WRC ワークプレイス・リサーチ・センタ
    小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
ゲストハウス
ゲストハウス トップ
山荘はこんなところ
山荘での過ごし方
山荘の設備・備品
交通案内(アクセス)
周辺地図(検索)

蓼科日記

ご利用案内

小田山荘ゲストハウスはワークプレイス・リサーチ・センター(または小田毘古個人)関係以外の方のご利用 はできません
ご利用料金について
ご利用状況
利用申し込み
変更・キャンセル

蓼科の情報

蓼科・東急リゾートタウン
周辺観案光内 (リンク)




ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。
毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2012年>


 
[1月] [2月] [3月] [4月] [5月] [6月] [7月] [8月] [9月] [10月] [11月] [12月]

 <2004年> (2004年分は、こちらからリンクします。)

 
<2005年>
 (2005年分は、こちらからリンクします。)

 <2006年> (2006年分は、こちらからリンクします。)

 2007年> (2007年分は、こちらからリンクします。)

 <2008年> (2008年分は、こちらからリンクします。)

 <2009年> (2009年分は、こちらからリンクします。)

 <2010年> (2010年分は、こちらからリンクします。)

 <2011年> (2011年分は、こちらからリンクします。)

 <2013年> (2013年分は、こちらからリンクします。)

 <2014年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

 <2015年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

 <2016年> (2016年分は、こちらからリンクします。

 <2017年> (2017年分は、こちらからリンクします。

 <2018年> (2018年分は、こちらからリンクします。
 

2012年

12月

12月27日 暮れの山荘

明日から山荘を使う人がいるので水入れに来た。かなり雪は積もっているのでは?と思っていたが、8日に来たときより少ない。その後はあまり降らなかったようだ。おかげで駐車場の雪かきも楽に済んだ。水入れも大きなトラブルなく通じた。わが山荘は準備完了。隣に新築した別荘を見ると、あれあれ、屋根つき駐車場の入口に屋根の雪が落ちて、これでは車が入れない。屋根の方向を間違っている。残念!それに通りから駐車場までは数メートル、上がらなければならないが、ここの雪かきはどうするのだろう。わが家の場合は道路に接しているので、駐車スペースだけ除雪すればよいのだが、それでも道路を除雪したときのちょっとした雪の壁を取り除くのに苦労する。これからもっと積もったとき、別荘に来ると、まずガレージまでの道付けと屋根から落ちた雪を取り除くのにひと仕事が待っている。冬場の駐車場所には結構、苦労するので、建設前に考えておかなければならないポイントなのだ。

       
 

12月8日 東急リゾート・ディナー

ノロウイルスも一段落した次の週末は蓼科に行った。年末恒例の家族旅行、今年は簡素に山荘泊りで東急リゾートのホテルでディナーとなった。ノロにかからなかった上の娘はいちばん食欲があり、和洋折衷のコースを頼み、他は安い軽目のコース料理となった。それでも満腹であった。山荘との往復はホテルの車が送迎してくれた。
酒酔い運転が厳しくなったので、送迎サービスをしないと別荘の人は来にくくなったのだろう。今年は雪が早く、山荘は白く包まれている。翌日昼は默坊でとうじ蕎麦を食べ、帰路についた。笹子トンネル事故で往復とも河口湖・御坂峠経由にしたが、中央道の通行量も少なく、渋滞もなく、いつもの週末より時間がかからなかった。

       
 

12月3日 ノロウイルス

ラグビーの試合が終り、外苑前の呑み屋で残念会となった。寒かったのか、負けたせいか、ビールがさっぱり喉に入らない。食欲もない。そういう状態から急に気持ち悪くなり、トイレに行く間もなく吐いてしまった。ビニールの買い物袋に吐いたが、周りにも飛び散り、コートも濡れた。後輩が介抱してくれて何とか収まり、家に帰ってきて、そのまま寝た。夜中に熱が出たようだが、朝になり、また吐き気を催し、トイレに駆け込んだ。
下の娘も似たような症状だという。二人で医者に行った。症状を話すと、「ノロですね」と事も無げに言う。「吐き気、下痢、高熱」の三点セットだという。「下痢はなく便秘なんです」と言うと、「欠ける場合もある。明日には治りますよ」。確かに帰ってきて、もらった薬を飲んだら、気持ち悪さも収まり、夕方には回復した。娘も同様だ。翌日、こんどは妻がおかしい。「気持ち悪い」とぐったりしている。いらなくなった私の薬を回して、医者には行かなかった。残るは上の娘だが、彼女は至って元気。結局、小田家は上の娘を除いて、三人がノロウイルスの犠牲になった。
 

12月2日 ラグビー早明戦

伝統のラグビー早明戦を初めて見に行った。国立競技場。明治の優勝がかかっているだけに観客の7割は明治ファンのようだ。それにしても冷える。岳文の後輩が持ってきた温かい梅酒が救いだ。試合は明治ペースで進み、早稲田はリードを許したまま迎えた後半、急に怒涛の攻めで、早稲田が連続トライで引っくり返した。そのまま行くかと思ったが時間切れ寸前で明治にトライを許して、ゲームセット。もう少し、もみ合っていれば終了の笛が鳴ったのにと思うと惜しい試合だった。初めて見たラグビーの試合、ルールはよくわからないが、面白かった。

       
 

【上へ戻る】

11月

11月26日 雪の朝

勤労感謝の日の連休に山荘を使っていた人が帰ったので、水抜きに来た。
この季節は水抜き、水入れがあるので厄介だ。スノータイヤでないと言っていたので、連休中に雪が降るとヤバイなと心配したが、降らなかったようでよかった。
帰った翌日に降るなんて幸運だった。明け方から降ったらしく、目を覚ましたら真っ白だった。しかし気温が上がってきたのか、朝からは雨に変り、どんどん消えていった。
午後新聞を買いにタウンセンターへ行ったときは、道路の雪はすっかり消えていた。

       
 

11月14−15日 スカイツリー同級会

1年おきの塩野町小学校の同級会、今年は東京だ。スカイツリーがお目当て、浅草に泊り、下町情緒を味わおうとの趣向。浅草演芸ホールの落語から始まった。夜は隅田川の屋形船、呑んで唱えば12歳に戻る。翌朝早く、タクシーでスカイツリーへ。
3月に予約した、朝一番で展望台への切符。天望回廊からは、東京の街の向こうに雪の富士山が見える。その右奥には南アルプスの白い峰、赤石岳か荒川岳か。スカイツリーをたっぷり楽しみ、京成線で柴又へ。草団子を食べて、寅さんの足跡を訪ね、男はつらいよのメロディに包まれて、浅草に戻り、しばしホテルで休息。夕刻、東京駅へ向い、駅舎と丸の内のイルミネーションを見て、地下鉄で池袋へ。田舎家で”東京で味わうふるさとの味”で締めた。付録は翌朝、上野動物園でパンダ見物。バリバリ笹を食べるパンダを見て満足、満足。次は再来年、瀬波温泉で会うことを決めて散会。
みんな元気で生きようぜ!

                   
 

11月10日 弦楽四重奏

晩秋恒例の片貝さんグループの演奏会。初めは片貝さんのチェロだけで始まった。
年を経るにつれ、フルートが入ったりしたが、8回目にして初めて、バイオリン、ビオラを加えた弦楽四重奏になった。荻島さん、渡辺さんのバイオリンに加え、吉沢さんのビオラが入り、吉沢さんの指導よろしく、音の外れもあまりなく、聴きごたえのある演奏会になった。聴衆も7名と多い方だった。そしてBPIAの新年会で「小田山荘カルテット」として演奏することも決まった。いよいよ花の東京でデビューである。蓼科で生まれ、蓼科で育ったアマチュア四重奏、満をじしての東京である。

           
 

11月4日 一葉も質屋通い

ワセダ岳文会の文学散歩、今回は上野から湯島・本郷へ。樋口一葉が主題である。
一葉の本など読んだことがない私が興味を持ったのは、24才の若くして死した才媛の生活だった。比較的裕福な官吏の家に育った一葉は幼い頃から塾に行き、文字を覚え文才を育んでいった。父の没落に伴い、貧乏になり、転居も多く、父の死とともに一家の暮らしは一葉の稼ぎにかかってきた。売れ始めた原稿料が途切れると伊勢屋という質屋に通い、次の原稿料が入ると請け出すことの繰り返しだったという。一葉の葬式のときには伊勢屋から香典が届いたというからお得意さんだったのだろう。そんな一葉の家が上野から本郷にかけて点在している。伊勢屋の蔵も残っている。上野広小路から湯島に上がる坂には、石川啄木が朝日新聞社での校生の仕事帰りの深夜に通ったという碑もあり、興味深かった。

           
 

11月2日 ラーメンショー

テレビで信州幻の王様中華ソバがラーメンショーに出るというニュースを見た。今は閉店してしまった長野の名店の味を復活させて出店するという。行かねばなるまい。駒沢公園まで出かけた。園内には全国からオラがラーメンの屋台がズラリと並んでいる。
どの店も一杯800円。食券を何枚か先に買って、屋台に並ぶ仕組みだ。せっかく遠出して来たのだから何杯か食べたいところだが、二杯が限度と考え、二枚買った。
一杯目はお目当ての信州王様である。テレビで紹介されているから長蛇の列と思いきや、あまり並んでおらずすぐGetできた。見た目はシンプルな醤油ラーメン、ネギが縦にスライスして入れてあるのが特徴的。味はサラリとして、スープが美味しい。イケルじゃん。こんな美味しいラーメン屋が無くなったのは惜しい。この味を信州麺友会(今回の出店グループ)の店はぜひ地元で復活させもらいたいものだ。もう一杯は故郷新潟の燕の味噌ラーメンにした。こちらはごく普通の味、まあまあである。屋台村を見渡すと秋田比内鶏ラーメンが人気高く、長蛇の列だった。食べたいが満腹であきらめた。

           
 

【上へ戻る】

10月

10月 30日 新雪煙る…穂高映ゆ

蓼科高原小津安二郎映画祭が終り、妻と二人で徳沢に行くことにした。晩秋の上高地から梓川沿いを歩き、徳澤園で一泊して帰ってこようというものである。女房お気に入りのコースだ。沢渡からのバスが釜トンネルを抜け、カーブを曲がると穂高のピークがチラリと雲の切れ間に見えた。真っ白だ。週末の雨が上では雪だったようだ。晴れてきた上高地はカラマツの黄色は今がピークのようだ。美しい。梓川から見える明神岳も午後の陽に映えて輝く。前穂高の頂きも白い。暮れなずむ徳沢の草原はアルプスの宝だ。
徳澤園の並びに日大医学部の診療所がある。医学部の山岳部が昭和29年から運営している山岳診療所だ。まさにサマーレスキュー発祥の地である。徳沢は早稲田にとっても縁のある地、体育授業の山岳実技はここで行われる。私も参加したものだ。徳澤園の主人も早稲田の山岳部出身だ。そんな縁なのか、私も岳文時代からよくここでテントを張ったものだ。2才になった娘を背負子に背負って、蝶ヶ岳へ登ったのも徳沢からだった。その時、泊ったのも徳澤園。この宿のお風呂からは前穂の岩壁が見える。食事も和洋折衷でおいしい。ビールもワインも美味しい。徳沢は私にとっても癒やしの地なのだ。

           
 

10月 25日 冬支度の始まり

よく晴れた日、冬布団に替えることにした。布団カバーを全部外し、洗濯し、1,2階のベランダに干した。中のロフトの手すりにも干しているので、全館、物干し状態だ。
蓼科は乾燥しているので、布団自体を干したことはない。屋根裏の物置に入れておけば、いつもふっくら、湿気知らずだ。ベランダから見ると、クリスマスツリーから植え替えたモミの木がおかしい。夏までのあふれるほどの緑が消えて、枯れ木状態になっている。ネットで鹿からも守ったのに、今は寂しい限りだ。鹿に樹皮を食べられたのが原因か、それとも隣の家の工事で地下の水の流れが変り、根が腐ってしまったのか、ここまで育ったのに、残念だ。ひと冬過ぎて、若芽が出ないようなら、薪にせざるを得ないか?

