小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
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蓼科日記

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蓼科・東急リゾートタウン
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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。

毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2006年>

 [1月] [2月] [3月] [4月] [5月] [6月] [7月] [8月] [9月] [10月] [11月] [12月]

 <2004年> (2004年分は、こちらからリンクします。)

 <2005年> (2005年分は、こちらからリンクします。)

 <2006年> (2006年分は、こちらからリンクします。)

 <2007年> (2007年分は、こちらからリンクします。)

 <2008年> (2008年分は、こちらからリンクします。)

 <2009年> (2009年分は、こちらからリンクします。)

 <2010年> (2010年分は、こちらからリンクします。)

 <2011年> (2011年分は、こちらからリンクします。)

 <2012年> (2012年分は、こちらからリンクします。)

 <2013年> (2013年分は、こちらからリンクします。)

 <2014年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

 <2015年> (2015年分は、こちらからリンクします。)

 <2016年> (2016年分は、こちらからリンクします。)

 <2017年> (2017年分は、こちらからリンクします。)

 <2018年> (2018年分は、こちらからリンクします。)

 <2019年> (2019年分は、こちらからリンクします。)

 <2020年> (2020年分は、こちらからリンクします。)

 <2021年> (2021年分は、こちらからリンクします。)

 <2022年> (2022年分は、こちらからリンクします。)

 <2023年> (2023年分は、こちらからリンクします。)

 <2024年> (2023年分は、こちらからリンクします。)
 

2006年

12月

12月2 「ホテルハイジのクリスマスパーティ」

ホテルハイジは「皇室の隠れ宿」ともいうべき、蓼科の格式ある小さなホテル。今年の私の誕生祝いとクリスマスは、ハイジのパーティに参加することにした。家族で、東京から山荘に昼過ぎに着き、冷え切った室内を石油&薪ストーヴ、パネルヒーター、床暖房で急激にアップ、2度cしかなかった室温も夕方、ハイジに行く頃には20度cまで上がった。
タクシーを呼んで、ハイジに向った。ディナーは夕方6時から、クリスマスメニューのフルコースは、鹿肉、ほろほろ鳥など多彩。ここの味付けは私の好みに合うのか、いつもおいしいと思う。今日のワインもメニューに織り込まれている。白も赤も、シャンパンも上等品。
ディナーの後は、神山純一さんのピアノと女性ボーカルのコンサート、ファンも多く、何年も通っている常連がいるほどのパーティだ。こじんまりしているが、アットホームな上品なクリスマスパーティの雰囲気が漂っている。最後は、ビンゴゲームでのクリスマスプレゼント、私は最初が調子よく、立て続けに空いていったが、後が続かない。我が家は次女の景が8等賞くらいに入り、かわいい財布をもらった。参加賞もポーチやクリスマスデコレーションなど、結構よい。これでお開きかと思ったら、何種類ものクリスマスケーキが出てきた。みんな皿を持って、好きなものを好きなだけ選べる。妻はおかわりまでして、その夜、苦しくて眠れなかったとか。楽しく満ち足りた気分で、満点の冬の星の下を山荘に帰ってきた。

   
 

12月16 「小学校創立100周年」
わが小学校は、新潟県岩船郡朝日村にある塩野町小学校という、山の中の学校。ここを昭和32年(1957年)に卒業した。その学校が創立100周年の記念行事を行うから来いとの案内をもらった。私たちが卒業してからも、ほぼ50年になる。ということは、在学中に50周年があったはずだが、記憶にない。私たちの6年のときは60人に満たず、ひとクラスだった。そんな状態だったから、今は全学年でその程度ではないか? それなら廃校になるのも時間の問題だろう。見納めに行くか、の気持ちで参加することにした。
昔は中学校と同じ木造校舎だった。中庭の土俵で相撲大会をやったら、「テスト中だから静粛に」と中学からお叱りを受けたこともあった。その後、中学校は村ひとつに統合され、小学校も鉄筋に建て替えられた。校舎に思い出は残っていないが、校庭は昔のままだ。校庭の桜並木もそのまま、「♪桜の花の咲く頃は、うららうららと日もうらら、ガラスの窓さえ日もうらら、学校の庭さえ日もうらら♪」と歌ったあの日がよみがえってくる。式典は全校生徒も参加して、体育館で行われた。底冷えのする雨降りだったが、ガスストーヴでがんがん暖めていた。子どもたちは142人と予想に反して多い。私たちが卒業した1957年は500人近かったというのも初めて知った。50年で3分の1以上に減ってはいるが、これなら110周年もあるかもしれない。6年生代表のあいさつで、「塩野町小学校で学ぶことに誇りを持っています」にはウルウルときた。「俺も50年前はあの子と同じ気持ちだった」と。こどもたちは、坊主刈などおらず、みんなシャレた格好していて、都会の子と変わることない。「俺たちのときは、汚い格好、男は全員坊主で鼻たらしていたのになあ」と感慨深かった。

   
 

その夜、同級生数人で、村上で臨時同級会をやった。
私たちの代の思い出の品は、学校には何もなかった。写真も、戦前と戦後間もない頃のもの、私たちの2年後からはきちんとあるのに。学校の文集も、われわれの数年後からだ。年表見ても、特筆すべきことがなかった時代のようで、在学中の変化は何も記載されていない。平穏なときだったのだろうか。思い出の形は学校には何もなかったが、みんなの心にはぎっしり詰まっていた。話し始めると、次から次へと、昔の話が広がっていく。H子とは50年ぶりの再会だった。冬は分教場が設けられる山の中から2里(8k)の道を、小さい体で、雨の日も風の日もH子は通ってきていたっけ。いつも女の子なのに鼻たらしていたなあ。今日、初めて知ったのは、その当時、その村から学校へ通ってきたただひとりの女の子だったということ。男の子の足についていくのは大変だったと。そして私の自転車に乗せてもらったときはうれしかったと。私は覚えていない。しかし、子ども心にも、毎日遠くから通ってくる彼女の大変さには同情していたのかもしれない。カラオケでH子が演歌を歌い終えたとき、思わず言ってしまった。「H子、成長したなあ」。もう二人とも六十を過ぎているのに。

   
 

12月2日 「遅い初雪」
去年に比べると雪が遅い。週末に、奥志賀に行ったとき10cm以上降ったので、蓼科にも降ったかなと思って戻ってきたが、何もなかった。暖冬で暖かいと思っていたら、11日の夕方からチラホラ舞出し、白くなりだした。クリスマスツリー越しに見る外の景色も冬らしくなった。しかし積もるほどではない。12日の朝には晴れ上がり、どんどん消えはじめた。しらかば4号線を歩いてみた。道の端には雪が残っている。どの家も閉まっている。一軒だけ通年住んでいる家があるが、今日は車がないので、どこかへ出かけているのか。ドン詰まりの豪邸別荘もひと気がない。庭に続く玄関扉には鍵がかかっていない。庭中のとびらも開いた。建物ベランダへの扉も開いた。ベランダから見る八ヶ岳連峰と富士見高原への裾野が雄大だ。思わず記念写真を撮った。蓼科の高原は雪がないが、蓼科山はまっ白だ。山の上には着実に冬が来ていた。

      
 

12月1 「凛ちゃんの誕生日」

奥志賀のベルサルームズに行った。10月末以来の訪問だ。ちょうどこの日は凛ちゃんの2歳の誕生日だった。クリスマスプレゼントに持っていった電池自動車がちょうどよい誕生祝いになった。早速、それで遊び始めた。乾電池の「デンチ」は覚えたらしく、はっきり言える。自動車や電車が好きなようだ。やはり男の子だなあ。ちょっとの間に、足取りも確実になった。笑顔も成長してきた。ソリ遊びには夢中になるという。スキーを覚えるのもすぐだろう。
翌日は、トイレをひとつ物置にすることにしたので、その整理整頓を手伝った。
私は物置にすることには反対したが、一時の物置もないと、搬出搬入に不便との三輪一家の主張に折れての物置つくりだ。反対は反対だが、決めたとなると、グタグタいわず、それに従うのが、私の主義だ。
雪が10日の夜から降り出し、翌朝はまっ白になった。しかしこのくらいでは奥志賀のスキー場はムリのようだ。高天原や一の瀬は人工雪で一部滑れるようになり、結構な人出だった。クリスマスまでには本格的に積もってくれないと、開店したばかりのベルサルームズには痛手だ。

      
 

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11月

11月30日 「ワーク・ライフバランス」
ワーク・ライフバランスという言葉を知ったのは、会社を勤めをしていた40代の頃。「働くこと」と「自分の生活ややりたいこと」をバランスとって生きるのが、これからの人生には重要という。会社人間になってはいけない、会社を離れたとき、その後の人生が豊かになる生き方を事前から準備しておくことが大切という。それを通じて自分の生き甲斐を見つけることによって、今やっている仕事にも好影響を与えるという。モチベーションも高まるという。「わが意を得たり」だった。
それを決定的に考えさせたのが、45歳のときに次女が生まれたときだった。それまでも乗鞍高原にペンションを開こうと動いたりしてきたが挫折し、定年までサラリーマンかと、惰性に流されつつあった。ところが生まれた子供がいちばんお金のかかる高校、大学となるとき、私は60歳、収入がなくなる。これはヤバイと、これからの人生を真剣に考えるきっかけになった。まずはお金だ。貯蓄の焦点を60歳からの収入確保に置いた。子供の学資保険はもとより、個人年金に給与の大半をつぎ込んだ。それまでやっていた社内持ち株も範囲を広げ、他の企業の株にも資金を回しリスク分散した。定年になったら、これらの資金で生活の安定と子供の学資を手当てを図ろうとした。

     
 

50歳を過ぎた頃、会社のトレーニングでSeven Habits(7つの習慣)の講座を受けた。そこで「計画は10年先を考えて準備すべき、10年先が会社内ならその仕事に役立つことを、会社を離れているなら、自分の人生のために役立つことに精力を注ぐべき」という内容だった。私にとって、10年先は会社の外、それなら若い頃から夢見ていて、一度挫折した高原での生活を目標にするのがいちばんと考えた。仕事は仕事と割り切り、回りを気にしながらとっていた休暇は自分の意思で決め、山へ、家族旅行はペンションを選び、チロルのシャレーにも行き、自分の夢につなげていった。会社を辞めたら山荘を持とうと。
30歳台で100万から始めた株も、途中で中断したものの、飛び飛びに続け、着実に上がっていった。しかしITバブル崩壊でピークの5分の1までに目減りした。58歳のとき、不況に陥った会社は希望退職募集を始めた。あと2年の生活の不安はあったものの、夢実現が早まると考え、思い切って応募した。みんなに開放する目的の蓼科の山荘が予定より2年早い60歳に、そして奥志賀のペンションは共同経営の形だが今年、実現した。青春の夢は少し形は変わったが、年齢相応の次のステージが広がった。

   
 

@「希望は捨てない、変えない。夢は実現する」信念を持ち続けたこと、Aワーク・ライフバランスの考えで会社には心理的に距離を置いていたこと(仕事をおろそかにしたことではない。それなりに成果も上げ、認められ、ほどほどの出世もし、会社を辞めてもその経験でコンサルティングを続けられていると自負している)、そしてB資金には多少のリスクを取ったことで、今の満足があると考える。
特に、Bの「リスクを取る」は重要だ。サラリーマンの収入だけでは、チャレンジには限界がある。生活と子供の教育、家のローンに追われ、自分の夢を追うどころではないだろう。私の場合は株を取った。大きな金額ではなかったが、細かくリスク分散し、コツコツとやることによって少しずつ増えていった。
45歳のときの次女誕生では、確実に手にできる貯蓄を増やした。日々の生活は爪に火を灯すような厳しいときもあった。貯金通帳はいつもマイナス、ボーナスのときに一瞬プラスになる繰り返しの連続だった。だから妻には見せられず、お金の管理は自分でやった。これは今になって、「振り込め詐欺」防御の有力なやり方だったとわかった。次女誕生は自分の人生を真剣に考えさせてくれた機会だった。子供には感謝している。そして七つの習慣トレーニングは人生計画の方向付けを後押ししてくれた。
東京と信州の往復生活は前より忙しいが、ワーク・ライフバランスを保つことによってストレスはほとんどない。ある人は「ライフ・ライフバランスではないか」と言うが・・・

   
 

11月3−5日 蓼科高原小津安二郎映画祭
今年の映画祭は、少し遅れた紅葉の真っ只中の季節に行われた。秋晴れの中、室内で映画を見るのはもったいないような日が続いた。山荘から毎日、茅野駅までの市民館と新星劇場へ通った。2日目の昼からは妻も合流し、映画三昧の三日間だった。見た映画で共通していたことがあった。日本の戦後の復興期、東京オリンピックの前、昭和30年代の東京を舞台にしたものが三本、初日の「メトロに乗って」は今年公開された作品、堤真一扮するサラリーマンが、小さい頃育った地下鉄丸の内線の新中野駅前に、時々タイムスリップして、現代のビジネススーツのままで戻るという話。"Back to the future"の日本版みたいだ。戻った最初の日は、新中野まで地下鉄が延びて、駅前がチンドン屋でにぎわい、電器屋の前は力道山のプロレスに黒山の人だかり、使おうとした福澤諭吉の1万円札は偽札とまちがわれる始末。新中野は時々通るところなので、今との格差が大きく、興味深かった。小津安二郎の「秋日和」は、同時代のエリートサラリーマンと思われる家庭や勤務先での仕事ぶりなどが描かれる。格差を感じたのは、オフィスにはパソコンも計算機もなく、みんなが紙と鉛筆で仕事をやっていることと家庭の台所がとても旧式で、ガス湯沸かし器もないことだ。原節子は家にいるときも、外出するときもいつも着物姿なのも、違和感を感じた。

   

「Alldays 三丁目の夕日」は昨年、話題になった作品。
東京タワーが上へ上へと建築されていく毎日、その下の六本木界隈だろうか、そこに住む人々の生活がコミカルに、哀切あふれるタッチで描かれている。
青森から集団就職でやってきた少女の夢と現実の落差にもめげず頑張る姿、売れない作家とひょんなことで預けられた少年が貧しくても心を通わせていく過程、この町にふらりと来て一杯飲み屋を開いた訳ありの美人が街の人と心を通わせ、何も告げず去っていく話など、笑いと涙が続く。
どの映画にも出てくる暮らしの情景は、小さい頃、過ごしていた毎日の姿だ。「あんなこともあった、同じだったなあ」と思い出させる。今から見ると、不便きわまりない、何もないような時代だった。でもあの頃は、ごく普通の生活だったし、不便とも、貧しくとも感じなかった。Futureが見えないのだからそれは当然なのだが、振り返って見ると、街の人がごく普通に助け合って生活している、今は失われた人間的な時代だったんだなあと感じる。
 


   
 
