小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
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蓼科日記

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蓼科・東急リゾートタウン
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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。

毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2008年>

 [1月] [2月] [3月] [4月] [5月] [6月] [7月] [8月] [9月] [10月] [11月] [12月]

 <2004年> (2004年分は、こちらからリンクします。)

 <2005年> (2005年分は、こちらからリンクします。)

 <2006年> (2006年分は、こちらからリンクします。)

 <2007年> (2007年分は、こちらからリンクします。)

 <2008年> (2008年分は、こちらからリンクします。)

 <2009年> (2009年分は、こちらからリンクします。)

 <2010年> (2010年分は、こちらからリンクします。)

 <2011年> (2011年分は、こちらからリンクします。)

 <2012年> (2012年分は、こちらからリンクします。)

 <2013年> (2013年分は、こちらからリンクします。)

 <2014年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

 <2015年> (2015年分は、こちらからリンクします。)

 <2016年> (2016年分は、こちらからリンクします。)

 <2017年> (2017年分は、こちらからリンクします。)

 <2018年> (2018年分は、こちらからリンクします。)

 <2019年> (2019年分は、こちらからリンクします。)

 <2021年> (2021年分は、こちらからリンクします。)

 <2022年> (2022年分は、こちらからリンクします。)

 <2023年> (2023年分は、こちらからリンクします。)

 <2024年> (2023年分は、こちらからリンクします。)
 

2008年

12月

12月31日 観光は”大恐慌”を乗り切る日本の切り札

このところ雇用環境悪化で路頭に迷う人続出というニュースがテレビや新聞をにぎわしている。「所持金が1000円もない、住む所もない」などと若者がインタビューで茫然自失している。私が関係している志賀高原のベルサルームズ界隈のペンションや旅館は冬の書き入れ時を迎えて、どこも人手不足なのだ。シーズンという制約はあるものの、日当は安くても住む場所も三食には困らない。交通費も出すという所も多い。どうしてそういうところに、この人たちは目を向けないのだろうか? 都会や製造業にこだわっているのだろうか。それではダメだ。モノツクリ偏重の経済がいかに脆弱かを、日本は今、実感している。日本は観光資源に恵まれている。外国、最近はアジアの人たちにとって日本は身近な観光大国なのだ。アメリカまで行かなくても、ディズニーランドもユバーサルスタジオも楽しめる。ヨーロッパやカナダに行かなくてもスキーが楽しめる。そして温泉という日本ユニークな資源もある。ベルサルームズも外人客が増えつつある。問い合わせは、オーストラリアだけでない、ベトナム、インドネシア、マレーシア、フィリピンと多彩だ。このマーケットに焦点を当てて誘致すれば、日本はスイスやオーストリア並みの観光立国が可能なのだ。路頭に迷う働き手を観光地は引き受ける可能性は高い。国は対症療法ばかりに追われず、次の産業育成、ここでは観光産業をもっとサポートすべきではないか。円高だからと言ってみんな来ないわけではない。円安でも日本人はどんどん海外へ出て行ったではないか。
 

12月26 Jeremy Kwok

大雪の中でスキースクールに入っていたJeremyとそのガールフレンドが帰ってきたのは午後2時過ぎ、午前のレッスンだったのに、どうしたことかと思ったら、イタリア人のインストラクターがサービス残業をしてくれたのだという。
吹雪いているし、スキーはやめて、地獄谷のモンキーパークに行くことにした。吹雪の山くだりは車が渋滞気味なので、何回か前の車について追い越しをした。こんなとき、雪道の運転にオレも慣れたもんだと思う。
下におりると晴れ間も覗くような天気で雪も少ない。地獄谷の猿も零下の寒空の温泉はやはり寒いのか、浴槽の隅に何頭か寄り添って浸かっている。
だんだん寒くなる夕方では、風呂から上がれないのでは?と心配になるほどだ。

   
 

12月25−26 やっと雪が…

クリスマスになっても雪が降らず、スキー場は悲鳴をあげていた。ようやくの寒波で、蓼科の山荘周辺にもようやく本格的な雪が舞った。
香港からの友人を迎えるために、奥志賀に蓼科から向かったのは25日の夜、蓼科や白樺湖周辺は数センチ程度のうっすらとした雪だった。丸子を過ぎ、長野道に入ると、結構強い雨になった。信州中野から志賀高原へ上るに従い、雨が雪に変わり、丸池あたりからは本降りになった。焼額からは、雨に濡れたワイパーが凍りつき始め、前がよく見えない状況に陥った。道路の雪も深くなり、やっとの思いでベルサルームズに着いた。もう40cmほどの積雪になっていた。
明けて26日の朝からは猛吹雪、すでに70cmの積雪だ。香港からの友人はスキースクールを予約しているからと吹雪の中を出かけていった。雪はなければ困るが、降り過ぎてもまた困る。(左・蓼科の雪、右・奥志賀の雪)

   
 

12月20日 イルドな初すべり
車が志賀高原へ入っても、周りに雪がない夜の景色が車窓に広がっていた。
ベルサルームズから見る高原も春景色だ。それでもリフトは動いているという。半信半疑でゲレンデに立つと、スロープには雪がついていてみんな滑っている。暖かく春霞がたなびくような北アルプスを眺めながら、奥志賀から焼額、一の瀬まで行った。ちゃんとゲレンデをリレーして行けた。雪不足でロープの張ってあるスロープにもくぐって入ってみた。そこは人が滑っていないので、新雪と荒れた斜面になっていて、滑るには若干スピードとテクニックがいるが、それはそれで面白い。奥志賀ゴンドラへの道、シーズン中でも新雪が残っているところだが、ここは結構深い雪になっていた。森の中は、まだ川が埋まっておらず、バックカントリー並みのワイルドな川越えや藪こぎが待っていた。ハードなスキーの連続で、奥志賀の最後の斜面を滑るときには両腿がバンバンになってしまった。
雪の少ない初すべりはハードな一日になった。

   
 

12月1日 山荘の大掃除
フローリングの床はワックスをかけたあと、しばらく乾燥させなければならない。山荘を使う人が続くときはできない。この季節が年の暮れでもあり、大掃除を兼ねて、妻に手伝ってもらうことにした。ベッドの移動など、ひとりでは限界があることも理由のひとつだ。私は2階のベランダの窓拭き、高い天井に取り付けられている照明やファンの煤払いなど高所を受け持ち、妻はフローリングに専念。よく晴れた初冬の日だったので、ストーブの薪の移動も行った。玄関から離れたベランダ下に積んであった薪を、ストーブに近いベランダ下に移し、取りやすくした。雪が積もってからではできない仕事だ。暮れなずむ頃まで、炊きつけ用の木っ端をナタで角材を割って大量に作った。右腕が痛くなった。締めは上諏訪の温泉に行き、”長野県民割引”というこの季節、平日限定の宿をインターネットで見つけ、大掃除の汗を流した。

      
 

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11月

11月30日 ”日本人の働き方はまちがっている”
私が関係する団体のオランダの大学での研修コースに参加した若い方からの感想メール。「ライフワークバランスというか、オランダ人の生活の仕方そのものに、感銘を受けました。お金はかけず、生活の質が日本とは比べ物にならないくらい高く(家族や、自分の時間を大切にする)個人の働き方も、小田さんが以前、食事で話されていたようなアントレプレナーシップを持って生きている人が多く感銘を受けました。」
それに対する私の返信
「ヨーロッパの人たちの生活を実感されたのはよかったですね。そうです、日本人の働き方がまちがっているのです。「会社だけが人生」ではつまらないではないですか。個人の時間を大切にし、まさにワークとライフをバランスさせることが、人間としての生き方ではないでしょうか。それが、人生を豊かにする秘訣です。「定年になってからやる」では遅いのです。今から実践してこそ、いろいろな将来のアイデアも湧いてきます。自分の生き方は周りに左右されるのではなく、如何に自立して考え行動するかだと思います。」みなさん、どう思われますか?

 
11月8日 ぜいたくな管弦楽コンサート
三回目になる山荘でのコンサート。最初は片貝さんのチェロだけ。
時々奇妙な音になるのが愛嬌だった。昨年は、チェロ二人に風田川さんのフルートが加わった。管楽器が加わったことで、演奏に幅ができ、秋の夜の山荘に”小諸馬子唄”など新たなレパートリーが広がった。
今年は、それに荻島さんと渡辺さんのヴァイオリンが入り、重厚な演奏になった。しかし、観客はドタキャンもあり、いちばん少なく3人だけ。もったいない演奏会だった。しかしファミリーコンサートのようななごやかさが生まれ、演奏する方もリラックスしていたようで、「間違った」と笑いながらやり直す場面もあった。
アマチュアの集まりの都会から離れた場所での演奏会は、雰囲気はすばらしいのだが、物珍しさが通り過ぎると、観客は減る傾向にある。
奥志賀でのサックスも三年目の今年は森の音楽堂を借りての演奏会だったが、東京からの客は少なかったという。周りのホテルやペンションにビラを置いたら、その泊り客が10数名来てくれたという。
蓼科の演奏会も、来年は東急リゾート内にビラを撒いてみようか? 
演奏後のご苦労会は、鴨鍋をつつき、大人数のときと同じように夜遅くまで盛り上がった。ぜいたくなコンサートだった。

   
 

11月3日 庭のカモシカ
朝、ふと窓の外を見ると、クリスマスツリーに使ったもみの木の側にカモシカがいた。庭の潅木の葉を一生懸命、食べている。和室の大きなガラス戸から覗くと、カモシカも私に気がついたが逃げる気配がない。じっと見ている。カメラを取り出し、パチリ。もう一枚パチリ。しばらくすると、危険と思ったのか、枕木の階段道を飛び越えて庭の林に入った。そこでまたこちらを見ている。あまり人に慣れていないようだが、人見知りもしないカモシカだった。

   
 

11月2日 映画祭とスキー抽選会
今年の蓼科高原小津安二郎記念映画祭も良い天気だった。こんな日に映画を見るのももったいないと思いながら、暗い館内に入る日が続いた。雨の多い6月から7月ごろにやってほしいと思う。
「銀色のシーズン」という「私をスキーに連れてって」以来の久しぶりのスキー映画が上映されたこともあり、茅野市スキー協会共催という抽選会もあった。エンジンオイルや不凍液など、面白い商品もあったが、いろいろなスキー場のリフト券や小賀坂スキーなどいっぱい当たるというので、とても期待していたが、何も当たらなかった。ほとほとくじ運が悪いことにガックリした。

   
 

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10月

10月15−29日 ハプスブルグ家の旅
妻はマリーアントワネットやエリザベートが暮らしたオーストリア王朝・ハプスブルグ家の歴史が好きなこともあり、プラハ、ウイーン、ブタペストを廻る旅に出かけた。秋の中欧は寒いと言うので、スキーの防寒具を詰め込んだ。われわれの旅はいつも自炊中心なので、ホテルはプラハとウイーンはアパートにした。ソバ、ラーメン、カレー、マヨネーズ、醤油、そばつゆなども入れた。欠かせないのはザルとどんぶり状のボール、これは外国にはない。マヨネーズも瓶詰めしかない。スーツケースは、われわれのような個人旅行では自分で持ち歩きしなければならないので、列車が大変なのだ。そこで、プラハからウイーンへの移動はレンタカーにした。私のスーツケースの半分は、食料と食器で埋まった。
 

   
 

        「暗い街並みと近代的な室内(プラハ10/15-29)
夕暮れ、プラハ空港に着き、タクシーで市内のホテルに向かった。
車は住宅街をいくつも通過した。どの街も街灯がまばらで暗い。「こんなに薄暗いと歩けないな」と妻と話した。30分くらい走って市街地に入り、ホテルに着いた。世界遺産の街らしい、東京なら歴史的建造物になるような古いビルだ。中はとてもモダンで泊った部屋はデザイナーズマンションの室内のように垢抜けしていた。広いリビングキッチン、台所もソファもテーブルも洒落ている。リビングの広さの割りに、寝室は狭い。たぶん仕切りになっているのが構造壁なので、広げることができなかったようだ。窓から見える道路はすべて石畳、楠の木のような黄色くなり始めた街路樹が前のビルの灯りに浮かび上がっている。
15時間かかって到着した初めてのチェコ・プラハは、暗い街通りからホテルに入って印象がすっかり変ってしまった。意外と面白いかも。

   
 

        「歓迎されなかったハプスブルグ家
プラハにはカレル橋、プラハ城、天文時計塔など数百年の歴史をもつ建造物が多い。どこに行っても石畳が続いている。そしてトラム(市電)が縦横無尽に走っている。これに乗り慣れるとすこぶる便利だ。
ハプスブルグ家はカレル橋を渡った丘の上にそびえるプラハ城を住居としチェコを治めていた。博物館や城の中に、プラハの長い住民の歴史や生活を語る物は多いのだが、支配者だったハプスブルグ家を讃えるものはほとんど見当たらない。それ以前も、ローマカソリックに反抗したり、社会主義国家になっても「プラハの春」でのソ連への抵抗など、チェコは常に他国に虐げられてきた。プラハはその抵抗の拠点でもあった。自ずと、反抗反旗の遺物が目立つのだろう。今ようやく、その抑えられ続けた時代が終わり。本当の「プラハの春」をみんな享受しているのかもしれない。
プラハは芸術の都でもある。特に、モーツァルトやベートーベンは、ウイーンからプラハのハプスブルグ家に迎えられ、頻繁に演奏会を開いたという。ウイーンで受け入れられなかった新曲が、プラハでブレークし後世に名曲となったものも多いと言う。それだけ耳の肥えた貴族や一般の聴衆が多かったということだろう。チェコ民族は芸術的センスのあるすこぶる誇り高い民族でもある。

     
 

        「美しい”チェコ路の秋”(テルチ、チェスキークルムロフ10/20-21)
チェスキークルムロフ経由でオーストリアに入ることにして、レンタカーを借りた。プラハの郊外を抜け、ハイウェイに入ると、まっすぐな思いのほかきれいな道が続いている。ガタガタ道でないかと心配していたが杞憂だった。2時間走って、間違いに気がついた。三角形なら、逆の辺の方向に走っていた。そこから戻るのでは遠すぎる。地図では横に行けば、本来のもう一辺にぶつかることがわかった。しかし、その横の一辺はハイウェイではなく、田舎道だ。標識に従い、秋のチェコ路を走った。
丘陵地帯に畑が広がり、草を束ねたロールが積まれ、林や森が畑につながっている。村々の家は素朴かつ古く、社会主義時代からそのままのようだ。田園と農家がみごとに調和した秋のチェコ路の風景はすこぶる美しい。今朝作ったサンドイッチと柿を昼食に食べたテルチの村はおとぎ話の村だった。何百年前、火災に会ったとき、家の建て方を連結して、それぞれ外装を創意工夫してよいことにしたら、今の街ができあがったという。まるでテーマパークのような街並みだ。街中もよかったが、その裏側から見た池越しに見る村の風景はことさら美しかった。紅葉の木々と水面に映える教会の塔、秋の日差しの中で美しい村は静かに佇んでいた。

   
 