                 
 

10月 23日 今年のキノコはいつもと違う

恒例のキノコ狩り。キノコ博士の吉田さんの指導のもと、八子ヶ峰の尾根筋に入った。
一昨年はサクラシメジが採れた所。クリタケがチラホラある程度で、他になし。今年は9月に雨が少なかったので遅れているという。もうひとつの赤松台の方の尾根にも行ったが、ここもあまりない。チャナメツムタケ系が少し採れた。雨が強くなり、早めに切り上げた。中島さんと吉田さんは、山荘の周辺を雨の中を出かけて行った。ここの収穫がいちばんと笑顔で帰ってきた。山荘の庭でハナイグチ、隣でクリタケ、4号線沿いでカヤタケが採れた。カヤタケは初めてだ。遠くへ行かなくても、足元にいっぱいあった。
昨日、拾ってきた小さな栗の実を剥き、栗ご飯も作り、きのこ鍋で酒は進んだ。
 (左・クリタケ、右・カヤタケ) 

           
 

10月 21日 ホームカミングデー

早稲田を出て45年、ホームカミング対象年度らしく案内が来た。初めて参加することにした。そこへ岳文同期の島崎さんから次の50年目になると出てこれない人も増えるだろうから、同期会を開いたら?とのアドバイスもあり、岳文7期同期会も開くことにした。
卒業式以来の記念会堂、45年次席に座った。応援部のリードで紺碧の空から始まった。肩くみあって歌う。「よく二番の歌詞を知ってますね」と隣の同期生から言われた。”野球、見に行ってるからね”。「泥の河」の小栗康平監督がスピーチした。「校歌は”都の西北、ワセダの杜に”までしか知らない」と言っていたが、最後の校歌合唱を見ていると本当らしかった。震災現場シンポジウムやクミコさんの歌を聞いて、同期会に向かった。山本新一郎君が岳文大先輩の上村さんの介護で車椅子で参加したことが驚きだった。みんなの名前は思い出せないが、顔は覚えているらしく、指さして、「一緒に山へ行った」と言っている。しかしそれも曖昧で、「行ったことない」と返事する同期もいる始末だ。「行ったこと」にしておけばよいのに。

           
 

10月 7日 岩だらけの三ツ岳

岳文後輩の山内夫妻、佐藤夫妻、深田君などが山荘に集まった。双子池など池めぐりをしようと、ロープウェイで坪庭へ。北横岳への登山道は登山者でいっぱい。
頂上で山内さんを待つもなかなか来ない。やっと着いた山内さんの顔は青い。40才代半ば頃から、歩き始めの1時間くらいはダメだそうな。貧血が原因らしい。聞くと血圧は高くて90位らしい。分けてやりたいくらいの低さだ。天気もよくないし、池めぐりは止めて、歩いたことのない三ツ岳から雨池峠へのコースに変更した。これが聞きしにまさる岩だらけの道、越えるのもやっとの間隔が大きい岩や、わかりにくい岩道が続く。子供連れの家族もいて、子供にとってはかなりシンドイのではないか?岩が終り,普通の山道に抜けたときは心底、ホッとした。

           
 

10月 2−3日 紅葉の大日岳

テレビ東京で大日小屋のギター演奏を見て、まだこのコースを歩いていないことに気がついた。そこで称名の滝から上がることにした。立山駅から称名滝行きのバスに乗り、滝見物をしてから登りにかかった。滝の標高差をまず登り切るのだから、かなりきつい。
途中から工事の音が大きく聞こえてきた。「なんでこんな所で?」と思ったら、下から一本の線路が伸びてきている。登山道はそのトロッコ線路の下をくぐっている。ガードマンまで立っている。土砂崩えれ防止工事だという。人は一本線のトロッコで運ばれてくるのだという。標高差数百米の森と崖に這って、線路は続いているのだ。驚いたね。
崖道を登り詰めると、木道に出た。大日平に来たらしい。霧の中に紅葉が浮かぶ。紅葉に囲まれた木道を歩いた。大日平の小屋でカップラーメンをもらい、大日小屋まで一登りにとりかかった。木道がまだ続く。こんなに長い木道は尾瀬以来だ。
途中で小屋への配水管が表れた。もう近いと思ったが、小屋までには結構の距離があった。ガスに包まれた小屋に着き、ビールでひと息ついた。夕飯のあと、ギター演奏が始まった。ランプの下、静かにギターの調べが流れる。この小屋の経営はギター製作会社。従業員が派遣されてきている。今夜の演奏者はギター製作職人で入ったら、すぐここに来たという。これはこれで楽しいと言う。

           
 

今日は晴れそう。霧はとれている。昨日行けなかった大日岳を30分で往復し、奥大日から雷鳥沢への道に入った。紅葉の真っ盛りで、前も後ろも美しい。今年は紅葉の当たり年だそうな。気持ちのよい尾根道が続く。ひと月前の越百山と比べると道がしっかりしているので、迷う心配もない。剣岳を左に見、正面に立山、剣は頂きが雲に隠れている。室堂乗越は昔は馬場島から室堂への道があったらしいが、それらしい跡は見当たらない。そこから少し行くと、雷鳥沢への下り道になった。春スキーで何回か来た雷鳥沢、滑った斜面を目で追いながら、昔の楽しかったスキーの若かりし日々を思い起こしていた。

           
 

【上へ戻る】

9 月

月 24日 燻製作り

川島さんに来てもらい、燻製作りに挑戦した。彼は既に家でロースハムにする肉の固まりを下ごしらえしてきて、山荘では、その塩抜きから燻製窯でいぶすまでの作業をすることとなった。山の水で肉を洗い、塩を抜き、それを一晩冷蔵庫に寝かせ、今朝、さらし布で巻き、タコ糸でぎゅっと縛り、窯に釣るすための準備をした。タコ糸で肉を3ヶ所から4ヶ所、縛り、さらに両端のサラシを絞って、そこにタコ糸でまるい輪を作る。
これは窯につりさげるための輪だ。4本のハムのかたまりが準備できた。燻製窯を電熱器の上に載せ、
4本のハム候補の肉の塊を二本の箸に吊るし、窯に入れ、まず3時間ほど空焚きする。
そのあと、チップ材を電熱器に盛り、じわりと燃す。チップが燃える煙が窯から立ち上る。20分おきに、チップ材を追加し、これまた3時間チップの熱で燻す。これが燻製作りのクライマックスだ。
6時間、窯でいぶした後の肉のさらし巻は、茶色にいぶされ、いかにもという感じになる。それを75度のお湯に漬け1時間半、お湯を切り、紙タオルで巻いて、冷蔵庫に寝かせて作業は終わった。
さらに1週間ほど、そのままにすると食べ頃のロースハムが出来上がる。今日、食べれると思っていたが甘かった。最初の肉の下ごしらえからハムが出来上がるまでには、2週間かかるのだ。今、冷蔵庫に安置されているハムは10月3連休に来る岳文会の仲間と味わうことにしよう。川島さん、ありがとうございました。

     
 

月 17日 日野の八坂神社の祭り
地元、日野の八坂神社のお祭りはいつも9月のこの週だ。最終日の夜には神輿パレードがあるというので、いなげ屋の前で、待っていた。
ご婦人の民謡しが始まった頃は降っていなかった雨が、本命の神輿パレードになったら、本格的な降りになった。その雨の中を日野市内各地から集まった神輿が「わっせ、わっせ」と練り出した。
結構、女性の担ぎ手が多い。祭り好きは男性より女性の方が多そうだ。本降りになるに従い、威勢がよくなってきた。この祭りは、いつも雨が降るので有名だが、今年も猛暑日が続いているのに、やはり雨になった。

     
 

9月16日 東大が勝つと思ったが…

暇なので、早稲田が出ない六大学野球を見に行った。法政対東大、明治対立教。初めて内野のニ階席に入った。上から下を見下ろす感じ。ネット裏に近い席に陣取ると、ピッチャーの投げる球筋がよくわかる。
特に横のストライクゾーンは判りやすい。法政対東大が面白かった。6回に東大が3点上げ、4−2と逆転した。あと三回、守りきれば3年ぶりの勝利だ。応援席も熱がこもる。しかし7回に出てくるピッチャーがことごとく打たれ、6点もとられて万事休す。東大は打線も守備もまずまずだが、如何せん、ピッチャーが弱い。
麻布高校やら灘高校では、どうにもならない。法政はプロのような体格の選手ばかりなのに、東大は中学生だ。それでも、序盤は互角に渡り合うのだから立派なものだ。この秋のリーグ戦での一勝を期待したい。

     
 

月 1−3日 中央アルプス南部の山旅

越百山(こすもやま)は中央アルプス南部にある。飯田に近い。ここに登るには、伊那谷からではなく木曽谷の須原から入る。須原は中仙道の宿場でもある。早朝、蓼科の山荘を出るはずが目を覚ましたのが6時半。慌てて飛び出したが、車止めの伊奈川ダムに着いたのは9時過ぎだった。9時半に歩き出した。
越百小屋から越百山、南駒ヶ岳、空木岳、木曽殿乗越小屋を経て、伊奈川ダムに戻ってくる予定だ。
しばらく林道を歩き、福栃橋から山道に入る。両側から草が覆いかぶさる道だ。草刈をしていないな。
途中の案内板も字がかすれて読めない所も多く、それなりに人気のコースなのに整備不良と診た。
七合目の水場を過ぎたあたりから雨が降りだし、上合羽だけを着た。少し急いで歩いた途端、右足がつった。ヤバイと思ったら、今度は左足に来た。痛いながらも足は何とか前へ進む。足を引きづりながら登っていくとまっ黄色な屋根が林の中に見えた。小屋だった。えらい派手な色の屋根だ。たぶんヘリコプターが見やすいためなのだろう。小屋はいっぱいだった。荷物を少なくしてきたので、濡れた着替えがない。仕方ないので、合羽のズボンを履いた。サラサラしていて気持ちはよい。
食事が良いと聞いていたので、楽しみにしていたが、お客が多いせいかカレーライスだった。がっかりしたが、味は良かった。食べおわって夕方の5時半、やることがないので布団に入った。とても長い夜になった。

     
 

越百山から南駒ヶ岳は険しいと聞いていたので、朝食後5時半前には小屋を出発した。
昨日の雨の残り露で、生乾きの上着もタイツパンツも再びびっしょりになった。陽が出れば乾くだろうと期待したが、向かう方向はとっぷりと雲の中だ。越百山の頂上近くなったら、森林限界らしく、岩山になった。時折、風が霧を吹き飛ばし、麓の伊那谷が見える。向かう仙涯嶺の頂きも風の中に見える。
「結構高いな。歩きであるな」と気を引き締める。しばらく登ると、ハイマツがハート型に生えている所があり、楽しい。その先を右手に上がったら、左手の岩に矢印がある。あっちだと思い、その岩を回り込んだら、下手に道がある。しばらく下って行くとだんだん踏み跡が怪しくなった。「これはおかしい」と登り直して元の矢印に来て見ると、その印は下から登ってきた人を右上に誘導する→だった。私はもう一方を登ってきたため、→が左に見え、そこを曲がれと読み違えたのだった。ただ踏み跡も多かった。間違える人も多いということだ。案内標識が不備なのだ。昨日といい、今日といい、もう少し整備してほしいコースだ。
仙涯嶺から南駒ヶ岳への岩の多い道を登っていると、陽が射してきた。頂上に着いたときは、濡れていた衣類もだいぶ乾いた。昨日の残りのオニギリとカレーパンを食べ、アクエリアスで喉を潤して空木岳への道へ入った。ところがここでも不安になった。尾根歩きで行くものと思ったら、どんどん下る。前を行く人に大声をかけるのだが、顔を見るのに反応がない。止まったところで、もう一度呼んだがダメ。耳が聞こえないらしい。不安のまま鞍部に下りて擂鉢窪避難小屋の看板で、ようやく安堵した。道は確かだった。
ガスがかかる山道、赤ナギ岳を通過し、岩道を越し、砂礫の登りを越えたら、空木岳だった。ここまで越百からつかず離れずだった人は池山尾根へ去って行った。頂上から木曽殿までは昔、逆に登ったことがある。10月の連休のときで、新雪が降った日だった。今日は下る。いくつもの岩を鎖やはしごを使い、ずり落ちながら、降りていった。「こんなに厳しい所だっけ?」。前に来たときは雪道で歩きやすかったのかもしれない。あと30分くらいかな?と思っていた所で下からの登山者に、「小屋は?」と聞いたら、「5分くらい」という言葉に嬉しくなった。確かに少し歩いたら、直下に小屋が見えた。
靴を脱ぐ前に「ビール」。外のテーブルで飲んでいたら、夕べ越百小屋で一緒だったパーティがやってきた。泊まらずに伊奈川ダムへ下りるという。私が明日歩くコースだ。5時間半かかる。これからだと、夜7時くらいになるのではないか?「気をつけて」と後ろ姿を見送った。

     
 

今日はゆっくりでいいのだが、起床は4時半、朝食は5時がこの小屋の決まりらしい。飯を食べてひと眠りと思ったが、布団もかたづけられていた。仕方なく6時前に行動開始。
見晴らし台という辺りでう空木や南駒の山にサヨナラして、ひたすら長い道を下った。北沢で沢筋に下り、ひと尾根越してうさぎ平に出た。ここまで3時間。長い林道が始まる。うさぎ平までは許可車が入るらしく。夕べ泊った木曽殿山荘のワゴン車が留まっていた。岐阜ナンバーだ。一昨日の林道にも越百小屋の車が駐車していた。それは山梨ナンバーだった。信州の山なのに、経営はいずれも隣の県の人らしい。
林道脇にパイプで流れている水で三日ぶりに歯をみがき、顔を洗った。あとはひたすら、「ダムまで○.○K」の標識を頼りに歩く。歩きだしが8Kだった。200m毎に標識がある。200mを2分、1キロを10分なら8キロは80分(1時間20分)で歩けるのではないかと考えたが、結果は1時間45分かかった。
1キロ13分くらいだった。どこか温泉にでも泊まろうと思ったがまだ11時前だったので、木曽福島の温泉に入って、蓼科に帰ってきた。

     
 

【上へ戻る】

8 月

8月25−26日 暑かった阿波踊り

今年の高円寺阿波踊りは格別に暑かった。今年は久保島邸が使えなかったので、着替えは高円寺中学校となった。体育館なので冷房がない。初日の場所は風通しが良くなかったので、女の人は着替えている間に熱中症状態になったらしい。踊りも終盤になった頃、「もう疲れて踊れない」と言い出す始末。明日もあることだしと終了30分前に我々中々連はリタイヤして帰った。翌日は風通しのよい場所を早く来て確保。昨日より涼しい。この夜は8時まで目いっぱい踊った。暑くても楽しい阿波踊りだ。

    
 

