小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
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蓼科日記

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蓼科・東急リゾートタウン
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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。
毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2014年>

 [1月] [2月] [3月] [4月] [5月] [6月] [7月] [8月] [9月] [10月] [11月] [12月]

 <2004年> (2004年分は、こちらからリンクします。)

 <2005年> (2005年分は、こちらからリンクします。)

 <2006年> (2006年分は、こちらからリンクします。)

 <2007年> (2007年分は、こちらからリンクします。)

 <2008年> (2008年分は、こちらからリンクします。)

 <2009年> (2009年分は、こちらからリンクします。)

 <2010年> (2010年分は、こちらからリンクします。)

 <2011年> (2011年分は、こちらからリンクします。)

 <2012年> (2012年分は、こちらからリンクします。)

 <2013年> (2013年分は、こちらからリンクします。)

 <2014年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

 <2015年> (2015年分は、こちらからリンクします。)

 <2016年> (2016年分は、こちらからリンクします。)

 <2017年> (2017年分は、こちらからリンクします。)

 <2018年> (2018年分は、こちらからリンクします。)

 <2019年> (2019年分は、こちらからリンクします。)

 <2020年> (2020年分は、こちらからリンクします。)

 <2021年> (2021年分は、こちらからリンクします。)

 <2022年> (2022年分は、こちらからリンクします。)

 <2023年> (2023年分は、こちらからリンクします。)

 <2024年> (2023年分は、こちらからリンクします。)

2014年

12月

12月26日 駐車場除雪トラブル

今年の雪は早く、多いと聞き、いつもは自分でやる下の駐車場の雪かきを管理センターに頼んだ。明日からの正月休みで山荘を使う人が来るので、水入れ作業にやってきた。駐車場の前へ行ってみると、何も除雪されていない。管理センターに連絡すると、すぐやりますとの返事。ヤレヤレと思い、車を上の駐車場入り口のメイン道路に停めようと回してみると、なんと上の駐車場がきれいに除雪されているではないか。しばらくすると業者がやってきて、いつも車が上に駐車していたので、てっきり上だと思っていた。電話の連絡メモをよく見たら「下」と書いてあったと言う。翌日女の人二人が来て、あっという間に、下の駐車場の雪をかいてくれた。冬は下を使っていることを知らなかったのだ。上だと道路取っ付きまでの道も除雪しなくてはならず、不可能なので下を使っているのだ。

      
     (写真左:間違って除雪した駐車場、右:正しい場所を除雪中)
 

12月20日 中学同期の忘年会

恒例の村上中学校の同期の忘年会が池袋の田舎家でやった。いつものメンバー9名が集合。林君の三面川の釣果の岩魚やヤマメを板前さんに頼んで焼いてもらい、バイガイ、ノッペ煮など懐かしいふるさと新潟の食べ物と酒は〆張鶴で盛り上がる。私が出版記念会に欠席してしまい迷惑をかけた田中君も出席し、重々謝る。その記念会の帰りに大川さんが体調を崩し、松澤君が病院へ運び、大事に至らなかったということもあったらしい。その回復祝いのケーキも最後に出て、楽しい夜となった。

      
 

12月14日 韓国への歓送会

上の娘・穂梓が10月でリクルートを辞め、韓国語を学びにソウルへ来年の5月まで行くというので、今日はその壮行会を兼ねての家族で食事だ。娘の希望はしゃぶしゃぶなので、近くの木曽路だ。三日後には旅立つ。半年間のご無沙汰だが、1ヶ月後は失業保険の手続きで二日だけ帰ってくるという。ソウルは2時間弱のフライトで行けるのに違う国だ。家にいればいたで早く片付いてほしいと思っていたが、しばらくいないとなると何となく寂しいものだ。(その後、一時帰国したとき聞くと、短期間のアパートはシェアハウスのようで、朝、ご飯を炊いてくれ、おかずだけ用意すればよいので便利、学校生活も楽しくやっているようで一安心。3月に模様見に妻と行こうと思っている)

  
 

12月6日 Keysight

私が勤めていたヒューレット・パッカード(HP)も分社、分社で慌ただしく変わっている。コンピュータ(HP)とその他(アジレント)に分かれたのは1999年、それから15年経って昨年夏、アジレントはライフサイエンス機器がアジレント、計測器がKeysightに分かれた。HPとして建てた八王子のビルの看板も3度目の模様替えだ。今日、OB会があり、これまでアジレント・HPOB会と言っていたのを、昔に戻し、ヒューレット・パッカードOB会にした。変わる名前にはフォローしきれないので、ルーツの会社の名前ならこれからさらに変わっても使えるということらしい。それにしてもアメリカはきれいさっぱり分かれていくものだ。日本企業のホールディング式の分社はやらない。未練を断ち切っての再スタートだ。計測器のKeysightはヒューレットさんとパッカードさんが始めたときのビジネスに里帰りなので、ルーツに戻ったとも言えるが、当時と様変わりしている環境の中で、計測器だけでやっていけるものか心配だ。この夏に見た、コロラド州ラブランドの工場の凋落を思うと、先行きが心配になる。

  
 

12月2日 こえもんのラーメン

日野に”こえもん”あり。時には店の外に列ができるラーメン店の誕生だ。夏でも冷やしやつけ麺をやらず、ラーメン一本である。タンメンなどもない。少し濃い目の味だが、美味しい醤油味の昔ながらの八王子ラーメンである。八王子ラーメンの特徴は刻みネギに玉ねぎのみじん切りを使うことである。これもまたおいしい。

      
 

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11月

11月29−30日 山岳フォーラム

昨年に続いて、松本の山岳フォーラムに参加した。北アルプスの槍ヶ岳、穂高そして上高地を抱える松本市はまさしく岳都である。それらを支える、山岳警備隊や山小屋の人が会し、山の楽しさ、こわさ、これからを語るこの催しは面白く、有意義な催しだ。今年は「山の日」が制定されたこともあり、さらに盛り上がっていた。旧安曇村と姉妹村だったグリンデルワルドの村長さん、日本人観光案内所長も来ての、”スイスの山にいらっしゃい”のイベントも面白かった。女優・釈由美子さんはNHK「百名山」の司会をしている縁で対談に来たが、今年はじめて穂高に登った。焼岳に登った翌日に「百名山」で焼岳の録音があり、登る前日が御嶽山噴火だったので、録音は生々しいものだったそうだ。チャラチャラしたイメージだったが、彼女の話ぶり、行動を見るとしっかりした聡明な女性とお見受けした。山ガールのお手本として活躍してもらいたいものだ。
茅野へ帰る車中は休日の夕方だったのでクラブ活動帰りの高校生のジャージ姿が目立った。松本周辺は松本深志の賢こそうな学生、下諏訪あたりからは下諏訪向陽、諏訪双葉などの元気な学生と、色合いがちがうのが面白い。

      
 

11月11−20日 四国一周の旅

妻は四国に行ったことがないと言うので、車で一周してみることにした。往復は夜行バスを使った。
行きは新宿から松山へ12時間の旅、座席は3列でカーテン仕切り、ひと昔前のビジネスクラスくらいに斜めになるので、寝るには問題ない。朝8時前に松山に着いた。四国四県を廻る。私は以前、阿波踊りで徳島や池田に来たことがある。そのときは高松に入り、徳島へ直行だった。愛媛県と高知県ははじめてだ。11月の四国は紅葉シーズンとも聞いている。楽しみな10日間の旅である。

      
               (写真左:道後温泉、右:はりまや橋)
 

11月12日 松山は鍋焼きうどん発祥の地

松山の繁華街、大街道に着いたのは朝8時前、ホテルは目の前にある。荷物を預け、顔を洗って早速、歩き始めた。まずは松山城、近くのロープウェイ乗り場からリフトで城山に上がり、茶店で鍋焼きうどんを食べる。松山は鍋焼きうどんの発祥の地とガイドブックに書いてあったので、食べねばならぬ。容器は陶器ではなく、アルマイトの鍋だ。これがふつうらしい。味は薄口しょうゆで、食べやすい。この日はお昼も鍋焼きだったが、そこもアルマイトで、同様の薄口しょうゆだった。東京の鍋焼きはこってりしているが、こちらはあっさりだ。でも味はよい。
天守閣から市内から瀬戸内の海へと眺め、市内へ歩いて下りた。次は子規庵だ。正岡子規の住まいである。こじんまりした建物がお寺の境内に移築されていた。伊余電・松山市駅から坊ちゃん列車に乗って、道後温泉へ向かった。昔ながらの木の車体に古めかしい衣装の車掌さんが、大声で街の案内もしてくれる。20分くらいで道後温泉に着いた。妻が四国でいちばん来たかった所だという。畳の大広間に荷物を置き、浴衣、タオルを持って、浴場に行く。霊の湯と神の湯に浸かり、夕べからのバスの旅の汗を落としてから、広間に戻ると坊ちゃん煎餅とお茶が用意されていた。これで一服したら、また湯に浸かるのが習わしらしいが、我々はもういいと坊ちゃんの間や皇族専用の浴室を見て、ホテルに帰った。

      
  (写真左:松山城を案内する小学生)
 

11月13日 よしもとも来る内子座

朝、歩いてタイムズレンタカーに行き、車を借りて、内子へ向かった。高速道路の手前でETCカードを入れる場所がわからず、電話した。ナビを点けるとアナウンスの声がするその近くというので、ハンドル回りや下を見たがそれらしき物がない。「イイや!」ということで、ETCなしで走ることにした。(返すときにわかったのだが、バックミラーの隣にあった。下ではなく上ではないか!)。
内子は和紙や木蝋で栄えた交易の町。昔の家並が細い坂道沿いに立ち並ぶ。昔のままの内子座という劇場が残っていて、枡席が懐かしい。昔は歌舞伎や文楽がさかんに上演されたという。次の正月公演はよしもと漫才らしい。宮川大助・花子のポスターが貼られていた。こんな趣のある劇場で漫才を見たいと思ったが、何せ遠すぎる。隣の大洲へ車を走らせた。大洲は関ヶ原の寝返り大名のひとり脇坂安治がご褒美として赴任した藩である。ほとんどの寝返り組は家康に疎んじられたのに対し、脇坂は世渡り上手で大洲5万石に昇進した。その後加藤藩となり、明治まで続くのだが、勤王で一致し坂本竜馬の脱藩を助けた。そしてNHK朝ドラ「おはなはん」で全国的にも有名になった町である。撮影のおはなはん通りを歩いたり、貿易で成功した人の臥龍山荘を見たりして、今日の宿・宇和島へ向かった。仙台伊達藩から伊達秀宗が入り、宇和島伊達藩となった。テニスの伊達公子はここがルーツと言われている。伊予銀行のポスターにも彼女の笑顔があふれている。そんな宇和島のビジネスホテルに泊まったが、ここで食べた鯛めしはおいしかった。

      
                 (写真左:内子座、右:大洲城)
 

11月14日 お遍路も来る足摺岬

愛媛から県境を越えて高知に入り、四万十川沿いに中村を目指す。途中、沈下橋めぐりの船に乗った。
沈下橋は洪水になると橋の上を水が流れやすいようにと、欄干をつけない橋げただけの橋。のっぺらぼうでここを車で走るときは落ちないように注意を要する。橋めぐりも単純な橋ばかりで面白くない。紅葉もなく、船頭に言わせると「紅葉にふさわしい木が無いエリア」だという。ひとり2千円の価値はない。先の洪水でひっかかったビニール類が岸辺の木々のかなり高い位置に残っているのが洪水の大きさを物語る。
中村から土佐清水を抜けて、足摺岬に向かった。半島の山の上のドライブウェイを越えたら、太平洋が広々と見えてきた。途中、白装束姿のお遍路さんが歩いていた。足摺岬には38番札所・金剛福寺があるのだ。こんな岬の突端まで歩いて来なければならないのはご苦労なことだ。
お寺の前に行くと遍路バスが何台か止まっていた。大半の遍路さんはバスのようだ。確かにここまで中村から来るだけでも相当な距離である。宿の露天風呂は屋上にあり、17:08日の入りに合わせて入った。紅い夕陽が西の海の雲の合間に沈んでいく光景は限りなく美しく、神秘的でもあった。

      
                (写真左:沈下橋、右:足摺岬)
 

11月15日 ”リョーマの休日”一色の高知

高知への道をひたすら走る。須崎は鍋焼きラーメンが名物と聞き、ガイドブックに載っていた店を発見、食する。熱々のラーメンに生卵を入れ、ごはんをもらい最後はおじやにするのが正道とか。その流儀にならって食べた。あじはまずまずの濃い目だった。
桂浜に行き、坂本龍馬の有名な大きな像を見て、龍馬記念館に行ったら、今日は彼の誕生日でもあり命日でもあるとかで、入館無料というではないか。あまり龍馬に関心がないが、入ってみた。手紙類がほとんどで、読むのがしんどい。絵でもよいから、流れを追って一覧できるような仕組みがほしい。ネブラスカのKeraneyにあった西部開拓の人形ストリーのようなものを。
玄関の前に等身大の龍馬像があり、握手できるようになっていた。固く握手をして龍馬を偲んだ。
高知市内に入って、迷いながら、ふくちゃん記念館に行った。ふくちゃんは早稲田のシンボル的な存在、それに関する展示でもあるかと思ったがなかった。ただひとつ、連載が終わるとき送別の言葉を早稲田の応援団長が書いていた。「ふくちゃんは永遠の早稲田のシンボルです」と。

      
 

11月16日 平家の村も大賑わい

土佐の高知といえば”はりまや橋”、ここを外すわけにはいかない。朝食後、市電ではりまや橋へ。かの有名な橋は、とてもちいさい。川はそんなに広くなかったのだろう。それでも朱塗りの橋はかわいらしく、行ったり来たりして楽しんだ。ぼんさんも買うか買うまいかで行ったり来たりしたんだろうな?
今日は日曜日、高知城へ向かう通りは日曜市で人出が多い。野菜や果物は種類が豊富、おいしそうだが、まだ旅は長いので送るわけにもいかない。妻は高知大学生が手掛けたお茶を買った。高知城へ上がった。途中に板垣退助の銅像があり、ここは自由民権運動の発祥の地であることも思い出した。
ホテルに帰り、祖谷渓に向かった。祖谷は徳島県である。大歩危のドライブインで祖谷そばを食べ、かずら橋へ。たくさんの車、おおぜいの人、平家の落武者部落は大変な賑わいだ。かずら橋にも長蛇の列。500円払って渡るのだ。前にいた小さな子供を抱いた若い夫婦も渡る前に写真をいっぱい撮っていた。子供も待ち遠しそうだったが、渡り始めて間もなく、戻ってきた。子供がこわくなって泣き出し、渡るのをあきらめたようだ。ふたりで1000円、パーになった。

      
                (写真左:高知朝市、右:かずら橋)
 

11月17日 ”高円寺”と言ったばっかりに…

祖谷渓谷を見下ろす所に小便小僧が立っている。駐車スペースが狭いので、記念写真をあわてて撮って、池田方面へ車を走らせた。今日は徳島に直行するつもりだったが、高速道路に乗って気が変わり、脇町で下りた。ここも内子同様、交易の町として栄えた所。藍染が盛んな町だ。街のはずれの橋の袂に来てみたら、対岸にオデオン座と書かれた古めかしい映画館がある。「もしや」と切符売場の女性に聞くと、やはり映画撮影に使われていた。山田洋次監督が寅さん映画が無くなった直後に撮った西田敏行主演の田舎のさびれた映画館の物語。「虹をつかむ男」だった。今は映画館は廃業し、窓口は記念館の切符売場に変わっていたのだった。
徳島の町に入り、徳島ラーメンを食べた。豚骨系の濃い目のラーメンだった。ここでも生卵を入れるのがふつうのようだ。
阿波踊り会館で実演を見てから、観客も舞台に上がり一緒に踊る。その日の目立つ人にレイをかけて、表彰するようだ。私のそばに来て、「どちらから?」、「高円寺」と答えると、「プロじゃないですか!」と、私にかけかけたレイを引っ込めてしまった。残念!!

      
             (写真左:オデオン座、右:阿波踊り会館)
 

11月18日 ”第九”初演の地 板東俘虜収容所

朝、徳島文学書道館で、まき割りでお世話になっている今村さんの奥様・夏子さんのお父様「庄野潤三」の展示を見ようと思ったら、昨年末から今年1月までの記念展示だったようで、今はやっていないという。
徳島の生んだ私小説の巨匠を何と心得おるか!と憤ったが仕方ない。鳴門へ向かい、渦潮館で鳴門大橋の下部から覗く、海峡の渦潮を見た。ちょうど干満潮の境のときであまりはっきりした渦潮ではなかった。そこから板東へ向かった。お目当てはドイツ館、ここには第一次世界大戦で戦ったドイツ人の捕虜収容所があった。当時は板東俘虜収容所と言った。日英同盟で中国チンタオのドイツ租借地の攻撃を頼まれた日本は出陣し勝利をおさめ、数千人のドイツ人を捕虜として日本各地に受け入れた。そのひとつがこの板東だった。しかしここは”バルトの楽園”の映画になったように、世界にも稀有な収容所だった。会津藩士の末裔、松江豊寿陸軍中将が所長を務め「戦った国に責任はあるが、兵士として駆り出された国民には罪はない。祖国に帰るその日までここで静養されたい」の言葉のとおり、自由に過ごしたのだ。
ベートーヴェンの第九初演の地でもある。松江所長には幼い頃、官軍にいじめぬかれた会津住民の姿が瞼に残っていた。ここで住民との交流の中には、印刷技術、パン作り、ハム作りなどその後の日本に広がったものも多い。バウムクーヘンで知られている神戸の洋菓子店ユーハイムは、日本に残った収容所出身のドイツ人が始めたものである。ここで亡くなった人たちの墓守をしていた住民がいたことを知った帰還兵達が感謝の記しにドイツ記念館を作り、友好都市関係を鳴門と結んでいる。今でも徳島では第九を初演されたと同じ6月に演奏会を開いているという。いい話ではないか!

