小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
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蓼科日記

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蓼科・東急リゾートタウン
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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。

毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2010年>

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 <2005年> (2005年分は、こちらからリンクします。)

 <2006年> (2006年分は、こちらからリンクします。)

 <2007年> (2007年分は、こちらからリンクします。)

 <2008年> (2008年分は、こちらからリンクします。)

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 <2018年> (2018年分は、こちらからリンクします。)

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 <2020年> (2020年分は、こちらからリンクします。)

 <2021年> (2021年分は、こちらからリンクします。)

 <2022年> (2022年分は、こちらからリンクします。)

 <2023年> (2023年分は、こちらからリンクします。)

 <2024年> (2023年分は、こちらからリンクします。)
 

2010年

12月

12月27日 今年を振り返って

運転免許更新に行ってきた。次の更新は3年後、70歳になっている。”枯葉マーク”を付ける歳だ。75歳からの更新にはボケ検査があるという。もう老境に入っているのだ。そんなこともあり、人生のたたみ方を意識した今年であった。会社を退職して8年経った。それまでの仕事を活かしてのコンサルタント業も年々仕事を減らし(自然に減って、が正しいかもしれない)、蓼科や奥志賀が仕事とは言えない仕事みたいなものと山登り、スキーや阿波踊りが生活の中心になっている。今年は、それに岳文会50周年事務局の仕事も加わり、大忙しだった。
会社を辞めてからの方が忙しく、すこぶる楽しかった。家を不在にすることが多くなり、妻と一緒に過ごす時間が少なくなった。隙間風が少しづつ感じるようになり、蓼科に老人ホームができ、そこに入ろうかという件で妻の考えがはっきり分かった。彼女は山より都会がいいと言う。蓼科での老後は寂しすぎると言う。
私は10〜15年くらいの先を見て走ってきた。45歳のとき次女が生まれたことで、60才からの人生を準備した。それは山荘やペンションの形となって実現した。
スキーも山登りも若いとき以上に打ち込んだ。すべてひとりでやってきた。その間、妻は家でもう手離れしてもよい成人の子供を面倒みてきた。80才まであと13年、それまでに倒れるかもしれない。老々介護になるかもしれない。これまでのように一人で好きな道を走り続けてよいものか。人生の最後まで妻とは一緒のはずだ。次の10年は一人走りの人生から妻と二人三脚の人生に重点を変える必要がある。蓼科にこだわっていては、隙間が大きくなるような気がする。
意識的に11月の薪割りから今日まで1ヶ月以上、東京の自宅に居た。こんなことは山荘ができてから初めてだ。12月23日で67歳になった今年は、次の人生のターニングポイントのような気もする。(と言ってもまだしばらくは、行ったり来たりの状況は続くが…)
 

12月22日 小石川後楽園

近くまで行ったついでに小石川後楽園へ初めて寄った。65才以上は入場料150円と安い。寝覚めの滝、木曽川など江戸時代には遠国だった名所を居ながらにして見れる造りが庭園のそこかしこにある。元はといえば、水戸藩江戸屋敷の中の庭園で、屋敷全体は隣の東京ドームから水道橋駅までの広大な敷地だった。水戸光圀と将軍家光が二人の構想を取り入れて造ったという。家光もしばしば遊びに来て、池の辺りの松に手拭いをかけて水遊びを楽しんだなどという場所もあった。今の後楽園は、東京ドームの白い大屋根や取り囲まれたビルの谷間の庭園という趣だが、小学生が毎年、田植えから稲刈りまで体験する田んぼなどもあって、都心の快適なオアシスになっている。家光が今ここに立ったら、さぞかし驚くことだろう。Back to the Futureの世界だ。

     
 

12月11日 久し振りの熱海

昔は会社の忘年会旅行となると熱海は定番だった。時代の流れとともに、ニューフジヤホテルなど大型ホテルはバタバタ潰れ、熱海はゴーストスプリングなどと揶揄されていた。そのニューフジヤは今、ホテル伊東園チェーンの手で一泊二食飲み放題9800円の安宿で蘇った。毎12月に行っている家族旅行は、そのチェーンのひとつ熱海シーズンホテルというランク上のホテルに行くことにした。
メゾネットで4人泊れ、11800円、ここも飲み放題である。昔はホテルアズベール&スパとか言って、何万円もする高級ホテルだったらしい。部屋の作りなどにその雰囲気が残る。広々としていて、バルコニーも広く、夏など海上花火大会が眺められるという。子供たちは広さに満足。夕食は二部制で一斉スタート。
私たちは遅い7時半を選んでちょっと前に行ったら、食堂の扉の前に長蛇の列。みんな腹を空かして待ちきれず集まったようだ。扉が開くと浴衣替わり作務衣姿のお客が扉の中に吸い込まれていった。何かアウシュビッツのガス室へ送り込まれていく囚人を連想する光景だった。私たちもその一人だったのだが…。
食事はソコソコ、これがこの宿の限界かな?と思った。翌日はよく晴れて、錦ヶ浦から十国峠へ周り、芦ノ湖に通じるスカイラインを走った。雪を戴いた富士山が殊の外美しかった。

   
 

12月5日 氷見の寒ブリ

新田次郎の「点の記」の縁で、同じ本を読んだ小林さん、米沢さんと富山に転勤した山下さんを訪ねることにしていた。きっかけは映画「剣岳・点の記」に出てくる頂上で発見された錫杖の頭の現物が立山町の博物館にあると山下さんからの情報だった。どうせ行くなら富山の寒ブリの季節がいいということになり、夏からこの日を待っていた。博物館で錫杖を確認してから、氷見の町へ向かった。
ちょうどブリが取れ始めたときだった。昨年は暮れまで上がらず、ブリをお歳暮に配るという富山のしきたりを守れなかったらしく、”今年はよかった”と店の主は言っていた。寒ブリフルコースは刺身、焼物、ブリ大根、ブリシャブと続く。大きめの餅ほどに切られた刺身は一回では噛みきれない。脂がのり、とても甘い。
寒ブリの早いときは身が軟らかくて甘い。真冬になるに従い、冷たい海水に揉まれ、身は締まっていき、甘さも薄れるのだそうだ。シャブシャブの最後は氷見うどんを鍋に入れ、シャブつゆで食べた。これもまた格別にうまかった。冬の味を堪能した富山の旅だった。

     
 

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11月

11月23日 唐沢集落のソバ

信州ソバは有名だが、山形ほどソバ集落といったものがない。いちばん名高いのは戸隠の宿坊だ。もうひとつ上高地へ塩尻からの通り道、波田町の近くにある唐沢部落に数軒、そば屋がかたまっていると聞いていた。
妻と松本インターから車で走ること30分、こんな所にと思われる鄙びた小さな村に新そばの幟が立っていた。一軒、一軒通り過ぎているうちにどん詰りに来た。そこにあった水舎という店に入った。祭日の昼時で数組待っていた。玄関を上がり、大広間にテーブルが何組か置かれてそこでみんなそばを食べている。
八割ソバに天ぷらを頼んだ。落ち着いてメニューを見たら、つゆは鴨汁にすることも可とあったので、鴨セイロ好きの私は鴨に代えてもらった。ソバは腰がありおいしい。大根おろしも付いていて、天ぷら、鴨でお腹一杯になった。
せっかくここま来たのだからと、集落入口にあるからさわ亭にも寄った。妻はもう食べられないと言うので、アイスクリーム、私だけがソバを頼んだ。ザル二枚で一人前らしく、先ほどの天ぷらと鴨がこたえて、苦しかった。何軒も巡るときは、ソバは最少にして、余分なものは注文しないことが肝心と悟った。

   
 

11月21日 今年最後の薪割り

11月初めの薪割りでチェーンソーが故障し中断した薪作り作業に妻と一緒に山荘に来た。私は薪担当、妻には床のワックス掛けとベランダのテーブルの塗装を頼んだ。塗装もしやすいようにとスプレー式のものを買ったが、これは飛沫が喉や鼻に入るというので、タオルを口に巻いて塗っていた。強盗のようだった。私は残っていた薪材を割り、途中で終わっていた乾燥した薪を前列への移動作業をして、そこへ今日割った新しい薪を積んだ。そんなことで日が暮れた。
夜は薪ストーブの火に暖まりながら湯豆腐で妻と一緒にビールを飲む。至福のときである。翌日は雨、軒下で少し薪割りをしただけで、直ったチェーンソーを使う機会はなかった。それでもこの冬に使う薪は十分に貯まったようだ。

   
 

11月16日 甲州街道・初狩宿〜笹子

夏が来る前に行って以来、中断していた甲州街道ウォーキングを再開した。
歩くにはちょうどよい季節が到来したからだ。初狩から笹子を目指した。
この区間は取り立てて注目すべき史蹟はない。紅葉を愛でながらの歩きだ。
周りの山はまだ黄色が鮮やかに残っているものの、赤い葉は落ちてしまったようだ。それでもきれいだ。ほとんどの道はトラックが行き交う国道沿いだ。
たまに横の旧道に入ると静寂でホッとする。白野宿はこじんまりした宿場だが、家々のきれいに刈りそろえられた植栽と庭に咲く菊やコスモスが晩秋の柔らかな陽を浴びて美しい。ふるさとの村を思い出す。お寺の石段に腰掛け大きな山茶花と街道越しの紅葉の山を眺めながらおにぎりを食べた。ウォーキングで幸せを感じるひとときだ。笹一で知られる酒屋を過ぎると笹子の駅は近かった。
雪の降る前に甲州街道いちばんの難所”笹子峠”を越えたいのだが・・・

   
 

11月7日 晩秋の大気澄みて山くっきり

練習で秋の高原を楽しめなかった演奏者を朝食後、八子ヶ峰に案内した。
昨日は聴く人を、今日は演る人と、私にとっては二日続けての八子ヶ峰だった。、晴れてはいるが雲もあるという日で、昨日の快晴とはちがっていたので、山の展望を心配したが、登るにつれ、白く輝く北アルプスがくっきり見えるので驚いた。いつもは滅多に見えない横手山も横に走る草津白根ラインまで見える。晩秋の朝の大気は澄み切っているのだ。昨日は午後だったので、快晴でも空気が暖まり、霞みがかかってしまったようだ。遠く妙高の先の火打山や焼山も白く輝いていた。もちろん、もっと近い御岳や北岳もくっきり、白い。
3日前までは白かった八ヶ岳の冠雪は溶けてしまったようだ。このような日は、いよいよ冬が来たことを感じさせる。

   
 

11月6日 今年の山荘演奏会はおおにぎわい
今年で5回目になる片貝さんのチェロから始まった弦楽演奏会。
ヴァイオリン、ビオラにフルートが加わったりして、演奏も賑やかになった。
今年はそれに男声合唱が加わり、さらに賑やか。これまでの最高、17名もの
参加者があった。「一度聞いた人は翌年は来ない」と囁かれた”秋の夕べの
演奏会”で、三年目には聴衆は私とお客一組という時もあったが、継続は力なりだ。リピーターも増えた。演奏の腕が上がったのか、聞く人が驚かなくなったのか定かではないが、演奏の後のワイワイパーティが楽しいことだけは確かだ。初登場の男性グリークラブ合唱は演奏会に花を添えた。誰も周りにいない晩秋の山荘は、時々音がはずれる四重奏と重厚なコーラスに包まれて、とても暖かかった。

   
 