         中国人に占領された古城
チェスキークルムロフはS字状に流れが蛇行する川沿いに作られた町もまたS字状に並んでいる。そのS字のてっぺんに支配したお城がそびえている。まさに城下町だ。歴史の中で培われた趣は現代を感じさせるものが何もない。すべてが昔のまま、たたずまいの美しさもあって世界遺産の町としては有名。
たくさんの観光客が訪れる。近年は日本人も多かったが、このところは中国人が圧倒的に多い。われわれはここの昔は修道院だったといういわば”古城ホテル”ホテルルージュに二泊した。朝食のとき驚いた。われわれ夫婦を除いて、あとはすべて中国人なのだ。中国語が飛び交い、ヨーロッパの古城ホテルとは思えない。プラハもテルチも多かった。
ドイツ南部のノイシュバンシュタイン城は40年前から日本人がわんさか押しかけ、道路標識にも「ロマンチック街道」と日本語表記されているが、ここも今は中国人に席巻されている。日本語標識が中国語にとって代わられる日も遠くないだろう。チェスキークルムロフも既に日本人を追い抜いた。そのスピードはすこぶる速い。ホテルにあった奇妙な日本語の”Do not disturb ! ”(写真)も正しい中国語に直されることだろう。

     
 

         なぜここに網走が?
チェスキークルムロフ城から街を見下ろすと、茶色の瓦屋根の家々がびっしりと詰まっている。中世からの時間が止まったような感じがする。城内にある案内所に入って驚いた。日本語で網走市の時刻が表示されている時計がこの町の時計と並んでいる。「姉妹都市?」と案内所の女性に聞いても知らないという。「何かの記念だろう」という。網走は日本語だけでローマ字表示もないので、彼女たちも??だったようだ。「網走は監獄で有名な、Prison cityだよ」と言うと驚いていた。日本に帰ってきて調べたが、姉妹都市の関係もなく、どんな縁があるのかわからず仕舞いだ。誰か知っていたら教えてください。

   
 

        タクシーをまいてしまった(ウイーン10/22-28)
チェスキークルムロフからしばらく走ると国境を越え、オーストリアに入る。
畑が伸びやかに広がる田園風景はチェコと同じだが家々のたたずまいがガラッと変わった。新しい家もまじり、古い家でもパラボラアンテナなどがあったり、近代的なのだ。これが社会主義が長かったチェコと西欧圏オーストリアのちがいなのだろうか。車の量も急に多くなり、リンツの街では渋滞になった。
アウトバーンを西から東へウイーンに向かった。アウトバーンから市街地に入ったのが午後2時過ぎ、ウイーン市内のハーツのオフィスにレンタカーを返すのは夕方6時半、4時間以上あるので余裕だった。まずはホテルにチェックインしてからと、地図を見ながら、ホテルの場所に向かった。しかし一方通行の連続で走っているうちにわからなくなってしまった。ガソリンスタンドに飛び込み聞くが、ドイツ語なのでわからない。指差す方向に走るがわからない。こんな繰り返しで、やっとホテルの街に着き、場所も確認したが、その通りへ入り方が一方通行でまたわからない。そんなこんなでホテルに入ったときは5時半を回っていた。
ハーツの閉店まで1時間もない。そこまで迷いながら行っては間に合わない。
幸いホテルの前はタクシー乗り場で、結構な車が停まっていた。「ハーツまで先導してくれ。車を返したら、おたくのタクシーで帰ってくるから」と往復料金をギャランティーしたら、行ってくれることになった。タクシーの後ろを妻と一緒について都心に入っていった。車の流れが都心に近づくにつれ多くなる。さしづめ銀座4丁目といった繁華街の角にハーツの看板を発見し「あそこだ」と安心した。しかしタクシーはその前を通り過ぎ、反対側斜めのインペリアルホテルの玄関に停まった。「インペリアルホテル近くのハーツ」と言ったのだが、運ちゃんには「インペリアル」しか耳に残らなかったようだ。「あっちあっち」とハーツの看板を指差し、やっと理解し、反対車線に戻ったが広い交差点で信号が変わった。タクシーは直前に通過し、私たちは渡れなかった。信号が変わって渡ったが、タクシーは4車線の左側に、私は右端で離れ離れになり、後ろから車が来て停車するわけにもいかず、またもや一方通行を右に右にと回ってハーツに着いたときは、タクシーを見失ってしまっていた。レンタカーを返し、しばらく待っていたが、タクシーの運ちゃんは来なかった。意図せず「タクシーをまいた」形になり、ただ働きをさせてしまい、すごく申し訳なかった。1週間の滞在期間中、毎日、ホテル前のタクシー溜まり場を覗いたが、あのタクシーには二度と会えなかった。

      
 

        「寿司の人気はハンバーガー並み
レンタカーを返したあとはタクシーで帰る予定だったが、はぐれてしまったことにより、その必要性はなくなった。地下鉄とトラムを乗り継いで帰ることにした。
カールスプラッツの駅に行くと、パックの寿司が並んでいる。
勤め帰りの人も気軽に買っていく。これは良いと夕食に二パック買い、地下鉄に乗った。下りた駅にもまた別の寿司屋があった。ここでは焼ソバまで売っていた。ウイーンに1週間いる間に3回も寿司を買ってしまった。味はまずまずで、アメリカのスーパーに並んでいるものよりずっとおいしい。
日本の寿司パックとちがうのは、わさびを別盛りにして、サビ抜きだ。わさびが苦手な人が多いのだろう。寿司も駅のスタンドで立ち寄って食べ、テイクアウトもできるハンバーガー並みの人気があるということなのだろう。ちがう駅の構内には、GINZAという回転すしショップもあった。回転すしは”Running Sushi”と言うそうだ。

   
 

         「ザッハートルテ
ザッハーホテルが考案した「ザッハートルテ」はウイーンの名物菓子。
菓子職人フランツ・ザッハーが、1832年に創出した(1814〜1815年のウィーン会議で創出された、とする説もある)。以来ザッハーのスペシャリテとして好評を博す。門外不出とされたが、ホテル・ザッハーが財政難に陥った際に援助を行ったウィーンの王室ご用達のケーキ店・デメルの娘が嫁いだ際、レシピが流出し、ザッハトルテの名を冠して発売したことから商標等をめぐる裁判になった。7年に及ぶ裁判の結果、デメルのものもザッハトルテとして売ることが認められた。
歴史的な騒動でも有名なお菓子を食べてみんと、両方の店に行った。どちらも混んでいた。ザッハートルテを注文するのはおのぼりさんばかりらしく、ウイーン子は別のお菓子を食べていた。どちらがおいしかって? 似た味だが、私はデメルのほうが甘さを抑えていておいしかった。(左:ザッハーホテルのトルテ、右:デメルのトルテ)

   
 

        所変われば…台所の明かりの点け方
プラハの宿もウイーンの宿もアパートメントにした。どちらでもわからなかったのは台所のシンクの上にある小さな照明と換気扇のつけ方だった。どこにスイッチがあるのかと探したが見当たらない。プラハではフロントのお姉さんに来てもらったが、彼女も??であとで技術の人を寄越すと言ったがそれきりだった。絶対的な問題はないのだが、コンロでの調理や、まな板作業、食器洗いの手元が薄暗く不便である。プラハは結局わからずじまいで終わった。ウイーンも同じような台所だった。「プラグがはずれているのでは?」などとフロントは言うがそんなことはない。「わかる人にチェックさせる」ということで、私たちは外出した。帰ってきて驚いた。ちゃんと明かりが点いている。天井部分が前にスライドして出ていた。天井は固定的なものとの観念で思いもつかなかった。前に引っ張りだすとは。点灯はスイッチでやるものとばかり思っていた。所変われば、やり方も変る。だから旅はおもしろい。(左:ふつうの状態、右:スライドさせると)

   
 

        社会主義の頃がよかった(ブダ゙ペスト)
なんども宿を変えるのは面倒なので、もうひとつのハプスブルグ家の都、ブダペストには日帰りのバスツァーで行くことにした。現地では日本語のガイドが案内してくれるという。バスのガイドも片言の日本語をしゃべっていたが、英語での内容の半分も訳してくれない。ブダペストで私たちの前に現れたのは太ったハンガリー人のおばさんだった。社会主義の時代に日本語を習ったという。「自由主義になってどうですか?」と聞いた。「暗黒の時代が終わってよかった」を期待していたが、出てきた言葉は「社会主義の頃がよっぽど良かった」。「通訳の仕事も昔は組織がスケジュールを作って割り当ててくれた。
今は競争で、今日は何日ぶりかの仕事だ。他の日は失業している」。確かに彼女の日本語は「理解できる」が、レベルは高くなく、ビジネスの通訳は無理と思った。昔なら、レベルに関係なく割り当てたのかもしれない。「代えてくれ」と言っても簡単ではなかったから日本人も我慢したのだろう。それが時代が変り、お客が通訳を選ぶようになって、彼女への仕事は激減したことが予想される。
オーストリアのロイッテに住んでいる久仁子さんの話を思い出した。「産業やビジネスで来られる日本人の通訳は大変なの。専門的な話が多いので、行く先に事前に行って専門的なことを予習しておく」という。何事も習った後の努力と精進が必要なのだ。別れ際に、ガイドのおばさんに20€、チップを渡した。とても喜んでくれた。

   
 

        「ホイリゲのボジョレヌーボーとヨハンシュトラウス
ウイーン最後の夜、郊外のグリンツィングで新酒のワインと田舎料理を食べ、そのあとウイーンに帰ってきてシンフォニーを楽しむというツァーに参加した。
お客は私たち二人だけだった。オーストリアのワインは白、さしづめ、白ワインの新酒・ボジョレヌーボーと言うところか。この新酒と料理を出すホイリゲと呼ばれる居酒屋がグリンツィングには多い。観光客が集まるホイリゲに案内してくれた。韓国人が多く、バンドはアリランを奏でていた。肉とポテトの素朴な盛り合わせに青い香りがするワインは合っておいしい。ひとしきり楽しんでから、市街のコンサートホールに行った。ここも観光客主体なので、ポピュラーな曲目だ。そうなるとヴェートーベンやモーツァルトは少なくなり、ヨハンシュトラウスが多い。
「青きドナウ」、「スケーターワルツ」など静かなメロディもあるが、圧倒的なのは、日本人の耳にお馴染みの運動会の入場・退場の時に流れていたポルカやラディツキー行進曲など、軽快なテンポの曲で、観客は盛り上がって演奏会は終わった。”ウイーンはヨハンシュトラウス”の印象を残して、最後の夜の家路についた。

   
 

10月12日 連休の上高地線に入ってはいけない
極楽スキー仲間の秋のトレッキングは、乗鞍高原を歩くことにした。この頃の乗鞍の紅葉はコトの外美しい。10数名の仲間は期待して蓼科の山荘を車で朝出発した。松本インターで信号待ちの車が、高速ゲート出口直前まで並んでいるのが不吉だったが、そのまま上高地方面に向かった。乗鞍は奈川渡ダムを越してから左に曲がる。ところが波田あたりで渋滞し始め、稲コキ集落ではしばし停まってしまった。ダムの手前のトンネルでは完全に停車、そのあともタラタラで、乗鞍への道に入ってようやく解消した。しかし鈴蘭に着いたときは、蓼科を出て4時間も経っていて、お昼を過ぎていた。予定のコースは歩けない。半分にカットした。まずは腹ごしらえと乗鞍岳がまじかに見えるマイメの池でみんなで作ったサンドイッチを食べた。
薄い雲が広がる高原の空、伸びやかな稜線の乗鞍岳、白樺の黄葉、もみじの赤ととても美しい光景が池の水面に映る。大変な思いをして辿り着いただけの価値はあった。牛止めの池、善五郎の滝への白樺林も秋の装いに彩られ気持ちよいトレッキングだ。最後は温泉で締めて、みんなは直接、東京へ帰っていった。そのあと、中央高速は事故もあったとかで、東京に着いたのは深夜になったとか。大変な一日だった。反省・連休の中日の晴れた日に上高地線を走るものではない。乗鞍は問題ないのだが、沢渡の駐車場が満杯になると、そのトバッチリを受けることを知った。

   
 

10月4日 ”黒皮”の魔力
きのこ博士の吉田さんに来ていただいて蓼科きのこ取りレッスンを受けた。
春は山菜取りレッスンだった。そのときナラタケが生えるはずと言っていた林に行ったが収穫ゼロ。まだ早いのか、取られてしまったのか。山荘の庭にはイグチとカワハギが結構あった。カワハギは食べられるがおいしくないということで放置した。前の家の切り株に小さなクリタケが密集していた。これはごはんと一緒に炊いておいしい混ぜご飯を作った。しかし何といっても、最大の発見は”黒皮”だった。
八子ヶ峰に登りながらきのこを探そうと登山道を気をつけながら登っていった。道の傍らに、黒いタイヤの塊のようなものが顔を覗かせていた。押すとスポンジのように弾力があり、きのことわかった。真っ黒で気持ちが悪い。「食えないですよね」と言うと、きのこ博士は「食べられるような気がする」と、株を掘り起こすと5,6ヶの塊があった。丁寧に新聞紙に包み、山荘に持ち帰りきのこ図鑑と照らしあわせると「黒皮」というきのこらしい。焼いて醤油をつけて食べると香ばしく、日本酒に合う、と書いてある。夕飯の準備に自然農園に買出しに行くと、同じ黒皮が売っていた。一株1,200円! われわれ採ったのは6〜7千円に相当するではないか。ガスコンロに網に載せ、焼きながら日本酒をチビリ、少し苦味があるが、酒の肴にはうってつけだ。白ワインとも格別によい。思わぬ収穫だった。
”黒皮”の魔力にとりつかれ、やめられなくなりそう。5千円も出して、きのこ図鑑を買ってしまった。

   
 

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9 月

9月20日 "夢を追うことの大切さ"への反響
先月、私の青春から蓼科の山荘に至るまでの過程を記したら、思いの他の反響があった。それも30代、40代の人が多かった。
「ずっと思っていても踏み出せない。これをきっかけに初心に戻ってみたい」、「若い頃から、夢など持ったことがない。そのとき、そのときの流れの中で生きてきた。やはり人生の目標を持たなければいけないのでしょうか?」など。
私のまわりに、「定年になって、毎週ゴルフ三昧しようと思っていたのに、さっぱり声がかからない。ふた月、家でゴロゴロしていたら、奥さんから”あなたいい加減にしてください”と怒鳴られ、パートで働くことにした」という男がいる。
会社では出世して、接待ゴルフも頻繁、ほとんどすべてを周りがお膳立てしてくれる。自分で動かなくても、何事も成り立っていく。ほどほどに偉くなった人にありがちな、人任せ人生で会社を終え、そこで初めて現実の厳しさを知る。
終身雇用という日本の会社のシステムに問題ありと思う。会社が守ってくれるとなると、会社の方針には歯向かえないし、そこそこに働けば、年功序列である程度までは出世する。課長、部長となるにつれ、部下が助けてくれる。仕事に厳しさはあっても、それは世間に通用しない”井の中の蛙”の経験が蓄積するだけだ。外との接触も会社の仕事を通じてがほとんど。
家庭は奥さんに任せきり、子供の学校にも地域の集まりにも顔は出したことがない。”時の流れに身を任せ”れば、食うには困らない。そして定年。そこで気がついても手遅れ。”定年後イヌもいやがる五度目の散歩”が待っている。
”こんな私に誰がした” 自業自得である。     
 
