は60名足らず、今は15人が鬼籍に入り、連絡がつくのは20名足らず、今年は13名が温海温泉・萬國屋に集まった。直前になり3名欠席したが体調不良と身内の不幸だ。
こんなことが日常となった同級会だが、集まれば、いつも昔の話題で盛り上がる。
ワラビ採りに行って、女子2人が山から出てこなくなった話、「またその話か、恥ずかしいからやめてくれ」と張本人のカツイが笑いながら言う。楽しい思い出ばかりでなかったはずなのに、この歳になって思い出すのは楽しいことばかりだ。
カラオケ最後は「みかんの花咲く丘」「ふるさと」で〆るのも好例だ。そんな思い出が詰まった塩野町小学校が今年で112年で閉校するという。全学年で59名、我々の1学年より少ないと聞いて閉校・統合も止むおえないか。涙が出てくる悲しさだ。

      
        写真左・同級会の宴                写真右・加者はみなジジババ 
 

4月14日 奥志賀春スキー
3月になったら暖かい日が続いて、奥志賀の雪もどんどん溶けたという。それでもまだ1mを超す雪が残っていた。みんなが来る前にひと滑りと金曜の午後、滑った。
ベタベタではないが、ザラザラとスキーに絡みつく雪で滑りにくい。体力も使うので、ひどく疲れた。太ももビンビンにもなって昨年の入院明けに滑ったときのことを思い出した。
翌朝、集まったメンバーでアーリーバード滑走に出かけた。朝6時半〜8時半の2時間、硬く圧雪した雪の上を滑るというものだ。圧雪車で雪面を整地してあるので、すこぶる滑る。朝の冷えた雪なので、硬いし、スピードも出る。これはよい。昨日とは大違いの滑りやすさだ。春はアーリーバードに限る。8時まで1時間半滑って大満足で宿に帰って朝食、これで春スキーは終わった。

      
         写真左・春スキーの宴               写真右・冬の奥志賀コース
 

4月11日 笹岡さんを偲ぶ会

私がサラリーマン時代の社長だった笹岡健三さんが亡くなり、偲ぶ会が吉祥寺のホテルであった。横河ヒューレット・パッカード(YHP)全盛の80年代〜90年代の社長だった。
TQCに精力を注ぎ、1982年にYHPはデミング賞をとった。当時はQC全盛の時代で外資系のYHPが受賞したことは誇り高いニュースだった。この挑戦にはわれわれ社員は総動員され、受審直前の年は、残業、深夜残業の連続だった。
残業代だけで数十万円という月が続いた。このときの年収に追いつくのに10年以上かかった。QC成金という言葉もあり、私もそのひとり、今の自宅はこのときの稼ぎでできたと言っても過言でない。深夜残業の帰りはタクシーチケットが使え、よき時代、よき会社であった。笹岡さんとはスキーでも一緒で、吾妻天元台や八甲田に行ったことを思い出す。何人かの社長に仕えたが、働くことのキーポイントを教えてくれた社長であった。合掌。

        
      写真左・在りし日の笹岡さん              写真右・デミング賞の思い出
 

4月4日 年取った叔母
叔母がケアホームに入っていることは聞いていたが、見舞いに行く機会がなかった。
世話になった叔母だが、いろいろなことが重なり疎遠になっていた。
小学校の同級会がふるさと村上であることもあり、思い切って訪ねてみた。狭山市の特別養護老人ホーム。大きい立派な施設だった。面談コーナーまで介護士が車椅子で連れてきてくれた。「ヒコです」「お父さんかね?」と話が合わない。こちらが聞くことには答えたり、相槌をうつが、自分から聞こうとはしない。
「食事はどう?」「作って食べています」、「買い物は?」「スーパーへ行ってます」など、言葉がていねいだ。あとで介護士に聞くと、「三食とも食堂で食べていますよ」。かなりトンチンカンで、認知症が出ているようだ。帰り道、私のことだと理解して話していたのか、気になった。ここで安楽に人生を終えることを祈っている。