11月 5日 庭の拡張

薪仕事でヘトヘトになっているのに、二日続けて外で仕事をしていたら、前から気になっていたベランダ前の林の枯れ木の山がさらに気になっってきた。
林の中の雑草や雑木を刈り取ったら、そこそこ芝生のような雰囲気の庭になることも分かったので、この庭をもっと広げたいとも思っていた。そこで三日続けて外仕事となった。枯れ木の山を敷地の端に移動させ、雑木を切る、という作業に取り掛かった。枯れ木の山は5ヶ所くらいに分かれていたので、そこから隣の戸田さん敷地ギリギリの林にエッサエッサと運んだ。下の枯れ木は腐っていて、半分土になっていた。庭を広げる範囲に生えている雑木を草刈り機で切り払った。今年最後の草刈り機の出動だ。きれいに広がった林をベランダから見ると、緑になる頃が待ち遠しい。ハンモックが似合いそうな庭になるかしらん?この三日間は力仕事で働き詰めだった。ぐったり疲れた。(この疲れは翌週、東京へ帰ってもしばらく取れなかったほどだ)

   
 

11月 3−4日 冬の準備

夏前に上のペンション・アダージオからもらった落葉松の薪材を冬が来る前に割っておかなければいけない。見る度に気になっていた作業を昨日3日から思い切って始めた。今村さんがチェーンソーで切り、中西さんが玄関下に積み上げてくれた丸太をまずマサカリで割り、薪にして再度、積まなければならない。
マサカリでスッパスッパと割っていく(難渋することも多いが)。古いマキが玄関下の奥に積まれてあるので、それを前列に動かし、新しいマキと入れ替えなければならない。この作業が大変。中腰で奥にある薪を放り出し、空いたスペースに新しい薪を積む。放り出した薪をこんどは最前列に積む。ホコリにまみれ鼻の中は真っ黒。腰は痛い。3日はこれで日が暮れた。

   
 

翌日は、裏の軒下に丸太のままに積んである薪材をストーブに入る長さの丸太に切り刻む作業だ。軒下は雪の溜まり場所なので、そのまま冬を越すと湿気ってしまう。チェーンソーの出番だ。夏前、今村さんのチェーンソーが調子悪くなり、残ってしまった。切屑が地面を汚さないようビニールシートを張り、その上に丸太二本で台を作って、そこに薪材を載せてチェーンソーで切っていく。数十本ある丸太を今日中に片付けるつもりで始め、午前は順調だったが、午後に入ってチェーンソーの刃の噛み合わせがおかしくなり、作業は進まなくなった。10本あまりの丸太が残ってしまった。割った丸太もゴロゴロと地面にころがっている。雪がかからないよう、ベランダ下に運び込まなければならない。台車に丸太を載せて、ベランダ下と何十回と往復し、積み上げていく。切った丸太は運びやすいのだが、チェーンソー前の丸太は長く重い。台車の上でバランスを崩し、右へヨロヨロ、左へヨロヨロ。やっと移動させた時には日がくれていた。切りクズや剥がれた木の皮の片付けをし終えたときはまっ暗で見上げた星空がことのほかきれいであった。
 

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10月

10月 31日 小津安二郎の世界(蓼科高原映画祭) 

小津安二郎映画祭で小津作品を毎年見るようになって、小津映画の狙いが
少しわかるようになった気がする。それは「憧れ」である。どの映画も、家庭の中の出来事を淡々と描いたストリーだ。そこには中産階級のやや恵まれた家庭の日々の暮らしが、親子仲良く、友情厚く、起伏は少しはあるものの最後は円満に過ごしていく情景が描かれている。戦前の無声映画には、郊外に家を持った
サラリーマンの庭にも椅子があり、テーブルがある。戦後の会社の情景には、
役員は個室で秘書がつき、夜は料亭で大学同期の仲間との会合、家庭では
お土産のケーキをみんなで分けて食べる。どれも、その時代、普通以上の人や交流、生活が描かれている。「こんな会社でこんな働き方をしたい」、「こんな楽しみをもち、こんな生活をしたい」、「こんな家庭でありたい」。この時代の人たちはそんな思いを持って、小津映画を見ていたのではないだろうか。
戦後、ハリウッド映画の中で見たテレビも冷蔵庫もある庭の広いアメリカの暮らしを見て驚いたように。今になると、それがすべてのアメリカ人の生活ではないとわかるのだが、当時はアメリカ人はみんなそんな暮らしをしているのだと思っていた。小津映画も当時の日本人に生活や働くことの”憧れ”を持たせたのではないだろうか。

   
 

10月2 4−25日 新潟の小学校同級会・伊勢で開催 

私の過ごした塩野町小学校は同期生60人とこじんまりしていた。もう10名近く亡くなり、行方がわからない友を抜くと、連絡つくのがいつも45人程度だ。その半分以上の24人から”行くよ”と返事をもらった。結局は直前に20名に減りはしたが、新潟からは飛行機で、名古屋に集まり、バスで伊勢神宮へ向かった。
ここまで生きてみんなで再会したことを感謝し、さらに長生きすることを祈った。志摩の温泉宿では伊勢エビやサザエに舌づつみを打ち、カラオケで盛り上がった。翌日は鳥羽の二見ヶ浦や賓日館(ひんじつかん)という明治時代に建てられた皇室の別荘に寄ったりした。大正天皇はここで海水浴をし夏を過ごされたという。(シャンデリア輝く畳敷きの大広間があったり、天皇が座って海を眺めたベランダの椅子があったりで、とても興味深かった。)
名古屋に帰り、呑み屋の二階を借り切っての宴会もカラオケとダンスが夜遅くまで続いた。こんなたわいもない集りなのに何故か楽しい。みんな盛り上がる。
私たちの時代は、ほとんどが中学を卒業すると家で百姓を継ぐか、集団就職で故郷を離れた。名古屋に数名の同級生がいるのも、今回、ここで同級会をやった理由であった。そんな時代を生き抜いて残った同期の絆は取り立てたことをしなくても強いのだ。名古屋駅で50年ぶりに会った友も、一言「元気だったか!」と声をかけ合うと、新潟訛りに戻るのだ。再来年、東京でやることを約束して、
別れた。みんな生きてろよ!

   
 

10月 20日 リベンジ乗鞍五色ヶ原

8月に台風で中止になった乗鞍岳の飛騨側にある五色ヶ原トレッキング「しらびそコース」を紅葉の時期に歩くくことにした。8月にも泊まったペンションいしみずに前日入り、翌朝は7時前に集合場所へ行った。平日なのにかなりの参加者だ、われわれの班はガイドを入れて7名。バスで前回は解散地点だった出会いの小屋まで行き、そこからしらびそコースに入った。
このトレッキングはすべてガイドが案内するという日本版ミルフォードトラックである。しらびそコースは点在する池めぐりが中心だ。森の中の整備された道を辿るといろいろなキノコに出会う。先月採った花イグチもあった。採ろうとしたらガイドに怒られた。ここではキノコでも原則、採取はしないという。今年はマツタケが豊作だが、五色ヶ原でも例年なら生えない場所にも出たという。それも歩くコースの傍だった。採取禁止ではあったが、やはり誰かにすべて取られていた。少し茎の部分だけが残っていた。蓼科で一昨年見つけた珍種のクロカワもそのまま生えていた。もったいない。
ウォシュレット付きの岩魚見の小屋で昼食を取ってから入った澄池から濁り池へのコースでお目当ての紅葉がきれいだった。いずれの池も枯れ池なので、池の中の道を歩いて行った。最後は布引の滝に寄った。岩肌に幾筋も流れ落ちる滝はとても美しい。約8時間の紅葉トレッキングは十分に楽しめた。
トイレで「8000円は高いと思ったがそれだけの価値はあったトレッキングだよな」の会話を聞いた。同感である。この夜は福地温泉の草円という旅館に泊ったが、ここも落ち着いてなかなか良い宿だった。

       
 

10月16−17日 中学同期・蓼科に集まる

私のいた越後・村上中学校は7組までもあるマンモス学校だった。だから仲間といっても、同じクラスや生徒会で一緒だった友に限られ、クラスが一緒でなかった人は今、同期会に行ってもさっぱりわからない。だから小学校の仲間と違って、中学校の同期会には足が遠のいている。仲が良かった友とは、10年前くらいから毎年会う機会が多く、蓼科や奥志賀にも何回か来てもらった。
今年は、初めて女性も加わり、蓼科の山荘にひと晩、翌日は途中、高校1年のとき同級だった友がやっているリンゴ園でリンゴ狩りをしてから、奥志賀に行った。紅葉まっさかりのこの季節は晴れていれば素晴らしい。幸い、二日ともまずまずの天気で、蓼科も、途中の高山村も、山田牧場も、志賀高原も美しかった。面白いもので、男性だけだと話題も硬くなりがち、酒中心になるが、女性が入ると、みんな人が変わったように笑顔が多く、話題も広がる。歳はとっても、異性には関心あるのだろう。この仲間で12月も池袋の田舎家で忘年会をやることになった。東京で唯一の越後村上の味が楽しめる店だ。酒は〆張鶴、のっぺに鮭、最後はわっぱ飯で締める。この夜は村上一色に染まる。

      
 

10月 10日 岳文会50周年

学生時代に入っていた岳文会が50年になるというので、2年前から準備に入った。私は事務局として全てを仕切ってきた。この集大成の日がやってきた。
体育会系のクラブと違い、単なる山登りの同好会で、「岳文会は学生時代のこと、社会に出てからは関係無い」とうそ吹くOBも多く、年会費の集まりも悪い。
そんな状況で迎えた50周年なので、どれだけのOBが集まるか不安だった。
案内を頻繁に送っても、寄付金も思うように集まらないし、反応も聞こえて来なかった。ところが夏頃から、寄付金が急に増えてきた。9月に入って出欠案内を出したところ、「出席」の返事が来るわ来るわで、こんどは収容力が心配になってきた。結果は、OBの半分近い300名もが全国から早稲田に集まってきた。
ニュージランドから来たOBもいた。寄付金も三割も目標を上回った。すべてが
杞憂であった。帰属意識が薄い集まりと思っていたが、同期界隈では年賀状や暑中見舞いで、「岳文が50年だってよ、行ってみようよ」と声をかけ合っていたらしい。直前には電話やメールで誘い合っていたとも言う。心の奥底では岳文への愛着があったのだ。式典のロビーやパーティで「生きていたか、卒業以来だよな!」肩を叩きあうおおぜいの仲間の姿を見たら、涙が出るほどうれしかった。何事も地道な努力を続ければ、意が通ずることを悟った岳文会50周年だった。

    
    
 

10月 4−6日 昼は天国、夜地獄(涸沢の紅葉)

札幌の佐藤夫妻は岳文の先輩、小野さんの登山の教え子。定年を迎えてから夫妻で山登りを始めた。昨年6月、初めて”内地の山”に来た。
蓼科の山荘をベースに、八ヶ岳に登り、蝶ヶ岳に登った。そして今年は、久恋の穂高である。羽田でピックアップして、上高地へ直行した。西糸屋に泊まって翌日、涸沢へ向かった。生憎の雨、ヒュッテに着くまで降り続いた。山小屋の中は濡れた物を干す人で乾燥室やストーブの回りはごった返ししていた。布団も1枚に2人が寝るという混雑。この季節は混むと覚悟していたが、雨の日はそれに
輪をかける。翌日はキレイに晴れた。朝焼けに輝く北穂高、涸沢槍、奥穂高と麓、涸沢のみごとな紅葉のコントラストが美しい。奧穂目指してザイデングラードに向かった。途中のナナカマドの赤が目に染みる。札幌組は昨日の雨で消耗したのか、全員元気がない。それでも何とか奥穂高の頂上に着いた。
帰りの道から見下ろした涸沢は夕靄の中に色とりどりのパステル画のようだった。夢のような外から、山小屋に入ると、今日は4人一室と期待していたブロックにさらに4人が陣取っていた。まさに昼は天国、夜地獄が今晩も続くことになった。