9月28日 札幌と松本での”一人ディナー”
この週、札幌と松本で、ひとりで外で夕食をとるという機会があった。ひとりで夕食となると、少しのアルコールとつまみ、メインディッシュ、昼飯とちがい、すこしゆったり。一人だけに、周りを見る余裕もある。面白いことに気がついた。
札幌ではホテルのビヤレストラン、生ビール2杯とベイクドオニオン、サーモン刺身、ラーメンサラダ。周りは会社帰りのグループ、家族連れなどでにぎやか。私のジョッキが空きそうになっても、おかずが出てこない。ウェイトレスが、「すみません。少々時間がかかって」と気を利かして心配してくれる。その一言で、ツマミもないのに「もう一杯」とオーダーしてしまった。
松本では駅前の小ぎれいな手打ちそば屋。駅前だけに列車の時間待ちらしい旅行客や登山者が多い。それもほとんどが、一人か二人。店内は静かだ。せわしなく動く学生アルバイトのような店員の甲高い声が響く。生ビール2杯、わさびの醤油漬け、馬肉の煮込み、鴨セイロそば。醤油漬けが出てきて、生ビールがしばらく後。お客がどんどん入れ替わり、2人の店員は勘定と注文とり、料理出しにてんてこ舞いだ。注文出すのも、店員の動きを見ながらコツがいる。いつも神経を研ぎ澄ませていなければならない。
どちらも居たのは1時間ちょっと、勘定も3400円と同じだった。しかし、ゆったりした時間が過ぎていた札幌のビヤレストラン。追い立てられるように飲み、食べた感じのする松本のそば屋。同じ時間を過ごしたにもかかわらず、店の雰囲気や人の動きで、自分の居心地もずいぶんと違うものだと感じた札幌と松本の夜だった。
          (写真左・松本駅、右・札幌駅)

   
 

9月28日 信州インバウンド・サミット

信州へ外人客を誘致しようというのが、インバウンド・サミットの目的。
松本大学で開かれた催しに、東京から日帰りで高速バスに乗って行ってきた。行政や宿泊業、旅行社、鉄道などの関係者が集まった。私はベルサルームズの経営パートナーの立場で参加した。昨年、信州を訪れた外人観光客は28万人、前年の5割増しという。もっと増やすには、何を整備、売り物にして宣伝していくか、みんなで考え実行しようという。これは、奥志賀にベルサルームズを開いたときからの目的にも合う。実際に始めてみて、外人客の引き合い、宿泊は目だって冬は多くなった。しかし長期滞在が主流の外人さんの要望に答えきれないインフラの不備、例えばいつでも入れるレストランがない、コンビニがない。麓の猿の温泉に行こうにも足がない、スーパードロミテのように長野県すべてのスキー場に共通するリフト券そしてそこへの足などなど。一施設でがんばっても限界があり、点から面への展開が必要と考えていただけに、それを訴えるよいチャンスと思った。
宣伝、観光資源、交通などの分科会に分かれて議論した。私は観光資源のグループに入った。「砂漠しかない中近東の人にとって信州は魅力的」という意見もあった。これは、昨年、奥志賀にエジプト人の旅行社の人を案内し、「緑と白にあこがれる」と言っていたのに通じる。観光宣伝をするとき、国内では”信州”、国外では”NAGANO”を使うと言ったのは長野県観光局の人。長期滞在客をどう増やしていくかは、参加者の共通認識であった。請われれば、この活動に関わっていこうと思いながら、松本を後にした。

   
 

9月23日 北海道・空沼岳
北海道ニューオフィス賞表彰式のあとの座興に話を、という武智さんの誘いに乗ったのはこの冬、富良野にスキーに行ったとき。秋分の日に山に登れば、一石二鳥ということで、札幌からほど近い空沼岳に登った。
小野さんをリーダーに、極楽スキーメンバーの森尾さん、成田さん、そして小野さんの山仲間の佐藤さん夫妻の6名、肝心の武智さんはテニスで捻挫し断念。
北海道は冬への切り替えシーズンで、空にも 大陸の気圧の谷の寒冷前線が通過するとかで、朝の登り出しから雨だった。北の山らしく、大きな樺の木や栂が鬱蒼としている森を抜け、万計沼に着いたときは雨もほとんどやんでいた。沼のほとりには北海道大学の小屋と昔は営林署で今は同好の士が管理している小屋の二軒建っている。沼に霧がたちこめている。このあたりから、少し紅葉が始まっていた。ひと登りした真簾沼(まみすぬま)は、半分くらい枯れていて、浜辺のような地面が広がっていた。空沼はカラヌマから来ていて、それはこの沼のことだという説もある。ソラヌマダケの方が断然、響きがいい。カとソの一文字の違いは大きい。徐々に急な登りになり、札幌岳の分岐の尾根に出ると頂上は近い。這い松が現れ、森林限界を越した岩肌が頂上だった。
北アルプスあたりは2500mが森林限界なのに、北海道は1000mくらいだ。岩の頂からは、札幌の市街、羊蹄山、支笏湖、樽前山などが一望できた。ここまで4時間、空沼岳の空は晴れ上がり、下りの白樺の黄葉と青空がことのほか美しい。秋の北海道の山だ。万計沼で手の込んだコーヒーを佐藤さんに作ってもらい、往復14キロ、7時間のトレッキングは夕暮れ前に終った。そこから1時間もかからずススキノの雑踏の中に帰ってきた。札幌は山が近いのがいい。
夜は、ススキノでみんな集まり楽しく打ち上げ。札幌の最大の楽しみはコレ!

      
 

9月15日 狸も食わぬ水仙球根
足柄山の今村さん夫妻と部下の中西さん家族が今年も、蓼科に来られた。
今村さんとはアメリカ西部の旅の同好者、今年の夏、西部開拓の道基点のミズリー州インデペンデンスとセントルイスに行ってこられたという。私にとってもなつかしい地である。中西さんはファシリティマネジメントの関係で知り合い、「御社に作家・庄野潤三さんの娘さんの旦那さんがいませんか?」と聞いたところ、「私の上司だ」ということから、素敵なつながりができた。きっかけを作ってくれた恩人でもある。今村さんの奥さん・夏子さんは園芸家。わが山荘の庭園指南でもある。今年もきれいに咲いたアナベルは、3年前に株を持ってこられ、10本植えた生き残りである。残ったアナベルは年を追うごとに大輪の白い花を咲かせてくれる。初夏から秋まで咲き続けてくれるので、なかなか手入れが思うに任せないこの山荘にはぴったりの花となった。今年は水仙とチューリップの球根をたくさん持ってきてくれた。ベランダから見通せる三ヶ所に植えてもらった。植えた場所がわかるように杭を立てた。ところが翌朝、その一ヶ所が掘り起こされ、球根が転がっているではないか。狸の仕業にちがいない。しかし食べてはいない。水仙の球根は有毒らしく、さすがの狸も掘ってはみたものの、危険を察知して食べはしなかったようだ。来年の春、どんな花が咲くか楽しみだ。
(左・庭に咲くアナベル、右・埋め戻された水仙の場所)

     
 

9月6日 諏訪湖・新作花火大会
諏訪湖の花火大会は8月15日が有名だが、9月に開かれる新作花火大会も人気がある。全国から集まった花火師の腕を競う場である。30人の花火師が、それぞれ趣向をこらした花火を一定のルールのもと、次から次へと湖上に打ち上げる。大輪のひまわりのようなものあり、細かいコスモスのような花火が空一面に舞い散るものあり、5組ごとの合間には、湖上いっぱいに広がるスターマインと飽きさせない。最後に上がったスターマインは特大、2ヶ所から扇形に広がって大きくなっていく輪は壮観だった。
天気予報は雨だったが、打ち上げ終了まで何とかもってくれた。帰りの諏訪駅のところでどしゃぶりの雷雨となった。かろうじて駅の庇の下で満員電車を待っていたので、それ ほど濡れはしなかった。隣の茅野駅から駐車場への道の土砂降りを覚悟していたが、駅に着いたら降った形跡はなく、道路もカラッとしていた。車を走らせてほどなく、猛烈な雨の中に突入した。しかしそこを抜けると、まったく降っていない。山荘周辺も乾いていた。諏訪湖の土砂降りは、ある狭い地域を帯状につながっていたようだ。不思議なことだ。

     
 

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8 月

8月31日 夢を追うことの大切さ
この8月はお盆のころ、10日間ばかり、山荘を家族で使った。これまでは友人の家族のみなさんに使ってもらっていたが、娘の夏休みがここに重なっているので、今年はわが家で使うことにした。しかし、娘たちは二三日いただけで、暑い東京へ帰っていった。彼女たちにとって涼しい自然の中よりも、暑くても都会がいいようだ。妻と二人で過ごす日が多かった。
安楽椅子に横になりながら、人生を振り返ってみたりした。
「高原」という言葉の響きに憧れを抱いたのは、いつ頃だっただろうか。もしかすると、小学校の頃、ラジオから流れてきた林伊佐緒の「高原の宿」という歌だったかもしれない。高校生の頃、読んだ堀辰雄の「風立ちぬ」は衝撃的だった。軽井沢の山荘、異国的な匂いのする高原での出会いそして富士見のサナトリウムでの純粋な愛を育む恋と死。感受性豊かな少年には忘れがたい物語だった。「いつかは高原で生活してみたい」。
大学に入り、「ホリタツのような甘っちょろい小説を好きだなんて」とバカにされた。学生時代は商学部に属していながら、山とスキーに明け暮れ、スキー”山学部”のようだった。山もスキーも学生までと割り切って就職した。それが社会人というもので、高原や山やスキーにうつつを抜かす時代は終った。サラリーマンとして新たな道を歩むのがこれからの努めだと思っていた。
確かに10年くらいは、あれほど打ち込んでいた山やスキーも忘れて仕事に没頭した。しかし、結婚したころから「サラリーマンとしての人生」に疑問を感じてきた。定年までがんばって出世しても、そのあとどうするのだろうかと。そんなとき、学生時代の山の友人から、「乗鞍でプチホテルをやらないか」の話が来た。現地を見たら、標高1500mの高原。クーラーいらずの爽やかな場所だった。ここなら「高原での生活」ができる、子供も高原の学校に通わせられると妻も賛成してくれた。青春の夢がふくらんだ。
(純粋多感な青春時代の私・左、前期高齢者になった私・右)

     
 

      45歳で子供、真剣に人生を考えた
しかし、この夢は地元の抵抗という思わぬことで挫折した。会社も辞める覚悟だっただけにショックは大きかった。その後、「夢は実現したい」の気持ちはあるものの、模索しつつ惰性に流されていくような年月が過ぎていった。会社での仕事は相変わらず忙しく、海外出張も頻繁になり、面白さもやりがいも感じたが、「人生の目標はちがう」ことを自覚してからは、長女が生まれたこともあり、生活の重心が、会社から家庭に変ってきた。忙しくても、休みはしっかりとる。会社で働く者の権利であり、義務でもあると割り切った。山に高原にスキーに家族でたっぷり休暇をとって出かけた。海外もアメリカを中心によく行った。ワーク/ライフ・バランスを私は30年前から実践していたことになる。
45歳になって、二人目の娘が生まれ、あわてた。60歳で定年になったときから、いちばん金がかかる。ますます会社には頼らない人生計画が必要になった。二人の子供を抱えての、乗鞍のようなチャレンジは難しいと冷静に判断し、「夢の実現」は60歳からと軌道修正した。そのためには、子供の学資も含めての蓄財が肝心と、社内持ち株を中心に投資も始めた。ある程度のリスクをとらないと夢実現はむずかしいと考えた。給料だけでは、子供と家のローンだけで一生が終ってしまう。幸い、バブルの高騰もあり、その後の下落もあったが、分散投資をしていたこともあり、着実に資産は増えた。その間、ヨーロッパ、ニュージランドなどに旅の範囲を広げ、これからの人生に役立ちそうな情報もいっぱい仕入れた。蓼科の山荘の形は、そのときの経験が基礎になっている。(スキーに熱中していた時代の私・左、今でもシャモニーまでスキーに行く私・右)

   
 

     ワーク/ライフ・バランスには”割り切り”が大切
この当時のワーク/ライフ・バランスの実践は思いがけない効果をもたらしてくれた。私は年の初めに、夏休みの休暇期間を決め、部下に宣言した。みんなも2週間、夏休みをとること、できるだけダブらないようにすること、休んでいるときの仕事は誰がカバーするか決めておくこと。自分だけとるのではなく、組織全体でやろう。他の部署に気兼ねしない。
私が休暇のとき、役員会の承認が必要な案件が発生した。本来なら、部長の私がやるべきなのだが、パワーポイントで提案資料を作り渡して、課長に任せた。休暇後、「どうだった?」「承認もらいました。ただ内容は変えました」。彼の提案した内容を見て驚いた。私のシナリオより、よほど説得力あるのだ。これで来年も大丈夫と安堵した。部下は上司がいないときほど育つ。またチームワークもよくなった。仲間が休んでいるときの仕事をお互いがカバーする間に、人の仕事の内容も理解でき、コミュニケーションも否が応でもやらざるを得ない。その繰り返しが連帯感を育んでいくのだ。長期休暇で家族との絆も強まり、毎年、どう過ごすかの計画も立てやすく、働く目標と楽しみができた。その代わり、普段の日は、残業、休日出勤の連続だった。しかし、毎年、安心してきちんとまとめて休みがとれる仕組みができると、働く人のモチベーションは上がる。働き方にけじめをつけることが重要なのだ。「毎日残業、休暇もとれない」では、モチベーションが下がる。「残業少なく、休暇たっぷり」が理想だが、どっちかひとつでも実現するなら、みんなのやる気は増すのではないか。ワーク/ライフ・バランスは、組織でも個人でも「割り切り方」が大切と思う。(ヴァルディゼールのスキー宿・左、チロルハイキング・右)

   
 