      
          写真左・現在の叔母                写真右・老人ホームの催し
 

4月1日 中々連の花見
今年の桜は早く、4月1日なのに井の頭公園はもう桜吹雪だ。葉桜も近い。良く晴れて暖かいので、おおぜいの花見客でにぎわっていた。
中々連は毎年、連長の打出さんが近いこともあって、大きなビニールで席を取っていてくれたが、亡くなった今年は事務局の大川さんが買ってきたビニールシートを広げて待っていたが、サイズが小さくて、これから予想される来る人が座れ切れないというので、追加を買ってきてと買い出しに行った吉田さんたちに携帯で依頼。まだ用意されないうちにメンバーが続々集合、周りの空いてたスペースにも他の花見客が入り込み、スペース拡大がむずかしい情勢に。新聞紙やビニール袋を敷き詰めて領土拡大を図る。
それでも何とかみんな車座で座れる広さを確保して花見の宴は盛り上がった。
そこで恒例、阿波踊り開始。監視人の見回りの間にひと踊りだ。周りの花見客も飛び入り参加、連員勧誘のビラを渡す。これまでの花見でもチラシを配ったが、まだこのチラシで入ってきた人はいない。今年はどうか?

      
         写真左・葉桜近し                 写真右・花は散れども踊りは楽し
 

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3月29日 林家たま平

先代林家三平の孫にあたる、林家正蔵(旧こぶ平)の息子のたま平が二ツ目に昇進したとかで、その披露寄席が日本橋の三越劇場で開かれた。三平師匠の甥の川島さんが席を用意してくれ、妻と一緒に出かけた。真打昇進披露はあるが、二ツ目では聞いたことがない。さすが林家のご威光か。
ほぼ満席、正蔵が口上でも言っていたが、ひいき客半分、義理客半分と見た。三増紋之助の曲独楽に続き、たま平の落語は若いだけあっての高座を飛び跳ねる賑やかな一席、中入り後の口上は正蔵と弟の三平。兄弟そろって「昇進」を「ショウヒン」と噛む始末、「血は争えない」と正蔵がサゲていた。正楽の紙切り演芸のあとに、たま平がもう一席「八五郎出世」。語りもしっかりして元気がよい。将来は親を越えるかもしれないうまさの片鱗を見た。

            
    写真左・たま平昇進披露          写真右・林家たま平
 
  

3月28日 日野の桜

妻が退院し、体力回復のために花見を兼ねて散歩した。コースは市役所から百段階段経由で帰ってくるという基礎的なコースだ。市役所まで行って、アイスクリームを買って、中央公園のベンチで周りの桜を眺めながら休憩、若い家族連れを中心に何組かがシートを敷いて花見の食事をしていた。
大学生らしい若いグループもあったが、飲めや歌えやの老人グループは皆無だ。上野や井之頭には多いのだが、市役所前の公園は場違いなのだろう。百段階段へ続く道沿いの桜はみごとだ。ただ昨年、かなりの枝を伐採した木もあり、見上げなければならない桜木も多く、いささか疲れる。元気に歩けた妻の回復にホッとする。

      
     写真左・退院後の散歩          写真右・中央公園の桜 
  

3月27日 妻の退院

先週、入院した日は雪交じりの寒い日だったが、たった1週間で、慶応病院の前の桜は満開になっている。大腸ポリーブを取る手術も無事終わり、今日は退院日。朝9時過ぎに迎えに行った。
妻は既に個室を片づけて待っていた。一日38,000円の個室にも今日でサヨナラ。高い治療費だったが、保険で何とかなるだろう。病室の窓から見える新宿御苑は平日の朝なのに、結構、人がいる。やはり桜を愛でる人で朝からにぎわっているのだ。支払いをすませ、桜の下で、病院上部のペンの校章をバックに記念撮影をして帰途についた。

            
    写真左・慶応病院をバックに         写真右・国立駅前の桜
 
  

3月26日 水道橋から市ヶ谷へ歩く

明日の退院を前に、最後の見舞いに行く。行く前にテレビで紹介していた水道橋の”中華そば勝本”へ行ってみた。駅から近く、人気の店らしく、入り口に数人、並んで待っていた。醤油ラーメンというより、イリコダシや鰹節など魚介のダシをブレンドしたスープが基本だ。醤油の味はしない。それでもダシの旨味が効いていておいしい。そんなラーメンを楽しんだあと、まだ面会時間には余裕があったので、飯田橋まで歩いた。まだ時間があったので、さらに市ヶ谷へ、お堀の堤の上を歩くようになり、桜が満開だ。
日本歯科大学病院があり、歯科だけかなと思ったら、内科、外科もあった。歯医者になるのにも内科や外科の勉強もするのかな?中央線の向こうにお堀があり、その対岸の桜並木も満開だ。電車と堀と桜の組み合わせは写真向きの風景だ。法政大学を過ぎて、市ヶ谷に着いたらちょうどよい時間になったので、信濃町へ電車で向った。