      
             (写真左:第九演奏人形、右:収容所映画セット)
 

11月19日 金毘羅さんはしんどい

この旅行、最後の地、香川県、今日は琴平電鉄で金毘羅参りである。♪こんぴら船々、お池に帆かけて、シュラシュシュシュ・・・♪と唄っていたが、案内書を見ると、”お池”ではなく、”追い手”だった。子供の頃からの間違いを今、直してくれた。本宮まで785段、奥社まで1365段、エスカレーターや動く歩道もない。ひたすら登る。途中でひと休みして 本宮へ着いた。「登りたくない」と言ってた妻もここまで来たら、奥社への誘いにも乗り、さらに上がることにした。さらに580段をひたすら上に。奥社から讃岐平野がよく見えたが瀬戸内海はイマイチだ。海洋安全の神社なのだから、海が見える展望台が欲しい。
階段の脇に、寄進者の石塔が立ち並んでいる。北海道から九州まで船会社や漁業関係者のものが多いが、旭川市や深川市など海とは縁のない地域のものもある。富山も多いのに、わが新潟が見当たらない。新潟県は弥彦神社で済ませているのかな?と思いつつ下ってきたら、境内が切れるあたりに「壱百万円 新潟市 荒木周平」の石塔発見、なんだかホッとした。階段脇の食堂に入り、金毘羅うどんを食べた。いろいろな具が載っていておいしいうどんだが、夕べ高松で食べた単純なかけうどんの方がおいしいと思った。いずれにしてもうどん県・香川はどこのうどんもおいしいのだ。

      
              (写真左:金毘羅階段、右:中央の石塔が新潟の人の寄進)
 

11月20日 寒くてもソーメン・小豆島

今晩、高松から夜行バスで新宿へ帰る。それまで小豆島に行くことにした。土庄へフェリーに乗り、オリーブバスの一日券2000円で定期バスで廻ることにした。草壁港で下り、寒霞渓へのバスに乗り継ぐ。待ち時間を利用して、喫茶店に入ると、ソーメンのメニュー。小豆島はソーメンも名産なのだ。冷たいソーメンはこしがあり、とてもおいしい。本場は喫茶店のソーメンもおいしいのだ。
寒霞渓のロープウェイに乗って見た紅葉が今回の旅ではいちばんきれいだった。それから二十四の瞳の田浦へ行き、映画村で古き時代を偲び、土庄への帰り、オリーブ公園で途中下車、オリーブ畑越しに見た瀬戸内の海の夕映えは旅の締めくくりにふさわしい美しさだった。真っ暗になった海を高松へ戻り、夜行バス待つ間にふつうのラーメンを食べた。今回の四国は、麺に始まり麺に終わる旅でもあった。鍋焼きうどん、鍋焼きラーメン、祖谷そば、徳島ラーメン、讃岐うどん、そして小豆島ソーメン、どれもおいしく思い出に残る。新宿へのバスは四国四県の忘れがたき風景を夢に見ながら、心地よくゆられて眠りについた。

      
           (写真左:二十四の瞳教室で、右:瀬戸の夕映え)
 

11月8日 今村さんのおかげです!

今村さんは、ファシリティマネジメントを通じて知り合い、西部開拓史同好の友でもある。今、定期的に「インデペンデンス」の翻訳を送ってきてくれ、アメリカ西部開拓時代の話でつながっているかけがえない友人である。そして足柄山の麓で薪ストーブの家に住んでいて、私の薪ストーブの師でもある。「太い丸太がなかなか割れない」と言ったら、「お任せあれ」と奥様と一緒に来てくれた。今村さんにかかると、軒下いっぱいに並んでいた丸太もほとんどきれいな薪になり、ベランダ下に積まれた。あとは私の楽しみ用に少しの薪材丸太が残っただけだ。昼は私が作った鴨せいろ蕎麦、夜は今村さん持参のイノシシ肉で牡丹鍋と、晩秋向きのおいしい食卓となった。これでこの冬も薪の心配なく、暖かく過ごせそうだ。

      
              (写真左:きれいに薪積み、右:残った丸太)
 

11月3日 まったくもう・・・早稲田
早慶戦で2連勝すれば優勝というのに、1戦目で勝って王手をかけたというのに、2戦目で負けるとは!「まったくもう・・・早稲田」である。3戦目が9対0という圧勝だっただけにもったいないことをした。
エースドラフト1位で日ハムに行く有原が故障ということもあるが、1戦、2戦とも1年生投手の大竹に先発を託すというのでは情けない。去年まで活躍していた投手の吉永(3年)、吉野(2年)、内田(4年)はベンチ入りもしていないありさま。早稲田のピッチャーはプロで大成しないというが、学生時代に燃え尽き症候群になってしまうのではないか?
応援合戦でグリークラブが「慶応倒し、意気あげて」と唄うところで、床踏みならすパーフォーマンスを2戦目で忘れたことも遠因ではないかと思ってしまう敗戦であった。3日は文化の日で月曜ながら祭日というのに、応戦席はOBが多い。岳文会幹事長に電話したら、「今日は授業がある日なので、会としては特に応援予定はない」と言う始末、勝ったらちょうちん行列だというのに、クールと言おうか、母校愛がないと言おうか。これもまた現代早大生気質なのだろうか。

      
         (写真:左・チアガールの演技、右・グリークラブの応援歌)
 

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10月

10月29日 高山村から志賀高原へ
上高井郡高山村には高校1年の時、同級だった宮川君が住んでいる。定年後に継いだ奥さんの家のリンゴ園をやっている。そこでリンゴ狩りをして、奥志賀に行くことにした。富国生命時代の先輩。三森さん、中島さんと一緒だ。昼前に着き、小一時間ばかりリンゴ狩りをやった。三森さんはリンゴジュースを自家製で飲むとかで、フジをいっぱいもいでいた。それでも千円しか受け取らなかった。
そのあと、山田温泉でうどんを食べ、雷滝を見物し、山田牧場へ上がって行った。牧場の入り口のカラマツがみごとに黄色に色づき、青空に映えて美しかった。笠岳を越えて志賀高原に入り、熊の湯で風呂につかった。行く途中、笠岳スキー場があった場所に建っていた旅館が消え、さら地になっていた。「ああここもダメになったのか」。志賀高原は旅館の倒産続出である。スキーばかりに頼っていたツケが今、噴き出している。夏の誘客に力を入れてこなかった。志賀は標高も高く、自然豊富、観光資源は冬以外もいっぱいあるのに、それを生かしきれていない。少しはヨーロッパアルプスのスキー場を見習い、夏のリゾートとしての売り出し方を学んでほしいものだ。

          
            (写真:左・雷滝、右・山田牧場のカラマツ大木)
 

10月25日 昼は八子ヶ峰、夜は演奏会
秋恒例の管弦楽四重奏演奏会が行われる日、リーダーのチェロ奏者片貝さんが急に身内の葬式で来れなくなり、バイオリンの荻島さん、渡辺さん、フルートの山崎さんの3人になってしまった。聴衆はHP時代の同僚の鶴川さんと田辺さん、そして私の3人だ。3対3の真剣勝負である。チェロを欠いてはいるものの、演奏レベルは確実に上がっている。アンコールも終え、夕食後はカラオケになり、さらに盛り上がった。
昼は八子ヶ峰に鶴川さん、田辺さんを案内し、ゴールデンカーペットになっている八ヶ岳に続く高原の美を堪能した。このコンサートの醍醐味は昼の秋真っ盛りのハイキングと静かな夜に染み入る管弦楽の音色である。

      
        (写真:左・アットホームな演奏会、右・八ヶ岳へのゴールデンカーペット)
 

10月23日 志賀高原のキノコ狩り
奥志賀のブルーエがオーベルジュをやめ、新しい形態の宿を再オープンするにあたって組合員が集まり、キックオフを兼ねてキノコ狩りをやり、それを夜は食す企画があった。きのこ博士の吉田さんに指導をお願いした。
昨年、蓼科のキノコ狩りに来た看護師さん4名も合流、高山村のリンゴ園の宮川さんも来て、おおぜいの人数になった。前日の22日に下見で奥志賀自然苑周辺を歩いたが何もなし、場所を変えて、奥志賀渓谷に下りて行った。ここもなかなか見つけられなかったが、私は藪の枯れた幹の上に、先の信越トレイルで見つけたと同じブナなめこを多数発見!これを収穫し、明日の鍋の足しにした。
本番の23日も同じ辺りをみんなで歩き、チャナメキムタケなどをそこそこ収穫した。夜のキノコ鍋には十分な量が集まり、楽しくおいしいキノコ鍋パーティであった。最後はみんなで阿波踊りで再出発を祝った。

      
                (写真:左・ブナナメコ、右・集まったメンバー)
 

10月19日 懐かしき先生も一緒の小学校同級会
新潟県岩船郡塩野町村・塩野町小学校がわが母校である。今は村上市塩野町になってしまったが・・・。同級会は1年おきということになっていて、信州、伊勢、東京と続いたので、今回はふるさとに戻り、瀬波温泉・大観荘での開催となった。もう10人近くが鬼籍に入り、50人くらいしか生きていないが、ほぼ半分の24名が集まった。そして1年生のときの担任・諸橋先生、2年生のときの大滝先生も来てくれた。
諸橋先生とは1年生のとき以来なので、64年ぶりのご対面である。私の記憶にはほとんどないのに、先生はよく覚えていてくれた。他の同級生のことも名前を聞いた途端、「あのいたずらっ子のあなたが・・・」と思い出している様子。先生の記憶力には感服する。楽しい宴会のあとは、恒例カラオケ、田舎の同級生は演歌中心だ。最後の歌はみんなで唄う「みかんの花咲く丘」と「ふるさと」と決まっている。我々の時代には校歌がなかった。何年生の時に習ったのかは忘れたが、「みかんの花咲く丘」が全員の愛唱歌なのだ。ふるさとの風景とはまるで違う歌だが、これを唄うと自然と泣けてくるのだ。古希のじいちゃん、ばあちゃんが大声で唄う「♪みかんの花が咲いている、思い出の道、丘の道・・・♪」のメロディが日本海に響いていった。

      
        (写真:左・恩師の先生方、右・現在の母校、我々の頃は木造だった)
 

10月17日 江戸東京たてもの園
武蔵小金井に「江戸東京たてもの園」がある。古い時代にあった建物を集めた歴史的建造物保存園である。晴れた秋の一日、妻と出かけて行った。広い小金井公園の一角にある。まず高橋是清邸に入った。
2・26事件で犠牲になった高橋蔵相の屋敷だ。その現場となった2階の和室にも入れる。歴史の場所だ。古い商店街の一角には子宝湯という千住にあった銭湯がそっくり移築されていた。風呂場も浴槽も脱衣所も昔のままだ。その壁に当時の映画館の封切案内のポスターがあった。その中に妻はプレスリーの映画二本も発見して大喜び。1960年代のポスターであろうか? その後、建築家の前川圀夫邸や洋館のデ・ラランデ邸などを見て、楽しい気分で帰ってきた。いい場所である。

      
        (写真:左・高橋是清邸、右・子宝湯の新宿名画座のポスター)
 

10月12日 信越トレイル・パート5
夏前から歩いている信越トレイルも最終ラウンドに入り、パート5区である。6区を終えると完了なのだが、台風接近で6区は来年に持ち越しとなった。それで今日は5区のみである。
前回終わった関田峠から伏野峠まで約12キロ、新潟県に入り込んだエリアに向かう。
前日は飯山のビジネスホテルに泊まり、朝、集合場所のなべくら高原山の家に向かった。今日は8名の参加、「おはようございます」と声をかけられ、誰かと思ったら、前回も一緒の人だった。台風が来るというのに今日はよく晴れていて暑いくらいだ。歩き出したらもう暑い。汗をかきながら、尾根道を牧峠に向かう。
ここを越えたあたりで、ブナの倒木の先に後ろを歩いていた女性が「きのこみたいなものがいっぱいありますよ」の声。ガイドが見るとブナナメコだと言う。「採りましょう」の声でビニール袋を取り出し、採って詰める。しばらく歩くと今度はチャナメキムタケだ。トレッキングそっちのけで、キノコ採りに夢中になる。ガイドも「こんな調子だと時間通りに行きつかない」と言うが、キノコを発見すると自ら率先して採りはじめる。
伏野峠に着くころにはビニール袋がいっぱいになった。歩き終わって、自分の車に戻り、急ぎ蓼科を目指した。帰ったらそばつゆで煮て、せいろにして食べよう。山荘に帰りつき、豚肉を解凍し、いっぱいのきのこと一緒に煮て、蕎麦をゆで、キノコ・肉せいろにして食べた。そのおいしかったこと!!

      
             (写真:左・新潟県方面、右・宇津の俣峠で)
 

10月3日 小津映画祭

今年の映画祭は「彼岸花」から始まった。小津調満載の映画である。サラリーマン家族の娘をめぐる結婚話、いつものパターンだが、小津安二郎の定番キャスト、カメラアングルで面白く進む。
この日の収穫は「永遠の零」だった。岡田准一扮する特攻兵士の物語。終わったら涙が止まらなかった。悲しい涙でもあるが、心を打つ涙でもあった。今年の映画賞に入るのではなかろうか?翌日のトップは「アナと雪の女王」茅野市ふるさと大使のシンガー葦木美咲さんが子供と一緒に「ありのままのー♪」と舞台の上で美声を張り上げていた。
午後は小津作品の無声映画「落第はしたけれど」を見た。舞台は早稲田大学である。戦前の早大生はよく勉強するな、と思ったが、真実は? 終わったあと、片桐はいりさんがゲストで登場、「もぎりよ今夜もありがとう」の著書もあるように映画館でもぎりの仕事もやっていた。話は面白く、最後に「小野寺の弟、小野寺の姉」の映画の宣伝をして、自ら出口でひとりひとりにパンフレットを配っていた。この作品は映画評によると絶品で彼女の演技がすばらしいとのこと。見に行きたくなった。

      
         (写真:左・葦木美咲さんの歌唱舞台、右・小津映画祭ポスター)
 

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9 月

9月21日 山の歌を唄う会

「山の歌を唄う会」を山荘でやった。2期から17期までの岳文会OB・OG15名が集まった。
4期の西さんは茅ヶ崎で歌声活動のリーダーをやっていて、ギターとリードはプロ並みだ。西さんのリードで山の歌や歌声喫茶のヒットメロディーを次から次へと、60曲は唄っただろうか。
みんな現役時代、テントの中で、キャンプファイヤーを囲んで唄った歌だ。遠い青春の日々を思い出し、涙が出そうになることもあった。あの頃の、山でのつらい歩きを終えて、夕べに唄った山の歌にはひとつひとつ思い出が込められている。「今日は野を越え、あす山越えて・・・」、「星の降るあのコル、グリセードで・・・」、「思いはるかな北岳の、憩いの峰につどいたる・・・」などなど。歌のエピソードも交えて、西さんの絶妙な司会にみんなは楽しき青春時代を思いおこしながら、大声で唄う。これぞ山の仲間の醍醐味だ。

      
 

9月13〜14日 信越トレイルPart3、4

北信州の斑尾山から新潟県の津南町にかけて県境に連なる関田山脈80キロの尾根道を信越トレイルと言う。この道を6区間に分けてガイドが案内するトレッキングツァーを地元がやっている。
今年の6月に斑尾山から始まる1区と2区を歩き、その続きの3区、4区のツァーに参加した。
戸狩温泉の宿に前日泊り、翌朝、集合場所の「とん平」へ車で向った。道の所々に「仏ヶ峰、とん平→」の案内板が出ている。「とんべいという民宿は大きいのだな」、戸狩スキー場の民宿と思っていた。着いた所に民宿はない。レストハウスの看板に「とんだいら」とあるではないか。とん平は民宿ではなく、地名だったのだ。今日の参加者は7名。まずは前回終わった涌井まで車で移動。そこから続きの歩きが始まった。
しばらくは森の中の道を歩き、富倉峠に出る。ここに限らず、関田山脈は至るところに峠がある。越後と北信濃を結ぶ交易の道が走っているのだ。富倉峠の道は今は使われていないが、道を開削した石壁が残っている。峠を越えて再び登っていくと「大将陣跡」に出た。馬頭観音の石塚がある。上杉謙信が川中島の戦いに向かうとき、ここに陣を張り、休息したという。信越トレイルは歴史の道でもあるのだ。
眺望のよい黒岩山で昼食、そこを下ると林道に出て仏ヶ峰登山口までは林道と山道の混合だった。途中の太郎清水の湧き水はとてもおいしかった。この日はとん平に下りて終わり、宿に帰っての夕食にはそばが出て満足。この宿は昼は蕎麦屋をやっている。温泉もほどよい熱さで気持ちよい。

      
       (写真左・大将陣跡)
 