7月18−8月14日 ドロミテ、チロルの山歩き

この夏、ほぼ1ヶ月、ヨーロッパアルプスのドロミテ、チロルの山歩きを中心とした旅をしてきた。
 

月13日 この旅で感じたこと

 @どこでも会った日本人

日本でもあまり知られていないドロミテの、それも小さな村サン・マッダレーナや東チロルのカルスなど、インターネットで調べて行った所でも日本人の旅行客に会った。主な観光地に行き尽くした日本人が、私達同様、インターネットで調べて来るのだろうか?
帰国して新聞の広告を見ていたら、チロルの旅でサン・マッダレーナ半日ハイキングというプランがあった。このようにして段々、あの村にも団体旅行の日本人が入りこんでいくのだろうか?
ハイリゲンブルートで日本人と思って最初に声をかけた家族は韓国人だった。日本人が歩き尽くした場所に次に行くのは韓国、中国の人だ。その意味では、日本人は観光地開拓の先兵なのかもしれない。

    
 

 A安い物価

メロン1個 0.9ユーロ、スイカ4分の1が0.5ユーロ。スーパーでの値段。90円と50円だ。
ユーロ安も1ユーロが100円と計算しやすいことも安さを実感する一因だが、概して食料品はとても安い。ワインも7,8ユーロで十分美味しい。これが日本へ輸出されると2000円くらいになるのだろうな。ホテルでボトルを頼んでも、高くて20ユーロくらいしかしない。奥志賀のブルーエでは5000円がいちばん安いというのに。数年前、1ユーロ170円したことを考えるとえらい違いだ。旅行に関しては円高様様だ。それに引き替え、航空運賃はあまり安くならない。どうしてだろう?ユーロ建て運賃というのは設定できないものか。ガソリンも日本の方が安い。いちばん安いディーゼルでもリッター147円くらいした。レギュラーガソリンだと175円くらいになる。環境税が高いというが、日本もエコ税を載せてもいいのではないだろうか。食料が安く、燃料は高いヨーロッパだ。

    
 

 B滞在するメリット

どの地域でも「○○カード」という泊まり客専用のカードを発行し、これを提示すると、バス、ロープウェイ、博物館などが無料や割引で利用できる。この恩恵は大きく、ハイリゲンブルートではグロスグロックナー有料道路32ユーロやロープウェイ30ユーロが無料になり、バスも半額で乗れた。アルプバッハで乗った二つのロープウェイ無料、チロル農家博物館(チロルの明治村)も無料だった。
カードは滞在期間中はいつでも、何回でも使える。志賀高原など、スキー客減少で、夏の避暑客を増やそうといろいろな知恵を絞ってはいるが、このような大胆さはない。信州でもっとも涼しい避暑地なのだから、やり方によっては夏の滞在客は倍増は可能だ。
それぞれの施設や交通機関のエゴを押さえて、お客のための積極的なサービスを考えてほしいものだ。

    
 

8月12日 最後の日

アルプバッハ最後の日、この旅の最後の日でもある。アルプバッハに来て、いちばん天気の良い日になった。快晴だ。
オーストリア各地の風景を写しながらの天気予報を見る と、ハイリゲンブルートも晴れていて、滞在中見えなかったグロスグロックナーの頂きも輝いている。旅の最後を飾るすばらしい日だ。アルプバッハの昔をたどる道を歩いた。にぎやかな村の中心地から、川沿いの道を上がると、アルムへ続く集落へ出て、上へ登っていく。そこで、最初に歩いた道にぶつかった。このコースは、アルプバッハの村の広がりを歴史的に知る機会になった。今、泊っているハウスクリスタルも前に泊ったホテルワルドベルグも新興住宅街なのだ。一旦、宿に帰り、残っていた冷麦の昼食を摂り、4日前に行ったヴィーダースべルグにロープウェイで行った。晴れているので、展望がよいだろうと期待したこともあるが、アルプバッハカードを持っているとタダで乗れるからだ。チロルの明治村もタダだったし、このような仕組みは日本のリゾートも取り入れてほしいものだ。ついでにレイチュのロープウェイにも乗ろうと、麓近くのレイチュまで下った。ファミリーフェスティバルがロープウェイの広場で行われていて、駐車場は畑の中だった。ここもカードでただで乗れた。
終点はスキー場のトップで殺風景、夏はいちご畑が広がる斜面だった。今日のうちに車を洗って、ガソリンも入れてとさらに下った。ガソリンスタンドの洗車システムに戸惑ったが、先客に聞いて無事できた。レジの売り場にビールを発見、2缶買った。実は朝、アルプバッハのスーパーに行ったら、日曜は休み、他の店も休みで、どうしたものかと思案していた。夏のシーズンでも、レストラン以外はほとんどの店が日曜は休む。うっかりしていた。「しょっちゅう来ているのに、どうしたのよ」と妻になじられた。

    
 

月11日 トラッツベルグ城

あまり天候よさそうでないので、妻が宿のパンフレットに入っていた銀山探検に行ってみることにした。インスブルック方面へアウトバーンを走り、シュヴァーツという所で下り、少し迷いながらシルバーベルグ鉱山に着いた。今は掘ってないようだが、16世紀にはヨーロッパ最大の銀鉱山だったという。防寒具とヘルメットを着けて、トロッコで10分くらい穴の中を走り、銀鉱の奧に着く。そこで掘る様子を人形やスライドを使って見せる。パンフレットには日本の国旗があったので、日本語の説明があるものと思っていたが、英語、フランス、イタリア語、オランダ語しかなく、トランシーバーで英語を聞いたがよくわからない。まあ見ればだいたいのことはわかった。鉱山を出て、来る途中の山の中腹にあったお城に行ってみることにした。迷いながら、個人の土地の中の道を走ったりして、ようやく着いた。トラッツベルグ城。16世紀に建てられた。マキシミリアン一世やハプスブルグ家の所有を変遷して、今は1848年から続いているエンツェンベルグ家が所有している。
銀山の最盛期には銀鉱の所有者もオーナーになったことがあるらしい。これらは日本語のトランシーバーで知った。ここではいくつかの言語のトランシーバーを貸してくれ、それを聞きながら城内を回る仕組み。なぜあまり日本人うが来ないこの城に、日本語があるのか?疑問は現在のエンツェンベルグ伯爵の写真を見て理解した。以前、NHKBSでチロル紹介していたときに、この城は伯爵自ら登場して、懇切丁寧な案内をしていた。
日本人観光客を見越しての先行投資なのだろう。幾多の城主の変遷があったトラッツベルグ城だが、今は幸せな時代の中に平穏の日々をおくっているようである。

    
 

8月9−10日 周辺の山歩き

9日は以前も行ったことのある冬はスキー場になるヴィーダースべルグにロープウェイで上がり、頂上周辺を一周して、手作りサンドイッチを食べ、スキー場のスロープの道を麓に下ってきた。
翌10日はインナーアルプバッハの奥ファウルバームガルテンアルムまで歩いて、そこの橋の上で、昨日と同様のサンドイッチを食べて帰ってきた。アルムやヒュッテでの食事も美味しいのだが、メニューが読めず、聞いてもわからず、結局、何とか読めるスープやサラダ、ソーセージばかり頼むことになる。隣のテーブルの美味しそうな料理を横目で見る日が続いたので、宿でおにぎりやサンドイッチを作ることにした。気もつかわず、途中で買ってきたコーラを飲みながら、緑のアルムの中でのランチはこれはこれで、とても楽しくおいしい。数少ない自動販売機のコーラの値段はバラバラなことに気がついた。
アルプバッハの村の下の農協横は1.5ユーロ、ヴィーダースべルグのロープウェイ乗り場は1.2ユーロ、後日行ったシュバーツの銀鉱は何と2ユーロだった。

    
 

8月8日 チロルの明治村

アルプバッハから一旦麓に下りて、高速を越したクラムザッハの村にチロルの農家の博物館があると聞いて、出かけた。きれいな湖沿いをしばらく行くと、駐車場に着き、少し歩くと入口に着いた。
民族博物館のようなものを想像していたが、入ったらすぐ外への表示がある。広い敷地の中に古い農家が点在し、それを見て行く趣向のようだ。エッツタール、アルプバッハ、ツェラタールなど、チロル各地の農家を集め、展示しているのだ。まさにチロルの明治村だ。1600年代の大きな農家や納屋、教会など、昔、実際に使われていた建物を移築している。この旅で回った東チロルや南チロルのものもある。南チロルは今はイタリアのメラーノから持ってきている。国境を越えても、チロルはひとつなのだ。民族の歴史も垣間見られて興味深い。エッツタールの一画には1800年代の学校の建物もあり、当時の教室が再現されていた。レッヒタールの農家の壁には絵が描かれていて、この旅の最初に行った、レッヒタールの農家も同様だったことを思いだした。とても興味深いチロルの明治村だった。

    
 

月7日 なつかしいインナーアルプバッハへ

アルプバッハは4年前に極楽スキーメンバーのチロルハイキングで来たことのある村。
ヨーロッパでいちばん美しい村に選ばれたことのある名所だ。村の景観維持のため、いろいろな規制と工夫がされている。家はチロル特有のログハウスに統一されている。
と言っても、すべてを木材で建てている訳でなく、ブロックで中を固め、その上にログ材を貼りつけている。防火とコストから来ているのだろう。今回泊るハウスクリスタルは新しいアパートメントで、設備もほぼすべてが整っていて、とてもきれいだ。アイロンもあると妻は喜ぶ。アメリカではどんなモーテルにも備え付けてあるのに、ヨーロッパにはないとこぼしていた。
まずは以前、雨の中を歩いたインナーアルプバッハへ歩くことにした。宿からすぐの上がる横道を登り、しばらく住宅街を行くと、見覚えのあるアルムの入口に着いた。そこから、下にアルプバッハの村里を下に見ながら進む。舗装道路に出て右へ上がると、前に泊ったBergwaldに出た。あのときのマダム カテリーナに挨拶をと声をかけるが反応ない。
写真を撮って、歩を進めた。見覚えのある家、水差し彫刻などを経て、インナーアルプバッハ近くのベンチで昼食。今日は昨日炊いたゴハンの残りで作ったオニギリ、卵焼きが彩りを加え、すこぶる美味しい。通りがかった外人夫婦が「何を食っているのか?」と不思議そうに通り過ぎていく。おにぎりの後のテルモスに入れた緑茶も美味しい。アルプバッハで食べるオニギリのおいしさよ、忘れがたき思い出になる。インナーアルプのスキー場では新しいリフトの架設工事をやっていた。対岸のアルムでは鉄塔を立てる整地作業をしている。まだお客が来るのだ。日本のスキー場では、取り外し工事ばかりなのに。

         
 

月6日 ハイリゲンブルートからアルプバッハへ

ハイリゲンブルートを離れる日。結局、グロスグロックナーの頂は現れなかった。心残りはあるが、車でツェル・アム・ゼーへ向かう。フランツ・ヨーゼフ展望台への道を別れ、トンネルを抜けると違う世界が広がった。3,000mクラスの山がずらり横一線に並び、涸沢からの穂高連峰をもっと雄大にしたような山岳景観が広がる。グロスグロックナーは見えなかったが、これが見れたので良しとするか。
今回の旅では、ハイリゲンブルートとミズリーナで四星クラスの高級ホテルに二食付きで三泊ずつした。ミズリーナのグランドホテルはロケーションが良く、部屋からの眺めも良かった。夕食はビュッフェスタイルだが、種類が多く選ぶのに苦労するほど。ただ毎日似たような料理ばかりで飽きた。ビュッフェとは別に、メニューからオーダーもできたのだが、それを知ったのは最後の夜だったので、一回しか味わえなかった。スタッフも英語ができず、苦労した。
ハイリゲンブルートのホテルグロックナーホフは繁華な場所で1階は野外まで喫茶席が広がり、雑然としていた。部屋も展望がきかない穴蔵のような雰囲気だ。ただ食事はビュッフェスタイル+メニューから選ぶ方式で、ビュッフェも魚、肉、インターナショナルと毎日、種類が違い、飽きさせない。味も良い。総合評価は料理の良いグロックナーホフに軍配が上がるか?日本の二食付き旅館とずいぶんとやり方が違うが、決めてはやはり料理だ。

    
 

8月5日 シャレックからハイリゲンブルートへ
ハイリゲンブルート(ロープウェイ)シャレック(2時間)中間駅(1時間)ハイリゲンブルート
今朝も昨日と同様、薄日の射す似たような天気。グロスグロックナーは今日も見えない。日曜から木曜まで動かすシャレックへのスキーゴンドラに乗り、頂上から村まで歩くことにした。昨日のバスといい、このロープウェイといい、週末の土曜には運行しない。日本なら書き入れ時の週末や夏休みに動かないことはないのに、こちらはゆっくりしたものだ。土曜くらいバスもゴンドラも休もうではないか、ということか?それとも、土曜はお客が少ない日なのか?
ゴンドラをふたつ乗り継いで、2600mのシャレック山に到着。冬はスキー場になる広大なアルムをの中を麓に 下って行く。陽射しも強く、風もやや強いがグロスグロックナーの頂上は今日も雲の中だ。途中、前を歩いていた妻が景色に見とれて、足に気がいかないで、足を出した途端、グニャと靴は牛のウンチの中に。ベットリとウンがついた靴を周りの草で拭こうとするが、とれない。取りやすいように道端の草で縦に靴を動かしたら、今度は足が引っかかり草むらにバタンと倒れてしまった。膝小僧を石ですりむき、血が出てしまった。ウェットティッシュで拭き、カットバンを貼ることになってしまった。大事には至らなかったのでハイキングは継続。これが”ウンの尽き”なのか、”ウンの付き始め”なのかは、これからの天候で判断しよう。ウンチ騒動も花咲きみだれるアルムを歩いているうちに落ち着き、途中、レストランがないということはあったものの、午後2時過ぎにハイリゲンブルートの村に下り、スーパーでパンとハムを買い、残っていたレタスとトマトをはさんでサンドイッチを作り、ラドラーで遅めの昼食をホテルの部屋で摂った。このコスト、4.15ユーロ。ロープウェイはタダだったし、安くついたハイキングだった。

