小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
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蓼科日記

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蓼科・東急リゾートタウン
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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。

毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2005年>

 [1月] [2月] [3月] [4月] [5月] [6月] [7月] [8月] [9月] [10月] [11月] [12月]

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 <2005年> (2005年分は、こちらからリンクします。)

 <2006年> (2006年分は、こちらからリンクします。)

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2005年

12月

12月27日 「今年の冬は寒い」

雪も早かったが、寒さも去年よりきつい。屋根からのツララがすごい。地面まで垂れ下がり、そのまま柱になっている。その後の水分はツララの膨張を加速し、このままでは重さで屋根の庇が壊れてしまう。写真を撮ってすぐ、ナタで切り落とした。
ゲストハウスの給湯器の水入れに使うバルブの下にも氷のかたまりができ、二本の配線がその氷の中に閉じ込められた。こちらもナタで氷を砕いて、やっと二本の線を救出した。しかし氷の重さで配線が引っ張られ、給湯器の接続から外れたようで、周りの金属に触れ、ヒューズが飛び、ブレーカーが落ちる事態になり、風呂が使えなくなってしまった。電気屋さんに来てもらい、原因究明、修理してもらった。
石油の消費も激しく、ついこの間満タンにしてもう半分だ。あわてて石油屋さんに頼んだ。これで明後日からの、ドイツ人家族の10泊滞在も安心だ。電気屋の平出さんは、「この程度で金はもらえない」といつも言う。ビールとお菓子を差し上げた。欲のないいい人だ。

   
 

12月26日 「奥志賀のペンション、いよいよ実現!」

今月初めに見たペンション購入契約を白馬のオーナーのホテルでやることになった。三輪さんと一緒に向かう。白馬で契約の後、長野で長野電鉄に挨拶、奥志賀でオーナー立会いという日程なのでかなり忙しい。
豊科で長野道を下り、松川あたりから雪になった。大町から木崎湖は本格的な雪、白馬に近づくにつれ本降りとなった。ホテル・シェラリゾートは岩岳の先。
久しぶりに来た道だ。子供が小さいときは毎冬、2,3回通った道だ。今日はスキーではない。大雪のシェラリゾートは思いがけない場所に思いがけない立派なホテルだった。よくここで高収益を上げられるものだ。ウェディングに力を入れているとのこと、やはり企画力が差をつける。ただお客を待っていてはダメなのだ。
オーナーの富原さんの若い頃までは、私とまったく同じだった。
早稲田の学生時代に岩原スキー場の登山リフトの小屋に泊って、スキーをやっていた。その小屋をそのまま学生時代に引継ぎ、ロッジ経営の道に入った。学生バンドクラブの合宿メッカになり、立派な練習場も作った。
その後、奥志賀に二軒のペンションを経営し、白馬にホテルを作った。私が住んでいた山小屋は、登山リフトから近い。私の小屋のことも、世話になった文吾屋もその実家の電気屋もよく知っていた。ひとしきり岩原の話で盛り上がる。私は大学を出て、サラリーマンの道に入った。彼は、そのままスキー宿経営に進んだ。そして今は白馬屈指のホテルの経営者だ。
今、自分は、岩原時代の夢を三輪さんに託そうとしている。大回りの道だったかな?
富原さんは法学部なのに、ロッジ作りの設計を自分でCADを作ってやるという設計士顔負けの技術屋さんになった。三輪さんとは使っているCADソフトが同じと、こんどは設計談義で盛り上がった。お互い協力すれば、双方メリットあることもわかり、ペンション契約で終わりということにならない可能性が出てきた。
世間は狭いし、面白い。引渡し後の改装や設備増強にも協力してくれるという。

こんな訳で、白馬で時間が過ぎ、長野へ出かけたのは午後3時過ぎ。
奥志賀現地立会いは正月明けに変更。長野電鉄本社へ着いたのは5時半、三輪さんのきちんとした説明とペンション経営にかける情熱の吐露で、新年早々にも承諾は出そうだ。
来年秋から開業との説明には、「すぐ始めたい人ばかりなのに、余裕がありますね。夏場が稼ぎ時だから、夏からにしたらどうですか」とも言われた。
蓼科に帰り、持ち帰り寿司で、記念すべき日の祝杯を上げた。さあ、新しいビジネスのスタートだ。三輪さん家族にとっても、成功させなければならないし、仕掛け人の私にとっても、責任重大だ。

12月23−24日 「初滑り、雪たっぷり」

昨年の初滑りは雪のない山の中に、一本の白い線が人工雪で延び、その上を滑った。今年の同じピラタスの斜面は全山真っ白だ。ロープウェイ終点の坪庭からも滑って下りられる。様変わりだ。雪質もよく、蔵王の樹氷原にも似た林間コースは、雪に覆われた木々に囲まれ、クリスマススキーにぴったりだ。しかし寒い。時折、小雪の舞う坪庭は零下12℃と凍るようだ。スキーをつけたら、急いで滑りおりる。
24日は、晴れているが寒い。エコーバレイに行った。昨年行ったこの辺のスキー場でいちばん面白いと思ったところ。この時期に全面滑走可能は珍しくありがたい。向井さんは2年ぶりのスキーとかで、晴れていても−12℃と寒いのに、4時過ぎてももっと滑りたいと言う。スキーは理性的な人をも魔物にする魅力があるようだ。

   

 

12月22−25日 「極楽・クリスマスパーティ」

スキー仲間のクリスマスパーティは初滑りがつくので忙しい。
22日は平日、その夜、仕事を終えてから、みんな来る。
私もこの日は夕方まで東京で仕事があったので、家を出たのが夜7時、9時過ぎに山荘についた。みんなが着く前に、室内を暖めておかないといけない。先週ほどではなかったが、室内は1℃、ストーブ、床暖房をフル稼働させて、みんなの到着を待つ。
深夜12時過ぎに来た。12℃まで上がっていたが、常夏の室内にはほど遠い。みんなストーブの前に座り込み暖をとる始末。ウェルカムドリンクも座卓、座椅子を私の部屋から持ってきて、床暖房に車座になって乾杯。20℃まで上げるには半日くらいかかるようだ。
23日は私の誕生日、62歳になった。山荘生活が始まってから、とても忙しくなった。家で夕食をとるのは、蓼科から帰る月曜日の夜だけという週も多い。
いつもなら家族で祝う誕生日も、今回はスキー仲間とクリスマスを兼ねた。家族とは21日に国立のレストランで早めにやった。
仲間が高いシャンペンやすてきなビールグラスを用意してくれ、クラッカーで祝ってくれた。ありがとう。いただいたグラスにギネスを注ぐとぴったり入る。チョコレート色が、徐々に黒に変わっていき、クリーミーな泡と黒色がキッパリと分離するまで数分。この楽しみをこれからは、素敵なグラスで味わえる。
24日クリスマスイヴのパーティはいけ野のディナー。コックさんが始めた蕎麦やさんなので、夜だけは西洋懐石だ。最後に手打ち蕎麦が出てくるのがうれしい。蕎麦アレルギーの向井さんには、そばがきの代りにに野菜てんぷら、最後の蕎麦をウドンに代えてくれる配慮もうれしい。忙しかったクリスマスパーティもこれで終了だ。静かな冬が戻ってくる。

 
  
 

12月17〜18日 「ベンチマーク・クリスマスパーティ」

出版、流通、金融など異った業種のファシリティ・マネジメント担当者でベンチマーク活動をやったのが一昨年。その後もベンチマーク仲間で一年に何回か集まっている。今回は山荘でクリスマスパーティをやることになった。
杉本さんと松田さんがお昼ごろやってきた。スーパーで待ち合わせ、クリスマスケーキを買い、みつ蔵で蕎麦を食べた。この蕎麦やはふだんの休日は店の外まで列が続く人気の店だが、さすが冬の土曜日は昼時でも待たずに食べれた。
午後2時過ぎに、二宮さんから電話あり、バスでタウンセンターに着いたとのこと。永さんも野本さんも一緒。てっきり車で来るものと思っていたので、いささか驚いた。山荘にそろったところで、ウェルカムドリンク。
スパークリングワインを空け、宴会モードになった。夕方になって西崎さんが合流。続いていた宴会をストップし、温泉で少し酔いを醒ますことにした。
その間にイタリアンの店から、パーティ料理をもらってきた。正規のパーティが始まったときには、既に、みなさんできあがっていた。クリスマスソングが流れる中、外は森々とした冷気が漂い、冬の星空が美しい。月の明かりと庭園灯が雪の庭を幻想的に浮かびあがらせる。ホワイトクリスマス第一次パーティは過ぎてゆく。来週は第二次パーティが続く。
さあこんどは、ストーブに火をつけよう。

 
  
 

12月9〜12日 「雪かき」

来週からのクリスマスパーティの準備にやってきた。
先週水抜きをしていないので、不安だったが、凍ってはいなかった。
一週間程度の空きなら大丈夫のようだ。先週は雪でできなかった、外のベランダにイルミネーションの電飾をやった。周りの家はすべて暗いが、その中にひときわ光が点滅するわが山荘は異色の存在だ。
ホームセンターで電動雪かき機を買った。去年は上の駐車場の除雪が大変だったので、下の駐車場しか使わなかった。
今冬はできれば、上も使いたい。まだ20cm足らずの雪なので、雪かき機をかけると砂利まで飛んでしまった。登りながら雪をかくと、雪のしぶきが頭から降ってきて、真っ白になってしまう。まだコツがつかめない。
風呂場のログの壁に防水ペンキ塗りも、一年ぶりでやった。蓼科は湿気が少ないせいか、木の壁もカビも生えず、思いのほかきれいだ。窓を開け放って、ペンキの匂いを出そうとしたが、あまりにも寒いので、閉めたら、室内に漂い、ストーブの暖かさもあり、頭が痛くなってなってきた。もっと早く、寒くないうちにやればよかった。
この4日間の滞在では300枚以上の年賀状のプリントもやり、忙しかった。

   

 

12月5日 「志賀高原まで4時間半」

昨日から降った雪は20cmを越していただろうか。11時に奥志賀で不動産屋の人と待ち合わせているので、少し早めの8時に出ることにしていた。
ところがテレビで雪のため、小淵沢から塩尻の高速道路は通行止めと言っている。そんなに長くは止まっていないだろうと、諏訪インターまで来たがダメ、仕方なく20号経由で塩尻まで行くことにした。
下諏訪までまずまず順調だったが、岡谷に入った途端、動かなくなった。塩尻峠から詰まっているのだろうか。既に11時を過ぎた。1時間遅れると連絡はしたが、この調子では何時になるか。焦るがどうにもならない。岡谷インターまで来たら、開通しそうな気配、あわてて高速道路に向かう。これが正解だった。
ほどなく開通し、その後はトラブルもなく、志賀高原へのなつかしい冬の道に入った。道路沿いの雪は、蓼科より少ないくらいだ。丸池まで来ると、結構積もっていて、Aコースは滑れそうだが、まだリフトは動いていない。一の瀬ではリフトが動き、滑っている。奥志賀も滑走可能だ。12時半過ぎに着いた。
ふつう2時間半で来るのが、今日は4時間半かかった。急いで、ペンションに案内してもらう。思いのほか、立派な造りで、部屋も広く、ホテルのようだ。これなら将来の長期滞在型にも改造しやすい。あとは三輪さん一家の決断次第だ。将来の夢を描きながら、暮れ行く初冬の志賀高原を下ってきた。

 

12月4日 「初雪」

志賀高原のペンション調査で三輪さんと蓼科へ来た。
明日、蓼科から奥志賀へ行こうと思う。東京を出るときから、寒々としていた。
小淵沢で中央高速を下り、富士見高原への道へ入る頃から、雪が舞い始めた。香草庵で鴨せいろを食べたあたりから、本格的に降ってきた。ここの鴨せいろは本当においしい。山荘に着いたときは、真っ白な風景が広がっていた。
雪だ、Winter has come! どんどん積もる。去年はクリスマスでも雪がなかったのに、今年は早い。
夕飯は外でと考えていたが、この雪の中を出かけていくのは億劫だ。暖かい薪ストーブの前に座ってしまうと、動きたくない。あり合わせの材料で鍋にすることにした。
冷凍のえび、牛肉、ほうれん草、キャベツ、玉ねぎ、豆腐などをぶち込んで、鴨鍋のツユという組み合わせ。床暖房の床に座り込み、石油ストーブもつけて汗をかきながらの鍋パーティになった。外はしんしんと降る雪、家の中は暖かい。
こんな冬の夜は楽しい。今晩はひとりでないので寂しくない。駐車場からの階段につけた灯りが、雪の中に光り、とても美しい。明日はどのくらい積もっているだろう。

 
  

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11月

11月19−21日 「薪割り、水抜き、小屋掃除」

先週、チェーンソーで切っておいた薪材をマサカリで割り始めた。今年はじめてマサカリを使った。天気は快晴。久しぶりの薪割りだったので、少し不安だったが、切り始めたらすぐ調子が出てきた。チェーンソーで切るには往生したブナの木も、マサカリではスパッと気持ちよいように割れる。実が締まっているだけに、当たり所に命中するとスパッと割れる。しかし、節のある丸太にあたると、ウンともスンとも言わないものがある。それでも思いのほかはかどり、一昨年の山荘建築のときに伐採され、林の中に放置されている落葉松の材木に取り掛かる時間もあった。雨ざらしだったので、腐ってしまわないかとずっと気になっていた。土にめり込んでいる木にはもう腐りボロボロになっているものもあったが、大半は使えそうだ。太い丸太は少ないので、チェーンソーで裁断しただけで、ストーブに放り込める大きさになる。どんどん薪が増えていく。このときの気分は楽しい。豊かな気持ちになる。割り終えた薪をベランダの下に積んだ。
ほぼ去年の冬入りのときと同じ量になった。これで一安心だ。秋の日暮れは早い。積み終えたときはもう真っ暗になっていた。
さあこんどは、ストーブに火をつけよう。

 
  
 