          Part4は関田峠へ

今日はとん平から昨日下りてきた道を引き返し、仏ヶ峰に登った。天気は昨日に引き続き良い。ゲレンデの中は日陰がなく暑いが、森の中に入るとひんやりして気持ちよい。今日のガイドは植物に詳しく、花や木々の説明をよくやる。ゼンマイが育つと採る頃の毛に覆われた姿から想像もつかない葉になることを初めて知った。美しいブナ林の中で昼食。ここで反対からきたツァー客と会ったが、東急ハーベストのツァーらしい。斑尾東急リゾートの企画なのだろう。今日のコース最高峰の鍋倉山を通過し、黒倉山に着いた。
ここには「黒倉山の怪」と言われる不思議がある。三つ頂上標があり、標高が三つとも違うのだ。新潟県の板倉町が建てた石標は1245m、信州側が立てたのは1247m,信越トレイルの道標は1242m。建てた時代の測量技術のレベルで違っているらしい。最新のものはトレイル道標なので、1242mが正しいとのガイドの弁である。
黒倉山を下ると筒方峠(どうかたとうげ)、ここには悲しい歴史があった。筒方は越後側の集落、江戸時代に隣の関田峠に番所ができ、通行税を取られるようになった。交易で頻繁に信濃に行っていた筒方の農民にとってこれは過酷だった。村総出でこっそりと筒方峠から先に間道を作り、税を免れていた。しかし役人に見つかり、庄屋はじめ村の幹部は打ち首、中心に働いていた農民50人は村追放の厳しい処分となったという。そんな悲話を聞きながらなだらかな尾根道を歩くとほどなく関田峠に着いた。舗装された道路が越後と信濃を結ぶ立派な峠だった。

      
                (写真左・鍋倉山頂、右・関田峠)
 

8月31〜9月3日 北アルプスへ

8月下旬ともなると山は静かになってくる。まだ歩いていない南アルプスの茶臼、光岳に行きたかったが、ベースとなる便ヶ島へ行く道が土砂崩れに加えて、宿の親爺が体調不良で休業とのことで、今年もあきらめた。そこで大好きな高天原に行くことにした。
今回は折立から入る。茅野から富山まで鈍行列車を松本、長野、直江津で乗り換え、富山に着いたのが夕方5時過ぎ、駅前の地鉄ホテルに投宿、汽車代とホテル代合わせて約1万円、せっかく富山に来たのだからおいしい魚をと、寿司屋に入った。刺身。握り、生ビール2杯、熱燗二合、最後に白ワイン1杯で〆て9,500円。汽車代を鈍行にけちった努力は水泡に帰した。明日は6時半のバスで折立に直行する。

      
            (写真左・雲の平スイス庭園、右・高天原峠)
 

   薬師沢への道で奇遇

折立を朝8時半過ぎに歩き始めた。すぐに愛知大学遭難の碑があった。1963年の冬、13名の学生が全員遭難死した。その頃私は浪人生で山登りに興味を持っていたので、このニュースは一大事だった。毎日推移を新聞で見ていた。朝日新聞の本多勝一記者がヘリコプターで太郎小屋に降り、「太郎小屋に人影なし!」の一報は衝撃的だった。51年前の遭難を想い、しっかりと手を合わせた。
ほどなく若い学生二人が追いついてきたので、道を譲った。その後もこの学生とは太郎小屋まで抜きつ抜かれつだった。マットを丸めて持っていることからテントらしい。午後2時過ぎ、薬師沢への道でまた追い越して行った。だけど次のテント場は雲の平までない。まだ4時間近くかかる。
追いついて、「君たちどこまで行くの?」と声をかけたら、「あれオダヒコさんではないですか!」。誰か思い出さない。「岳文の那須です!」。「あ、那須君か」。現役4年生の前幹事長だ。浪人時代の友人と山に来たという。お金を貯めて、今回は小屋泊りと言う。学生時代最後の思い出つくりの山登りのようだ。薬師沢の小屋でビールをおごり、明日の無事を祈って乾杯した。彼らは水晶岳から裏銀座を逆走し、烏帽子から下りたそうだ。

      
             (写真左・愛知大学遭難碑、右・後輩たち)
 

   大東新道は手ごわい

大東新道は高天原へ入る黒部川の沢伝いに行く大東鉱山がモリブデン採掘のために作った道だ。
高天原山荘も元は鉱山の従業員宿舎だった。ただこの道は増水時には通れない。過去2回は通れず雲の平経由で行った。今回は大丈夫との山小屋の話で大東新道を行くことにした。しばらくは黒部の流れに沿って石伝いに歩く。A沢を越え、B沢で高天原への尾根に取り付く。ここまでの沢は心配することはなかったが、ここからの直登の登りがきつかった。やっと尾根に出たと思うと、延々と尾根伝いに登り、またC沢という名の沢に下り、また登る。E沢まで来ても、高天原峠への尾根道になかなか出ない。
先行していた男性三人組に追いついた。「あと峠までどのくらいですかね?」と聞くと、「30分くらいじゃないですか」。道に張り出していた木に腰かけて昼食をとることにした。疲れて歩きたくないが本音だ。歩き始めてほどなく反対に歩いてくる人に会った。「峠までは…?」、「5分か10分くらい」。一躍元気が出た。スピードを上げて歩いたら近かった。峠で三人組は昼めしらしい。高天原への下りは、記憶しているよりゴロゴロした道だった。草原の木道に出たら懐かしい小屋の赤い屋根が見えた。着いて早速ビール、チェックインしてすぐに温泉に向かった。20分ほど下り、温泉沢に湧く露天風呂に体を沈めると、すべての苦しみがスーと消えていった。このために来たんだもんね。

            
 

   気持ちよい晴れの雲の平

高天原から雲の平への道は昨日下りてきた高天原峠へ登り返す。そこからしばらく森の中を登り、木道の湿原に出る。ここは奥スイス庭園と名付けられた雲の平の一部だ。木道に座って来し方を見ると、はるか先に鹿島槍の双耳峰が見える。よく晴れた青空の下しばらく木道に腰かけて、昔歩いた山々を眺めた。右の赤牛岳は数年前に歩いた。左の薬師岳はしばらく登っていないな、などと過去の山旅をひとつひとつ思い出す。しばらくの休息から再び雲の平へ登っていく。ひと山越えたら雲の平山荘の前に出た。ちょっとひと息とサイダーを買って山荘前のテーブルで休んだ。
小屋の中の食堂で伊藤正一さんがカメラを手入れしていた。もう94歳になるという。さすがに足で麓からは登って来れず、ヘリコプターで来るという。三俣山荘との往復もヘリコプターとのこと。三俣、水晶、雲の平の小屋のオーナーであり、「黒部の山賊」の著者でもある。このあたり一帯の開拓者だ。湯俣からの伊藤新道は今や廃道同然だが、小屋締めのときは従業員全員で苦労を偲び、伊藤新道を下るという。いつまでも長生きしてほしい。雲の平から祖父岳の横を通ると目の前に槍ヶ岳が現れた。いつ見ても絵になる山だ。黒部源流に下り、三俣山荘へ再び登り上げた。山荘の展望食堂でビールを飲んだら、もう歩く気力がなくなった。今日はここで終わりだ。

      
  (写真左・雲の平への道、奥は鹿島槍ヶ岳、右・黒部源流への道から槍ヶ岳)
 

   見えたり隠れたりの槍ヶ岳

歩き始めた時は晴れていたが、少しずつ雲が湧き、槍ヶ岳が隠れたりまた見えたり。三俣蓮華の頂上では黒部五郎岳の大きな山容に感嘆し、双六岳への尾根道に向かった。寒くなってきた。寒冷前線が通過中か?槍ヶ岳も隠れていることが多くなった。
双六の頂上から広い尾根道に向かうと前方のガスの中から槍ヶ岳の頂部分だけ現れた。よくカレンダーの写真に使われる絶景ポイントだ。前を行く登山者が宙に出るような構図で槍ヶ岳を入れて一枚撮った。それがこの写真だ。悪くはないが、ベストではなかった。双六小屋でラーメンを食べた。ここのラーメンはおいしい。オオノマ乗越から鏡平へ下り、石ころだらけの小池新道を新穂高温泉へ下った。
これで今回の山登りは終わりだ。苦しいときもあったが、心配していたクラッとくる脳梗塞症状も発生せず、無事に歩けた。まだまだ歩けそうだ。案内所で紹介してもらったペンションに泊まり、ふたつの露天風呂を心行くまで楽しんだ。

         
          (写真左・三俣蓮華から水晶岳、右・双六岳から槍望む
 

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8 月

8月29日 転がり落ちた車

タウンセンターから「山荘の敷地に車が飛び込み、木にぶつかり、皮がはがれた」との電話があった。
そこで今日来て見たら、皮がはがれただけでなく、木が斜めになっている。山荘を使っている人からのメール写真を見ると、車は横転し、前部が大破している。上の別荘地にいる人が、車内に飛び込んできた虫を追い出そうとしてハンドル操作を誤り、飛び込み、木にぶつかって落っこちたらしい。
このまま放置しても枯れる可能性が高いということで伐採することにした。その費用は大破した車の持ち主が支払ってくれる。保険でカバーされるそうだが、それにしても車は全損でそっちが大変だろうな?

         
    (写真右・車がぶつかった木)
 

8月27日 山の絵と俳句のコンビネーション

岳文の先輩の石塚さんが仲間たちとの絵画展を開くとのことで、世田谷美術館に行った。
石塚さんの絵は山の四季を描き、どれも好ましい。剣岳の絵は私の好きな構図だ。そおれぞれの絵に俳句が添えられている。「”点の記”のロケの現場や夏の雲」。奥様が絵に合わせて句を作る。夫婦合作の絵画展だ。こんな組み合わせも面白い。

      
 

8月22日 浴衣パーティ

7月のトレッキング&広島焼きのイベントに集まったとき、「東京で浴衣を着てビヤホールへ行こう」との話になった。冗談まじりだったので、流れるだろうと思っていたら何と、お堀端の近代美術館のレストランのテラスへ浴衣で集まれとなった。
阿波踊りの浴衣で行くつもりでいたが、妻が昔の浴衣を探し出し、アイロンをかけてくれた。これを着て行くことにした。下駄ではなく二束998円で買った草履サンダルで。最初は現地で着替えようと思ったが、恥はいっときと家からバス、電車を浴衣姿で乗り継いで行った。三々五々、集まってきたメンバーは女性5名。男は私だけ、もてること請け合いだ。テラスの前のお堀端の道は皇居一周マラソンで走る人で途絶えない。その光景を見ながら。生ビールをおいしい料理で心行くまで堪能した。幸せな夕べだった。

      
 

8月10〜13日 コロラド、ロッキーへの旅

旅も終わりに近づいた。デンバーからのフライトなので、コロラド州へ入り、ラブランドに寄り、ロッキーマウンテン国立公園を廻って、デンバーに向かうことにした。

      
 

8月10日 Loveland

Kearneyでの大会も終了し、5泊したホリディインを後にして I−80で西に向かった。目指すはLoveland。
私にとって懐かしい町である。YHPに入って、初めてパロアルトのHPに駐在したとき、そこからの出張で訪れた工場がこの町にあり、八王子工場で開発していた製品のアメリカでのまとめ役でもあった。親代わりの工場と言ってもよい。35年前でも3000人くらいいた。工場の通路は800m直線で、陸上競技ができると接待役は笑っていた。一日の長いドライブの後、Lovelandのベストウェススタンに入った。
午後の3時半に着いたと思っているのに、ホテルの部屋の時計は2時半ではないか。1時間得した気になる。マウンテンタイムゾーンに入ったのだ。懐かしのLoveland工場をまず見に行こうとフロントに道を聞いて車で出かけた。小高い丘陵に「Agilent Technologies」の看板が見えた。入れる所まで入ってみようと看板の出ている道を上がって行った。懐かしいHP独特の窓の広い建物が見えてきた。日曜なので静かだ。駐車場には車一台ない。構内を廻っても生きているという感じがしない。妻は「使っていないみたいよ」と言う。「まさか」と思いながら、車を停め、電気が点いている扉に行って中を覗き込んで見ると、ガランドーだ。他の窓へ行って覗いても同じだ。広大な敷地の中を一回りしてみた。いくら日曜日でも警備員くらいいてもよいのに人なしだ。今はAgilent になったが、HP発祥の第二の故郷とも言ってもよいLoveland工場がこんなになるとは…  
ホテルに帰って昔の同僚の今はAgilent の総務部門長をやっている荒川君にメールした。「Loveland工場は今度分社したKeysightの工場として存続しているはず。Lovelandの同じマネージャに聞いてみる」との返事。ほどなくしてそのマネージャから返事は来た。「面積は10分の1に、人員は5000人を300人まで減らして、敷地内のひとつの建物に集約した」。あまり端の建物だったのでわからなかったらしい。この工場の分野のビジネスがここまで縮小していることを意味しているのだろうか?HP創業者のひとりパッカードさんの故郷コロラドの工場がこんな状況に陥ることを誰が予想しただろうか?一日も早い復活を祈る。ホテルへの帰途、寄った街中の湖はロッキーマウンテンを映してきれいだった。

      
 

8月11日 ロッキーマウンテン国立公園

Lovelandからロッキーマウンテン国立公園は近い。駐在していたYHPの社員も夏はよく行ったと言っていた。私がLovelandに行ったときはいつも冬だったので、初めて夏に訪れる。エステスパークの町のビジターセンターの駐車場に車を置いて、”ハイキングシャトル”バスでベアレイクに向かった。
この日はとても良い天気でおおぜいのハイカーが乗り込んだ、途中のビジターセンターでバスを乗り換えて着いたベアレイクは4000mの山を映してきれいだ。もうここで標高3000mを越えているのに驚く。穂高の標高からハイキングルートが始まる。エメラルドレイクまでは約1時間、途中ドリームレイクなど美しい湖や小さな滝を経由する。アメリカ人は滝好きでたいしたことないと思う滝でも写真を撮る人でいっぱいだ。エメラルドレイクはロッキーの山懐に抱かれたどん詰まりにあった。ここから見上げる山はまだ雪が残り、湖面に映えて美しい。妻は息切れがすると言い、標高の高いことがわかる。同じロッキーでもカナダやモンタナのロッキーとは違い、コロラドのロッキーの山波は荒々しくなくやさしさを感じる。南八ヶ岳に対する北八ヶ岳という感じだ。途中でサンドイッチや果物を食べながら来たが、まわりのハイカーは水を飲む程度で、景色を見ながら弁当を食べるという人がいない。ハイキングを楽しむ習慣が違うのか?

      
 

8月12日 アメリカ最高所の国道を走る

コロラド州に入って分かれて入ったルート34号線は、ラブランドを通り、エステスパークを通り、ロッキーマウンテン国立公園を駆け上がり、通り抜ける舗装された国道で全米最高所を通って反対側の入り口グランドレイクの少し先まで続いている。その高さは3713m、ほとんど富士山と同じだ。雄大な景観が車窓の右、左に広がる。所どころで駐車して景色を堪能する。今日もよい天気で、旅の最後を締めくくるのにふさわしい。西側への下りは針葉樹の森にはいり、カナディアンロッキーを思い出させる。下りたグランドレイクも標高2000mを越している保養地。素敵な別荘の隣の湖に面した公園でお昼。残り物を挟み込んで作ってきたサンドイッチがおいしい。この旅ではハイウェイのレストエリアや町の公園でこのようなランチが多かったが、小さな村に行ってもきれいな芝生の公園があり、ベンチやテーブル、そしてトイレがあるのがうれしい。
あとはデンバーまでのI-70を通って行くだけだ。デンバー市内に入ったあたりで大渋滞になり30分くらい超ノロノロになったが、そこを過ぎると順調に流れ、空港近くのベストウェスタンに午後3時過ぎに到着した。空港まで7マイルを残すだけだ。ホテルのカウンターで明日帰国すると言ったら、「成田直行便か?ボーイング787の新型機なので、楽しみだね」と言われた。デンバーから成田直行便は開設1年たつが、デンバーでは今でも話題になっている期待便なのだ。

      
 

8月13日 走った距離は5000キロ

空港のホテルと言っても、空港まではまだ10キロほどある。大都市空港特有のレンタカーリターンは離れた場所でそこからバスで空港に向かう。二日目にバンパーを木にこすったのを目ざとく見つけられ、事故報告書を書かれた。借りるときオールカバーの保険を追加しているので、たぶん大丈夫だろう。以前は最少限度の保険にしていたが、駐車料金未払いや同じような細かい傷もカバー責任額未満で後日、請求されるということがあったので、保険はマキシマムにするようにした。ヨーロッパの方が、この点厳しいようだ。
走った距離は約5000キロ、稚内から鹿児島までの距離が3000キロというからその1.7倍だ。ミズリー、カンザス、アイオワ、ウイスコンシン、ミネソタ、サウスダコタ、ネブラスカ、コロラドと8つの州を走り抜けた。長いドライブだったが、日本に比べて走りやすいので、楽しく、そんなに疲れもしなかった。これで帰国して運転すると、しばらく方向指示器とワイパーの位置が逆なのに戸惑うだろう。曲がろうとしてワイパーが動くのだ。右、左の走行はそんなに戸惑わないものだ。
帰りのボーイング787はさすがに新しく快適だ。座席もフラットになり寝心地よい。ビジネスとエコノミーの最大の差は「横になって寝れるか寝れないか」だと思う。ただ最前列のアイルだったので、操縦席前の通路の灯りがいつも点いているのと、通路横の冷蔵庫にしょっちゅう乗務員が来るのが気になった。それでもゆっくり寝て、映画も4本も見て、無事帰国した。成田に着いたらムッとした暑さが戻り、日本を実感した。