    
 

8月4日 フランツ・ヨーゼフ展望台

フランツ・ヨーゼフ展望台(往復1:30)ワッサーフォールウインクル

天気予報は今日も明日も雨混じりの曇りとなっているが、薄日も射しているので、フランツ・ヨーゼフ展望台へ行くことにして、バスに乗った。ぐんぐんと高度を上げていく。グロスグロックナーは雲の中。バスも次第に雲の中に入っていく。展望台に着いたら、向こうの雪山が見えてきた。グロスグロックナーと思ったら、3400m台の別な山だった。その左手に見えるはずのグロスグロックナーは雲に覆われて姿を現れしそうにもない。
ホフマンスヒュテまでガムスグルーベン道を歩くことにした。グロスグロックナーが姿を現すことを期待して。いくつかのトンネルを抜ける。金採掘時代の仕掛けがトンネル内にあり、何かディズニーランドのホーンテッドマンションのような雰囲気だ。コースには花が咲き乱れている。「道路以外に入ってはいけない」の表示があちこちにある。ホフマンスヒュッテは休んでいるらしく入れない。そこでガムスグルーベンコースの氷河の端まで行くことにした。12時のバスには間に合わないので、午後3時のバスまでの時間調整の意味もあって。ワッサーフォールウインクルという所が終点だった。
昔はここが氷河の端だったのだろうが、今はもっと上に行ってしまった。いくつものケルンがある。それに石を少し足してから、道を戻った。フランツ・ヨーゼフ展望台に戻った時は午後1時過ぎ。昼食をゆっくり取り、3時のバスに乗ろうとしたら、ハイリゲン行きは4時だという。時刻表には3時のバスがあるのに、と思って、よく見ると、土曜日は運休というように思える表示がある。ドイツ語なのでわからない。バスの失敗はサン・マッダレーナの時に続いて二回目だ。妻は「二回目なんだから、ちゃんと確認してよ」と怒る。二度あることは三度あるかな?

    
 

月3日 カルスからハイリゲンブルートへ

朝から雨だ。昨日インフォメーションで会った日本人の男性と朝食が一緒になった。山好きらしく、グロスグロックナーに登るためにカルスに来たらしい。雨でガックリきていて、ガイドをいつ頼もうかと悩んでいる。気長に一週間くらいいたらどうですかとこっちは気楽なことを言って別れた。
雨はカルスを離れたあたりから小降りになった。雰囲気のよかったカルスは三日間の滞在だったので、宿のオカミさんは今度は一週間くらい居てくれと言っていた。スキーも面白そうな所なので、冬に来てみたいとも思った。リエンツの町を通り抜け、ハイリゲンブルートへの107号線に入り、徐々に高度を上げて行く。早く着きそうで、時間調整に途中の村で時間をつぶしたりして、このあたりで昼食にしようと思って入った町はもうハイリゲンブルートだった。まだ12時を回ったばかりで、入れないと思ったが、ダメモトで予約していたホテル・グロックナーホフに聞いてみたら、チェックインでき、部屋に入れた。山も見えないいい部屋ではなかったが、小さいベランダがついていたので、そこで今朝、作ってきたサンドウイッチをコンプリメントで部屋にあったスパーリングワインでおいしく頂いた。
夜、近くの村の舞台で地元の音楽隊の演奏会があった。軽快なポルカは楽しく、踊りたくなるようなリズムだ。終り近くに前のベンチに座っていた女性が日本人だった。「どのくらい旅しているのですか?」と聞くと、6月末から来ているという。途中でご主人も加わり、チロルの旅事情を交換した。ここハイリゲンブルートには一週間、滞在予定だという。これからのお互いの旅が楽しく続くことを祈念して別れた。

    
 

8月2日 グロックナーシュトラーゼ
ラックナーハウス(1:15)ラックナーヒュッテ(1:00)ラックナーハウス
カルスからグロスグロックナーへの登山はグロックナーシュトラーゼから始まる。この道を40分走らせると、ラックナーハウスへ着く。ここからは歩きになる。ラックナーヒュッテまで1時間15分の標識。ここまで行くことにした。車も走る大きな道路が上へ続いている。
この道を妻を先に立て、ゆっくりゆっくり登る。所々にあるベンチでゆっくり休憩し、昨日の疲れを引きづらないように気をつかう。
谷を上るに従い、グロスグロックナーの全容が現れてきた。雪に覆われた頂きは3798m、富士山よりちょっと高い。オーストリアの最高峰であり、周りにも3000mクラスの高山がひしめいている。北アルプスと南アルプスを合せ、その中心に富士山があるという感じか。グロスグロックナーの頂きには途中の山小屋で一泊して到達する。ラックナーヒュッテはまだ麓のうちだからここに泊まる人は少ないだろう。我々のようなハイキング気分でここまで来た人の昼食場所だ。私たちもここでスープとソーセージ、ビールを頼み、楽しいランチにした。ここから上は本格的登山、ここまではハイキングに分かれる。下りは左の川沿いの細い道を通った。途中の沢ではヌーディストクラブのような水浴びシーンに遭遇し、度肝を抜かれた。カルスの村に帰ってきて、ATMでユーロを引き出していたら、隣に日本人そうな人がいた。聞くと日本人、グロスグロックナーに登りに来たが、雨模様なので迷っていると言う。どちらにお泊まり?と聞くと、同じベルグハイマートだった。

    
 

8月1日 ヨーロッパパノラマコース

カルス(バス)マトライ(ロープウェイ)終点(1:00)カルス・マトライヒュッテ(1:00)ブラウスピッツ(2:30)カルス

カルスに着いて、すぐ行ったインフォメーションセンターで聞いたカルス―マトライを結ぶハイキングコース。センターのお姉さんは「マトライからカルスに歩く方がよい」とマトライへ行くバスの時刻、乗り換え場所などとても親切に教えてくれた。この教えに従い、カルスからバスに乗った。フーベンで乗り換え、マトライに着いた。
ロープウェイを通り過ぎてしまい、町の真ん中まで来てしまった。
カルスから一緒に乗った老夫婦も同じように歩くらしく、乗り場まで歩いて戻った。”ロングトリップ”とお互い苦笑いした。長いロープウェイを下りて、カルス方面への道を歩き始めた。カルスから上がってくるロープウェイの終点下にあるカルス・マトライヒュッテを経由してブラウスピッツまでの道はヨーロッパパノラマコースと大げさに名付けられている。グロスグロックナーを前方に見ながら歩くコースという点では、ヨーロッパとは言わないまでも、”オーストリアアルプスパノラマ”くらいは言ってもよいかな。
カルスマトライヒュッテからの道は広大な斜面を横切っていく気持ちがよい。3000m級の山を眺めて歩く。表銀座的な雰囲気があるが、道はいたってゆるやかに続く。ブラウスピッツのスキーゴンドラ終点のレストランでスープ、ソーセージで昼食。明るい陽射しの中でのビールはすこぶる美味しい。そこからカルスの村までの下り道は車道にもなる砂利道が大半でとても長かった。
村の近くに来ると、中世の素朴な教会が草原の一画に見え、長いコースのフィナーレを迎えた。

    
 

【上へ戻る】

7 月

7月31日 東チロルへ

ミズリーナ湖を去いえる日の朝、もっともきれいな光景だった。
昨日の夕方の雷雨がすべての汚れを流してくれたようで、湖対岸の山をくっきりと浮きあがらせ、朝日に映え、ことのほか美しい。
そのきれいな景色をバックにドロミテにさよならして再びオーストリアに車は入った。
東チロルはチロル州の一部だが、南チロルがイタリア領土になったことから、つながらなくなり、飛び地になっている。州の首都インスブルックに行くには、オーストリア内を行くより、イタリア経由が近いという皮肉な宿命を負った。東チロルの中心地はリエンツ、ミズリーナから1時間ほどで着いた。今は美術館になっている古城に立ち寄り、地元の画家の民族的な絵を観賞した。リエンツを取り囲む山々はドロミテ的な岩山もあるものの、緑したたる円やかな山も多くなり、山容が変わったことがよくわかる。次の滞在地カルスに向かうマトライタールに入るに従い、その雰囲気はさらに強まった。もうここはオーストリア最高峰グロスグロックナーの麓なのだ。

    
 

7月29日 トレ・チーメを一周

オーロンゾヒュッテ(1:00)ラバレッドヒュッテ(1:00)ロカテリヒュッテ(0:40)ランゲアルム(0:40)オーロンゾヒュッテ

ミズリーナのホテルから車でトレ・チーメトレッキングのスタート地点のオーロンゾ小屋に車で向かった。途中から有料道路に変り、通行料22ユーロと高いのに驚いた。これに駐車料金を取られたらかなわないなと思ったが、それは杞憂だった。
トレ・チーメの三つの峰は霧にすっぽり覆われている。オーロンゾ小屋から歩きだし、しばらく行くと小さな礼拝堂があった。これは一般的に登山が始まった頃に造られたものらいい。周りにいくつかの墓名碑が岩に埋め込まれている。トレチーメの岩壁に命を落とした人たちのものだろう。少し行くとラバレッドヒュッテに着いた。
次のロカテリヒュッテまでは上に見える縦走路へ登るらしい。平坦な道は大回りする道と思って、急な登り道を選んだが、途中で平坦な道も合流したので、少しガックリきた。
日本人のグループが休んでいたので、「こんにちは」と声をかけた。皆驚いた様子、あとで聞いたら、アトラストラックの団体だった。10名催行人員だったが8名しか集まらず危惧したが、何とか実施にこぎつけたという。ドロミテからザルツブルグへの旅だそうだ。雨が降り出したが、それほどでもないので、そのまま進む。
ロカテリヒュッテでミネストローネスープにありついた。とてもおいしい。ここに日本語メニューがあったのには驚いた。日本人登山客もそこそこいるようだ。アトラストラックの一行も入ってきた。
小屋の飲み物担当のスタッフは日本人の女性だ。アトラスの案内人と「久しぶり」と言葉を交わしている。彼女が日本語メニューを用意したのだろう。ロカテリヒュッテを出たら、これまでガスに覆われて全容が見えなかったトレ・チーメが姿を現していた。さすがにドロミテの名峰らしく威容がある。チーメが日本ではチンネと訛り、剣岳や谷川岳にその名を残している。日本の岩壁の名のルーツでもあるのだ。小屋から歩きだして雨が強くなり、ザックカバーを出し、傘もさした。縦走路は雨の中でも心地よいアルムを歩く。
ランゲアルムの小屋に来た頃は雨も強くなったので、ひと休みすることにし、紅茶とケーキを頼んだ。甘く美味しいケーキにほっとして、再び歩き出した。この頃から空が明るくなり、高みに来た頃には陽も射して周りの山が見えてきた。シャモニー針峰群のような尖った山々もある。ドロミテ針峰群か。牛が登山道に出ていたり、のどかな雰囲気になった頃、トレ・チーメを一周して、オーロンゾヒュッテに戻った。ほどほどに歩き甲斐もあり楽しかった。妻も満足。

    
 

7月28日 セラ峠からミズリーナへ

いよいよサンマッダレーナの村を去る朝が来た。部屋を片付け、ゴミを出し、Reburgの宿代をオジサンに払った。一週間で385ユーロ(38500円)、安い。コップを割ったので、そのコストも払うと言ったが、いらないと言う。ハッカ飴とあじさいのハンカチをお礼に渡した。名残惜しく車を走らせた。昨日のコルバラの帰りに通ったガルデナ渓谷の道を反対に走る。この道を通るのも、今日で三回目だ。パンフレットに出ていた、携帯電話のようなゴンドラがかかるセラ峠に向かった。セラロンデのセラ山だ。冬来たとき、何回も滑ったコースにある場所だった。ただ冬はこのゴンドラは動いてないらしい。セラ山脈のコルにある山小屋へ架かっている。立って乗る二人乗りの縦長のゴンドラだ。動いているゴンドラに飛び乗る。
妻が乗ったあと慌てて私が,係員に押し込まれて乗った。それから10数分、ゆっくりゆっくり岩峰に張り付くように高度を上げて、コルの山小屋に着いた。降りるときも、ゴンドラは動いているので難しい。下りのゴンドラは一人一人、数メートル間隔で乗り場が設置されていて、まず妻が最初に乗って、数メートル動いてきたら、私が乗るようになっていた。これなら少し乗りやすい。それにしてもスキーではお目にかかったことのないリフトであった。アセラ峠からは、スキーでも通ったポルドイ峠、アラッバの村を過ぎて、ドロミテ街道をコルティナへ向かった。コルティナの街からミズリーナ湖への道は結構登った。ミズリーナ湖は標高1700mあるらしい。グランドホテルの最高と思われる湖を見下ろすメゾネットの部屋に通された。一泊二食付きでひとり95ユーロ(9500円)。安い。