     「蓼科の山荘から奥志賀のペンションへ発展”」
50歳を過ぎた頃から、高原の生活をどう具体化するかを検討した。乗鞍でやろうとしていたホテルが理想的ではあるが、体力的に難しくなっている。いくつか志賀高原や蓼科の銀行寮などの中古物件も見たが、維持費がかかりすぎたり、雰囲気が山荘とはほど遠く、結局、自分で建てることにし、蓼科の土地を手当てした。チロルやカナダのログハウスが良いと探していたら、学生時代のスキー仲間が、商売の得意先のログハウス工務店を紹介してくれた。そして紆余曲折はあったものの、60歳で、青春時代からの、待望の「高原生活」が実現した。会社も58歳のとき、希望退職で早めに辞めることができ、山荘の準備にも時間をかけることができた。幸い、サラリーマン後半で携わった施設関連の仕事が、会社を辞めて高原生活までのつなぎとして、役に立った。この仕事を通じて知り合った人たちが、今の私の山荘やスキーの仲間になっている。東京と蓼科の行ったり来たりの生活が続いているが、好きなことばかりをやっているので苦にならない。
山荘をオープンしてすぐに、奥志賀でペンションを引き継がないかという話が来た。私はもう無理だが、誰かやらないかとスキー仲間に声をかけているうちに、三輪さんという仕事仲間でもあった若者が名乗りを上げた。「生まれてくる子供を自然の中で育てたい」。私が30年前に乗鞍で思ったと同じことを言う。二人で中古のペンションを買い、組合を作って仲間を集めスタートしたのが、ベルサルームズだ。三輪さん家族、今では奥さんの両親も一緒に、奥志賀の高原のペンションを経営している。私の青春の夢は、形は変ったものの、蓼科、奥志賀で実現した。 

     (蓼科山荘地鎮祭・左、ベルサルームズ開業・右)
      
     
 
     夢は”計画”に変え、実現するもの
「夢を忘れず持ち続ける」ことは簡単ではない。人生には紆余曲折がつきもの、挫折も断念もあるかもしれない。幸い、私は節目節目で、昔からの友人や最近の知人から貴重なアドバイスや紹介があった。これも「夢を持ち続けた」ことがキッカケになっている。人生計画もしっかりしたものになり、それに沿った行動が生きることの張り合いにつながってきた。
学生時代に同じ山のクラブで一緒に山に登ったり、スキーをやった仲間も還暦を過ぎ、サラリーマン現役を退いた。ほとんどの人が、山もスキーも忘れている。企業戦士としての人生は充実していたかもしれないが、その後の人生がゴルフだけというのは何か寂しくないか?人それぞれの考えがある。「会社に勤めたら、それをまっとうに勤め上げ、出世し、企業に貢献し、会社後の人生は終ってから考える」も正しい選択ではあろう。私はそうではなかった。会社は、生活の糧を得る重要な礎、その繁栄に自分なりの精一杯の努力で貢献するのは当然、しかし、それと自分の人生は別だ。会社は三分の一の時間を過ごす場所、三分の二は自分の時間なのだ。それなら比重の高い自分の生活を中心に長い人生を考えるべきではないか。そのためには、「生きるということは、どういうことか、何が自分のやりたいことなのか」を真剣に考えて目標を持つべきではないか。私の場合は、「青春を心の中でなく、形にしても続けたかった」ことである。目標をもつと、何事も真剣に考えるようになり、資産作りでも高原ライフでも、会社の仕事でも、良いサイクルで回るようになった。惰性的に生きるはいちばんダメだ。
「甘い」と言われて封印していた、堀辰雄の「風立ちぬ」を50歳を過ぎて読んだことがある。若い頃、胸にキューンときたあの感動が歳をとっても同じように蘇ってきた。 ここまで人生を振り返り、安楽椅子から見上げた初秋の空には、砂のような雲がサラサラと流れていった。
”風立ちぬ、いざ生きめやも”
     (蓼科山荘の初雪・左、ベルサルームズから高原に流れる雲・右)

      
 

8月27日 思い出の乗鞍高原
乗鞍高原は、私の最初の夢がつまづいた所だ。35歳のとき、スキー場ゲレンデ隣接の土地が買えるとの情報が地元の農協から舞い込んだ。700坪の土地をうまく生かせば、ペンションとレストランが経営でき、リフトにも近く有望と考え、購入した。近隣との折衝はつながりもあり農協にやってもらうことにした。しかしうまくいかなかった。途中から、私も出て行って頭を下げまわったが、よそ者を警戒する地元の人たちは表面では「ようこそ」と言うものの、裏ではあの手この手の妨害で、結局はギブアップ、農協は買い戻してくれた。その土地は、30年後の今、リフト乗り場になっている。なんとも寂しい限りだ。
10月のトレッキング下見で歩いたついでに、私たちの土地だった周辺も隈なく歩いた。宿泊施設も増えてはいるものの、廃墟になっている建物も数多い。スキー人口が減り、乗鞍はもともと山深い場所だっただけに、客の引くのも早かったようだ。夏の高原のすばらしさは志賀高原以上と思うが、隣に上高地というスーパースターがいては、かなわない。外からの資本を拒絶し、地元だけで固まってしまったリゾートは中途半端な施設ばかりで、センスもなく、お客に訴えるものがない。美しい自然が生かされていないのだ。妨害した旅館も古ぼけて火の気が消えている。あのときの近隣の抵抗で撤退したことは正解だったようだ。(リフトの場所が私の土地だった・左、美しい一の瀬園地・右)

   
 

8月16日 初秋の八子ヶ峰
八子ヶ峰に東急の別荘地から登ったのは、今年初めてではなかろうか。
5月は山菜パーティご一行のみなさんとすずらん峠からは登った。いつもの年なら、夏までには数回登っているのに、今年はその機会がなかった。
下界では猛暑日が続いているというのに、八子ヶ峰はもう秋の気配だ。
マツムシソウが満開、白樺湖を望む西峰は群落となっている。紫色の花は大きく、ウチの庭に買ってきて植えたものより倍以上の大きさだ。このくらいないと、高山では持たないのか?それとも栽培マツムシソウはひ弱なのか。ススキの穂も出始め、蓼科山をバックにススキが揺れている。吹く風も、クールで心地よい。高原に秋の訪れの風だ。

   
 
8月15日 大きなサナギと蝶
ベランダのサンダルにきれいな浅緑色の大きなサナギが這っていた。
長さ5cmもあり、大きくて少し気持ち悪いが、とても美しい色なので見とれてしまった。どんな蝶に変身するのか? 
翌日、八子ヶ峰に登ったら、たくさんの蝶々が群舞していた。もしかしたら、この仲間に入っていくのではないだろうか?夏の日の、興味深い推測だ。話はちがうが、昨年の晩秋に、枕元に違和感があるので、電気を点けたら、小さなヒメネズミがうずくまっていて動かない。飼うわけにもいかないので、鍋に入れて、隣の芝生に放してきたことがある。高原の生き物という写真集を見たら、それはヒメネズミではなく、ヤマネだった。貴重な保護動物だということもわかった。惜しいことをした。と言っても飼育することはできなかっただろうが…

   
 

8月13日 親の心、子知らず
8月10日は長女の誕生日、蓼科のホテルハイジでの夕食が恒例になっている。次女がテニス合宿を終えて来れるのが12日なので、今年は13日にみんなが山荘に集まり、出かけて行った。ここのスモークサーモンが娘のお気に入り、確かに肉厚でおいしい。一堂集まっての食事も最近は珍しくなった。娘たちはそれぞれの趣味や仕事で毎日遅く、父親は蓼科入りびたり。子供の頃、あれほど楽しみにしていた海外旅行も、「来年は一緒に夏、行かないか」と言っても、「私はバリ島に行きたい」だの「合宿で忙しい」だのと、「私たちは好きにしたい」とニベもない。「蓼科は虫が多い」と、二人ともパーティが終るとソソクサと東京へ帰って行った。親とはちがった生き方を始めている。穂梓と「河童橋からの風景」のような名前をつけたのに、山より海が良いとのたまう。親の心、子知らずである。

   
 

8月6日 長岡花火大会
8月2日、3日は長岡の花火大会だ。三尺玉の大輪の花火で有名だ。行ってみたいと思っていた。幸い、二日とも見物座席券が手に入った。しかし泊りは、長岡市内はすべて満杯、隣の燕三条もダメだ。越後湯沢のホテルがOKだったので、そこから往復することにした。蓼科から上田、飯山、津南を通って、塩沢へ抜け、湯沢温泉まで4時間のドライブだった。
二日間で80万人以上の観衆があるだけに、河原は大混雑だ。一晩で2万発以上、打ちあがるので壮観だ。中でも中越地震の復興記念に始まったフェニックスは平原綾香のジュピターのメロディに乗って、6ヶ所から同時にスターマインが打ち上がり、夜空一面が花火で覆われる。迫力満点、息を呑む壮観だ。これを見終わると、ほぼ終了。どっと大観衆が帰り出す。長岡駅までの通りは人の波で渋滞。やっと、湯沢への新幹線に間に合った。われわれより、10分遅れで駅に到着した人は、入り口からホームに上がるまで20分もかかったという。一瞬の差で、大渋滞に巻き込まれないですんだ。

   
 

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7 月

7月26日 久しぶりの山荘へ
ほぼ1ヶ月ぶりで山荘に来た。草ぼうぼうになっているのでは?と心配していたが、6月末に草刈機でひととおり藪を漉いて行ったせいか、それほどではなかった。しかし、やり残した所を中心にはびこっていたので、早速、草刈機がまた出動した。バッサバッさと刈り込んだ。花が咲いている草は避けようとするのだが、時々、刈り込んでしまう。
2年前、今村さんが植えていってくれたアナベルが数本、きれいな花を咲かせ始めた。これから秋まで、長く楽しませてくれる。10本ほど植えたが、水が流れる所に植えたのはほとんどが枯れてしまった。湿地のせいかと思っていたが、妻が言うには、種を蒔いて生え広がった芝生に養分をとられたせいではないかという。そうかもしれない。芝生も大きくなると邪魔なだけだ。

   
 

7月5−16日 「夢のようなチロル
極楽スキーの集まりが始まって10年になる。その間、スキーだけだったのが、夏は霧ケ峰や木曽駒ヶ岳にトレッキングもするようになった。
そこで10周年記念と銘打ち、ヨーロッパアルプスの麓、チロルの山を歩こう、氷河スキーもやろうということになった。アルプスハイキングというと、スイスが定番だが、何せ人が多い、日本人だらけ、物価も高いということでチロルにした。
参加する人は、登山経験の少ない人なので、リフトで上がって登りを減らし、下りがほとんどのアルムの中を歩くチロルがふさわしい。
ドイツに近いツークスピッツ、インスブルックに近いシュトバイタール、オーストリアでいちばん美しい村といわれるアルプバッハの3ヶ所を回ることにした。
2週間続けて休めるのは私だけなので、来る人は好きな所を選んで、そこまで来てもらうことにした。現地集合解散である。空港から宿泊地までの足は、シャトルタクシーを予約し、私はレンタカーを借り、それぞれの場所での移動や迎えに走り回ることにした。結果的には前半3人、後半4人となり、シュトバイタールでの2日間は全員そろい、そこにこの旅のハイライトをセットした。参加したメンバーは、私を除いて全員女性。  

   
 

     レルモース、ロイッテ
ミュンヘンから100Km、ドイツにもっとも近いチロルだ。
軽井沢のような賑わいのガルミッシュパルテンキルヘンの町を右に曲がればツークスピッツの岩山が眼前にそびえ立つ。
ツークスピッツはドイツでいちばん高い山2964m、八ヶ岳連峰の赤岳とほぼ同じ高さだ。頂上でオーストリアと分岐していて、いずれからも、登山電車、ゴンドラで頂上へ行ける。トレッキング不要の山登りだ。
泊りはレルモースという小さな村、ツークスピッツより格好のよいマッターホルンに似た岩峰が見える景色のよい所だ。ホテル・エーデルワイスに夜8時過ぎに着いた。2時間のドライブ。外はまだ明るく、日本の夕方5時くらいの感じだ。同行二人の女性とまずはミュンヘン空港のスーパーで買ってきた寿司で乾杯。いろいろな寿司パックが、ヨーロッパのスーパーでも売ってる時代になったのだ。

   
 

     カニの横歩き
ツークスピッツの頂上か歩いて下ろうとも考えていたが、ロープウェイから見ると、岩だらけで急峻な道が続き、数十メートルの岩登りで頂上に立ち、麓までの下りはとても危険と判断し、またロープウェイで下ってきた。明日は天気が崩れそうとの予報から、午後にレルモースのスキー場のリフトを乗り継いでグルビッグスタイン2200mまで上がり、お花畑のスキー場を下ってきた。リフトに乗ろうとしたら、急に雨になり、しばらくレストランで長めの昼食となった。ここのお花畑は、種類が多く、桔梗やリンドウのような紫系、キンバイのような黄色系、イワカガミのようなピンク系、赤いアルペンローゼと色とりどりで美しい。
下りの途中で本来の道を見失い、リフト沿いの急な草付き道を下りたところ、雨上がりで滑りやすく、カニの横歩きのような格好で踏ん張って下りたため、同行の二人は筋肉痛を起こし、2日ばかりは、歩くのもままならなくなり、ブーブー言われた。 そのあと二日間は雨模様で幸いだった。私にとって、どうってことない道も、慣れていない人には恐怖を与えたようだった。反省。
 
     
 
     再びの列車騒動、若き日の猪谷さん
翌日はロイッテに住んでいるライター久仁子さんを訪ねる日だった。夕方、レルモースの駅から列車で行くことにしていた。しかし待てどくらせど、来ない。無人駅の時刻表の場所に「Information」が掲示されていて、私たちが乗る列車時刻も出ている。ドイツ語なので、何が書いてあるのかわからない。久仁子さんに電話をして、スペルを言ったら、運行中止のお知らせだという。ご主人の車で往復してもらう羽目になった。昨年、伺ったときはインスブルックへ帰る最終列車に乗り損ね、タクシーで帰ったこともあった。鉄道には2年続けてついていない。
今回、貴重な写真を見せてもらった。1956年のコルティナダンペッツォでの日本人初の冬季オリンピックメダリストに輝いた猪谷千春さんの自筆サイン入りの立派な写真。翌1957年、スキーパンツの仕立てに猪谷さんがこの町に訪れた。
ライターさんのお父様が写真館をやっていてそこで撮ったものだという。ロイッテにはスキーパンツ作りの有名な仕立て屋がいたそうだ。「日本に持っていって」と言われたが、志賀高原にある猪谷記念館に話してみて「欲しい」というようだったら、頂きたいと話した。このときのオリンピックのアルペン三冠王はトニーザイラー。猪谷さんの記録を破る日本選手は、未だ現れていない。すばらしい発見の余韻を残しながら、翌日、シュトバイタールのノイシュティフトに車を走らせた。

   
 

     エルファーヒュッテからカールアルムへ、美しい道
シュトバイタールはインスブルックに近い谷間。三度目だ。
ミュンヘンから、インスブルックから三人の女性が加わり、一気ににぎやかになる。私は肩身が狭くなる。ハイライトのトレッキングの日、天気晴れ渡り、初夏の風さわやかな絶好の日和になった。みんなウキウキしながら、ホテルを出た。
エルファーリフトで上がり、ヒュッテまでの登りをゆっくりゆっくり。先日の”カニの横ばい”クレームで懲りているので、慎重になる。
「今日はやさしいジャン」の陰口も聞こえるが、「私は本来やさしいのツ!」
天気に誘われておおぜいの人が歩いている。エルファーマウンテンをトラバースしながら、シュトバイタールと山を隔てたピンニスタールへ向かった。
目的地はカールアルム。ここでのビールと食事が待ちどおしい。緑に覆われた尾根を横切って一本の小道がはるかな岩峰へ続いている。晴れ渡った空、爽やかな風、天国へ続くような道だ。アルペンローゼが真っ赤な群落を作り、山肌を覆っている。ビューポイントにはベンチがあり、そこに座って撮る写真はすべて絵になる。いつまでも居たい気分だ。途中で日本人のグループに会った。私たちと同じように、自分で企画してレンタカーでアルプスを回るのだという。年齢層は高く、私たちの「若い女性に囲まれた男ひとり」に羨望の眼差しだったと誰かが言った。「若いといっても、20台も30台もいないもんネ」