         
                                                 (写真右:B787の操縦室)
 

8月5〜9日 OCTA Convention

夏恒例のオレゴン・カリフォルニアトレイル アソシエーション(OCTA)の夏のコンベンションが今年はネブラスカ州のKearneyという町で開かれた。これから一週間、ネブラスカの平原を西部開拓の人たちが辿った道を訪ねる。

      
          (写真左:インデペンデンスの博物館、右:OCTA本部)
 

8月5日 アーチウェイ

デスメットからルート182というとても走りやすい道をサウスダコタからネブラスカへ南下して、夕方Kearneyへ到着し、すぐ大会参加の登録をした。今回は会場のホリディインに我々も泊るので、とても楽だ。
夜、I-80のハイウェイの上にかかるアーチウェイでWelcomeレセプションがあるというので、出かけた。
アーチウェイは単なる飾り橋だろうと思っていたら、橋の上が「西部へのゲート」のミュージアムになっているのだ。西部開拓の歴史と、足と牛で歩いてきた初期の頃から駅馬車、ポニーエクスプレス、汽車、車へと旅の足が変わってきたのを興味深く、人形や動画で紹介する仕掛けがとても面白い。デズニーランドのようだ。ヘッドホンで時代ごとの展開の説明を聞きながら廻る。一回出口近くまで見てから、もう一度戻って、反復見学したら、さらによく理解できた。

      
                               (写真右:展示の一部・葬送風景)
 

8月6日 Kearneyの町

朝、開会式がありボーイスカウトの国旗掲揚儀式や市長の挨拶があるというので出てみた。国歌斉唱とともに国旗が上がるのかと思いきや、ただボーイスカウトの少年2人が旗を持って、会場に入ってきて置いていくだけだった。そのあとの市長の話やOCTA会長の話は半分以上、夢の中でさっぱりわからず。
あとで妻は「寝てばかりいる」と怒ることしばし。ランチを食べてそそくさとKearneyの町見物に出かけた。
この町にはネブラスカ大学があり、広い敷地の中にFrank Houseという豪邸がある。それを見学に行った。学生が交代で管理しているらしく、親切にいろいろと教えてくれる。この町で電気会社を興した経済人の家だった。「Youは何しにKearneyへ?」と学生に聞かれ、「Oregon Trail」の話をしたら「Make sense」と理解してくれた。

      
               (写真左:大会開会式、右:Frank House)
 

8月7日 Plum Creek, Pony Express

この日はバスツァーの日。1864年当時、インディアンとの関係が悪かった。そのために白人の開拓者を守るために、Fort Kearneyが作られたのがこの町の始まりだ。騎兵隊の駐屯地として、この場所は重要だった。今日はそのいさかいによって開拓者が犠牲になったPlum Creek Stationなどを見て廻った。
元はといえば、インディアンが大平原を生活の糧としてこの地に生活していた。そこに勝手に、「5年間住んだら160エーカーの土地を無償で上げる」などという原住民を無視した政策を敷いたアメリカ政府が悪い。名大統領の誉れ高いリンカーンとしては愚作であり、南北戦争後の兵士の生活支援を急いだあまりの行動だった。だからインディアンが怒るのは当たり前。しかし今更引っ込める訳にもいかず、インディアン排除の戦いがあちこちで起きた。その犠牲者の話はすべて白人サイドの話で、犠牲になったインディアンの話はどこにも出てこない。
今日のもうひとつの目玉はPony Expressだ。1860年から19か月間走った東部から西部へのポニーを使った飛脚便である。10日間でミズリー州セントジョセフからカリフォルニアのサクラメントまで手紙を運んだ。
その乗継ぎのためのステーションとなった建物がいくつか昔のままの姿でこの地域に残っている。人間の足と牛車で半年かかるところを、手紙とは言え、たったの10日間で運ぶという駅伝アイデアは画期的だった。しかし短命に終わったのは1861年にはもう電信が開通したからだ。それから数十年後、このアイデアは人間が走る駅伝として日本で復活したのは奇遇である。

      
     (写真左:道半ばにして倒れた人の墓、右:ポニーエクスプレスのステーション)
 

8月8日 Homestead

今日は講演ばかりの日なので聞いてもわからない。そこで独自の行動だ。妻がHomestead National Memorial Parkというパンフレットをどこからか仕入れてきたので、そこへ行ってみることにした。
KearneyからI-80を東にリンカーンという町に走り、そこから南下して140マイル先にこの記念公園はある。Homesteadは昨日話した、インディアンの虐殺の素因となった土地を勝手に白人のものにした悪法(インディアンから見れば)である。自営農地法と訳されているが、インディアンに言わせれば、土地収奪法だ。しかし時の政策に従った白人開拓者にはそんなことは知らないので、非はない。政府の指示に従い行動したまでだ。そして困難を乗り越えて成功した開拓地を今、記念公園として残している。
160エーカーというのは広大だ。見はるかす限り、自分の土地なのだ。ホームステッド法によって移住した農民のうち、60%は失敗したという。特に時代が遅く行った人には荒野しか残されていなかったり、良い土地でも植えるものが合わなかったり、だまされたりで大成功者はほんの一握りという。この公園のフリーマンさんはそういう成功者のひとりなのだ。
ひるがえってインディアンは徐々に力を失い、リザベーションという名の囲われた土地に追いやられた。
しかもその土地に石炭や石油が出ると、またさらにより不毛の土地に追いやられるという悲劇に終わっていく。なぜ元々の住民であるインディアンはこんなことになるのか。その理由として、インディアンには土地を所有するという発想はなく、放牧したり耕作したり、利用するものだった。そこに所有権を持ち込まれても議論にならず、戦うことしかなかった。また種族によって考え方がちがい、一緒になって方向性を訴える力がなかった。英雄が出なかったのだ。もし種族を越えて、「インディアンは団結して、自らの国を作ろう」という強力な指導者が出たならば、状況は変わっていたかもしれない。アメリカも半分はインディアンの国になっていたかもしれない。

      
 

8月9日 Narows, 日本攻撃弾薬庫

今日のバスツァーは西部開拓の人の足取りを追う。Fort Kearneyにたどり着く前にノースプラット川に沿っていくと、ほとんどが平原なのに窪地のような谷間がある。その谷間がオレゴントレイルが通っていた。
木に覆われた谷間は涼しく、歩きやすく、休息にもよかった。しかし、谷間は狙われやすく、そのNarowsという谷間でもインディアンの襲撃で旅人が殺されたり、捕まったりした。6か月の子供まで囚われ、最後は死んだ。今は個人の放牧地になっていて、この催しのために柵を開けてくれ、馬に乗った牧場主が颯爽と現れて、案内してくれた。
お昼のサンドイッチを食べたあと、意外な所に行った。ヘイスティングという町の郊外にある第二次世界大戦中に造られた海軍の弾薬庫跡、2000ヶ以上の半洞窟のようなかまぼこ型の建造物。そこに収納された弾薬は主にサンフランシスコに運ばれ、戦艦に積み込まれて、B29で日本への爆撃に使われた。我々日本人にとっては見たくない場所だ。配られたパンフレットには、「パールハーバーから始まり、広島で終わる」ような書き方がしてあったが、気に入らない。オレゴントレイルと関係ないではないかと言いたくなった。そういえば6日のランチで一緒になった女性に、広島の原爆の話を聞かれ、「今日がその日だ。われわれは決してアメリカを許せない」と言ったら反論されそうになった。機先を制して「広島は許さないが、その後のマッカサーの施策は日本人のアメリカ嫌いを消していった。感謝している」と言ったら、理解したのか、何を言っているのかわからなかったのか、なにも言わなかった。

      
                            (写真右:バスを下りてガイドの説明を聞く)
 

7月29日〜8月4日 「大草原の小さな家」の旅

7月28日、少し暑さがやわらいだ日に成田を飛び立ちシカゴに向かった。12時間のフライトのあと、シカゴでカンザスシティ行きのフライトに乗継ぎ、14時間時差のあるカンザスに28日の夕方着き、郊外のモーテルにチェックインした。長い道のりだったが、明日から大平原の旅が始まる。

      
 (写真左:Little Houseは「大草原の小さな家」シリーズの総称、右:レストエリアはあちこちにある)
 

7月29日 インデペンデンス

カンザスシティの半分はミズリー州に入っている。その郊外にインデペンデンスの町がある。
ここはオレゴントレイルの出発地だった。それを記念する博物館もあり、隣にはOCTA(Oregon California Trail Association)の本部もある。まさに西部開拓の始点だ。展示している物は他のトレイル博物館と大差ないが、出発点のミュージアムなので、感慨深い。じっくり眺め、庭も散歩し、OCTAの事務所の中も覗いてから、ローラ・インガルス、「大草原の小さな家」執筆地であり、終焉の地でもある。ミズリー州マンスフィールドに向かった。泊りは森の中のキャビンである。

      
 

7月30日 ロッキー・リッジの家、そしてカンザス大平原の家

マンスフィールドはローラにとって最後に幌馬車の旅をして夫のアルマンゾ・ワイルダーと娘のローズと落ち着いた町というより村なのだ。だから「大草原の小さな家」物語の最終章なので、順番は逆なのだが、次の旅程を考えるとここからスタートした方が都合よいので、マンスフィールドから始めた。宿のキャビンから400mの所に、ローラ家族が住んでいたロッキー・リッジ農場があり、自宅が今は「ローラ・インガルス記念館」になっている。家はアルマンゾ自らが森の木を切って建てた。台所の棚なども手作りだ。ローラ自慢の台所だ。ここで彼女は65歳になったとき、娘のローズの励ましと勧めで彼女の家族の西部開拓の旅を書き、出版することになった。
「小さな家(Little House)」シリーズは9巻に及び、その物語は開拓民自らのフロンティアヒストリーであった。アメリカ国民必読書として、学校の教科書になった。だから今でも小学生や中学生がいっぱい訪れる。館内には物語に出てくる父さんのギター、マンスフィールドで土地を買うために大事にしまってきた100ドル紙幣が消えた筆箱など実物が展示されていた。(この100ドル札は筆箱の下に移動していたのをローラが発見し、大事に至らなかったのだが)。午前中、マンスフィールドを見学し、午後はもうひとつのインデペンデンスへ行くことにした。ここはカンザス州の南部、マンスフィールドから180マイルほどある。

      
   (写真左:ロッキーリッジの家&博物館、右:ローラとアルマンゾワイルダーの墓)
 

インガルス一家の西部開拓の歴史はウイスコンシン州のペピンから始まる。そこから3か月もかけて辿りついた地がカンザス州インデペンデンスだ。オレゴントレイル出発地のインデペンデンスは名前も同じだが、こちらはミズリー州なのだ。
ローラがまだ2歳のとき、一家はインデペンデンスに来た。ここに小さな小屋を建て、一家だけの開拓の生活が始まったが、長く続かなかった。たった2年で再びペピンに戻っている。理由は1869年当時のこの地はインディアンの土地として政府が決めてしまったから、立ち退かなければならなかったのだ。だからその家は取り壊されて無くなっていたが、1935年に「大草原の小さな家」が出版され人気を呼ぶと、地元が建っていた場所を調べ、その地に当時のレプリカを建てた。大きさや雰囲気はローラに聞いたそうだ。やっと探し出して行った地には、とても小さな丸太小屋がポツンと建っていた。もう夕方で案内所も閉まっていた。帰りの道は雨中のドライブとなり、マンスフィールドに帰ってきたのは夜の9時過ぎだった。

      
        (写真左:カンザスインデペンデンスの小屋、右:その室内)
 

7月31日 ちょっとひと息、ジョンウェイン、クリント・イーストウッド

インガルス家一家の旅の始まりのウイスコンシン州ペピンははるけくも遠い。途中で泊る必要があるので、そこをアイオワ州のウィンターセットという町にした。ウインターセットは西部劇の大スタージョンウェインの生まれた地であり、「マジソン郡の橋」の撮影地でもある。
マンスフィールドから約300マイル、500キロのドライブで、朝8時半に出発し、ウインターセットの町に入ったのが午後4時半、あと30分でジョンウェイン記念館は閉まる時間だ。宿より先に、直行し、閉館ぎりぎりでガイドツァーに参加することができた。薬屋の息子だったジョンウェインの家はとても小さく、以前行ったエルビスプレスリーの生まれた家を彷彿とさせた。ショットガンハウスである。
ジョンはここに3歳までしかいなかったので、その後、帰ってくることはなかったようだ。見学したあと、この日の宿、B&Bにチェックイン。まだ日没まで間があるので、「マジソン郡の橋」の舞台になったローズマンブリッジに行くことにした。屋根のかかった橋である。この橋にクリント・イーストウッド演じるキンケイドをメリル・ストリーブ演じるフランチェスカが案内したことから、二人の四日間の愛が始まるのだ。そして20年後、メリル・ストリーブが亡くなったとき、後片付けをしていた子供たちが母の死の前に届いていたクリント・イーストウッドの手紙と遺灰を見つけ、母の遺灰と一緒にローズマン・ブリッジから川に撒き、20年間ふたりで温め続けてきた愛がようやく実るのだ。そんな思い出の橋を見ての帰り、夕食に入ったのはノースサイド・カフェ、ここも二人で待ち合せをしようとしていたカフェで、名前もそのままで映画に出てくる。この町は古き映画ファンには欠かせない町なのだ。

      
          (写真左:ジョンウェインの生家、右:マジソン郡の橋)
 

8月1日 ペピンへの道

フランチェスカの家を見てウインターセットの町を離れたかったが、その家はもう見れる状態でないとのことで、直接、今日の宿を予約してあるウイスコンシン州ペピンに近いミネソタ州のRed Wingに向かうことにした、280マイル、約450キロのドライブだ。ハイウェイ35はアメリカ・テキサス州からカナダ国境まで縦断している高速道路、時速75マイルの制限速度を前を走る車に合わせて調整する。だいたいが80マイル(120キロ)前後で走っているので、距離は稼げる。所々にレストエリアがあるので、休憩しながら、延々と広がるトウモロコシとポテト畑の中を走った。アイオワは豊かな穀物地帯、ミネソタはプラス養鶏が盛んな地帯だ。
荒野が広がるワイオミングとはだいぶ違う。建っている家も大きく豊かそう。ミネアポリスに近くなった所からルート19号線に入り、野越え、山越えてミシシッピ川の上流の町Red Wingに夕方4時頃着いた。
ホテルはこの町でいちばん歴史あるSt.ジェームスホテル。1880年代にできたクラシックなホテルだ。
町も開拓時代華やかなりし頃を偲ばせる落ち着いた町だ。夕映えに映えるミシシッピ川、きれいな家が並ぶ住宅街、そして西部の雰囲気漂うレストランと散歩したら、この町が好きになった。ミシシッピ川の対岸はウイスコンシンだ。酒場のようなグリルで大きなピザを妻とふたりで分け合って食べた。

      
     (写真左:Red Wingはミシシッピ川上流の町、右:きれいな家が建ち並ぶ)
 

8月2日 ペピンはローラの生まれ故郷

ミシシッピ川対岸のウイスコンシン州に渡るには町のはずれの橋を渡って、左に行けばペピンに行けたのに、交差点を直進してしまい、しばらくミネソタ側を次の橋まで走るはめになってしまった。
やっとウイスコンシンに入り、左へ曲がるとペピンはすぐだった。道路沿いの観光案内所のような所がローラ・インガルスミュージアムだった。そこであらましを学習し、ローラが生まれたサイトにドライブした。
町から離れること7マイル、今は畑地帯になっている平原の一角にログハウスが建っていた。二回建て替えたというだけに比較的新しい大きめの小屋だった。寝室も独立してあり、きちんとしている。1867年にローラはここで生まれた。2年後にカンザスへ移住し、その2年後にはまたここに戻ってきている。近くにはおじいさん、おばあさんの家もあり、親族に囲まれた安心できる場所だった。しかしインガルス家の父は自分の広い土地を持ちたく、西部開拓の夢多き野心家だった。物ごごろついた頃のローラも幌馬車で旅することが大好きなフロンティア娘になっていた。一方、母や姉さんのメアリーは教会や学校のある近くに住むことを望む都会派だった。その両方を実現すべく、インガルス家はここを起点にして開拓の旅を続けたのだ。すべてがここから始まった。

      
        (写真左:ローラの生まれた家、右:”Little Houseの故郷”のポスター)
 

8月3日 TVの舞台はウォルナット・グローブ

私が大学生の頃、テレビで放映されていた「大草原の小さな家」の舞台はミネソタ州のウォルナット・グローブだったような気がする。ローラがやんちゃ盛りの小学校の頃だったので、物語としてはちょうどよかったのかもしれない。しかし実際はこの村にはインガルス家は1874年から2年間、1877年から1年間の足かけ3年間しかいなかった。最初の2年間はバッタの大群にやられせっかく育った穀物が全滅、その後1年半くらいは知人のホテルを手伝いにアイオワ州のバーオークに行き、西部開拓の夢、忘れられず再びウォルナット・グローブに戻ってきている。
この村では最初、洞穴の住居に住み、その後は家を建てた。その洞穴のレプリカがローラ・インガルス記念館の敷地にある。英語ではダッグアウトと言う。野球のダッグアウトが半地下の場所にあることを考えると、語源はこのような洞穴にあるようだ。現実にあったサイトはもう崩れ落ちてしまっているが、プラムクリークの岸辺や草原は物語の光景を十分に思い出させる。ここでローラはやんちゃな子供時代を送っていたようだ。1879年、父さんが鉄道工事の仕事を見つけて働いていたサウスダコタ州のデ・スメットへその当時通じたばかりの汽車で移住し、ウォルナット・グローブを離れた。そんなに長い期間住んでいたわけではなかったが、テレビドラマの影響か、この村のインガルス家への入れ込みはすごい。記念館も立派だし、毎夏には昔のテレビの出演者を呼び、ローラ劇場も開催するなど、「大草原の小さな家」を村の観光資源として十分に活用している。

      
                             (写真右:Dougout洞穴住居)
 

8月4日 デスメットでもっとも有名人はローラ・インガルス

サウスダコタのデスメットはミネソタのウォルナット・グローブから100マイルほどの距離。
父さんが鉄道工事の管理の仕事を引き受け、単身で出かけ、数か月後に家族を呼び寄せた。そのときは既にデスメットまで延伸していた汽車に乗って引っ越した。もう西部開拓の時代も馬車から汽車に変わっていたのだ。このデスメットでインガルス家は土地をホームステッド法(自営農地法)でただで取得し、最終的にこの町に落ち着いた。ローラはここでアルマンゾ・ワイルダーと結ばれることになるのだが、彼女一家はさらにミズリー州のマンスフィールドへ移住した。デスメットでの第一号の開拓移民だった父さんは、教会や町の仕事で何かと頼られる人材となっていった。落ち着くまでの何年間は7ヶ月も続いた厳しい冬やローラの家の火事や、生まれた男の子の死など、波乱が続いたが、子供たちが大きくなるにつれ、インガルス家に落ち着いた幸せがやってきた。
ローラの「大草原の小さな町」や「長い冬」など、この町を舞台にした作品はいくつもある。そしてローラはこの町出身の最大の偉人として讃えられることになる。ここもまたウォルナット・グローブ同様、インガルス家一色で夏休みは家族連れでにぎわう。町自体も開拓時代の雰囲気を残し、駅前通りの各建物には130年前にそこが誰の店だったのか、掲示板が貼られている。中山道の宿場のようだ。ここに二泊し、インガルス家の家や農場を見て廻った。アメリカの西部開拓の歴史をひとりの家族を軸にして見てきたこの一週間はとても感慨深いものがあった。

      
        (写真左:父さんと母さんの最後の家、右:インガルス家の自営農地)
 

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7 月

7月21〜22日 札幌から15名のお客様、大歓迎!