   
 

   パノラマコースからの槍ヶ岳

涸沢を去る日も良い天気だ。パノラマコースと名づけられている屏風のコルから慶応尾根を越える道を選んだ。過去2回、通ったことがあるが、イヤらしい所があったような気がしていたが、それがどこかは覚えていない。今日、歩いて思い出した。涸沢と屏風のコルまでのヘツリがそれだった。岩肌の細い道を何度か登り降りする。ガレているところもある。そんな苦労の多い登りを終えて、尾根に登ったとき、それまでのいやらしさがすべて吹っ飛ぶ光景が目の前に広がった。
槍ヶ岳からキレット、北穂から奧穂への大パノラマが紅葉の前景の上に展開している。しばし、疲れを忘れて見入った。これがあるから、山はやめられない。
山小屋の混雑も道の険しさもすべてが帳消しになる。尾根の反対側に下るとこの光景ともお別れだ。ひたすら急な下りを歩き、奥又白からの沢に着いた。
ここには岳文の先輩、小野さんとは同期の林さんの遭難レリーフがある。
薮を掻き分けてお参りした。今年はわれわれだけが来たような感じだ。
”穂高よさらば”を口ずさみながら、上高地を目指した。

   
 

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9 月

9月27日 きのこ

きのこ博士吉田さんの指導よろしく、蓼科の山に入った。26日の午後は八子ヶ峰東峰に続くこぶし3号線からの尾根。さっぱりないと「今年はダメだね」などと言いながら、登山道の笹薮にイグチを発見、薮をかき分けて1本取ると、その先にまた1本、またその先の笹の下に違うキノコがあった。ピンクがかったきれいなキノコ。博士に「何ですかね?」と聞くと、「アッさくらシメジだ!珍しい。その辺にいっぱいあるはず」と言う。みんなが笹薮の下からもぐっていくと、いっぱいある。この日の最大収穫はこれだった。翌朝は雨模様だったが、晴れ間を見て、反対がわの八子ヶ峰の西峰への尾根に入った。歩き始めたらすぐにイグチがあった。しかしその後はサッパリだ。これでだめなら場所を変えようと登山道を外れた斜面にラストチャンスと入ったら、なんと花イグチの群落だ。
そのあと、ひとり別な斜面で、写真のナメコをひと回り大きくしたような花イグチの株を発見。「今日はイグチデーだね」と言いながら、帰荘。夜はホテルオークラの中華料理のシェフだった吉田さんの幼馴染みの内田さんによる、取り立てキノコふんだんに入った本格中華の数々。その美味しさで、昨夜からの酒で「今日は程々にしよう」と思っていたのに、どんどんワインや紹興酒が進む。プロの腕前は料理だけでなく、料理するのと、片付けが同時進行していくその手際良さに感嘆しきり。極上のキノコの夕べであった。内田さん、吉田さんあ、ありがとう!

   
 

9月19日 蓼科山は山ガールでいっぱい

岳文の仲間と一緒に蓼科山に登った。女神茶屋からの歩きは4年ぶりくらいか。連休とあって、登る人が多い。中でも若い女性のタイツ姿が目立つ。山ガールとは、このことか。決して餓鬼岳や竹村新道にはいない女性層だ。颯爽としていて、格好よい。岳カンバの急坂を登ると、岩道に出た。ここまで来れば、頂上は近い。頂上に着いて驚いた。山ガールがいっぱいだ。ほとんどが男性付きだ。
爽やかな秋の空に浮かぶ筋雲、はるかかなたの穂高、槍ヶ岳から鹿島槍に続く北アルプスの稜線、そしておおぜいの若者。何かウキウキしてくるような光景が蓼科山の山頂に広がっている。山ガールブームは山の楽しさを再認識させてくれる現象だ。養老院が引っ越してきたようなジジババばかりの山ではやはりダメなのだ。少し黄色くなり始めた樺の林の下り道は、足取りも軽かった。

   
 

9月11日 
秋 来 ( き ) ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
今年の夏は蓼科も暑かった。室内で27度くらいの日も多かった。
そんな夏も餓鬼岳の台風が季節の変わり目をもたらしてくれたようである。
澄み切った空に雲が流れ、ススキの穂が伸びてきた。朝晩は寒く感じるようにもなった。
東京はまだ酷暑の熱帯夜が続いているようだが、高原の山荘の周りには確実に”秋来(き)ぬ”である。

     
 

9月7−8日 餓鬼岳

燕岳から北へ延びる稜線の先にある餓鬼岳は、北アルプスではマイナーな山。先月、竹村新道から水晶岳へ登った人が「餓鬼の方がキツイ」と言っていたことが気になって、急に登りたくなった。安曇野のアルプス公園の先の細い道を車を走らせ、白沢から登り始めた。沢沿いの崖に沿った桟道を1時間半くらい歩いて、ようやく沢を離れて上りに入った。登り始めてすぐ急登。登れども登れども、目の前に壁が立ちはだかる。確かにキツイ。水がどんどん減っていく。山荘を出るとき剥いてきた梨がおいしい。竹村新道で命の糧だったトマトもすこぶる美味。山では水分のある果物、野菜がいちばんだ。
やっと大汝山の2100mのピークに着いたが、餓鬼の頂上は見上げる森の上のようだ。しばらく尾根筋を歩き、百曲がりという森の中の急坂を登る。ハイマツが出てくると、小屋が近かった。登り6時間半かかった。小屋に着いた頃から、雨が降り出し、夜半にはさらに強くなった。小屋は、女性4人グループと福岡から来たオバチャンひとり、男は私だけ。オバチャンと二人で夕食のテーブルだった。松本でレンタカーを借り、霞沢岳へ登ってから餓鬼岳に来たという。下りたら、
中央アルプスの越百岳(オスモダケ)に登るという。どれも玄人向けの地味な山だ。たいしたオバサンだ。

   
 

台風が北陸から上陸し、本州を横断するとかで朝から雨。せっかく来たのだから、唐沢岳にも行きたいしと、今日は停滞、もう一泊したいと言ったら、小屋の
オニイサンが、明日になると白沢が渡れなくなるから、今日のうちに下りろと
言う。台風は今晩がいちばん近づくとも言う。仕方なく、小屋のすぐ上の頂上(2647m)に登ってから、雨の中をオバチャンたちの後を追いかけた。
暴風雨ではないが、降り続く。10分ほど下って、ストックを忘れたことに気づき、小屋に戻って、往復20分のロス。4時間40分かかって雨の駐車場に着いた。
全身びしょ濡れ、靴のなかもグチャグチャ。着替えて、温泉宿を探して山を下った。次の日はカラリと晴れているではないか。台風は早めに去ったという。
小屋のオニイチャンの言うことなんか、聞くんじゃなかった。

   
 

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8 月

月29日 ひと晩だけの阿波踊り 

中々連の二年目の高円寺阿波踊り。参加連が多く、今年は抽選になり、私がくじを引いたせいで、50%の確率を外して、日曜ひと晩の阿波踊りとなってしまった。来年はふた晩保証されているというものの残念だ。
ひと晩限りというせいか、昨年より参加者が多かった。酷暑の今年は、夜になっても暑く、踊っていても汗がしたたり落ちる。中央演舞場スタートだったせいか、いつもより踊る時間が長かった気がする。踊り終わってグッタリ疲れた。
毎年、ひと晩でもいいような気がしてきた。

   
 

月2 2−25日
  竹村新道・赤牛岳・読売新道

去年の塩見岳で歩きに少し自信がついた。まだ歩けるうちに、やり残している
北アルプスの山を片付けようという気になった。そこでかねてから気になっていた赤牛岳に行くことにした。行くなら、これまた残っている竹村新道を登り、読売新道を下りてこようと思った。かなりチャレンジヤブルなコースなのだ。そこで
万一のことも考え、レスキュー保険にも入った。
初日は大町から高瀬ダムまでタクシーで行き、湯股の青嵐荘まで2時間半の歩きだけ。湯股では、河原に沸く温泉を掘って、露天風呂気分を楽しんだ。
肩までは浸かれないので、寝そべって入る。横になっているうちに、水流を止めるらしく熱くなったり、冷たくなったりで、裸で別な場所を探してまた寝そべる。
記念写真をと寝たまま、横からオートタイマーで撮ったら、お腹がポッコリ小山になって写っているので慌てて削除した。こんなに腹が出ているのかと愕然とした。
   
 

   バテバテの9時間半

温泉気分の居心地がよいせいか、1時間も寝坊して、急いで宿を出た。青嵐荘の後ろから、竹村新道の急坂が始まった。1640mの槍ヶ岳が見える展望台で
朝飯弁当を食べた。湯股岳への登りは延々と続く。50分歩き10分休憩が登山の鉄則であるが、だんだん崩れ、45分歩き15分休みに変わった。小野さんからもらった標高がわかる時計は5m刻み、その5m上がるのが待ち遠しく なる。
2378mの湯股岳に着いたときは、40分歩き20分休みになっていた。ここから真砂岳への稜線は森林を抜けたので、砂礫の眺めの良いプロムナードなのだが、休みだけが楽しみの歩きになっていた。トマトがこんなにおいしいものだったかと悟ったほどだ。裏銀座の稜線に出たときは7時間経っていた。少し行くと雪が残っていた。空になったペットボトルにマグカップですくった雪を入れて水作りしようと考えた。すくいながら、口に入れる雪のおいしいこと。この頃になると、30分歩いては30分休みになっていた。これではさっぱり進まない。
それでも何とか、標高2800mの水晶小屋に着いた。午後3時半、9時間半の登りだった。ホッと一息つき、小屋の前のベンチでビールを飲み始めたら、「小田さん」という声。岳文会の現役の連中だ。上高地集中合宿に向かう裏銀座斑がなんと小屋に泊るという。「ここは水晶岳老人ホームだ。若者は三股蓮華でテントを張れ」と言ったが、昼前にチェックインしたという。「ビール飲むか?」「頂きます」「何人?」「8人です」で、350ミリサイズ缶ビール600円、〆て4800円の差し入れとなった。
   
 

  わが久恋の赤牛岳・読売新道

後立山連峰が朝焼け前の空にはるか遠くにうっすらと望める薄暁の頃、岳文の現役は双六岳目指して出かけて行った。私は人より遅く、赤牛岳に向かった。水晶岳の登リでは昨日の疲れのせいか、道をまちがったりして、行ったり来たり。何年か前に高天原に下りた温泉沢の頭でひと休み。あのときも下った河原で渡渉を繰り返しバテバテになったっけ。久恋の赤牛岳がだんだん近くなる。
赤い砂礫の道が山頂に伸びやかに続いている。とても雰囲気のよい山だ。
頂からは360度、すべて山また山。まさに北アルプスのど真ん中だ。百名山に入らなかったのは幸いだった。頂上にいるのは3人だけ。静かで優雅な時間が流れて行く。ずっと居たいが、今日も長い。頂上からは途端に急激な下りになる。読売新道の始まりだ。この道は、1960年に読売新聞社北陸支社開設記念事業として開拓された。正力松太郎は富山出身、故郷への錦のひとつの事業だったのだろう。急坂を下り、尾根に出ると7/8の標識が現れた。奥黒部ヒュッテ近くまでの1/8まで、歩くにはちょうどよい目標になる。森林の中に入ると、木の根っこだらけの道が続く。所々、はしごや鎖を使って下る。黒部川東沢の川音が聞こえ始めたら奥黒部ヒュッテに着いた。今日は8時間だった。昨日よりはマシだった。小屋の管理人は私と同い年。ここに泊る人は、山を歩き慣れた人が多いと言う。そうでしょう。こんな所まで来るのは山キチでしょうから。決して山ガールは歩かないコースである。
   