           
    写真左・ 中華そば勝本           写真右・中央線と桜 
  

3月25日 小平さん凱旋パレード

日本晴れの青空の下、茅野市役所前にはおおぜいの市民が集まった。これから小平奈緒さんの金メダル凱旋パレードが始まる。駅前の市民館までの数百メートルの短いパレードだ。挨拶があり、東海大諏訪高校ブラスバンドの奏でる”東京オリンピックマーチ♪”でオープンカーが出発、通りに出るまで市役所前を半周して、私の目の前で爽やかな笑顔で手を振ってくれた。テレビで見るより、きれいだ。賢そうな美人である。八十二銀行の屋上ではおめでとうボードをかざして行員が祝福している。私は裏通りを廻って駅前へ移動した。市民館前も大変な人だかりだ。茅野市人口の3分の1、25000人が集まったという。「みなさんの応援が、笑顔が、私のスケートのがんばりにいちばんつながります。これからも応援よろしく」と小平さんが挨拶してパレードは終わった。
同じころ、八ヶ岳連峰の阿弥陀岳では7人が滑落、3人が死亡するという事故の救助活動で、青空の中ヘリコプターが慌ただしく飛び交っていた。下では華やかなパレード、上では悲しい遭難が同じ市内で起こっていたのだった。

      
      写真左・小平さんは美人             写真右・山の上では・・・
 
  

3月17日 都電に乗ってグルメ会へ

阿波踊りの仲間を中心に「B級グルメの会」というのがあり、今日は連長・谷口さんのお兄さんがやっている都電荒川線の荒川遊園地前にあるレストラン・ピーナッツへ行った。何十年ぶりかで都電に乗った。
都内唯一の都電、学生時代に乗り降りした早稲田から乗車、終点まで30近い停留所があるのに、運賃はたったの170円均一、スイカなら165円だ。安い!どの停留所も乗り降りが多く、いつも満席だ。
時々、信号では止まり、青に変わったら並行する車と一緒に動き出す。周りの景色も住宅ばかりで軒下を走っていく感じだ。飛鳥山は江戸の昔は花見でにぎわった所、もうすぐ開花で人出も多い。
荒川遊園地前のひとつ先の小台まで行き、そこから住宅街の小路を数分歩いて、ピーナッツへ到着。出てきた料理はハンバーグ、ローストビーフなど洋食だ。どれもおいしい。B級とは失礼な!感じだ。この会を「なかなかグルメの会」に名前変更するという提案に賛成である。

      
        写真左・都電荒川線             写真右・グルメ会のひと皿
 

3月16日 京王ライナー初乗車

先月から京王線に京王ライナーという座席指定の電車が走りだした。縦2席ずつの中央ライナー並みの特製車両だ。新宿での飲み会のあと、駅に行ったら発車時刻間際でまだ席があった。ホームでライナー券400円で買い、乗車。指定された席に着いたらすぐ発車した。
目の上にTVボードがあり、広告主体だが、ニュースも流していて見ているうちにもう府中だ。新宿を出たら次は府中だった。明大前にも調布にも止まらない。府中から先はふつうの特急と同じ駅に止まる。高幡不動まで30分もかからなかった。400円が高いか安いかは微妙だ。特急でも30分強なので、無理してライナーに乗らなくてもよいかも?

      
       写真左・ 京王ライナー             写真右・車両内テレビ
 
  