   
 

     アルペンローゼ満開!
アルペンローゼは、石楠花とツツジを一緒にしたような葉と花だ。群落を抜けて、カールアルムへの急な下りがしばらく続き、冷たい水がほとばしる沢が出てくると、もう近い。前を歩いていた外人のオバちゃんが、小屋に着いたとき、私を振り返りバンザイと両手を上げた。私もバンザイで応じた。長い下り道が終ったのがよほどうれしかったらしい。アルムの一角のテーブルが幸い空いていた。
ビール、ラドラー、ソーセージ、思い思いのメニューで待望のお昼。山小屋の食事といっても、缶ビールにカレーなんて単純ではない。立派なグラスでの生ビール、ちゃんとした料理。アルプスのトレッキングはこれがあるから楽しい。
ここからは長い林道がノイシュティフトまで続く。途中のアルムでまたビール。ビールをレモネードで割ったラドラーは、汗をかいたあとに飲むとおいしい。約7時間の健脚向きコースをみんな疲れ果ててホテルにたどりついた。でも満足感あふれた一日だった。終るまで、ガイドブックの「健脚向き」は伏せておいた。

      
 

     氷河スキーと岩登り
この旅のもうひとつの目的はスキーをやること。極楽はスキークラブだ。10周年記念のチロルなら氷河スキーは欠かせない。シュトバイタールの谷間のどんづまりに氷河スキー場がある。ゴンドラを乗り継いで標高3000m近くに一年中滑れるスキー場がある。スキー組と散策組に分かれた。スキー場は氷河の上、長いTバーリフトが一本動いていた。雪は重く、水がほとばしる小川が流れているほどだ。場所によっては、水上スキーではないかと思うほど、水しぶきがあがる。さすがに2時間も滑ったら「もういい」気持ちになった。8年前,今日より、2週間前にここに来たことがある。そのときと比べて、ゲレンデの広さは半分以下、氷河の端も上にずれている感じがする。温暖化の危機をひしひしと感じた。日本やアメリカなどは、周期的に冬が寒く大雪に見舞われているが、ヨーロッパは年々、雪が少なくなっているという。アルプス周辺のスキー場も、ここ数年で200ヶ所くらい閉鎖になったという。お客は増加傾向だというのに。残ったスキー場にこれまでのお客に加え、東欧からの客が増え、夕方のゲレンデは麓に帰る人でごったがえす。昔の上越のスキーの光景が、アルプスには残っている。
昼飯を散策組と一緒にとり、思いつきで目の前にある岩山に登ることになった。たった20分くらいの、鎖場やはしごのある岩場登りだったが、みんな「こわいこわい」の阿鼻叫喚。それでも頂上にやっと立った達成感は相当のものだったらしく、興奮していた。標高3200mの頂上だった。「みんな穂高より高い所に登ったんだよ」と讃える。こうやって、山の深みにはまっていくのだ。

   
 

     アルプバッハ
前半組の2人は、ノイシュティフトからシャトルタクシーでミュンヘン空港に向かい帰国した。4人はインスブルック見物のあと、「ヨーロッパでいちばん美しい花の村」アルプバッハに向かった。
インスブルックからザルツブルク方向のアウトバーンに乗り、1時間半で着いた。ここもシュトバイタールと同じような谷間だが、けわしい山がないので、のどかなアルム(牧草地)が村の周りを囲んでいる。ゆったりした雰囲気。
泊る宿はBookingComというインターネットの宿斡旋のサイトから予約した。村の中心地から一段高くなったアルム沿いにあった。小高い丘からは、村の教会が下に見え、遠くの山並みが伸びやかなアルムの向こうに望めるいい所。ただ買い物やレストランには不便。私のシングルルームは3階なので、ベランダからの眺めがいい。女性3人の部屋は、1階の食堂横なので、ベランダなく、眺めも駐車場で遮られている。休むことしばし、トントンとドアをノックするので、開けたら、不満そうな3人の顔があった。「みんなで相談したんだけど、部屋は狭いし、眺めはないし、食堂の横でうるさそう。代えてほしい」。予約した内容をチェックすると、「Separate sleeping area & nice view room」と書いてある。そこでマダム カテリーナと交渉することにした。「ベッドはセパレートされているじゃないか」と反論したが、さすがにNice viewには触れない。「Nice view roomが、明日、空いたら移る」ということで結着した。「空かない場合は宿代えをする」覚悟をした。カテリーナは議論の中で、しきりに女性陣を「ガールズ」と言った。もめているのに、「私たちのことガールだって」とうれしそう。「オレのことはボーイと言ってくれなかったな・・・」。

   
 

     どうしてこんなにゆとりがあるの?氷河スキーと岩登り
翌朝、Nice view roomが空いたので移った。私の隣の部屋、こんどはベッドルームが分かれているキッチン付きの広い部屋。3人はえらく満足、「カテリーナはとっても良いマダム」に評価が一変していた。
天気は朝から雨模様、マダムから勧められたインナーアルプへのトレールを歩くことにした。昨夜のレストランの前を通り、アルムにポツンポツンとある農家のたたずまいを観察しながら、傘をさして歩いた。
一軒一軒の家は、きれいに花で飾られていて美しい。雨で濡れた庭も風情があって好ましい。森を抜けて、インナーアルプの小さな村に着いた。教会のそばのカフェでホットワインを飲む。冷えた体が温かくなってきた。雨だが、幸せなひとときになった。 
アルプバッハは「オーストリアでいちばん美しい村」というプライドもあるのか、どの家もきれいだし、村全体のたたずまいも落ち着いている。豊かな村の印象がある。バスでアルプバッハの中心部に出た。観光客が多いのに、お土産屋は二、三軒しかない。それも昼過ぎでみんな閉まっている。観光案内所も、スーパーも、銀行もお休み中。開いているのはレストランだけ。よくこれで生活が成り立つものだと思う。
しかしオーストリアの労働生産性はOECD諸国の中で7位、日本は19位。そして有給休暇は最低5週間が義務付けられ、毎日、商店や銀行は昼休みがあり、スーパーも夕方6時半で閉店、日曜は休みと、あまりのちがいに驚かされる。日本の働き方は、何かおかしくないか?
この夜は、せっかくのキッチン付を活用し、昼のレストランで頼んだハム、ソーセージのケータリングとチキンラーメンでのパーティになった。

   
 

     ラッテンブルグ
美しい村に来たと言うのに、雨が続き、翌日はラッテンブルグという小さな中世の街に出かけた。
古い建物が保存され、ガラス細工が有名とかで、いっぱい店がある。土産にしたい花瓶もあるが、割れそうでこわい。アルプバッハの同じ宿に泊っているマルタから来た、二組の夫婦も来ていて、いく先々で鉢合わせ。
愉快な旦那が「オレは日本人のカーナビみたいだね」と笑わせる。
われわれ4人はファミリーと思われたらしく、「あんたはマザーか?」と言われた”ガール”は憮然としていた。私は当然ファーザーになっている。廃墟になったお城跡に登って、中世の宿場だった町全体を眺めた。さしづめ中仙道・奈良井宿か。雨の日の思わぬ拾い物の”小さな旅”だった。

   
 

     ”ガール去りてチロル晴れ”
3人の”ガールズ”は、私より一日早く旅立っていった。
皮肉なことに、ガールズが去ったあと、アルプバッハは快晴になった。
歩く予定だったワイダースベルグホーンのスキー場にひとりで行った。
山頂付近まで牛が放牧されていて、小さなキンポウゲの黄色の群落がゲレンデ全体を覆っている。遠くにアルプバッハの村が夕日に輝いている。お花畑のゲレンデを、トレッキングフィナーレに過ぎしのチロルの谷間を思い出しながら、ゆっくりと下ってきた。帰り着いたアルプバッハは、家々のベランダにあふれる花とアルムの緑が暮れなづむチロルの夕映えの中に、ことの他、美しかった。
Good by Tirol ! Will be back again !

   
 

7月1日 緑響く」御射鹿池
東山魁夷の名画「緑響く」が描かれた場所が山荘の近くにある。
奥蓼科の明治温泉の前だ。最近はシャープの宣伝で、吉永小百合が白馬と一緒に池のほとりに佇む光景でも有名だ。灌漑池として作られた御射鹿池は、森の中にひっそり、小さな池だ。でも、写真撮影の人で、道路わきは車が並んでいる。池の近くに温泉施設の計画があるとかで、景観を壊すと反対運動が起こっていて、池の静けさとは裏腹に、周りは騒々しくなっている。そっとしておいてほしいと思う。

   
 

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6 月

6月28日 初夏の庭
落葉松の新緑が芽吹き始めるのが5月中頃、それから庭が緑に覆われるのはあっという間だ。6月末ともなると、潅木も草も花もごちゃごちゃに伸び放題になる。植えた花など、雑草の中に埋もれてしま う。庭つくりに、最初の2年間は結構がんばった。しかし夏になると、植えた花木と自然に芽生えた草花の区別がつかなくなりあきらめた。今年、何に目覚めたのかわからないが、マツムシソウやキンバイを買ってきて植えた。その他にも松葉ボタンのような花や桔梗に似た花も植えた。高山植物に近いキンバイが大きく伸び、黄色い花をまだ残している。マツウシソウは花は終ったが、何とか踏ん張っているようだ。松葉ボタンはほとんど土に同化してしまった。
エーデルワイスを先月買って植えた。これはみごとなくらいに白い花を咲かせている。高山に咲く花は何とかいけるような気がする。やはり1500mの標高に耐えられる花は、それなりの出自が必要なのだろうか。
自然に生えてきた花で印象的なのはアヤメだ。ベランダの真下にも花を咲かせている。この季節、緑の中の紫の花は美しい。

   

6月26日 鹿教湯温泉 三水館
冬のシーズンが終わり、奥志賀ベルサルームズの三輪さん家族と一緒に、旅館の経営視察に出かけた。鹿教湯温泉の三水館。宿ツウの人には有名な旅館らしい。7室のみの、こじんまりした宿だが、ほとんどの日が満室で名高い。駐車場から玄関までの庭でピンときた。湯布院の玉の湯の庭に似ている。庭らしくない、雑草ばかりだが、フキやホタルブクロが適当な所に生えていて、雑然さの中に調和がある。昨年、玉の湯の庭を見て、山荘の庭もこんな風にすれば、自然のままを維持できて且優雅になるのでは、といたく印象に残っているのだ。それに近い庭の雰囲気だ。建物もシック、家具調度品も統一された落ち着きがあり、浴室も質素だがゆったりできる。部屋もしかり。楽しみの食事は、地の物を中心とした、素朴だがセンスある味付けでおいしい。今は山菜が旬なので、煮たり焼いたり、飽きさせない。竹の子を玉子トジで溶いた鍋は、シンプルだが、何杯もおかわりできるおいしさだ。三輪さんもいくつかこれからのメニューのヒントを得たようだ。宿泊料も平日、土日も同じで、1万6千円程度でリーズナブル。千客万来もうなづける。いい宿に巡り会えた。

   
 

6月16日 巣箱に鳥が…
郵便ポストに毎年、鳥の巣が作られるので、5月にあわてて木の幹に巣箱を取り付けた。ひと月経っても巣が作られた様子がないので、今年はもうシーズンが終ったとあきらめていた。
今朝、小鳥がひんぱんに巣箱に入っていく姿が見えた。入るのも出るのもすばやいので、なかなか写真が撮れない。心配なのは、ボンドで貼り付けた底板が剥がれて、巣箱と底板に隙間ができていることだ。巣作り、子育ての途中で底が割れ、落ちてしまわないか。せっかくの巣作りが台無しになってしまう。心配の種がまたひとつ増えた。

   
 

6月14日 野麦峠変じて鳥居峠越え
3月にFMの仲間で呑んだ。山下さんが学生時代に北大路欣也の事務所でアルバイトしていたとき、「野麦峠」の映画で吉永小百合に出演依頼をしたことがあるとの話が出た。それで「野麦峠に行こう」ということになった。金曜日の夜、山下さん、小林さん、米沢さんが山荘に集合。野麦峠の近くに奈良井宿があり、中仙道の鳥居峠も味があると話したら、そっちが面白そうと、急遽、野麦峠が鳥居峠に変わった。「あんなに吉永小百合で盛り上がった野麦峠なのに」と思ったが、どちらも良いことには変わりない。
車で奈良井の駅まで行き、中央西線の電車で隣の薮原まで行った。薮原も中仙道の宿場だが、古い建物はほとんど残っておらず、面影は薄い。ふつうの田舎の家並みの間のアスファルトの中仙道を歩き、鳥居峠へ徐々に登っていく。梅雨の中休みの青空と太陽が新緑を包み、カラッとして登り道でもあまり汗ばまない。石畳が終ると細い九十九折の山道になり、馬頭観音が昔の街道だったことを偲ばせる。遠く御嶽山を望む遥拝所を過ぎると鳥居峠は近い。奈良井宿へは急な下りになり、石畳が終ると、宿場に入る。まさに江戸の時代と同じように入り口には水場があり、山越えの疲れを癒してくれる。 みんな昔の旅人になって2時間半の中仙道歩きを楽しんだ。

      
 

6月8日 ストラスバリウスも3万円のバイオリンも変わらない
奥志賀の森の音楽堂で高嶋ちさ子さんのバイオリンコンサートが開かれた。
ハイキングのあと、そのまま帰るのももったいないので、聞いていくことにした。日曜日の夕暮れとき、200名以上の聴衆が高原に集まってきた。ほとんどは長野から車やバスで上がってきた人らしい。 彼女は軽妙な話と愛嬌で、バイオリニストとしてだけでなくタレントとしても人気がある。今日も、楽しい話題で会場を沸かせる。「ものすごく高いストラスバリウスの借金を返すために、こんな山の中にまで来た」とか、「ここは日本でいちばん僻地にある音楽堂。でも音響はすばらしい」「皇太子様の前で演奏し、とてもほめてくれ、愛子様にもバイオリンを習わせたいと言っていたので、その後、電話を直立不動で待っていたのにこなかった」などなど。
ストラスバリウスと三万円の初めて習う人用のバイオリンの聞き比べを目をつぶらせてやった。大半はストラスバリウスを当てたが、2割くらいの人は三万円に手を上げた。私もそのひとりだ。目をつむって聞くと、三万円の方が響きがあって良いように思ったのだ。プロにはその違いが歴然とわかるらしいが、素人にはまったくわからない。三万円でもプロの手にかかると、数千万のストラスバリウスと差がない音色をかもし出すのだ。演奏の良し悪しは楽器ではなく、ヒトであることを知った楽しいコンサートだった。