 

  黒四ダムまでの長い道

黒部ダムの辺りに下りたのだから、黒四ダムまでは楽と思うとそうではない。
いくつもの沢を渡るとき、高巻きの道からハシゴやロープを使って沢に下り、また同じようにして高巻道に上りあげる。これが延々と続く。平の渡しで、渡し舟に
対岸を渡ってからは、ダム湖を入り江に沿って歩く。対岸の目の前に山小屋が見えるのに、道は入江の奥深くまで行き、どん詰まりで曲がってまた同じだけ
歩くので、小一時間もかかってしまう。読売新道は終わってからも長いのだ。
午後3時前、ダムに着くと観光客であふれている。トロリーバスで扇沢に出て、温泉宿を予約し、大町温泉で日焼けした肌を湯にひたしたときの痛さで、この
山旅の大変さを実感した。

      
 

月19日 山荘から歩く八子ヶ峰

八子ヶ峰を歩くコースはいろいろあるが、今日は山荘からこぶし3号線のロングコース入口までも歩いて行ってそこから登りだした。以前はこぶし3号線までは巡回バスで行って登ったことはある。今日はそこまで歩くのだから30分はプラスしなければならない。ショートカットコースとぶつかる蓼科湖への分岐点までは
1時間あまり、広葉樹と松の混じった森の道は涼しく快適だ。周りにいっぱいキノコが出ている。今年は豊作と聞くが、この暑さが続くと来月末のキノコ狩りまで持つかどうか?食べられるものかどうかわからないが、沢山ある。
(9月のきのこ狩りで食べられないものと判明)分岐点からはいつものトレッキングコースだ。八子ヶ峰西峰の頂上付近にはマツムシ草の花がいっぱい咲いていて、赤とんぼが舞っている。山はもう秋だ。、ハーベスト本館への尾根道を
進む。去年通ったとき工事中だった立派な山荘は出来ていた。その脇に道路に下りる側道も用意されていたので、それを下りた。雰囲気が何か違う。
通った記憶のない道だ。しばらく行くとペンションアダージオの前に出た。一本上のあかしあ2号線だったらしい。山荘まで3時間40分の道のりだった。八子ヶ峰はいつ歩いても何か新しい発見がある。

   
 

月12日 飛騨古川

思わぬ台風が来て、今日の五色ヶ原トレッキングは中止になった。秋の再訪を約束し、ペンションいしみずを後にして、飛騨古川の町へ向かった。古川は高山に近く、趣のある所と聞いていたが、高山の人気に隠れている。古い街並みに沿って堀割が続き、そこにたくさんの鯉が泳いでいる。町も観光整備に力を入れているらしく、案内も親切だ。揚げたてコロッケを立ち食いし、お蕎麦を食べて、静かな古川の町を離れた。ノーベル賞のカミオカンデがある神岡の町を通り、
平湯温泉に向かった。

   
 

月11日 日本のミルフォードトラック・五色ヶ原

乗鞍岳の飛騨側に今は高山市になっているが旧丹生川村がある。そこに村の肝いりで整備した五色ヶ原という所がある。滝が無数に流れ落ち、森の中には静かで美しい池がいくつもある。滝めぐり中心のカモシカコース、池めぐりのシラビソコースといずれもガイド付きで一日がかりで歩く。予約なしの人は歩けない。ニュージランドのミルフォードトラックと同じシステムだ。
一日はカモシカコース、翌日はシラビソコースで妻と一緒に申し込んだ。朝7時半出発、蓼科からでは遠いので、近くのペンションいしみずに泊まって行くことにした。宿泊パックがある。このペンションはスキー好きのオヤジが始めたらしく、息子と娘は岐阜県アルペンのトップスキーヤーだという。男勝りの奥さんがペンションを仕切っているようだ。 カモシカコースを歩いたのは豊田から来た夫婦と私たち4人だけだった。しばらくは広大なブナの森を歩き、久手御越滝や池之俣御輿滝など古めかしい名前の滝を通り、烏帽子休憩小屋で弁当だ。烏帽子小屋は休憩のみだが、ストーブもありトイレはウォシュレット付きの水洗である。
ミルフォードもちょうど昼頃になるとハットと呼ばれる小屋に着き、そこでビスケットや果物、飲み物のサービスが受けられる。よく似たシステムだ。午後も青垂滝などを歩いて、出会いの小屋で今日のトレッキングは終了。そこからバスで戻ってくる。明日はここまでバスで来て、池めぐりのシラビソコースを歩く。
(結果として台風で翌日は中止になったが)

      
 

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7 月

7月26日 アナベル無残

山荘の庭に咲く花として白いアナベルは涼やかでよい。手間がかからないのもよい。いつも居る訳でないので、水やりを欠かせない花はダメなのだ。ほおっておいても育ち、咲いている期間が長い花がふさわしい。そんなわけで山荘の夏の花はアナベルに限ると思っていた。この花を持ってきていただいたのは足柄山の今村さんの奥様・夏子さん、挿し木で増やした苗木を6年前のオープン直後に、山荘への登り道両脇にいっぱい植えていただいた。翌年の夏から大輪の花をつけ始め、一昨年がピークだっただろうか。今年も6月末に、追加で苗木を植えてもらい、花をつけるのを楽しみにしていた。大きくなった以前の株に小さな花が見られたので、楽しみにしていたのが2週間前。しばらくぶりで来た今回、ガックリした。ことこどく花の芽が鹿に食われているのだ。今年は全滅に近い。
昨年も二株ほど、咲かなかったのがあったので、紙切り虫にでもやられたかな?と思っていたが、鹿の仕業だったのだ。増えすぎた鹿の食糧難の犠牲になってしまったようだ。これまで食べなかったものまで、手を出す?ようになってしまった。ニッコウキスゲの被害も同様だ。来年は芽を出し、咲くまでの間は上から網をかぶせようと思う。

   (左・2008年のアナベル)       (右・今年のアナベル)
   
 

7月23日 澄みわたる八子ヶ峰

晴れの日が続くが、夏の高原の展望は決していいとは言えない。山麓からの暖かい大気が雲となり山を覆ったり、全体がかすみがかったりする。それも八ヶ岳や南アルプスが見えるときは北アルプスが霞んでいたり、逆だったりする。秋のようなすっきりした景色にはならないが、今日は珍しく近くの蓼科山から八ヶ岳へかけて澄み渡っていた。北アルプスは隠れていたが。八子ヶ峰もニッコウキスゲが結構咲くが、今年はやはり少ない。ポツリポツリと咲いていると、とても目立つので、近寄って写真に撮りたくなる。草原を吹き抜ける風に、梅雨明けを感じ、立ち上る入道雲に盛夏が来たことを気づく。
”夏だ、夏だ、高原だ!”と叫びたくなる衝動にかられる。

   
 

7月21日 ニッコウキスゲ異変

梅雨明けと同時に酷暑が日本列島を覆っているが、蓼科や霧ヶ峰の高原は暑さ知らずの涼風が吹き抜けている。まさにエアコンの”キリガミネ〜♪”である。その霧ヶ峰のニッコウキスゲが変なのだ。いつもは見ごろになる今どき、さっぱり咲いていない。例年の一割もないのではないか。要因としては天候不順による成長の遅れ、植生の遷移、また、シカの食圧、ニッコウキスゲじたいの生態リズムが原因かと言われている。ここ何十年にもなかった大凶作と言ってよい。
その代わり、アカバナシモツケがやたら目立つ夏の高原になっている。いつもなら、ニッコウキスゲの陰に隠れた存在なのに今年は主役交代である。

          (左2007年7月22日、右・今年の7月21日)

   
 

7月17日 雨池から麦草峠へ

今日は信州も梅雨明け初日だったようだ。昨日までの雨模様が終わり、朝から青空が覗いていた。夕べみんなで作ったサンドイッチを持って、ピラタスから雨池へ向かった。下りの石ころ道に往生した人もいたが、静寂の雨池にたどり着き、みんな笑顔。誰もいない湖だった。池をほぼ一周して、麦草峠へ向かう。
この道がぬかるんでいたりして、イヤラシイ。お腹を空かしてやっと麦草峠に着く。ここも鹿に高山植物を荒らされるらしく、敷地のまわりに高いネットを張ってあった。どこもこんなでは、植物を育てる前に守りを固めねばならない。困ったものだ。五辻を廻って、梅雨明け記念のトレッキングは終了した。山荘に帰ってきて、恒例の広島焼きパーティで、山荘の夏は始まった。
ベランダでシャンパンを空に向かってポンと抜き、梅雨明け万歳!

   
 

7月4日 雨の奥志賀、滝めぐり

昨日の二日酔いもあり、雨模様で奥志賀渓谷ハイキングは中止と考え、グランフェニックスに電話したら、オーナーの田島さん夫妻は行く気になっていると言うし、この程度の雨なら歩くとも言う。そこで雨の滝めぐりとなった。でもこれが良かった。ブナ林にしっとりとした雨は瑞々しさを与え、案内してくれるスタッフの説明も植生から草花まで、雨とのかかわりあいを触れるなど、教えられることも多かった。昨日の主役の高野登さんも参加され、緑の深さと滝の美しさに感動されていた。30人ものおおぜいの参加があったが、みなさんとても満足されたようだった。めでたし、めでたし。

   

 

7月3日 高原のセミナー” 楽しく働き、明日に希望をもつ”

毎年、信州の奥志賀高原で、「高原のセミナー“倉重英樹塾”」を開催している。今年も90名もの人が奥志賀のホテルグランフェニックに集まった。今年のテーマは「楽しく働き、明日に希望を持つ」である。講師は日本IBM副社長から転進され、“企業革新にはオフィス改革が重要”とFMの必要性を日本でいちばん理解している経営者でもある倉重さん、ゲストはリッツカールトンの日本支社長を務められ、“サービスを超える瞬間”のベストセラーで著名な高野登さん。
約3時間半の講義、討議のあと、パーティ、二次会と夜遅くまで講師と一緒に団欒が続き、翌日はゴルフやハイキングのオプションもあるという東京では決して味わえない合宿形式のセミナーで、今年は三回目。年々参加者も増え、常連も多い。最初はベルサルームズの閑散期の集客と思って始めたのが、奥志賀の初夏の風物詩になろうかというホテルも一緒のイベントになってきた。
準備は何かと大変だが、こうやって参加されたみなさんから、「良かった」と言われると来年もという思いになる。高野さんの話にもあるように「満足を越えたところに感動がある」醍醐味でもあろうか。
セミナーの内容と参加者のまとめは、当WEBサイトをお読みいただきたい。
またBPIA(ビジネスプロセス革新協議会)の ホームページにも同じものが掲載
されています。
(クリックするとリンクします。)

   
 