3月3日 志賀高原は雪多し

この冬の志賀高原は雪が多い。3月に入っても奥志賀は3mの積雪だ。中々連の仲間の矢田さん夫妻がスキーをやるというので、同じ仲間の石塚ナツコさん、二瓶ショウコさんも一緒にブルーエに来てもらった。
アメリカ生活があった矢田さんはレイクタホやベイルにも行ったことがあるとかで奥さんともどもかなりの腕前だ。ナッちゃんもスキー好きなお父さんに小さい頃、よく行ったとかで、素直なきれいな滑りだ。
ショウコちゃんは会津若松育ち、小学校の頃は沼尻スキー場へ学校スキーで行ったとかで、素朴なボーゲンスタイルだが、足腰が強く、ストック使わず、ボーゲンでもスピードに乗ってたくましく滑る。
それぞれ個性的なスキーだ。快晴のゲレンデを軽快に、奥志賀、焼額、一ノ瀬、寺小屋、東館、ぶな平を滑って、ジャイアント底へ、そこで昼食。帰りは西舘を走破し、高天原、矢田さんが若い頃の思い出のゲレンデだったというタンネの森を通って、ダイヤモンドから焼額に戻り、奥志賀へ帰ってきた。
晴れた日の志賀高原を満喫して、夜はリンゴ育ちの牛肉しゃぶしゃぶでおなか一杯。とても楽しいスキーだった。去年の入院明けの太ももビンビンに苦しめられたスキーからほぼ完全に立ち直った感じだ。
入院生活はすごく体力を落とすことを実感したものだった。

       
       写真左・ 妙高山をバックに               写真右・鍋パーティ
 

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2 月

2月26日 元善光寺

元善光寺は飯田の町はずれにある。元がつくから長野の善光寺の本家ではないかと思っていたが、やはり善光寺はここから始まっていた。ここが創建されてから数十年後に長野にも分家して、そちらが大きくなり本家取りされたようだ。元善光寺もこの界隈では大きい寺で山門から80段の石段を登った所に本堂があり、ここからは飯田の盆地が眼下に見える。信州の初詣記事には必ず出てくる有名なお寺だ。真っ暗な回廊を廻る仕掛けもあり、御朱印帳を持った参拝客も多かった。妻の手術入院がうまくいきますように、いつもより入念にお詣りした。100円の賽銭ではダメか

      
       写真左・ 元善光寺山門              写真右・元善光寺本堂
 

2月25日 昼神温泉星空ツァー

ヘブン園原スキー場は夏の星空観賞で有名な所だ。雪のない季節の夜、ロープウェイに乗ってゲレンデに行き、用意されたシュラフに入って、寝ながら星空を見る、というものだ。
冬は寒すぎて雪もあるので、それはやらない。その代わり、ゴンドラ乗り場近くの広場に星空ナイトツァーいう企画で星座の説明やプラネタリウム鑑賞がある。この日はあいにくの曇り空で月もかすんで星は見えない。空にレーザーポインターで光線をあてて、「このあたりが北極星」などと説明されても興味がわかない。プラネタリウムもテント小屋の中で空に骨組みが映り、何とも情緒がない。それでもこれくらいしか見る所がないので、2回も入って、骨組み天井に映る星座を眺めていた。
寒いと聞いていたので、足裏にホッカイロを貼り、スキーヤッケを着こんできたがそんなに冷えてなく、足裏が熱いのだ。星空ナイトツァーは入場料が2200円もする。
われわれは温泉宿のパッケージで来たので、そんなに払ってはいないが、これだけの目的で来た人には高すぎると感じた。

         
       写真左・星空ツァー会場              写真右・煌めく星座? 
  

2月24日 妻と二人でスノーシュー

妻にスノーシューを買ったのは2年前、去年は私の入院で行けず、今年は3月に企画したが、こんどは妻が入院することになり、急遽、今行こうということになった。コースは今月初めに岳文会ツァーと同じ麦草峠、4時間歩くと言ったら、妻はそんなに歩けないというので、とりあえず、途中の五辻まで行って、考えようと言うことにした。
ピラタスのロープウェイで上がり、歩き始めたが、曇り空で風が強い、気温は零下10度、インナー手袋をしているのに指先が痛い。手袋をたたきながら烈風の中を歩いた。森の中の道に入ったら、風が来なくなり、ホッとした。樅ノ木に雪は残っているものの先日のように新雪が冠った状態ではないので、少し趣に欠ける。それでも雪の中を歩くのは心地よい。数十分歩いて五辻の東屋に着いた。ここでこの先どうするか、妻に聞く。「ここで十分」と言うので、引き返すことにした。休んでいると、小学生の男の子を連れた親子が来た。今日は白駒の池まで行って山小屋に泊るという。先日、すれ違ったパーティも白駒の池だった。この季節は白駒泊りが多いようだ。帰り道は先日同様、陽が射しはじめ暖かくなった。指先の冷たさもとれ、快適、快調、気分爽快で坪庭のロープウェイへ戻った。ここのレストハウスでポタージュスープを頼み、持ってきたサンドイッチと赤飯のおにぎりを食べて、2年越しの妻とのスノーシューハイキングは終わった。