小野さんが関係している遊悠クラブ15名のみなさんがわが山荘に来た。八ヶ岳に登って美濃戸に下りて、タクシーで来荘された。9名が女性なので2階に布団を敷き詰め寝てもらうことにし、男性は1階に雑魚寝である。温泉で山登り三日間の汗をゆっくり流してもらい、夕飯はいつもの寿司屋の出前とキッチン前田のオードブルだ。ビールはアサヒの塾撰、サッポロビールしか飲まない北海道の人には珍しいビールだ。
酒は真澄だ。酔っ払たところで、事前に小野さんと打ち合わせていた「山の歌・歌声喫茶」をやることにした。プロジェクタで歌詞を映し、パソコンの音量を最大にしてユーチューブの伴奏を流す。しかし最大の音にしても如何やスピーカーの音量にはならない。だから途中から唄わないで雑談に夢中になる人も多かった。そのあと、歌声喫茶CDをかけたら、それにのって唄う人が多かったほどだ。
9月にやる「岳文・山の歌を唄う会」のよいリハーサルになった。翌朝、蓼科山に登るという7名をタクシーと私の車で女神茶屋の登山口まで送った。残った人は9時過ぎに、八子が峰に行くことにした。
先行しているメンバーをアルビレオヒュッテが見える尾根筋で追いつき、青空のもと、草原の山を歩いた。気温が高いせいか、遠くの山はカスミの中だったが、みなさん楽しんでくれたようだ。
お昼前に下りてきてお蕎麦の準備を女性のみなさんに頼んで、蓼科山組を迎えに行った。午後1時近くに全員下りてきた。信州そばを食べて、午後3時の東急シャトルバスで茅野駅に帰って行った。
バスも増発をお願いしておいたので、遊悠クラブ貸切で走ってくれた。みなさん、無事その夜の羽田からのフライトで札幌に帰った。喜んでくれたようでよかった、よかった。

      
 

7月13日 今年はじめての練習

阿波踊りの季節となった。8月の高円寺阿波踊りに向けて、今年最初の練習会が高円寺のギャラリー久で行った。30名近い参加があり、充実した練習となった。今年は女性が多そうだ。終わったあと、懇親会をその場で行った。本番の打ち上げもギャラリー久で行うので、そのリハーサルも兼ねた。20名分のケータリングを頼み、玉子焼きと稲荷ずしを買い、酒はビール、焼酎、日本酒。量もほどほどで、内容も悪くないので、本番もこれを進化させてやることにした。

      
 

7月2日 白馬逍遥

久しぶりに白馬に妻と行ってみた。子供が小さかった頃、よく横河の健保保養所を利用したものだった。
子供も大きくなり、健保も離れたので、行く機会がなくなった。その保養所は売られたらしく、名前が変わって、民間のロッジになっていた。薄曇りの中を八方尾根のゴンドラに乗り、八方池までハイキングした。
山は雲に包まれていたが、中腹の豊富な残雪は見えた。下ってきて、オリンピックのジャンプ台に行った。リフトで最上部まで行ける。ラージヒルのスタート台まで上がれた。急な滑走路が目の下にある。滑走路は窪みになっていて一直線にジャンプ台まで続いている。直滑降なら滑れると思うが、切れた所からの飛び出しはできそうもない。そこからが問題なのである。八王子の支援学校の生徒が来ていたが、怖くて連絡通路や階段を歩けない生徒も何人かいた。先生が励ましながら支えていた。ほんとの恐怖症の生徒はランディングの場所にいたらしく、上から「オダ君、オダ君!」と呼んでいた。こちらも「オーイ」と答えそうになる。面白い見学場所ができたものだ。この日は白馬東急ホテルに泊まった。夕方、部屋のベランダから白馬鑓ヶ岳が少し見え、そこが夕映えとなり、とてもきれいだった。

      
 

7月13日 今年はじめての練習

阿波踊りの季節となった。8月の高円寺阿波踊りに向けて、今年最初の練習会が高円寺のギャラリー久で行った。30名近い参加があり、充実した練習となった。今年は女性が多そうだ。終わったあと、懇親会をその場で行った。本番の打ち上げもギャラリー久で行うので、そのリハーサルも兼ねた。20名分のケータリングを頼み、玉子焼きと稲荷ずしを買い、酒はビール、焼酎、日本酒。量もほどほどで、内容も悪くないので、本番もこれを進化させてやることにした。

      
 

7月2日 白馬逍遥

久しぶりに白馬に妻と行ってみた。子供が小さかった頃、よく横河の健保保養所を利用したものだった。
子供も大きくなり、健保も離れたので、行く機会がなくなった。その保養所は売られたらしく、名前が変わって、民間のロッジになっていた。薄曇りの中を八方尾根のゴンドラに乗り、八方池までハイキングした。
山は雲に包まれていたが、中腹の豊富な残雪は見えた。下ってきて、オリンピックのジャンプ台に行った。リフトで最上部まで行ける。ラージヒルのスタート台まで上がれた。急な滑走路が目の下にある。滑走路は窪みになっていて一直線にジャンプ台まで続いている。直滑降なら滑れると思うが、切れた所からの飛び出しはできそうもない。そこからが問題なのである。八王子の支援学校の生徒が来ていたが、怖くて連絡通路や階段を歩けない生徒も何人かいた。先生が励ましながら支えていた。ほんとの恐怖症の生徒はランディングの場所にいたらしく、上から「オダ君、オダ君!」と呼んでいた。こちらも「オーイ」と答えそうになる。面白い見学場所ができたものだ。この日は白馬東急ホテルに泊まった。夕方、部屋のベランダから白馬鑓ヶ岳が少し見え、そこが夕映えとなり、とてもきれいだった。

      
 

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6 月

6月26日 古河庭園再訪&六義園

5月に行った駒込の古河庭園へまた行った。妻は庭園ではなく、古河邸の洋館を見たかったらしい。
事前に予約が必要とのことで、再びの訪問となった。ここは陸奥宗光の屋敷でその息子さんのイギリス人の奥さんも住んでいたと妻は本を読んで、その家を見たかったらしい。見学してわかったのだが、古河家が買ってから、陸奥家が使っていた同じ場所の家は取り壊され、洋館が建てられたそうだ。だから、妻が見たかった家は無くなっていたのだ。しかし、鹿鳴館などを設計したコンドルの作による洋館はすばらしかった。中に幾間かの和室があるのだが、その造りとしかけは見事だ。行ってよかった。帰りに駒込駅の反対側にある六義園にも行った。こちらは徳川元禄時代に柳沢吉保が下屋敷として作った純日本式の庭園だ。紫陽花が咲き、きれいな公園だ。明治になり、岩崎弥太郎の所有となったが、そのまま使っていたので、江戸時代の趣を維持している。これはこれで良かった。

      
 

6月24日 田中君の快気祝い

中学校時代の同期生の田中君が胃がんの手術をし、回復したので、快気祝いを池袋の田舎家でやった。奥さんが付き添って来たが、顔色もよく、少し痩せてはいるが元気なのにホッとした。彼は設計事務所をやっているし、その仕事のためにももう少し頑張らねばならないので、働けるようになったことはとてもうれしい。奥さんの旧姓・前川ヒロさんは小田家と何か関係があるということを聞いていたが、今日、田舎家のおばあちゃんに聞いて初めて知った。私の父の弟、妹つまり私の叔父、叔母の母親は前川家から嫁いできたということだ。祖父の奥さんは貰っては死に、もらっては死にの連続だったが、その二人目の奥さんが前川家だったのだ。ヒロさんはこのことを初めて知ったという。私だってうっすらと聞いていたことなのだから。

      
 

6月22日 遥かなるニペソツ岳

ニペソツ岳は北海道の十勝平原が大雪の山に吸い込まれるような然別湖のその奥深くにある。東大雪にあり、深田久弥が百名山に入れなかったことを悔やんだ山という。発刊後に初めて登ったので入らなかった。幻の百名山である。札幌から悠遊クラブのみなさんと会のバスで出発、トマムを横に見ながら、高速を下り、鹿追町で買い物。然別湖で遊覧船に乗ってから、糠平温泉に泊まった。翌朝は3時起きで、登山口までバスを入れ、5時に歩き始めた。11時になったら、頂上に着いていなくても、そこから引き返すという条件で。長い森の中を登っていくと、大きな岩がある。ここをへつり、窪みに体を入れてよじ登る。そこから灌木地帯も長いが、前天狗岳に出ると、目の前にニペソツ岳の峻峰が眼前に現れる。確かに鋭く、美しい山だ。ここからは天狗岳の頂上直下をトラバースして、かなり下ってからニペソツへ最後の登りが始まる。
頂上から張り出した尾根を右に回り込むと、頂上にいる人が見えてくる。あと少しだ。ガンバレ、ガンバレの声を頂上から受けながら、10:30に到着。5時間半の登りだった。天気もよく、大雪の山々は一望できる。
おととし登ったトムラウシも遠くに長い尾根を見せている。トムラウシもそうだったが、北海道の山は「遠く、深く、そして遠い」。

      
 

6月17日 さわやか八子ヶ峰

今年はじめての八子ヶ峰だ。来週のニペソツ登山の軽いトレーニングも兼ねて登った。レンゲつつじがアルビレオ山荘への尾根筋に赤く咲いていた。しかし登るにつれて咲き方は遅くなり、八子ヶ峰本山の平原はまだつぼみだった。それでも日当たりのよい尾根筋の一部は咲いていた。こんどの週末は見ごろになるだろう。八ヶ岳も見え、いつ歩いても思うのだが、この山はのびやかで、景色がよく、ほんとうにいい山だ。

      
 

6月9日 馬曲温泉

”ばきょく”?”うままがり”?読み方がわからない。”まぐせ温泉”と呼ぶ。そういわれれば曲者の”くせ”だ。電話で聞くと”まぐそ温泉”と聞こえる。汚ねーな。木島平村の山深く高地にあり、木島平の村を見下ろし、スキー場を遠くに臨み、露天風呂は見晴し抜群だ。トレッキングの疲れをとるに最高の温泉である。
昨夜は早めにお風呂に入り、食堂で「馬曲定食」で生ビールを飲んで、素泊まりの梨の木荘に泊った。今朝も温泉に入り、裸で風景写真を撮って、蓼科へ帰ってきた。

      
 

6月8日 信越トレイルPart2

第二区間は昨日終わった赤池から涌井部落までの⒑キロだ。朝は雨が残っていたが、歩き始めると上がり、暑くなった。沼の原湿原へ下りていく。尾瀬を小規模にしたような所で、水芭蕉、カキツバタ、ニッコウキスゲと似ている。ちょうどカキツバタとレンゲつつじが湿原を彩っていた。
昔は越後と信濃を結ぶ街道がここを通っていて、戦争前まで数十戸の家があったそうだ。宿場になっていた時代もあったようだ。今は土台が一部残っているだけだ。ここからひと山越えると希望湖(のぞみ湖)、信玄に追われた謙信がここの村人が湖の堰を切って水を流し、信玄を足止めにして助けたという。恩に着た謙信が褒美を遣わすと言ったら村人はここの水を信濃側に流して欲しいと頼んだという。それによってこの地の田園は潤い、農作物が実るようになったそうだ。
毛無山への長いダラダラした登りでまた雨が降り始めた。昼の弁当は傘をさして食べた。涌井集落までは林道を下りていく。途中美味しい清水があった。斑尾の水よりずいぶんとうまい。

      
 

6月7日 信越トレイルPart1

信越トレイルは信州と越後の境の関田山脈という里山をつないで80キロ。ここを6区間に分けて、トレッキングのツァーがある。スタートは斑尾。斑尾高原山の家の主催だ。個人的にも歩けるのだが、終わった所から車を置いた所に戻ってくるのにタクシーを呼ばなければならないので、参加料一日5000円のこのツァーに参加するのがよいと思った。
スキー場から斑尾山頂へ登る。ゲレンデは上に行くにつれ急傾斜30度は越している。登りついた山頂は見晴らしがよくない。ちょっと先にある明神峰へ足を延ばした。そこからは5月の連休に行った野尻湖が真下に見え、黒姫山、妙高山が目の前にそびえ立つ。あのときお昼を食べたホテルの屋根も湖岸の丘の上に見える。以前行った赤倉観光ホテルの赤い屋根も妙高山腹に見える。斑尾山頂に戻り、万坂峠へタングラムと斑尾高原のスキー場の境の長いゲレンデを下った。峠からは袴湿原に登り、そこで弁当にした。
だんだん晴れて、陽射しも強くなり汗がにじむ。昼食のあとは袴岳へ上り下りが続く道を徐々に上げていく。アルプスのようなきつさはないが、結構長いので疲れてくる。妙高山がまじかに見える頂上を過ぎると赤池へ長い下り道になった。林道へ出て、しばらく上ると赤池に出た。今日はここで終わり、迎えの車で山の家に戻った。

      
 

6月1日早慶応援のちがい

勝った方が優勝という理想的な展開の早慶戦になった。地力では優勢な早稲田であったが、火事場の馬鹿力を出し切った慶応に二連敗し、優勝を逃した。早慶戦の二週間前、早明戦、慶立戦がいずれも一勝一敗で月曜日までもつれた。先に早稲田が明治に勝ち勝ち点を4に伸ばした。慶応にも同じ勝ち点になって早慶戦を迎えてもらいたいと、そのあとの慶立戦で慶応を応援するべく、応援席に残った。
慶応の応援席に入ったのは初めて。ここで早稲田の応援とまるで違う経験をすることになった。
早稲田では平成になって作られた応援歌など、知らない歌が多く、歌えないので黙っていると、、「歌ってください」、「もっと大きな声で」などと、応援部員が目の前に来て声をあげる。慶応の応援指導部の学生は、「平日にわざわざ来ていただき、ありがとうございます。そのためにも勝ちましょう」と呼びかけ、無理強いはしない。応援歌も昔、聞きなれた歌が多く、口づさみやすい。ソフトに接しられると、「協力しよう」という気も起る。事実、三本指を立てて、「あと一球、三振!」などのパフォーマンスにみんな手を挙げている。応援に来ている人をお客様として接する慶応、応援席にいるのだから応援するのが当たり前と接する早稲田、その差は大きい。守備についているときの早稲田の前列で行われているパーフォマンスも後ろの席では何も聞こえず、自己満足の応援になっている。慶応が二連勝した背景にはこのような応援力の違いもあるような気がする。ただ選手への野次は慶応がきつい。早稲田のホームランバッター小野田など、ホームランか三振かという打者だが、「小野田何とかしてくれー!」で三振すると「あーまたダメか!」で終わるのに対して、同様の慶応の長距離打者・藤本が三振すると、「藤本!何やってんだ!野球知ってんのか!」と慶応は手厳しい。双方の応援風景を体験したことで、とても楽しい春のリーグ戦となった。

      
 

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5 月

5月25日 白州サントリー工場見学

花の木ご一行の今回の周遊地は白州。諏訪上社にお参りしてから、サントリー白州工場へ向かう。
申し込んでおいたウイスキー工場見学に参加。醸造過程、熟成過程をガイドの案内で廻る。最後は試飲だが、ドライバーは水とジュースだ。これは残念だが、仕方ない。双葉にあるワイナリーも周り、白州とそこのスタンプを押してもらうとノートブックがもらえるというので、後日、登美の丘ワイナリにも行った。
もらったノートは小型でかわいく、妻にあげたら喜んでいた。サントリーも粋なことをやる。白州サントリーのあとは、甲州街道・台ケ原宿に行き、酒蔵七賢のレストランで昼食。ここの麦とろ定食がおいしかった。
二日酔い冷ましに麦とろも悪くないと思った。