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6 月

6月26日 薪運び、チェーンソー、草刈、 

足柄山から今村さんご夫妻、横浜から中西さんご家族が来られての一大山荘イベントの日である。”一大…”というのは、一日、外での力仕事に従事するからだ。今村さんは、家での暖房が薪ストーブの薪割り達人であり、私の師匠でもある。奥様の夏子さんは草刈と花の達人である。草刈機とアナベルの私の師でもある。”足柄山のお夏”はお父様の庄野潤三さんのエッセイ風小説によく紹介されている、とてもさわやかな宝塚ファンの奥様。草刈機を振り回すなどとは想像できない。薪運びもご主人をいつも手伝っているとかで、私よりも頼もしい。
小雨降る中、上のペンションから頂いたカラ松の薪材を、軽トラも借りて3回ほど往復して、山荘に運んできた。そしてストーブに入る長さにチェーンソーで切り、ベランダ下に中西さんにも手伝ってもらい積み上げた。残った薪材切断とマサカリでの薪割りは雪の来るまでの私の仕事となる。
この日まで伸び放題にしていた庭の草刈も、夏子さんと私の二台、フル稼働でサッパリきれいになった。550坪の敷地は、何もしないと草に埋もれてしまうのだ。その庭に、アナベルの苗木を数本、植えていただいた。咲くのが楽しみ。
終わったあとは、アサヒビール足柄工場で直接買ってきていただいたできたてのスーパードライがことの他うまい。今年も今村さん、中西さんありがとうございました。

   
 

6月17日 梅雨の晴れ間の蓼科、志賀高原

雨が毎日続く今年の梅雨だ。7月のセミナーの打ち合わせで奥志賀に行くこの日は、珍しくきれいに晴れた。こんな日は八子ヶ峰を歩きたいのに、と後ろ髪引かれる思いで出かけたが、これが良かった。蓼科のプール平を越え、ビーナス
ライン上部の展望台からは久しぶりの青空に、編み笠山からのスーと伸びる
裾野のラインが美しい。その向こうに雪を冠った北岳も見える。
2時間半のドライブで志賀高原に入った所にある一沼のほとりは赤いレンゲつつじに覆われていた。今年は雨続きで八子ヶ峰にも、霧ヶ峰にもまだ行っていないので、この季節の花、レンゲつつじにはご無沙汰なのだ。志賀でこんなにいっぱいのつつじを見れるとは予想外だったので驚いた。この沼は、秋の紅葉も早いので、きれいな所だ。思いがけない楽しい志賀高原往復のドライブとなった。

   
 

6月11日 甲州街道・大月宿〜初狩宿

大月から初狩は中央線でひと駅の距離。大月のすぐ近くの花咲宿には本陣が現存している。大きな宿屋で、参勤交代の殿様の定宿だった。明治天皇の行幸でも使われた。えらい人のトイレが畳敷きなのに驚いた。便器の前に書見台まである。ウンウンしながら、稟議書など読んでいたのだろうか?
初狩近くで「日本橋から100K」の標識があった。日本橋をスタートしたのが昨年9月、甲州街道はまだ半分も来ていない。これから最大の難所だった笹子峠も待っている。夏前に越えたかったが、今年の梅雨は長そうなので越えられるか?

   
 

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5 月

5月29日 ベルサルームズ経営会議

ベルサルームズもオープンしてから4年目、軌道に乗ってきてはいるものの、
当初の目論見通りには伸びてはいない。
スキーシーズンは日本人は週末に偏り、外人客は長期滞在が増えている。
週末が日本人客でいっぱいになると、外人客をとれなくなるなどのジレンマを
かかえるようになった。そこで、出資者の組合員の方々に奥志賀に集まってもらい、これからの経営計画をザックバランに話し合うことにした。
オーナーの三輪さんの考えを聞きながら、それにコメントする形で進行した。
スイートルームのドアでは激論もあったが、冬と夏の集客方向性では、みんなの考えは一致した。スキー客減少の今、なんとかよい方向に持ち上げていくには、ベルサルームズひとりだけではどうにもならない問題もあり、地域がまとまって同じ方向に向くことも必要だ。素材としての奥志賀には夏も魅力たっぷりなのだが、それが生かせていないことが残念だ。
翌日、帰りの高天原で見た水芭蕉の群落はすばらしかった。いつも走る道路のそばにこんなに良い所があるとは知らなかった。これなんかも魅力の発信が不十分だと思う。

   
 

5月24日 無言館

上田の無言館は来てみたい所だった。学徒動員で戦場に逝った美術学校の学生の絵を収納している美術館だ。
東京美術学校(今の東京芸大)の学生が中心のようだが、開館したら「ウチの子の絵も」という希望が多かったのであろう、分館には今の多摩美や武蔵美の学生、京都美術学校(今の京都芸大)の絵も展示されている。
絵だけでなく、戦地からの手紙や日記、写真などもあり、筆を置いて戦地に赴かねばならなかった若者の切々とした悔しさが偲ばれる。絵の脇にはその学生の最後の日の状況も紹介されているので、絵より彼の生涯のことが鮮烈で、ひととおり回っても、絵の印象がほとんど脳裏に入っていないことに気がつき、もう一度、こんどは絵を中心に見て回らなければならなかった。分館の前の石畳も、戦地だった摩文仁の丘の石を敷き詰め”非戦の庭”と名づけられている。
雨上がりの新緑に、平和のありがたさを感じるほど、強烈な印象を与える美術館であった。

   
 

5月23日 一泊二食・飲み放題で6800円

花の木ソバの会ご一行様は雨の安曇野を周り、大半の人は東京へ帰っていった。10名が浅間温泉に泊ることになった。一泊二食6800円というので、どんな宿かと恐る恐る行った。鉄筋6階建ての立派な宿だった。なんと夜の宴会の飲み物はすべて飲み放題で6800円に含まれるというのだから驚きだ。365日同じ料金には、さらに驚く。
食事はバイキングなので、味気ないが、ぜいたくは言えない。小分けして取れるように4x4の16マスに小さく分かれた皿を渡され、そこに海老やら、サラダやら、豆腐やらを盛っていく。人によっては、好きなものをマス目には関係なく、何品か盛って終わりにする人もいるが、私など、すべてのマス目を埋め尽くすことが目的のような盛り方をするので、ここでさもしい人間性がバレてしまった。
伊東園という伊東温泉の旅館のチェーンで同様のシステムの旅館が鬼怒川や熱海にあるという。熱海のニューフジヤという昔、泊ったことがある大ホテルもここに買い取られ、9800円で飲み放題の宿になっていた。彦根のプリンスホテルもこのチェーンになっていたことも驚きであった。バブルの頃に大きくしたホテルや旅館が、今ではこのような形で客を集めなければならない。とことんサービスを切り詰めて低価格でお客を増やすか、徹底的にサービスや部屋や風呂にこだわって高い料金で客を呼ぶか、温泉旅館も二極化してきている。中途半端はダメな時代になっているようだ。

   
 

5月22日 山荘に響くカントリーと津軽ジョンガラ

新宿ゴールデン街・花の木の店に集まるメンバー22名が山荘に来た。半分は花の木連以来の仲間だ。昼は山菜取りに精を出した。今年の収穫はコシアブラと同じ種類の葉のハリギリを見つけたことだ。葉は良く似ているが、枝にトゲがあるのがハリギリだ。タラノメ、わさび菜、コゴミ、セリ、ワラビ、ぜんまいなどいっぱい採れた。
高須さんの手による山菜天ぷらは美味。豚シャブもおいしい。山荘のリビングはテラスのテーブルと椅子も入れてギューギュー詰めだ。金子さんのギターによるカントリーミュージックと高須さんの三味線による津軽ジョンガラの交互の演奏が座を盛り上げる。最後は恒例・阿波踊り。椅子をテーブルに押し込んで、狭い通り道を作り、踊りの輪をつくる。翌朝、高須さんは三味線でカントリーの名曲ジャンバラヤをマスターして披露された。なんという器用な方。山荘がはちきれんばかりの五月の夜だった。

   
 

5月17日 甲州街道ウォーキング(鳥沢−大月)〜猿橋はきれいな所〜

今回のコースから団体には参加せず、妻と歩くことにした。歴史の説明がないウォーキングツァーでは、自分だけで歩いても同じことと思ったからだ。これなら晴れた日を選んで行けばよい。今日はよく晴れて気持ちのよいウォーキング日和だ。鳥沢まで電車で行き、しばらく20号線に沿って歩く。富士登山講の登山者を清める桂川沿いの精進場という場所への旧道は消えてしまったが藪こぎをして坂を下ったら庚申塚などいくつもの石碑が立ち並ぶ川沿いの場所に出た。
これなど団体では絶対に歩かない、個人ならではの古道探しの醍醐味だ。
若干、遠回りもしてしまったが、猿橋に着く。安藤広重の絵にもなる名所だ。
橋の下には桂川が細くなり、岩壁の下に青い水面を覗くことができる。橋のたもとの大黒屋は安藤広重も食した店という。ここで昼食にした。
日本で最初の水力発電所という駒橋発電所の脇を抜け、中央線の踏み切りを渡る。この辺の旧甲州街道はほとんどが線路に変わってしまったようだ。岩殿山の岩壁が目の前に聳えてくると大月の宿は近い。今回は大月で終わり。

     
 

5月11日 タラノメ、カモシカ、水仙、桜と忙しい庭 

今年は春先が寒かったせいか、タラノメも少し遅いようだ。わが山荘はタラの木だらけで、タラノメの宝庫と言ってもよい。ちょっと留守にすると道路沿いはみんな取られてしまう。そこで今年は東京に帰るとき、まだ小さなものも摘んで、水に浸けていった。
翌週来てみると、枯れてはいないものの思ったほど成長はしていなかった。わかったことは、車を山荘に置いておくと、誰かがいると思うのか、人は庭に入ってこない。おかげで今年は、被害ゼロで、タラノメ採り放題である。反面、鹿やカモシカが庭を荒らし、花は食べないものの水仙の葉がザックリ、もみの木の下のほうの新芽や幹も食べられてしまった。アナベルも危ない。数年前に植えたソメイヨシノに、今年はかなり花がついた。花の咲かない桜かと思っていたが、時間が経過すれば、それなりに咲くようである。春の庭は、何かと忙しい。

   
 

5月8−10日 目の前の惨劇〜下社・建て御柱〜

下諏訪の下社の里曳きと建て御柱が二ヶ月の御柱祭の〆となる。
8日は春宮一の御柱だけが建て御柱をやるというので、朝から春宮の御柱が建つ場所に陣取った。岡谷市旧市街が担当する春宮一は、予定より少し遅れて立ち始めた。杉の枝をかきわけながら、徐々に立っていき、9割方立ち、ほぼ垂直になりかけたとき、悲劇は起こった。突然、トップにいた二人が15m下の石畳に落下したのだ。もう一人は、命綱を御柱を支えるロープに結わえていたらしく、ロープ沿いに宙吊りになって、急降下した。落下した二人は即死、宙吊りの一人は軽傷ですんだ。生死を分けたのは命綱だった。取り決めでは、命綱着用となっているが、実際には個人任せだったようだ。以前、木落としや川越しでは死者が出たことがあるが、建て御柱ではなかったという。その油断と、命綱を着けないのが勇者という意識が生死を分けてしまった。
確かに先週の下社でも、あまり着けていなかったような気がする。父の晴れ姿を下で見ていた息子らしい子どもが、救急車を泣いて追っていった姿が可愛そうでならなかった。翌日からの建て御柱では全員命綱着用が徹底されたのは言うまでもないが、今度は慎重になりすぎて、秋宮一の御柱など、遅れること5時間、待ち始めから終わるまで8時間、立ちっ放しで、ヘトヘトになってしまった。
時間的には、成田からサンフランシスコまでずっと飛行機の中で立っていたようなものだ。遅れても何の説明もないので、場所を動くこともできず、トイレにも行かず、じっと待つだけだ。いくら神事とは言え、宣伝をしてこれだけ観光客を集めているのだから、少しは説明する配慮をするべきではないか。観光客にはきわめて不親切な祭りであると思った。

       (左:立ち始め・前の3人が落下、右:祭りは騒然)

   
 

5月2−3日 上社・里曳きと建て御柱

4月の山出しで16キロの道を引っ張られ、坂を落ち、川に落ちてたどり着いた御柱屋敷に寝かされていた御柱がひと月ぶりで、メデドコを再び着けて「ヨイテコショ」の掛け声に合わせて前宮、本宮目指して動き始めた。
前宮は二キロ足らずで近い。楽かと思いきや、御柱を立てる場所は本殿の上、500mもの登りがあるのだ。部分的には35度の傾斜がある。鳥居もふたつくぐらねばならない。神殿横は両側から屋根が張り出し、大曲並みのメデドコ操作が必要だ。最後に”木上がり”の難所があったのだ。メデドコに人が乗ったまま上がっていくのは言うまでもない。ここでも地区の技術の差が出た。大曲をスムーズに処理した前宮一の御柱は、メデドコを屋根に引っ掛けもせず、大変な迫力で一気に上りきった。
次の原村担当の前宮二は、なかなか進まず、挙句は屋根に引っかからないようメデドコを短いのに付け替えて、やっとこさ上がった。大曲では引っ掛けて立ち往生した反省らしい。翌日の建て御柱でも、原村は予定では一時間遅いはずの前宮三より開始が遅れ、両方の建て御柱が同時に見れるという観客にとってはありがたい遅れも生じさせてくれた。
後日、テレビの総集編で「ウチは何をやっても他よりドジで遅いが、安全に徹している」と苦笑混じりに話していた原村の曳行責任者のは談話が、下社の事故を見たあとだっただけに心に響いた。それでいいんだよ。
原村、よくガンバッタ!!