この映画祭から生まれた「小津の秋」には、美しい秋の蓼科高原の風景が随所に出てくる。映画祭が終った翌日、妻と一緒に小津安二郎の別荘だった無芸荘を訪れた。映画の中と同じように晩秋の紅葉の中にたたずむ無芸荘は、閉まっていたが、静かで趣きがあった。
ここの管理人が藤村志保、そこに訪ねてくる幼なじみが近くのホテル(アートランドホテル)の支配人・栗塚旭、藤村志保の昔の恋人の娘・沢口靖子という組み合わせで、ここ無芸荘を中心に映画は撮影された。ホテルも無芸荘も、学校も実在するものを名前もそのまま使っているので、実話のような雰囲気だった。無芸荘は、もともとこの場所より標高の高い、蓼科山を正面に望む城の平の別荘地にあった。そこは、春、夏、秋と移り行く高原の空気を蓼科山の装いを居ながらにして感じられる所だ。小津作品のカメラを固定して正面から撮っていく撮影方法はここでヒントを得たのではないかと思うほどだ。
「小津の秋」では、去っていく秋を惜しむように落葉松の黄葉に囲まれたまっすぐ延びる道がラストシーンだ。私たちも、その道をドライブして、秋の蓼科に別れを告げた。
 

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10月

10月31日 快晴・八子ヶ峰」
朝から抜けるような青空が、落葉松の黄葉の上に広がっている。午後から、加藤さんたちが来られるので、準備をしていたが、あまりの小春日和の天候に誘われて、矢も盾もたまらず、昼過ぎ、八子ヶ峰に向かった。
「山に行っています。中でごゆっくりおくつろぎください」と貼り紙を残し、玄関の鍵も開けて、床暖房も点けて。登っていくに従い、八ヶ岳の峰々がせり上がってくる。山ひだもはっきり見えるほどだ。どんなに晴れていても、午後になるとふつうは霞がかかってくるのに今日はちがう。遠く、北アルプスも、雪の山がくっきりと浮かび上がっている。八ヶ岳の麓まで広がる高原は、落葉松の黄のベルトに覆われて、息を呑むほどに美しい。チロルの秋もこんなではないかと想像する。山荘生活をはじめて、至福のときは、グッドタイミングで自然のすばらしさを体感できることだろう。
そして美しく染め上げた秋の隣には、凛とした冬の空気が近づいている。山荘のベランダで朝食を摂るとき、落葉松の細い葉がスープの中に落ちてくるとき、秋の終わりを感じる。そんな時が今年もやってきた。

     
 

10月27−29日 「志賀高原の秋は過ぎいく」
中学校時代の友人、松澤君、尾崎君、金野君が、奥志賀のベルサルームズに来てくれた。金曜の夕方、金野君は車で軽井沢から白根を越えて志賀高原へ入った。松澤君は、善光寺や小布施に寄って、バスで奥志賀に着いた。もうこの季節は5時になると、真っ暗だ。松澤君をバス停に迎えに行き、一緒に歩いてきたペンション街(といっても数軒しかないのだが)に灯る窓辺の中に静かな夜がある。あと2ヶ月すると、にぎやかな夜になる。志賀高原のいちばんゆったりした季節だ。
次の朝、蓮池で尾崎君をピックアップして、硯川に向かった。晩秋の空、澄み渡り、トレッキング日和、尾崎君の靴がどうであろうと、四十八池を歩こうと決めていた。彼の靴を見て、いささかあせった。布製の濡れたら終りのような底も街中仕様のシューズ、まあ何とかなるだろうと連れていくことにした。 前山のリフトで上がり、四十八池への道を歩き始めた。渋池を越え、志賀山分岐で迷った。登るべきか、四十八池へ直接行くべきか。この前来た時は、大雨の後だっただけに、志賀山への道は水浸しの所が多かった。上り道も、渓流のようになっている所もあった。同じような状態だったら、尾崎君の靴はひとたまりもない。文句を言うだろうな、と思いながら、志賀山への道に入っていった。杞憂だった。ところどころぬかるみはあったものの、避けることができた。登りでは、松澤君も、尾崎君もかなりバテ気味で大汗をかいていた。四十八池へ下りていくに従い、雲が出てきた。秋の午後の速さに追い立てられるように、硯川へ戻った。熊の湯で温泉に入ろうとしたときにハプニングは起こった。

   
 

車のエンジンがかからない。朝、来るとき、ジャイアンツの下のトンネルを出たとき、ライトを消し忘れたらしい。またJAFの出番だ。1時間くらいかかるという。私は待つことにして、みんなに温泉へ歩いて行ってもらった。一昨年、蓼科でも同じことがあった。さあ八子ヶ峰へ登ろうとしたときに、キーを中に入れたままロックして以来だった。こんどの車は、キーは外から操作できる近代車になったが、ライトはうかつだったな。いろんなことはあったものの、同級会の仲間の夜の宴は、三輪さんの腕によりをかけた料理とハイネケンの生ビール、ワインで盛りあがった。今晩のメニューは中華だった。最後の冷たい坦々麺が絶品だった。これはベルサルームズの定番になるかも。
 
10月25−26日 「 「いま,会いにいきます」のケーキ」

山荘での会社の部門合宿に参加されたMさんとFさんは近々結婚されるという。彼女たちのために、ひと足早くHappy Weddingのケーキでお祝いをしたいという。それなら、フレールのケーキがよい。フレールは下諏訪のケーキ屋さん、蓼科の下のスーパーにも出店がある。電話で「12個のいちごが乗ったケーキを」と頼んだ。
 
  
 

竹内結子と中村獅堂が結ばれたきっかけとなった映画「いま、会いに行きます」は諏訪の町や原村の森が舞台、そして映画の始まりはこのケーキだ。
8歳の息子が20歳になるまで12年間、12個のいちごが乗ったケーキを毎年、子どもの誕生日に届けてほしいと頼んで竹内結子扮する母は消えていった。そのケーキ屋さんがフレール。そんな話をしながらのケーキカットは盛り上がった。
このパーティから1週間後、竹内結子と中村獅堂の離婚のニュースが流れた。別れる前でよかった。”いま出て行きます”では話にならなかったから。
 

10月22日 「 「お墓」開眼」
わが家のお墓を作った。新潟に父の墓はあるが、遠く、そこに入ったら、妻も子供も来てくれないだろうから、近くの府中の霊園に墓地を買った。お墓のデザインはもっぱら妻に任せた。少しユニークなものをと、お墓に蓼科の山荘の図柄を入れ、その回りをポインセチアの花で飾ろうとした。ところが事前に見せられた写真では、ポインセチアがどう見ても菊の花だ。中国で彫っているというが、中国では菊もポインセチアも同じらしい。やっと納得のいく墓石が運ばれてきて、今日は坊さんを呼んで開眼法要を行った。一昨年の秋、亡くなった母の遺骨を石和の老人ホームの共同墓から移してきた。母の三回忌も兼ねた。元気な坊さんの読経の声で、かなり威勢のよい法要になった。母も静かな石和の墓地から移され、詩吟のような勇ましい読経で驚いているかもしれない。私も、蓼科にも行けなくなり、朽ち果てたあとは、この中で、山荘の日々をなつかしむことになるのだろう。

   
 

10月7−9日 志賀高原トレッキング
ベルサルームズのオープン記念の極楽スキーメンバー・トレッキングで12名が奥志賀に集まった。満を持したトレッキングだったが、前日の6日から大雨の気配。本番の朝になっても雨はやまず、翌日に延期、この朝、蓮池でピックアップしてそのまま歩く予定だった人も、奥志賀ベルサルームズへ直行。
せっかく三輪さんが作ってくれた紅葉の四十八池で食べる予定だった栗おこわの弁当も、ベルサルームズの食堂で食べる残念さ。車に分乗して、奥志賀牧場や雑魚川の紅葉を見に行ったのが、せめてもの慰め。
低気圧が台風並みに発達し、西高東低の気圧配置なって、山は大荒れ、白馬では遭難者も出ていた。翌日になっても、雨やまず、紅葉の葉を吹き飛ばしていった。あきらめのつく天気で、みんな帰り足を急いだ。残ったのは、志牟田さんと、熊谷さんと私の男三人。部屋で仕事を片付けたり、読書をしたりで時間をつぶした翌日はなんとまあ、秋晴れが戻ってきた。三人でトレッキングに出かけた。私の車を大沼入り口に置き、熊谷さんの車で硯川へ向かった。秋晴れのすがすがしい空の下、四十八池から大沼に抜けた。最後は三人で熊の湯でひと風呂浴びて、私は蓼科へ、二人は軽井沢から東京への予定だったが、なんと熊の湯の外来客入浴は今日は締め切ったという。最後までついていない今回の極楽トレッキングだった。

   
 

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9 月

9月29日 「掃除・洗濯に明け暮れたこの夏」
「高原の空に流れる雲を眺めながら、デッキでワインを楽しむ」が理想の山荘の過ごし方だ。秋の気配が漂っている今日まで、この夏はそんな優雅な時は一回もなかった。毎日、掃除、洗濯、ベッドメーキングに追われていたような気がする。今日も、先週、使っていただいた中央大学のゼミ合宿12名のバスタオル、シーツ、枕カバーの洗濯、トイレ、風呂掃除そして布団を夏用から冬用に切り替えと、ほとんど一日中、動き回っていた。
9月初めに、中学の同級生・松澤君のピンポン合宿のときは、奥志賀のペンションでガラス拭きやベッド作りに追われ、会うことができなかった。今年は、このペンションの開業準備もあったので、蓼科の山荘に落ち着ける日が少なかったせいもある。
8月は週単位の利用にしてもらい、その間は山登りに出かけ、蓼科にはゲストが交代する土曜前後しかおらず、自然に掃除・洗濯ばかりの時間が多くなった。それでも、念願の荒川三山、赤石、聖も歩けたし、ユニーバーサル・スタジオで家族サービスもできたのだから、良しとしようか。まだやり残したことは多い。山荘を建てたときに余った材木を薪にしなければいけない。だんだん腐ってきて、シロアリが出るかもしれない。草刈り、風呂場の防腐材、ベランダのペンキ塗りと、やることは多い。雪の降る前に終えるだろうか。時間との戦いが始まる。秋の空に、八子ヶ峰の稜線が黄色に輝き始めた。登る時間ができるだろうか。夕暮れになると、人恋しい季節が、今年もやってきた。

   
 

9月23−26日 「ユニバーサルスタジオ」
下の娘の景の前期終了休みを利用して、大阪のユニバーサルスタジオへ行った。最初の日は、大阪へ3時過ぎに着いたので、23年前に住んでいた緑地公園に行ってみた。妻にとっては懐かしく、上の娘・穂梓が生まれて間もないときから、4歳まで住んでいた場所だ。景はまだ生まれていない。新大阪から近いのだが、私も、仕事でしょっちゅう来ているのに、再訪は引っ越して以来だ。緑地公園の駅に下りても、どの改札から乗ったのか、さっぱり記憶がない。毎日通っていたはずなのに。妻はよく覚えている。駅ビルに本屋があった、確かにある。出てすぐのところにヴァンヴェールというスーパーがあった、名前もそのままある。住んでいたマンションへの道も忘れている。住所を頼りに近づいていった。覚えているのは、マンションの前に田んぼがあり稲刈りをしていたこと、近くに神社があった、ここで穂梓の七五三の三歳のお祝いを賽銭を投げ入れて済ませたことなど。古い家並みの一角にきて、徐々に思い出してきた。マンションは、昔のまま、私たちが住んでいた302号室も、小泉さんが住んでいた部屋も、そのままあった。なんと田んぼもまだ残っていた。黄色い稲穂が秋風にゆれていた。「ただいま」と302号室に入っていきたい衝動に駆られた。

   
 

穂梓はちょうどなんば丸井に会社のブティックがオープンする応援に来ていた。夜、みんなで食事でもと言ったのだが、開店早々なのでそんな余裕はないという。そこで、なんば丸井に行ってみることにした。心斎橋から道頓堀を通って、歩いた。大変な人通りだ。大阪はさびれたというが、何の何のだ。丸井は開店二日目でごった返していた。エスカレータに乗るのも一苦労なくらい。4階の店に娘はいた。今日は、まだ売り上げ目標に行っていないという。妻と景の着れそうなものを選び4万円ほどの買い物をし、営業支援をした。
 

日曜、月曜とユニバーサルスタジオに行った。アメリカのユニバーサルには家族で一度、仕事の合間に二度行ったことがあるので、それほど積極的ではなかったが、ほとんどのアトラクションは新鮮だった。特にショーは英語でよくわからなかったアメリカとちがい、日本語なので面白かった。水がかかるのも、アメリカ以上で、ジェラシックパークではびっしょりかかった。水面に急降下するところで撮ってくれる写真はアメリカでも買ったので、違いを見たくて、ここでも買った。家へ帰ってから比較してみたら、私と妻の老け具合が最大のちがいであった。ガックリ。日曜でも、アトラクションは40分待ちくらいが多く、それほど混んでいる感じはなかった。これなら、月曜はもっと空いているはずと、ゆっくり出かけたら大はずれ。80分待ちはザラ、園内は、日曜以上に子供でごった返している。「なんでやねん?平日なのに」 どうも大阪は昨日、運動会をやった学校や幼稚園が多いらしく、今日は振り替え休日のようだ。「びっくりしたな、もう」

      
 

9月17日 「ベルサルームズ・オープン」

あれほど心配していた奥志賀のペンション・ベルサルームズもいよいよオープンの日を迎えた。私も今日はスタッフではなく、お客として接待される方だ。
サックスアンサンブル「ナメラーカ」のみなさんは、昨日から合宿で入っていて、今晩はオープン記念のコンサートをしてくれる。そのあと、ゲストとバンドの人も一緒にディナーパーティで開業をお祝いする。
コンサート前に、昨日から泊っているゲストで焼額山の稚児池にショートトレッキングした。奥志賀ゴンドラで上がり、第4リフトのゲレンデを稚児池目指して登っていく。30分も歩けば、池に着く。湿地帯の木道を歩く。この道でオコジョに会った。ネズミと思ったら、いやに胴が長い。顔も小さい。人馴れしているのか、遊びたいのか、繁みに入ったり出たりして、われわれを観察している。カメラを向けるとサッと逃げる。稚児池はきれいな山上の楽園といった雰囲気のところだ。下りが長い、奥志賀高原のスキー場沿いにグランフェニックスまで1時間以上の歩きだ。すでに紅葉が始まっているところもあった。グランフェニックスで昼食をとり、お茶もして、優雅な高原のホテルを楽しんだあとは、発哺温泉へひと風呂浴びに行った。

   
 

夕方、続々と本日宿泊組が到着する。宿の前は道路反対側も車でいっぱいになった。三輪さんはシェフ本番で大忙し、必死だ。熊谷さんも今日は、スタッフの一員で働いている。他の仲間はお客なので、すこし奇妙な雰囲気だ。
夜6時半過ぎ、サックスアンサンブルの演奏が始まった。サックスだけのバンドだが、すばらしい音色とリズムだ、バンドを指導している大栗さんは、まだ若いレディ。略歴は、東京芸大から海外留学、ルクセンブルクやリヨンなど数々の音楽祭で入賞している錚々たる演奏家だ。彼女の独奏もすてきだった。クラシックだけでなく、赤とんぼなどポピュラーな曲も美しかった。赤とんぼの演奏途中、「負われてみたのはいつの日か♪」のところで、三輪さんの奥さんの背に負われていた凛ちゃんが声を発していたのも、ピッタリだった。