    
 

7月27日 サンマッダレーナ最終日

宿(15分)教会(20分)展望台(30分)村

サンマッダレーナの小さな村での滞在も最終日。いつも下から見上げていた集落に車で行った。途中、サンピエトロの村の郵便局で妻が絵ハガキを出した。三度目の正直だ。というのは一昨日来たら、閉まっていてスーパーで切手を売っているというので、聞いたらないという。「明日来ればよい」と昨日、来てみたら、郵便局は月、水、金の三日しか午前中だけの営業で木曜の昨日は休業、そこで改めてスーパーに行ったら売ってはいるが、イタリア国内用の切手だけと言う。そして今日金曜日、三日目にしてようやく窓口で買うことができた。ハガキひとつ出すにも外国では苦労する。
高みの集落はコルという。「星の降るあのコ〜ル♪」のCollだ。
そこからサンマッダレーナの村と教会は遠すぎて、景観はイマイチだ。そのまま車を走らせるとどんどん山の中に入って、別なエリアの谷間に下りて行った。幹線に出るとそれはコルバラへ続く道だった。数年前のドロミテスキーで滞在したコルバラ。懐かしい名前だ。町に入り、迷いながらも泊った宿「レジデンス・アンジェリカ」を見つけた。フロントに出て来たのは若いオカミさん、彼女だけは英語が話せた。私達日本人を覚えていた。しかし「夏だったけ?」と聞く。日本人が泊ったことは覚えていたが、季節は忘れているようだ。懐かしい再会だった。

    
 

大回りしてサンマッダレーナに帰ってきた。夕方5時過ぎに、教会からその展望台への道を歩いた。夕日の村と教会がいちばん綺麗と聞いていたから。教会の墓地にメスナー家の墓がふたつあった。どちらかがあのレインホルト・メスナーの家のものではないだろうか?
最初の日に来た展望台へ上がっていく。教会に夕暮れの陽があたり、ガイスラー山系の岩山も明るく輝き、まさに絵葉書の中の光景が目の前にある。この時間帯がいちばん明るいような気がする。展望台のベンチに妻と座り、夕暮れの変化していく教会と村の風景を7時近くまで楽しんだ。ほんとうに美しく、清らかで静かな村だった。

       
 

月26日 アルペ ディ シウジ

オルティッセイロープウェイ下り場(1:30)コンパズ(10分リフト)パノラマ(1:30)オルティッセイロープウェイ

アルペ・ディ・シウジは、「地球の歩き方」にも”ドロミテの展望台”として紹介されているくらいの場所だ。フネスの谷を下り、隣のガルデナの谷に入り、オルティセイの町からロープウェイで上がる。
上がった所は広大なアルペ・ディ・シウジの端にあたり、伸びやかな高原が見渡せる。左にサッソルンゴにユニークな岩峰、中央奥にマルモラーダの雪が残る山も見える。高原はアルムの牧場地帯でもあり、途中、いくつもアルムでは家族総出で草刈をしている。女性はスカートのまま、腕も足も出してやっている。虫に刺されないのだろうか?妻は牧草アレルギーになったらしく、くしゃみが止まらない。高原内は原則、一般車乗り入れ禁止なので、歩くか、馬車か一部はバスで行くしかない。
私たちは歩いた。コンパズは近代的なホテルもあるしゃれた村だ。インフォメーションセンターかと思った大きな木の洒落た建物は教会だった。ここで昼食にした。ビールが乾いた高原の空気の中でうまい。おかわりをしたほど。帰りはパノラマという一段高い所にリフトで上がり、そこから高原を見下ろしながら、アルムの中をオルティッセイへのゴンドラ乗り場に戻った。緑の中の草原と広い青空、その中をゆったりと歩く。まさにアルペ・ディ・シウジの夏休みの一日だった。

    
 

7月25日 プログレスヒュッテからサンマッダレーナへ

オルテッセイ・ラッショッツへのケーブルカー→展望台(1:30)プログレスヒュッテ(1:00)サンマッダレーナ

昨日来なかったワンダーバスについて英語のわかる宿の娘さんに聞いたら、毎週水曜だけ運行のバスだった。今日が水曜日。あわてて行くことにした。妻は二日前からのギックリ腰が芳しくなく、今日は宿で休んでいると言う。私ひとりで行くことにした。
バスは途中で何人も乗せて、ほぼ満杯でガルデナ渓谷のオルティッセイに着いた。ラショッツ行きとセチューダ行きの二つのケーブルがある。バスの中でラショッツ行きの切符を買っていたので、迷わずラショッツケーブルに乗り込んだ。高尾山と同じ、上り下り同時発車のケーブルカーだ。一気に上がると、そこから長い草原の道が始まった。ブログレス小屋は見えない。車山から霧ヶ峰に続くような草原を歩く。後にサッソルンゴ、前方にガイスラー山脈、ほとんど登り下りがない道だ。石畳の道を整備しているオジイサンに会った。ひとりで大きな石を梃子で動かしている。かなりの年配と見受けたが大変なことだ。「グリュースゴッド」と挨拶した。にっこりと会釈してくれた。ブログレス小屋の草原で持ってきたお菓子とお茶で簡単に昼食を済まし、フネスの谷の下りにかかった。
ここを歩いた日本人のブログによると「急な道で、岩がゴロゴロ、歩きにくい。膝がガクガクした」とあったので覚悟したが、それほど急でもなく、ゴロゴロしておらず、至って歩きやすい。北アルプスの笠新道やブナ立尾根の下りの方がよっぽど険しい。たぶん書いた人は山の経験が少ない人ではないか。彼が2時間かかったという道を1時間強でサンマッダレーナの村に着いた。妻が待っていることも大幅な時間短縮につながったのだろうか?

    
 

7月24日 ゲイスラーアルム

サンマッダレーナ(2:00)ゲイスラーアルム(1:00)Val di Funes下り分岐(1:00)
サンマッダレーナ

目の前のドロミテ岩峰の向こうにはガルデナの谷間がある。そこからロープウェイで上がり、岩峰のコルを越えたり、山脈の横の草原を通ってサンマッデレーナの村へ下りてくるトレッキングコースがある。ここを歩くには、ガルデナのオリティッセイまでバスで行く必要がある。パンフレットによると9時発のワンダーバスという直行便がある。これに乗るべく、15分前にバス停に行った。しかし9時になってもバスは来ない。
待つこと30分、何があったがわからないが、今日は中止。宿に帰ってオジサンに聞くが、ドイツ語でわからず、明日朝、娘に聞いてくれと言う。そこで近くのハイキングコースに行くことにした。サンマッダレーナのもう一つの教会の横を通り、アルムへの砂利道を登っていく。これが結構長い。急な勾配もあり、妻は次第に無口になり、遅れが目立つようになった。ほとんど森の中なので見晴らしもよくない。最後の上り道は私も辛くなるほど。やっと着いたゲイスラーアルムの前にドロミテの大きな岩山が迫っていた。宿の窓から眺める景色をさらに目の前に突きつけられた感じだ。ここで昼食を摂り、同じ道を戻るつもりだったが、前方の岩山に向かう尾根にも道がある。地図によると、その尾根を越えると、谷間に下り、岩山沿いに行くと、サンマデレーナへ下りる道があることがわかった。もっとドロミテの岩壁沿いに歩こうと、迷わずその道に入った。尾根までは苦しかったが、そこを越えると、急な下りで岩壁に近いコースに出た。迫力満点の岩山が迫る。岩に取り付くための横道と目印のケルンがいくつもある。途中で「地図を見せてくれ」というカップルに会い、お互いにコースの確認をしたりしながら、麓へつながる下りに入り、サンマッデレーナに帰ってきた。

    
 

7月23日 カイザーリルアルムからギャンペンアルムへ

ザンス(1:00)カイザーリルアルム(0:30)ギャンぺンアルム(1:00)ザンス

今日からいよいよトレッキング開始だ。ハイキングと言ってもよいそれほどきつくないコースを歩こう。サン・マッデレーナの村から奥のバスの終点ザンスまで車で行き、そこから歩こう。
しばらく林道を進むと、緑がまぶしいアルムが広がってきた。アルムの経営には機動力も必要な時代なので、たいていアルムの拠点まで車が通る道が続いている。そんな林道を歩き、途中から山道になった。徐々に険しくなった頃、カイザーリルアルムの屋根が見えた。昼にはまだ早いので、私はミルク、妻は紅茶を頼んだ。
そこからまた山道に入り、花咲きみだれる草原を歩く。上のシュラッターヒュッテへ行く人も多い。我々はその道に行かず、ギャンペンアルムへの道を取った。カイザーリルアルムから30分くらいしか歩いていないので、まだ昼には早く、小休止して、ドロミテの岩峰を背にしてザンスへの林道を下った。初日の歩きは軽やかなアルムの逍遙となった。

    
 

7月22日 サンマッダレーナ周辺
宿(0:20)教会(1:30)パノラマWEG周遊→エーデルワイスガストホフ(昼食)
朝の陽射しがまぶしい。サン マッダレーナ滞在の日が始まった。まずは村の周辺を歩いてみよう。何といっても村のシンボルの教会を目指そう。宿Reburgの上手の道路から、教会は近そう。
しばらくバス道路を歩き、農家の横の細い道に下りていくと、教会へつながる道に出た。鐘の音が聞こえる。それも時を知らせる音でなく、ジャンジャカ鳴っている。坂を上がり、教会の横に出ると、祭礼のパレードが教会の境内へ吸い込まれていく光景に出会った。民族衣装に着飾った人、神輿の上にマリア様を載せかついでいく少女たち。楽隊も後ろから行く。そして村の人か、普通の服装の人たち。夏の祭礼らしい。いっぱいの人で、教会には入れそうもないので、外壁を回り、カレンダーの景色、”絵になる展望台”を目指すことにした。裏庭にはパーティの準備か、ワインやビールがいっぱいあった。細い道路沿いに、多くの車の列、参加者は近くまで車で来て、パレードは村里からではなく教会下から始まった様子だ。
展望台へ高度を上げるにつれ、教会とアルム、そこに点在する農家、そしてバックのドロミテ岩峰のバランスよい景色が広がってくる。野辺の祠を覆う木の下にベンチがあり、ここから見る風景が最も美しいと言われている。縦列駐車の長い車の列も教会の下に見えて、今日は特色ある景色になっている。そこから上へ少し行き、森の中へ入っていく道はパノラマコースと名付けられている。
これを歩き、村の概要を知ろう。木の間越しに教会やアルム、そして村の屋根々々を見ながら歩く。小さな村なので、パノラマコースから下りると、そこはもうかなり村から離れていた。道路を村へ戻り、ガストホフ・エーデルワイスのテラスでビールを飲みながら、昼食を摂って、本日の下見は終わった。

    
 

7月21日 ボルツァーノからフネスの谷へ

朝から雨模様、ライターさんから紹介されたドロミテ展望台へ行くのは中止。朝、ボルツァーノの川沿いを散策した後、ロンコロ城という古城に立ち寄り、ボルツァーノを早めに後にした。アウトバーンをブレンナー峠方面に走り、次のインターで下りるとフネスの谷間は近かった。昼前にサン・ピエトロの村に着いた。隣は目的地サン・マッダレーナなので、ここで昼食。洒落たレストランに入った。早かったので、お客は誰もいなかったが、お昼になるとあっという間に席はいっぱいになった。できるだけゆっくり食べているうちに陽が射し始め、青空になった。
気持ちのよい空と緑の中を、サン・マッダレーナに向かった。探すのに手間取ったが、Haus Reburgを見つけた。「日本から来ました」とインターホンで話すと、「ヤーパン、ヤーパン」と言いながら、おじいちゃん、おばあちゃん、おかあさん、子供たちみんなが出てきて、重いスーツケースを三階の部屋まで上げてくれた。部屋のリビングの窓全面にドロミテの岩峰が広がる。ベランダは花一面。美しく、快適な部屋だ。さあ、これから一週間、ここで暮らすのだ。

    
 

月20日 霧の峠を越えて、アイスマンに会った

ロイッテの朝はヒンヤリとしている。曇空なので、なおさらだ。
一昨日来たフェルムパスへ戻り、その先でイムストの町へ向い、そこからエッツエタールへの道を走った。なつかしい道だ。10年前には家族で来、数年前にはスキーで来た谷間だ。
セルデンの町では家族で滞在したレジデンスの前まで行ってみた。その上のレストランで娘の誕生祝いをやったっけ。オーバーグルグルの村の手前でイタリアへ抜ける峠道に入った。この辺りから、霧が立ちこめ、国境の標高2500mのパッソロンボ(ロンボ峠)は視界不良で前が見えない。恐る恐るイタリア側に下りていく。この峠の尾根沿いの氷河でアイスマンと言われる数千年前のミイラが見つかった。アイスマンを見るのも、今日の目的のひとつ。ボルツァーノの博物館に展示されている。
標高が下がるにつれ、霧は晴れ、メランの町に入ると暑いほど。昔この町はチロルの首都だったこともあるという。人出が多いメランを抜けるのに苦労した。ボルツァーノの町は近かったが、街中で迷った。やっと駅を見つけ、駐車場に入れた。観光案内所で今宵の宿を探してもらい、博物館に近いコルピングホテルに入った。
何か学生のドミトリーのようなホテルだ。アイスマンミュージアムまでは数分の距離で便利。早速、行ってみると外に列が出来ていて、入るのにしばらく待たされた。人気があるんだね。
アイスマンのミイラはガラス越しに覗き見るのだが、身に付けていた衣服や武器なども展示してあった。最近の調査で、「羊飼いと考えられていたが、実際は何かの戦の兵士で追われていたところを矢で狙撃されたよう」という。虫歯の治療跡などもあり、古代にしては結構進んでいた時代でもあったようだ。アイスマンの後は街を歩き、教会に入ったりした。夜は近くに見つけた日本料理で野菜炒めを頼んだら、煮物のような野菜炒めだったのに驚いた。

