WRC ワークプレイス・リサーチ・センタ
小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
ゲストハウス
ゲストハウス トップ
山荘はこんなところ
山荘での過ごし方
山荘の設備・備品
交通案内(アクセス)
周辺地図(検索)

蓼科日記

ご利用案内

小田山荘ゲストハウスはワークプレイス・リサーチ・センター(または小田毘古個人)関係以外の方のご利用 はできません
ご利用料金について
ご利用状況
利用申し込み
変更・キャンセル

蓼科の情報

蓼科・東急リゾートタウン
周辺観案光内 (リンク)




ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。
毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2013年>


 
[1月] [2月] [3月] [4月] [5月] [6月] [7月] [8月] [9月] [10月] [11月] [12月]

 <2004年> (2004年分は、こちらからリンクします。)

 
<2005年>
 (2005年分は、こちらからリンクします。)

 <2006年> (2006年分は、こちらからリンクします。)

 2007年> (2007年分は、こちらからリンクします。)

 <2008年> (2008年分は、こちらからリンクします。)

 <2009年> (2009年分は、こちらからリンクします。)

 <2010年> (2010年分は、こちらからリンクします。)

 <2011年> (2011年分は、こちらからリンクします。)

 <2012年> (2012年分は、こちらからリンクします。)

 <2014年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

 <2015年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

 <2016年> (2016年分は、こちらからリンクします。

 <2017年> (2017年分は、こちらからリンクします。

 <2018年> (2018年分は、こちらからリンクします。
 


 

2013年

12 月
12月28日 駐車場作り
暮れから新年にかけて山荘を使う人が現れたので、到着前に水入れと駐車場作りをしなければならない。この二三日に雪が降り、30cmくらい積もっていた。水入れはトラブルなく、お湯も出るようになった。駐車場も積もったばかりの雪でやわらかく、シャベルで投げるのは楽だった。昨日は私の一台分をつくり、今日はお客用のスペースの雪をかいた。新年を迎える玄関のお飾りと鏡餅をスーパーで買ってきて、飾った。これでお正月らしくなってきた。お正月に使う人がくるのは、四、五年ぶりのような気がする。

      
 

12月23日 古希になる
今日で私は70歳、古希になった。天皇陛下とは10歳違い、天皇は今日で傘寿である。
私は小学校1年生を二年続けてやったほど病弱だったので、70歳まで生きるとは夢にも思っていなかった。
4年生まで、体操の授業は見学していた。今でも球技がからっきしダメなのは、覚え始めるこの時期に授業を受けられなかったせいだと思っている。5年生になったとき、冬の授業の一環で、スキー大会があった。私のふるさとは、新潟県岩船郡朝日村。山形県寄りは朝日連峰、日本海よりは数百メートルの山に囲まれた雪の多い村だ。スキー好きの先生が赴任され、スキーが冬の体育授業となっていた。全員参加で、私も何かに出なければならない。体操嫌いなので、スキーも苦手、回転は曲がれそうもないし、直滑降ならまっすぐ滑るだけだからと滑降競技にエントリーした。
当日、スタート地点に立って見ると、出だしが急でそれを過ぎるとなだらかなコースがゴールまで続いていた。私はこわかったので、急な斜面はボーゲンで滑り下り、緩やかになった所からスキーをそろえて滑ってゴールにたどりついた。他の人はというと、自信があるので、最初からスピードに乗ってスタートした。しかし、急な所からゆるくなる部分でみんな転んでしまった。当時のスキーは長靴に荒縄を巻いて滑っていたので、転ぶと靴からスッポ抜け、競技続行不可能になった。私は二位以下なしで優勝し、生まれて初めてガリ版刷りの表彰状をもらった。この自信は大きく、あくる日からは学校が終わると、毎日、その山に行き、スキーの練習をした。そのうちに体はだんだんじょうぶになり、今日まで生きてこれた。スキーが体力をつけてくれ、自分の人生を変えたと思っている。

  (写真右・二回目の小学1年生のとき、どこにいるのかはわからない)

      
 

12月14日 山荘冬景色
給湯器の修理が終わったとの知らせを受け、風呂場防水塗装の仕事を兼ねて、妻と山荘に来た。管理センターの話では雪はないとのことだったが、山荘周辺はうっすらと雪化粧していた。風呂の追い炊き機能への水入れができない。外配管をつなぐチューブが見当たらないので、風呂の追い炊き口にシャワー栓からお湯を流しこんでみたが通じない。翌日、設備業者に来てもらいやっと通じた。お湯が出るようになると、冬でも山小屋は快適だ。薪ストーブが暖まると、室温は20度を越し、寒さ知らずになる。こたつを出し、入り込むともう動けない。
正月に使いたいとのメールが入り、風呂場の塗装は中止、今やると正月までは匂いが抜けないからだ。塗ってひと月くらい経たないと正常に戻らない。来月回しにした。その代わり薪や焚きつけ木っ端を割った。薪材は寒さのせいか硬く、なかなか割れない。ゆっくりやることにした。

         
 