     
 

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4 月

4月30日 快適なコンディションで締めたスキー

朝晩はよく冷えるので、滑りはとてもよい春の最後のスキーになった。
硬く締まった雪は、エッジもよく効き、スピードも出て、その爽快さは空の青さも相まってたまらない。3月の白馬乗鞍ヘリコプタースキーで期待していた滑りが、ここ志賀高原で実現できるとは思ってもいなかった。一ノ瀬Bコースは特に快適だった。ロープが張ってあるので、斜面には誰もいず、滑っていないコースばかりだ。その中にシュプールを刻んでいくのはスキーの醍醐味である。5月の立山を思い出させるような春スキーであった。
これで今シーズンのスキーは打ち上げだ。

   
 

4月19日 春の訪れ

スリップした翌朝は20cmも積もっていた雪が二日もしたら、きれいに消えた。
まさに淡雪だった。その雪が消えた近所の庭にカモシカが現れた。
まだ子供のようで小さい。近くまで行っても逃げない。人には慣れていないようだ。周りに親カモシカがいないところを見ると、興味半分で探検しているのかもしれない。そして雪の消えた我が家の小さな池のほとりの水芭蕉も小さな白い花を咲かせ始めた。三日前にはあんなに大雪だったのに、確実に春は近づいている山荘の周りである。

   
 

4月18日 春がすみの姨捨駅

奥志賀にはスキーをあきらめ宴会だけに電車、バスを乗り継いで行った。
帰りも同じルートで帰ってきた。その途中、姨捨の駅を通った。善光寺平からグイグイと列車は上がり、スイッチバックで姨捨駅に入り、ここで交換待ちで数分停車した。ホームから春がすみの善光寺平が望まれ、田毎の月の棚田周辺には桜が咲き乱れ、とても美しい。外人客もホームに降り、Beautifu!!を連発している。”ホームから眺める美しい景色No.1”の駅にふさわしい眺めだ。
車の事故で落ち込んでいた気持ちを少しなごませてくれた。ローカル線の旅もいいもんだ。

   
 

4月17−16日 スリップの翌日は雪景色

この週末、春のうららかな陽を浴びて最後のスキーをと、蓼科から奥志賀に行くことにしていた。桜が咲いているというのに、金曜は雪になり、蓼科の山荘を南くんと一緒に夜7時ごろ車で出たときは本降りになっていた。
白樺湖を過ぎ、姫木平からの大門街道に入ると道路にも積雪が増えた。前を行く大型トラックがハザードランプを点滅し「先に行け」と合図した。それでは追い越そうとアクセルを軽く踏んだ途端、滑った。あとはタイヤが自分の意志に反する方向に流れ、ドッシャンとガードレールにぶつかって停まった。フロントバンパーがはずれ、エンジンをかけてもすぐ止まってしまう。万事休すである。
トラックの運転手にも手伝ってもらいとりあえず路肩に動かして、落ち着いてからJAFに電話した。夕方からの雪であちこちで事故発生、こちらに来るのは3時間後という。こんな山の中で3時間も待ったら凍え死んでしまう。保険会社のカードを見たら、レッカーサービスというのがあり、こちらに聞いた。ほどなく20分以内に行きますというレスキュー会社の電話でホッとした。長門町のレッカー車ですぐ近くから来てくれた。まずわれわれを蓼科の山荘に戻してから、車はレッカー車で整備工場に運んでくれた。後日、30万円台で修理可能とわかり、すぐ頼んだ。信州に来てから、雪道にも慣れ、怖さを感じないようになっていた。この過信が命取りとなった。雪道は慎重に、慎重にし過ぎても損はない。高い授業料となった。

   
 

4月15日 甲州街道ウォーキング(鶴川宿−鳥沢)
           〜歩いて談合坂サービスエリアで昼食〜
昨日は春の暖かい陽気だったのに、この日は冷たい雨が降っている。上野原で待っていた都内からのバスも30分以上遅れ、乗ったら車内が険悪なムードなのだ。新宿を出るときに添乗員の不手際で遅れたらしく、みんなイライラしているのだ。そんな雰囲気が止まずの雨も手伝って印象薄いコースとなった。
思い出すのは、談合坂のサービスエリアに歩いて入り、ドライブ客に混じって雨具姿でかき揚げそばをすすったことぐらい。談合坂あたりの中央道の下には旧甲州街道があった。野田尻宿は高速道路に沿っている。引率するガイドは歴史は得意でないので、旧跡の説明はガイドブックを読んでくれという。
東京を離れたら、甲州街道も素直になり、ガイドブック通りに歩けばほとんど迷うことはない。ガイドは本以上のことは知らない。これではこのウォーキングツァーに参加する意味がないと判断した。来月からはツァー会社の案内にあるコースを妻と歩こうと思う。そうすれば、今日のような一日中氷雨の中を歩く必要もない。ただ心配なのは、毎月、ちゃんと歩くかだ、信念と実行がきちんと伴うかである。

   
 
4月11日 下社・木落しはあっという間 

上社から一週遅れで、下諏訪の下社の山出し、木落しがあった。なんと言っても御柱祭といえば、下社の木落しに代表yされるほど有名。35度の傾斜を人を乗せたまま滑り落ちるという勇壮なものだ。狭い谷間に20万人も集まるので、土曜は朝8時で札止めになったという。有料観覧席は30枚もハガキを出したのにすべてはずれ、自由席に入って見物した。
上社同様、時間通りには始まらず、じらしにじらして、1時間遅れがザラだ。落ちたと思ったら、数秒で終わる。目をこらしていないと、何がどうなのかよくわからない。あっという間のできごとだ。始まりの儀式も上社の木落しのような派手さはない、ラッパ隊も控えめだ。木の下敷きになって死ぬ可能性も高いのであまり華やかにはできないのだろう。
御柱の先頭に乗る数名の人選は一年前に決まるという。選ばれた氏子はそれから1年、酒を絶ち、毎日神社に願かけるのだという。氏子にとって最大の名誉で死ぬことも厭わない。そんな神ががり的な木落としなので、神事でありショーではない。時間とおりにいくわけがない。そして最後まで振り落とされないで乗り切った氏子は感極まってみんな泣いている。祭りというより、最後の特攻隊のような感じだ。だから突撃ラッパの「行けッ!」というのは不見識なのかもしれない。今年は幸い死者は出なかった模様。それでも待機していた2台の救急車で何人かは運ばれていった。例え死人が出ても、祭りが終わるまでは伏せておくそうだ。

      

  
 

4月10日 真田三代・上田城の花見 

御柱の合間を縫って、妻と上田城址の桜を見に行った。
まだ満開とはいかなかったが、城門に入るお堀に咲いているしだれ桜はきれいだった。真田三代の城下町であり、長野県で三番目に大きい町だけにおおぜいの花見客でにぎわっていた。武者姿で写真におさまる子供もいて、いかにも戦上手の真田の城らしい。
「大河ドラマに真田三代を」の署名活動をしていた。NHKに請願するデータだという。署名した。昨年、高遠の桜の下でも「保科正之候を大河ドラマに」という署名活動にサインしたことがある。保科正之は江戸幕府家光に頼りにされた高遠出身の名君で治政改革に名を遺した。しかし戦に手柄を上げたわけではなく、いささか真田家のようなドラマ性に乏しい。NHKのドラマとしたら真田三代の方が面白いかもしれない。決着は如何に?

     
 

4月4日 上社・川越しに感動 

御柱祭というのは壮大な障害物競走のようなものかが、今日の川越しでわかった。八ヶ岳の麓を一昨日スタートした御柱は、大曲の直角カーブに四苦八苦して曲がり切り、御柱街道を延々と引っ張られ、木落し坂の上に着く。そしてメデドコに鈴なりの氏子を乗せて坂を下り、メデドコを外して中央線と高速道路のガードをくぐって宮川の土手に着いた。最後の難関が川越しである。じらしにじらせた上、やっとこさ川に落ちる。雪解け水の流れる中で御柱を引っ張る氏子は、ずぶ濡れになりながら御柱を引っ張り対岸に着く、岸では木遣りとラッパ隊の演奏が止まることなく流れ、川の中から御柱を引っ張り上げる。そのとき、地区の全員が力を合わせなければ柱は対岸に上げられない。それこそ2000人以上が引っ張り綱に群がり、指揮者の「ヨイテコショ!」の掛け声に合わせて渾身の力を込めて一斉に引っ張る。それを何回か繰り返して岸に上がる。そして越えた所が山出し最終地点の御柱屋敷だ。全員万歳!万歳!の中で、三日間の山出しは終わる。地区住民総出のまさに団体障害物競走だ。どの地区の御柱も、大変な人の数が大木に群がって協力して山から町に運ぶ壮大な物語なのだ。
われらが蓼科の地区・三友会(北山・米沢・湖東三地区)の川越しは派手だ。
御柱の両脇からスターマインを打ち上げ、メデドコの上からはナイヤガラの花火を降らせながら宮川に落っこっていく。最後の茅野玉川・豊平地区の御柱が川越しをしたのは夜の7時過ぎ、タイマツ掲げる岸から提灯かざして入って行った。いつの間にやらこの地区のラッパ隊の後ろに陣取った私は、みんなと一緒に「ヨイサ!ヨイサ!」の掛け声をかけながら、川越しを応援した。自分も祭の仲間になったようで誇らしかった。川越し終了と同時に夜空に何発もの花火が上がり、上社・山出しは終わった。なんという壮大で、感動的な祭であることか。しばらくその余韻に浸りながら山荘へ帰ってきた。

   
 