 
   
 

6月8日 トチの実を食べるのは人間だけとか
高原セミナーの翌日、ゴルフ組は朝早く、夜間瀬の志賀高原カントリークラブに出かけていった。後で聞くと、スキー場の中にもコースが広がる、登り下りのきびしい山岳ゴルフだったようで、みんな疲れきったらしい。
雑魚川渓谷ハイキングには10数名、参加された。ガイドの佐藤さんは、奥志賀の名主のような人で小澤征爾さんとも仲良しという。滝めぐりの川沿いの道は、雪もすっかりなくなり、ツツジやイワカガミが咲いている。佐藤さんは木に詳しいらしく、ブナの大木や樫の木の説明が詳しい。「このブナは300年くらい」「耳をあてれば水の流れる音が聞こえる」。
トチの木の説明では「トチの実は猿も熊も食わず、人間だけがトチ餅の粉にして食べる」。私はトチ餅が大好き。田舎から送られてくるのがいつも楽しみにしている。たまに買うと、他の餅を押し分けてすこぶる高いのに驚く。こんな高価なトチの実を人間以外食べないと聞いて、もったいないと思った。
幸い良い天気に恵まれ、みんな新緑の渓谷ハイキングを楽しんでくれたようだ。「とても充実した週末だった」とおおぜいの人に感謝され、ほんとうによかった。

   
 

6月7日 霧の高原で「経営セミナー
念願だった高原での「経営セミナー」を奥志賀で開催した。
異色の経営者・倉重英樹さんに無理をお願いして遠出していただいた。
最初はベルサルームズの食堂でと思っていたが、人数が増えそうなので、高原ホテルに話したら、二つ返事でバンケットルームで講演&パーティを引き受けてくれた。ホテルにとっても、スキー以外の客層を開拓する好機会と考えたようだ。
夕方から始まった講演会は、窓外は霧に包まれ、幻想的な光景が広がる中で進んだ。50名近い人が参加してくれた。
話は「新しい時代の会社のカタチ」と題し、これから倉重さんがCEOになる新しい会社の人材をどう育てていきたいかがテーマだった。これからの働き方は「ライフ・ワークバランス(LWB)」であり「楽しさはすべての源泉」という話は、みなさんの共感を得たようで、質問もいっぱい出た。そのあとのパーティやラウンジでの二次会も夜遅くまで続いた。倉重さんも「楽しかった」と言われ、トップ経営者の方と、このような形で一夜を共にすることは、双方にとって有益だということもわかった。とても中身の濃い充実した会になったと自負している。


   
 
(参加者の声)
新緑セミナー、とても意義のある時間を過ごさせていただきました。有難うございました。セミナーの内容はもちろん、沢山発見することがありました。その後、炉辺でうかがった倉重さんのお話は、また、格別でした。「話を聞いたり、本や新聞を読んだりしたら、パワーポイントを3枚つくれ。そしてそれを元にプレゼンすることだ。積み重ねていけば、自分が変わり、周りが変わる。自分は41歳のころからやっている。」「メモはとらない。忘れてしまうことは、所詮、たいした事ではないのだ」「日本の歴史上の人物では、織田信長が好きだ。なぜなら、新しいものを好んだから」「意思決定する際、代替案を提案できないことには反対をしない。賛成する。」などなどです。(Nさん)

新緑セミナーに参加させていただくことができ、ありがとうございました。
とても深い内容で、大変参考になりました。
また、セミナー後も倉重さんと色々お話しすることができ、これからの生き方も含め、大いなる刺激を受けました。 (Mさん)

家族で参加させていただき、お騒がせいたしました。家内、娘それぞれ倉重さんのお話に思うところはあったと思います。倉重さんの新しい会社は、会社(経営者)も社員も顧客もすべてハッピーという理想像を真に実現する可能性のあるものだと思います。 私の会社のビジネスモデルとは異なりますが、社員のモチベーションやLWBでは共通するものも多々ありますし、なによりもまた今後色々考え、勉強させていただくことの熱意が高まったと思います。(Oさん)

今回のセミナーは、予想以上に収穫の多いイベントでした。きっと、いろいろな意味で思い出深い奥志賀での一日となることでしょう(*^_^*)(Aさん)
 

6月1日 リベンジ札幌集合
日本HPに勤めていた頃、不動産部門のアジアミーティングを札幌で冬、企画したことがあった。苦労した甲斐あって、ホテルもビジネスパックで安くしてもらい、会議のあとは定山渓で打ち上げもやることにした。シンガポールやインドからの乗継便も手配して準備万端整ったところに、業績悪化のためオフサイトミーティング禁止のお触れが本社から出た。みんなガックリきた。特にアジアの仲間は雪が楽しみと言っていた。あれから8年、そのリベンジとも言える機会がやってきた。私の後任になったGoちゃんも定年を迎えた。その定年をアジアの仲間で祝おうと札幌に集まることにした。私の知らない新しいメンバーも増えたが、何人かは悔しい思いを知っている昔の仲間も来た。「やっと札幌で会えたね」と、ビール園でのジンギスカンから始まり、夜遅くまでのススキノ。翌日は念願の定山渓で畳の上での浴衣パーティ、露天風呂と、8年分の鬱屈を一気に晴らした二日間だった。
 
  
 

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5 月

5月26日 「目に青葉、たんぽぽ、タラノメ、カッコウ鳴く
春は忙しく過ぎて行く。うっすらと落葉松が新緑になり始める連休の頃、タラノメの最初の芽がとれる、二番芽が1週間後、三番芽がそのあとに採れる。
今週、山荘に来ていた深澤ファミリーパーティには三番芽が間に合い、天ぷらにすることができた。みんな喜んでいた。一番芽や二番芽は居ない間に盗られてしまうことが多いのだが、さすがに三番芽になると飽きてくるのか、盗られることもなく結構、収穫できた。
5月中旬になると、たんぽぽの黄色に山荘への道は埋め尽くされる。見事なくらいに一斉に咲き、美しい。たんぽぽもタラノメも終ってしまうと、邪魔になる植物だ。タラの木は棘が痛く、草刈の大いなる障害物になる。たんぽぽは根が深く、草取りに苦労する。おいしさと美しさと迷惑が同居している植物なのである。
そしてカッコウの鳴く声が5月の20日を過ぎると森に聞こえてくる。いよいよ夏が近づいてきたなと感じさせる森の使者である。今年もその時がやってきた。

   
 

5月18日 すずらん峠から八子ヶ峰へ
花の木蕎麦の会のみなさんをすずらん峠から八子ヶ峰へ案内した。
すずらん峠は蓼科の別荘地をビーナスラインで登り上げた標高1700mの峠、蓼科山への登り口であるが、反対側の八子ヶ峰へも30分弱で登れる。
いつもは別荘地からの急傾斜を登ってくるのだが、今回は山歩きに慣れていない人も多いので、標高差100mだけ登る最短距離にした。春霞みの暖かい日差しの日だった。遠くは見えないが、山桜が満開、伸びやかに広がる八子ヶ峰の草原にみな歓声をあげた。こんな登り方もよい。

   
 

5月17日 山菜パーティ

      

21名もの人が山荘のリビングに集まった。テーブルふたつでは座りきれないので、間に蕎麦うち板を渡してテーブルを広げた。
この日採ってきたタラノメ、わさび菜、わらびが食卓に並び、鯨井さんの手打ちそばがタラノメの天ぷらをよりおいしくしてくれた。
網走から直送のタラバと毛蟹をみな無言でむさぼる。オホーツクの流氷の下で一冬越した毛蟹は身がしまって格別おいしいという。福北さんに差し入れてもらったワインで乾杯、そのあとは山荘で初めての熟撰の瓶ビール、八海山の生絞りと豊富。
最後は、笛と太鼓が加わり、テーブルの周りを「新宿、花の木、ヨイヨイヨイ」掛け声の阿波踊りで締めた。

 
  
 
      山菜採り

花の木山菜パーティご一行のみなさんに楽しんでいただこうと、山菜博士の吉田さんと一緒にこの春は二回も別荘地の中を下見をした。
4月の末の下見ではタラノメ、葉ワサビ、あけびのつるを見つけた。みんなが集まる前日も吉田さんに一日早く来てもらい長靴履いて歩いた。
タラノメは私自身でも先週、夕方遅くまで別荘地の支線を歩いたので、どの辺に集まっているかわかってきた。二番芽が期待できることもわかっていた。
朝、車で来られたママさん達は休む間もなく、スキー場に行き、出始めたばかりのワラビやぜんまいを摘んだ。ゲレンデを一回りしたら結構とれた。タラノメとワラビは、昨日の下見で今日のために残しておいた。葉ワサビの群落を思いがけない所に発見し、これもみんなのために残しておいた。残さなかったのは、ただ1ヶ所にしかなかったコゴミだ。採り立てのコゴミを湯がき、マヨネーズで食べたら、すこぶるおいしかった。今回の山菜ツァーで別荘地の山菜分布状況がほぼ知ることができたのは大きな収穫だった。来年が楽しみ。

   
 

5月2日 人を恐れぬカモシカ      
散歩がてらに”アカシアの小道”を歩くことにした。その入り口近くの、ダークグリーンの素敵な別荘の庭にカモシカが一頭、草を食べていた。階段を上がって行っても、こちらを凝視するものの、動かない。1メートル近く、触れる程度の距離になっても悠然としている。鈍感なほどの、恐れを知らないカモシカだ。人間を自分の仲間と思っているのか、それとも馴れすぎたのか? 草を食み、私を見る、繰り返しながら、ゆっくりと別荘の裏手に消えていった。お尻のあたりの毛が乱れていたので、怪我をしたか病気で、俊敏に動けなかったのかもしれない。いずれにしても、春の昼間の夢のようなひとときだった。

   
 

5月1日 遅かりし!巣箱

今年も春になると、山荘の庭は忙しくなる。
玄関のポストにオオルリの巣が作られた。しばらく留守にしていると作るらしい。ポストを開けて驚く。せっせと集めた木の葉や枝でいっぱいになっている。
一昨年は、開けた途端に親鳥が飛び出して腰を抜かしたことがある。せっかくの努力を無碍にするわけにいかないので巣立つまではポストは臨時巣箱に切り替わる。毎年、巣箱を作っておこうと思いつつ忘れて「しまった」の連続なのだ。あわてて東急ハンズで巣箱キットを買い、組み立てて、庭の木にぶらさげたが、1週間経っても、入ってくれない。遅かりし”巣箱”のようだ。
庭の池には蛙が産卵にカップルで集まり始めた。グロテスクなヒキガエルは歓迎されない。重なり合っているところを「お取り込み中、すみません」と網ですくい上げ、小川に放しに行く。一匹のときはすばしこくて網にかからないが、”お二人”のときは簡単に入る。川に捨てるのは「別な所でがんばってね」の親心でもある。

   
 

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4 月

4月30日 蓼科の桜
下界の桜は、今年の開花は早かったようだ。蓼科はいつもの年と変わらなかった。4月末になって、別荘地への登り道の桜が咲き始め、30日は満開になった。白樺湖への大門街道に出る河童の湯あたりのピンク色の桜並木はみごとだった。聖光寺の桜も、きれいに咲きそろった。
ゴールデンウイークは、信州最後の花見でにぎわうことだろう。山荘の庭に植えた3本のソメイヨシノは、ひょろひょろと枝が上に伸び、ずいぶんと背は高くなったが、まだつぼみにも至らない。去年は少し咲いたが、今年はどうだろう。5月中旬くらいに咲いてくれるのだろうか? 気になるリアル・ラスト・ブラッサムだ。

   
 

      山菜探し

山菜博士の吉田さんに来てもらい、5月中旬に開かれる「花の木そばの会」山菜パーティの下準備をした。今年のメインは山菜てんぷらと手打ちそば。当日、採ることができそうな山菜は何か、どこにあるかを確認するのが、今日の目的。長靴履いて、トレッキングコース入り口の沢沿いへまず行った。いつもは水が流れている山道が乾いている。雪どけ水の通路ではなかったらしい。収穫なし。反対側の登り口の林に入ったが、シダはあるものの、ワラビ、ぜんまい、こごみの気配はなし。アダージオの奥さんの言うとおり、蓼科は山菜が少ないようだ。
吉田さんが昨年、来て見つけた葉ワサビを探しに、アカシアの小道をトレースした。スキー場近くのコースの沢に発見!沢に下り、流れに沿って登っていくと、いくつもの葉ワサビの群落があった。量も豊富。さらに下り、ゴルフ場を越し、別荘地入り口近くに車を停めて、トヨタのゲストハウスの敷地に入ってみた。白樺が散在する気持ちのよい草原に出た。蓼科山が白樺の向こうにくっきりと見え、コテージ風のハウスが点在し、すばらしい所だ。しかし、きれいに整地されすぎて、山菜のカケラも見当たらない。敷地沿いの小道を歩いている人がいた。その後をつけていくと、なんと、タラの木がいっぱいあるではないか。まだ芽が出たばかりで、採るには早い。あと10日くらい先がよい。しかし、その人の行動を見ると、遠慮がちだが、まだ早い芽を結構採っている。やられたか。
山菜博士によると、先端のタラの芽を採ると、2週間後に二番芽が別な所に出て来るそうだ。それを待てばよいとのご託宣。さすが博士だ。あわてることはない。あけびのつるもあった。まず普通の人は、これを知らないそうだ。

   
 

4月28日 マツムシソウ
山荘の庭にはどんな花が似合うだろうか?建てて以来、悩んでいることだ。
最初は、野に咲く花を中心にあまり違和感のないものをと考え、庭工事を頼んだ大上さんにやってもらった。いろいろ植えてもらって、かろうじて残っているのはシモツケソウの種類。湿地に強いらしい。
今村さんの奥さんは、あじさいの一種、アナベルを数本、通路沿いに植えてくれた。今では、初夏から秋にかかけて白い大きな花を咲かせてくれる。しかし、池に流れ込む伏流沿いは、合わないのか、一本を残して枯れてしまった。問題なのは、6月ともなると、雑草が成長し、ヨツバヒヨドリやオダマキ、アザミなど、風に運ばれてきた野の花が庭を覆い、植えた花などその陰に隠れてしまう。それはそれでいいのだが、雑然としている感は否めない。山荘がいちばんにぎわう夏に咲く花をほしいと思っていた。
八子ヶ峰は7月の末ともなると、紫色のマツムシソウが咲き乱れる。そして息が長い。これを庭にいっぱい咲かせたいと思うようになった。種からでは、冬の凍土で育たないというので、初夏にもうすぐ咲く状態の苗を植えたらよいと花屋に言われていた。
高山村からの帰りに寄った植木園に、マツムシソウが売っていた。きれいに咲いている。なぜもう咲いているの?と聞いたら、店のお兄さんは「埼玉のハウスの中は夏だったんでしょう」。試しに2株、ついでにこれもまた山の花、キンバイを買ってきて、庭に植えた。霜の心配がなくなる連休明けにと店の人には助言されたが、それまで待つわけにはいかない。落葉松の落ち葉を根元にたっぷりかけ、霜対策もしたつもり。もしこれで連休明けまで大丈夫だったら、もっと多く買ってきて植えよう。今年は、マツムシソウに賭けてみよう。この結果は、夏に回答が出る。もっと早いか?