      
 

5月24日 花の木パーティ in 蓼科

恒例花の木ご一行、蓼科の一日。昼、登美に集まり、信州そばを食べ、午後からは山菜採り、温泉、宴会と続く。
この準備は花の木のママ、広田さんがすべてを仕切る。特に鴨鍋のネギと大根にはうるさい。白樺農園のものご指定だ。三日前にメールが来て、ネギ百本、大根八本。数が足りないなら、予約しておいてくれと。幸い、前日と今日で数は調達できた。鴨をネギと焼いて、大根おろしにそばつゆを混ぜて食する。シンプルだがすこぶる美味。酒はいくらでも進む。そして採ってきた山菜の天ぷらと最後はその天丼で〆る。
今回は21名の大人数を要領よくまとめ、最後は阿波踊りで高原の夜は遅くまで盛り上がった。
ああ楽しい。

      
 

5月20日 古河庭園

明治の元勲・陸奥宗光の邸宅が古河家の物となり、今では古河庭園として、駒込にある。
ここのバラが素晴らしいと聞き、妻が行きたいと言うので行ってみた。駒込駅から北区西ヶ原方面へ歩くこと⒑数分、石垣の大きな屋敷が見えてきた。門には長い列、バラの見ごろとあっておおぜいの人だ。
入園料を払い、入った。バラ園に行くものと思ったら、妻は聳え建つ洋館へ向かう。本命はこの洋館だったらしい。「バラならバラクラでいくらでも見れる」と言うではないか。ところが洋館は予約した客しか入れず、今日はダメとのこと。最近読んでいる明治の歴史の中に宗光の子孫が英国人の妻と過ごしたのがこの邸らしく、ここに入ってみたかったらしい。
ひととおりバラを見て、駒込に住む富国生命、YHP時代の友人鈴木啓之君を呼び出し、駅近くの洒落た蕎麦屋で昼食を共にした。その後、妻は予約し、6月26日に古河邸を見学することになった。

      
 

5月12日 鹿には困った

鹿の花への攻撃はますます激しくなってきている気がする。以前は水仙には手を出さなかったのに、まだつぼみの出ていない葉を食べるようになった。だからその株は葉が伸びても花をつけなくなった。つぼみの芽を食べられてしまったからだろう。春先の庭は殺風景なので、木鉢に色鮮やかなペチュニアを植え、枕木の階段道の両側に芝桜を植えた。一週間経って来てみたら、すべて無くなった。土がついた株が道に放り出されていた。
インターネットで”鹿が食べない花”を検索したら、マリーゴールドやすずらんがあった。それらを買いに行き、植えてみた。ルピナスも買ってみた。芝桜も今一度チャレンジした。鉢植えのマリーゴールドは一本、引っこ抜いていたものの食べてはいなかった。すずらんは食べられた。芝桜も再び全滅。ルピナスは無事。鉢には他の花も一緒に植えていたが、それは難を免れた。マリーゴールドが防波堤になったようだ。

      
 

5月4日 朧月夜音楽祭

飯山の菜の花祭りの最大イベントは朧月夜音楽祭だ。千曲川の岸辺が菜の花の黄色で埋まり、その向こうに斑尾山の雪の残る峰が見える。その先には高野辰之の生家がある。兎追いしかの山♪、菜の花畑に入日うすれ♪の作詞家である。まさに歌そのままの景色が広がっている。音楽祭はそれを記念して開かれる。今年はこれらの唱歌誕生から100年目という。20をこすグループが菜の花畑の舞台で歌をつなぐ。最後は会場いっぱいに朧月夜とふるさとを大合唱して幕を閉じた。歌っていて涙がにじんでくるのは何故だろうか?幼い日が蘇る望郷の歌であるからか。

      
 

5月3日 飯山七福神

明日の音楽祭の前に、飯山の街中にあるお寺と神社にある七福神めぐりをした。まだ桜も残り、ハナモモが満開の野中の道を歩いて巡る。本光寺では妻が寺のおばあさんが手入れしていた花を聞いたきっかけでサクラソウの株をいっぱいもらった。帰ってきて蓼科と日野の庭に植えたが育つだろうか。布袋様は斑尾高原ホテルの中ということで、ここだけは明日行くことにした。飯山はお寺の多い町だ。そして仏壇屋がまた多い町だ。通りすべてが仏壇通りもあるほどだ。日本有数の産地でもある。信仰深い上杉謙信が支配していたこともある町だから、仏壇つくりが盛んになったとも言われている。

      
 

5月2日 白州サントリー

5月末に来る花の木ご一行の遊覧地候補の白州サントリー醸造所に行ってみた。甲州街道沿いの白州にあるここは森の中にあり、「白州」銘柄のウイスキーと「南アルプスの水」を作っている。博物館やレストランもある。ウイスキーの歴史が興味深い。レストランにも寄ってみた。カレーやサンドイッチ、蕎麦定食と幅広い。見学はウイスキーと天然水の二コースあり、それぞれ60分。ここで過ごすのも楽しそうだ。大自然の中で気持ち良い。

      
 

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4 月

4月28日 高幡不動尊五重塔

高幡不動には五重塔がある。年に一回だけ、上まで上れる日が今日4月28日。めったにない機会なので、妻と出かけた。待っている人が多い。コンクリート造りの五重塔は内部に狭い回り階段があり、それを五階までらせん状に上がっていく。下りてくる人も同じ階段なので、すれ違いに苦労する。やっと上がった5階の外が回廊になっていて一周できる。我が家方向の目印はセイコーエプソンだ。転じて高幡不動駅方向には潤徳小学校が目に入る。五重塔の裏手は山で、山頂が塔より高い。下りてその山頂に行ってみることにした。これから咲く紫陽花の道を登っていく。四国八十八ケ所巡礼道にもなっていて、○○番札所の石塔が道すがらに立っている。その札所の本来の所在地も書いてある。徳島県、高知県と続き、山頂付近は香川県だった。いい散歩コースでもある。今度は紫陽花の盛りに歩いてみたい。

            
 

4月23日 新府城跡

旧甲州街道を韮崎付近を車で走ると、「新府城址」という看板があり、前から気になっていた。
蓼科からの帰り、茅野韮崎線17号という道を走ってみるこにし、オオイトザクラを見て、さらに韮崎へ車を進めると「新府城址」があった。寄らねばならぬと車を下りて城跡への道を上っていった。途中三の丸や二の丸があり、しばらく歩くと天守閣跡に出た。ここには神社もあった。この城址は信玄亡き後、織田信長が攻略してくるのを、息子の武田勝頼が防御のために急遽造った野城だった。攻めてくる前に退却したため、戦には使われなかったという。この退却が武田家滅亡へつながっていく。武田家幕引きのために造られたような城だったのだ。

      
 

4月23日 小淵沢・神田のオオイトサクラ

茅野韮崎線17号を走り、小淵沢の市街を過ぎると、オオイトザクラという看板が目に入った。中央線の踏切を渡るとネットに囲まれた桜の大木が目に入った。かなりの老木だ。花も細かく、かなり少なくなっている。古い歴史を持つ桜のようだが、何せ年取っていて弱々しい。その近くのお寺の前に咲いている桜並木がよほど迫力があった。そして駐車場に戻る途中に見た八ヶ岳を背景にして咲いている家のチューリップがきれいだった。

      
 

4月16日 高遠の桜は満開

高遠の桜は何回か見に行ったが、満開初日に行ったのは初めてだ。いつも咲き始めや落花盛んのときだった。満開初めは花びらも落ちてなく、びっしりの小彼岸桜がすこぶる美しい。新聞では八分咲きになっていたが、杖突峠へ上がる道の電光掲示板は”満開”となっていた。昨日から今日に変わって一挙に満開となったようだ。よいときに来た。いつ来ても高遠はいい町だ。”保科正之候を大河ドラマに”という署名活動をまだやっていた。また記名してきたが、いつか実現するのだろうか?上田の”真田三代を大河ドラマに”の署名活動は再来年「真田丸」となって実を結ぶことになった。名君「保科正之候」も実現してもらいたいものだ。

      
 

4月5日 奥志賀春スキー

週末は寒波が来るとの予報だったが、まさにその通り、志賀高原へ上りはじめると雪が舞い始め、高原の道は滑りやすくなっていた。桜の次は雪である。明けて本日、まわりは真っ白になり、陽が注ぎ、スキー日和になった。気温も低く、それまで凍っていた斜面に10センチほどの積雪があり、とても滑りやすくなっていた。春とは思えない、コンディションの良いゲレンデをシーズン最後のシュプールを描いた。
奥志賀から焼額へ移動し、そこから一瀬のお気に入りのBコースを二本滑り、奥志賀へ戻って、サンクリストフで昼食、生ビールを飲んで、宿へ帰ってきた。夜は極楽スキー仲間で盛り上がり、記憶がない状態で終わったようだ。とても楽しい春スキーであった。

      
 

4月3日 月島の花見

月島の運河に花見に行った。メンバーは昨秋、きのこ狩りで蓼科に集まった埼玉の看護師さんたち。
阿波踊りの吉田さんの声がけだ。桜は満開というのに、無情の雨である。小降りになったとき、シートを敷いて始めようとしたら、再び強くなり、乾杯だけして、シートを片付け、吉田さんなじみの立飲み屋に避難。ここで改めて乾杯!ビールやらホッピーやらで、盛り上がり、夕方まで粘った。看護師さんたちは休みを調整して合せて来たので、そうおいそれと雨だからお開きというわけにはいかないらしい。そのあと、月島もんじゃ焼きを食し、立飲み屋に来た近くのスナックのママさんの店にまで足を延ばして、夜9時頃まで月島の夜を楽しんだ。

      
 

月2日 今月のカラオケテーマは”春の歌”

日野稲門会の歌う会、今回の私のテーマは春の歌にした。ところが選曲が難航、演歌系には少ない。
歌えるのは”北国の春”とか”襟裳岬”くらいしかない。唱歌や童謡には多い。参加者が7名と少なく、いつもの4,5曲ではすまないことになる。歌いたいと思った”ラララ、春が来た来た、村から街へ・・・♪”や”麦踏みながら見た雲は・・・♪”などはない始末。仕方ないので、”森の水車”や”憧れの郵便馬車”など、春ではないかもしれないが、春らしい香りの唄にも手を伸ばし、何とか9曲を歌い終えた。フォーク系は圧倒的に夏が多いのも発見だった。
 

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3 月

3月28日 槍ヶ岳・黒部写真展

東京都写真美術館で冠松次郎・穂刈三寿雄「黒部と槍写真展」をやっていた。山の写真を見る良い機会と思い、出かけた。大正から昭和初期にかけての写真なので、黒部などは探検の時代で、とても貴重なものだ。宇奈月温泉など湯小屋が一軒あるだけの鄙びた所だった。槍ヶ岳もまだ肩の小屋がない時代で、山頂へはザイルを巻いて登っている。しかし頂からの景観は今と変わらない。険しい山容が続く、穂高への山なみ、のびやかに広がる裏銀座の山々。また雲の平から高天原へ歩いてみたくなった。山への思いをひときわ駆り立てた写真展だった。

      
 

3月21日 凍み渡り

小学生の頃、早春というか晩冬というか、その頃になると”凍み渡り”という風習があった。冷え込んで晴れた日になると、雪がかちんかちんになり。その上をどこまでも歩いていけるのだ。スキーもかんじきもいらない。靴で普通に雪の上を歩けるのだ。学校に行き、1時間目に先生が”今日は凍みわたり”と言うと、クラス中、大歓声が起こったものだ。みんなで雪の上を走り、相撲をとってももぐらないし、転んでも怪我しない。晴れた空の下、雪野原を駆け巡るのはとても楽しかった。これも3時間目頃までだ。太陽が上がり、暖かくなってくると、雪も軟らかになり、ズボッズボッともぐるようになる。もう凍みわたりは終わりだ。こんな楽しみの朝が蓼科でも味わえた。今朝は冷え込んで日本晴れ。雪は硬くしまり、凍みわたりに最適だ。ストーブの灰を捨てにいくとき、雪の上を歩いてみた。埋まらない、自由に歩ける。幼い頃の思い出が、足の裏から甦ってくるようだった。

      
 

3月19日 ”茅野の宝が国の宝に”

国宝”縄文のビーナス”が尖石の考古博物館にあるというのは聞いていた。昨日の信濃毎日新聞に、”仮面のビーナスが国宝に”という記事が一面トップに出ていた。これも考古博物館にあるとのこと。ふたつもの国宝がすぐ近くにあるというのに、見たことがないでは話にならぬ。ということで出かけて行った。
国宝指定で今週は無料というのが決め手となった。結構な人出だ。思ったよりサイズは小さいが”縄文のビーナス”はふくよかで、ほっこらしていてどこか艶かしい。”仮面のビーナス”は、男ではないかと思われる風貌で、ルパン三世の雰囲気がある。本物は国立博物館へ貸し出し中とのことで、レプリカだが、これでも十分迫力がある。この一帯は縄文文化の宝庫とのことだが、その発掘の中心になったのは宮坂英弐さんという市井の人である。私財を投じての長年の発掘が発見につながり、それをきっかけに市や国につながっていった。信濃毎日紙は”茅野の宝が国の宝に”と報じたが、その礎を作った宮坂さんこそ、宝だと思う。

      
 

3月18日 雪に埋もれた山荘

異常な大雪だったので、蓼科の山荘に来ることはおっかなかった。何が起きてもおかしくないからだ。
スートーブの煙突がずれて雨漏りしているのでは?あっちこっち凍りついているのでは?などなど・・・。
確かに、雪が今まで見たこともない高さに積もって、給湯器の水抜き栓を戻すのに、雪を掘って下っていかなければならなかったが、水入れも一回で通じた。雨漏れもなく、ストーブもすぐ点き、万事順調に生活は始まった。
三連休直前というのに車の通りもほとんどなく、静かだ。あまりの大雪だったので、みなさん来るのを躊躇してるのかもしれない。駐車場作りがいちばん大変だった。量が多く、重くなっているので、スコップで区切りながら放り投げるのが大労働だ。大汗をかき、一台分のスペースを除雪するのに1時間以上かかった。ああしんど。

          
 

3月17日 美ヶ原の早春

冬の美ヶ原は寒く、宿の窓に張り付く雪氷花がきれいと聞いていた。そんな光景が見れるのでは?と期待して、王が頭ホテルを予約した。しかしもう3月、暖かい陽気となり、雪氷花は期待できないが、雪原散歩にはちょうど良かった。ホテルまで直行する冬だけの専用道路をマイクロバスで大揺れしながら、着いた。早速雪上車に乗り、美ノ塔まで行った。ここからホテルまで雪原をスノーシューで歩いた。夏は牧場になり牛がたむろしている原っぱは今は雪原。ガスると方角がわからなくなるだろうが、今日は良い天気でその心配もない。ゆるやかに起伏する高原をスノーシューで踏み固めながらホテルへ登っていった。少し汗ばんだ頃、ホテルに着いた。大きな浴槽に入ると、窓の外に今歩いた真っ白な高原が広がる。温泉ではないが、大きな浴室は気持ちよい。食事もおいしく、なかなか良い宿だ。真冬にここ2000mまで物資と人を運ぶのは大変なことだと思うが、とても居心地の良いホテルになっている。

              
 

3月11日 三年目の震災日に思うこと

オーストリアのハイリゲンブルトでHubertさんというドイツで弁護士をやっている方と会った。セミナーの講師で一週間滞在していると言う。講義の合間には奥さんと一緒にスキーをやり、実にいいワーク・ライフ・バランスだとも言う。東日本震災の半年前の夏に日本に行って、すばらしい旅をしたと懐かしそうに話す。
思い出のいちばんは高野山の宿坊での朝のお勤めと野菜だけの食事だったそうだ。そして福島の話題になった。あれがきっかけでドイツは原子力発電の廃止に踏み切った。チェリノブイリのときは千キロ以上離れているのに、ドイツでも数年後に甲状腺異常の問題が起きた地域があったという。当時、チェリノブイリから流れてきた気流がある地域では滞留した雲となり、雨が降ったときにそこだけが異常に放射能が高くなったという。そういえば、同じようなことが長野県でも起こっている。軽井沢、佐久の一部では今でも軒下の雨水が溜まる所は放射能濃度が高いという。”日本国内はどこも危険”とドイツの経験から、Hubertさんは言う。福島直後にルフトハンザはしばらく成田便を取りやめた。復帰したときも勤務拒否した乗務員がおおぜいいたそうだ。
「広島、長崎、福島と核被害を受けた日本がなぜ原子力発電をやめないのか?」と聞く。「燃料コストが高くなり、貿易赤字が増え続けて、経済が成り立たない」と言うと、「ドイツだって同じだ。電気料金が上がり、製品コストも上がり、輸出に影響している」、しかしと続く。「経済より生命の安全が大切ではないか?」。
反論できない私は情けなかった。「その通りだ」

                   
 