12月中旬まで来ないので、山荘の掃除を終えて、帰りは水抜きをした。
これからの季節は水抜き・水入れが一仕事になる。水が抜けきらないトイレや配水管には不凍液を流し込む。前の冬に凍ってしばらく水が流れなかったトイレの貯水槽も空にしてから念のため不凍液を流し込んだ。
先週、運び込んだクリスマスツリーのもみの木には、たっぷり水を流し込み、乾燥しないようにした。
「薪割り、水汲み、小屋そうじ、みんなでみんなでやったけ…」という歌を思い出しながら、「薪割り、水抜き、小屋掃除、ひとりでひとりでやったけ」と口ずさみ、木枯らしが来て、白くなった赤岳の頂を見ながら、帰途に着いた。
 

11月12−14日 「冬支度」
この夏来られた中村さんが、晩秋の高原生活を経験したいとこの週末を山荘で過ごされる。
2年後には甲斐大泉に家を建て、東京から引っ越してくるという。明日は土地の契約もあるそうだ。それまでに四季の山暮らしを見ておきたいそうだ。
土地が終わると、工務店さがしだ。スウェーデンハウスを希望しているが、値段でどうかというところ。私のログハウスの建築事情を少し話した。
友人の三木君は商社で建材担当だっただけに、建築に詳しかった。
彼の助言は完成したら、見えなくなる場所に十分配慮する必要があるという。基礎工事では、ベタ基礎(全面コンクリート張り)にこだわった。独立基礎や布基礎は、地面むき出しになり、湿気が防御できないので絶対ダメと言った。特に毎日住んでいない別荘ならなおさらのことという。
そして屋根や壁の断熱材、これもグラスウールではなくウレタンにこだわる。天井を張ってしまえば見えなくなる部分だ。やはり湿気防止の観点だ。
床下はベタ基礎、80cm上がっていて、床暖房の下にウレタンを入れ、さらにその下をフェルトで覆った。寒冷地の冷気は床下から来ることへの何重もの防御。そのおかげで、この山荘は湿気知らずで、室内も暖まってからは、暖気が抜けず、快適だ。こんな話を中村さんにはした。「基礎と断熱材が肝心ですよ」と。
もみの木も運び込まれ、クリスマスツリーもできあがった。さあ冬到来だ。

   
 

きれいに晴れ渡った晩秋の空のもと、あせっていた薪割りを始めることにした。この6月に足柄山の薪割り」名人・今村さんに手伝っていただいて富士見の大上さんの建築現場から運んできた材木をチェーンソーでストーブに入る大きさに切った。
運んだのはブナや楢などの広葉樹、火が長持ちするので針葉樹より熱効率が良い。それは実が締まっているということなので、何しろ重い。転がしておいた場所へチェーンソーの電源コードを引っ張っていてのカッティング。大きいものはなかなか裁断できない。だんだんチェーンソーの刃が斜めに食い込んでいく。切り屑が飛ぶ、進まない。止めて、材木を裏返して刃を入れる。こんなことを繰り返すうちに大汗をかく。乾いたのどに甘い柿がうまい。水もうまい。ゴクゴク飲む。
チェーンソーで切った小ぶりの丸太を屋根やベランダの下に積み、今回の作業は終了。マサカリで縦に割る作業は来週回しにした。
終わった頃には、晩秋の夕闇が迫っていた。タオルと着替えをぶら下げて、落葉ふりしきる道を温泉に行った。チェーンソーの振動でしびれた腕と、曲げっぱなしだった腰に、温泉のジャグジー風呂はすこぶる気持ちよい。肉体労働の後の湯は格別だ。
 
11月4−6日 「小津安二郎記念・蓼科高原映画祭」

松竹映画の名匠・小津安二郎監督は蓼科に別荘を持ち、ここで数々の名作の構想を練ったという。こよなく蓼科を愛した人でもあった。その小津監督を記念して、数年前から映画祭が開かれている。今年は、茅野駅前に出来たばかりの市民館がメイン会場になった。
見放題の券を買って、二日間で7本もの映画を見た。ふだんは1年に1,2本しか見ないので、5年分くらいを一挙に、二日で見た。小津作品をはじめ松竹映画が中心だが、台湾や韓国、そして東宝作品などもあった。
印象に残った作品の感想。 「スイングガールズ」東北の町の高校で女子生徒を中心にしたジャズバンド結成の物語。「ウォーターボーイズ」の女子高校生版でもあり、監督も同じ。何せ愉快だ、笑いが途絶えない楽しい映画だ。「ジャズやるべー、ンダズ」の東北弁もモダンさと反比例していてすこぶる面白い。驚いたのは、この話のモデルが蓼科高校の女子ジャズバンドだということ。ジャズ好きの社会科の先生が赴任して、四人の高校生から始まったという。ジャズは好きだけど、楽器はダメというのも、映画の先生も蓼科高校の先生も同じ。そして圧巻は、映画の終わったスクリーンが上がるとこのバンドの演奏が始まったこと。映画の余韻も消えぬうちに、モデルになった高校生の生演奏が聞けた。映画以上の本格的なジャズ演奏ですばらしかった。心憎い演出だった。
「カルメン故郷へ帰る」何と昭和26年の北軽井沢が舞台の映画。なつかしい草軽電鉄の軽便鉄道が、浅間の煙を横に見ながら、高原をゆっくりと走る。美しい。”草刈り電鉄”とも呼ばれた、のどかに走るあの鉄道が今に残っていたなら、大変な観光資源になっていたことを考えると本当に惜しい。
私が初めて北軽井沢に行ったのは昭和38年、その前年に廃止されていたが、北軽井沢の駅舎と線路は残っていた。映画に出てくる北軽井沢駅もそのときと同じものだった。この映画に美しい思い出として残ったのはせめてもの幸いだった。

   
 

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10月

10月29−30日 「チェロ&ソバの会 」 中山道

片貝さんはソフト会社の役員、忙しい仕事をしながらチェロを習っている。そのお披露目も兼ねてチェロの演奏会を山荘でやろうと決めたのは今年のゴールデンウイークのとき。一生懸命、ゲストハウスで練習されていた。「演奏会をここでやりませんか」「いいですね」と、二つ返事だった。その日がとうとうやってきた。
演奏会は夜なので、昼は紅葉たけなわの中仙道を歩くことにした。前夜から来られた方に、朝、茅野駅でピックアップした2人を入れて総勢8名で木曽路に向かった。薮原から鳥居峠を越えて奈良井宿まで歩こうという企画。
茅野駅でパラパラ降りだしたが、奈良井駅では本格的な雨になってしまい、峠越えはやめ、奈良井の宿場見物に切り替えた。
長い宿場町を抜け、歩いて越えてくるはずだった峠への石畳道まで行ってみた。もみじの中の峠越えはさぞかしきれいだったろうと残念がる。
五平餅をみんなでほおばり、塩尻峠から下諏訪、和田峠へと車で中仙道をたどった。途中に旧道の小道も見えた。ビーナスラインは霧の中、蓼科に帰ってきて鹿山の湯につかり、夜を待った。
そば打ちに片貝さんの娘さんの川本さん一家が来てくれていた。旦那さんが、すでに山荘で、粉をこねていられた。10人以上のソバを打つのは初めてだそうだが、その姿は本職はだしである。

   

 

東急リゾートホテルに泊っている加藤さん夫妻が到着し、いよいよ演奏会が始まった。
チェロとはどんなものかの講釈が片貝さんからあり、「浜辺の歌」が秋の夜の山荘に響いた。重厚な音色、ログハウスのすべて木の壁に反響して、気持ちよい。
2階のロフトや階段で聞くと、さらに響きがよい。私は階段で聞いていた。秋の夜にふさわしい「枯葉」も含めて6曲、ミニコンサートは出席者の暖かい拍手の中に終わった。お孫さんから花束をもらい、片貝さんはうれしそうだった。
本番は練習のときよりうまく弾けたと片貝さんも喜ぶ。夜のしじまの中にチェロの余韻がずっと残っていた。
チェロの後は、お待ちかねの手打ちソバ、川本さんはウドンも手打ちで用意してくれた。ウドンの汁とソバの汁は別という本格派。
薬味も豊富で、打ちたてのソバもウドンも、この上なくこしがあっておいしい。
川本名人も、うまくできたと喜ぶ。特に汁は今まででいちばんおいしいという。
水がちがうようだとのこと。蓼科の水はうまく、湧き出ているところには、タンクで汲みに来ている人もいるほどだ。蓼科の水はソバ打ちに最適と知った。

   

 

<参加者からのメッセージ>

日頃の心の垢洗い流す(温泉に2回も入って、体も流しましたが・・・)機会をいただき本当にありがとうございました。
私もこの10年は人生いろいろなことがあり、温泉や旅行を楽しむ機会が殆どありませんでしたが、今回のお誘いを受け、楽しみにしていた以上にリラックスと新しい出会いと、そして蕎麦などの食事を堪能させていただきました。
(高級一眼デジカメのIさん)

 

週末は大変に愉しい時間を過ごさせて頂き、ありがとうございました。
日頃のあわただしい都会生活をひと時忘れて、「ハイソ」で「ゆっくり流れる」時間を十分に満喫させて頂きました。
それにしても小田さんのホスピタリティには感激です。初めてお目にかかったにも関わるわらず、もう数年も懇意にさせて頂いているような気になりました。
片貝さんのチェロの演奏も感激しました。
「パソコン活用の手引き」を著される多芸の方が、まだまだ新しいことにチャレンジされている姿も拝見し、小生も勇気が出てまいりました。川本さんの「玄人はだしの蕎麦とうどん」も大変においしく沢山頂きました。
どうもありがとうございました。
皆さんとは一足先に茅野から帰らせて頂きましたが、帰りの車中の中でも、「ゆっくり流れる時間の中」でまどろんでおりました。
(社内監査ではきびしい?Tさん)
 

初小田山荘デビューが紅葉美しい時期に、「チェロ&ソバの夕べ」+トレッキングという盛りだくさんのイベントで、十二分に五感を活性化し、秋を満喫することができました。やはり、人間にはこういう時間が必要だと実感しました。
そして皆さん、すばらしいチャレンジ精神とともに、「丁寧に」生きていらっしゃるなぁと感じました。さっさとと仕事を切り上げて大事なことに使わなければ!っと切実に思いました。(ワークライフバランスは実感しないとだめですね)。
片貝様、大事なチェロを触らせていただいてありがとうございました。私にとっては大事な日になりました。
川本様、おいしいお蕎麦&おうどんをありがとうございました。食べてばかりで申し訳なかったです。
(思い出とともにいろんなものを残していかれたWさん)
 

片貝様を中心としたIT関連のグループに加えていただきまして、よい刺激と勉強になり、東京では味わえない、長閑で素敵な数日を過ごすことができました。
片貝様の音楽への深い愛情には、これまで忘れかけていた大切なものを思い起こさせていただき、聴き入りながら、酔いの中に凛然とした思いにさせられました。これからは、夜毎の酒のみではなく、美しいものへこころを向けていこうかと思っています。
(山登りの重装備が役にたたなかったUさん)

 

今回もまた素敵な山荘生活でした。そこではいつも、身も心も豊かになれる時間が流れており、私にとって、とても大切な空間となっております。
チェロの音色の奥深さを再確認致しました。片貝さん、頑張りますので・・・奏法お教え下さい。「チェロそば友の会」!是非、また皆様にお会いしたいです。
(片貝さんと一緒にチェロを習い始めたはずのYさん)

   

 

10月15−16日 「中学の仲間」

村上は新潟県最北の町。小さな城下町、私が村上中学校に通っていた頃は、瀬波温泉くらいしか知られていなかった。しかし今では、新潟県でも名だたる町に数えられるようになった。古い城下町の町屋を生かしてのおひな祭り、屏風祭り、三面川の鮭料理、日本最北の茶どころ、銘酒〆張鶴と観光客が絶えることがない。そんな町で中学時代を過ごした仲間が山荘に集まった。建築家、ISOの審査員、ミルクの物流会社社長、私学の事務本部そして郵便局と、社会へ出てからはバックグランドはちがったが、育ったのは村上だった。
秋の一日を中仙道の望月宿、茂田井宿、北国街道の海野宿と宿場めぐりを楽しんだ。そして翌日は、さわやかに晴れた八子ヶ峰へ登った。紅葉が始まっている山道をみんなで歩くと、中学時代に登ったお城山を思い出した。麓からつづら折に登っていくと、石垣が現れ、天守閣跡に登りつめる。そこから見下ろす村上の街、その向こうに三面川河口から注ぐ日本海、瀬波温泉の松林、水平線には粟島も見えた。写生会やマラソンの練習でよく行ったものだ。そんな懐旧の思い出も口に出るハイキングになった。

   
 

10月11−13日 「上高地帝国ホテル」

娘が修学旅行でいない間を利用して、妻と上高地帝国ホテルに滞在した。
私は昨年、シンガポールのMokさんと泊ったことがあるが、妻は初めて。
今年の紅葉は少し遅れているというが、晴れていたせいか、とてもきれいだ。
ホテルのベランダからは、奥穂高から前穂高への吊尾根がいつも見える。朝焼けから雲たなびく昼、夕日に染まる黄昏と、変わり行く秋の穂高は飽きない。
快晴の梓川に沿って歩いた。明神池に立ち寄り、奥又白へ続く山道から、岳文の先輩の遭難レリーフに立ち寄った。40年前の夏、前穂高の岩壁をクライミング中、上から滑落したパーティに巻き込まれての遭難死。奥又白沢の対岸、林の中の岩にレリーフがはめ込んであるが、登山道からは見えないので、ほとんど訪れる人はいない。月日も過ぎ、岳文会も45年、遭難は伝説になりつつある。数年前に行ったときは、昔のアサヒビールの缶が朽ちかけて置いてあった。先週、富山の飛騨先輩が来ていることを知っていたので、レリーフの前には新しい酒や線香が置かれていた。妻とふたりで、線香に火をつけ、酒を供えた。
帰りは徳沢に出て、秋たけなわの草原でしばし憩った。
蓼科にいると、掃除だ洗濯だ来客だと、いつも落ち着かないが、ホテル暮らしはぜいたくだが、ゆっくりと自分の時間が使え、いいものだ。三日間の上高地の逍遙を楽しんで、蓼科の山荘に帰ってきた。