      
    写真左・北横岳を見ながら歩く             写真右・五辻にて
 

2月23日 茅野は小平さんフィーバー

ピョンチャンオリンピックで金銀メダルを獲得した小平奈緒さんは茅野がふるさとだ。}
行く前から「激励ポスター」があちこちに貼ってあったが、今は大変な騒ぎになっていた。
母校の豊平小学校にも市役所にも駅にも「おめでとう!」のポスターがあふれている。
コープピアの入口には「金メダルセール」の看板とともに、金メダル当日の信濃毎日新聞の号外が飾られていた。このスーパーは小平さんの家からも近いので、よく買いに来ていたのだろう。市役所でのパブリックビューイングの映像を見たら、御柱祭りの木遣りとラッパ隊の「パツパツパ、パパパ、パパパパー♪」のメロディが流れていた。街全体がお祭り騒ぎだったようだ。ス ト熱が盛り上がり、次の小平さんが出てきてほしいと市民は願っているらしいが、子供が少なくなった今、スケート人口も半減し、スケートリンクも少なくなっているのが悩みだという。

       
    写真左・小平さんの母校・豊平小学校           写真右・茅野駅にも 
    

2月22日 慶応病院

妻が健康診断で「大腸に異常あり」と出て、内視鏡で検査したらかなり大きなポリーブがあるという。ガンでなかったことにホッとしたが、手術で取り除いた方がよいと言う。診断したのは日野市立病院に派遣されている慶応病院の医師だ。通常は慶応病院専属だが週に1回、市立病院にアルバイトで来ているようだ。市立病院は慶応出身の医師が多いらしい。「小さい腫瘍ならここでもできるが、大きいので他の病院でやってもらうことになる。慶応病院は遠いでしょう」と先生は言う。「遠くありません。神宮球場へはよく行ってます」。妻も慶応がよいと言うので、この日打ち合わせに行った。慶応病院は近代的で患者も高級そうな人というイメージで来た。しかし建物は古く、廊下の長椅子が待ち合い場、診察室も垂れ幕のような仕切りを開けて入る。日野の花輪病院と同じではないか。日野市立病院の建物の方がよほど近代的だ。患者も多く、慶応の響きにふさわしくない老人も多い。だいぶイメージと違っていたが、3月22日手術、1週間の入院の段取りで予約してきた。昨年、私が入った重粒子研究所病院はかなり高級な病院だったことを実感したのだった。

2月18日 激戦の日野市議会選挙

地方の市議会、町議会、村議会は議員のなりてが少なく、定員割れも多く、夜に議会を開いたり、議会を廃止して全員集会にしようとか、議会運営に苦労しているところが多いと聞く。東京になると、この日野市あたりはまだそんな心配はないらしく、定員24名のところに33名の候補者が立ち、9名は落選する激戦だ。ポスター板にもほとんど隙間なく候補者の写真が貼られている。選挙公報を見て気が付いたことは、日野自動車に関係する人、中央大学出身の人が多いことだ。いずれも地元の企業であり、学校だ。
公明党、共産党などからの電話もよくかかってくる。わが家は妻は長女と同じ日本女子大出身の人、私は立憲民主党の人に入れたが、町内会で一生懸命やってくれる人にも入れたいので娘に頼んだが、入れただろうか?入れた候補は全員当選した。今回の市議会選しぶりに身近に感じ、公報もじっくり読んだ。

       
        写真左・九名は落選               写真右・バス停の掲示板
 

2月18日 日野稲門新年会

市議会選挙に行った足で、高幡不動まで歩いた。日野稲門会の新年懇親会があるのだ。昨年は平山の公民館で行われた。駅のホームで案内を見てびっくり、今年は豊田でやると書いてある。開始まで1時間を切っている。慌てて、駅を飛び出し、日野駅行きのバスに乗った。いつも下りるエプソン前を素通りして、日野駅へ。高幡から日野駅へ30分はかかると踏んでいたが、20分弱で着いた。思いのほか速い。まだ開始まで20分ある。タクシーに乗ろうと思っていたが、これなら中央線でも間に合いそうだ。幸い、電車も早く来て、豊田駅には10分前に着いた。ここから会場まで7分と案内書に書いてある。会場に着いたときは始まる寸前、何とか間に合った。寒いのに大汗かいた。あとは近況報告、ビンゴ大会では2番目にビンゴとなり、2000円の商品券ゲット、あせったことも忘れる喜びだ。「都の西北♪」を歌って終わった。めでたし、めでたし。