   

パーティは、三輪シェフが繰り出す、イタリアン、中華、和食の数々のプレート、ハイネケンの生ビール、私が選んだワインなど、演奏の終ったバンドのみなさんも加わり、大賑わいになった。
9月始めまで、穴あき、資材置き場になっていた工事現場のような食堂が、演奏会場に、パーティ会場に衣替えしているとは信じられないくらいだ。ほんとうに良かった。興に乗ったバンドのみなさんは、いったん片付けたサックスを取りに行き、アンコール演奏と相成った。笑点のテーマソングも飛び出し、夜中まで盛りあがった。高原の夜は、サックスのメロディーとさんざめく楽しい笑いの中に更けていく。

   
 

翌朝、ゲストのみんなはお土産を手に帰っていく。
私と妻と、川島さん夫妻はこの日も滞在することにした。今日泊る客は私たちだけだ。四十八池を歩こうと出かけたが、台風余波で、天候芳しからず、リフトも動いておらず、硯川のプリンスホテルで煮込みうどんを食べ、木戸池から田の原湿原散策に変更した。草紅葉が始まった湿原は白樺が美しかった。熊の湯の硫黄泉で汗を流し、ひと気が少なくなったベルサルームズへ帰ってきた。静かになった食堂で、和食風のワンプレートディナーを頂いた。
さあこれからだ。冬場のお客はどれだけ入るだろうか?雪の降る前にやっておくこともまだいっぱいある。期待と不安が一緒にスタートしたベルサルームズ・オープンだった。

   
 

9月7−10日 「開業直前・即日配達便・ワイン試飲・料理試食」

椅子や靴箱、足りない食器など、いっぱいイケアで買った。三輪さんが行くと言っていたのを、一日ロスすると、開業に差し支えると私が買出しを買って出た。日野から船橋まで行き、半日かけて買い込んだ。途中で、車に入るか不安になり、少し買っては積み込みを繰り返した。最後は、組み立て椅子が箱のままでは入らず、箱から取り出して積み込んだ。組み立てているところを見ていたので、分解しても大丈夫と判断した。品切れ以外はすべて要求のものを買った。
さあ、志賀高原直行即日配達便の出発だ。イケアを5時半に出て、首都高速・北池袋・戸田経由で関越に入り、信越道から志賀高原へ、奥志賀に着いたのは10時前、5時間かからないドライブだった。椅子は即、組み立ててもらった。
 

宿に置くワインを試飲した。ピーロートというドイツの商社の営業の人に来てもらい、赤、白10本余りを試飲した。少しずつだが、10種類も呑むと、結構酔うものだ。赤2種類、白2種類を選んだ。
来週のオープンパーティ用に発注し、ゲストの反応を見て、常備するものを決めよう。(オープンパーティでは、結構手厳しい意見があった。意外にワイン通が多い。値段とのバランスを考えると、みんの言うようにはなかなかできないのだが...)
 

最後の追い込みには、三輪さんのお父さん、奥さんの両親も来てくれての手伝い。キッチン付リビングのフローリング仕上げ、靴箱設置、テレビ映り具合調整など、三輪さんのお父さんは大活躍。奥さんのお父さんも負けてはならじと、ペンキ塗り、ベッドメーキング、片付け、掃除に力を発揮。夕方にはお友達夫婦二組が来て、いよいよパーティの試食会、ハイネケン生ビールがすぐ切れてしまうハプニングもあったが、料理は好評だった。前日のワンプレートディナーも、「年寄りにはこれくらいで十分」と好評。みんなこればかり、注文されても困るので、どういうときに出せるか決めておく必要がありそうだ。着々と開業準備は進んでいく。何とかいけそうと希望が湧いてきた、オープン一種間前の夜だった。

   
 

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8 月

8月20−25日 「南アルプス、荒川三山、赤石、聖」
南アルプスは奥深い。麓の椹島まで、静岡経由でまる1日かかる。それからも長い。学生時代には北アルプスばかり行っていたので、南アルプスには縁がなかった。社会に出ると、きつく長い行程と聞いて、体力が続くか、不安で行けなかった。このまま、南アルプス深遠部といわれる荒川岳や赤石岳を知らず、朽ち果てるかと思うと残念だった。会社勤めを終えてから、蓼科周辺の山を歩き回り、体力に少し自信のある今を逃すとチャンスがないと、思い切って行くことにした。椹島から千枚岳に登り、悪沢岳を主峰とする荒川三山から、赤石岳へゆっくりした4泊5日で行くことにした。25日には蓼科に行き、次のお客の準備もしなければならない。車で行くことにした。東名で静岡へ行き、大井川鉄道の井川駅を越して畑薙ダムまで、約5時間。そこに車を置き、東海フォレストのバスで椹島ロッジへ1時間。着いたときは夕闇が近かった。ちょうど早稲田実業と駒大苫小牧の決勝戦が延長もつれ込んでいた。チェックインしてからもしばらくはロビーのテレビから離れられなかった。
 
千枚岳へはコースタイムで約6時間、かなり上まで林道に沿って登っていく。これが思い込みで道をまちがった原因となった。赤石岳展望台はかなり歩いた所にあり、林道と接している。地図を見ると、林道を行っても、かなり上部へ登山道と並行している。どこかで、林道と登山道を結ぶはずだと信じ、林道を歩き始めた。30分行っても、1時間行ってもその気配はない。さすがに1時間を越すと、不安になる。どん詰まりまで行って、ダメだとなると、2時間以上がロスになる。この日のうちに千枚小屋に着けるか?「進むべきか?戻るべきか?」,戻ることにした。途中でひとりの登山者と出会った。同じ考えで林道を歩いてきたという。登山道と接している場所へ戻り、少しスピードアップした。一緒になった登山者はかなり疲れているようで、「先に10名のグループが歩いているので、自分が道に迷って遅れていると伝言してくれ」という。しばらく歩いて、そのグループに追いついた。リーダーらしき男性は「え、そうなの、仕方ないな、○○さんも一緒かな」と、特に驚く様子もない。少し前、私が追い越したおばさんも同じグループだったらしい。こんなグループが遭難をおこすのかもしれない。遅れている人を面倒もみず、置き去り同様にする。「ゆっくり来てね」と言って、自分たちでどんどん先へ進む。きちんとしたグループでは、サブリーダーが全体をリードして歩き、リーダーは最後部を歩き、落伍者のフォローをしていく。

   
 
三日目の朝は、雨が降っていた。雨なら停滞と腹をくくったが、晴れてきた。最後の出発者となり、千枚岳へ向かう。森林限界を越えると砂礫のアルプスらしい道となった。陽も射し始め、視界も広がり、赤石岳の大きな山容が谷越しに現れた。あれを目指すのかと思うと、身もひきしまるが、大変だなと先が思いやられる。荒川三山の最初は、悪沢岳、千枚からの道はマツムシソウや名前は忘れたが南アルプス特有の花が咲き乱れるきれいなお花畑の中を歩いた。空は明るいが、ガスに覆われ、赤石も見えなくなった。悪沢岳の頂上も霧の中だった。しばらくすると、霧が晴れ、向かう中岳が見えた。なんとその間は深く切れているではないか。数百メートル下って、同じだけ登る。イヤハヤである。これが南アルプスの特徴だ。峰と峰の間に深い下りと登りがある。どんどん下り、やっとキレット底に着いたと思うと、こんどは急な登りになる。あせらずゆっくりゆっくり登り、中岳到着。このとき10時ごろ、ほとんどの人は、赤石を越えて赤石小屋まで行くという。さて、どうするか、ガスが絶え間なく広がるときに赤石岳を登るのも意味がない。早いけど、今日は荒川小屋泊りにしよう。三山最後は前岳をピストンして、荒川小屋へ下っていく。これまた長く深い下りだ。この下りもお花畑が広がり、楽しい。森林帯に入ってもなかなか着かない。昨日の千枚小屋とほとんど同じ高さではないかと思うほど下りた、森の中に荒川小屋はあった。端の寝床を確保してほっとひと息つく。夕方から雨になった。

        
 
四日目の朝は、朝日が輝き、美しい夏の青空になった。アルプス縦走らしい天気だ。歩き出しも気分よい。朝日を浴び、自分のシルエットを右上に追う形で、赤石岳への長い登りを一歩一歩、夏の山道を踏みしめていく。後ろを振り返ると、塩見が見え、その向こうに連なるのは北アルプスか。
中央アルプスはすぐ横にある。こんなに近いのか?赤石の頂上へは3時間で着いた。北岳から塩見を越えて歩いてきたというケンタッキー生まれの青年と話す。北アルプスを背景に写真を撮ってあげた。友達に見せて、来年は一緒に行こうと誘うという。「Have a nice day !」と別れたあと、私が北アルプスと説明した山並みは中央アルプスだということがわかった。
そういえば、乗鞍の位置がはっきりせず、変だな?とは思っていた。ケンタッキー青年に、まちがったことを教えてしまった。反省。中央アルプスと思っていた峰は、南アルプスから派生した名もない山並みだった。
今日は百間洞小屋まで行こう。そして、明日は南アルプス最深部の最高峰、聖岳を越えよう。赤石からは、またどんどん下る。明日は下った分以上に登りが待っている。歩く人は格段に少なくなった。百間平までは、アルプスの雰囲気だが、そこから下は森の中。沢水が豊富に流れる所に、百間洞小屋があった。時間はまだ11時、この日第一号の到着だった。ふんだんな水を使って、体を拭く。ちょっとした行水だ。この小屋の売りは夕飯に出てくる揚げたてトンカツ、こんな山の中で本格的なトンカツを食えるという。指定された時間の5分前には、待機されたしという指示があった。指示された時間に食堂に行くと、8名の席。まず8枚を揚げて出してくれる。次の8人は15分後、隣のテーブルへ。8人前ずつ、揚げる。キャベツも山盛りで、街のとんかつ屋より、おいしいくらいだ。南アルプスの小屋の食事は粗末というのが、学生時代の印象だったが、そんなことはない。千枚も荒川も、そして百間洞のいずれの小屋もメニューもよく、おいしい。この夜は、71歳の元気なおじいさんの隣に寝たが、夜中に足を二三回、蹴っぽられた。私のいびきに閉口したようだ。翌朝、私も何も言わず、おじいさんも何も言わず、何事もなかったかの如く、小屋を後にした。いびきではみんなに迷惑かけているなあ。

   
 
五日目の朝、期待の空はガスに包まれ、目指す聖は見えず。今日は10時間以上の行程なので、もたもたできない。5時前には歩き出した。聖は遠い。大沢岳のコルへ、百間洞小屋からはトラバース気味に林の中を登っていく。コルに着いてもガスの中、風もあり、寒い。
中盛丸山への上りあたりから、さっきの風がガスを吹き飛ばしてくれたのか、晴れてきた。聖岳も目の前に大きく立ちはだかっている。聖の前の兎岳が見えてきた頃は、すっかり青空になった。兎岳への登りは、こんなところ登るの?と思うくらい、えらく急で長い。これならガスの中で、見えない方がよかった。夏の太陽に照らされながら、大汗かいて頂上に着いた。振り返ると昨日越えた赤石岳もはるか遠くという感じだ。
向かう聖岳の頂上はまだまだ先の上に見える。ここから頂上までがきつかった。小さなこぶを登っては下りの繰り返しで、なかなか頂きへの道という雰囲気ではない。やっと上りになったと思うと、また下る。このあたりから、時々、右ひざにチクリとする痛みが生ずるようになった。快調だった足も長丁場で、磨耗したらしい。ひざが悪くなって歩けなかったときの初期と同じ症状だ。右ひざに負担がかからないよう気をつけて登る。まだかまだかと思いながら、高度を上げていくうちに、人の声が多くなった。聖の頂上だった。11時着、6時間の登りだった。
今日は椹島まで下りることにしているので、まだ先は長い。しかしもう二度と来ることはないだろうと思い、往復40分の奥聖岳までピストンすることにした。ザックを聖の頂上に置き、空身で向かった。なんと歩きが楽なことか。奥聖の頂から見える景色は、南アルプス最深部といわれるだけあって、深い森に包まれた谷あいと急峻な3000米の峰々。やっと、そしてこの歳になって、夢が叶ったという感慨が湧いてくる。
 
    
 
椹島は標高1200米、1800米の下りが待っている。聖平までの下りもきつい。右ひざに注意して歩いているうちに、変な力が左足にかかったらしく、今まで、擦れたことのない、左のかかと上の骨に靴の側壁があたって痛みだした。靴ヒモをゆるめてみるが、やはり当たって痛い。だましだまし歩くことにした。勾配がゆるくなると問題ない。聖平の小屋からは、谷間をダム目指して下りて行く。と思っていたが、意外にも高巻き状に結構登りもある。谷間からどんどん上がっていく感じだ。ダムまで下りると、椹島行きのバスに乗れるので、約1時間歩かなくてすむ。十分間に合うと思っていたが、予想外の登り下りがあり、時間がかかる。昭文社の案内地図で、ダムまで1時間20分と示している地点で、このとおりだとするとバス時刻には間に合わない。登ってくる人が来たので聞いてみると、そのくらいかかっていると言う。さあ、あわてた。足の痛いのも忘れて、小走り状態で急いだ。さいわい上り下りの少ない平坦な道が多かったので助かった。バス停に着いたのは、その30分後だった。1時間20分って本当? バスを40分も待つ余裕があった。最後はヘトヘトに疲れてしまい、バスが来るまで、道路に座り込んでしまった。
この夜の椹島ロッジは、いびきで蹴っ飛ばされないように、個室にしてもらい、ぐっすり眠った。

   
 
最後の日、麓から仰ぐアルプスの空は青い。今日も晴れている。
6時過ぎの畑薙ダム行きのバスに乗る。途中、赤石岳が見えるポイントで停車、くっきりと頂が望める。今日がいちばん良い日かも、と悔やんだ。が、聖岳が見えるポイントでは、聖は雲の中でみえず、何だかほっとする。
6日ぶりで、車に戻ってきた。来た道を静岡に戻り、途中から清水へ抜け、身延山、鰍沢、韮崎へ抜ける、中部縦貫道へ入った。初めて通る道。蓼科へはこの道がいちばん近い。途中の道の駅で久しぶりのソバを食べ、生気を取り戻し、一路、蓼科へ。
南アルプス市から、高速に乗り、通いなれた中央道と双葉で合流、小淵沢で下り、山荘に着いたのは午後2時過ぎ、落ち着く間もなく、山荘掃除と次の客のベッドメーキング、明日の夜からは高円寺で阿波踊りに参加するので、明朝には東京へ戻らなければならない。ゆっくりする間もなく、ああいそがし、オーシンド。
 