      
 

10月9−10日 「雪よ岩よわれらが宿り…」湯の丸山

極楽スキー仲間で北軽井沢の熊谷山荘に泊り、湯の丸山に登った。
あいにくガスっていて、見通しが悪いが、紅葉真っ只中だった。鹿沢温泉の上の湯の丸スキー場ゲレンデを登り、急坂を登りつめると岩稜というか、石ごろごろの山頂に着く。そこまでの登りと山頂から鹿沢への下る道沿いの紅葉がみごとだった。赤、黄に染まった木々が次々と現れ、霧の中に消えていく。鹿沢温泉は「雪山賛歌」歌詞発祥の地として名高いが、どうしてあの場所で「雪よ岩よわれらが宿り…」という歌詞ができたのか、ずーっと不思議に思っていた。
湯の丸山に登って、はじめて意味がわかった。山頂は岩山であり、冬には登り甲斐のある雪山になるであろうことを。山から下り、山荘で鴨鍋をした。これが何ともうまく、天気いまいちの秋の山登りを十分に補ってくれる味であった。

   
 

9月30−10月1日 「あわただしいゴルフ組」

金曜日の夜来て、土曜の朝、ゴルフに出かけて終わり、という今まででいちばんあわただしい人たちだった。
夕方来た人たちと、上のペンションアダージオで食事をし、夜10時のあずさで着く人を茅野に迎えに行き、帰ってしばらくしたら、仕事を終えて車で来た人が到着し、全員そろったところで宴会始まり、星がきれいだと外に出て空を仰ぎ、バタバタと風呂に入り、2時ごろみんな寝た。
朝は7時半から、テラスでヨーデルを聞きながら、今回メインイベントの山荘のブレクファスト、食事を終わると、ゴルフ支度をして、そそくさと車に乗り込んで出かけていった。みんなゴルフ場から、まっすぐ東京へ帰る。山荘には数時間の滞在。それでも目一杯、山荘をエンジョイすべき事項はやっていった。
ああいそがし!

   

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9 月

9月28−29日 「5時間歩いて本沢温泉へ」

今週は入れ替わりお客が来るので、10日間ほど滞在した。
天気予報を横にらみして、秋晴れが続くというので、八ヶ岳越えに出かけた。
目指すは本沢温泉の野天風呂。蓼科三井の森別荘地先にある唐沢温泉に車を停めて、西尾根を天狗岳へ登った。
秋晴れの予報に反して、山はガスの中。時々、ガスが晴れて、八ヶ岳の山々や澄み切った青空が見える。しばらくは北八ツらしい森の中、天狗岳頂上付近は岩がごろごろ、3時間ほどの登りで2,600mの西天狗岳に着いた。
ここから見える東天狗、根石岳のへは岩稜が続く。白馬の杓子岳から白馬槍への稜線に似たところもあり、かなりアルペンティック。響きのよい夏沢峠は、いつか来てみたいと思っていた所、山小屋が2軒あったがいずれも閉まっていた。
もう山はシーズンオフなのだ。夏沢峠から小海線側へ下ること40分、気持ちの良さそうな河原の野天風呂が見えた。
本沢温泉でチケットと缶ビールを買って、タオルぶら下げ温泉へ。白濁した硫黄泉は温度もほどよく最高。いつかは来たいと思っていた温泉。やっと来た。標高2150m。ライダーの人も数人いたが、温泉だけが目的でここまで来たようで、東京へ帰るという。山へ登ればいいのにね。
周りはガスがかかっているが、沢の音と黄色くなりだした木々に包まれ、ゆったりとした時間が過ぎてゆく。そんなにゆっくりもしていられない。あと1時間歩いて、しらびそ小屋に泊ることになっている。この小屋も長年、来てみたかった山小屋。小さなミドリ池のしらびそ小屋は、雰囲気の良い小屋として、よく山渓などの雑誌に紹介される。夕暮れの小屋は冬の準備の薪割りに忙しそうだった。

   
宿泊客は私と9月末まで黒百合ヒュッテで働いて茅野に帰るという娘さんの2人。夕食は小屋の家族3人と手伝いに来ているという先生と呼ばれるオジサンと一緒に、ストーブを囲んでの家庭的な食卓だった。
優勝かかった阪神・巨人戦を全員で見た。ふだんは9時消灯なのに、この日は阪神優勝に免じて延長。
寝室へ行くとき見た空には、星が降るほどにいっぱい出ていた。
この夜は冷え込み、今年の初霜の朝になった。空澄み渡り、昨日は見えなかった天狗岳が朝日に輝いていた。「また来てくださいね」の奥さんの声に送られて、中山峠を越えて、黒百合平を経て、唐沢鉱泉の車に帰ってきた。同じ道を通らず、森とアルペンティックな山、温泉、気持ちのよいヒュッテを巡る理想的なコース。また歩いてみたい。
 

9月26日 「海野宿」

北国街道は信濃追分で中仙道から分れ、善光寺へと続く昔の街道。その先の柏原には小林一茶が住んでいて、この道を俳諧修行に幾度となく往来している。そのひとつの宿場が海野宿。中仙道の宿場と比べると、規模は小さいが、今も昔の面影を残している貴重な歴史保存地区だ。昔の宿場は左右に旅籠が立ち並ぶ通りの中央に掘割があり、水が流れていた。しかし明治に入り、馬車や車が通るようになると、通行に不便と埋め立てられ、その後舗装されていった。もうどの宿場町にも掘割は残っていない。ところが、この海野宿にはそれが残っている。数百米の掘割には柳や花が植えられ、行燈型の街路灯も風情を醸し出している。コスモスが秋の夕日を浴び、連休明けの海野宿はひっそりとしている。
今年に入り、中仙道の望月、茂田井、芦田、奈良井、薮原の宿場、そしてこの海野と宿場づいている。歴史をたどる山旅や街を訪れることの面白さを知ったのも、蓼科に山荘ができてからだ。信州中央部を中仙道が横切り、縦に甲州街道、北国街道、塩の道、斜めに野麦峠や安房峠を越える鰤(ブリ)街道と、歴史をたどる道めぐりはまだまだ続きそうだ。暮れなずむ大門街道を帰ってきた。海野宿までは約1時間半だった。

   

 

9月23日 「野麦峠」

野麦峠とは何と美しい名前だろう。しかし、名前の美しさとは裏腹の悲しい歴史を背負った峠でもある。凶作の年に咲くという熊笹の花が麦の実に似ていたので野麦なのだ。
峠の周りは熊笹に覆われ、穀物のとれない凶作の年には、この実を争うように、近隣の村人が刈りにきたという。古くは北陸の海で獲れたブリを、正月のご馳走にと、この峠を越えて松本の城下に運んだ。鰤街道とも言われる。
明治に入ると、諏訪の紡績工場に働くために飛騨の乙女たちが春の訪れとともに、まだ雪の残る峠を越えて行った。
正月になると、稼いだ金で土産を買い、雪深い峠道を里帰りした。劣悪な労働環境で病に倒れる娘も多く、峠へ背負われて戻ってきて、「飛騨が見える」と言って息絶えた娘もいたという。骨壷で帰ってきた娘たちも多かった。まさに女工哀史の峠道だった。
秋分の日は台風一過できれいに晴れた。先月行った薮原宿から奈川への道に入り、野麦峠へ車を走らせた。村々の庭にはコスモスが揺れ、田は黄金色に染まり、山道に入ると、ナナカマドの実が赤く色づいていた。
川浦という小さな部落を過ぎた山の中に旧街道の登り口があった。車を止め、峠まで往復することにした。しばらく登ると、谷の水を引いた水飲み場があった。少し汗をかいた体に冷たい水は心地よい。
笹薮に覆われた林の中はジグザグに峠へと登っていく。峠近くに小さなお地蔵さんがあった。ちょっと行くと、同様の三対のお地蔵さんが並んでいた。そのそばに「石仏再建の記」という説明板が立っていた。
「信飛国境の難所の峠道は冬は烈風と氷雪に凍死する旅人も多く、村人はその霊を慰むるべく三体の石仏を建立した。明治から大正にかけて多くの娘たちが工女としてこの峠を越えた。
病魔におかされて故郷へ帰る道すがら「飛騨が見える」と絶叫して、こと切れた娘への哀惜が石仏への供養となり、香花の絶える時はなかった。自動車道が開通したいつのときか、心無き人の仕業で石仏は持ち去られてしまった。村の篤志家がいたく残念に思い、多額の自費を投じて再建した」
峠はここから近かった、飛騨側には資料館もあり、四季の峠も上映されていた。峠からは乗鞍岳が正面に見えるはずだが、今日は雲の中だ。美しい景色の中に悲しい歴史がいっぱい詰まっている。しみじみとした気持ちで誰も通らぬ峠道を戻った。
帰りは奈川渡ダムから島々へ出た。この連休に滞在されている宮沢さんへのお土産にと、いろいろなおやきを買った。自分の分も買ってきて、夜の山荘で食べた。何かほろ悲しい味がした。「秋の夜の、おやきの中に歴史あり」

   
 

9月17−19日 「伊藤美保さんと語る会」

伊藤美保さんは海外のオフィス事情に詳しく、最近はワーク/ライフ・バランスの研究もされている。コクヨが発行しているEciffoやカタライザの記事も取材執筆されている。その幅広い活動から、今回はドイツやオランダのワーク/ライフ・バランスの実態とオフィスの変化を中心に話していただいた。
この三連休は天候に恵まれ、伊藤さんのセミナーが始まった18日の午前中は山荘リビングで行ったが、べランダでやったら?と希望がでたほどの爽やかな空気に包まれていた。
「蓼科サロン」と銘打った昨年に引き続いての勉強会とライフも楽しむ趣向は好評で、今年は山荘収容キャパシティを越えたので、上のペンションにもB&Bで宿泊をお願いしたほどだった。
セミナーの後は、八子ヶ峰へ数人で登った。トワイライトトレッキングも、青空のもと、霞んではいたものの、八ヶ岳連峰、南アルプスが見え、ススキ、マツムシソウが風にそよぐ草原を夕日を浴びながら帰ってきた。みな満足、いい顔してた。温泉で汗を流し、食べきれないほどの料理と中秋の名月を愛でるお月見パーティは夜遅くまで続いた。
   
 

 <参加者からのメッセージ>

今年も、蓼科での輝かしい時間を過ごしました。ありがとうございました。
伊藤さんの充実したお話、大変刺激を受けました。しっかり勉強したいと思います。世の中では、様々な社会不安がはびこっておりますがヨーロッパを始め、様々な文化を吸収し、しなやかな日本文化を形成する一員になれるよう自覚をもって生きて行かなくては・・・と思いました。
また、この3日間で、ワーク&ライフの難しさだけでなく、楽しさを学習(体験付)致しました。日本の文化&自然は素晴らしいです。
反省点*生意気にも、毎朝美味しいコーヒーの香りで目覚めておりました。皆様、すみませんでした・・・(ごちそうさまでした)。  (悩める乙女のYさん)
 

会社でネットワークソリューションを考えているだけではきっと出会えなかった皆様方と、シゴト、カイシャから少し離れて、同じ関心事、テーマについて語り合えて、自然の中で豊かな時間をゆったりとシェアできる、そんな素敵な「場」にご一緒できたことがすごく嬉しかったです。仲間に入れていただきました皆様方に改めて御礼申し上げます。
伊藤さんのお話もとても新鮮で、社会の関係性の中でどのように問題解決を考えていくか、その考え方という点で随分考えるヒントをいただきました。ありがとうございました。
今回、個人的には、日々の仕事はもちろんしっかり取り組みながらも、その中で抱いた「知りたい!」「もう少し触れてみたい!」という気持ちに素直に動いてみることも大事なのだな、とつくづく感じました。−−−参加できてほんとうに良かったです!!おかげ様で、自ら時間を作って動いていくことで“かけがえのない時間”がちゃんと増えることを実感出来、皆さんが実践されているワークライフバランスのスタイルに直に触れ、参加されている皆さん全ての物凄い「元気(若さ!)」を感じることが出来、...言葉では簡単に表現できませんが、いろいろなことに気づくことが出来たことにただただ深く御礼申し上げる次第です。八子ヶ峰からの景色も忘れらいすばらしいもので、改めて信州が好きになりました。ありがとうございました。(今回初めて参加のMさん)
 

 「五感の隅々まで癒された二日間」

初秋の蓼科高原は、本当に爽やかでした。楽しい会話に美味しい食べ物に飲み物、そしてテーマセッション…そのあとには森林浴のお散歩と温泉での一服…まさに五感の隅々まで刺激され癒された2日間でした。
ワークライフバランスは、生活だけでなくやはり仕事に関する興味やテーマへの意識や知識が高い人達にこそ成り立つバランスなのだと改めて思いました。
そういった意味でも、今回のようなメンバーでの集いは最高ですね!!!!諸先輩方に追いつけるよう、これからも自分磨きをしていきたいと思います。
(高松からホテルアメニティグッズをいっぱい持ってきてくれたOさん)
 

三連休の間、家族共々、大変お世話になりました。
伊藤様のお話は、非常に臨場感があって、国土交通省の欧州調査に参加した時のこと、当社内でのワークプレイスに関する検討している時のこと等、いろいろなことを考えてしまいました。自然たっぷりな山荘で、皆様とご一緒できて大変幸せでした。
トレッキングは、心臓破りの坂を登ってからは、非常に快適でした。自分の年齢と日頃の運動不足を痛感しました。はやばやと写真を送付頂き、ありがとうございます。子供達は、皆様とご一緒したことを忘れないと思います。多分、パパのイメージもかなりアップしたと思っております。
(家族全員で参加されたSさん)
 