      
       写真左・日野稲門会             写真右・最後は”都の西北♪” 
    

2月11日 美しき麦草峠への道

岳文OB会恒例のスノーシューハイキング、今年は定番・麦草峠。岳文OBは志知さんと山内さん、他はお母さんの世話や、病気などでダメ、年々減ってくる。これも老齢化の現象か。スキー仲間で、ニュージランド、アルプスや北アルプスに行った森さん夫妻も参加して5名で麦草峠へ向かった。前日の雪で、道は新雪に覆われ、木々殊の外美しい。山荘を出た時はいい天気だったのに、ピラタスロープウェイで上った坪庭は霧の中だった。空気も冷たく、風も痛い。前にはスキーで行った人の跡がひとつあるだけ。吹きさらしの雪原に出ると、その跡も消えて、道定からず。ガスの中を進んでいくうちにだんだん晴れてはきたが、オトギリ平あたりでは雪も舞う。幻想的な雪原の景色の中を定かでない雪原を進み、麦草ヒュッテに到着。昼前だったので客は少なく、よい場所を確保して、ココアを注文した。その温かさと甘さが胃にしみる。作って持ってきたハムカツサンドと赤飯おにぎりのおいしいこと。帰りは烈風吹きすさむメルヘン街道をしばらく茅野方面に下りて、狭霧苑地から五辻への森に入った。ようやく烈風地帯を抜けた。
だんだん雲がとれ、青空が広がり、霧氷の木々の上はセルリアンブルーの空が広がった。美しい。東急リゾートに帰ってきて入った温泉の温かさが体を癒してくれた。夜は恒例の寿司パーティ。楽しきかなスノーシュー!!

       
          写真左・Blue Sky                写真右・無事終了
 

2月3日 極楽スキー20周年

奥志賀で毎年、この季節に行われる極楽スキーの集まり、今年で20周年を迎えた。長野オリンピックの開催日に白馬に行ったのが最初だ。当時、私が参加していたファシリティマネジメント協会の集まりの後、銀座ライオンで飲んだとき、スキー好きばかりだったのが始まりだった。白馬には会社の健保組合のロッジがあり、そこに泊った。6名だった。翌年、場所を奥志賀に変えて、さらに参加者が増えた。今、幹事役をやっている永瀬君もそのときの参加者だ。年々増え、10年目を迎えた頃には30名くらい集まり、ペンション・オードヴィーだけでは入りきれず、仲間の三輪さんと私が始めたベルサルームズにも分宿した。今は20名ちょっとに落ち着き、オードヴィーを貸切にしている。最初のメンバーで今回参加したのは私だけ。もうひとりの創始メンバーの大田さんは病に倒れ、欠席した。残念である。この20年間、冬季オリンピックも長野、ソルトレークシティ、トリノ、バンクーバー、ソチ、ピョンチャンと6ヶ所にわたっている。2,3年続けば終わると思っていたが、20年は長いものだ。あと何年続くことか。メンバーの若返りがないと難しいと思いながら、よくここまで来たものだと感慨深い。