       

  
 

7月18−19日 日本からロイッテへ、そしてレッヒタール

成田で久仁子さんのいとこの青木洋子さんと待ち合わせした。今回の旅ではオーストリアのロイッテという町に住んでいる旧知のライター久仁子さんをまず訪ねることにしていた。そこまで一緒に行こうということになった。オーストリア航空でウイーン乗り換え、インスブルックまで14時間の長旅。夕暮れのインスブルック空港にようやく着いた。バゲッジクレームの扉の向こうにライター夫妻の姿が見える。久仁子さんとは数年前、ドロミテスキーに行くときに紹介され、それ以来の交流だ。ドイツ語の勉強に来て、そのまま、ガイド、通訳の仕事をこちらでやっていた。ライターさんと知り合い、今は旦那さんの100年以上経つ古い家を改装しながらロイッテに住んでいる。ロイッテはインスブルックから1時間半、ドイツのフュッセンの隣町にあたる。三年ぶりの再会だ。ロイッテに二泊することにした。空港からライターさんの先導でレンタカーの私達が後に続いた。車はベンツ、ディーゼル車だ。運転しやすい。
予約して頂いたホテルモーレンは部屋も広々としていて可愛いべランダもあり、快適。二日目はライターさんの案内でレッヒタールに行った。レッヒは四年前のスキーで滞在した。夏も高級リゾート地として賑わっていた。夜はライター邸でWelcome Party。いろいろなビールとワインですぐ酩酊状態に。オニギリも出て、日本で宴会をしているような楽しい気分になった。久仁子さんの健康が回復されることを祈りながら、さよならした。

    
 

7月14日 蓼科山の怪

極楽スキー、夏の恒例「トレッキングと広島焼き」。今年のトレッキングは蓼科山。降ってはいないが、ひと雨来てもおかしくないような空模様の中、女の神茶屋から登った。頂上はガス混じりで風もあり寒い。記念撮影して、早々に頂上小屋に入り、ラーメンや味噌汁をスープ代わりにして、作ってきたサンドイッチを頬張る。
腹ごしらえしてから、天祥寺原の下りに入った。8人パーティも5人、3人に分かれるようになっていた。途中で遅い3人組を待ち、来たらまた分かれて下るパターンになっていた。沢筋のガラガラした河原で待ち合せしてから、永瀬さんが先発で出発、そのあと私たち4人が続き、森さん、小川さん、渡辺さんはひと休みしてからということになった。
沢筋から左手の森へ入る所がまちがえやすいのでは?と言いながら、標識を確認し、「まず見落としはないはず」と我々は森の中から天祥寺原に出て、大河原峠からの道にぶつかった。ここから竜源橋までは1時間半の一本道。ここで私は後続の3人を待つことにして、他の人には先に行ってもらった。30分経っても来ない。
おかしいと思い、少し戻って呼んでも反応ない。携帯がかろうじて通じる所で後続3人のうち森さん、渡辺さんにかけても留守電になっている。先に行った永瀬さんに電話して、小川さんに連絡とってもらった。「下に向かって歩いている」という。私は登り直して、しばらく前に別れた地点まで戻ったが会わない。どうも3人は道を間違えているらしい。
 

「ちゃんと踏み跡のある道だ」と言っている。その間に、永瀬さんが山小屋に電話したら、「迷っているようだから戻れ」と言われたらしく、3人には元へ戻れと伝えたようだ。そうこうするうちに、森さんから、「戻れとは何ごとだ。我々はちゃんとした道を下っているのだからこのまま行きたい」と抗議の電話。我々が「間違えるならここだ」と話した地点で森へ入らず、まっすぐ沢を下ったらしい。「そこで待ってて」と私は、間違ったと思われる沢へ下り、右手の森に上がり、彼らが歩いているという道を探したがそんなものは見当たらない。
「わからないからそのまま下に歩いて行ってくれ」と言い、私は天祥寺原へ戻り、下りてくるならこの辺では?と考えた沢合流地点で待ったりしながら、竜源橋へ向かった。そこへ「竜源橋に着いた」との電話。私は狐につままれたような気分で後を追っかけた。
3人は竜源橋で待っていてくれた。どこで間違ったのだろうかと話を聞いてもよくわからない。「間違うならここ」と思ったところより、もう少し上部で右の森の中に入っていったらしい。そこには道跡があったらしい。いずれにしても無事で良かったが、蓼科山の怪である。
この夜の広島焼きは8時過ぎになってしまったが、遭難騒ぎの話で非常に盛り上がった。私が天祥寺原で待ちはしないでそのまま行っていれば、こんな騒ぎにはならなかったかもしれない。3人は自分たちが間違った道を歩いているなんて、露ほども思っていなかったのだから。

    
 

【上へ戻る】

6 月

6月26日 浅間山

佐久の病院に南木佳士という医師であり、芥川賞作家でもある人がいる。
その作品に浅間山周辺の山歩きが頻繁に出てくる。医師生活のストレスからか鬱状況になったとき、山歩きを始めたら、効果があったらしく、それから近くの浅間山周辺によく行くようになったとのことだ。そんなことを本で知り、私も浅間山に登りたくなった。活火山の浅間山は頂上周辺は登山禁止になっている。
外輪山の前掛山までは登れるということなので、小諸から入る天狗温泉から登ることにした。浅間山の噴火は歴史的にも有名で、激しく燃える、まさに生きている山だ。遠くから見ても、白っぽい砂礫の山の印象だ。砂漠のような荒れ野を登っていくのかなと思っていたが、登山口は深い森の中だ。火山館を目指して歩き始める。途中、薪が道端に積んであり、「1本でもよいから、火山館まで運んでくれないか」と掲示してある。そこで小ぶりなのを1本抱えた。火山館までは森の道、ハクサンイチゲの白い花が美しい。火山館には管理人がいて、「1本くらいですまない」と言ったら、「ありがたい。この前の休日には500本も集まった。ひとりひとりの1本が大きな数になる」と感謝された。
湯の平の草原はすてきな所だ。たぶん温泉が湧く場所なのだろう。新緑の木々と草原、その先に黒斑山の急峻な壁、絵になる美しさだ。浅間山には草すべりやJバンドなど山好き好みの地名がある。

    
 

湯の平の森を過ぎ、徐々に木がなくなり、火山らしくなった。火山礫の道は滑りやすい。前掛山の手前にはコンクリート造りの避難壕が二つもあった。ドーンと来たら、ここに逃げ込むのだ。前掛山の頂上には浅間山2524mの標識があった。「ここまでしか登れないのだから、ここを頂上ということにしよう」なのだろう。しかし外輪山なので、前に火口が見える訳でもなく、赤茶けた外溝があるだけだ。「まあ仕方ないな」と下り始め、向こう側の火口壁を見ると、人の影が見える。「禁止なのになんだ。悪い奴がいるな」と思ったら、いっぱい人が登っているではないか。「赤信号、みんなで渡ればこわくない」ようだ。私もその一人になり、火口壁への道に入った。「捕まったら罰金だな」と思いながら。
登り着いた火口壁から下を覗いて見ると、何ヶ所の地表から煙が吹き出、小さな火口湖もある。まさに火山のカルデラ光景だ。This is Asama-yama. みんなこれが見たかったのだ。外輪山からの溝越しの浅間山では物足りないのだ。
火口壁の尾根には6枚のソーラーパネルが設置されていた。「群馬県火山活動…」という標識があるが、何のための発電設備なのか説明がない。どうやってどこに送電するのかな?などと知りたいことはあるが聞く人もいないし、火山館で聞く訳にもいかないだろう。(帰ってきてインターネットで調べたら、火山活動観測機器用の電源に使われているらしい。パネルの下にかまぼこ型の洞が設置されていたが、この中に観測機器があるらしい)

    
 

6月23日 一週間後の八子ヶ峰

先週のセミナーのハイキングでは三分咲きだった八子ヶ峰のレンゲツツジを再び見に行った。こんどはいつもの東急からのトレッキングコース。天国の庭あたりのツツジはほぼ満開。今日はよく晴れていて、ツツジ越しの八ヶ岳や御岳は美しい。しかしヒュッテから先の高原のそれはツボミ状態のものもあり、満開とはいかない。今年は春が遅かったので、桜も10日も遅かった。レンゲツツジも6月中旬頃から咲き、20日は満開が普通だった。それから見ると、やっぱり一週間ばかり遅いのかな?八子ヶ峰西峰に行ったら、自転車で登ってくるグループに会った。マウンテンバイクツーリングだ。山の楽しみ方も変わったものだ。

    
 

6月17日 レンゲツツジ咲き始めた八子ヶ峰

高原セミナーの翌日はゴルフとハイキングに分かれてのイベント。
蓼科は初めてなので、ハイキングのコースも選り取りみどり。最初なので、初心者コースにしたのに参加者は4名のみ。昨日は雨だったので、みんな今日もダメと思ったらしい。ところが歩き始めた頃から、陽がさし、青空も広がってきた。梅雨どきの晴れは意外と良い天気になるのだ。いつも登る東急トレッキングコースからではないすずらん峠から。上るに従い、レンゲツツジの赤い花が草原に広がってきた。開花まもなく三分咲きというところか。それでも朱色の広がりは美しい。次の週末あたりが見頃かな?
八子ヶ峰東峰に来ると日差しも強く青空の中に蓼科山も全容を現した。リフトを越え、西 峰を越え、白樺湖への道を歩く頃には暑くなってきた。この辺りのレンゲツツジは満開に近い。やはり標高が低いところは早く咲き、高い八子ヶ峰の草原はまだつぼみだった。カッコウの鳴き声も聞こえ、ルンルンのハイキング気分。白樺湖ロイヤルヒルズスキー場に出た。ゲレンデの上から道が一直線に下って行く。ここが本日のハイキング終点。木陰で弁当を食べていると迎えの車がやってきた。ホテルに帰って、温泉入って、終り。極楽。極楽!

    
 

6月16日 蓼科での高原セミナー

これまで奥志賀でやっていた「高原の経営セミナー」、ベルサルームズの形態も変わったことで、蓼科に変えて開催することにした。ホテルはアートランド蓼科と言っていた大型ホテルがリゾートホテル蓼科に代わり、ネパール人の経営に変わった。セミナー会場も奥志賀の音楽ホールと違いテーブル付きになり、コーヒーサービスもある。
ゲスト講師に地元諏訪の”真澄”の宮坂社長をお呼びした。「日本酒を世界酒に」と海外展開に熱心な酒蔵の主人だ。その挫折とまき直しのヒストリはとても興味深い。飲む人をターゲットにするのではなく、酒を勧める人、ソムリエやシェフをトレーニングすることが早道とスタッフをファンにしていく。今ではワインの見本市に日本酒のブースも出せるようになり、会場ではいちばんの人気だという。倉重塾長の話は世界の人口推移から始まり、これからの世界の変化、日本の位置づけの大きな話から、その環境の中で、我々日本人はどう生きていくべきかと示唆に富んだ内容。
セミナーのあとのパーティの乾杯も真澄の生酒、二次会はカラオケ付き。今までの奥志賀とは趣きのちがう温泉の大ホテルらしい雰囲気となった。たまにはこんな場所も悪くない。

    
 

6月6日 鹿教湯・三水館

HP時代の仲間、川島夫妻、小泉夫妻と鹿教湯の三水館に行った。情報誌・自遊人で評判高い宿。三夫妻とも職場結婚なので妻同士も知り合い。大阪にいた頃は住まいも同じ緑地公園だった。その頃から子供を連れてのスキー旅行が恒例となったが、子供も大きくなった今は、夫婦での温泉が定番になっている。
私たちは二回目だが、川島、小泉夫妻にとって三水館は初めて。鹿教湯の温泉街から少し離れた山の中にあり、静か。露天風呂からの緑と青空は格別だ。
湯上りに庭に面したベンチで飲む生ビールは格別。夕食はわれわれだけの広い部屋、出てくる料理も定番ではなく、グラタンなど温泉旅館らしくない一品が多く、みんな満足。こんな旅はまたやりたいねとそれぞれ部屋に戻った。

    
 

6月3日 早慶戦

5月の早明戦に続いて、卒業以来初めて45年ぶりに早慶戦を見に行った。
昨日土曜は信濃町から神宮球場に向かった。「小田さん」と呼ぶ声に振り返ると、IBMにいた加藤さん。理工学部建築科出身の先輩だ。孫家族と見に行くので待ち合わせしているという。別れて、球場に着くと応援席に入れた。席への階段を上っていくと、「○○、新潟県立村上高校出身」などと応援席から聞こえてきた。「オヤ、早稲田の応援団に村上の学生がいるのかと驚いたが、応援席へ行ってみると、なんと「若き血」を歌っているではないか。試合前の交歓で慶應の応援団が早稲田に来てやっているのだ。「村上高校」は慶應の学生らしかった。華やかな応援は昔と変わらない。今日は毎イニング、いろいろな応援歌を歌う。しかし半分以上は知らない歌だ。昔の「ソモ慶應や、何ものゾー!」など軍歌調は消えていた。チアガール、ブラスバンドも大半は女子という状況では仕方ないのだろう。この日は負けた。
翌日曜、地下鉄の神宮前から行った。こちらは慶應応援に行く人が多いらしい。慶應スポーツという新聞を買い、この日はバックネット裏に入った。三塁側慶應の応援もよく見える。後に陣取った人たちは慶應出らしく、春の早慶レガッタで勝ったことを喜んでいた。ワセダの攻撃で、早稲田応援団が「がんばれ、がんばれワセダ!」と叫ぶのを聞き、「がんばれ」は守備のときに使う応援フレーズだ、おかしいと憤っていた。慶應にも早慶戦オタクがいることに驚いた。ネット裏はビールが飲めるのがよい。今日はホームラン攻勢で早稲田が快勝したのでさらに美味しい。