8月11−14日 「今村さん」
この夏は、土曜から次の土曜までの1週間単位でみなさんに使ってもらうことにした。8月に入って深沢さん家族、今村さん家族と続いた。そのあとは我が家が使い、私が南アルプスへ行っているときは、古川さん、つぎは青木さんと家族の利用で8月はフルに使われた。こうすると、私も遠出ができるし、利用される方も、一族や、友達なども呼んで、ゆっくり別荘生活ができる。
来年は、私はアメリカ旅行の計画があるので、二週間単位で誰かに使ってもらおうかと考えている。
今村さんは、1週間契約なのに、4日しか使われなかったが、なんと一族四家族、総勢14名という大パーティだった。泊りがけで集合するのは、このときだけと、みんな張り切って集まったようだ。すてきなThank youレター、寄せ書きを置いていってくれた。額に入れて、私の書斎に飾ってある。その寄せ書きから。 「4日間、小田山荘が大笑い、大歓声につつまれました。62才から6ヶ月まで、皆、本当に本当に楽しく過ごし、すてきな思い出がいっぱいです」「木のぬくもりに囲まれ、絶えず笑い声が家中に響いていました。本当に素敵な時間をありがとうございました」「清潔感のある住みやすい山荘と涼しく快適な高原で、ストレス全く忘れ、思い出深い夏休みとなりました」....   こんなに喜んでいただけると、利用してもらう私もうれしくなる。
昨年、今村さんの奥様が植えてくれたアナベルの白く大きな花も咲き、見ごろとなった。まっ白なアジサイ科のアナベルは、さわやかな高原の夏にふさわしい。”今村さんはいいものを植えてくれた。ありがとう。” 

   
 
8月3−8日 「Bersaroomsお掃除」

2奥志賀のペンション、ベルサルームズは9月オープン、先月行ったときは、五里霧中の状態だった。お掃除ヘルパーで腰を落ち着けて手伝いに行った。未だ、床安定せず、フローリングへの張替え工事などもあり、まだごった返していた。客室は一部を除くと、準備しておけるので、そちらを手伝うことにした。私は大工工事や電気工事は苦手なこともある。まずは、ユニットバスの清掃、いくつかは済んでいたが、大半は前に営業したいたときのまま、トイレから換気扇まで、磨きあげ、水がちゃんと流れるかも調べる。15箇所もある。この清掃での新たな発見、トイレの黒ずみやシミは重曹洗剤で念入りにこすると次第にとれ、ピカピカになる。クロス壁のシミも重曹で落ちる。歯ブラシ片手にシミ落としだ。シャワーカーテンも結構汚れていた。浴槽に洗剤を入れ、漬け置きして、これも歯ブラシで汚れている部分を丹念に落としていく。きれいになったユニットバスは、使うのがもったいなくなるほどだ。
次は、窓拭き、景色を楽しめるようにと全客室の窓の中央部が大きな1枚のガラスになっていて、互いちがいには開かず、左右の網戸のついた小さな窓から窓拭き棒を伸ばして拭かなければならない。これが大変、手すりのない窓から体を乗り出して拭くには勇気がいる。傾斜地に建っている建物なので、地面から20m以上の高さがある。落ちたら、怪我だけではすまないかもしれない。窓拭き棒だけでは水分がふき取れないので、空雑巾でも拭くが、中央部には大きく体を乗り出さなければならず、下を見ると怖くなる。しかし、その窓から見る高原の森と山並みの景色はすばらしい。「高原のはるか彼方の山並みの向こうに夏の雲が湧き、野分の風が草原を渡ってきた、風たちぬ、いざ生きめやも」の世界が広がっている。しばし窓拭きの手を休め、「風たちぬ」の情景を見つめていた。

   
 

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7 月

7月29日 「梅雨明けまじか 」
今年の梅雨はことさら長く、激しい。7月の末になっても、雨続きだ。
今日は快晴とは言えないが、まずまずの晴れ。こんな日は、洗濯物をベランダ中に干す。布団カバーがいちばん大きく、次にシーツ、乾きにくいのはバスタオル、枕カバーは何枚も一度に干せる吊ハンガーにまとめてかける。
ベランダは満艦飾。湿度の低い高原は、少しの晴れ間でも昼過ぎには乾いている。最初のうちは、布団カバーやシーツはクリーニングに出していたが、洗濯代もバカにならず、ボックスシーツのしわはきれいにとれないので、自分で洗うことにした。乾燥機にかけて手間を省こうとしたが、しわになったり、湿っぽかったりで、外に干すのがいちばんとわかった。洗濯は原始的方法がよい。

    
 

干してる間に、買ったばかりの草刈機で、うっそうと繁った前庭に挑戦した。
山荘ができたばかりの一昨年はウッスラと草木が生えていたが、年々、濃くなり、今年はタラの木やニセアカシアなどの潅木がはびこり、ヨモギ、野アザミなどの草花も深く大きくなった。そのため植えたシモツケ草やアナベルが、雑草の中に埋もれてしまい、見えない。
去年、設置した庭の照明も草の中だ。タラの芽には未練が残るが、木そのものはトゲだらけ。未練を断ち切り、潅木も草も、バッサバッサと草刈機で刈り取った。ベニバナシモツケ草の淡いピンクも引き立つようになった。
今村さんの奥さんに植えていただいたアナベルの白い花も咲いていた。三分の二くらいの草木を整理し、残りは次の楽しみにすることにした。できれば、自然の草地にしたいのだが、この潅木の短期間でのはびこりようからすると、草地にするにはかなりの手間がかかるような気がする。ああしんど。
  

7月27日 「奥志賀ペンション、未だ霧中」
1ヶ月ぶりに、志賀高原に行った。残しておいた薪の整理と草刈機の実習が今回の目的。床暖房の水漏れ工事は終っていたが、穴ふさぎはこれから、雪ではがれた外壁の塗装、屋内の壁補修もこれから。開業の9月までに間に合うか、不安になる。
三輪さん家族は、至って元気。凛ちゃんは熱がでたとかで保育園を休んでいたが、動き回って熱があるとは思えないよう。奥さんも、前はマスクをかけ、帰るときは寝込んでいたが、今は新しい環境にも慣れたようで明るい。
三輪さん自身もトラブルが次から次へと出てくるのを楽しんでいるよう。これも爽やかな志賀高原の自然に癒されて生活しているせいかもしれない。
商売が始まったら、また次元がちがってくるのだろう。冬になると、この自然との戦いが始まる。雨も昼過ぎにあがり、草刈機講習を三輪さんから受け、建物の回りを刈り出した。コツはすぐつかめた。
裏の斜面の笹を刈ると下から、種々雑多なゴミが現れた。ジャムやクリームの容器、ペットボトル、ベルト…、どうも燃えないゴミをここに放り捨てていたようだ。草刈りを切り上げ、ゴミ拾いを始めた。カーペットが水をたっぷり含んで捨ててあったり、ダンボール箱が半分、土に埋もれていたり。掘り出すと切りがないようで、恐ろしい。少し乾いた頃にもう一度やろう。
8月に入ったら、一週間くらい泊り込んで整理と開業準備に来よう。

   
 
7月15日 「木曽駒ヶ岳」
極楽スキークラブのメンバーで、木曽駒ヶ岳に登った。
金曜の夜、山荘に集まり、アメリカンクラブ・サンドイッチを各自好きなように作り、翌朝7時には車3台に分乗して12名は駒ヶ根へ向かった。
千畳敷カールにロープウェイで下りたのは10時前。宝剣岳鞍部へのジグザク道をゆっくり登り始めた。おおぜい登っている。千畳敷は雪がまだ残っているほどで、高山植物の花もあまり咲いていないが、上に行くに従い、ハクサンフーロやチングルマが花を開いていた。
鞍部から上は霧の中の登りとなった。時々、風に霧が吹かれて、稜線や青空がチラッと覗かせる。ひと皮むければ、夏の空なのだ。頂上に着いたのは12時半、2時間半かかった。三千メートル近い山だが、ロープウェイのおかげで、一登りで来れる。八ヶ岳連峰の赤岳も同じような標高だが、こちらにはまる1日かかるのに。
休日の午後のロープウェイは2時間待ちと聞いていたので、サンドイッチを食べて、急いで下った。山は登りより、下りで事故が発生しやすい。急ぎつつ、ゆっくりが下りの基本だ。この時間でも、下からどんどん登ってくる。幸い、ロープウェイは1時間もかからず乗れ、駐車場に戻ったのは3時だった。
梅雨明け間近の下界は灼熱模様、1時間前の山の上とはエライ違いだ。山荘へ戻るハイウェイで、稲妻が光り、猛烈な雨が降り、前方が見えない。思えば、この豪雨がそのあとに起こった岡谷の土砂崩れにつながる大雨の始まりだった。この夜も、次の日も、翌々日も降り続いた。ほんの間の梅雨の晴れ間に滑り込みセーフで登れたような気がする。

   
 
帰ってきて温泉に入り、そのあとはトレッキング後のお楽しみ、溝上さんによる広島焼きパーティだ。3年目を迎えたこのパーティも磨きがかかってきた。
人数も多くなり、今回はホットプレート3台で、同時に焼き上げる。スピードアップを図った。同じコンセントに3台つないだら、ブレーカーが落ちるというハプニングもあったが、肉から海老から焼きそばまで入ったボリュームたっぷりの広島焼きはお多福ソースの甘辛さも相まって、すこぶるおいしい。
このためだけに、東京から、雷で1時間以上も遅延したあずさで駆けつけた人もいるほど。パーティの後半には女性陣の浴衣姿による東京音頭と雨のベランダでの花火もあり、トレッキングのフィナーレにふさわしい盛り上がりになった。高原の雨の花火も、しっとりしていてなかなか味があった。夏雲湧く季節はもうそこまで来ている。

   
 
7月7−11日 「オフサイトミーティング続く」
先月のベンチマークの合宿に続き、この週もふたつの会社の合宿があった。
こんなに続くのははじめてだ。PCプロジェクタや白板が活躍した。高原の山荘でのミーティングの効用をいくつか述べよう。
@都会とちがい、窓の外は緑に包まれていて、なんといっても自然の風が窓から入ってきて清々しい。
Aリビングでのアットホームな中での会議、笑いの絶えないなごやかな議論が続く。
B終ったあとの手作りのパーティも、みんなでワイワイとやれて楽しい。
C酔っ払っても、帰る必要もなく、リビングの上ですぐ休める。
D時間があれば、トレッキングなど高原歩きもでき、チームワークは自然によくなる。(自画自賛か?) 

    
 

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6 月

6月30日 「ベンチマーク合宿」
ファシリティマネジメントの仲間で今年やっているベンチマーク活動の合宿を山荘で行った。名古屋からも来られた。残念なことに二日間とも、雨模様で、八子ヶ峰トレッキングはできなかった。
いつもは参加各社の持ち回りでミーティングをやり、そのあと懇親会だが、今回は趣向を変え、蓼科に集まった。3人は翌日の予定があるとのことで、ミーティングだけの参加、2時間、山荘にいただけで東京に帰っていった。かわいそうな人たち。
ミーティングの後半からは、ビールを呑みながらの会議になった。そのまま宴会になだれ込んだ形で夕食となった。山下さんが持ってこられた酒の名前が「我が山荘」。なんとまた、ピッタリのネーミング。先日、三輪さんが持ってきた焼酎が「明るい農村」。酒のネーミングで盛り上がる。「明るい農村」からNHK「昼のいこい」が連想され、その作曲が古関裕而と聞いて驚く小林さん。早稲田の「紺碧の空」も「六甲おろし」も古関裕而だと話が広がっていく。雨が上がった夜のベランダに出て、酒盛りは延々と続いた。「ファシリティマネジメントと企業のCSRは共通している」と酔った山下理論の話で、ファシリティマネジメント合宿は締めくくられた。

 
6月25日 「レンゲツツジ花盛り」
岳文会後輩の深田君が来た。歳とともに昔ならした山登りをしたくなったという。登山靴も買い、本気のようだ。それなら足慣らしに八子ヶ峰に誘った。庭の手入れに来ていた妻も一緒に登った。晴れ間の少ない日だったが、槍ヶ岳や穂高が見えた。残雪の多い北アルプス。それもすぐにガスに覆われた。
草原はレンゲツツジが満開だった。今年は例年より10日くらい遅いという。雪どけのあと、寒い日が続いたので花の色づきもイマイチという。でもこれだけ咲いていると、きれい、みごとだ。山一面が真紅の絨毯のようだ。いつもより歩いている人も多い。しかし7月のニッコウキスゲのときよりは断然少ない。やっぱり梅雨時で敬遠するのだろう。八子ヶ峰がいちばん輝いているのは、今、レンゲツツジの季節のような気がするのだが。

    
 
6月22日 「奥志賀の薪割り」

三輪さん家族が志賀高原に週末、引越したが、凛ちゃんが熱を出し、早々と中野市内の病院に入院。その退院直後にチェーンソーを持って奥志賀に行った。凛ちゃんは元気になっていたが、床暖房の不凍液が十分でなかったようで、配管から水漏れの箇所があり、この調査をしないと、次のステップに進めないという事態が発生していた。開業を9月にしておいてよかった。
雪で倒木した木が幾本か、転がっているのでそれを片付け、薪にして蓼科に持ってくるというのが、今回の目的。斜面に転がっている木の所へチェーンソーの電源を引っ張り、枝から切り始めた。どうもこの冬の雪だけでなく、それ以前から倒れていたのではないかと思われる木々が多かった。ストーブに入る大きさに最初から切るので、結構時間がかかる。幹を切り、枝を裁断し、斜面から上へ引っ張り上げ、積み上げるのに暗くなるまでかかった。
今晩はこのペンションBersaroomsの客室を使用する第一号の客となった。
三輪さんがセットアップしてくれた部屋は広く、窓からは志賀から秋山郷への山なみが望める。部屋のシャワーを浴びて、三輪コックの手になるお好み焼きパーティ。肉体労働のあとのビールはすこぶるうまい。寅さんの言う「労働者諸君」の楽しみがよくわかる。イケアから仕入れてきた羽布団も寝心地よかった。これなら快適なペンションになりそうだ。

   
 

6月20日 「甲斐駒ヶ岳」
山荘の上の八子ヶ峰に登ると、360度の視界の中にいろいろな山が見える。
すぐ近くに蓼科山、それに連なる八ヶ岳の峰々、蓼科山の左手に浅間山、四阿山、根子岳、その奥に横手山、さらに左奥に妙高山、そして白馬から槍、穂高、乗鞍までの北アルプスの山々、冬の晴れた日には剣・立山も遠望できた。
手前に美ヶ原、車山、乗鞍の左に木曽御岳のどっしりとした山容。さらに左に木曽駒ヶ岳から空木岳への中央アルプス、そして北岳、塩見、鳳凰三山の南アルプス。もっとも険しく立ちはだかっているのが甲斐駒ヶ岳。
これからの山登りの目標を、八子ヶ峰から見えるまだ登ったことのない山に行こうということにした。八ヶ岳は先々週、終った。そして甲斐駒ヶ岳だ。