4月3日 上社・木落しは華麗
上社の木落し有料観覧席の切符は抽選にあたり手に入った。その一本目の本宮一の御柱を山荘に来た人たちと見に行った。坂は中央線の鉄橋のそば。
電車は徐行し、木落しを見せながら走っていく。窓にはおおぜいの乗客が貼り付いて見ている。木落し坂にも鈴なりの氏子が集まり、柱が落ちていくスペースもないほどだ。落す前のセレモニーが延々と続き、突撃ラッパで落ちていく。
御柱の両脇のメデドコには鈴なりの人。われわれが見た柱は、バランスよくきれいに坂を下ったが、あとでテレビを見たら、次の組は、左が傾き、メデドコは坂に打ちつけられた。反対側は宙に浮く感じになってしまった。けが人が出てなければよいが。下社の木落しは、一本の丸太に選抜された氏子が乗って急坂を落っこっていくだけだが、上社は坂もそれほど急ではなく、メデドコに人が乗ったままで下る優雅な木落しだ。それでも時には、テレビのようなハプニングもある。
前回の七年前には、落ちた途端、メデドコがぽっきり折れ、乗っていた人が地面に叩きつけられたこともあった。この御柱は次の川越しはメデドコなしで渡らざるを得ず、担当地区の氏子たちは悔し涙にくれたという。優雅なようでも、危険と隣り合わせていて、ドラマがある木落しなのだ。
(写真右:イケメンの若い曳き手の氏子)

   
 

4月2日 上社・大曲は雨の中
いよいよ七年に一回の御柱祭である。
これから1ヶ月間、諏訪地方は全地区あげての興奮の中に暮らす。
その初日は朝からの大雨。御柱の出発地点、八ヶ岳農場付近には雨の中すごい数の氏子が集まっている光景をテレビが映し出していた。ここから本宮まで20キロの道のりを人の力だけで、10トン20mも丸太を引っ張っていくのだ。
矢も盾もたまらず、大雨の中、上下の登山用雨具を着、傘をさして完全装備で、90度近いS字カーブのある最初の難所・大曲で御柱を待つことにした。
待つことしばし、かなり向こうから湯気がもうもうと近づいてきた。何と、御柱の左右にV字型に取り付けたメデドコという枝柱に群がって乗っている人から沸き起こる湯気なのだ。温泉が移動してきたような感じだ。直角のカーブに近づくにつれ、コントロールが難しくなる。20mの御柱そのものを、カーブにぶつからず曲げるのもさることながら、高さ10m以上に張り出したメデドコを家の屋根にぶつけないように、右に左に高さを調節していくことも同時にやらなければならない。
どの地区もS字カーブを畑の中に作り、擬似御柱で練習してきたものの、やはり本場はちがうようで、うまい地区とへたな地区の差がはっきり出るのも大曲なのだ。二番目に来た前宮一御柱は上社おひざ元の諏訪地区、ヨイテコショ!のリズミカルな掛け声が途切れることなく、一回できれいに曲がっていった。お見事! 四番目の原村地区は、氏子の数も他の地区に比べて少なく、ペンション村など新参者も多いせいか、引っかかってしまった。カーブを曲がるのも四苦八苦、とうとうメデドコを屋根にぶつけてしまったらしく動かない。
結局、最後の三本の御柱は夕暮れで危険と翌日まわしになってしまった。予想通り進まないのも御柱祭の特色でもあり、面白さでもある。原村は翌日の川越しが、前の御柱の遅れで日没、三日目に回された。お互いさまである。

   
 

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3 月

3月28日 桜はむずかしい〜中々連の花見〜

今年の桜は早いとの開花予想から、井の頭公園で4月4日に予定していた花見を一週間繰り上げた。開花は21日だったので、満開になるはずだった。
ところが、真夏日のような日に開花したものの、その後急激に寒くなり、花見の日は、肌寒く曇り、じっとしているとじんじんと冷えてくる。酒での自家暖房するが、やはり寒い。
冷たいビニールシートに直に座るとますます冷えるので、ダンボールを敷いたらとても温かい。公園や駅のホームレスの人の気持ちがわかる花見になった。三味線に合せて、阿波踊りを始めると、となりにいた若者のグループも踊りの輪に入った。聞くと、旭川出身の学生が暮らす寮にいる若者だった。北の旭川は今日も雪が降っている。彼らにとっては、こんなのは寒さに入らないのだろう。

   
 

3月20日  ヘリスキー〜初夏の栂池〜

ヘリコプターに乗って山頂へ飛び、そこから麓へ滑ってくる、というワクワクするようなスキーに出かけた。
場所は栂池、白馬乗鞍岳の下の天狗原まで飛び、そこから一時間ばかり登って山頂に着く。とても良く晴れた。ドイツ、オーストリア、日本と国際色豊かな4人が2時間近く待って、ヘリコプターに乗り込んだ。しかしすこぶる暑い。
あとで知ったのだが、この日は25度を越す真夏日だった。標高2400mの山頂に着いても、スキーかついでの登りも加わって暑いくらいだった。ヘリコプターから見るスキー場と白馬連峰は白く輝き美しい。山頂からの白馬の谷間は、チロルの谷間のように深く切れ込んでいる。その谷間に滑り下りていくのだが、この暑さで雪はグサグサ、ターンも思うようにならず、快適なダウンヒルとはいかなかった。残念であった。

   
 

3月18日 甲州街道ウォーキング(相模湖−上野原)
        〜県境で分かれる関心度〜

相模湖の隣の藤野も”吉野宿”という街道沿いの宿場だった。ここに古くから残る藤屋が記念館になっていて、宿場の様子を紹介している。そこでもらった宿場の地図には9軒もの遊郭が載っている。そんなに大きな宿場ではない吉野宿にしては多いのではないかと思うが、ここでふと疑問に思った。これまで行った甲州街道、中仙道のいくつも宿場で地図をもらったが、どこの宿場でも遊郭の文字は見たことがない。これだけ開けっぴろげに遊郭を表示しているのはここが初めてだ。たぶん、昔の宿場の配置図を作るときに意識的に遊郭の文字を消したのではないか?と推定する。本当は、どの宿場にも、それなりの数の遊郭が存在していたのではないだろうか?
旧相模湖町や藤野町の神奈川県内を通る甲州街道沿いには宿場を保存したり、古道を表示する道案内があちこちに見られ、迷うこともない。ところが、山梨県の上野原に入ったら、表示がまったくなくなった。上野原宿の本陣など、門構えだけあるものの、崩れ落ちそうで表示もない。その家のおばさんが出てきて、「最近、おおぜい街道歩きの人が来るので、案内板や補修を考えてくれ」と役所に頼んでいるが関心がないとこぼす。町の対応の差がはっきり見てとれる。

      
 

3月10日 娘の就活に思う〜なぜに保守的か〜
下の娘は大学3年、来年卒業に向けて就職活動が始まった。毎日のように会社の説明会に行ったり、帰ってきてはエントリーシート作成に余念がない。どの分野が自分の進みたいところなのか、よくわからないので、手当たり次第にあたっている感じだ。「いろいろとチャレンジできて、自分がどの仕事に向いているか見極められるような小さい会社でよいのではないか?もうひとつの会社にずっと勤める時代ではないから、数年で転職したってよいのでは?」とアドバイスするが、どうも安定したところ、休みがきちんととれるところ、海外には行かないところがご希望らしく、大手企業の説明会にせっせと足を運んでいる。
私の大学時代のクラブ、岳文会の後輩と話しても同じ傾向だ。「仕事を選ぶのではなく会社を選ぶ」、「英語は苦手だから海外は避けたい」、「安定した会社で一生働きたい」と、年寄りの私から見ても”超保守的”なのだ。
私の頃は”海外に雄飛せよ”と、海外で働くことが夢であった。もうそんな時代ではなくなっていることを学生たちと話していてわかる。まずは安定、大会社という志向は、最近の派遣切り、失業者の群れ、生活保護の増大などの報道が彼らを必要以上に不安にし、保守的傾向を強めているのかもしれない。これでは日本の明日がますます心配になってくる。(娘にはどこでもよいからまず内定をもらえ、それから目指しているところにアタックしたら、などと、口とは裏腹に親も保守的になってはいるが)  
 
 
3月8日 二日前とは大ちがい〜春から真冬へ〜 

二日前に山荘に行ったら驚いた。何も雪がない。名残雪だけが屋根の下に残っているのは、いつもの年の四月末の様相だ(写真左)。三月初めはまだ山荘は雪に埋もれているのが普通であり、着くとまず真っ先にやるのが雪かきだった。この日は、週末に使う人のために水入れ作業に行った。先月末にこの日来る人のためにもう一台分の駐車スペースの雪かきをしておいたのは何だったんだ!まさかこんなに早く雪がなくなるとは思わなかった。
水入れをして、一旦、東京へ帰り、片付けに来て見るとえらい違いなのだ(写真右)。こんどは大雪になっている。三月は冬と春とが綱引きをする月なのだ。こんなに急変する季節を経験するのも悪くない。

   
 

3月1−3日 雪の銀山温泉〜おしんが働いていた宿に泊る〜

山あいの小川を挟んで数階建ての木造旅館が向かい合わせに並んでいる銀山温泉は行ってみたい温泉のひとつだった。その温泉で雪見を楽しみ、最上川を雪見船で下り、雪の羽黒山を山伏先導で案内してもらうという”雪づくし”の朝日旅行のパック旅行に妻と一緒に申し込んだ。
山形新幹線で山形へ、バスで銀山温泉へ直行。昨日までは晴れが続き、雪は少なくなっていたというが、銀山に着いた頃は本降りとなり、うってつけの雪の銀山温泉となった。大正ロマン漂う温泉街は思ったより小さい通りだが、こじんまりまとまっていて何か懐かしい気がする。泊った宿も能登屋といって、楼を屋根の上に載せた写真でおなじみの古い宿だった。奉公時代のおしんの撮影もこの宿が使われたとか、あれから20年近く経っているというのに、宿も街もおしん一色である。人気ドラマの恩恵がこの温泉街をいまだ潤している。
翌日の最上川の船下りも雪景色の中を、船頭の英語バージョンの最上川船歌に笑いながら楽しんだ。♪酒田行くから〜♪が、♪I am going to Sakata〜♪ という具合だ。今回の旅はほとんどが、人生の終幕に近づきつつある夫婦であったが、一組、キンさんギンさんのような、白髪の女性組がいた。話からするときちんとしている。学校の先生のような雰囲気だ。足が不自由なご主人を介護する上品な奥様もいた。バスの乗り降りにも手を貸そうとするが、旦那さんは体裁悪いのか、拒もうとする。しかし奥さんの助けがないと現実、むずかしいのだった。湯田川温泉の宿は隣部屋だった。真夜中”ドタン、ギャーツ”とご主人の悲鳴が聞こえた。トイレへの段差を踏みはずしたらしい。翌朝の食事にはご主人は来られなかった。「どっちかが体の自由が利かなくなったら、介護つきの老人ホームに入ろう」と妻と真剣に話した。老々介護の厳しさを実感した旅でもあった。

   
 

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2 月

2月21日 夕映えをつまみにビール、至福かな

冬の山荘で大変なのは、来たときの「水入れ」だ。凍結防止で抜いていた水道に水を通す。中でも風呂の追い炊き機能が曲者。先週、うっかり浴槽に張ってあったお湯をそのままにして帰ってしまい、風呂は氷りついていた。そのため追い抱き部分に水が残って、それが凍ったらしい。お湯は出るが、追い炊き機能は、ウーンウーンとうなりながら、お湯を温めようとする。しかし出口が凍っているので、努力かなわず、ガガガーという音でエラーになり、運転停止してしまう。この繰り返しが夜中も続き、眠れない。再度の凍結覚悟で給湯のブレーカーを落としたほどだ。幸い、翌日の夕方になり、解凍したらしく騒ぎは収まった。
ちゃんと動くようになった風呂に入り、風呂上りのパジャマ姿で、薪ストーブに薪を追加し、窓の外を見ると、夕日が裏山を染め、赤く映えていた。
ストーブの前に湯豆腐やら、餃子やらを並べ、ビールをグイッと飲むと、そのうまいこと!夕映えをつまみのビールは最高だ。山荘にひとりいて、幸せを感じるひとときだ。冬は特に幸せ感が大きい。外は零下で、中は20℃、その差が大きければ大きいほど、幸せ度数は上がるようだ。
   