良い空気、好いお話 善い顔 良い太陽 良い月 好い味 ----初秋蓼科の素晴しい小田山荘を満喫いたしました。本当にありがとうございました。
伊藤さんのお話、すっかり触発されました。国と企業と人の切り口から本質的な命題を提起していただき、感謝しております。みなさんとの和はよい思い出です。あらためて感謝申し上げます。
(今年は快調にトレッキングされたGさん)
 

さわやかな風の中で伊藤さんのプレゼンに触発されたこと、心地よい汗の後の八子ヶ峰山頂でのあの充実感、お送りいただいた写真で反芻しながら真剣に日本におけるワークライフバランスを考えなくちゃと思っています。
さしあたり、来年は、お団子をこねる上新粉をもってお伺いしようと思います。
(別荘地に入ってから、時間のかかったFさん
 

      

日常のバタバタから離れ、高原の澄んだ空気の中で、リラックスした時間を過ごすことができました。頭もスッキリ!今日は、朝から快調に仕事をこなしております。
今年で2度目の参加になりますが、このような機会をつくっていただき、ありがとうございます。伊藤美保さんのお話をお聴きしながら、ワークライフバランスについて改めて考えることができました。
個人的には、有給休暇の消化を増やすところから実践したいと思います。
(会社でいつも悩んでいるNさん)
 

私ごとですが、育児がたいへんな時期なので、休日に私だけでかけるのにすこしためらいがあったのですが、やはり、参加させていただいて本当によかったです。
伊藤さんがお話しくださったことは、私のなかでも大きな課題でした。そんなこともあって、現在、NOPAで小子高齢化研究部会なるものに参加しています。お話を聞いて、すこし、海外の事例を勉強してみたいと思いました。
(子育てに忙しいMさん)
 

参加できなかったBです。m(__)m「初秋の蓼科高原〜」が有意義&楽しい時間だったことがお察しできます。皆様のメールを拝見しながら参加できなかったことをひとりで悔しがっております。写真も楽しそう。。。
今回、伊藤美保さんと皆様の最新オフィスやワークライフバランスの話をお聞きできなくて本当に残念でなりません。体調不良の原因は、「風邪」でした。ついでに洗面所で頭を2度ぶつけ、頭部CTをとる等、当方も盛りだくさん?で。。。(^^;)皆様もホント、お体にはお気をつけてお過ごしください。
<こんな時に体調を崩すなんて悔しい〜!>(相変わらずドジなBさん)
 

     

爽やかな空気にふさわしい、伊藤さんのヨーロッパのワークバランスのお話、名月の下での、美味しいワインと料理、そして何より楽しい仲間との時間!!!
名月の下での、美味しいワインと料理、そして何より楽しい仲間との時間!!!正に至福の三連休でした。昨年を上回る企画をありがとうございました。
(最長老でいちばん元気なNさん)
 

FMの諸先輩方が勢ぞろいの楽しい会にご一緒さにお誘いいただき、有難うございました。仕事を中心に広がったお仲間との仕事外でのお付き合いというのも新たなワークライフバランスの定義であるのかなと考えながら帰宅いたしました。
机上の空論ではないワークライフバランスをすでに実践なさっていらっしゃる皆様の前であえてワークライフバランスについてお話するのもおこがましいとは思いましたが、そもそも小田さんとの共通の興味テーマでありましたため、あのような内容になってしまいました。
山登りと温泉の部に参加できなかったのが、心残りですが、一汗かいた後の中秋の名月を愛でながらの宴会はさぞ盛り上がったことと思います。
追伸:忘れ物の件、お手数おかけいたしまして申し訳ございません。東京はまだまだ暑いため、気付いていませんでした。蓼科のさわやかな気候が懐かしいです。
(思い出と忘れ物を置いて一足先に帰られた講師の伊藤さん)
 

9月12−14日 「中央大学ゼミ合宿 」

仕事仲間のMさんの娘さんが行っている中央大学のゼミ合宿が山荘であった。先生も入れて13名の大所帯。当然、オーナーハウスも使った。面白かったのは先生をどこに寝かせるか、みんな先生と一緒の部屋になりたくないらしい。
窮屈でもいいから、先生はひとり部屋にして、学生は雑魚寝しようとの方向性だったが、実際はどうだったんだろう。
帰ったあと、冷蔵庫の中を見たら、買った記憶のないワインやビールがいっぱい入っていた。あとで聞くと、「冷蔵庫にあるものはみんな飲み食いしていいよ」と言われたが、やはり悪いということで、補充して帰ったとのこと。律儀な学生さんたちだ。学生が選んだワインはどれもおいしかった。またぜひ使ってくださいね。
 

9月10日 「蓼科から行く三ツ峠 」

三ツ峠は大月からの富士急行線の山、富士山を真正面に見る絶好の展望台。
岳文会のOB山行企画。八王子から1時間くらいなのに、蓼科から出かけた。
理由は、登山道具を全部、蓼科に置いてあることを忘れて帰ってきたため。茅野の駅に車を停めて、一番列車で出かけた。あずさに乗ると「Park&Drive]という割引で、一日、500円で駐車できる。
朝6時半のあずさに乗っても河口湖には9時近くになる。帰りは鈍行だったので、3時間以上かかった。こんなに苦労して行った三ツ峠なのに、富士山は雲の中。ロッククライミングを見て帰ってきた。それでも、久々のトレッキングだったので、清々しかった。
   
 

9月2日 「ハワイアンの夕べ 」

泊っているYさんを放って、ホテルのチャペルで開かれた「ハワイアンの夕べ」に出かけた。
雨が結構強い夜だったが、ふだん結婚式に使うチャペルの中は、長椅子もあり、60人くらいは座れる。ほぼ満員だった。
今年は薪能がなかったので、その代わりと思って出かけて来た人も多いのだろう。おじちゃんバンドといつもはハワイで踊っているという日本人のフラダンサー、彼女が若くてチャーミングで衣装を着替えてくるたびにデジカメで写真を撮った。
素人バンドと思っていたが、スチールギターは昔、パープルシャドーズで「小さなスナック」を作曲した人。さすがにプロでウクレレを弾かせてもうまい。晩夏の高原の雨の夜に響くハワイアンの調べは、去り行く夏を惜しむかのような哀愁を帯びて、しっとりと心に残る。最後は、みんなで手をつないで、アロハオエを合唱してお開き。

   
 

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8 月

8月27−28日 「高円寺阿波踊り」
小梨平での岳文合宿が台風余波で中止になったので、2日間とも、高円寺の阿波踊りに出るため、急遽、東京へ帰った。
私が属している花の木連は、新宿ゴールデン街の花の木というスナックに集まるお客さんが20年前に立ち上げた連。数年前に飛び込みで入れてもらった。私は肝心のスナックには、ほとんど顔を出さない、踊りだけに参加している不良連員。練習も年1、2回やるだけで出場するというツワモノ連だ。
踊る技術より、踊ることを楽しむ、まさに「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」を実践している。仲間は踊りだけでつながっていて、1年にこの2日間だけ、徹底的に楽しみ、「ではまた来年」で別れる清々しさが良い。
このところ、提灯持ちといって、連の紹介かたがた、先頭に立って演舞場に入っていく役目が多い。ふたつの提灯がぶら下がった長い竿を持ち、片手で踊っていくのだが、連を紹介するためにも、踊りではプロ級の連には勝てないので、「みんなで楽しんでいるんだよ」という嬉しさを全面に出すべく、笑顔で踊り込んでいくことを心がけている。時には沿道の子供たちに声をかけたり、拍手を送ってくれる人たちには精一杯の反応を示すと喜んでくれるのがうれしい。
山荘と同じで、ホスピタリティが大切だ。
今年の花の木連はみごと杉並区長賞をいただいた。素人ぽさが良かったのか、楽しんでいる雰囲気が伝わったのか?                                    阿波踊りに出会ったのは大阪勤務のとき、職場の仲間から「ふるさと阿波池田の踊りに参加しませんか」と誘われたのが26年前。あの山びこ打線・池田高校のある山間の町だ。役場連というのに、入れてもらって踊った。役場の連なので、町長宅の玄関でも踊るのがしきたりになっていて、街を抜けて、田んぼのあぜ道を月に照らされ、田の水面に映る踊りの影を見ながら町長の家まで踊っていくすばらしさ。「星空のディスコだ!」と完全にはまってしまった。

     
 

8月24日 「中仙道・鳥居峠」
26日からの小梨平で行われる、岳文会の合宿に参加する前に、御岳山に登り、野麦峠を歩いて、徐々に上高地に近づこうと考え、差し入れの酒などパックし終えたところに、OB会幹事の宮島君から電話が入った。
「10コースに分かれて、北アルプスに入っている現役が、台風接近で行動を中止し、それぞれ下山を始めたので、小梨平集中合宿は中止になるかもしれない」と。
確かにこのところ、台風が近づき、天候安定せず、今日も降ったりやんだりだ。そして寒い。外の温度計を見ると、18度Cだ。長袖・長ズボンにしたほどだ。
そんなわけで、御岳行きも止め、今日なら雨が降ってもたいしたことないだろうと、中仙道・鳥居峠越えをすることにして、あわてて車を動かした。
塩尻から、国道19号線に入り、奈良井宿の駅に車を停めて、中央線で隣の駅薮原に向かった。
列車に乗った途端、携帯に電話あり、「電車の中なので」と切り、薮原に着いてかけ直したら、「めずらしく都内にいるのですか?」、「いえいえ木曽路の電車です」と答えて、相手は驚く。世の中、便利になったが、情緒がない。
薮原は中仙道の宿場のひとつだが、ほとんどが焼けてしまい、昔の面影はない。徐々に峠への登っていき、お六櫛の販売所を過ぎると、山道に入り、石畳も現れた。石仏のような碑を過ぎると、森林測候所跡という広場に出る。ベンチもあって、休むのにちょうどよい。みかんやクッキーを食べた。
御岳神社を過ぎると、鳥居峠はほど近い。御岳山がここから遥拝できるので、この名の神社になり、その鳥居が峠の名前になったという。峠は切り通しで見晴らしはないが、すぐ近くに峠の茶屋跡に休憩所があり、おいしい水が流れている。ここから奈良井宿の家並みが望まれる。
下りは結構、急坂だが、整備されていて歩きやすく気持ちよい。
木曽駒ヶ岳を遠望できる休憩所で突然の通り雨。土砂降りが15分くらい続いた。屋根がある所で幸いだった。小降りの中を歩き出し、石畳の道に入った。
雨上がりの石畳は滑りそうでこわい。奈良井宿の入り口には清水の井戸があり、昔の高札場が再現されていた。
ここから数百mの奈良井千軒といわれた宿場が始まる。保存地域に指定されているだけあって、江戸時代の中仙道宿場はこうだったと昔に思いを馳せることができる雰囲気のよい奈良井宿だった。駅に停めておいた車で、暮れなずむ蓼科に帰ってきたのは夕方5時を過ぎていた。

    
              <中仙道についての詳細>(リンク)
 

「岳文会」
私がいた頃の早稲田には数多くの山登りのクラブがあった。われわれ岳文会の部室があった2号館の屋根裏にも「歩こう会」や「青鞜会」、「探検部」などがあった。今、これらがほとんど消えていった中で、岳文会は45年間、生き続けてきた。一時は部員もガタ減り、消滅の危機があり、ツーリングを主体に活動を移したり、他大学生も入れたりして、生きながらえた。ところが今は驚きである。100名もの現役学生を擁し、山岳主体にカムバック、ほとんどが早稲田の学生。女性も多い。山登りサークルで最大の同好会という。
何が変わったのか?この時代、山登りなど苦しくて、汗臭くて、何日も風呂に入れず、と若者に嫌われるのに。現役幹事に聞くと、勧誘は登山を前面には出さないそうだ。「アウトドアを楽しみませんか?」とソフトに誘う。奥多摩バーベキュキャンプで歓迎し、そこに山があるから、ちょっと登ってみない?から徐々に深みに引きずり込んでいく。気がついたときには、もう遅い。「汗臭くたって、風呂に入れなくたって、このすばらしい仲間からは離れられない」となり、山の素晴らしさにも目覚めていく。
そしてもうひとつ復興の鍵はどこかで有能なリーダーが出現したことなのだろう。それは一人でないかもしれない。情熱をたぎらせ、新人を勧誘し、育ててきたDNAは確実に後輩に引き継がれてきた。ビジネスでも、政治でも、クラブ活動でもリーダーシップと情熱と愛情と叱咤が必要なことを感じさせる岳文ルネッサンスの歴史である。(写真は三年前の上高地現役・OB合宿)               

 
 

8月14−29日 「長期滞在

2年目の夏は、私の家族で使った1週間が間にあるものの、1日から29日まではお客ですべて埋まった。いろいろな人が立ち代り来てくれるのは楽しいし、うれしい。しかし大変さも実感した。
お客が代わるときには、掃除、洗濯、ベッドメーキングをやる。これが2、3泊ごとにやるとなると、めちゃくちゃ忙しい。丁寧にやると、半日はかかる。お昼に前の客が帰り、3時に次の客が来るとなると、時間との戦いだ。昼飯など食べていられない。
お盆の頃から1週間滞在される客が二組あった。これは楽だ。滞在中の予備のシーツやタオルを置いて、その期間中はお客にやってもらう。私は1週間後にやればよい。その間はどこかの山へ泊りがけでも出かけられる。
ヨーロッパアルプスのペンションがのどかでゆとりがあるのは、長期滞在が多いからだ。来年から、この仕組を取り入れよう。夏は、1週間以上として、別荘代わりに使ってもらう。一族郎党、友達で代わる代わるに使っていただく。その間の管理はお客にやってもらう。そうすれば、おじいちゃん、おばあちゃんを兄貴夫婦が連れて来て、途中で妹夫婦が引き継いで、一緒に帰る、ということも可能だ。長期滞在を目的に作ったゲストハウスの趣旨にも叶う。お客もゆっくり過ごせるし、私も楽になる。(こんどの年末年始も1週単位にします)
 