 
梅雨の晴れ間をねらい、この週は空けておいた。天気予報によると、二三日は大丈夫そう。蓼科から桜の高遠を越えて長谷村に車を走らせた。戸台から村営バスが北沢峠まで走っている。今は長谷村も伊那市になった。市営バスというべきか。
天竜川の源流からぐんぐん高度を上げ、標高2000mの北沢峠へ着いたのは午後3時過ぎ、下は梅雨晴れのうだるような暑さだったが、峠はヒンヤリしていた。長衛荘の今日の泊りは家族連れの3人と私だけ。休日前後になると甲斐駒と仙丈岳の百名山踏破で連泊する登山客であふれかえるという。
家族連れは朝5時前には出て行った。私は6時過ぎに仙水峠経由で駒ヶ岳に向かった。仙水峠から仰ぐ駒ヶ岳は、はるか上に見え、その手前の駒津峰も真上という感じだ。こんな急なところを登っていくのかと思うと、これからの道のりが思いやられる。ゆっくり一歩ずつ、急坂を登りだした。こんな場合は一定の時間をゆっくりと歩を進め、休まないことだ。登るごとに、頂は近くなり、峠は下になっていく。あんなに上と思っていた駒津峰も1時間半、途中一回の休憩で着いた。
トマトを食べていると、先に出た家族連れ3人が登ってきた。私が下山道にとっている双児山経由で登ってきていた。このあたりからは岩場が現れる。頂上直登の矢印に従ったら、乗り越えるのが大変な岩場が続き、ひとりではヤバイと断念、魔利支天経由に切り替えた。
花崗岩特有の白い砂浜のような道が頂きに続いている。北アルプスの燕岳を思い出す。だんだんしんどくなり、一歩一歩がつらい。それでも10時過ぎには頂上の祠に着いた。
北沢峠から4時間、蓼科山の裾野に広がる山荘のある高原が見える。いつもはあそこから、この山を眺めているんだなと思うと感慨深い。登りたいと思っていて、何回か計画して実現しなかったこの頂上。久恋の山だった。

   

 
6月10 「松本君の畑」
社会へ出て最初の会社で同期だった松本君に久しぶりに会ったのが昨年。
富士見に別荘があるというので、久米田君と訪ねた。十年以上前に建てたようだが、最初の頃は庭作りに夢中になり、いろいろな木や花を植えた。クリスマスツリーのモミの木を庭に植え替えて大きく育っていた。
我が家のツリーは2年連続、枯れてしまった。その次に進んだのが、野菜作り。家の庭では物足りなくなり、富士見町が主催する農園の一角を借りて、本格的な高原野菜作りに乗り出した。
今日は先生が来て、指導に当たってくれる日ということで、畑に行ってみた。
トマト、ナス、かぼちゃにすいか、ゴーヤまで植えている。風よけのビニールシートが飛ばされ、より頑丈なものに取り替えるのが今週のメインの作業とか。
収穫の頃は時々寄って、ご相伴に預かろうと思う。この夜、わが山荘に松本君も来て、ガムラスタンの北欧料理で旧交を温めた。
還暦を過ぎると、昔の仲間との出会いが増えてきた。 

   
 

6月9日 「遅く来た鳥の巣作り」
「今年は来ないのかな」と思っていたら、6月になってポストの中に鳥の巣が作られ始めていた。去年は青い草が敷き詰められていたが、今年の巣は、木の皮が多く茶色の巣だ。鳥の種類が違うのかな?それにしても不思議なのは、ポストの入り口はせいぜい2cmx30cm程度の隙間しかない、この2cmの幅にどうやって親鳥はもぐり込むのか?よほど小さな種類の鳥かもしれない。(せっかく作り始めたのに、その後覗いてみると工事は進行せず、結局、7月に入って片付けた。作りやすいようにと、ポストを半開きにしたのがアダとなったようだ)

   
 

6月6−7日 「八ヶ岳縦走」
去年は蓼科山から入り双子池で終った八ヶ岳縦走を、今年は編笠山から始めた。
札幌から小野さんが来て、富士見高原のゴルフ場から登った。しばらくは林の中の快適な登りだったが、頂上近くの岩がゴロゴロしている歩幅が一定しない辺りから、足がつり始めた。「頂上まであと一分」の標識では、「まだ一分もあるのか」と思うほど、足を出すたびごとに激痛が走る。両足がつった状態で頂上着。これでかなりバテてしまい、青年小屋で大休止。権現岳への登りで、ようやく回復したが、苦しい登りだった。
権現小屋に着いたときは、小野さんもバテていたようで、ビールを飲み干せなかった。客は単独行の男性と我々の3人だけ。小屋番の青年の「毎日カレーを食べている」の話に、「よく飽きないね」と驚く。
夕方、雷とともに雹が降り、一面真っ白になり、冬景色になった。外のトイレは一段高い崖っぷちにある。ここへの往復が、凍った雪道のようになり、こわいことおびただし。
翌朝、1時間ばかり遅らせ、溶けるのを待つが、思い切って7時ごろ出発。キレット越えの赤岳は、岩場の連続。はしご、くさりを頼りに雪道を進む。陽射しが高くなるにつれ、溶けてきたが、こんどは急な岩場で気が休まらない。赤岳の頂上には誰もいなかった。昨日越えた編笠がはるか遠くに見えた。蓼科山からわが山荘の高原も結構遠い。
横岳の登りで小野さんの足取りが重くなり、休みもひんぱんになった。頂上で先に進むか、山荘に帰って温泉に入るかを協議。続きは来年やろうということになり、夏沢峠から下りることにした。硫黄岳で残っていたサクランボを食べつくし下山。
今年も挫折したが、来年の楽しみができたと思えば悪くない。編笠から夏沢峠は南八ヶ岳なので、「南八ヶ岳連峰縦走」という大義名分もついた。

   
 

6月4日 「第60回ウェストン祭」
ウェストン祭は60年目を迎えた。
第一回は1946年(昭和21年)、終戦の翌年、まだ食うや食わずのときに、山を愛する人々が、日本アルプスを世界に紹介してくれたイギリスの宣教師ウェストンに感謝を捧げるために始まった。戦時中、敵国人のレリーフを上高地の岩からそっと外し、日本山岳会の倉庫に隠していた。そのレリーフを元の場所に戻してのウェストン祭だった。
今年も爽やかな初夏の空のもと、安曇小学校4年生とエーデルワイスクラブの歌で開幕した。岳文会の仲間SさんとKさんも一緒に参加した。このあと、前穂の岩壁に逝った先輩のレリーフ参拝に、新村橋の先の奥又白方向の林に向かった。まだ雪の残る明神池からの道は静かで、ニリンソウが咲き乱れていた。
徳沢の草原もニリンソウの群落で埋め尽くされていた。その先にそそり立つ前穂北尾根は午後の陽射しに輝いている。徳沢はいつ来ても、心が休まる所だ。この草原で憩うと「山に憧れ、山に行き」の青春の日々が蘇ってくる。私もあの頃から40年。還暦を過ぎたというのに、上高地に来て、梓川沿いの道を歩いていると、あのときの山行のひとつひとつが思い出され、「今度はどこへ行こうかな」などと、次の山行計画を考えている自分に驚いてしまう。
そんなゆったりとした気分も上高地のバス停に戻ってきてからがあわただしくなった。その日のうちに東京へ帰るSさん、Kさんを指定したあずさに間に合せるべく、時間を気にしだした。
沢渡からは自分の車に乗りかえ、中央道を追い越し車線一辺倒で走り、茅野駅に着いたのは発車3分前。なんと松本からの特急より速かった。あわただしくも、二人は満足されて帰ったようだ。

   

 

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5 月

5月21日 「五月晴れの八子ヶ峰」
本今年は週末になると雨になる。今週もOさん一行が来られた金曜、土曜は大雨だったのに、帰られる朝になったら五月晴れだ。
庭のタンポポも大きく花、開き、カッコウの声も林越しに聞こえる。こんな日は、山に登ろう。
お客さんを放って、いそいそと支度して八子ヶ峰へ向かった。
ひと月前に登ったときは、森の中は雪一面で結構、足をとられたが、すっかり消えていた。わらびやスミレの花が顔を出していた。尾根に近づくにつれ、散りつつある山桜が春の名残りを感じさせる。
木曽駒ヶ岳と御岳の残雪豊かな白い峰々がことのほか美しい。春霞の中、遠くに穂高、槍ヶ岳も見える。五月晴れの山に登る人も多い。シニアのパーティ三組、子供連れ家族一組、アベック二組、今日の山道ですれ違った人たちだ。
尾根から、わが山荘の屋根がはっきり見えた。林が緑に包まれると判別しにくくなるが、まだうっそうとしていない新緑ときれいに晴れ上がったこの季節ならではの展望だ。山にも春が来た。

   
 
5月21日 「オタマジャクシはカエルの子」
♪オタマジャクシはカエルの子、カエルの孫ではあるまいな♪
去年の今頃は、庭の小さな池に、カエルのカップルが押し寄せ、子作りに励んでいた。今年は、何が影響しているのか、もう孵化したオタマジャクシがいっぱい泳いでいる。親ガエルの姿は見えない。去年よりワンステップ早くなっているようだ。
このオタマジャクシが、みんなあのヒキガエルになったときのことを想像すると、ゾッとする。いつまでもオタマジャクシのままでいてくれたらいいのにな。
そういえば、蜂や小鳥の巣作りの気配も今年はない。昆虫の乱舞も少ない。
何か去年とちがうのだ。ただタンポポや桜など、春の花の咲くのは遅い。動物と植物では季節の感じ方が違うのだろうか。

    
 
5月13日 「 「アメリカの古きよき時代の歌」を楽しむ会」
会社勤めをしていたときの仲間、宮沢さんが学生時代に作っていMash☆Liquor のメンバーが高原のカントリーライヴをやってくれた。
集まった人たちは、会社の仲間を中心にフォーク好きの私の知り合い。
雨の中、コントラバスやアンプなど、大量の機材を運び込み、リビングにセットアップ。このときはメンバーのみなさんに大変なご苦労をかけた。
そして音合わせ、ログハウスでの音響はいつものライヴと違和感があるようで、調整していた。そして暮れなずむ6時過ぎから開演。その模様は、Mash☆LiquorのHPから転載。
「蓼科の山荘でのパーティーに泊り込みでお招きいただき、途中に10分ほどの休憩を挟んでおよそ2時間にわたってキングストンのナンバーを演奏してきました。お客様の好みは、キングストンにこだわらないカントリー、フォークソング、ブルーグラスと多岐にわたり、果たして、Mashの演奏を楽しんで聞いていただけるか一抹の不安もありましたが、ふたを開けたらそんな心配も吹っ飛び、皆さん、大変楽しく参加いただきました。
Bob☆MashのMCは、いつもにもまして丁寧に曲の解説を折込み、キングストンの曲を知らない参加者の皆様にも”よくわかる”と大変好評でした。
うら若き(昔?)女性のファンをさらに獲得した模様です。
山荘のオーナーが大変こだわりの方で、大型の冷蔵庫に”壜”のコーラ、ビール(クアーズ、ドイツの珍しいビール(名前忘れました)など)がいっぱいに用意され、それを片手にビーフジャーキーをかじりながらの声援で、アンコールもいただき、無事終了。
それから、食事とパーティーに突入と相成りました。
NickとDeanは、宿泊先のペンションでパーティーの後ウイスキーのボトル2本を開けたとか。
すがすがしい高原の空気も満喫でき、小田山荘オーナーと参加された皆様に感謝の2日間でした」 註:ドイツのビールはレモネード入りのラドラーです。

    
 
マッシュ・リカーの魅力が蓼科の山中に響き渡りましたね。
瓶入りクアーズと特に翌朝、二日酔いで飲んだ瓶入りコーラが最高でした。
あまりにも美味しいのでつい2本飲んでしまいました。
蛙池や枕木遊歩道など、山荘周辺も着々整備され次は何かなと、こらからも楽しみです。次の企画を楽しみに待ってます。
宮澤さん、芸名をピート・シガー宮澤又はピート宮澤にしたら?ひげとバンジョーが良く合ってます。クアーズにはタコチップのように。
アコースティックギター、ベースそしてバンジョーがログハウスと共鳴し、私はビールとワインに共鳴した一夜でした。本当に有難うございます。
次回がもっと楽しみです。(ワイン通のKさん)
 
初体験の「高原ライブ」に参加できましたが、まだ、あの余韻が残っていて、ハンクウイリアムスのレコードを妻に割られ、怒れなかった青春時代の優しかった一面を、久方振りに思い出すことができました。
なんと・・・素晴らしい機会を与えて頂きましたことに感謝しております。宮澤さん、バンジョウの音色は素晴らしいですね、これからのゴルフはあのリズムでやれたら、あのチームワークがあったなら、多分、来年の倶楽部対抗戦がホームコースの都留で行われるが、山梨地区予選で優勝できるような気になってきています。 (昔ラグビー、この間までスキー、今ゴルフのSさん)

   
 
5月6日 「蓼科の桜、花盛り」
蓼科湖の前の聖光寺、トヨタが交通安全祈願のために建立したお寺。
車作りの企業としての罪滅ぼしかもしれない、下種のかんぐりか。
この境内の桜がみごとだ。樹齢40年、まだ若い木々のソメイヨシノが満開になった。去年より少し遅い。
連休の後半なので、桜の下でのパーティはそんなに多くない。先月末の角館、弘前はまだつぼみだったので、欲求不満を少しはこれで晴らせた。天気もよく、気温も暖か、春うらら、みごとな桜に頬もゆるむ。やっぱり桜は咲いてなくちゃ。そして晴れていなくちゃ。参拝客が代わる代わるにつく境内の鐘の音も「ゴ〜ン」と春爛漫の蓼科に響いていく。

   
 
5月2日 「岩原同窓会」

別みんな青春の凛々しい面影はなくなった。それぞれの人生に年輪を刻みながら、あれから40年近く経った。
岩原のスキー場の山荘を借りてスキーに夢中になっていたメンバーの消息が少しずつわかってきた。河合はシンガポールにいた。メールが来た。「貴兄も“そのようである”ように、自然・雪と共に生きておられる様子(仕事は別にしても)。私も“そのまま”のように、出来る限り自由に生かさせて頂いています。シンガポールに参りまして30年位になりましょうか。日本は温泉が楽しく、食べ物の美味しい国と理解しています」。卒業以来、まったく消息がつかめず、彼の生き方からすると、もうこの世にいないかもしれないなどと思っていた。
彼の消息を教えてくれた川崎は香港にいる。シンガポールの日本人会でばったり会ったという。古賀はボルネオにいるという。林は新潟に、深沢は熊谷、松本さんと斎田は名古屋に。世界はひろくなったものだ。
その中の5名が新宿に集まった。岩原に集まり散じた面々もこの年齢になると、昔に回帰してくるものらしい。スキーも山もあきらめない私がいちばん岩原の青春を続けているのではないか、と思っていたが、河合が言うように「自由に生きる」を知らず知らずに教えてくれたのが岩原の生活だったのかもしれない。という意味では、みんな世界や日本中に散って「そのままに、そのようであるように」生きてきたのかもしれない。岩原スキーロッジは憧れの場所だった。
(写真)
              【最近のスキー場マップ】
    