日本女性と結婚し、子どもも生まれ、東京に住んでいたドイツ人の知人は、フクシマの直後に家族でドイツの田舎に引っ越してきたそうだ。ところがしばらくすると奥さんがホームシックにかかり、日本人コミュニティのあるベルリンに移ったそうだ。同じようなことを久仁子さんも言っていた。同様なケースがロイッテの隣村で発生した。オーストリア人の旦那さんの実家に避難してきた日本人の奥さんがノイローゼになり自殺しそうになった。困った家族が久仁子さんを訪ねて来て「助けて欲しい」と。久仁子さんは日本人女子会のメンバーに声をかけ、交代でケアしたそうだ。今はようやく落ち着き、チロルの暮らしにも慣れてきたという。こんなケースは多いそうだ。フクシマは遠いドイツやオーストリアにもその影を落としているのだ。
 

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2 月

2月14日〜3月6日 ドロミテ スキー

極楽スキーの仲間と三度目のドロミテスキーに行くことになった。今回は5名。最初の一週間はみんと一緒にドロミテでスキーを楽しみ、その後は、ひとりで一昨年の夏に行った東チロルのグロスグロックナーエリアを再訪することにした。夏歩いたとき、スキー場がそこに大きく広がっていたので、オーストリアアルプスを眺めながらのスキーはさぞかし楽しかろうと思ったからだ。出発から日を追って、回想することにしたい。

      
 

2月14日 出発の日は大雪

4人は金曜の昼、成田からオーストリア航空で予定通り飛び立てた。朝から大雪になるとの予想で、京王線は遅れに遅れ新宿発のバスでは危ないと判断し、私は成田エクスプレスに切り変えたが、出発の1時間前に空港についた。それでも成田組はよかった。
ひとり金曜は仕事でどうしても休めないという吉田さんはその夜の深夜、日付が変わって1時過ぎの羽田発のANAでフランクフルトへ飛び、翌朝、乗り継いでミュンヘンに来て、我々の乗るタクシーを回して迎え、そのあと、インスブルックで4人をピックアップしてもらうことにしていた。ところが、都心の雪は予想以上だったらしく、羽田に着いたものの、出発の予定がたたない。遅れに遅れ、やっと飛び立ったのは15日の午後3時半、13時間以上の遅れだ。これではミュンヘンに着くのは15日の夜になり、インスブルックで待ってられないので、我々は先にドロミテに向うことにした。吉田さんとは携帯メールのやりとりで連絡とっていたが、すごく不安だったようで、次のように回想している。      
 

羽田に到着してようやく離陸するまで17時間もの間、情け深い小田隊長からは何度も連絡が入り、しかしながら見通しがたたない私は空港で一夜を明かしながら、さしたる情報も提供できず,着信メールの「吉田、がんばれ!」の一文にはとうとう涙がぽろり・・・。
ラッキーなことに、フランクフルト−ミュンヘン便は間をあけずにすぐ乗れ、その間、小田隊長はミュンヘンードロミテ間のタクシーを手配してくれており,ほっと安堵のため息をついてミュンヘンに降り立ったものの今度は私のスキーケースが待てど暮らせどターンテーブルから出てこない!バゲージクレームでは20組以上が列をなし、ようやく手続きが終わったと思ったら,今度は待っていてくれているはずのタクシーのウンちゃんがいない!別のターミナルで待っているとの情報が入り、これがまたウ〜ンと遠い。。。ようやく車に乗り込み、小田隊長に会えたのは、な、なんと夜中の2時前でした。そう、羽田到着から約35時間・・・です。
 

2月15日 森さん大活躍

予定通り、インスブルックに14日の夕方着いたのは菅野さん、森さん、大門さんと私。その夜はホテルのテレビで羽生君の金メダルを同宿していたアルペン回転に出る湯浅選手たちと観戦した。ここで練習して、これからソチに入るのだという。
吉田さんから15日のお昼ごろには羽田を飛び立てそうとの情報があり、この時点でタクシーのミュンヘン回送を断念し、タクシー会社に電話をいれた。滞ドイツ14年の森さんのドイツ語が本領発揮、15日はインスブルック発とし、10時半にホテルに迎えに来てもらうことにした。そのタクシーの運ちゃんと森さんは夜ミュンヘン空港に迎えに行く値段の交渉もやってくれた。
ミュンヘンからドロミテまでのタクシー料金は、運転手のGottiが会社に電話して、430€の提示があり、350€にならないかと言ったら、再度電話し、400€に落ち着いた。その後の到着フライト情報も会社へ連絡することにした。あとで宿の手配を頼んだ日本の旅行社の話では通常はミュンヘンからドロミテまでは630€かかるといい、破格の値段だそうな。どういう交渉をしたのか知らないが、森さんはすごい。何とかわれわれはドロミテ・コルフォスコの村のアパートに昼過ぎ到着した。あとは吉田さんを待つのみ。

      
 

2月16日 初日は悪天候、途中から戻る

夜中の2時に着いた吉田さんを入れて、全員集合。吉田さんのスキーがまだ来てないので、衣装は男物を菅野さんから借りて、貸しスキーで足慣らしにセラロンダの反時計回りに少し行ってみることにした。
朝から雨交じりの雪でコンディションはよくない。リフトやゴンドラを3,4本乗り継いだところで風も強くなったので、戻ってアルタバディアのゲレンデで滑ることにした。コルバラのリフト乗り場の前のバーで昼食にしたが、混雑していて立ち食い状態だった。アルタバディアもガスの中だったりして、早めに切り上げた。貸しスキーを借りたのはコルフォスコのゲレンデの中間あたり、ここに戻るにはコルフォスコのゲレンデをロープウェイで上がり、滑って途中で右に急に曲がらなければならない。私はわかっていたので急に右折したが、後をついてきた大門さんが、まっすぐ下りていったのが目に入った。「アララ」と思ったが、またロープウェイに乗って来るだろうと高をくくっていたが、「ここが最終ゲレンデと理解してないのでは?」と他の人が言い、追いかけた。案の定、ロープウェイ乗り場で呆然と立ち尽くしていた。
この日の夕食は外でということにしていたが、「疲れて出たくない」の声で急遽、私の持ってきたお蕎麦とうどんでごぼ天せいろにした。具材がたくさん入った汁で蕎麦をいただく。これが「おいしい」と大好評であった。

      
 

2月17日 ヴォルケンスタインは鬼門

天気は相変わらず不安定だが、晴れ間も覗くので、セラロンダ反時計回りに挑戦することにした。
吉田さんのスキーも無事夕べ着いた。ガルディナ峠を越えるとVal Gardenaエリアに入り、ヴォルケンスタインへの村へ下っていく。重い雪が降って積もったのに圧雪してないので、ちょっと急な斜面はこぶだらけになっていて往生する。ヴォルケンスタインの村の中の通りもコースになっていて、軒下を滑っていく感じだ。大通りをスキーを脱ぎ渡り、反対側の山にロープウェイで上り、細かい上り下りをくりかえすうちに、私と大門さんは一緒だが、他の3人とはぐれてしまった。途中待つものの来ない。国際携帯電話で連絡とるが通じない。同じゲレンデにいるのに遠い日本経由で電話する奇妙さ。やっと通じたのはセラ峠を過ぎたあたり、迷って別の斜面に入ったらしい。ポルドイ峠に上がるリフトでやっと落ち合えた。
そのロープウェイで上に上がったとき、「小田さん!私のスキーがちがう!」と大門さんが叫んだ。下でスキーを脱いで待っていたとき、たて架けておいた別のスキーを持って乗り込んでしまったらしい。大門さんはロープウェイで取替えに戻った。30分後にもともとのスキーを持って戻ってきたが、似ても似つかないのにどうして間違えるんだとひとしきり大門さんは責められた。この先でコースが閉鎖になっていることもあって、昨日に引き続いて戻ることにした。
ヴォルケンスタインに戻ってきたときは夕方5時近く、リフトの終わりになりかけていた。そこで、ここで夕食を摂り、そのあとタクシーで帰ろうと提案した。全員異議なし。これが思いがけない結果になろうとは。
ヴォルケンスタインからコルフォスコまでは普通なら車で20分の距離。ところが今年の大雪でガルデナ峠が通れない。大回りして2時間、200€かかると言うではないか。思い切って終わり間際のリフトに飛び乗っていればよかったのだ。万事休す。

      
 

2月18日 コルティナは晴れた!

今日は晴れだ。9時に迎えに来たタクシーでコルティナに向った。スキーをやりに行くのは初めてだ。
1956年猪谷千春が冬季オリンピックで日本初めての銀メダルをとった場所だ。アルペンスキーでは今もって唯一のメダルである。それだけ価値ある銀メダルなのだ。この回転競技が行われたTofanaのスキー場に車をつけてもらった。
リフトに向って歩いていくと、ホテルに掲げられた旗の中に日の丸があるではないか。その後、昼食をとったレストランのメニューも日本語があった。それだけドロミテに来る日本からのスキー客はここに来るということなのだろう。上部のオリンピアというコースがそのときの回転コースだったらしい。大きな岩山の間を抜ける比較的狭い急斜面だ。当時を偲びつつ、ゆっくり安全に下りる。隣のTofana本峰につながるゲレンデに滑りながら移動し、街から登り上げるゴンドラで2470mの高さにあるパノラマレストランを目指すことにした。
乗り継ぎ点の1770mに来たら、上はガスの中で、展望が望めそうもないので、ここのレストランにする。外のテラスで岩峰をつまみにラドラー(レモネード入りビール)はうまい。一度はあきらめかけた霧の中の2470m、せっかくここまで来たのだから、上のゲレンデも滑ろうとゴンドラに乗ったところ、ガスの中を抜けて上はよく晴れていた。楽しくコルティナの街まで滑り下り、スキーバスで街中の大聖堂まで行った。
ここで帰りのタクシーを待つ。ショッピング組と喫茶組に分かれて時間をすごした。

      
 

2月19日 あわやまた200ユーロ

どんよりと雨交じりの天気だ。大門さんは今日はお休み、菅野さんも考えた挙句、やめたとなり、行くのは森さん、吉田さんと私の3人。
セラロンダ時計回りにした。コルバラ越えて、アラッバへの急な斜面を下り、マルモラーダ方面への長いゴンドラに乗った。途中駅で降りればマルモラーダだが、今日はさらに上へ行く。前に来て覚えているのはここから下りるコースが急で長かったこと。ガスがかっているので、慎重に下る。ポルドイ峠へは長いリフトだ。峠を左に回りこんだあたりの食堂で昼食にした。相席となったのはスコットランドから来たカップル。
森さんが彼に「どうやってこんなきれいな人を見つけたんだ?」と聞くと、即座に「Money!!」と答えたのには驚いたが大爆笑。彼はあとで彼女に一生懸命弁解していたが面白い人だった。
3人だと順調に進み、鬼門のヴォルケンスタインにも3時頃着いた。陸橋を渡ってリフトに向おうとすると、橋の上がり口で係員がリフトは動かないと言う。どうやってフォルスコへ行くの?と聞くと、戻ればいいとつれない。「エツ、またタクシー!」とあわてた。タクシーが来たので聞いてみると、リフトからつながるゴンドラは動いている。そこまでなら10€だと言うではないか。助かった!まさしく鬼門のヴォルケンスタインである。

      
 

2月20日 マルモラーダへ行けず、時計回りに

少し晴れ間が見える。標高3200mのマルモラーダ大滑降に行くことにした。アラッバまで滑り、昨日のゴンドラに乗ろうとすると、マルモラーダ方面のリフトは動かないとの掲示。昨日も下りる人がいなかったところを見ると、ずっと動いていないらしい。残念。上まで行って、セラロンダ時計回りをするしかない。
空いている直接上へ行くもうひとつのゴンドラに乗った。滑り始めてみると、昨日の斜面と雰囲気がちがう。いつのまにかアラッバに戻ってきてしまった。もう昼時になっているので、レストランに入った。しばらく休んでいるうちに、またゴンドラに乗る気が失せ、ポルドイ峠までタクシーで行くことにした。急斜面を避けてのショートカットだ。
その先は昨日も滑ったし、その前も戻ったコースなので、ゲレンデ事情がわかった。二日目に苦労したコブコブの斜面を避けるコースを選んで、鬼門のヴォルケンスタインも無事通過し、コルフォスコに帰着。
この夜はコルバラのホテルへ豪華ディナーに出けた。楽隊がコックと一緒にキッチンで歌い、お客もキッチンの中に入って、ワインとつまみで楽しむキッチンパーティ。これが前菜で、そのあと席に着いてメインコースとなる。私の古希を祝ってくれると森さんが段取りしてくれた。先ほどの楽隊とコックが私たちの周りに来て、”ハッピーバースデイ”を歌ってくれた。みなさんどうもありがとう。

      
 

2月21日 セチューダ高原は遠かった

最後に滑る日が来た。天気は良し。宿のおやじにマルモラーダへの状況を聞いてもらったが、今日もだめとのこと。それで予定していたセチューダ高原へ行き、その足で反時計回りに挑戦することにした。
ヴォルケンスタインまでは毎日のように通ったコースだ。その先、サンクリスティーナへの村に下りるのは初めて。売店のおっちゃんに聞いたら、No.3の急斜面を少し下ったら左に回りこめと言われたが、その「回り込め」の場所を判断しかねているうちに、どんどん斜面を下りてしまい。気がついたらヴォルケンスタインに戻ってしまった。
改めて同じゴンドラで上がり、こんどはサンクリスティーナの文字を探して、その標識に従った。せラロンダをはずれると、ぐんと人が少なくなる。セチューダへつなぐ地下トンネルが右下に見えたので、ひと安心。
ケーブルカーが地下を通っている。トンネルを抜け、Col Raiserへのゴンドラに乗った。セチューダは一昨年の夏、サンマッデレーナの村に滞在したとき、山の反対側までバスで来て歩いたときに見た大高原だ。
超長いリフトが高原を一気に上げている。ここを滑ると爽快と思い、今回、足を延ばした。リフトに乗る前に早めの昼食。そして長いリフトを下りて滑降開始、太陽を真正面に浴びて軟らかくなった雪が、いささか滑りずらいが、どんどん飛ばし、ケーブルカー出口まで来た。ここで判断を誤った。ケーブルカーに乗るべきだったのに、道が続いていたためそのまま滑ってしまい、村の中に入った。途中から雪がなくなり、スキーをかついで歩く始末に。みんなに悪いことをした。
セラロンダに戻り、反時計回りのまだ滑っていないエリアに入った。ヴァルディファッサのエリアだ。セラ峠を越え、ポルドイ峠を越え、昨日タクシーでずるした道の横を一気にアラッバまで滑りおりた。最後のコルバラへの道でまたひとつ間違えたが、何とかコルフォスコまで戻ってきたときは夕方5時、ロープウェイが止まる時刻を過ぎようとしていた。既にカバーをかけていた改札機をくぐり抜け、係員に頼み込んで止めようとしていたゴンドラに飛び込み、セーフ!!最後までやきもきしたスキーだった。

      
 

2月22日 空港で別れたあとが大変だったよう

朝7:30にタクシーが迎えに来た。雪降りの中をインスブルックに向った。途中混雑していて、空港に着いたときは10時を回っていた。日本に帰る人は早くチェックインしなければならない。みんな列に並んだところで、私は別れの挨拶をして、レンタカーに向った。ところが帰国組は大変なことになったようだ。
菅野さんの弁。「残念ながら、というか、あにはからんや、というか、我々のインスブルックからウィーン行きの便は、3時間以上遅れ、大門、吉田、菅野はウィーン空港で「チーン」となりました、笑。
結局、オーストリア航空の準備した空港前ホテルで一泊し、翌日の便で今朝(月曜日)成田着、笑。
空港からオフィスに直行です。アタマがボケて、仕事にならん!(笑)」行きも帰りもハプニングだらけの旅となった。私は高速をおりたWorglの町で迷い、二度もガソリンスタンドで聞いて何とか東チロルのマトライにたどり着いた。天気も回復しつつあり、明日からのスキーが楽しみだ。    
 

2月23日〜24日 なつかしいカルスの村に滑り込む

一昨年の夏、この地域のカルス村に4日ばかり滞在した。そのとき尾根越しのマトライにバスで来て、ここからゴンドラで上がった尾根をグロスグロックナーを見ながらハイキングをした。そのときは頂は雲に覆われて全容がわからなかったが、今は快晴で、すばらしい山容が一望のもとだ。
ゴンドラ、リフトを乗り継ぐと夏と同じ所に出た。あのときは左の尾根のアルムの道を歩いたっけ。冬はここは閉ざされていて、通れない。ゲレンデにもなっていないので、歩いてたどりついたブラウスピッツの食堂には、一旦カルスへ下りて、またリフトで上がらなければならない。長い下りを滑り、ブラウスピッツへのリフトに乗った。その線は歩いたときの道にほぼ沿っているようだ。暑い日差しを浴びて歩いた夏の午後が目に浮かんできた。なつかしい。今は妻と一緒でない。ひとりだ。着いた思い出の食堂で、スープとラドラーでひとり乾杯、しばし感慨にふけった。ドロミテの雨空がうそのように晴れ渡り、滑る人も多くなく、グロスグロックナーは美しく目の前にそびえ、何という幸せ感だろう。

      
 

2月25日 ホテル滞在のスキーも悪くない

ヨーロッパスキーはアパート滞在が定番だが、今回はひとりだし、夕食を考えるのも面倒なので、ハーフボードの二食付きにした。ここマトライのホテルラウターの夕食はおいしい。ワインをキープしてもらい、二日で1本空ける。その前にビールだ。4泊で72,000円だった。飲み食い入れて一泊18,000円。毎日おいしい食事にお酒。高くはないと思った。
最後の日は晴れていたが、スキーには行かず、バスでリエンツの町に出た。駅周辺を2時間ばかり歩いて、またバスで帰ってきた。マトライ村の大きな教会に行ったら、葬式の最中だった。大きな棺桶の横に花輪と故人の写真が飾られていた。81歳の女性だった。墓地は雪が多いので溶けてから埋葬するのか、棺桶を教会裏に運んでいた。