   
 

4月27日 ラガーメンとワセダ
菅平はラグビー合宿で有名な所、五色温泉から蓼科への帰りは、須坂から菅平を抜けた。ちょうど昼どきだったので、菅平メインストリートの食堂へ入った。ラガーメンという、菅平らしいメニューを頼んだ。中身はふつうのラーメンだが、容器がラグビーボール型の楕円形、この中にボールがきちんと入るという。持って駆け出すラガーもいるのではないか?
早稲田大学のラグビー合宿所のグランドはきれいに芝生が敷き詰められていて、3面あり、三試合が同時に行える広さ。ここで鍛えれば強くなるわけだ。
ワセダのラガーもラガーメンを食って強くなったのだろうか?

   
 

      慶応幼稚舎・五色温泉
高山村の五大しだれ桜を堪能した後に、五色温泉に泊った。インターネットで見ると、経営者の水野さんは、慶応幼稚舎からの根っからの慶応ボーイ。志賀高原の温泉旅館も慶応出身が多いので、同様、親譲りの経営なのだろうと思っていた。
今年86歳の”会長”水野さん、自ら部屋に案内してくれた。問わず語りの水野さんの話にビックリした。父が東京で弁護士をしていた。
学徒動員で満州に行き、敗戦、何度も死ぬ目に会ったシベリア抑留から帰ってきたら、麻布のわが家は焼け野原。家族の消息をたどると、父が趣味で持っていた万座温泉・豊国館に疎開しているらしい。しばらく父亡き後、お兄さんがやっていた万座の旅館を手伝っていた。ある冬、スキーツァーしたいというお客を案内し、山を越えて初めて五色温泉にやってきた。そこは寂れ放題、あるじのお婆さんが、もう歳だし売りたい、買ってくれと言う。渋る兄をお母さんに「遺産代わり」と説得してもらい、買取ったそうだ。しかし、当時は山田温泉からは2時間も歩かねばならず、来る日も来る日も客は無し、渋峠でスキー客の客引きもやったと言う。窮して奥さんと心中も考えたことも何度か。
ある頃から、秘湯ブームで客が増え、何とか軌道に乗って今日まで来たそうな。苦労知らずな慶応のボンボンではなかった。陽の光で五色に変るという硫黄泉の露天風呂につかった。河原近くまで歩いて入る野趣あふれる風呂だった。内風呂もすべて木。コンクリートではすぐボロボロになってしまう。”会長”の苦労を偲びながら、しみじみと湯に浸かった。

   
 

4月26日 しだれ桜でビックリの出会い
須坂市の隣、志賀高原の麓の高山村は「知る人ぞ知る桜の名所」。特に五大しだれ桜が有名。いずれも村はずれの観音堂やお墓の中に咲いていて、村の田んぼの一本道を歩いたり、運転したりして行かねばならない。
今日は土曜だが、高遠や三春の大混雑に比べると、閑散としていると言ってもよいくらいだ。どの桜も、すぐ近くの駐車場に入れた。いずれも三百年からの歴史を持つ古木。村のはずれに一本、大きく枝を広げみごとな花を咲かせている。中には丸太や鉄塔で支えられている老木もある。菜の花越しに眺める桜も風情がある。信州の桜の春は、3月末に飯田から始まり、中頃、高遠、下旬、高山村そして5月連休、蓼科で終る。
五大しだれ桜の一本、「黒部のエドヒガンザクラ」の傍らで、学生時代の岳文会の仲間、佐伯さん夫妻に会った。今朝、横浜を出て来たと言う。こんな田んぼの中の桜の下で会うなんてとお互い驚く。佐伯さんとは、以前にも偶然の出会いがある。
20年以上前、サンフランシスコの国内線乗り継ぎゲートの連絡通路ですれ違った。まさかと思いながら「佐伯さん!」と声をかけたら、「オー!」と驚いて振り返った。しばらくベンチに腰かけて、お互いの近況を語り、再び左右に分かれたことがあった。今回は二度目の「オー!」だ。学生時代そして先輩だった佐伯さんが就職した後も、一緒に白馬、剣や薬師の北アルプスをテントかついで歩いたことがある。因縁浅からぬ人なのだ。二度も、思いがけない所で、思いがけない出会いがあるなんて、不思議な縁でもある。

   
 

4月19日 春スキー・バーベキューパーティ
恒例、極楽・奥志賀滑り納めの春スキーがあった。
私は、6月の新緑セミナー打ち合わせで、滑れなかったが、その分、昼からのバーベキューパーティの早目の準備ができた。蓼科から持ってきたコンロに炭を並べ、着火剤をたっぷりと入れ、火を起こした。いつもこれに時間がかかるのだ。パーティの終わりごろ、煌々と炭火がおきたこともある。菅野さんが持ってきた肉はこの上なくおいしく、吉田さんの締めの焼きそばもまたよかった。
蓼科の岡田工務店が始めたワインショップから買ってきた、2000円のシャブリは、値段が安いのにすこぶるおいしかった。当たり! ひとしきり寝たあとの夕食は、小本ペンションの家庭料理。日本酒をどんどん注がれ、途中から記憶喪失。ペンションには迷惑をかけてしまった。ごめんなさい。年甲斐もなく呑むものではない。

   
 

4月15日 「高遠は夜桜に限る
信濃毎日新聞の桜情報では、高遠の桜は今日が満開。
美濃戸の別荘に来ている三木さんを誘って、夜桜見物に出かけた。去年は香港やシンガポールからの友人と日曜に行ったら大渋滞、その前の年は平日でも駐車場は高遠中学校のグランドだった。
「夕方から入りやすいだろう」が、今年の作戦。当たりであった。何の渋滞、抵抗もなく、高遠城址公園のまん前の駐車場に入れた。夕暮れの桜咲く公園は、黄昏行く空の茜の中に、ピンクのコヒガンザクラが輝き、明るい空の下の桜と違い、落ち着いた趣がある。暮れなずむ桜と夕日をバックに写真を撮る人影がシルエットとなって美しい。日没近くでないと味わえない高遠の桜であった。

   
 

4月1日 猿に追われて鹿教湯温泉へ
3月末からの奥志賀スキーの帰りに、小泉さん夫妻と、鹿教湯温泉に泊ることにした。名前は知っていたが、どこにあるかは定かではなかったが、いつも志賀高原から帰る通り道、丸子の先を左手、松本方面へ曲がるとあることを知った。
その前に、志賀高原から下り、地獄谷の猿の温泉に寄った。今年、奥志賀のベルサルームズに来た外人客はみな”Monkey Park”へ行きたがった。
日本人より、外人に人気があるらしい。行き方を教えられないと困るので、それもあって寄ってみた。駐車場から歩くこと30分、雪降りしきる山道ですれ違うのは外人ばかり。地獄谷の猿専用の露天風呂には、気持ちよさそうに湯につかる猿の家族数匹。写真を撮っているのも外人がほとんどだ。こう寒くては、猿もお湯から出れないのだろう。肩寄せ合って長湯している。後楽館のチマキは有名、チマキ好きの私は、みんなより先に行ってチマキを買った。みんなが待つ所へ行こうとしたら、目ざとくチマキのビニール袋を見つけた猿が近づき、立ち上がりチマキに飛びつこうとする。あわてて頭上高く持ち上げ「ダメッ!」と一喝する。そのうち数匹の猿に囲まれ、みんな立ち上がる。恐ろしいのってなんの。
待つ場所にはとても行けない、駐車場への戻り道へ逃げた。追いかけてきたが、ある場所まで来ると、それ以上来なかった。猿にも縄張りの一線があるらしい。途中、はぐれ猿にも狙われた。猿に追われるようにして、鹿教湯温泉に急いだ。「猿より鹿がいい」。

   
 

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3 月

3月29日 春の訪れ
12月から3月まで雪の中に静かだった山荘にも、いよいよ雪が溶け始め、春が訪れた。凍結防止でチョロチョロ流していた庭の水道栓を閉めた。
反対に、山荘内の水抜きしていた水道管に水を通し、水道を使えるようにした。凍って破裂したお湯の調整バルブも取り替えた。少し曲がっているのでは?と感じていた薪ストーヴの煙突は、やはり雪がひっかかっていた時の重みで、曲がっていることが溶けてみてわかった。煙突を支えている鉄の棒がたわんでいた。そのたわみの分だけ、煙突が引っ張られ、傾いでいた。
工務店に電話し、修理してもらうことにした。冬が過ぎると、春からの使用に向けて、いろいろとやることが多い。
山荘の裏は、屋根から落ちた雪で、まだ軒下までうず高く残っている。これが無くなるのは4月末だろう。冬の準備のときは、来る機会が少なくなるための準備だったが、今日の準備は「今年もお世話になるよ」と始まりの準備なので、心もウキウキしてくる。空気も暖かくなってきた。
高遠の桜の開花予想も4月15日と発表された。                        Spring has come! だ。

   
 

3月22日 山田峠を越えて万座へ
志賀高原観光協会がやるバックカントリースキー、今年は万座行きに参加した。完璧に晴れ渡った空の下、横手山へリフトで上がり、渋峠で昼食のパンをもらって、夏はスカイラインになる道を山田峠めざしてスキーを履いたまま歩いた。スケーティング滑走やハの字登りは結構つらい。日差しが強いので、大汗をかいた。山田峠からは、ハイウェイ沿いに下りの滑走となり、ホッとする。途中、クレパスが現れ、雪崩の危険を回避して、大回りしたり、コースのピークへは、スキーをかついで急斜面を登った。ここでバテた人が多かったようだ。われわれの仲間の半分くらいが、登り回避で木無平にトラバースした。ピークまでたどりついた極楽仲間には、Yさんの桜餅1ケずつ食べた。汗かいたあとの桜餅のおいしいこと。肝心のYさんは、トラバース組だったのでこの場にいない。そして木無平の、すばらしい快晴の中でのランチはワインもふるまわれ、とてもおいしかった。
昼食後、再び道路に沿って少し滑走したら、万座のスキー場の上部に、あっけなく着いた。ゲレンデを滑りおり、バスに乗って、万座の温泉に行った。硫黄泉の白い湯は、大汗かいた体に心地よく染みとおり、滑ってきた峰を眺めながら、バックカントリーの余韻に浸った。万座からは3時間かけて、上田経由で志賀高原にバスで戻ってきた。楽しい一日だった。
ただコースとしては、ほとんどが道路沿いだったので、未知の斜面を滑り下りるスリルもなく、物足りなかった。草津へのコースの方が、面白いと思った。
来年は草津へ改めてチャレンジしたい。今年のように雪が多いとよいのだが。

   
 

3月9日 Fermata、Fermata…
ドロミテのスキーを終え、ベニス空港で永瀬さんと別れ、ベニス見物をすべく、空港近くのホテルに泊った。
ベニスは海に浮かぶ浅瀬のような島に作られた街だ。このところの温暖化で、水位が上がり、みんなヒヤヒヤして暮らしている。空港から10キロ離れているので、ベニスに行くには毎日、路線バスで橋を渡り、ベニスの入り口のローマ広場まで行き、そこから街へは船で通った。町中は船か歩きしかないという街だ。
タクシーも船だ。自家用車ならぬ”自家用船”を持っている人も多い。
ホテル近くのバス停は”Fermata”と表示されている。帰りはここで下りればいいのだな、と”Fermata”をメモした。そして、帰りのバス。下りていく人のバス停を見たら、”Fermata”だ。私もあわてて後に続いて下りた。だけど何だか雰囲気がちがう。まちがったかなとバスが去っていた方向に歩いた。次のバス停に来て、表示をみたら”Fermata”。さらに次も”Fermata”、全部”Fermata”ではないか。あとで辞書で調べたら、”Fermata”はバス停という意味だった。
日本なら ”○○前”とか”○○三丁目”とか、バス停には書いてあるじゃないか。それがないのだ。バスの中のアナウンスもない。自分で判断してベルを押して下りていくシステム。これでははじめての旅人はどこで下りていいかわからない。
バス料金は1.1ユーロ均一。ホテルのフロントで切符を売ってくれた。
乗るとき渡すのかと思ったら、運転手は受け取らない。初乗りは持ったまま下りた。自然にただ乗りになった。帰りは、バスの中の機械に切符を差し込んでいた人がいたので、見よう見真似で入れたが何の反応もしない。また切符は無傷で下りた。三日間通い、結局、その切符は今でも手元にある。つまり三日ともタダでベニスを往復した。私は払う意志があり、その努力もするのだが拒絶される。こういうのを無賃乗車と言うのだろうか? 落ち着いて車内を見ると、同じように努力はするが、首を傾げて席にもどる人、最初から何も持たない人(事情通と見た)が結構いた。これで市営バスは赤字にならないのだろうか? 不思議なベニスバス事情だった。

   

 
3月1−7日 ドロミテスキー案内
昨年も1週間滞在した、イタリアのドロミテに今年も行った。去年行ってわかったことは、リフト券共通のスーパードロミテというのは、長野県の半分くらいの広さに展開する、12のエリアのスキー場を総称していたことだった。スロープの総延長1200KM、リフトの数450本(志賀高原は70本)。
昨年、完走したのは2エリア、もう二つはかすって滑っているだけだった。この広さを回り切るには、3年くらいかかると考え、引き続いて行くことにした。古い日本人にとってドロミテというと、コルティナダンペッツォが記憶にあるくらいだ。1964年のオリンピック開催地、初めて猪谷千春が冬季オリンピックで銀メダルを日本に持ち帰った記念すべき場所である。このコルティナもスーパードロミテでは12エリアのひとつにしか過ぎない。
ベニスからレンタカーでサンマルティノという一エリアのひとつに滞在し、ここを拠点に多くのエリアを回ろうという計画。
ベニスからは120キロの距離だ。東京から蓼科へ行くより近い。時間も2時間半くらいで着く。今回は永瀬さんとふたりだけ、借りたベンツは永瀬さんの車と同じ種類だったので、運転は彼に任せることにした。
あとで気がついたことだが、今回、行ったスキー場の大半は、サンマルティノからは、毎日Passo Rollいう峠を越えなければならず、不便だった。もう少し、ドロミテの中心に近いCanazeiあたりにすべきだった。日本でドロミテのスキー情報を得ようとすると、ちゃんとしたガイドブックはなく、インターネットのドロミテへスキーに行った紀行文ぐらいしかない。ここでもコルティナ、コルバラはよく出てくるが、次に出てくるのは、今回行ったサンマルティノくらいだ。
イタリアの旅の案内書はいっぱいあるのに、スキーに焦点をあてた海外スキーガイドブックは一冊もない。いかに日本のスキーブームがしぼんでいるかを実感させる状況だ。

   
 

 大混雑のスキー場
日本のスキー場の寂れ方に反して、ドロミテのスキー場は人であふれている。平日の夕方のスロープにはおおぜいのスキーヤーが滑っていて、危険きわまりない。山へ登るロープウェイも、朝は長蛇の列だ。ゲレンデの上にあるレストランのテラスではビキニやホットパンツ姿の女性が踊って、黒山のスキーヤーの目を引き付けている。イタリア的開放感ある楽しさだ。夕方のサンマルティノの通りは車を通行止めにして、歩行者天国になる。買い物や食事の滞在客でごった返す。ホテルは週単位の予約が原則。土曜は泊り客の入れ替えで、スキー場は閑散とする。日本とはまったく逆の現象がヨーロッパのスキー場では起きている。ここ数年の温暖化で滑れないスキー場が続出、そのため滑れるスキー場にさらに人が集中するようになったという。ドロミテは滑れる環境のスキーエリアのひとつ。それでもその状態を維持するのに1100台のスノーマシンが雪つくりをし、300台のスノーキャッツが夜通しかけてゲレンデを整備している。
ヨーロッパにはバカンスという習慣があり、冬でも2週間から1ヶ月も家族で出かける。スキーはバカンスにうってつけのアミューズメントとなっている。今回もポーランドからバカンスでドロミテに来ている2組の家族に会った。ひるがえって、もっとお金では豊かな日本は3日の休みどころか1日も休めない人がなんと多いことか。スキーは”スキー技術のためのスキー”で、スポーツとして魅力が薄れればやる人も減る。
ワーク/ライフ・バランスが声高に叫ばれているが、まずはせめてヨーロッパの半分のバカンスを実現できる環境をつくり、家族一緒に心身をリフレッシュすることが必要ではないか?