       
    写真左・すべてはここから始まった          写真右・横手山での休息
  

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1 月

1月28〜30日 日野稲門会スキー in 志賀高原

4年前から始まった日野稲門会のスキー、奥志賀のブルーエに8名が集まった。
とは言っても、日野稲門会のメンバーは私を入れて3名、あとの5名は幹事長の高橋さんの早大時代にあったデザイン研究会のメンバーで東大や日大もいるという混成部隊だ。若手が入らぬ稲門会では私はいちばんの若手である。
29日はまずまずの天気になったので、サンバレーまで遠出のツァーに出かけた。
前日から天候は少し安定してきて、新雪がうっすらと積もり、雪質は最高で滑りもなめらかだ。前日は動いていなかった奥志賀ゴンドラも今日はOK,快適な滑降で、焼額を越し、ダイヤモンド、一瀬、高天原、西舘、蓮池、丸池を越えてサンバレーへ到着。
グリーンで生ビールでスパゲッティを食す。ブルーエの凜ちゃんは入学試験日とかで休日、一緒にスキーに行った。愛想が格別いい子供に育って、みんなから可愛がられていた。同行の人がブランデー入りのチョコレートを勧めたら、「お気持ちだけいただきます」と言ってビックリされていた。その話を三輪さんにしたら、「自分がお客さんとの会話に使うことがあるので、それを聞いていて言ったんでしょう」と話していた。
同行の安樂さんが高天原で財布を落とし、そのとき財布の中から1万円札が飛び出し、後ろを滑っていた永山さんがばらまかれた札を拾い集め、グリーンのテーブルにくちゃくちゃになった札8枚を広げたときはびっくりした。安樂さんは落としたことに気づいていなかった。夜はこの話で盛り上がった。

          
        写真左・グリーンでの昼食            写真右・サンバレースキー場
  

1月25日 目黒雅叙園の百段階段ひなまつり

雅叙園の百段階段ひな祭りのチケットを朝日新聞販売店からもらったので、目黒へ出かけた。歴史ある雅叙園には坂に沿って作った百段階段の座敷がある。階段の両脇が料亭の座敷というわけだ。今は料亭には使っていないが、催し物に利用されている。
今回は、ひな祭りで井伊直弼家で使っていたお雛様を中心に滋賀、岐阜あたりのお雛様を展示していた。飛騨高山の日下部家のものもあった。毎年、この季節に地方ごとのお雛様を展示するらしく、もう8回目の展示会という。殿様のお雛様はさすがに立派だが、庶民が使っていた土雛も素朴で愛らしい。

         
    写真左・百段階段最上部から            写真右・豪華なお雛様
  

1月22日 東京に大雪の朝

夜中から降りだした雪は朝になると20cmくらい積もっていた。こんなに多い積雪は日野でも珍しい。景ちゃんを4駆・スタッドレスタイヤのシエンタで駅へ送った。都会での雪の朝になると車の数は少ない。帰ってきても降りやまず、一日中降っていた。
翌日は晴れたので、家の前の雪かきをしたが、アパートの前や、高速道路の下は誰も雪かきをやらないので、カチンカチンに凍ってしまい、一週間たっても溶けず、今年の寒さは記録的なことがよくわかる。

          
          写真左・雪の朝                  写真右・車も真っ白
  

1月21日 複雑な中々連新年会

昨日、広田ママさんのお通夜で、今日の午前中は告別式。そして午後は中々連の新年会。ママさんが亡くなる数日前、昨年まで連長だった打出さんんも亡くなったので、今日の新年会は偲ぶ会のような感じでもあった。写真を並べて、献杯と乾杯をするという複雑な会だ。
「中々連の名前は、連が結成される前に広田ママさんの喪主の息子さんが勤めていた東急の高級ケアホームで阿波踊りをやる打ち合わせで打出さんも行き、その帰りの飲み屋での話の中で出ていた焼酎・中々を見て、ママさんの”これでいいんじゃない”の一言で決まったんですよ」とふたりを偲びながら、私は連の成り立ちを紹介した。しめやかなうちに始まった新年会だったが、最後のひと踊りのときは二人に奉納する意味もあってか、いつもより長く、盛り上がったような気がする。これで良いのだ。

       
       写真左・新年会に遺影               写真右・鎮魂の踊り 
    

1月20日 華やかな広田さん葬儀お通夜

新宿ゴールデン街「花の木」の広田ママが急逝されたという話が来て、8日後の今日、お通夜が新宿十二杜のお寺のホールであった。「にぎやかに華やかに、最後のスナック花の木にしてほしい」というママの遺言でお通夜は中々連のお囃子で始まった。
献花をして二階の宴会場に移り、呑んで、スライドを見て故人を偲び、最後は花の木連を思い出しながら、踊って終わった。広田ママさんは店のお客を集めて、花の木連を結成して高円寺の阿波踊りに出るようになった。私はスナックの客ではなかったが、朝日カルチャーセンターの阿波踊り教室に参加して、同じように習いに来ていた花の木連の人を知り、ママさんの面接試験に合格して、メンバーに加えてもらった。
それからゴールデン街にも行くようになったが、店の扉に手をかけるときは、いつも深呼吸をしてから入ったものだ。緊張するのだ。花の木連が30年経ったときに、ママさんは「花の木連終了」を宣言して、このときも盛大なパーティをやった。その後、同じメンバーだった打出さんと一緒に、花の木連を継承することにママさんと話し合い、中々連ができ、浴衣やお囃子の道具を引き継いで今に至った。
紆余曲折があったものの、中々連も大きな所帯となり、にぎやかになった。その生みの親の広田ママさんも打出さんも鬼籍に入り、ひとつの時代が終わったような気がする。