      
 

2月26日 ピクニックディナー

マトライからハイリゲンブルトに移動した。1時間もかからない距離なので、途中の村で時間調整しながらやってきた。グロックナーホフは前に来たとき泊まった宿だったので“冬にまた来てくれて、ありがとう。
冬のハイリゲンブルートもいいですよ“と言わた。到着した夜は、20分くらい歩いて雪の上でのバーベキューディナーに参加した。味はさておいてという感じだが、この地方の歌で歓迎してくれ、キャンプファイヤーみたいで楽しかった。後日、昼の散歩にこの場所に行ったら、小一時間かかる距離だった。暗闇の中をカンテラ下げて緊張して歩いたので、距離感がわからなかったらしい。かなり村はずれの山道に入った農家の牧草小屋のような所だった。

      
 

2月27日 グロスグロックナー”槍ヶ岳”

晴れているがとても寒い。Schareckへのゴンドラに乗った。夏もハイキングに乗ったものだ。
途中乗り継ぎ、2600mの終点に着いた。右手にグロスグロックナーがそびえている。ここから見ると槍ヶ岳の針峰そっくりだ。裏銀座から見てる感じがする。マトライから見た同じ山とは思えない。夏ならこのゲレンデの横を越えていく氷河道路も今は通行止めで雪の下だ。料金所は駐車場になっていた。
ハイリゲンブルトの村を目指して、広いアルムを滑っていく。幅広く、ゆるやかなスロープなので、安心。
所々止まっては写真を撮る。このあたりで妻が牛の糞を踏んづけたっけ、などと夏の日々を回想しながら。ロープウェイの乗り継ぎ点まで下り、トンネルで谷を越えたHochfleissに行く。トンネルの中をゴンドラを連結したまさにロープウェイで行く。夏は動いていなかった。
出た所は山全体がアルムで、伸びやかな斜面が2900mの高さまで続いている。リフトをふたつつないで山頂まで行った。ここからの滑りも程よい傾斜と広さで心地よい。ひととおり滑ってまたトンネルで戻り、Tバーリフトでもうひとつのスロープを片付け、村への斜面を滑って行った。ほぼ夏の登山道と同じ所だが、かなり急で、このスキー場いちばんの難所かもしれない。ハイリゲンブルトのスキー場は広いが、一日で滑り切る規模だった。でも眺めもよく、私にはちょうどよいきつさもあり、楽しかった。

      
 

2月28日 ”モッタレーナ”ではなく、モルタラー氷河

ハイリゲンブルトも東チロルだと思っていたが、このあたりはカルンテンという地域らしい。しかしいくつかのスキー場は東チロルと同じリフト券だ。このモルタラー氷河もそうだ。だからマトライと同じカードだつが、値段は別なので、また払わなくてはならない。そこがスーパードロミテと違う。
ハイリゲンブルトはこの仲間に入っていない。”一緒にならなくても、ウチは客が来るもんね”というプライドか?志賀高原と同じようにリフト料金とは別にカードのデポジットも取る。マトライとモルタラーはデザインも同じで、場所名も記入されてないので、記念に二枚持っておく必要もないので、帰りにデポジットを払い戻してもらおうと思いながらモルタラーでは忘れてしまった。(後日インスブルックへの帰りに通ったマトライで払い戻した)
モルタラー氷河はハイリゲンブルトから1時間で着いた。後半は山道をグイグイ上がり、氷河へ行く地下ケーブルの乗り場に着いた。長い暗闇の中をケーブルカーで2300mまで上がり、そこからロープウェイで2800m、そしてカバー付きリフトで3100mまで。Schareckの3122mの頂上は歩いてひと息で行けた。ドロミテのマルモラーダに行けなかった代りのようなものだ。氷河はどこなのかよくわからないが、たぶん2800mから3100mへのリフトの辺りなのだろう。ここなら夏でも滑れる。安全を期して、Easyコースの青色標識のエリアを中心に滑る。
昼食を摂ったゲレンデ食堂にザックを忘れたことに滑っている途中に気づき、リフトで戻るなどロスもしたが、ほぼエリアを滑り終えて、ケーブルカー”グレッチャーエクスプレス”に再び乗って、車に戻ったのが午後3時頃。ハイリゲンブルトには4時過ぎに戻った。スチームサウナで汗を流して終わった。

      
 

月1日 スキー最後の日は雪原散歩

ハイリゲンブルトで滑り残したスロープを滑り切ろうと思い、スキー支度をしたが、テレビのスキー場モニターは2600m地点はロープウェイも見えないほどの霧の中、ホテルの窓の外にも雪が降り出し、ヤメタとなった。部屋でラーメン作って食べたりしたが、時間を持て余す。雪が小止みになった午後、村を散歩することにした。
最初の日のピクニックディナーの場所まで歩き、そこから雪原に作られた歩くスキーのコースに沿って村の郊外を中心に雪道を歩いた。そこから上に見える泊っているホテルの隣の聖堂の塔が村の目印だ。
冬はスキー場があるといっても、夏のにぎやかさにはほど遠いのだろう。休業している店も多い。
静かな冬の雪の舞う散歩は楽しかった。

      
 

3月2日〜4日 ロイッテの日々

ロイッテはオーストリア・レッヒタールの入り口でドイツとの国境の町。隣町はドイツのフュッセンだ。
ここに久仁子ライターさんが住んでいる。初めてドロミテにスキーに行くとき紹介された人だ。来るたびに訪問するようになった。長く通訳をやっていただけに、いろいろな事情に通じている。旦那のライターさんもビール好きのいい人だ。久仁子さんは今、白血病と戦っている。定期的にインスブルックの病院で検査を受けているが、入院するたびに何かの障害が出るので、しばらく行かないことにしたら調子がよい。
二三ヶ月模様をみると言って、一昨年会ったときより元気そうだった。ホテルに着いて電話すると、「ビール飲みに来なさいよ」ということでお邪魔した。納豆、煮付け、ししゃもなど日本食だ。最近は日本食がいちばん良いと、旦那はソーセージと分けているという。久しぶりの納豆かけご飯をいただき、うれしかった。
翌日はレッヒタールからドイツ国境に近いスキーリゾートを見ながら、ドイツに入り、ドイツのリビエラと称される保養地に立ち寄り、ルートビッヒ皇帝もおしのびで来たという鶏料理の店でご馳走になった。
とてもおいしいローストチキンだった。フュッセンは保養地として人気があり、土地の値上がりがいちじるしいという。軽井沢のようである。
久仁子さんは日本に一度帰りたいと思っているが、長旅のフライトを医者が許可しないと言う。今の元気なうちに祖国に来てほしいものだ。元気でおられることを切に祈る。

      
 

3月5日 帰る日が来た

三週間近い旅も終わりの日が来た。インスブルックからフランクフルト経由で帰る。
今回のスキーは発見があった。日本で知られていないスキー場も規模が大きく、楽しめる所が多い。
三年前に行った、スイスのヴェルビエはスイス最大のスキー場ということだったが、コブコブの斜面ばかりで楽しめなかった。日本のスキー旅行社が企画しない訳がわかった。今回の東チロルもカルンテンも規模的にはドロミテやトロワバレーに及ばないものの、ひとつひとつは違った特徴があり、十分に広く、私のように歳をとり、安全志向に変えてきた者にとって滑りやすいスキー場だった。
ハイリゲンブルトかマトライに一週間滞在して、いくつかを回るのもよい。何と言っても、ドロミテのようにリフト長蛇の列、ゲレンデイモ洗い状態はないし、宿代も安い。ヨーロッパアルプスの有名スキー場は昔の日本のスキーブーム時代以上に混んでいる。視点を変えたヨーロッパスキー旅行も面白い。

      
 

2月1日 極楽奥志賀スキー

恒例の極楽スキー仲間の奥志賀集合。今年も23名が集まった。何だかんだ言いながら一定数が集まるので、閉めるというわけにもいかない。今年は私が古希ということで、最終日の夜、お祝いをしてくれた。「スキーが私の体が丈夫になるキッカケを作ってくれた」ということを話した。
12月の蓼科日記に書いたことを再録する。
私は小学校1年生を二年続けてやったほど病弱だったので、70歳まで生きるとは夢にも思っていなかった。4年生まで、体操の授業は見学していた。今でも球技がからっきしダメなのは、覚え始めるこの時期に授業を受けられなかったせいだと思っている。5年生になったとき、冬の授業の一環で、スキー大会があった。私のふるさとは、新潟県岩船郡朝日村。山形県寄りは朝日連峰、日本海よりは数百メートルの山に囲まれた雪の多い村だ。スキー好きの先生が赴任され、スキーが冬の体育授業となっていた。全員参加で、私も何かに出なければならない。体操嫌いなので、スキーも苦手、回転は曲がれそうもないし、直滑降ならまっすぐ滑るだけだからと滑降競技にエントリーした。当日、スタート地点に立って見ると、出だしが急でそれを過ぎるとなだらかなコースがゴールまで続いていた。私はこわかったので、急な斜面はボーゲンで滑り下り、緩やかになった所からスキーをそろえて滑ってゴールにたどりついた。他の人はというと、自信があるので、最初からスピードに乗ってスタートした。しかし、急な所からゆるくなる部分でみんな転んでしまった。当時のスキーは長靴に荒縄を巻いて滑っていたので、転ぶと靴からスッポ抜け、競技続行不可能になった。私は二位以下なしで優勝し、生まれて初めてガリ版刷りの表彰状をもらった。この自信は大きく、あくる日からは学校が終わると、毎日、その山に行き、スキーの練習をした。そのうちに体はだんだんじょうぶになり、今日まで生きてこれた。スキーが体力をつけてくれ、自分の人生を変えたと思っている。今日集まっているみなさんと出会えたのもスキーである。スキーには感謝しても感謝しきれない。

            
 

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1 月

1月31日 中・高・大 母校若き後輩の活躍

このところ、はるか昔に卒業した学校の若き後輩が活躍し、新聞をにぎわしている。
中学校は新潟県村上市立村上中学校、今は隣の瀬波中学校と合併し、村上第一中学校と名称が変わったが、わが母校には変わりない。その母校の中学3年生の平野歩夢君が、母校だけでなく、村上市初のオリンピック選手としてソチのスノーボードに出場する。そして最年少の銀メダルを取ったことは記憶に新しい。スキーもろくにできないくらい雪が少ない村上から、よくぞ育ったものだ。
そして高校は、春の選抜に21世紀枠で出場する東京都立小山台高校。私は高校2年になるとき、村上から東京へ転校した。今もそうらしいが、当時はもっと進学校だった。ついていくのが精一杯で落ちこぼれの私はいい思い出がない。でも忘れていた校歌の一節をこのニュースで思い出したくらいだから、少しは母校愛もあるようだ。
先輩には菅直人首相、山田洋次監督、キャノンの御手洗社長、亡くなったジャーナリストの筑紫哲也さんなど錚々たる人がいる。そして大学は早稲田大学。割烹着のSTAP細胞研究者・小保方晴子さん、理工学部とわが商学部では、マンモス大学でかつ場所もちがい、遠い存在ではあるが、今も昔も”都の西北”と”紺碧の空”を歌った同士にはちがいない。”落ち目のワセダ”と揶揄される昨今の中で、久々の大ヒットの人物が出た。データ疑惑など報道されているが、直すべきところは直し、研究を進化させ、成功してほしい。村上春樹と並ぶワセダのノーベル賞候補だ。世代は大きく違えども、同じ早稲田の門をくぐった先輩としてうれしい限りである。

             
 

1月27日 突然ミーハーになる

シグマクシスの上場を記念しての”お客様に感謝する会”に招待された。倉重CEOの心遣いとありがたく出かけた。会場のパレスホテルはおおぜいの客。ビジネスを離れてからはこのような会合に出たことがないので、知らない人ばかりで落ち着かない。
BPIA仲間と会い、ホッとする。ビジネスマンの黒いスーツ姿ばかりの中に、ショールを首に巻いた場違いな人がいると思ったら、なんと石田純一。「一緒に撮ってもらおうよ」とKさんが言い、走りよって4ーショット! 司会は木佐彩子、夫はヤクルトから大リーグに渡った石井投手だ。これも一緒に撮ってもらおうと司会の休憩中に走りよって4ショット。突然ミーハーになって、笑顔満面の私だった。

      
 

月 26日 中々連新年会

阿波踊り中々連の新年会が今年も高田馬場で行われた。花の木の観劇会と重なってしまい、集まった人はたった10名。20名〜30名で予約していたのに、寂しい限りだった。大票田をまず押さえる選挙手法が必要だったと反省した。それでも集まったメンバーは真の踊りずきなので、宴会も最後のテーブルを回っての今年の踊り初めは大変盛り上がった。

      
 

1月21日 ディズニーシー

ディズニーランドは昔、子どもを連れてよく行った。大きくなってからは一緒に行くこともなくなって、まったく行かなくなった。数年前、家族忘年会で行ったきりだ。もともと夫婦で好きな場所だったので、歳をとったら、近くの老人ホームに入って、年間パスポートで毎日、散歩代わりに行くことを真剣に考えているくらいなのだ。その予行練習ではないが、急に空いているときに行ってみたくなり、夫婦で朝から出かけて行った。一回しか入ったことのないディズニーシーにした。もうそんなに乗り物目当てでなくなっているので、できるだけ歩き回って、ショーアトラクションを見た。その中でもビックリしたのは”タートルトーク”だった。亀が観客と会話するというデジタルショーなのだが、亀の動きがディジタルなのはわかるが、観客とぴったり合った会話がなんとスムーズに行われ、動きも会話の中身とうまくマッチングしている。会話はスクリーンの裏からモニターしながらしていることは分かるが、口や体の動きを即座にディジタル化して映像に落とし込む技術にたまげた。ディズニーもどんどん進化していることを感じた一日だった。

      
 

1月15日 久しぶりの稲門会カラオケ

昨年入った日野稲門会のカラオケサークルの集まりに久しぶりに出た。新年会なので寿司も出て、今日は華やかだ。相席の先輩は昭和28年卒業というから、私より15年も古い。脳梗塞で倒れてから、口が回らなくなったと聞き取りにくいが、カラオケはリハビリの一環でもあるのか、必死に歌う。ロレツが周らないが、その姿は涙ぐましい。大きな拍手の中で終わる。
私はテーマを決めて歌うことにした。今回は早稲田、慶応以外の六大学応援歌だ。
明治、東大、法政、立教。明治の”紫紺の歌”では、何十年ぶりで聴いたという人もあり、”白雲なびく”ではないのか?という質問も出たりした。立教の”セントポール”は英語の歌でむずかしくちゃんと歌えなかった。これが立教の第一応援歌なのに、ほとんど歌われない理由がよくわかる。私としては東大の”ただ一つ”がいちばんうまく歌えたと思っている。

      
 

1月6日 野麦峠スキー場

蓼科周辺のスキー場は飽きたので、まだ行ったことのないスキー場に行くことにした。
まずは野麦峠、他の季節には何回か野麦峠には行ったが、スキーははじめて、松本に出て、奈川ダムから奈川村方面に入り、薮原に抜ける道を入ってすぐの所にスキー場はある。スロープは4キロのダウンヒルが1本、上部では左右に三つばかりのゲレンデがあるが、そんなに広くない。標高差700mのダウンヒルは急斜面と緩斜面がほどよく組み合わされていて面白い。雪質も硬いが滑りやすい。寒かったが日差しもあり、今シーズン初めてのスキーとしては申し分ない快適さだ。乗鞍は雲の中に隠れていたのが残念だった。
奈川の温泉に泊ってと思い、三軒ばかりの宿に電話したが、休みだという。観光協会にかけて紹介してくれと頼んだが、「その三軒がダメなら他はもっとダメ」とつれない。以前、秋に来たときも同様のことがあった。どうも奈川は平日の客には冷たい所だ。シニアは平日に動くのが空いているし、安いしでいいのだが、これでは奈川には来れなくなる。

      
 

月4日 年明けの山荘

2日に山荘を使っていた人が帰り、一日おいて水抜きにやってきた。まず目に入ったのが巨大なツララ、屋根から地面までつながっている。正面玄関近くと裏の給湯器近くに同様のものが2本ある。裏のものの屋根はトタンがめくれ、そこに氷が入り込み垂れ下がっているようだ。このツララを鉈で叩き落した。正面のものはしばらくそのままにして眺め、帰京する日にたたき落としてきた。今回は浴室のログに防水塗装もした。ゲストルームと自宅両方やったので、二日ばかりは入れず、鹿山の湯に行った。

             
 

1月1日 豪華なおせち

わが家のおせちは妻が作るものと買ってきたものを皿に盛り合わせるやり方だ。今年はこれに大きなタラバガニが加わった。札幌の佐藤さんから、釧路のカニを一匹まるまる送ってきてくれた。佐藤さんは北アルプスに登りたいと岳文の先輩・小野さんが山荘に連れてきてくれた夫妻。八ヶ岳を皮切りに、蝶ヶ岳、穂高、白馬と毎年、一緒に登ってきた。この縁でサッポロクラッシクビールも送ってくれる。札幌に行くたびにもお会いし、かけがえない友になった人だ。

      
 

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