8月15−17日 「故郷に帰る」
一週間、滞在してくれる方がおられるのを利用して、蓼科から新潟県の村上に行ってきた。
わが故郷だ。育った家はもうないが、叔父が医者をやっていて健在だ。
松本から長野、直江津、長岡、新潟経由で高速道路の終点・中条まで4時間、7,200円。そこから30分走ると村上に着く。
お盆なのでお墓参りも兼ねた。育ったのは村上からさらに4里16キロ、山の中の朝日村・塩野町という集落。小学校までここにいた。
冬は完全に雪に閉ざされた村だった。12月から4月半ばまでは交通途絶、春になると雪かきブルトーザの後を新潟交通のバスが半年ぶりに、とことこ走ってくる光景が思い出される。その村の中の道路が、今見るととても狭い。
小さい頃はすごく広い道に見えたのに。小学校はコンクリート造りに変わってしまったが、走り回ったグランドや桜並木は今も同じだ。校庭を思い出を呼び起こしながらしみじみと歩いた。
5月の連休前が桜の季節だった。♪桜の花の咲く頃は、うららうららと陽もうらら...♪と歌いながら、音楽教室から眺めた満開の桜がまぶたに浮かぶ。50年以上前の光景だ。友もひとりひとり消えていく歳になった。故郷の美しさは消えない。

   

父の眠るお墓は小学校の近く。母が昨年、亡くなったことを報告しながら手を合わせた。母もここに入れたかったが、故郷は遠すぎる。お寺はすぐ隣だが、檀家と裁判沙汰までやったので、寄るわけには行かない。檀家総代の叔父のグループと坊主派に分かれて、数年にわたって最高裁までもめた。わが親類も両派に分かれて村をあげての大騒動。原因は、坊主が朝のお勤めをサボっているとの情報から、探偵を雇ってお勤めの監視。やっぱりやってないと、坊主罷免要求に。プライバシー侵害と坊主は反撃。最高裁はアホらしと坊主の控訴を棄却。檀家派が勝ったが、坊主は居残り、まだもめごとは続いている。「のどかだね、平和だね」と笑うと、叔父は「笑い事でない」と怒る。
 

8月15−17日 「山荘の原点・岩ッ原」
村上からの帰り、越後湯沢の近くの岩ッ原スキー場の民宿に寄った。岩ッ原は、学生時代に友人の叔父さんが山小屋を持っていて、それをシーズン10万円で、スキー仲間を集めて借りた。青春の思い出がぎっしり詰まっている場所だ。民宿・文吾屋はその世話をしてくれたところ。父ちゃんも母ちゃんも健在だ。社会に出て、勤め上げ、60歳を過ぎても、ここに来ると、あの頃の話に花が咲く。蓼科の山荘の原点のひとつはここにある。岩ッ原の山小屋は電気もなく、ガス灯とだるまストーブ、水は沢から引いていた。雪が積もると、給水口が詰まったり、屋根の雪下ろしで小屋が埋まってしまったりで大変だった。でも何も不便とは感じなかった。ここにいる毎日が楽しかった。夜はストーブの回りに集まり、加山雄三の「旅人よ」や「君といつまでも」をギターの伴奏で歌ったッけ。すべてが青春だ。あの山小屋は、バブルとともにマンションに消えた。そして今、そのマンションも風前の灯火だ。           帰りに母ちゃんは、キュウリ、トマト、芋などの野菜、そして米をたくさん、「持って行きゃっしゃい」と言って、車に詰め込んでくれた。岩ッ原の周りの光景は様変わりだが、人の温かさは変わらない。(写真は40年前のスキー合宿。左が筆者。志賀高原・杉山スキースクールの二期生だった)

  
 

7月30−8月2日 「昔の山仲間」
昨年に続いて、岳文時代のバイト仲間が山荘に集まった。ゴルフをやりたいと希望もあり、ゴルフが好きなメンバーも呼び、8人になった。ゴルフは安い月曜にやることにして、日曜にみんなで霧ヶ峰を歩いた。ニッコウキスゲはほとんど終わりだった。ベニバナシモツケソウのピンクが草原を覆っていた。北や南のアルプスを重いキスリングを背負って歩いた若者も、今や老境、空身同然でも霧ケ峰の登りで悲鳴を上げる始末。まったくね。その中で、商学部を出て医者になった村瀬さんは元気だった。いちばん心配していたが、意外だった。昔を思い出してか、ニコニコと笑顔で歩いていた。岐阜の柳ヶ瀬の煎餅屋の息子が医者になったいきさつはさて置き、老人医療が専門の彼は患者さんに好かれているそうだ。商人の息子らしく、顧客の目線で聞き、話すというのが名医といわれる要因のようだ。医者になるべくしてなる医者の息子でなく、商人になろうとしていて、道を外れて医者になったのが、よかったようだ。老人医療だったことも幸いしている。人さまざまの人生模様がある。                      今年も野菜を送って頂いた石塚さんに感謝、小野さんは札幌からジンギスカン肉とジンギスカン鍋持参で来た。石塚さんの野菜と小野さんの肉で、昔の山仲間は夜遅くまで盛り上がった。

   
 

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7 月

7月24日 「キスゲ劇場もフィナーレに」
ニッコウキスゲは息が長い。もう終わりかと見に行ったら、車山肩の華やかなキャバレー群落は、さすがに枯尾花になりつつあった。
厚化粧も剥げたかの雰囲気だ。しかし、車山頂上につながる上の斜面は、先週より、黄色の帯が山頂に向かって伸び、色も鮮やかになっている。
標高差による咲き方のちがいがはっきりわかる。8月に入っても、咲いているかもしれない。枯れた草原には、代わりにマツムシソウが咲き始めていた。
高原は、着実に季節が移りつつある。こんなに、数週間にわたって、目を楽しませてくれた「ニッコウキスゲ劇場」もフィナーレ近い。連れていった人は、誰もが感動した自然の草花のドラマだった。

   

「凛ちゃん」
三輪さん一家とその家族の方々が週末を滞在され、奥志賀高原にも行ってきた。生まれて7ヶ月の凛ちゃんも一緒。幼児の長時間ドライブは体調を崩し、熱を出すことも多い。心配したが、滞在中は至って元気。愛想がよく、初対面でもニコッと笑い、人見知りをしない。丸池で、中学生に囲まれたら泣き出しはしたが。これまでの山荘宿泊の最年少記録になった。健やかに育って欲しい。できれば信州の自然の中で。
 

    「雨の日はデスクワーク」

梅雨が明けたというのに、天気はぐずつき、パッとしない。そこへ台風7号だ。直撃は免れたものの、結構、風と雨が強かった。雨続きの日は、じっくりデスクワークができる。
オフィス・ジャパン誌の原稿を仕上げ、他の仕事のデータもまとめた。
原稿は「ワーク/ライフ・バランスとオフィス」、これからの働き方は、「仕事、仕事」ではダメ、豊かな個人のライフがあって、生き生きと仕事ができる。
もっと日本人はプライベートを大事にせよ、とのストリー。何だか自分の今の生活を肯定しようとするような内容なので面映い気もするが、実際、ワーク/ライフ・バランスは重要なことなのだ。
フィンランドは国をあげて取り組み、産業構造の変革に成功、国民は物心ともに豊か、国際競争力No.1の国に変換したほどだ。詳しくは、オフィス・ジャパン誌・秋季号を読んでいただきたい。
 

7月16−17日 「場所によってタイプがちがう」
冬が長く、春になって遅霜がないと、花は育つのだそうだ。今春は桜も去年より2週間も遅かった。一斉に咲いたニッコウキスゲ゙の群落は息を呑むような華やかさだ。低いところから咲き始め、だんだん高いところへ移っていく。
この日は、車山肩の草原が満開、大振りで少し朱が混じっているようなキスゲの大群は、まさにキャバレーの華やかさだ。
そこへいくと、蝶々深山のそれは、まだこれからが楽しみの清純な女学生の雰囲気だ。色も淡い黄色だ。
ニッコウキスゲの咲き方と群落の特徴も、場所によってだいぶ違うことを2週続けて来てみてわかった。
去年は、パラパラと咲いて、いつピークなのかわからないうちに終わってしまった。こんな風に、山を黄色に染め上げる年も、しばらくぶりとのことで、今週、来た極楽スキーのメンバーも大喜びだった。
みんなで歩いたときは、結果的には梅雨の最終日だったようで、先週と同じく、途中、雨に降られた。しかし、翌17日、遅れてきたOさんを案内したときは、梅雨明けの日になり、入道雲の下に広がる黄色と緑の絨毯はことの他、美しかった。

  
 

「楽しいサンドイッチ・ランチ作り」

トレッキングのときのランチはコンビニのおにぎりがいつもの相場。
今回は趣向を変え、自分で作るサンドイッチ。カナディアン・ロッキーの山小屋に5泊したときは、毎朝、テーブルに並べられた、ハム、チーズ、野菜、果物から自分の好きな食材を選んで、パンにはさんでサンドイッチを作った。
それにクッキー、果物、飲み物を加えて、紙袋に入れて、ハイキングに出かけたものだ。
ワイオミングで幌馬車ツァーに参加したときも、同じスタイルだった。このスタイルにトライしてみた。食材を前日、買い込み、ゆで卵を夜のうちに作ってスライス、朝、テーブルに材料をずらりと並べ、好きなパンにどんどん挟んでいく。
私は、レタスを敷き、ハムの上に、ポテトサラダ、ピクルス、トマトをたっぷり載せて、マヨネーズをかけ、もう一枚のパンでふたをして、圧縮してから、ナイフで二つに切って、それぞれをサランラップでしっかりくるむ。
こうすれば、ばらけないし、ラップをめくりながら食べられる。マスタードをかけ忘れたことに気がついたがあとの祭り。
チャックつきのビニール袋に、サンドイッチ、カントリーマム・クッキー、あめ、チョコレート、バナナ、ジュースを入れ、ランチボックスはできあがった。みんなも、アーダコーダと言いながら、自分流のサンドイッチ作りにいそしむ。食べる前から、おいしそうだ。
蝶々深山の山頂で食べた手作りのサンドイッチの、おいしかったこと。

   
 

7月9日 「昔の仲間とニッコウキスゲ」
岳文会の仲間と霧ヶ峰のニッコウキスゲ・トレッキングに出かけた。
柏崎から栗林さんも交えての山行。
彼女とは学生時代以来なので、30年ぶりの再会。なつかしい。面影は残っている。年齢は戻せなくても、話題や考えが青春時代に戻るのが、この仲間の楽しいところだ。
昨秋の和田峠越えのメンバーが中心の女性4人、男ふたり。
夜は、「あの人はこうだった、つき合いをやめさせるのに大変だった」などど、青春の秘話が出て驚く。
今年は、花の当たり年、先月の八子ヶ峰のレンゲツツジもすばらしかったが、ニッコウキスゲも見事。霧ヶ峰の草原がまっ黄色に染まっている。
コバイケイソウの白い花も混じって、コントラストもよい。
天気が今イチで車山肩から沢渡りに下り、車山湿原を歩いているうちから、雨が降り出し、蝶々深山では雨の中の昼食になった。
コロボックル・ヒュッテに戻り、ビールを飲んでひと息つく。全員、ビールをおいしそうに飲んだのにもビックリ、女性は昔は飲まなかったのに。アルコールにも年輪が刻まれていた。

   
 

7月2日 「薪材運び」
薪割り名人・今村さんが足柄山から、奥さんともども来て頂いた。
今日の目的は、薪材運び。造園をしてもらった富士見の大上さんが、森の中に新築し、かなりの木を伐採した。「好きなものを持って行っていいよ」の好意に甘えて、もらいに行くことにした。上のペンション・アダージオから小型トラックを借りて、富士見まで出かけて行った。
落葉松、ブナなど、大きな木のまま、雑然と山積みされていた。その木の山の中から、今村さんは広葉樹を選り分けて、チェーンソーでトラックに乗る大きさに裁断する。切った木材を、私がトラックに載せる。これが役割分担。
しかし、ブナの木は重く、ひとりでは運べないこともしばしば、その都度、今村さんに手伝ってもらう。同じ大きさでも、落葉松はずっと軽い。ストーブで燃すと、針葉樹は火のつき具合も速く、燃え方も速い理由がわかった。
身がぎっしりと詰まっているブナやナラの広葉樹は、長もちする。
重い広葉樹を積んで、エンストするのでは?と心配しながらも、山荘に運んだ。降ろすのも一苦労。今村さんの奥さんは、足柄ではいつものことと言いながら、さっと下ろし、斜面を転がす。さすがだ。
われわれが富士見に行っている間に、奥さんには草刈をしてもらい、アジサイの一種のアナベルまで植えていただき、感謝感激。
来年はこのアジサイが6月の梅雨空に映えるだろう。
次の朝、私の両腕は非常に痛かった。ブナ材を抱えた後遺症だろう。しかし心地もよい筋肉痛だ。薪集めの大変さを知った一日だった。
今村さんに言わせると、トラックが木材のそばまで入れたので、楽な方とのこと、足柄では、車が近くまで行けないこともあり、もっと大変だそうだ。

    
 

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6 月

6月25日 「レンゲツツジ満開の八子ヶ峰」
サラリーマン駆け出しの頃、お世話になった先輩が2人、来荘。空梅雨の真夏のような天気の中、レンゲツツジを見に、八子ヶ峰へ登った。2週間前の挫折した八ヶ岳縦走のときはまだつぼみのところが多かったので、今週は見ごろと当りをつけて登ってみた。大正解!
中腹はもう終っていたが、頂上付近の草原は、真紅に染まっていた。部分的にかたまって咲いているのではなく、八子ヶ峰全体にツツジの群落が広がっている。まさにツツジをかき分けて歩く雰囲気なのだ。晴れた草原の赤のじゅうたんの中を歩く気分は爽快。去年はこの季節、まだ山荘の準備で忙しく、登る余裕がなかったので、見ていない。ツツジが終るとニッコウキスゲがやってくる。来月が楽しみだ。
Nさんも、Mさんも、山がいちばん輝く季節に登り、街は30度を越す暑さなのに、20度ちょっとの爽やかな山荘のテラスで、下山後はビールとソーメンで遅めの昼食、そして夕方までの語らい、昼寝と、蓼科の清々しさを堪能されたようで、「こんどは家族を連れてくるよ」と笑顔で帰って行った。