     
       
写真左・ママさんの葬儀                写真右・ママさんの朝日新聞訃報記事
    

1月12日 数ヶ月ぶりの放射線研究所病院での診断

昨年の9月から4ヶ月ぶりに千葉の稲毛の放射線医学研究所(放医研)にやってきた。1年前の今頃は、妻と二人で来て、治療前のインフォームドコンセントを受けた。先月、市民病院でもらった血液・尿検査のデータを持っての受診だ。辻先生曰く「PSAレベルは0.36と少し前より上がってきたがこれは正常、これから上がり方は緩やかになってくる。1年経って、1を越えなければ完治と言えるだろう」との診断。まずは順調に経過しているということか。それにしても、他の病院の検査データを見ながらの診断。ここまで2時間半の道のりでやって来る身としては、なんだか損したような気がいつもするのだが…。しかし久しぶりに見る放医研の構内が懐かしくも感じられるのだ。

      
      写真左・放医研玄関                 写真右・病院への道
  

1月9日 スキー合宿に備えてひと滑り

正月に11日間も滞在していた方々が帰り、その片付けに蓼科にやってきた。
一段落した今日、月末の二つのスキー合宿に備えて、トレーニングのために白樺高原にスキー行った。昨シーズンは、入院生活の後遺症か、退院して参加した稲門会白馬スキーで少し滑ると太ももがジンジンして滑れなくなるという状態だった。またこんなことになっては大変なので、前もって訓練するか。白樺高原はタラタラの斜面ではあるが、こんな体にはちょうどよいかも。3000円のシニア一日券で、ゴンドラに7回乗れば元がとれる。一回一回を丁寧に滑った。太ももも痛くならず、まずまずのできだ。昨夏、高天原まで歩いたことも効いているようだ。久しぶりに、会心のスキーをやったような気がして、帰り道に寄った登美のゴボ天せいろは格別においしかった。

       
     写真左 ・白樺高原スキー場マップ             写真右・新春の山荘
  

1月5日 久しぶりの再会

HP時代の仕事仲間だった加藤君に日野で会った。お互い、日野に住んでいるのだが、私が現役時代に一回、オルガに行ったことがあった。彼は当時、情報システムにいて、その後、私の後を継いだ小林剛さんが定年になった後にその職を継いだ。
HPは分離を繰り返し、今は分離したビジネスを買った会社に移っているという。分離、分離で何がなんだかわからない状態のHPだが、それでもビジネスは何とかなっているようだ。昔の栄光はないとはいえ、そこそこがんばっている。われわれの年金がちゃんと続くことを真に祈る。彼は私以上の飲兵衛だ。夢路という昔から日野駅前にある居酒屋でまず一献、そのあとオルガへ移った。今では娘の穂梓のお気に入りの店なのだが、その前に加藤君に私が連れてこられたのが始まりなのだ。そこで少し飲んでから、駅の反対側のカラオケに行って仕上げて終わった。

1月1日 すしざんまいのおせち

今年の正月のおせちはすしざんまいの三段重ねを娘の景が買ってくれた。
すしざんまいと言えばいつも築地の初競りで億もするマグロを競り落とすことで有名な会社だ(今年はダメだったようだが)。さすがにすしやさんでも生のマグロをおせちに盛り合わせるのはむずかしいようで、焼いたり、煮たりの魚中心のおせち料理となっている。
あれやこれやを摘まみながら、飲むシャンパン、白ワインはとてもおいしい。
正月はやはりおせち抜きでは始まらないのだ。新年の安泰を祈りつつ、みんなの健康を祈念した。

      
      写真左・ すしざんまいのおせち             写真右・新春の食卓
  

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