    
 

【上へ戻る】

5 月

5月26日 今年の山菜

春の訪れが遅かったものの、その後の回復は早かった。もうこの日あたりになるとタラの芽やコゴミは終わっていた。花の木ご一行の恒例・山菜ツァーも採れそうな山菜と場所の確保に苦労する。前日に下見した場所に案内する。
ハリギリはあかしあ3号線、フキノトウはスキー場と目安をつけた。スキー場を下りながら、コシアブラを見つけたようで、大工の吉田さんが登っていっぱい採ってきてくれた。初めてのコシアブラである。先週行った奈川にはいっぱいあったのに、蓼科界隈ではお目にかかったことがなかった。これで毎年の楽しみがひとつ増えた。夜は山菜の天ぷらに鶏の水炊きで、お酒が進んだ。

    
 

5月23日 早明戦

東京にいると暇である。春の六大学野球で早稲田の優勝がかかった早明戦を見に行った。神宮に来たのは40年ぶりくらいでないか。早慶戦の早稲田の応援席は1塁側と決まっているが、今日は珍しく3塁側だった。学生応援席に入れるということで、久々に応援も体験してみることにした。メガホンを渡され、野球部員や応援の仕方が載った冊子も渡された。応援団の指揮に従って行動せよと書かれている。昔の応援は攻撃の回にはいろいろな応援歌をメドレーで歌ったものだ。しかし今日は、毎回、紺碧の空一本槍だ。合間にコンバットマーチなど、応援フレーズが入る。応援部も女性が増え、チアガールがとても目立つ。
指揮する応援リーダーも、昔のまさに応援団という雰囲気の学生ではなく、髪をきちんと分け大企業のエリート社員のような学生だ。ずいぶんと変わったものだ。試合は早稲田が点をとると明治がすぐ追いつくという好ゲーム。延長10回、早稲田のキャプテン佐々木のヒットで勝ち越し、決着した。優勝のお祝いはすべて早慶戦の後ということで、あっさりと応援は終わった。楽しかったが、とても疲れた。

    
 

5月20日 野麦峠まつり

野麦峠は飛騨と信州を結ぶ道。富山から松本へ鰤を運んだので「鰤街道」とも呼ばれる。明治時代、諏訪の紡績工場で働く女工さんを飛騨地方から大量に雇い、彼女たちが越えてきた「ああ野麦峠」で有名。女工さんは小学校出たての12才くらいの少女も多く、早春の峠道はまだ雪深く、かすりの着物にわらじ履きの服装は寒く、過酷な峠越えだった。遭難者も出たり、工場で働いていて病に倒れ、背負子に背負われ故郷に帰る娘が峠で乗鞍岳を前にして「飛騨が見える」と言って、息絶えた話など、悲劇の道でもある。
そんな昔を偲んで、毎年、信州側の奈川の小学生、中学生が絣の着物にわらじ姿で峠を目指して歩く行事が行われる。それが野麦峠まつりだ。子供たちの後ろについて、1.3Kの山道を歩いた。旧野麦街道の入口あたりは遅い桜が咲いていた。「山一製糸」という幟を先頭に昔姿の子供たちや大人が峠道を上っていく。諏訪の紡績会社は盆や正月にはこうして乙女たちを飛騨のふるさとに送り届けたのだろう。そして休みを終えるとまたこの道を諏訪に向かって働きに行ったことだろう。飛騨側では「過酷な環境で働き耐え忍ぶ娘たち。それもすべて家のため」と、女工哀史として見る傾向が強い。一方の信州側では「彼女たちの働きで、貧しい飛騨の人たちの暮らしをどれほど向上させたことか。労働環境も彼女たちのための福利厚生施策に力を入れた。
現存する片倉館という温泉施設は、片倉製糸が女工さんのための温泉保養施設として作ったものだ。中には体を悪くして可哀想な娘もいたが、総合的に見れば、飛騨の生活は娘たちの努力でよくなったはず」と、経済的視点で評価する。本来ならこの催しも飛騨側の人たちと一緒にやるべきものと思うが、このような視点の違いからか、信州奈川の祭りになっていることは残念だ。1時間かけて登った峠にはまだ雪が残っていた。祭りの会場の露天には飛騨側の人たちも店を出し、「信州そばより美味しい飛騨の蕎麦だよ〜」と叫んでいた。

       
 

5月8日 富士見高原療養所

”風立ちぬ、生きめやも・・・”で有名な堀辰雄「風立ちぬ」や「菜穂子」の舞台になった富士見高原療養所。結核患者が療養するサナトリウムである。ストレプトマイシンが出る前の結核治療は「良い空気の所で、太陽を浴び、良い物を食べる」ことが最良の治療法だった。戦前から戦後しばらくまで、この富士見高原のサナトリウムにはおおぜいの患者がいた。お金もかかるので、比較的裕福な人でないと入れなかったので、作家や実業家なども多かったという。
堀辰雄も婚約者の付き添いとして来ていたが、後には自分も入院することになった。竹久夢二、藤沢桓夫、横溝正史、岸田衿子など文人もここの世話になった。このような歴史的こも有名な療養所の建物が7月いっぱいでて取り壊されると聞いて、あわてて出かけた。今は富士見高原病院の中のひとつの建物になっていて、2階は資料館になっている。昔は病室や診察室として使われていた部屋に、この療養所の歴史と有名人患者の思い出などが紹介されていた。事務長のような立派な紳士が、ひとつひとつ丁寧に説明してくれるのには恐縮した。「堀辰雄は女たらしだった。それも金持ちの娘ばかり。ここに入院して亡くなった婚約者の矢野綾子もそのひとりだった。そこへ行くと、竹久夢二は、派手に見えるが、女性関係は純粋だった」と、わが敬愛する堀辰雄には手厳しい。これにはガックリした。記念すべきこの建物を移築保存する動きもあるようだが、すべては金次第とのことだ。無くなるのは残念である。

    
 

【上へ戻る】

4 月

4月8−18日 桜三題
  井の頭公園(8日)

昨年は震災で流れた井の頭公園の中々連花見、今年は実施。ちょうど満開になり、天気も晴れで絶好の花見日和。吉祥寺駅から公園への道は朝から人でいっぱい。いつもの場所、池の反対側へ渡る弁天橋も大渋滞。それでも連長が朝早く確保してくれたスペースはゆったりしていた。昼過ぎから三々五々集まってきた踊りのメンバーも20人くらいになり、花見の宴は盛り上がった。
頃合いを見計らい、阿波踊り開始、鉦や太鼓は止め、笛と三味線で踊った。これまでは警備員が「踊りはダメ」と止めに入り、そのたびにひと悶着あったが、今年は全然来ない。我々が踊るだけでなく、周りの花見客も飛び入りで入り、盛り上がり、皆な楽しんでいるのだから、何が悪い!というのが我々の論理で、毎年、警備員ともめていたのが、今年はそれもなく、とても楽しい。満開の桜の下で夕方まで飲み、踊り、楽しんだ。

    
 

  新宿御苑(12日)

井の頭公園から数日後、ザ・ニュースペーパーのライブを見に行く前に、新宿御苑に立ち寄った。公園内ではアルコール禁止とかで、入口で手荷物検査をやっていた。前の中国人の娘さんたちは酎ハイ缶を取り上げられていた。可哀想。満開をちょっと過ぎ、桜吹雪舞っていたが、この雰囲気もまた良い。しだれ桜はちょうど見頃、平日の夕方で人出は多く、外人の姿も多い。公園の外のビルを背景に咲き誇る桜、江戸の時代、ここは高遠藩の江戸表屋敷、昔と今がみごとに調和した感じだ。ここの桜を見て、甲州街道を高遠に帰った殿様は、城郭で再び高遠のコヒガン桜を愛でたことであろう。今年の高遠の桜の満開は22日であった。

    
 

  山高神代桜(18日)

蓼科に行く途中、中央高速の須玉で下り、甲州街道に出て、山高神代桜を見に行った。いつもの年なら4月初めが見頃らしいが、今年は遅いと聞いていた。
実相寺という寺に咲く、樹齢2000年とも言われる日本でもっとも古い桜。
何本もの支え棒に支えられているが、いっぱい咲いていた。この木の子桜も境内に育っているので、ちゃんと歴史はつながれている。満開の桜の向こうに甲斐駒ケ岳の姿も、雪の斜面を覗かせていて美しい。甲斐の山里に咲くこの桜は、武田信玄の何度にもわたる信濃攻めの行軍を見ていたことだろう。

    
 

4月19日 山荘の早春

この春の山荘は、モミの木の防鹿網張りで始まった。蓼科にも日本鹿やカモシカが増え、その食害に悩まされるようになった。アナベルも花が蕾のうちに食べられ、咲かなくなった。去年は、網をかけ花が咲き始めた頃、網を外したら、その咲き始めた花を食べられてしまい、残った花は3ケだけという悲惨さだった。
そしてクリスマスツリーから育ったモミの木の樹皮が次にやられた。樹皮をはがして食べるため、樹の芯が出てしまいこのままでは枯れてしまう。これには網を張り、鹿の侵入を防ぐしかない。雪が消えた今、杭と防御網を農協から買ってきて張り巡らした。隣に新しい別荘の建築工事が始まった。数本の木を切って、丸太にして積み上げてあった。欲しいなと思い、工事をやっている作業員に聞いたが、「わからない。きちんと切っているから、薪ストーブに使うのではないか」と言う。残念。

    
 

4月22日 中山晋平記念館

奥志賀での春スキーの帰りに信州中野の中山晋平記念館に寄った。昔は新野村という小布施に近い山里だった。飯山に近い豊田村は「故郷、おぼろ月夜」の作詞家・高野辰之のふるさと。どちらも今は、中野市に合併されたので、奇しくも日本の代表的な作詞家と作曲家を輩出した市になった。中山晋平は何となく早稲田大学に縁のある作曲家と思っていたが、記念館に来てわかった。早大教授の島村抱月の書生となり、東京音楽学校を出て、カチューシャの歌、ゴンドラの歌などを世に出し、早稲田出の北原白秋、西條八十、相馬御風の作詞で数多くの唱歌、童謡、民謡を世に出した。御風は新潟出身なので、十日町小唄など民謡だけでなく、新潟県内の学校校歌も数多く晋平は作曲していた。私の村の近くの岩船や女川の小学校の校歌や女房が出た新潟鏡が淵小学校の校歌も作っていた。早稲田だけでなく、新潟にも縁の深い作曲家だった。

    
 

【上へ戻る】

3 月

3月26日 思いがけない新雪

3月末なのに、真冬なみの雪になり、それも軽い乾燥粉雪。
スキーヤーにとってはこのうえない日になった奥志賀。いつもなら帰るだけの最終日なのだが、新雪滑りを楽しむことにした。
朝早くの奥志賀エクスパートコースは人も少なく、新雪はたっぷり残っている。雪が舞う中を、快適に滑る。昨日まで、足に抑えが効かなくなってきたようで、この斜面はスピードが出て怖かったが、
今朝の新雪の斜面は、降り積もった雪でほどよくスピードが抑えられ、スムーズに滑れる。ゴンドラ下の斜面も楽しい。
隣の焼額の奥志賀ゴンドラへ連絡する斜面は、さらに人が入っておらず、新雪たっぷりだ。ここもほどよいスピードで、雪の中をターンする。スキーに情熱が薄れたとはいえ、こんな日の快適な滑りをすると、また意欲が出てくる。4月末に打ち止めの春スキーをやることにして奥志賀を離れた。

3月16日 野沢温泉・住吉屋

奥志賀を下りて、唱歌「ふるさと」の作詞者・高野辰之氏の生家を見て、野沢温泉に来た。
泊まりは住吉屋、名旅館の呼び声高い宿である。スキーはやらない。温泉ざんまいだ。雨が降っていて外湯めぐりはあきらめ、内湯でゆっくり体を温めた。風呂上がりはコタツで夕食まで昼寝。
楽しみの食事は取り立てて豪華ではないが、一つ一つ味がある。ジャガイモを千切りにして甘酢で合えたものが出てきた。食べてみて、思い出した。これは小さい頃の冬によく食べた味だ。
新潟の田舎も雪深く、冬の食事は保存できる野菜が中心、ジャガイモなど常食だった。甘酸っぱい白いジャガイモの千切り、冬の味。すっかり忘れていたが、ここ住吉屋で食べて、故郷の冬の食卓を思い出させてくれた。名旅館というのは、至れり尽くせりのサービスではない。こんな素朴な料理を出してくれることや、さりげない気配りだと思う。
帰宅して、忘れ物ですよと、妻が置いてきた洗顔スポンジを送ってきた。奥志賀のブルーエの洗面台にあった物で、どうってことない物なのに、わざわざ送ってくれた。こんな気配りが「また行きたい」と思わせるのだ。