           【青春時代のスキー場風景】(PDF)

 

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4 月

4月29日 「湯瀬温泉」

4月に行った湯瀬温泉のなつかしき思い出をひとつ。
小学校6年のとき、知り合いのおじさんとおばさんに連れられて行った旅行。
そのとき十和田湖をまわって泊った宿がここ湯瀬温泉だった。
50年前の話だが、初めて自分も加わって計画した旅行だったので、今でもこのときのひとつひとつの情景がはっきりと覚えている。越後村上の駅から、鈍行の夜行列車で青森に向かった。
蒸気機関車はトンネルのたびに窓から煙と煤が入ってきて、閉めたり開けたりするのが忙しかった、青森から酸ヶ湯温泉や奥入瀬を通って十和田湖へ行った。
酸ヶ湯で食べた山菜そばがすこぶるうまかった、教科書で習った「われヒメマスを見たり」の和井内貞行が望遠した発荷峠を通り湯瀬温泉へ行った、予約していなかったので旅館探しに苦労した、そのとき泊ったのは今日と同じ姫の湯ホテルだった、規模があまりにも違ってしまったが、山間の渓流に沿って建っていたことは記憶と同じだった。狭い部屋だったが、お膳を並べて食べた。
明日は松島まで行くと胸をワクワクさせながら床についた。連れて行ってくれたおじさんはもうだいぶ前に亡くなり、おばさんも昨年、亡くなった。みんな去っていっても、思い出だけは私が死ぬまで消えない。
 

4月28−30日 「秋田・弘前・角館♪ハイ キタカサッサ コイサッサ」
「ハツモリ鰰々(ハタハタ) 男鹿ブリコ♪ハイ キタカサッサ コイサッサ」、秋田音頭の名調子に合わせると、今回の桜の旅は、「アキタ、ヒロサキ、カクノダテ♪ ハイ キタカサッサ コイサッサ」てな具合になる。
東北、桜の名所の旅は、残念ながら、咲いていたのは秋田千秋公園だけ、次が弘前城の一分咲き、角館はまだつぼみだった。桜はむずかしい。
3月の予想では4月25日頃開花ということだったので、5月連休に予約していたのを急遽4月末に変更、これが裏目にでた。
4月に入ってからの寒さで、開花は一日一日と遅れていった。高遠も同じだった。来年は予約せず、4月末から5月にかけてオープンにしておき、直前の予想でいつでも出かけられるようにしておこう。
それでも弘前も角館もすごい人出だった。

     

 
今回の旅はパッケージだったので、桜プラスαがあり、五能線の白神山地を巡るコースは収穫だった。
白神山の麓にブルーの水をたたえてひっそりとしている青池、十二湖駅から乗った、リゾートしらかみ号の楽しさは、これでもJRの企画かと驚いた。
途中千畳敷の駅では10分停車、その間、海岸に出て歩き回れる。発車3分前に汽笛が3回鳴り、出発を知らせてくれる。
鯵ヶ沢から五所川原の間では津軽三味線が乗り込んできて、先頭車両で生演奏、車内放送で他の車両にも実況中継、それが終ると、津軽弁の昔っこの語り部による昔話、車窓にまだ真っ白な岩木山を向こうに、手前にはこれから芽吹くリンゴの木々。
途中の駅も、町の歴史や名産紹介など織り込んだ車掌さんの説明と、至れりつくせりのサービスだ。こんな列車の旅なら楽しい。とても印象的な五能線だった。桜の不完全燃焼が少しはやわらいだ。
 
4月19日 「書斎開き」
久しぶりに、山荘の仕事机で原稿書きをした。
冬の間は寒くて、書斎ともいうべき、寝室横の空間には座れなかったが、空気なごみ、パネルヒーターを横に置けば、寒さもしのげる程度になった。
昨日とはうって変わってどんよりとした空模様、こんな日は、外に出る気も起こらず、小屋の中に落ち着ける。
モバイルオフィスのセキュリティ対策の記事原稿だ。不得手な分野なので、気が進まないが、取材メモを見ているうちに、構想が固まってきた。書き始めると意外にはかどる。春鳥の鳴き声が窓の外に響く。その中にウグイスの声も混じる。春だなあ。
5月になると、カッコウも鳴き始める。いよいよ今年も、浮き立つ季節が到来したことを、小鳥たちのさえずりが教えてくれる。
庭の小さな池に植えた水草が水芭蕉だったこともわかった。昨年、庭屋さんに頼んだときは、「葉が大きくなるとグロテスクになるから勧めない」と言って植えていたのに、やっぱり水芭蕉ではないか。小さな花を4つばかりつけて、小さな水面に漂う姿もいじらしい。

   

 
4月14−18日 「高遠の桜」
蓼科に来て楽しみにしていたことが二つある。
ひとつは御柱祭、7年に1回なので、次は4年先だ。
もうひとつが高遠の桜だ。
小彼岸桜といって、ソメイヨシノなどより小さく、ピンクの花が枝一面にびっしり咲き、きれいだ。昨年は機会を逸したが、今年はちょうど休日が満開予想だったので、友人家族も来て、手ぐすね引いて桜を待っていた。
ところが4月に入ってから、気温上がらず、開花が遅れ、妻が来た金曜はまだ大半つぼみ、翌土曜に昔からの友人・久米田夫妻とその家族が来たときは三分咲きと、期待はずれの連日だった。
去年も福島の三春の滝桜を見に行ったときと同じだ。
土曜夜から日曜にかけては雪が降り、朝はうっすらと雪化粧していた。
4月半ばの雪である。満開予想は日々遅れていき、次の水曜という。火曜日が黄砂舞う黄色い空模様だが、日差しは暖かく、桜見物にはちょうど良さそうだったので、山荘から車を走らせた。1時間の距離なので近い。
杖突峠を越え、高遠町(この4月から伊那市になった。町のままでよかったのに)に入ると、二三日前と雰囲気がちがった。殺風景だった村々の垣根が芝桜や水仙の花で色づいている。高遠の町に近づくに連れ、桜も咲いている。
三日前と大違いだ。高遠中学校の校庭が臨時駐車場になり、体育館前では生徒たちが、声をからしてお土産を売っている。昼休み時間だけの臨時売店のようだ。社会教育の一端か。セーラー服の売り子の横を通って、城址公園に向かった。
土曜ほどではないが、それでも大変な人出だ。桜はほぼ満開だった。見上げると桜、桜の連なりばかり、まさに三度目の正直だ。

   

 
昔は桜にそんな興味がなかったのに、歳をとったのか、最近は桜の思い出ばかりがよみがえる。
小学校の校庭の満開の桜を音楽教室の窓から眺めながら歌った「桜の花の咲く頃に…♪ウララウララと陽もウララ♪」の光景。
学校から帰ると、おじいちゃんをまん中に、庭の桜の木の下にゴザを敷いてちゃぶ台の上で食べた昼ごはん、家の中のラジオからは「ひるの憩い」のメロディが流れていた。今でも、NHKラジオでこのメロディが聞こえてくるたびに、あの桜の下の光景がよみがえる。季節はたぶん4月の末だったと思う。
新潟の春は高遠より半月、遅いということか。
 
4月17日 「八子ヶ峰はまだ雪の中」
人が帰ると、良い天気になるというのが、このところの特徴だ。
久米田家ご一行様が帰ってのこの日、朝から澄み切った青空が広がった。
早春の息吹が聞こえるような空だ。「山へ行こう」と決めてからの、清掃・洗濯の速かったこと、9時過ぎにはベランダいっぱい使って、シーツ、布団カバーなどを干し、昼までにトイレも、風呂場もキッチンもすべて磨きあげた。
春霞のかかった空の下を、晩秋以来に八子ヶ峰の登山口に立った。「さあ登るぞ」と森に入った途端から雪だ。
踏み固められていないので、時々、ドフッと膝まで埋まってしまう。歩きづらいこと、この上なし。急登の坂も、唐松林の中も雪がびっしりついている。
別荘地はあまり雪がない冬だったのに、山は別なようだ。それでも尾根に出ると消えて地肌が出ているところもある。八ヶ岳の峰々も真っ白だ。しらかば2in1スキー場の上からゲレンデを見ると、リフトはもう取り払われているものの、まだ滑れるほど、下まで雪がついている。雪遊びをしている人も下に見える。
北アルプスは春がすみの中に埋もれて見えない。美ヶ原のあたりもボンヤリとしている。車山から霧ヶ峰への稜線はもう雪がない。ここがニッコウキスゲの黄色に染まる日もあと3ヶ月だ。
心地よい汗をかいたので、夕方温泉に行った。別荘地循環バスも冬の運休が終わり、この週末から開通した。帰りはこれに乗ってこようと、温泉までスキー場の横を通って歩いていった。
温泉を浴び、卵など買い物をして、バスを待てどいっこうに来る気配がない。15分たっても来ない。「さては4月の平日でお客はまずいないと間引きしたな」と気がついた。夕闇迫る上り道をまた歩く羽目になった。「まったく失礼しちゃうね」

   

 
4月9日 「ペンションは雪の中」

昨日とは打って変わって快晴になった。みんなは滑りに行ったが、有限責任組合のメンバー、三輪さん、熊谷さんと私は、ペンションの復旧と改装工事の打合せで、アナベルで大工さんを待った。
糸魚川から来る工務店の方が、昨日からの雪で丸池でスリップ事故を起こしてしまい、遅れるという電話が入ったので、湯田中の工務店の方と話を始めた。
ことの他、雪が多いので、すぐに工事は始められないこと、ある程度溶けないとムリということから、本格的な工事は5月中ごろになりそうだ。
雪の被害による復旧工事と改装工事の線引きも微妙な部分もある。
みなさん期待の風呂場も欲しいが、どのくらいかかるものか。いろいろと悩みも増えてきた。
すべてはお金との相談だ。蓼科の山荘に寄って、パーティ道具を下ろして、その日のうちに東京へ帰るつもりだったが、下ろして片付けて、洗いものなどしているうちに暗くなってきて、気が変わった。今晩は山荘に泊まろうと。

   
 

4月8日 「ホットワイン、ラドラーで乾杯!」
朝から雪模様の天気、今日の春スキーパーティはとても雪の上ではできない。
ペンションのベランダにバーベキュコンロを用意し、窓越しに焼いて、中の食堂でパーティをやることにした。一昨年もこんな感じだった。「汽車の窓からの駅弁売り」のような光景である。
今回は飲み物にこった。来シーズンからの新しい宿・ベルサルームズで提供するドリンク・メニューのトライアルでもある。
ひとつはホットワイン、昨年のヴァルディゼールでおなじみになった飲み物、先月のニセコにもあった。
昨日、蓼科の山荘で仕込んだ。一升瓶で買った赤ワインにオレンジ、レモンの輪切りを入れ、シナモン、グロープの香辛料、少々の砂糖を入れて温める。
レシピには「沸騰させる」と「沸騰させてはいけない」というものがあるが、まあいい加減に温めろということのようだ。今回は沸騰させないやり方にした。
温まってくると、シナモンの香りが漂い、エキゾチックな飲み物に仕上がった。味もヴァルディゼールに近くなったと自負して、ポリ容器に入れて車に積み込んで来た。ワインも安物でよいので、非常に安くできる。
寒い日、スキーの後のホットワインは体が芯から温まり、ホッとする飲み物なのだ。これをニセコでは400円で出していた。奥志賀のグランフェニックスでは一杯1000円だ。それはチト高すぎるのではないかい。もうひとつはラドラー、ドイツやオーストリアで飲まれている、レモネード入りのビール。春スキーなど、晴れて暖かい日に飲むと、さわやかでスカッとくる低アルコールのビールだ。3月のチロルのスキー場で覚えた味だ。こちらは自家製というわけにはいかないので、輸入品を買ってきた。
今日は家の中でのパーティになってしまったが、晴れた雪の上なら、さぞおいしかろう。それでもみんなおいしいと言っていた。
そして、これなら、発泡酒とレモネードをミックスすればできるのでは?というアイデアも出た。一度、試してみようか。

    

 
4月6日 「有限責任事業組合スタイルベイル 」
志賀高原のペンションを買って事業を起こす組織を有限責任事業組合(LLP)でスタートすることにした。今日はその設立総会の日。
出資者8名の組合員が、秋葉原のHowsのオフィスに集まった。
組合の名称はスタイルベイル。「ワークスタイル、ライフスタイル、食のスタイルと私たちはいろいろなスタイルを持って暮らしています。私たちは、そのスタイルを一つ一つ、自分たちが居心地のいい方にシフトし、新しいスタイルを作ってゆくべきと考えます。ベイルとは”束ねる・集める”という意味です。牧草地に転がる干草の大きい丸い束をストローベイルと呼びます。一つ一つ、自分たちで作った小さな新しいスタイルを、ゆっくりと束ね、そしてやがて大きな束になること。こんなストリーを名称の由来とすることにしました」は主宰者・三輪さんの弁。
そして施設の名前もBersarooms(ベルサルームズ)と名づけられた、Bersaはスウェーデン語で”葉”、一枚ずつの特色ある葉(room)が集まって、居心地よい雰囲気をつくる宿とでも言えようか。
組合規約の読み合わせをしたあと、出資内容を確認して押印した。
そのあと、シャンパンで乾杯、日本酒・越の寒梅の甘い香りが、スタイルベイルの発足を祝っていた。

   

 
4月2日 「雪割草」

雪割草が庭の片隅に咲いた。
妻に聞くと、昨年の秋、何株か球根を植えたという。それが芽吹いた。
小さくて可憐な花だ。白い花と紫のものもある。春告げ草のようだ。
本当に雪が消えたそのタイミングに咲く。かわいそうなのは、花が咲いた時期に訪れる人が少ないことだ。いちばん高原が静かでわびしい時期でもある。せっかく美しく咲いているのに、誰にも見られず枯れていくこともある。
 

  

 

 

 


 

4月1日 「小川画伯」
岳文の先輩、小川晋二さんは二科展入選の常連の画家である。
私も何回か、上野の美術館に見に行った。
「パリの裏町の屋根」というような題名だったが、どこが屋根なのか判別つかない、素人にはよくわからない抽象画だった。その小川さんが2月に、国立の画廊で個展を開催した。訳のわからない絵もあったが、小さなものには、風景が自然に描かれているものも多く、上野とだいぶ印象が変わった。
その中に、菜の花畑であろうか、家々を遠景に伸びやかに広がるすてきな絵があった。しかしそれは売約済みだった。惜しんでいたら、もう1枚描こうという。
そして、送られてきた。春の蓼科の山荘にぴったりの絵だ。ゲストハウスのリビングに架け、みんなに楽しんでもらうことにした。あざやかな黄色の畑と赤い屋根が印象的な、心に響く絵である。