 

2月19−21日 蓼科周辺のスキーの楽しみ方

この週は、よく晴れた。昨冬は一度も行かなかった蓼科周辺のスキー場に出かけてみた。スキー好きの私が蓼科であまりやらないのは、どのゲレンデも小さいからだ。志賀高原のような、一日滑っても、同じゲレンデを二度滑ることはないスケールに欠ける。小さいながらもエコーバレーのように、快適なゲレンデもあるのだが、何せすぐ終わってしまい、1時間も滑ればあきてしまうのだ。
青空に引かれて、金曜はエコーバレーに行った。蓼科山が真正面に見え、カラマツ林を切り開いたゲレンデは広くて気持ちよい。できるだけ、薄い新雪が残っているような所を選んで滑る。スロープ中央に入るとガリガリのアイスバーンになっているからだ。人工雪のゲレンデはその傾向が高い。何とか2時間滑って、ラーメンを食べて帰ってきた。日曜は、しらかば2in1スキー場と白樺高原へ行った。ここは立科町営なので、リフト券が共通だ。
最初の1時間は、しらかば2in1,リフトで八子ヶ峰の稜線に出ると、先週のスノーシューとうって変わって、すべての信州の山と言ってよいほど、きれいに見える。遠くは妙高、志賀高原の横手山、北も中央も南アルプスも美しい。このスキー場は、ゲレンデより山の景色を楽しむによい。女神湖そばの白樺高原スキー場に移動して驚いた。駐車場が満杯なのだ。
今日はスキー子どもの日だそうで、子供は無料らしく、親子連れが多い。ここからのエコーバレーや車山、その向こうの北アルプスが陽に輝いている。1時間で切り上げ、山荘へ帰ってきて昼飯を食べた。このあたりのスキー場はいずれも1,2時間滑れば十分の広さなのだ。散歩代わりのスキーによい。

   
 

2月17日 甲州街道ウォーキング(高尾−相模湖) 雪の峠越え

ようやく街道歩きらしい雰囲気になってきた。昨日降った雪が、高尾駅の先の駒木野宿あたりから目立ち始め、小仏峠の山道に入ると真っ白になった。
峠は雪の中、新雪をかきわけながら、相模の国、小原宿に下っていった。
小原宿には本陣の建物も残っていて、集落自体、古い建物を保存する姿勢が見られ、宿場町の雰囲気が残っている。相模湖の駅まで歩いて、終わった。
今まででいちばん疲れず、楽しいウォーキングだった。やはりアスファルトより、山道が歩くにはよいらしい。

   
 

2月11−14日 スノーシュー「雪から晴れへ」八子ヶ峰、乗鞍高原 
大学時代のサークル岳文会の仲間が山荘に集まって楽しむスノーシューも何回かやってるうちに、新しい場所がだんだん少なくなってきた。雪のないときはよく行く八子ヶ峰は、冬、登ったことがない。そこで車を使わず、山荘から歩き出し、ショートカットの急坂をスノーシューで登った。みんなきつかったようだが、何とかヒュッテが見える尾根に出ると、見通しの利かない雪の日なのに、結構、歩いている人がいるのに驚いた。
スキー場のリフトの横を抜け、東急別荘地への尾根をまっすぐ下りた。今日は歩いて山荘に帰るので、いつものショートカットの急坂を避け、ゆるやかな尾根に入った。ところが所々、狭く急な坂があり、ここでスノーシューを履いていても転倒者続出。3時間くらいと考えていたが、山荘に戻ってきたのは4時間後だった。翌日は乗鞍へ。蓼科は曇っていたのに、鈴蘭に着いたら、青空が広がった。
高原を歩いているうちに、雲が切れ、乗鞍岳の真っ白な山容が白樺林の上に現れた。山が見えるところでランチタイム。夕べ作ったサンドウイッチを、温かいオニオンスープで頂く。スノーシューでいちばん楽しいときだ。八子ヶ峰とはちがうフラットな高原を3時間ほど歩いて、湯けむり館に到着。硫黄泉で汗を流して、蓼科に帰ってきた。今晩は鴨鍋、昨日は魔法の鍋、一昨日は豚と白髪ねぎの鍋。今回の夕飯は鍋つくしの”あったかスノーシュー合宿”であった。

   
 
 
2月10日 雪かきに大汗

12月初め以来の山荘だ。こんなにブランクが開いたのは初めてだ。六日町や奥志賀の雪の量を見ていたので、蓼科も大雪と思っていた。あにはからんや、山荘への道は土が出ているではないか。いつもの冬より、少ないくらいだ。
信州のこの冬は、野沢、志賀などの北信は豪雪で、蓼科あたりの南信は小雪なのだ。暖冬といっても、大雪のところもあるし、少ないところもあるのだ。
少ないとは言え、駐車スペースの除雪はしなければならない。山荘下のしらかば4号線道路わきが冬の駐車場所。道路とわが家の敷地の境には、ブルトーザで掻いた雪が壁をつくり、かつ凍っていて硬い。これをシャベルで砕きながらの雪かきは結構しんどい。シャベルに載せて、道路反対側に捨てに行く。掻いては運び、小さい塊ははじき飛ばす。30分も続けると、汗が吹き出し、シャツもグショグショ、流れる汗をタオルで拭きながらの重労働となった。

   
 

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1 月

1月27−31日 極楽本番
ファシリティ・マネジメントの仲間が集まって1998年長野オリンピックの年に始めた”極楽スキー”も、12年目を迎えた。いつも1月末の週末を中心に奥志賀のペンション・オードヴィーに集まる。メンバーも30人を越し、貸切にしてワイワイと昼はスキー、夜は歌と酒に明け暮れる。
今年は、ピアノ演奏の太田さんが欠席したため、歌がなく、会話中心のパーティになった。その代わり、大晦日の紅白歌合戦にバックコーラスで初出場を果たした森さんの晴れ姿のビデオの放映で盛り上がった。
金曜も土曜も、良い状態で晴れて、横手山ツァーも楽しかった。それにしても、平日のゲレンデの閑散さは気になる。外国からのスキー客が増えているといえど、日本人客の減少が上回り、ゲレンデは寂しい。
いつも金曜の昼食に利用していた丸池の志賀飯店は休業していた。急遽、変更した丸池ホテルのレストランも閑古鳥が鳴いていた。この冬から、笠岳と前山のスキー場は閉鎖になった。2月に入って起こった前山の雪崩は、圧雪しなくなったスロープの雪が雪崩れたものだった。
「お客が来ない」⇒「スキー場閉鎖」⇒「雪崩れる」⇒「志賀は危険の風評たつ」⇒「お客がますます減る」の悪循環モードに入っているようで、とても気がかりだ。

   
 
1月24日 中々連新年会
阿波踊りも高円寺が終わると、次の夏まではしばらくお休みとなる。それでも、新年会と花見で顔を合わせる機会を作る。「あけましておめでとう」と昼の新宿に集まってきた連員は25名、50%くらいの出席率だ。連の名前の謂れでもある焼酎中々の一升瓶を開けて乾杯!久しぶりの顔合わせに笑顔、笑顔。
2時間予定を30分延長しても話が尽きない。最後は恒例、宴会場をぐるぐる回って踊って、お開き。
次はお花見で踊ろうと、まだ明るい空の新宿の雑踏に千鳥足で帰っていった。

 
 

1月19日 甲州街道ウォーキング(日野-高尾)
地元日野駅から歩き始めた。よく晴れて、寒さがゆるんだ暖かい日。宝泉寺の新撰組副長・井上源三郎の墓を見て、旧街道を進むと日野宿、西の地蔵群がある。ここが宿場の西からの入り口だった。今は中央線の線路に遮られ、進めない。旧街道をつなぐには、元来た道を大回りして駅の反対側に回らなければならない。八王子は甲州街道最大の宿場町だった。今は駅前が栄えているが、30年前までは甲州街道沿いの横山町や八日町が繁華街であった。市役所も銀行もこのあたりに集中していた。このあたりが、江戸時代までは横山宿、八日市宿として旅籠がひしめいていたという。追分は陣場街道との分かれ道。
この一帯には幕府の守りの八王子千人同心の家があったところ。千人同心は日光東照宮の守護も勤めていたという。維新前の板垣退助率いる尊王攘夷方に攻められた幕府方・千人同心の隊長・石坂義礼は日光を火の海から守るため無血降伏した。戦い終えて、八王子に帰ってきた石坂を待っていたのは、戦わず負けた責任をとれとの非難の嵐。彼は切腹をした。介錯をしたのは父親。
それから100年後、世界遺産になった日光を守ったのは石坂義礼と評価され、彼は脚光を浴びることになった。遅かりしではあるが石坂義礼の名誉は復活した。八王子にも偉人はいたのだ。

   
 
月 16日 大雪の六日町

クリスマスの頃から急激に降り始めた雪は、正月もやまず、20日間ぐらい降り続いた。その結果、毎年行く六日町の冬は、これまでに見たこともないような雪の壁になっていた。しかしそれでも、三年前の豪雪のときより少ないという。
ちょうど行った土曜は久しぶりに晴れ、多くの家では雪下ろしに忙しかった。これで屋根から滑落し、怪我する人が続出すると聞いていたが、私の小さい頃は屋根から下ろした雪が玄関前に積み重なり、家へ入るには雪の上から下る形となり、ここで術って玄関の扉に飛び込んで怪我する人が多かった。屋根から落ちることはまれだった。六日町のあちこちで雪下ろしをしているのを見て、昔と大きな違いがわかった。どの家も、1階は車庫を作っていて、その上に二階建ての家が乗っかっている。実質的には三階建てで、さらに天井も高くなっているので、家の屋根が非常に高いのだ。昔は車庫もなかったし、天高も低く、二階建てと言っても、そんなに背が高い家はなかった。これなら落ちてもたいしたことはなく、雪を下ろしているうちに一階は埋まり、落ちるどころか、二階の窓から出入りすることもしばしばだった。車時代が家の構造を変え、それが雪下ろし事故の原因になっていると気がついた。

   
  
 

1月8−12日 札幌ステイ・スキーの楽しみ方

札幌に4泊して、毎日日帰りでニセコ、フラノ、ルスツなどのスキー場に出かけた。スキー場に着くのはどこも昼近くなるので、実質滑るのは3,4時間しかない。帰ってくるのはいつも夜8時過ぎ。夕飯は9時頃からスタートする。このスキーの楽しみ方はヨーロッパのスキー場と似ているのだ。ふつうは二週間くらい滞在するヨーロッパの人たちは、ガツガツしてはいない。スキー場へは昼飯を食べに行くと思ってるらしく、ゲレンデのレストランで2時間もかけてたっぷり休む。
スキーをするのはほんのちょっと、夕方早く、ホテルに戻り、サウナに入って、夕食は遅い。そのあとは、深夜までディスコで踊る。スキーはバカンスを楽しむ手段であり、技術オリエンテッドの日本とは全然ちがう。だからスポーツとしてスキーが人気がなくなった日本はスキー場がガラガラ、バカンスの習慣がなくならない限り、欧米はスキーがすたれない。逆に、東欧の人たちのバカンスがアルプス周辺に移ってきたので、どのスキー場も大混雑なのだ。札幌をベースにして楽しむスキーが、ヨーロッパの楽しみ方と共通性がある。だから札幌は楽しい。

   
 

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