      

 
 立山・ニセコ・八方・志賀・湯沢をミックス
12のエリアのうち、今回は8エリアを回った。
標高3200mから滑り出し、標高1500mまでの標高差1700mを数分で下りてくるアルペンティックスキーが楽しめるマルモラーダ。森林限界を越え、白い雪原を滑り、森の中の林間コースが縦横に繰り広げられるセラロンダ、ラテマール、トレバリ。山の上から麓の村へ下りるに従い、湿った雪に変わっていき、段々畑状になるチベッタ。街中の家と家の間がコースになっているフォルケンスタイン。
8つのエリアはそれぞれ特徴があり、飽きさせない。あえて日本でいうと、山岳スキーの立山、パウダースノーのニセコ、ダウンヒルの八方、いろいろなタイプのゲレンデがつながる志賀高原、街に飛び込んでしまうような越後湯沢、これらをすべてカバーしているような感じだ。残る4つのエリアを滑れば、立派な「ドロミテスキー案内」が書ける。
成田-ベニス格安航空券、ベニス1泊、サンマルティノのアパートメントホテル7泊、自炊と外食半々の生活、リフト6日券、レンタカー、〆て、ひとり約30万円が今回の費用(おみやげは別)。

   

 
 田舎のピッツァリアに限る
長期滞在が多いので、アパートメントホテルはふつうのホテル以上に数が多い。われわれもLastei Residencial hotelというところに泊った。ドロミテのいろいろなエリアに同様のホテルを経営するチェーンだった。そのため、対応や部屋の設備はシンプルかつスマートだった。
朝は部屋で食べ、昼はゲレンデや近くの村のカフェテリアやピッツァリア、夜は半分、街のレストラン、半分は日本から持っていった、ざるそば、ラーメン、カレーライス。レストランも高級な店からピザ1枚の店など、いろいろ行ってみた。
その中で、印象に残っているのは、標高3200mのマルモラーダ滑走の後に行った麓の村の、その名も”マルモラーダ”という小さなピッツァリア。ここで頼んだミネストローネスープのおいしかったこと。たくさんの野菜をじっくりと煮込んだスープは、味が濃く深く、腹と心に沁みる味だった。そして安い。反面、四ツ星レストランで食べた肉料理(写真右)は見た目は豪華だったが、味がパサパサしていた。そして高かった。

   
 

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2 月

2月24日 巨大なる陸の孤島”札幌”
札幌から帰るこの日、昨日からの猛吹雪が北海道の交通を大混乱に陥れていた。昨夜は、富良野からの帰りのバスも高速道路は美唄で通行止めになり、そのあと下の道路を走って札幌に帰ってきた。バスの窓が真っ白になるくらいの地吹雪の中、あちこちに立ち往生している車、横倒しや後ろを向いてしまった車などを横目に見て、網走交通のバス運転手は平気で追い抜き、ときには反対車線も突っ走る勢いで、2時間遅れで札幌に帰ってきた。
翌日のニュースで吹き溜まりに突っ込み死者も出た中、よくぞ走ったものだ。明けて、日曜日、青空になり、早めのフライトに切り替えようかと考えていたところに、Wさんから電話、飛行機は午後2時を過ぎないと飛ばず、千歳へのJRも動いていない、バスは長蛇の列。私のフライトは夕方4時半、まずは大丈夫と、ゆっくり買い物し、札幌駅に行ったら、JRはまだ除雪中で運行していない。この日の千歳行き一番電車が動いたのが午後3時半、空港に着いてビックリ。ものすごい人で、どこへ行ったらよいかわからない。やっとの思いで、搭乗口にたどり着いたが、まだ午後2時半のフライトも出ておらず、私の便はいつになることやら。5回の搭乗口変更と出発時刻変更で、ようやく飛び立ったのが夜9時半。
5時間も搭乗口周辺にいたことになるが、いろいろなアナウンスを聞いていると、退屈しなかった。「岡山行きはキャンセルになりました。羽田に振り替え希望の方には、2万円差し上げるので、羽田から先は自分で考えてください」、「富山行きは富山で降りられないときは羽田に着陸します。その先はわかりません」、「夜8時半の羽田行きは機材繰りがつかず欠航します。明日の便はすべて満席です。明後日のフライトに変更してください」、「福島行きの飛行機は千歳上空まで来ましたが、着陸順番待ちで旋回中、燃料切れる恐れがあるので、旭川に着陸しました。よって今日の便はありません(このあと、同様の事態が仙台行きにも発生したが、こちらは運良く千歳に着陸できた。着陸のアナウンスがあったときは、乗客から大拍手が起きた)」などなど。こうなるとアナウンスしている女性もヤケノヤンパチになっているのか、乗客にとっては一大事のことを、それにしては明るくさらりと言ってのけていた。お客も「見上げたもんだよ、屋根屋のふんどし」で「どうにでもしてくれ」の心境なのか、意外と冷静なのには驚いた。

   
 

2月23日 札幌ステイ・スキーの楽しみ
札幌のホテルに滞在しながら、あちこちのスキー場を回るのは、ちょっとヨーロッパのスキーの楽しみ方に似ている。
日本でスキー人口が減っているのに、ヨーロッパでは変らず、スキー場の拡張やリフトの増設も盛んだ。日本のスキーは「スキーのためのスキー」で技術志向なのに対し、向こうは「バカンスのためのスキー」で、冬のバカンスを楽しむためにスキーがあるという感じだ。スキーは二の次で、食事やワイン、ディスコなど、スキーを終えてからの時間も長い。そのための店が、スキーリゾートにはいっぱいある。札幌はまさに「バカンスのためのスキー」にもってこいの場所。
ニセコも富良野にも日帰りで行ける。帰ってくると、ススキノに遊べる場所がワンサとある。
極楽スキー仲間と富良野に札幌から日帰りで行った。われわれ極楽スキークラブも札幌在住が2名になり、今回は札幌支部発足記念でもある。
片道2時間以上かかる富良野だが、われわれにとって滑ることだけが目的でない。現地での時間が短くても苦にならない。リフト一日券4200円なのに、札幌からのリフト券つきバス往復の値段が3900円という不思議さ。富良野5時間滞在でも、ほぼすべてのゲレンデを滑れた。プリンスホテルで富良野ワイン付の食事もできた。ニングルビレッジの店めぐりもできた。充実したスキーのあとは、札幌に帰り、ススキノ東寿司で、北海道のカニや魚を”熊コロリ”という酒で味わう贅沢さ、そして札幌支部長・小野さん行きつけのスナック‘オオタニ’での楽しい語らいが、深夜まで続いた。悲惨な明日になることも知らず...

   
 

2月18日 オーストラリアからの客

JackieさんとLukeさんのカップルが、私が広告を出したOutdoor Japanという主に外人向けに日本のアウトドアスポーツを紹介する雑誌を通じて初めて、ベルサルームズの客で来られた。そんな関係もあり、志賀高原を一日案内することにした。女性のJackieさんはスノーボード、Lukeさんはスキーということになると、奥志賀からはスタートできず、焼額へ行かねばならない。Lukeさんの靴のサイズは30.5cm、貸し靴は30cmまでなのでオーストラリアから持参してきてもらった。焼額のスロープを頂上から下までまず滑った。二人とも結構うまい。「こんなに長いスロープで、こんなにフワフワした雪で滑ったのは初めて」と最初から興奮気味。オーストラリアのスキー場はスロープが短く、アイスバーンの所が多いそうだ。日本に来たのも初めてで、ニセコも知らないと言う。
京都に5日間いて、名古屋から長野へ出て、バスで奥志賀に来た。雪の多さにびっくりしていた。
どうしてベルサルームズを選んだの?「部屋にバストイレがあること、部屋が広かった(24u)こと、その割りに値段がリーズナブル」。外人にとって共同風呂やトイレは苦手のようだ。それでも志賀高原からの帰りには、地獄谷の猿の温泉に行って、自分も入りたいと言う。モンキーパークはオーストラリアでは有名だそうだ。確かに駐車場には"Monkey Tour"の外人観光バスも止まっていた。
ベルサルームズの食事にも満足していて、すこぶる楽しいスキーになったようだ。知り合いに新聞記者がいるので、ここを紹介する記事を書くから、写真を送ってほしいとも言われた。こんなきっかけから、海外からのお客さんが増えるとうれしい。

   
 

2月12日 煙突大丈夫かな?
今年は、2月に入って蓼科も大雪になった。そして寒かった。
2005年の冬も厳しく、水道が凍りつき、給湯バルブが壊れた。同じ現象が今年も起こった。設備屋さんに来てもらった。「このバルブは栓がないから水抜きがむずかしい」と言う。それでは困るではないかと言うと、奥の手を教えてくれた。給湯蛇口にゴムパイプを入れ、口で吸い出すのだという。ヤレヤレ。食洗器も排水できず、途中で止まってしまった。寒さで壊れたと思っていたら、3日たったら直った。排水口が凍っていたようだ。こちらは壊れてはいないようだ。これからは熱湯を最初に流しておけばよい。
3年前にストーブの煙突が外れ、屋根に隙間が開き水漏れがした。どうも煙突が雪の重みで斜めになっているような気がする。また水漏れがするのではないかと心配だがどう仕様もない。不安な気持ちで山荘を後にした。(1週間後に行ったら、同じ状況だった。このまま雪が溶けるまで水漏れがないことを祈っている)

   
 

2月9日 霧ヶ峰スノーシュートレッキング
大学時代の山のクラブ「岳文会」OBのスノーシューも今年で3回目、9名の参加者に増え、定番イベントになってきた。今年は霧ヶ峰を歩こう。冬の霧ヶ峰は初めて。別荘地の管理センターが主催する1月の霧ヶ峰スノーシューに参加しておこうと考えていたが、天候不順で流れたので、ぶっつけ本番となった。車山肩から蝶々深山に登り、八島湿原に抜け、沢渡を通って車山肩に帰って来るコースを歩くことにした。ほぼ全域がスタート地点から見通せる雪原のトレッキングだ。歩き始めの頃は北から南アルプスまで見えていたが、蝶々深山に登った頃から、雲行きが怪しくなり雪も降り出してきた。ここまであったトレースもその先はなくなり、雪原のラッセルになった。途中の標識から、沢渡方面へ行くであろう谷間に降りることにした。夏でも歩いたことのない深雪の下りに入っていった。途中でいちばん若い深田君に先頭を変わってもらった。スノーシューを着けていても時々、膝まで沈み込み、トップは疲れるのだ。沢渡の山小屋の屋根が見えてきたときは内心ほっとした。谷間に下りたら、陽が射してきた。つかの間の回復した雪の上で昼食。夕べ各自で作ったアメリカンクラブサンドイッチを温かいコーヒーとワイン、至福のランチタイムだ。スノーシューいちばんの楽しみは雪上ランチと言ってもよい。
山荘に戻った夜は、恒例・かも鍋パーティ、最後の鴨雑炊がことのほかうまい。そのあとはインターネットを使っての山の唄や六大学校歌の大合唱が夜遅くまで続いた。先週の極楽・奥志賀歌声喫茶の蓼科版といった感じだった。

   
 

2月2日 ”極楽スキー”10周年
長野オリンピックの年に、同じ業界のスキー好きの仲間が集まって始めたスキーも10年になった。年々、輪が広がり、”極楽スキー”という名もつき、30人も集まる大スキーパーティになった。4年前からは金曜、土曜、ペンションを借り切りにしての歌声喫茶の大合唱も恒例になった。大会をやるでもなく、ただ横手山のボルシチや丸池の坦々麺を目指して滑っていくという単純なスキーだが、みんなこの日を楽しみにしている。そんな仲間たちが、10周年のイベントを企画して、幹事役の私や熊谷さん、永瀬さんに感謝状や寄せ書きを贈ってくれた。

   
 

東京へ帰ってきて、みんなに送った私の御礼のメール。「みなさん、本当にありがとうございました。パーティでいただいたみなさんの「メッセージ」、当日は読む時間がなく、今、家へ帰って、はじめて読まさせていただきました。過分な温かいお言葉に、ジーンと来ております。みなさんが、用意周到に準備されていることを、全然知らず、ベルサでの食事のあと、早く行こうと、永瀬さんをせかすのに、「ギリギリで大丈夫」と言い、パソコンやプロジェクタを取りにくるなどの予兆から、「何かあるな?」と気づきましたが、あれほどまでの仕掛けを作っておられたことに驚いたと同時に感激しました。準備万端の中に、ハプニングもありましたが、みなさんの温かい包容で、楽しく盛り上げていただきましたこと、感謝しております。ふだんは仕事を通じてしか付き合うことのなかった人たちが、スキーという共通項で、遠い志賀高原に一夜を過ごし、飲み、語らい、歌うだけで、旧知の友のようにつながり、輪が広がっていくことを、この10年間の体験で知りました。そして、三輪さんのように、そのまま奥志賀に根付いてしまい、人生を変えてしまった(狂わしてしまった?)人も出るに至っては、大きな責任も感じています。(ですから、ベルサルームズをぜひ頻繁にご利用ください)。
みんなで歌った「乾杯」の歌詞が胸に響きます。 ♪今君は人生の大きな大きな舞台に立ち、遥か長い道のりを歩き始めた 君に幸せあれ♪。そして池田先生の作られた「極楽賛歌」の歌詞のようにこれからもこの楽しい集まりを続けていきたいと希望しております。♪共に集いし奥志賀の 深き谷間によろず世も、溶けずに残る雪のように 極楽仲間の友情は、何時何時までも消えはせじ♪
今晩は、メッセージを抱きしめて寝ようと思います。うなされたら、私の感激のイビキが伝線したと思ってください」

   
 

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