   

 

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3 月

3月21日 「ノートラブルの山荘」
志賀高原の帰り、2月の岳文仲間とのスノーシュー以来、山荘にやって来た。
心配の種は、水がちゃんと出るかということ。1月末には、道路の下の水道管が凍って、丸一日出なかった。
これまで、冬、しばらくぶりで来て、問題が起こらなかったことは一度もない。
いつも大なり、小なり、何かが起こっている。いつも水抜きをして帰るのに、先月はすべて電源ONにして、風呂に水を張って帰った。もしこれで凍っていたら、エライことになるとの不安を抱えながら…、だから心配だった。しかし杞憂だった。トイレも流れる、水も出る、お湯も風呂も沸く。1ヶ月の帰った日の続きのように何の変化もない。やかんの水は氷の塊になっているはずなのに、水のままだ。ということは、この間、それほど寒い日もなかったということだ。どこかがトラブっていたら、また大変だったのにも拘らず、「電気をつけ放しにするんじゃなかった。もったいない」とケチな勘定が出てくる。
実際、冬場の電気代は大変なのだ。一昨年は床暖房をどんどん使ったら、ひと月7万円もかかった月もあった。(この3月に請求が来た2月分は3万円だった) もう寒さも峠を越したようだ。山荘の周りの雪も消え、屋根から落ちた雪の塊が残っているだけだ。去年の4月中ごろの状況だ。今年の1月はすこぶる寒かったけれど、そのあとはあまり雪も降らず、暖かったようだ。春の足音がすぐそこに聞こえてきた。世界野球大会でも日本が優勝し、ウキウキした気分で「春が来た♪春が来た♪」と口ずさみながら、山荘を後にした。

   

 
3月20日 「ペンションのトラブル」

1月の豪雪で、12月に買ったばかりの奥志賀のペンションの玄関の屋根が陥没してしまった。そのため壁もゆがみ、このまま雪が降り積もると倒壊する恐れがあった。前のオーナーの配慮で、雪が落ち着いたら仮屋根に架け替え、春になったら復旧工事をすることになっていた。
2月に入っても、なかなか天候が安定せず、工事ができなかったが、末に終ったという連絡があったので、見に行った。このところの雪で屋根には40cmくらい積もっていて、工事完了の状況は完全には確認できなかったが、青いビニールシートが見え、庇も新しくなっていた。
1月に来たときに、天井が抜けないように支えてあった内部の柱もすべて取り外されていたので、もう大丈夫のようだ。そのかわり、天井板や壁が工事の影響でボロボロになっている。開業までに、いずれにしても改装する予定があったので、ここまでズタズタになったなら、徹底的に一新しなければならず、腹が据わる。「災い転じて福となす」である。
 

3月18日 「四十八池スノーシュー&ディスコ」
志賀高原観光協会主催のスノーシューハイキングに参加した。
おおぜい参加すると思いきや、私ひとりだという。
女性ガイドの湯本さんとふたりで、熊の湯の前山スキー場から、夏は池塘が点在する四十八池に歩き始めた。
昨日の雪で、40cm以上の新雪に覆われた森の中に踏み込んでいく。
誰も歩いていない木々の間を湯本さんはぐんぐん進む。森を抜けると広い雪原に出た。夏は渋池の湖面になるところだという。湖上を歩けるのは、今の時期だけ、誰もいない静かな雪原にスノーシューのワダチが後ろに残っていく。
針葉樹は北斜面に密集すること、岳樺は、シラビソやコメツガなど針葉樹が伐採され、明るく開けたところに生えることなど森の知識をたくさん教えてくれた。
森の中の雪がぽっかり開いて、地面が深い底に見える場所が所々にあった。
それは温泉の地熱で穴が開いているのだという。その湯脈は木戸池につながっているのだそうだ。そんな話を聞きながら、四十八池に着いた。
すべてが雪の中でどこが池なのか、わからない。夏の遊歩道にある東屋の屋根だけが見える。志賀山の登山口にある鳥居も上の木と額がちょっぴり見えるだけだった。雪は3メートルくらい積もっているようだ。風の来ない林の中で、湯本さんが持ってきてくれたオニギリや野沢菜漬をいただいた。私は、ワインを持ってきたので、紅茶と混ぜて提供した。
帰途、湯本さんは児玉英一さんのお姉さんだとういうことがわかった。
児玉英一さんは、私が学生のときお世話になった杉山スキースクールでインストラクターをやっていた方だ。40年も前のことだが、そのときの児玉さんは二十歳そこそこの好青年、私だって23歳くらい。彼の九の字姿勢は印象的だった。90度近くに曲げた九の字姿勢で丸池のAコースの急斜面を滑り降りてくる姿は、今でも目に焼きついている。思いがけない所で、思いがけない人の消息を知り、なつかしかった。

   

 
翌日は、観光協会主催の横手山から草津温泉へのバックカントリー・スキーツァーに参加する計画だったが、早々と天候不良につき中止のしらせが入った。
そこで、今の時期だけやっている旧志賀高原ホテルのディスコパーティに行くことにした。
奥志賀から車を飛ばし、7人で繰り出した。去年のヴァルディゼールでチャレンジし損なった夜の楽しみだ。
海外のスキー場での夜は、おいしいレストランでのディナーの後は、ディスコで踊り狂うことが定番となっている。だから、彼らの朝は遅い。昼近くにスキーに出かけ、すぐ昼食、それもワインたっぷり、時間もたっぷり、スキーはほんのわずかしかしない。そんな日々を1週間以上続ける。バカンスの中のスキーの位置づけだ。
日本はスキーのためのスキーで「うまくなること」が目的、だからブームが去れば人も去る。休暇を過ごすためのスキーなら、すたらない。
志賀高原はヨーロッパ型のスキーリゾートを目指しているらしい。
リフト券で乗れるシャトルバス、サンセット・ホットワインパーティ、そしてディスコなど、ヨーロッパではおなじみのシステムをどんどん取り入れている。あとは長期滞在に対応する宿泊施設とレストランがあれば、かなりいい線にいく。
ディスコのキャッチフレーズは「70年時代のオールディズ」だったが、行ってみると、意外と若い人が多い。若者に混じって踊るのも、ちょっと気がひけたが、入ってしまうと昔のゴーゴーで踊った思い出がよみがえった。もともと踊ることは好きだ。
今でも、夏は高円寺での阿波踊り。踊っているうちに知らず知らず、リズムが合うと阿波踊りパターンになってしまう。一緒に来た仲間も、最初は後ろで気後れしていたようだが、だんだん積極的になり、前へ出てくる。それでいいのだ。
永瀬さんは、奥志賀のリフト番のお兄ちゃんやホテルの従業員も踊っているという。どうも志賀高原で働く人の福利厚生の一環も担っているディスコのようだ。ミラーボールに輝きながらの踊りは更けゆく高原の夜にいつまでも続いていた。

 
3月1−5日 「札幌スキーは楽しい」

3月1日にニセコを終わり、小野さんの車で札幌へ移動した。
途中、ルスツで滑るつもりだったが、雪も降っていて、山はガスで覆われていて視界不良の様子。あきらめて早めに札幌グランドホテルにチェックイン。
パッケージツァーだと、一流ホテルも安く泊まれる。久々のひとり部屋でホッと一息つく。明日から、他のメンバーも集まり、北海道スキーの後半戦が始まる。
今日は静養だ。
 

富良野は38年前、学生最後のスキー旅行で来て以来。
その当時は北の峰と言っていたが、あまり印象に残らないスキー場だった。
久しぶりに来て、驚いた。北の峰のスキー場は健在だったが、その隣に富良野スキー場ができ、両方がつながって、倍以上の広さになっていた。
プリンスホテルもふたつある。すべて西武の力で開発したエリアだ。天気がよくなかったニセコだったが、富良野は日差しもあり、雪質もよく、人も少なく、絶好のコンディション。
前澤さんは、スピードに乗って、グングン滑りまくる。彼女は「こんなにスピードを出して滑ったのは久しぶり、人を気にしないで滑れるので楽しい」とご満悦。
札幌から片道3時間の往復だったが、とても充実した一日だった。

   
 

北海道スキーの締めはキロロ。富良野と打って変わって、地吹雪舞うコンディション、その中を滑った。
雪質はよく、長峰ゲレンデはみなさんお気に入り。午後から、私と小野さんを除いたメンバーはスノーモービルに挑戦、白樺林を抜けていく雪原の疾走は楽しかったようだ。温泉に入って長かったツァーの締めくくった。
札幌に帰ってきて、小野さんが予約しておいてくれた、ススキノのすし屋で打ち上げ。北の海の味を堪能、酒もうまい。本締めは、小野さん行きつけのスナックへみんなで行き、東亜国内航空時代にJASスチュアーデスだったママさんと歓談、カラオケをひとり2曲ずつ歌い、札幌の最後の夜を楽しんだ 。
一緒に行った豊島さんの弁「それにしてもススキノでは、スナック「オオタニ」のママ、山路さん、前澤さんの三大美女に、小野さん、小田さん、豊島のエロエロ・ヘロヘロ・ダラダラ親父トリオの組合せ、これこそ生きてるだけで儲けものってやつですね」
 

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2 月

2月25−28日 「Occupied Japan」こんな日もあるんだ!」

極楽スキーのメンバーで北海道ツァーをすることになった。
ニセコで4日間、そのあと札幌へ移動してさらに4日間という日程。
さすがに8泊9日連続参加は私だけだった。
札幌在住の小野さんを別として。ニセコにはオーストラリアや韓国からおおぜいのスキーヤーが訪れているというニュースを聞いていたが、リフト券売り場でまずその実態にお目にかかった。
外人が一日券を買おうとするが、料金がふたつある。
英語で表示はされているが、確認している。チケット売り場の女の子は「Here only 4,000¥、All covered 4,800\」と説明している。
ヒラフのゲレンデ食堂に入ったら、外人だらけ、日本人と思ったら、会話は韓国語。
食堂のおばちゃんも「Chiket number seventeen please!」などとマイクで食券番号を叫んでいる。日本人のおじいちゃんひとりが座っている丸テーブルにオーストラリア人のグループがおじいちゃんの回りを占拠、憮然としているおじいちゃん、テコでも動かないぞと、周りの英語を尻目にサムライのように沈黙を押し通していた。まさにOccupied Japan のニセコスキー場だった。

   

 

ニセコにはオーストリアの旅行社がパッケージを組んで、連日スキー客を送り込んでいる。
1週間くらいの滞在で来るようで、彼らの好みはホテルでなく、コンドミニアム。自炊中心、たまの外食というスタイルが主流だ。
そのため、滞在用のアパートが次々と建っている。旅行社のホームページを覗くと、宿泊案内の大半はアパート、それもRatingつきだ。評価4レベルになると、設備も完備した立派なコンドミニアム、評価2くらいだと、民宿をあわててアパート化したような素朴な施設。
志賀高原にも外人が増えてきたというが、日本にいる外人が中心で、飛行機でわざわざ海外から来る人はまだ少ない。だから、志賀高原の中には、アパート型宿泊施設は一軒もない。
ニセコにこれだけの外人が集まるということは、次の可能性として志賀高原などは有望だ。スキー場の規模は、志賀が圧倒的に広い。コースの変化にも富んでいる。スキーエリア内を循環するシャトルバスもニセコは1時間半に一本しかないのに、志賀は20分おきにある。
Naganoはオリンピックで世界に通用している地名だ。「ニセコにあきたら、Nagano・Shigaへ」と呼び込める。難点は空港から遠いこと。これも最近、長野から中部国際空港へ4時間半の直行バスが運行し始めた。志賀高原直行すれば5時間半だ。
去年行ったフランスのヴァルディゼールもジュネーブからこのくらいかかった。何とかなる。今から準備して、旅行社を動かせば、志賀にも外人を呼び込める。長期滞在型を目指す、われわれの奥志賀リゾートプロジェクトの夢がまたふくらんだ。
 

2月19日 「あしなが心塾」

あしなが育英会の学生寮が家の近くの日野市百草園にできたので、見学に行った。
10年前くらいから、ささやかな支援をしている縁で招待があった。この育英会は災害や病気で親を失った子供たちの進学を援助している。多くのあしながさんの浄財や学生自身の募金活動で成り立っている。この施設も義援金で完成した。国からの援助なしでやっている。
最近は海外の遺児にも手を差し伸べている。寮は「心塾」と名づけられ、単なる寮ではなく、読書、自主活動、遺児サポートなどを通じて、人間育成をも目指している。2食ついて1万円と安く、他の奨学金と合せると、アルバイトなしでも学生生活が何とかおくれるという。
遺児学生の家族の平均月収は13万円。貧しさに負けず、進学意欲のある子供たちを何とかきちんとした大人に育て上げたいという育英会の意思がひしひしと感じられる立派な施設だった。
案内してくれた入寮する学生もみんな礼儀正しく、明るい。初めての留学生支援で早稲田大学に入ったウガンダのルタさんも挨拶した。彼女はエイズで父親を失い、ウガンダ国立大に受かりながらも奨学金がもらえず進学をあきらめた。
彼女が通っていた育英会支援でできたあしながウガンダセンターでは、彼女の優れた語学能力と意欲を失わせてはいけないと奔走し、早大受験の道を開いた。合格の通知が遠い日本から来たとき、村から初めての大学生、それも日本ということで村中大歓声に包まれたという。彼女は、貧困にあえぐ自分の国だけでなく、国際的に手助けできるような仕事をしたいと抱負を述べた。希望の星である。
日本で、心塾で、すばらしい仲間を見つけ、後に続く海外の遺児に進学の道を開いてもらいたい。輝く若者の瞳に送られて、清々しい気持ちで、隣の百草園で梅の花を愛でつ、蕎麦を食べて帰途についた。
  

 

2月13日 「雲ひとつない青空」
正みんな帰ったあとに、すばらしい天気になった。去年も同じだった。
後片付けを放棄して、白樺2in1スキー場へ行った。
連休明けのゲレンデは人も少ない。今日は、槍ヶ岳も穂高も、白馬も見える。
八子ヶ峰からわが別荘地も光の中に輝き、その先に御嶽山が白く堂々とそびえている。見栄えのする山だ。尾根筋はアイスバーン状態だが、スロープに入ると、スキーも流れず、滑りやすい雪質になっている。
1時間も滑ると、ひととおり終わってしまうのが、このあたりのスキー場だ。
こんどは白樺高原国際スキー場へ移動。リフト券が共通なので、新たな出費は不要、このシステムを一帯のスキー場で取り入れるべきだ。そして定期的にシャトルバスを走らせたらよい。
客が減り続けている今、投資は新たな投資はきびしいのかもしれないが、今のままではさらにお客が減ってしまうような気がする。
白樺高原からは、車山、美ヶ原、北アルプスを正面に見ながらの滑走が楽しい。今日のような日は、美しいアルプスの中のゲレンデを滑っているようだ。
生ビールもうまい。これだからスキーはやめられない。