   
 

6月24日 「準備と片付けで大汗」
12名も泊るとなると、その準備とあと片付けも大変だ。泊られた方に、使ったシーツ、枕カバー、布団カバー、タオルをまとめておいてもらっている。まずそれを分別し、布団カバーはクリーニングに出す、シーツ他は2台の洗濯機をフル稼働させ、何回かに分けて洗う。トイレのタオル、風呂場の足マットも加わるので、大変な量になる。洗濯をしながら、2ヶ所のトイレの掃除、便器を洗い、ウォシュレットをトイレ用ウェットティッシュで拭く。ペーパーの交換も同時にやる。風呂場の掃除、シャンプー、石鹸の補充、数ヶ月おきにはログ壁の防水ペンキを塗る。洗面台を磨く、ここでのポイントは蛇口取っ手の金具をピカピカに磨くこと、鏡のごみを除きこれもピカピカにする。歯ブラシなどのアメニティグッズを補充する。キッチンの掃除、IH調理台を磨き、食洗機のごみ除き、シンクを磨く、冷蔵庫の点検、調味料に賞味期限切れがないかもチェック、補充もする。忘れがちなのがレンジの中の掃除と食洗機洗剤の補充。ごみの分別と出し、ゴミ箱内のビニール取替えを行って、フローリングの掃除、定期的にワックスがけ、除虫ワックスがけもする。こぼしたシミや油はぞうきんがけがいちばん。2階への階段は乾拭きでごみをとる。ティッシュペーパーのチェック補充も忘れがち。洗い終わった洗濯物は2階の踊り場とストレージに物干し台、椅子、ハンガーを総動員して干す、布団もロフト手すりやベッド、1階ダイニングの椅子などを使って干す。畳の部屋はカーテンを開け、畳焼け防止も兼ねて、布団を敷き詰める。ここまでがゲストハウス、これにオーナーハウスの掃除が次に待っている。冬はこれにストーブ掃除と水抜きが加わる。ひとりでやると一日仕事だ。体をフル稼動させるので、冬でも大汗をかく。いい運動になる。このようにして山荘を後にする。

   
 

6月17日 「社員旅行」

仕事でお世話になっているS社の社員慰安旅行に山荘を使いたいとリクエストがあった。
14名、寝具は12名分しかなく、これ以上はゆっくりできないと思い、2名は上のペンションにB&Bでの宿泊を提案した。
会長と社長をペンションへと、幹事さんから即返事、やっぱり若い人だけで気楽に夜は過ごしたいのだね。
途中、白州のサントリーでウイスキーの試飲をして、夕方、ドサドサと来られた。山荘の使い方を説明して、私は東京へ帰った。
そのあとの話では、ケータリングのガムラスタン・北欧料理もおいしく、ボリュームたっぷり、夜は盛り上がり、次の日のゴルフ、トレッキング、テニスも楽しかったとのこと。
社長からは「社員がとても喜んでくれて、モチベーションが上がった。来年の5月もお願いしたい」の言葉をいただいた。
普通の一泊二食付きの慰安旅行ではなく、みんなで手作りの旅行もいいかもしれない。こんな形の山荘の使い方もあることを発見した。こちらも喜んでもらえてうれしい。
 

6月12−13日 「八ヶ岳縦走は初日で断念」
岳文会の先輩、札幌の小野さんと一緒に、蓼科山から編笠山までの八ヶ岳連峰全山縦走を3泊4日で行うことにした。
初日の今日は、山荘から直接、歩き始め、八子ヶ峰に登り、ビーナスラインへ下り、蓼科山登山口から頂上へ、大河原峠に下って、双子山を越えて双子池までの8時間の行程。
八子ヶ峰はレンゲツツジが咲き始めていて、花の季節開幕を思わせた。蓼科山の登りは途中から直登になり、ガラガラした岩場もあってきつい。頂上には結構な登山者がいた。山頂ヒュッテでおでん、うどん、ビールで昼食。きつい登りだっただけに、ことの他おいしい。大河原峠へ来ると、車がここまで入るので、人が多い。
八子ヶ峰のような草原の双子山も伸びやかで気持ちがよい。双子池ヒュッテの泊り客はわれわれ二人だけ。おじさんがよい人で、従業員用のシャワーを使わせてくれたり、マトンの肉煮つけをサービスしてくれたり、楽しい夜になった。天気はしばらくよさそうだ。明日越える山なみを期待して寝床についた。
夜半、小野さんは寒いといって布団を重ねた。私は暑いくらいだったので、おかしいなと思っていたところ、しばらくあってから、「オダ、オダ」と叫ぶ。「悪寒がして熱が出てきた。薬はないか」、ヘッドランプでザックを探すとバファリンが出てきた。朝まではそれでしのぐしかない。夜が明けても熱は下がらず、青空が広がっていく中で、縦走中止を決断。
朝5時の朝食は、歩くことを前提にしてセットしたので、中止となると早すぎる。ゆっくり模様を見ながら、少し熱が下がってきた8時過ぎに、林道を経由し、ピラタス・ロープウェイで山荘に帰ることにした。残念だが仕方ない。次の機会を探そう。

   
 

6月5日 「ウェストン祭」
6月第一日曜は上高地でウェストン祭が開かれる。
岳人にとって、イギリスの宣教師・ウォルター・ウェストンは日本アルプスの命名者であり、世界に日本の山を紹介した恩人である。その功績を偲んで、戦後すぐから日本山岳会の手で開かれてきた。今年は59回目。
山荘から車を飛ばし、沢渡でシャトルバスに乗り換えて2時間で上高地に着いた。1年ぶりに見る穂高の山々は、残雪と新緑のコントラストが美しい。いつ来ても感動する景色だ。
ウェストン碑の前にマイクやテントがセットされ、エーデルワイスクラブと安曇小学校の児童の合唱で式は始まった。徳本峠越えの山行報告や、松本市長の「上高地をいただき、松本市は真の山岳都市になりました」の挨拶(安曇村はこの4月から松本市に編入された)、そして日本山岳会会長の講演。
ウェストンは日本アルプスの先駆者だけでなく、東北飢饉のとき、英国から多額の寄金を集め、自ら日本に再度来て、米などを配給して廻ったこと、宣教師としてはいつも休暇をとって山に行っていたので、上司の覚えよろしくなかったことなど、ウェストンの側面を初めて知った。
そのあと、徳沢まで歩き、徳沢園で昼食をとった。途中、石楠花が満開、徳沢の草原は二輪草の白い群落に覆われていた。美しい上高地の自然と、ウェストン祭を満喫して、夕方、山荘に帰ってきた。上高地も蓼科から十分な日帰り圏であることがわかった。また行こう。

   
 

6月4日 「初めてのそば打ち」ューメキシコ・サンタフェへ
そば打ちは2度ほど習ったことがある。
杉本さんからこね鉢やのし板など頂いたので、やらない訳にいかない。
スーパーでそば粉、中力粉、打ち粉を買ってきて、はじめて先生なしでのそば打ちを山荘でやってみた。
テーブルも大きく、フローリングなので、粉が飛んでも始末が簡単。そば打ちとログハウスはお似合いだ。
鉢に粉を入れ、水を注いで、指でかき混ぜ始めた途端、テキストとは違う方向に行ってしまった。粉はバラバラ、サラサラになり、徐々に塊ができてくるはずなのに、最初から固まってしまった。かき混ぜなしでこねる羽目に陥った。後は押して知るべしである。
じっくりこねはしたが、のし板で広げても穴は開くは、くっつくは。当然、包丁で切っても、糸状にならず、だんご状態だ。ゆでたあとの作品は、手うちそばならぬ”手打ちスイトン”ができあがった。ツユをかけて”手打ちスイトン”をすすると、何とも言えぬ心境になった。わびしいような、悲しいような、おかしいような。
一回目は見事、失敗。(このあと、そば打ち教室に再度、参加して見聞した結果、そば粉に問題ありそうなことがわかった。7月には再挑戦する)

   
 

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5 月

5月28日 「望月の宿から笠取峠、アダージョ」
本当は、妻と一緒に、別荘地主催のツァーに参加する予定が人数不足で中止になったので、ふたりだけで同じコースを辿ることにした。
中山道をめぐる旅。望月宿、茂田井宿、芦田宿そして笠取峠、望月と芦田には今でも昔からの旅籠が営業している。
茂田井は自動車道から外れたため、旧中山道の道幅のままに残り、その曲がりくねった坂道沿いに白壁の酒屋や本陣が面影を留めている。
馬籠や妻籠のにぎやかさはないが、所々に残っている宿場の風情が昔の街道を偲ばせる。
笠取峠にはたくさんの松並木が残っていて、ここを2万人以上の皇女和宮嫁入り行列が、幕末の頃、江戸へ向かったという。御輿の人並みが、浅間の煙を前方に見ながら、松林の街道を下って行った光景を想像すると楽しい。
しかし、現実の和宮は政略結婚だったので楽しいどころではなかったのかもしれない。笠取峠から、現代の道を車で、大門街道、白樺湖を通って、蓼科に帰ってきた。

    

夜は上のペンション・アダージョで夕食を摂った。
オーナーは旭硝子のアメリカ駐在の社員だったが、帰国命令で、「満員電車に戻る」のがいやで、ペンション経営を始めたと言う。
連休以来の2回目だったが、旦那さんも、奥さんも明るく、アメリカ生活や薪ストーブで共通の話題もあり、これからお世話になる機会も増えそうだ。
今晩は私たち夫婦の30年目の結婚記念日前夜だった。
30年間の妻の努力と理解に乾杯!
 

5月20日 「センサー照明、調節むずかし」
「鳥獣戯画」騒動から2週間、気がかりだった山荘にやってきた。
庭の照明工事の点検が今回の目的。車が駐車場に入るとき、センサーが稼動し、駐車場や庭伝いの道を照らす趣向にした。
ところがこの調節が厄介、上の駐車場のセンサーはメイン道路のすぐそばに設置されているので、反応しやすい角度にすると、道路を走っている車でも明かりが点いてしまう。
角度を変えると、肝心の車に反応しない。おかげで暗くなってから、何度も道路を往復する羽目になった。上のヴィラに滞在している人がいたから、「車が多い夜だ」と訝ったかもしれない。暗い庭に点々と灯りがともるのは風情がある。

気になっていた池は、おたまじゃくしもおらず、さざ波もたたず、平穏。産卵の時期だけの仮の棲家だったのかもしれない。
ポストを開けると、巣立っていった後の鳥の産毛のような羽がいいっぱいあった。こちらも終ったかと、その産毛を突いた途端、小さな雛鳥が急に現れ、闇の中に飛び立っていった。驚いたのなんの、「ヒエーッ」と声をあげ、ベランダに尻餅をついた。
あんな小さな雛を、夜の闇の中に無理に追い立てたようで、ちゃんと生きていけるのかと心配になった。悪いことをした。
(翌週、来たとき、ポストの巣箱を掃除しようとバケツに草と産毛を入れたとき、また鳥が飛び出し、こんどはバケツを落としてしまった。2度のビックリで肝を冷やしたが、飛んでいった鳥は、前のより大きかった。巣立ち後に戻ってきて寝所にしていたのかもしれない。来年は、もっとゆっくり片付けることにしよう)
 
5月9日 「去年は蜂の巣、今年は鳥の巣」
連休の初めの頃、玄関脇の郵便ポストのあたりから、鳥が飛び立ったので、何事かと驚いた。ポストを開けても何もなかった。
そして東京へ帰る日、再び開けてビックリ、草を敷き詰めて、鳥の巣が着々と建築中だった。
昨年はポストの中に蜂の巣を作られ、蜂スプレーで大立ち回りをした。
今年は鳥の巣か。何の鳥かは知らないが、巣立ちが終るまではこのままにしておこう。そっとポストの戸を閉めた。
蛙は困るが鳥は巣立てば、来年まで来ないので、このままでよい。
蛙や鳥騒動で、ゴールデンウイークも終った。
山ほど持ってきた仕事も、読書もほとんどできず、山荘の周りの騒ぎが強烈な印象に残った休みだった。

  
 

5月8−9日 「池は蛙で大騒ぎ」
連休前に完成した池に水が入り、庭屋さんが水草も植えてくれた。
ところが、山荘から木の間越しに見ていると、水草が倒れてさざ波がたっている。
行ってみると、何とヒキガエルが数匹いるではないか。あわてて、ホームセンターへ車を飛ばし、捕獲網を買ってきた。音には鈍感なのか、近くに行っても逃げない。人の影が見えると、さっと池底の泥の中に潜り込む。そこに網を入れるが、なかなかつかまらない。やっとのことで、4匹つかまえ、そのたびごとに川へ捨てに行った。
これで一安心と思ったら、また翌朝、さざ波が立っている。ふたたび捕獲作戦開始。一匹ずつ行動しているときは、気がつくのも早く、逃げ足も速い。カップルのときは恍惚の境地なのか、動きが遅い。ここが狙い目とわかった。「お楽しみ中、恐れ入りますが」とばかり、網を入れると二匹一緒にかかってくる。効率よろし。三匹一緒だったこともある。「こりゃ三角関係か?」。
この日は五匹、どこから来るのだろうか? 冬眠で土の中で眠っていたのが、春になり、産卵場所を探し出てきたところ、水ぬるく、泥もあり、最高の場所を発見したようだ。思わぬ形の新居を蛙に提供してしまった。このままだとヒキガエルの巣窟になってしまうのではないかと危惧しながら、東京に帰ってきた。
翌週、庭の照明工事に再び行く庭屋に点検を頼んだ。(行ったところ、蛙はおらず、卵がびっしりひも状にあったので、川へ捨てたとの知らせが後日あった)