    
 

3月15日 奥志賀のスノーシュー

今日は時折、日が指すが雪も少し舞う。三輪さんと奥さんも一緒に、スノーシュー・ハイキングに出かけた。
グランフェニックスでスノーシューを借り、奥志賀のゲレンデ沿いに少し歩き、森の中に入っていった。しばらく林の中を下ると、歩いた後のトレースがあった。昨日あたりにスノーシューをやった人がいたようだ。それを追いかけ、登っていくと、堰堤のような所に出た。トレースは堰堤を越え、対岸の林の中に登っていく。我々もそれを辿った。ほどよい深さの雪、歩きやすい。白樺と岳樺が混じる林は日がさすととてもきれいだ。尾根に上がり、それ沿いを少し下ると、林の切れた所に出た。風も強くないので、そこで昼食をということになった。三輪さんが雪を踏み固めて、テーブルのような形にした、その真ん中を掘り、ストーブを置いて、湯を沸かして、スープを作った。シャンパンで乾杯し、持ってきたサンドイッチを食べた。
スノーシューの至福のときである。時折、風が吹いて雪を巻き上げるが、春近い日差しは暖かい。食べ終わって、ちょっと下ったら、保養所の地区に出た。ここからは自動車道を歩いて帰ってきた。
2時間ちょっとの歩きだったが、とても楽しかった。

    
 

3月14日 オーベルジュ・ブルーエ

奥志賀のペンション・ベルサルームズがオーベルジュ・ブルーエに大変身したこの冬、初めて泊った。部屋の設備もよくなり、料理も岸シェフのフランス料理と、衣替えしたが、値段も高くなったため、お客が減り、大変と聞いていたので、ささやかながらの妻と一緒の応援宿泊だ。噂のラグジュアリールームに泊まり、展望風呂も楽しんだ。奥志賀の高原に広がる山並みと別荘地を望める展望風呂は素晴らしいのだが、お湯を張るとガラスが曇り、肝心の景色が見えなくなる。ローラーでガラスを拭いてもすぐ湯気で曇ってしまう。夏なら展望を楽しみながら入浴できるだろうか?
もうひとつの噂のフレンチ・フルコースの夕食。前菜二品、スープ、魚料理、肉料理、デザート二品と、盛りだくさん。ひと皿の量は少なく、どれも美味しく頂ける。それでもフルコースが終わると、おなかいっぱいだ。さすがに岸シェフが自慢のコースだけに素晴らしい。一度来て満足された客はファンになってまた来るそうだ。
志賀高原に行ったら、ぜひ寄っていただきたい。

    
 

【上へ戻る】

2 月

2月24日 苗場の今

友人のまた友人が所有しているマンションに泊って苗場で滑った。苗場でちゃんと滑るのは、20年ぶりくらいかもしれない。
ゴンドラができたとき、神楽三俣からちょっと来たことはある。一番の気がかりは、客の減り方だ。平日でもあるし、1月に行った岩原のように閑散としているのではないかと危惧していた。
天気はガスが上がりつつあり、だんだん良くなってきた。いくつかのリフトやゴンドラは運休しているが、筍山のてっぺんまでに行くルートは確保されている。それらのリフトやゴンドラには長い行列があった。昼食に入ったカフェテリアも席を探すのに苦労したほど、いっぱいだった。さすが苗場!昔の賑わいには及ばないが、結構賑わっている。明日の土曜になれば、もっとスキーヤーは多くなるのだろう。肝心のスロープは、このところの雨の影響か、ガリガリで滑りにくいが、それでも谷間越しのコースは人も少なく、初めはファーストランのような圧雪したばかりの斜面を気持ちよく滑れた。久しぶりの苗場は楽しかった。友人との酒も楽しかった。

    
 

2月22日 Positive Off

Positive Offセミナーに参加した。観光庁主催で日経が後援している。Offは休むこと、Positive Offとは、「積極的に休みをとろう」ということである。なぜ観光庁が主催するかというと、休暇をとって旅行して、日本の観光を活発にしたいという狙いがあるようだ。
欧米は夏も冬も長期に休んで、バカンスを楽しむというのが一般的だ。日本も有給休暇を消化して、ワークライフバランスを活性化させたい方向だ。Positive Offを推進する協議会もあり、今日の催しも経団連と連合が後援する、労使一体の運動のようだ。と言っても、休暇の消化は個々の会社と個人に任されているので、そう簡単ではない。高島屋や第一生命の活動なども紹介されたが、まだまだ限定的だ。法政大学の先生が「休暇をとるとらないは個人の勝手だから、それを国が後押しするのは如何なものか?」という発言もあったくらい、考えもマチマチだ。周りを見て、自分の行動を決める日本人の習性からすると、全体がそう動かざるを得ない仕組みを作ることが早道と思う。労働基準法で有給休暇取得を義務化して、罰則を設ける。これは企業にも労働者にもペナルティを課す。未消化休暇は経費計上し、利益を減らす会計制度にする。
こうすれば、会社も個人も休暇をとらざるを得ない。欧米の多くの国はこのようにして、休暇をとることを後押ししている。日本は制度だけはあるが、罰則規定がなく、当事者任せになっていることが問題なのだ。休みをとって、自分の生きる道を見つけることが、これからの日本には必要なこと。大賛成な運動ではある。
 

2月20日 エプソン水族館

品川のプリンスホテルの中に水族館がある。娘が会社の新年会のビンゴでもらった”視察券”で妻と行ってみた。ホテルの奥深く、映画館のある辺りにあった。ここには以前、「剣岳点の記」を亡くなった小林さんたちと見に来たことがあった。水族館に入ると、エイやサメが天井に泳ぐ回廊。大きなエイが水槽天井に張り付いている。お腹に目がついているのがエイ、先についているのがサメだそうな。イカの餌を食べる光景が面白い。エイは先や斜め下が見えないらしく、目の前を浮遊しているのに、サメに奪われてしまう。やっと口に入れることができると拍手が起こる。
アザラシとイルカのショーもあった。イルカは大きなプールでの演技。ビルの中によくぞ大きなものを作ったものだ。トレーナーの合図に従い、水面を飛び跳ねるたびに観客席に水しぶきが飛んでくる。終わるたびにトレーナーにすぐ近づき、餌をもらっている。この餌の上げ方で演技内容を指示しているのだろうか?都会の中の水族館は楽しい。

    
 

2月11日 入笠山ハイキング

この冬も恒例・岳文OBスノーシュートレッキングを実施。富士見パノラマスキー場から入笠山へ歩くことにした。連休のパノラマスキー場は大変な人出。
駐車場も下の方、そこからシャトルバスで上がり、ロープウェイに乗った。下り場から入笠湿原に向かった。このところ降雪もなく雪は締り、スノーシューを履く必要はなさそう。湿原への下りはカリカリに凍っていて滑りやすい。スノーシューよりアイゼンがあったら楽だったろうに。マナスル山荘から頂上への道に入った。この辺で、夏来たときのコースを思い出した。あのときはここまで車で上がってきた。今日はよく晴れていて、冬とは言えど、頂上へ向かう道は登山者でいっぱいだ。頂上からの眺めはすばらしい。ことのほか、富士見高原を挟んでの八ヶ岳連峰は美しい。風を避けて斜面の窪地で、お湯を沸かし、スープを入れ、夕べ作ったサンドイッチを頬張る。暖かいスープは美味しい。真正面に富士山がある。帰りは首切り地蔵への道を選び、途中で車道に出て、入笠湿原へ戻って来た。結果的にスノーシューは使わずじまいに終わった。帰りのロープウェイがトラブルで運行不能となり、ゲレンデを下りる羽目になった。パノラマスキー場は人工雪で硬く、急斜面が続くことで有名。ここを歩いて下るのはしんどそう。リフトの係員に聞くと、2時間か2時間半などと言う。「エラいことになったぞ」と思ったが、歩く他ない。急な斜面はカカトから下りる。後半になって転んだ。そのとき、立ち上がるより、そのまま尻セードで滑った方が楽ではないかと思った。これは大正解で、右足のカカトでスピードをコントロールしながら、下まで滑り下りた。背中に雪もそんなに入らなかった。これなら最初からやっておけば良かったと思ったほど。ゲレンデ歩きは、上から下まで1時間強だった。約5キロのダウンヒルまで歩きが追加されたので、ぐったりと疲れた。今宵の酒はうまいぞ!!

    
 

【上へ戻る】

1 月

月 28日  新雪まみれ

毎年恒例の極楽・奥志賀スキー合宿。この冬は少し少ない21名がペンション・オードヴィーに集まった。月曜から志賀高原に入っていたTony Wong家族も一緒だ。香港からの参加。エラい陽気で歌好きな夫婦だ。ギター持参で、日本の歌も結構知っていて、涙そうそうやコスモス、手紙など日本語で歌う。みんなも一緒に大合唱だ。昼はこのところの大雪で圧雪できないスロープばかりの志賀高原を滑った。ほとんど新雪滑りだ。楽しいがとても疲れる。そして宿に帰ってきて酒々でまた疲れる。四日間終ったらぐったりだった。でも楽しかった。
 

1月21日 東京支社同窓会

YHPに勤めていた時代、西新宿のセンチュリーハイアットに隣接した第一生命ビルに東京支社という組織があった。1980年代の後半の数年間、私はここにいたことがあった。その後、会社は二つに分れ、東京支社もなくなったが、良き、楽しき時代を懐かしもうと、今ではハイアットリージェンシーと名前も変わった隣のホテルに100名以上の仲間が集まった。ほとんど1990年から会ってない人たちで、20年を過ぎた今、女性も面影を残しながら、皆、歳をとっていた。業務部という女性中心の組織だったので、入れ替わりが激しく、名前を聞いて、ようやく思い出す人もいた。いずれにしても、恩讐を超えての再会はいいものだ。

    
 

1月15日 粗大ゴミ

スキーも行かず、蓼科にも行かず、東京にいると、すこぶる暇だ。以前は仕事もそこそこあったので、都心に出かける機会もあったが、やめてしまった今、東京の自宅にいるとやることがない。図書館に行って本を借り、読んで、返してまた借りる。これが日課のようになる。二日に一回、行ったことのない方角に歩いてみる。東京の家では、食事の後の皿洗いが日課になった。それでも時間が余る。都心での会合があると出かけて行くが、酒付きとなると翌日は疲れて、朝起きるのもつらい。日々の時間を過ごすことに頭を痛めるなんて、今まで考えられなかった。山荘にいれば、朝から晩まで何かとやることが出てきて忙しい。その日々が懐かしい。仕事をやめ、家でブラブラして、粗大ゴミと奥さんから揶揄される旦那の気持ちがわかるようになった。
 

月 12日  桜新町

桜新町はサザエさんの町だ。京王線・下高井戸から東急・世田谷線に乗り換えて、妻と行ってみることにした。妻にとっては初めての世田谷線、チンチン電車の趣きのある可愛らしい電車だ。環七だろうか大きな道路では電車が信号待ちする。時刻調整はどうするのだろうかと人ごとながら気になる。三軒茶屋で乗り換え、桜新町でおりた。サザエさん一家のイラスト案内で長谷川美術館に向かった。途中の酒屋さん、米屋さんはサザエさんの漫画に出てくるお店やさんだったのだろう。美術館はとても立派。長谷川町子さんが集めた平山郁夫さん等の名画を見てもらおうと造ったものだが、一画にサザエさん展示室もある。こっちが私達の目的。フクニチ時代の最初の頃のものから、最後の作品まで、その時代や長谷川一家の背景を説明していて、とても面白い。隣には長谷川家の大きな屋敷がある。姉妹社の妹さんは、今でもここに住んでいるのだろうか?
長谷川家の坂を下りた所にソバ屋があった。ここで鍋焼きうどんを食べた。
サザエさん一家もここから出前をとっていたのだろうか?

    
 

1月10日 わが久恋いの岩原

あまりにも暇をもて余すので、スキーに行きたくなった。勤めているのは無理だから、シルバーの友、久米田に電話した。日帰りならOKというので、岩原(いわっぱら)に行くことにした。岩原は学生時代に山小屋を借りて入り浸っていた所。湯沢のインターからも近いし雪も多い。久恋いのスキー場である。久しぶりに来てみて驚いた。スキーブームの頃、奥添地方向に広げた広大なゲレンデが閉鎖になっている。岩原ゴンドラも今はもうない。これだと、学生時代の頃と広さが変わらないではないか。第三リフトまでのだだ広い斜面と隣の第八ゲレンデ。
第八は急斜面なので面白いのだが、今日はガスがかかっていて中腹から上は見えない。行っても五里霧中で面白くなかった。第三からひたすら滑る。
学生時代はこれでも面白かったのだが、今はすぐ飽きてしまう。昔は芸能人の多いスキー場だった。加山雄三のお父さん・上原謙が経営する岩原スキーロッジが目玉で、ここに多くのスターが集まっていた。ザ・ピーナッツ、フランキー堺、三木のり平、芦川いずみ…、いっぱい来ていた。スキーロッジが無くなってから、普通のスキー場になってしまった。思い出だけはいっぱいある。
とても寂しく、悲しい気持ちでスキーを終えた。「いい時代だったなあ・・・」
 (写真左・昭和30年代の岩原スキー場、右・その当時の岩原スキーロッジ)


    
 

【上へ戻る】