   

 

Everyt

2月11日 スノーシューハイキング」

はじめてのスノーシュー。大学時代の岳文会の仲間が4人集まった。
2人は福島から。時折、陽も輝くまずまずの天候、このところの新雪で木々も雪を冠り、美しい。管理センターでスノーシューをレンタルして、ピラタスロープウェイへ向かった。
建国記念日の連休で、ロープウェイ乗り場はごったがえしていた。ほとんどがスキーとスノボーの人たち、昨年のこの時期もあたり一帯のスキー場は混んでいた。スキーブームが去ったといえ、この期間だけは別らしい。一瞬のにぎわいか。
人込みをかきわけ、乗り場に並び、ほどなくゴンドラに詰め込まれた。
降りた坪庭は標高2240m、陽も陰り、雪もぱらつき、気温は零下12度c、寒いことこのうえない。縞枯山荘への道には、結構な人が歩いていく。
雪上に道ができていて、スノーシューをつける必要はない。山荘まで来て、装着した。
福島から来た中島君はNHKのカメラマン、「山に初雪」など自然取材が専門とあって、スノーシューは仕事道具のひとつ、彼がコーチ役で装着、歩き方を教えてくれた。撮影機材を背負って雪山を歩くときには欠かせない道具だが、荷物が重いと、結構沈みこんでしまい、往生するとも言っていた。
今日はみんな軽装備、沈み込む心配はなさそう、前に行ったパーティのトレースもついている。雨池峠へ登り、ここから縞枯山に向かった。これが森の中の急登、スノーシューで歩くのは、夏の山歩きと大差ないが、細い道だと、ときどき、足が絡み合うことがある。登山靴に楕円のお盆を履いているようなものなので、横幅が広くなり、夏と同じ感覚で足を進めると、重なり合ってしまうのだ。こんなときは注意して歩かなければならないが、あとは快適。
雪に覆われた森の中の道は積雪で1mくらい高くなっているので、木々が間じかに迫る。日差しも出てきて、美しいが、何せ急なので、みんな音を上げ始めた。
途中で休憩、見上げる急坂の上には頂上が見えない。「どこまで続くの?」と不安がる。「あと少し」と安心させるが、夏道の感覚とちがうので、私もよくわからない。ひとしきり急登が続いて、尾根に出たところが縞枯山の頂上のようだが、標識が雪に埋もれていてわからない。前を歩いていたパーティが、一生懸命、標識を掘っていた。頂上だった。みんなホッとする。

   

 

縞枯山から茶臼山への稜線は陽に包まれて快適。
途中展望台の岩へもスノーシューを着けたまま登れた。見晴るかす諏訪の盆地、間じかに麦草峠の小屋が見える。岳文のメンバーにとっては思い出の場所のようだ。まだメルヘン街道などという道路も横断していない当時、黒百合平、高見石、白駒池を越えて麦草の草原に憩った日々、その後、穂高で逝った先輩がリーダーだった。悲しい思い出も秘めた峠は今、雪の中に見える。道路も雪に隠れて、静かな昔の峠に戻っている。
しばし感傷に浸ったあとは、稜線から五辻への道に入る。ここからは歩く人も少ないらしく、新雪の中をドフドフとスノーシューで雪を蹴散らしながら、下っていく。淡い冬の光を浴びながらの森や雪原はメルヘンの世界だ。美しい。
急坂になると、足がもつれて転ぶ人もいる。スノーシューは下りの歩き方に少しコツがいるようだ。かかとから踏み込んで、前を上げて歩くと、楽に下っていけると感じた。約1時間歩いて、五辻に出た。ここは麦草峠から、草原を横切ってくる所、夏は悪天のときのエスケープルートだが、冬のスノートレッキングには最適な場所だ。
みんな雪原に腰をおろして、ガスコンロでラーメンを作り、ワインを空けている人もいる。われわれはそんな余裕に気づかず、クッキーや飴を持って来ただけだった。次に来るときには、雪上パーティをやろう。スキーとちがい、歩くのでゆっくり休む時間も必要だ。この休憩が楽しいパーティタイムになる。
ピラタスロープウェイへ向かって、最後の歩き。野を越え、森を横切って、坪庭に戻ってきたのは午後3時過ぎ、ちょうど3時間の雪上ハイキングだった。
スノーシューは楽しい。雪の森の中を歩く楽しさを知った。みんなも満ち足りたようだ。冬の楽しみをひとつ覚えた。東京に帰ったら、スノーシューを買おう。
 

2月4日 三輪さんのジャズライブ」

一緒に志賀高原のペンションを買った三輪さんの最後のジャズライブを目黒に聞きに行った。
三輪さんは家族で、5月に志賀高原に引越し、秋の開業に向けて準備を始める。これまで毎年、案内をもらっていたが、いつも何かと重なり行けなかった。
初めての最後のチャンスを逃すわけにはいかない。
ヤマハミュージックスクールが主催しているビッグバンド教室の発表会、三輪さんは奥さんと一緒にメンバーとなっている。奥さんはフルート、三輪さん本人はアルトサックス、二人の出会いもこのバンドだった。
ところが当日になって凛ちゃんが発熱、ふたり一緒に出れる状況ではなくなった。
バンドマスターは、サックスは代替あるが、フルートはないということで、奥さんが参加、三輪さんは家で子守りとあいなった。残念だったろう。
ビッグバンドの生演奏を聞くのは、秋の蓼科小津安二郎映画祭でスイングガールズのモデルだった蓼科高校の演奏以来。
ヤマハのバンドも、若いメンバーが多く、みんな楽しそうにリズムに乗った演奏が続いた。
三輪さんの奥さんはフルートで最前列、ソロの演奏もあった。演奏最後には、マスターから、「三輪さん家族は今日が最後、志賀で新しい生活に入る。
合宿の場所ができた」との紹介もあり、大きな拍手の中、終演となった。
ビッグバンドを志賀に呼ぶアイデアもいいかもしれない。新しいリゾートインのイベント企画部長の私としては、夢がふくらむ演奏会となった。

   

 

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1 月

1月30日 「雪は少なく、寒さは厳しく」

今年の蓼科は雪が早かったわりに、その後降らず、大寒の季節なのに、まばらに土も出ている始末。雪かきをしないと山荘へたどり着けなかった去年の冬とは大違いだ。同じ長野県でも志賀高原や野沢温泉は何十年ぶりの豪雪なのに。
しかし冷え方は昨年以上だったらしい。朝、すぐ来てもらった管理センターの人は、「こりゃ大ごとだ、道路の下の水道管が凍っている」。
その後、何人かで我が家の支管と本管の付け根の部分を掘り返し、プロパンガスのバーナーで水道管に詰まっている氷を溶かす作業をやっていた。
夕方になってやっと通水した。水は流れているときは凍らないが、流れが止まるとどこかで凍ってしまうことがよくわかった。安全を期して、屋外の調整蛇口から春まで水を少し流しっぱなしにすることにした。
この費用は管理センターで持ってくれるという。一件落着。
冬はほんとうにいろいろなことが起こる。

   
 

1月29日 水なしの一夜」

夕方、志賀高原のスキーを終え、山荘に来た。
正月明け以来だったので、まずは水入れ。ところがウンともスンとも言わず、水は出ない。流れ上がってくる気配ない。管理センターに電話したが、「本日の業務終了」の留守電だ。
家が暖まれば出るのではないかと、ストーブにどんどん薪を放り込む。今日は幸い、暖かい。と言っても室内は0度c、20度まで上げるには3時間くらいかかる。夜の8時になっても、水は出ない。料理は凍っているやかんの水を温めれば何とか足りそうだが、問題はトイレだ。夜中に外での用足しは凍えてしまう。
あわてて茅野の街に車を飛ばし、ホームセンターで石油用のポリタンクを買い、そこにあった給湯器で満タンにして持ち帰った。この水をトイレのタンクに入れ、少しずつ流すことにした。
ストーブの前に座卓を持ってきて、買ってきたちゃんこ鍋と赤飯で夕食、ビールも小缶にして水分控えめを心がける。寝室は寒いので、布団もストーブのそばに敷いて寝た。夜中に時々起きて、部屋の温度を下げないように薪を補充、すべてはトイレの回数を減らす対策だ。「水の大切さ」を実感した一夜だった。
 

1月25−29日 「極楽スキー 」

今年も仕事を通じて広がっていったスキー仲間が奥志賀に集まった。
豪雪で雪はたっぷり。正月明けに来たときに開始したチャレンジマスターという、志賀高原75本のリフトに乗りスタンプ集めて、Tシャツをもらうイベントを今回、仕上げるつもり。参加者は7名。
正月明けは零下12度、吹雪の中のリフト巡りだったが、今回も雪だった。
気温は少し高く、この前より少しはマシだ。初日は9時半スタート、奥志賀、焼額、一の瀬と端から片付けて、東館、ブナ平、ジャイアンツ、蓮池、サンバレー、丸池まで休みなしで午後1時まで滑った。
志賀飯店に着いたときはみんなぐったり、腹ペコ。坦々麺がいつもより、おいしく感じられ、一気にすすり込んだ。
 

二日目も疾風、雪で朝は明けた。
今日は横手山山頂にボルシチを食べに行く日。
予報では午後から晴れるという。それを信じてバラバラに出発。
スタンプ組は、横手山と渋峠のリフトをまず片付けなければならない。
バスで笠岳まで1時間以上の旅、降りたときはバスに酔ってヨレヨレの人も出るほどの長旅だ。この人は、渋峠の霧の中でコースを外れ、雪に埋もれて九死に一生を得た。本人の帰京後の弁、「生き埋めからみなさんに救出され一命を取り留めたおかげで、本日も全開で仕事をしています。今年のツアーでは、私がハプニング大賞ではなかったでしょうか。朝はバスに酔い 夜は風邪で寝込んでしまったおかげで宴会で体力を消耗することなく、イツになく睡眠十分で心身ともにリフレッシュできました(悲喜こもごも...)」。
ボルシチとジャンボホットドックで体を暖めて、最後の西館を目指した。
この頃から、青空が広がり、フィナーレの高天原のリフトは美しい銀世界の中だった。終わったときのみんなの笑顔が忘れられない。
「今年も無事に極楽スキーツアーを楽しむことができました。
チャレンジマスターも無事完遂することができ、志賀高原の広さを改めて実感しました。「全リフトに乗るなんて無理!」と思っていたことは、実際にやってみるとやっぱり間違っていなかったことがわかりました。それでも達成できたのは、Oさんの的確なリードと、SさんやKさんの励ましに支えられ、また、YさんやSGさんの存在は「ホントに止めたくなったらいつでもGiveUP宣言できるぞ!!!」という、なんだかゆるーい感じの安心感の元でチャレンジできたからこその完遂です。
これがなかったら絶対Tシャツは手に入れられなかったでしょう(^^ゞ」。は零下12度の寒風の中で顔を凍らせて滑っていたOTさんの喜びの言葉。

   
 

土曜日の夜は恒例の歌声喫茶。
OTさんの絶妙なピアノ伴奏に乗って、みんなで歌った20数曲。
スキーだけのつながりで、こんなに盛り上がるなんて奇妙な仲間だ。
「願ってもない”お日さま”の参加もあり、土・日のみの短い滞在がとても充実したものになりました。これもひとえに、幹事団の皆様のご努力、クルマを出してくださった皆様のご好意、そして極楽メンバーの明るいキャラクターの賜物と感謝しております。
初参加のI先生の目には、どうしてあんなにそれぞれ個性的でバラバラなイメージの25人もの人々が、ひとまとまりになって、悪天候をついてまでひたすら横手山のボルシチを目指し、また、どうして幹事団の皆さんがあそこまで献身的に働かれるのか、とても不思議な集団に映ったようです。
すっかり慣れっこになってしまっている私たちが、この”たぐい稀な極楽浄土の幸せ”に浸れることを、再認識しなくてはいけないなと思いました。
ゴクラク、ゴークラクッと。。。アー、腰の筋肉がーッ」とのFさんの話が、この仲間の特徴を言い表していると思う。
今年もとても幸せな気分で、快晴の中、はるか北アルプスを望みながら帰途についた。
 

1月9日 「ペンション危うし!」

12月押し迫って契約した奥志賀のペンションを見に行った。
引渡しの立会いも売主の富原さんとする予定だった。
暮れからの豪雪で富原さんは白馬のホテルの雪かきで忙しく、来れず、われわれで雪を掻いて中に入った。雪の重みで側壁が剥がれ、ドアも開きにくい。
富原さんに連絡したところ、「えらいことだ、中からすぐ出ろ」との指示。
長野電鉄の酒井さんもユンボで駆けつけ、除雪をしてくれたが、屋根までには手が回らない。善後策を富原さんに委ねることにした。
その後の調査で客室上の屋根は異常ないが、食堂から玄関までの屋根は陥没しかかっていることがわかり、雪が落ち着いたら、梁を取替え、応急手当をして、雪解けを待つことになった。
誰も住んでいないところへの豪雪で、自然落下せず、庇と屋根がつながり、さらに雪は重さを増したようだ。
買った直後の災難で、三輪さんはハラハラのし通しだが、私は雪には慣れているので、小さい頃を思えば毎年、これ以上だったと慰めた。
この機会に屋根も強化され、他の部分も新しくなるのだから、「災い転じて福となす」だと思う。もう春まで、これ以上の雪は降らないと思うが…

   
 

1月6日 シュリヒティング一家」

暮れの29日から10連泊しているシュリヒティングさんをご機嫌伺いに、志賀高原へ行く途中、山荘に立ち寄った。
もう滞在に飽きて、帰りたいと思っているのではないかと正直なところ危惧していた。ところがどっこい、ワンダフルの連発だ。子供たちは遊び作りの名人であることもわかった。
上の入り口から、下の入り口までの約60mのスロープをボブスレーコースにして持参のソリで滑り下りる。ジャンプ台も作り、それを飛んでフィニッシュ(写真)。
日本のものとはずいぶん顔、形がちがう雪だるまも作ってあった。
鼻はニンジンで外人らしく高くして、ススキで髪も生えさせ、腕も突き出ている。高原の冬の日々はすこぶる楽しかったようだ。よかった。
秋にまた来たいと言っていた。
ひとつわかったことは、外人さんには蛍光灯が明るすぎるようで、ダイニングには寝室のスタンドを持ってきて、食事をしていた。
アパートを探すときも結構、明かりには苦労したとも言っていた。
日本人は明るくないといやがる人が多いのに、外人さんは反対だ。
せめて蛍光灯を自然色のものに代えようと思う。

   
 

Dear Mr. Oda,
It was a great pleasure for us to live in your house and we have a good time in Tateshina. Thank you very much !

Jens Schlichting and family
 

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