  
 
5月7日 「あかしあの小径」

別荘地のトレッキング案内地図には「あかしあの小径」の散策路が出ているが、一部しか歩いたことがなかった。
たんぽぽ、桜咲く春うららの暖かさに誘われて歩いてみた。
上のペンションの脇を通って、しばらく別荘が立ち並ぶ側道を歩くと、大きな桜の木がある洒落た家の桜吹雪を浴びた。
「あかしあの小径」の入り口はすぐ先にあった。連休も後半になると、都会に帰っていく人が多く、ひっそりとしている。小川が流れる小径は春の芽吹きの中に柔らかく、ウグイスの声も聞こえて、いとかぐわしき。
30分も歩くと、スキー場のそばを通る道に出た。そこからはパターゴルフ場の芝生の中を通って、タウンセンターへ。
鹿山の湯で温泉に入って、帰りは5時過ぎの循環バスに乗って山荘へ。湯上りのベランダ安楽椅子でのワインも格別。
1時間弱の散歩と温泉、帰りはバスというコースはこれからの山荘お勧め定番になりそうだ。

   

 

5月4日 「高遠の桜、蓼科の桜」
高遠は蓼科から車で1時間の距離。4月の高遠城址公園の桜が有名だが、今年はタイミングが会わず、行けなかった。
山の上にある公園のボタン桜なら、連休が見頃と聞き、妻と一緒に出かけた。
これが予想以上のすばらしさ。木曽駒ヶ岳を中心とする中央アルプスはまだ雪をまとい、桜並木の向こう、春霞の中に美しく輝いていた。
桜と雪のアルプスの組み合わせが最高。高遠へ行く途中の杖突峠や村々の景色も美しく、伊那谷を回って、山荘に帰ってくる一日のドライブは楽しかった。
蓼科の桜もこの頃が見頃。
近くの聖光寺の境内の桜が満開になり、花見の人でいっぱいだった。このお寺はトヨタ自動車が交通安全を祈って建立した比較的、新しい寺なので、桜の木もまだ若い。
毎年7月には、トヨタの幹部が集まり、お寺で供養と安全祈願があるそうだ。名古屋から近いせいか、蓼科にはトヨタの施設が多い。会員制ホテルも建築中だ。

   
 
5月2日 「チェロの音が山荘に響く」

Kさんがチェロの練習に来られた。大きな楽器を山荘のロビーにセットして、朝から晩まで練習に励んでいた。チェロの音色は低く、耳を澄まさないと、私の住んでいる棟には聞こえてこないときもある。聞こえてくるときの、響きは良い。5日間の練習を終え、帰られた後、音楽CDをかけ、2階のロフトで聞いたら、1階で聞いているより良かった。ログハウスは、音響効果がとてもよいことがわかった。これもチェロのおかげだ。周りの別荘も離れているので、音の心配もなく、楽器の練習にはもってこいの場所かもしれない。                   練習を終えたKさんと呑んで話したら、そば打ちも得意で、もう百回以上やったとか。そこで、10月末の「中山道歩き」の企画にプラスして、チェロとそばを加え、名づけて「チェロ&ソバの夕べ」にすることにした。またひとつ山荘の新しい使い方と楽しみができた。
 

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4 月

4月29日 「風香り、窓開け放つ」

朝から真夏を思わせるような暑さ。山荘の中も20度Cを越えた。
冬の間、ずっと閉めていた窓という窓をすべて開け、春を通り越した高原の風を入れた。これで Winter has gone. である。
しかし私は今日の夕方、志賀高原にシーズン最後のスキーに行く。 Winter come back. である。
秋以来のベランダで朝食をとった。カントリーウェスタンをステレオで聞きながら。室内が凍りつくような冬は、音楽を聴く気がおきなかった。体も心も寒くて、そんな余裕がなかった。空気が暖かくなると、自然に心もうきうきして、CDに手が伸びる。
夕方、I さんが、来られ、3泊されるので、鍵を渡して、そそくさと志賀高原に向かった。6時半過ぎに奥志賀に着いた。
気温は7度Cだった。今月初めはマイナスだった。志賀にも着実に春は来ていた。
 

              「猫かキツネか?」

まだ雪がいっぱい残っている頃、玄関の階段脇を茶色の動物が駆け抜けていった。すわキツネかと目をこらしたら、猫だった。
今日、トレッキングから帰ってきたら、道路わきの草むらにそれと思われる猫が日向ぼっこしていた。やせこけて、力がないのか、近づいても逃げない。どこかで飼われていたのが、迷い猫になり、冬の別荘の縁の下でじっと春を来るのを待っていたのだろうか。酒のつまみの乾きものが残っていたのを思い出し、冷蔵庫から皿ごと持ってきて、草むらに置いた。サキイカ、柿ピー、ホタテの皮など。しばらくして見てみると、ホタテを皿から外へ出して、他はきれいに平らげていた。よほどおなかが空いていたらしい。ホタテはきらいなようだ。満腹になったのか、お礼も言わず、ゆっくりと上の別荘地への道を登っていった。いたづら心を出し、賞味期限のとっくに切れたウィンナーと食べなかったホタテを一緒にして、今度は玄関近くに置いてみた。夕方になってもそのままだった。寝る前もそのまま。
早朝、目覚めたときも変りなし。ところが朝10時ごろ見たら、ウィンナーもホタテもきれいになくなっていた。昨日の猫だろうか。イヤ、あの猫なら、ホタテは残すはず。猫ではなく、他の動物かもしれない。よく見かけるリスは、ウィンナーなど食べないだろうし。次に来る楽しみが増えた。こんどはヒマワリの種も持ってこようか。

   
 

            「ログのボルト締め」

ログハウスは角材(ログ)を横に積み重ねて壁にしている。柱というものがない。屋根や床下に断熱材を入れているだけで、木以外の材料は使っていない。ログを組み合わせた部分にボルトを通して締め付け、隙間が出ないようにしている。木は生き物で、季節によって伸縮する。そのため定期的に、ボルトのネジを締めなおす必要がある。
冬になる前にやって以来、雪でできなかった。5ヶ月ぶりくらいで、ボルト締めをやった。驚いた。すべてのネジがぶかぶか、場所によっては2cmも隙間があった。
秋に、あれほどギューギューに締めておいたのに。寒さでログも縮んでしまったのだろうか。玄関のドアや家の中の扉の立て付けが悪いのもいくつか出始めた。これもログの伸縮の影響。3年くらいは落ち着かないという。木の香りが漂い、天井高く、快適な居心地のログハウスだが、こんな悩みもあるのだ。

    
 

4月23日 ポストに鳥の巣、今年は?
今年の山登りウォーミングアップの日。去年のクリスマス以来の八子ヶ峰へ。
所々に雪は残るが、たいしたことはない。尾根に出ると、左から八ヶ岳、南アルプス、中央アルプス、御岳、乗鞍、北アルプス、戸隠・妙高、根子岳・四阿山、その間に志賀高原、蓼科山の陰に少し隠れて浅間山、快晴の空にみんな雪をかぶって美しい。よく見ると、南、中央、北のアルプスはここから等距離にあるような感じだ。蓼科はそんな位置にあるのか。
緑に覆われていない木々の向こうにわが山荘の屋根を見つけた。
わが家の天窓から、八子ヶ峰の尾根が見えるのだから、山の上からも見えるはずと去年からずーと探していたが、なかなか特定できなかった。
しらかば4号線の道を確認したことから、「あれはわが山荘の屋根」とわかった。早春の贈り物だ。
クリスマスのときもよく晴れて、同じように雪を頂いた峰々が美しかった。
周りの草原も枯れていて、道は泥んこで、今日と同じようだった。
でも何かがちがう。風の温かさだ。冬に向かう風は頬に突き刺すようだった。
今日の風はやさしい。春の訪れを感じさせる風だ。尾根から下りたら、ウグイスの鳴き声が聞こえた。春は確実にやってきた。
あんなにうず高かった屋根の下の雪も、ほんのりと残るだけになった。
庭工事も始まり、枕木の油の匂いが漂う。暖気循環用のファンの煤を払い、ベランダの日除けの開閉試運転、ログハウスのボルト締めを行い、ゴールデンウイークの準備にとりかかった。人も家もウォーミングアップの季節だ。

   
 

4月8−10日 「青空高く、コルク舞う」
春スキーに志賀高原に行った。
山荘から、雪上パーティ用にバーベキュコンロ、調味料一式、アルコールいっぱい、そしてスライド用のPCプロジェクタ、スクリーンを積み込んで奥志賀に向かった。ここから2時間かかる。
八王子から蓼科までも2時間。東京、神奈川、山梨の一都二県を越えて来る。志賀高原は同じ長野県なのに遠い。
スキーはメインでなく、雪の上のパーティが本命。
ヨーロッパスキーに行った仲間も集まり、快晴の白樺林の中で、まずはシャンパンのコルクを開けた。「ポンッ」という音とともに、コルクは青空高く、飛んでいった。霜降り肉の香ばしさにビールも、ワインもどんどん進み、サンドウイッチもおいしい。これだから春スキーはやめられない。
余った食料、飲み物、ゴミも一緒に蓼科の山荘に帰ってきた。蓼科ではほとんど使われなかった、バーべキュコンロがガスバーナーと共に、志賀高原で大活躍した。

    
 

4月2日 「やっぱり寒冷地仕様でなかった」
青木さんのご家族が秋に続いて利用された。スキーを楽しまれた。
今年は雪が多かったので、4月に入ってもやっている所が多く、よかった。
申し訳なかったのは、凍結で破損したゲストハウスの風呂を最初、使えなかったこと。
INAXの修理マンが来て、第一声「これは寒冷地仕様じゃない」。
器具にちょっとした機能の有無が、破裂につながるかがわかった。
山荘、初めての冬は、車を門柱にぶつけ、ストーブの煙突がはずれ、トイレが水びたしになり、そして風呂の温度調節弁の破裂といろいろなことを教えてくれた。次の冬への教訓にしよう。
青木さん家族には、幸い、最後の夜に風呂が使えるようになってよかった。
 
 

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3 月

3月26日 「凍結被害」
昨日の5回目の水入れは、初めてトラブルなしですんだ。と思っていたら、ゲストハウスの風呂場の給湯のあたりが何かおかしい。使ってもいないのに、壁に水しぶきがかかっている。温水調節バルブを回したら、すっぽ抜けて水が噴出した。はめようとしても、水の勢いではじき返される。元栓を地下までもぐって探したが見当たらない。工務店や、管理事務所に電話しても、夕方の6時を過ぎているので、今日は無理とのこと。明日朝まで、流しっぱなしにするかと思案していたら、妻が、「家の水道蛇口の修繕のとき、蛇口横のネジで水流を調整していた」と。機器の留めネジと思っていた箇所を回してみると、水が止まった。この悪戦苦闘に1時間費やした。翌朝、管理事務所の人が来て、バルブを分解したら、プラスチック板が割れていた。中に付着していた水が凍って割れたようだ。こんな些細な場所でも凍るのかと驚く。給湯バルブは寒冷地仕様に代えたというが、この仕様ではダメなようだ。給湯も45度C以上に上がらないようにセットされていて、やけど防止の賢いシステムと夏は感心していたが、冬はこの温度ではぬるくて寒い。標高が1500mと高いことも影響しているようだ。シャワーホースも平地仕様との指摘もあり、本当に寒冷地仕様なのか疑問だ。「いろいろなことが起こるから、覚悟していてください」と、完成直後の「水抜き・水入れ講習」で言われたが、まったくそのとおりだった。昨日今日の出来事では、「春はまだはるかかなた」のような気がする。

   
 

3月25日 「大雪の蓼科」

昨日、来たときは、道路の雪も消え、家の周りも地面が出ている所もあり、「春近し」を感じさせた。夜、パラパラと降り始め、ベランダに出しておいたモミの木もホワイトクリスマスの雰囲気を出していた。朝起きてビックリ、30cm以上の積雪で、車もモミの木も埋まっていた。雪模様だったので、スキーは中止。泊っていた小泉さんと一緒に、雪かきに励んだ。この冬いちばんの積もり方ではなかったか。北側の給湯機の覆いに貼った板塀も、屋根から滑り落ちた雪で圧迫される始末。これは大変と除雪し、かなり整地したところへ、再び、屋根からどさりと雪が落ちてきて、苦労は水の泡。屋根を見たら、まだ落ちる予備軍が残っているので、中止。家の周りは屋根からの落下もあり、2m以上積もっている。4月いっぱいで消えるか?ゴールデンウイークでも残っているのではないだろうか?

   

2月25−3月11日 「アルプススキー休暇」
山荘を閉め、仕事も入れず、2週間のスキー旅行にアルプスに出かけた。
目的地はフランスのヴァルディゼールとシャモニー。
いずれも名高いスキーエリアだ。スキー仲間10人での旅、ジュネーブ集合・解散にしたら、フライトはみんなバラバラ、KLM、エールフランス、オーストリア航空、ちなみに私はルフトハンザ。どうもマイレージの関係らしい。
リタイア組は私と小野さん、他はみんな会社で働いている。よく来れたね。
ワーク・ライフ・バランスがみごとにできている。ご立派。
この旅行で垣間見た、ヨーロッパのワーク・ライフ・バランスとホテル・コンドミニアム事情を報告したい。

  
 

         ヴァルディゼール   「平日が混む」  

ジュネーブから車で4時間、アルベールビルオリンピックの会場になったスキー場。標高1800mに街があり、ゴンドラが3,500mの山の上まで運んでくれる。
とにかく広い。志賀高原の数倍の広さだが、リフト、ケーブルカー、ロープウェイがうまく端から端までつないでくれる。                           ホテルに併設されているコンドミニアムに1週間泊った。4LDK、150uの広さがあるので、10人問題ない。広さだけなら私の山荘も同じ大きさだが、ロフト仕様とホテル仕様では使い勝手がちがう。バスタブが3ヶ所、トイレは4ヶ所もある。このようなアパートメントと呼ばれるコンドミニアムやシャレーがホテル以上に多い。
スキー休暇となると、最低1週間単位のヨーロッパ、宿泊料の設定も土曜から次の土曜までの1週間単位。2,3泊しても1週間分とられる。
日本のような2泊3日なんて考えはない。休むなら最低1週間。中には1ヶ月の人もいる。週末は客の入れ替えで、道路も宿もゴッタがえす。
スキー場は平日が混む。朝のゴンドラ乗り場は長蛇の列、昔の八方尾根のゴンドラを思い出した。日本はスキー人口ががた減りで、週末でもリフト待ちなどなくなったが、ここでは健在。冬はスキーが今でも主流、スノーボードは非常に少ない。「あれはアメリカのスポーツでね」と関心が低いようだ。
スキー休日の楽しみ方も日本とちがう。朝は10時過ぎにゲレンデへ、昼は2時間くらい日なたでランチ、当然ワインたっぷり。4時ごろ宿に戻ったら、サウナを浴びて、8時過ぎにディナー、そのあとスナックで一杯ひっかけて、12時過ぎにディスコ、深夜まで。
これを毎日繰り返すのが、ヨーロッパ流とか。われわれもトライしようとしたが、ディスコへ行く気力と体力なしで断念。なかなか国際人にはなれない。

 

コンドミニアムの機能はふつうの家と同じ。
蓼科の山荘も以前行ったオーストリー・チロルと同様のシャレーを参考にして作った経緯があるので、今回も違和感ないが、値段(1週間60万円)の割りにメンテナンスが今いちと感じた。
例えば、
 ・食器がバラバラ、欠けているものあり
 ・フォーク、スプーンなども同様
 ・洗剤、調味料が用意されていない
 ・洗濯機、食洗機、レンジなど機器の取り扱い説明がない。
これらは他山の石として、私の山荘でも気をつけなければならないことばかり。私はシャンプーや石鹸の補充を忘れがちだが、ここではホテルサービスがついているので、その点はしっかりしていた。
 

       シャモニー 「白馬も見習うべきシステム」

ジュネーブでみんなと別れ、リタイア組の小野さんと私はシャモニーに行った。
さすがに2週間の休暇はみんなはむずかしい。
「21世紀は知識を活用する競争になる。モノ作りといっても”カイゼン”や”たくみの世界”のことではない」はソニーの出井さんの言葉。
「知識社会では人の能力とモチベーションが品質を決める。能力よりモチベーションがより重要になる」は日本テレコムの倉重さんの言葉。モチベーションを高め維持するには、仕事、仕事ばかりではダメ、自分のライフを充実させ、いろいろなことを見聞し、多角的な知識を広げていくことが大切だ。その意味では、ヨーロッパの人のように、長期の休みをとってリフレッシュした心身で職場に戻る習慣を日本人も必要になってきている。
単なるモノ作りは中国に任せればよい、日本はその上のレベルを目指さなければ生き残れない。そのためには、ワーク・ライフ・バランスの考えをもっと企業に理解してもらいたい。
ライフは個人だけで考えるものではなく、企業も国もそれをサポートする仕組みを欧米のように充実させる必要がある。

 
  

シャモニーは日本人にもよく知られている山岳リゾート。冬のスキーでも有名、最初の冬季オリンピック開催地でもある。
ヴァルディゼールとちがって、いくつかのエリアに分かれていて、そのつながりはない。しかし街からエリアを結ぶシャトルバスがひんぱんに走っているので、不便さはない。そして無料。リフト券も全エリア共通。これでエギュードミディのロープウェイにも乗れる。
白馬もこれに見習ったらどうか。
お客が減るのを嘆く前に、鹿島槍サンアルピナ、佐野坂、五竜、白馬47、八方、岩岳、栂池、白馬乗鞍、コルティナのリフト券を共通にし、無料のシャトルバスを走らせるような起死回生策を考えられないのだろうか。
 
   
 

夏も冬も満員のシャモニーのホテルはちょっとあぐらをかいているかもしれない。泊ったのは三ツ星の中より上のクラスだったが、英国、日本、台湾などフランス語圏以外の客が多いのに、テレビはフランス語放送のみ。
部屋の案内書はなし、二人なのにアメニティグッズはひとり分、朝食のバイキングは少し遅く行くとパンと果物だけというありさま。
スキーバブル時代の野沢温泉の宿を思い出したほど。野沢はこのあと、客が激減、サービスの悪い温泉として有名になった。しかし今ではこの反省から、温泉全体が名誉挽回に取り組み、日本でも指折りの名旅館も出現するまでになった。
 

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2 月

2月14−15日 「こんな日もあるんだ!」

みんな帰って一抹の寂しさもあり、朝のうち天候もぱっとしないのでダラダラしていた。
ただ14日はエコーバレーのシニア・リフト無料が気になり、11時過ぎになって重い腰を上げた。
天気も回復してきた。行ってよかった。昨日までとうって変わり、スキー場は閑散、暖かい日差しにきらいなアイスバーンもゆるんで、ゲレンデは最高の状態。好きな斜度のスロープが続き、北アルプスから南アルプスまで、きれいに見え、浅間山も噴煙を上げている。ひとりで滑るのも久しぶりだが、はじめてのスロープをひとつひとつつぶしていく目標もあり、寂しくない。2時間で一通り、滑り終えて帰ってきた。帰りに入った鹿山の湯はことの他、気持ちよかった。

   

今日は帰る日だが、昨日のエコーバレーの気持ちよさが忘れられず、隣のブランシェ高山にこんどは9時過ぎに行った。
ここも空いていて、面白い。いずれも2時間強でゲレンデ全周できるので、午前はここ、午後は隣を回ってみるのもよいかもしれない。
長いリフトに乗っていたとき、お客さんから電話が入り、建築の投資評価を雪景色を見ながら説明した。気分もさわやかなので、説明もうまくできたようだ。
蓼科周辺のスキー場もまんざら捨てたものでない。
私の好きなゲレンデの順番は @エコーバレー Aブランシェ高山 B白樺国際 C白樺2in1。
午後、山荘に帰ってきてからが忙しかった。3月末まで来ないので、水抜きの作業、ゴミ出し、洗濯、いつものことだが、帰る日は慌しい。結局、確定申告の準備も、原稿書きもできずに帰る羽目になった。スキーにはまって、自業自得。
 

2月10−13日 「スキー三昧!」

スキーと仕事仲間のSさん夫妻とTさん家族が来られた。
最初の二日間はSさん夫妻と車山、白樺2in1、白樺国際のスキー場を回った。お二人ともじょうずで私がいちばん苦手とするアイスバーンを物ともせず滑走していく。
連休だったせいか、どのスキー場も超混雑、10数年前の上越のスキー場の週末を思い出させた。まだこんなに混むこともあるんだと実感した。
二日目の夕方にTさん家族が合流。私がガムラスタンへ北欧料理をとりに行っているときに来られた。今日はケータリング主体のパーティ。
ワインがばんばん空いて、いつ寝たかもわからない始末。
アミちゃんは中学2年の可愛いお嬢さん、ケント君は明るい小学4年のサッカー少年。ふたりとも素直ないい子供たちだ。
帰る時間が迫ると、ケント君は自分が寝た二階のロフトに閉じこもった。帰りたくなく、名残り惜しかったようだ。「こんどはもっとゆっくり来てね」にコックリ。みんな良い思い出をもって帰っていってほしい。そしてまた来るのを待ってるよ。

   
 

2月4−6日 「Plateさん家族、再訪!」
正月に滞在されたPlateさん一家が友達の家族も連れて、再び、冬の蓼科山荘生活を楽しまれた。
ドイツの冬に慣れているので、雪の中の生活はへっちゃらのようだ。
楽しみ方をよく知っているのだろう。
私は不在だったので、オーナーエリアも開放し、二家族、ゆったりと使ってもらった。Plateさんは今回ノートPCを持参した。LAN環境を事前に聞かれたので、仕事をするのかなと思っていたが、後日のメールでその目的が理解できた。
ちょうどこの時期にエレン・マッカーサーという女性がヨット世界一周早回りに挑戦していて、その最終場面をインターネットで見たかったようだった。
日本の新聞では結果しか伝えなかったが、ヨーロッパの人たちには重大関心事だったようだ。結果は新記録を打ち立てた。
Plateさんが滞在中に薪ストーブの煙突が雪の重みで曲がってしまい、その応急措置までやってもらった。

   
 

Everything is perfect including the wheather and snow.
Too bad that we have to leave again today already!
By the way, WLAN is working fine. We are following the record attempt of Ellen McAthur who tries to sail around the world in record time alone (!).
The attempt will finish soon, you can see the very exiting final days at www.teamellen.com.
Best Regards
                           The Plate family

2月2−4日 「娘が雪かきわけて山荘へ!」

上の娘、穂梓が友達と一緒にスノボーをやるといって、雪降る山荘に夜中に出かけていった。
何時になっても「着いた」の連絡がないので、携帯に電話入れると、駐車場の雪かきの真っ最中だった。
一昨日、森さんが一生懸命、掻いてくれた駐車場はもう雪で埋まっていたようだ。山荘までの道も、一本の線になっていたという。今年はよく降り、積もる。
 

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1 月

1月28−30日 「森さんぐったり!」

ファシリティ・マネジメントの数人の仲間でスキーに行きだしたのが長野オリンピックの年1998年、8回目を迎えた今年は20数名に増えて、奥志賀のペンションを借り切るまでになった。
そのスキーの帰途、仲間のひとり・森さんと一緒に山荘に寄った。積雪は増えていて、駐車場つくりと道付けの作業は重労働。森さんは雪かき、私は水入れと中と外に分かれて働いた。
雪かきの重労働の後に入った鹿山の湯、ガムラスタンでの二人だけでの 静かな北欧料理。
山荘の天窓からの夜空も相まって、ドイツ生活の長かった 森さんは、ミュンヘンでの家族一緒のなつかしい生活を想い出されたようでした。
「ワイワイのスキーの後の、こんな楽しみ方もいいね」としんみりと言われました。
東京へ帰って、疲れで寝込まれたとか。森さんぐったり。ご苦労様でした。
 

1月 何かと忙しい冬の生活」
雪が降ると美しい白の世界が山荘の窓に広がる。
晴れた日など、ダイヤモンドダストのような雪が舞い、それはそれは幻想的だ。それとは裏腹に生活を維持するのは夏と違った労力がいる。
まずは雪かき、駐車場を確保するために、2台分の雪かきをしなければならない。道路際は除雪の雪で壁になっている。いつもの年なら、20〜30cmくらいしかないのに、今年は50cmをこす積雪がある。大汗をかいての力仕事だ。
玄関まで30mくらいの歩く道も除雪しなければならない。
家に入ると、水入れ作業が待っている。
いない間は凍結防止のために、水を抜いているので、逆の作業が必要。
すべての蛇口を閉め、トイレのウォシュレットもはめ込んで、通水開始。このとき毎回、何かが起こる。
最初はトイレが噴出し、水びたし。2回目は風呂の通水ができず、3回目は食洗機の下から水が滲み出した。4回目は洗濯機のバルブがはずれ、水が吹き上げた。雑巾とバケツを抱えて右往左往。
やっと止めたと思ったら、トイレのタンクが凍っていて流せない。やかんでお湯を沸かし、タンクに給湯して、ようやくトイレが使えるようになった。
薪ストーブは最初の火付けが大変、燃え出すまでは、ストーブから離れられない。薪は結構使うので、補充用を玄関脇のベランダへ、下から運びストック、その日の分をそこからストーブのそばへ運ぶ。
終れば掃除と灰をバケツに入れて白樺の根元に捨てにいく。いい肥料になるらしい。ようやく室内も暖まり、一息つくまでにかなりぐったりする。

    
 

1月7−9日 「子供たちの歓声響く冬の山荘」
7日の夜から、岳文会の後輩Mさんとその友達の家族9人が使うことになった。私はその日から奥志賀にスキーに出かける。そこで、来られる前にストーブに薪を充填し、床暖房もONにして、暖かく到着できるようにした。
クリスマスからのイルミネーションもそのまま点灯しておいた。
夜は結構な雪降りになり、志賀に着くまで彼らが山荘に入れたか心配した。
みんな初めての来荘で、雪の深夜のドライブ。12時過ぎに電話したら、明るく「最高!」という声と後ろに響く子供たちの歓声にホッとした。私がいないので、オーナーエリアも開放し、150uをフルに使ってもらった。

★Mさんからのメッセージ
2家族で2泊使わせていただき、みな感動の感動し、お父さんの株は上がりました。
今日17時ごろ山荘を後にするとき、長女(5年)が山荘に向かい「ありがとうございました。またお願いします」とお辞儀をしていました。
是非また使わせてください。
 

12月30−1月4日 「Plateさん一家滞在」
中村さんの上司、ドイツから日本に駐在されているPlateさんの家族が正月を山荘で楽しまれた。
3人のお子さん、ひとりは生まれたばかりの3ヶ月、ご両親の7人。チロルのシャレーをモデルにした山荘はまさにドイツの人にはピッタリだったようで、滞在を一日延長されたほど。
すごし方も、山荘を基点に周囲の雪の原を歩いたり、別荘地内のスキー場で子供たちはそり遊び、おばあちゃんはスキー、雪だるまつくりと、自然と戯れる。3ヶ月の子も、お母さんに抱かれて雪の中へ。車であちこちを回る日本人とは対照的。ライフスタイルが全然ちがう。
帰られたあと、山荘にみんなのサイン入りの手紙が置いてあった。

Dear Oda-san!

Thanks a lot ! We had a really great time.
Your house is perfect, we didn't miss anything.
The weather was beautiful, too: sunshine and powder snow !
We are looking forward to coming again and we would like to recommend the house to freinds. Lots of greetings.

    
  

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