12月10日 おでん会
池袋で並木橋寄席というのが定期的に開かれている。三遊亭円丈門下の白鳥や天どんが常連の個人寄席である。暮れは寄席のあと、おでん会という忘年会があるので、出演者も6人と多くにぎやかだ。新作落語が中心の会だ。
おでん会は会場を移し、以前寄席に使っていた天理教の会場でやる。大鍋にあふれんばかりの具が入ったおでんだ。ふるさと村上の〆張鶴や久保田など日本酒が出てきたので、今晩はビールと日本酒を呑むことにする。寄席のあとの噺家さんと一緒の飲み会はまことに楽しい。

      
 

12月7日 奥志賀冬景色
我が家恒例の家族旅行、今年は奥志賀ブルーエとなった。ベルギー仕込のフレンチも終わるかもしれないというので、スキー抜きで志賀高原に行った。もう雪が積もり、高天原や一ノ瀬はリフトも動き、スキーヤーが多かった。奥志賀は天然雪なので、もう一降りしないと滑れない。フレンチは一品それぞれに凝った味わいでおいしい。蓼科ならもっと客が集まると思うが、奥志賀の場所にはもったいないような味なのだ。
雪の奥志賀から軽井沢に来たら雪もなく、プリンスのアウトレットは人であふれかえっていた。娘たちはショッピングに忙しく、親は車中で昼寝をしながら待った。

      
 
12月1日 最後の早明戦
オリンピックに向けての国立競技場改装に伴い、ここでのラグビー早明戦は最後になるというので、5万人の観衆でほぼ満員になった。優勝を両校で争っていた頃は5万人はザラだったそうだが、このところは低迷し、3万人そこそこが続いていた。最後ということで、両校それぞれプラス1万人増員の号令がかかったとか。その効果で、スタジアムは上段までいっぱいになった。今シーズンの力の差で、早稲田がふたつのトライを決め、18-3で快勝した。去年は最後の土壇場で1点差で負けた悔しさを晴らしてくれた。試合が終わり、松任谷由美が”ノーサイド”を高らかに歌い上げ、最後の早明戦は終わった。
来年は味の素スタジアムになるらしい?

      
 

【上へ戻る】

11 月
11月18日 早慶立歌合戦
フコク生命時代の先輩4名が来荘された。きしくも早稲田、慶応、立教の出身者ばかりだった。それではと六大学の歌のCDをかけた。クールな三森さんは慶応塾歌で乗り、何回もリクエストをする始末。中島さん、矢作さんと私の早稲田は紺碧の空と早稲田の栄光で呼応した。立教出の鏑木さんはなんと校歌もうろ覚え、応援歌に至っては知らないと言う。そこで私が助太刀。学生のころ、都の西北の次に覚えた校歌は立教だった。アルバイト先のきれいな社長秘書が立教出だったので、必死に覚えた成果が今ここで現れるとは思ってもみなかった。神宮に行かないと応援歌は覚えない。鏑木さんは一回も行ったことがないそうな。”見よ風になる・・・♪”塾歌に酔った三森さんは翌日、二日酔いでぐったりだった。

      
 

11月16日 山岳フォーラム
松本は岳都だ。西に北アルプス、ああ東に美ヶ原に囲まれた中にある。槍ヶ岳も穂高も今は松本市なのだ。そこで山を讃え、登山者を呼び込もうと毎年、山岳フォーラムという催しが行われている。今年は第三回、初めて行ってみた。
涸沢ヒュッテの小屋番の四季を描いた映画がオープニング、春の小屋堀り出しから始まり、11月の小屋締めまでのシーズン中の小屋番の仕事はきつく長い。でもみんな楽しそうに生き生きやっているのは山が好きで、涸沢が好きで、小屋が好きだからなのだ。
映画のあとは遭難実態シンポジウム、長野県警救助隊員、涸沢ヒュッテ支配人、穂高岳山荘ベテランの現実の遭難救助の話は生々しく、ヘルメットの重要性、迷いやすい所、天候判断の見極めなど、自分でも身につけておかなければならない話で参考になった。会場には山用品や地域案内のブースがあり、そこでもらった携帯トイレはヒットだった。
トイレのない山で使ってみようと思う。

      
 

11月15日 給湯器破裂
今週初めの寒さで給湯器が破裂していた。心配はしていたが、まだ大丈夫だろうと先週末帰るとき水抜きはしなかった。しかし昨日着いてみると、二台の給湯器から水がジャージャーあふていた。万事休す。もしかすと部分修理ではだめで、全部取り替えなければならないという。アーまた高い授業料になるなあ!!

      
 

11月9日 広島焼き in Tokyo
極楽トレッキング恒例の溝上さんの広島焼きが、東京でもやることになり、白須さんのマンションに集まった。マンション共用のゲストルームでの広島焼きパーティ。
7月には手に入らない牡蠣もあり、秋らしい広島焼きとなった。どこで食べてもおいしい。溝上さんには、老後は店を開けとアドバイス。引退したら自分の好きな道をやるのがいちばんとも言った。

      
 

11月6日 上高地晩秋
良い天気が続いていて一昨日松本に行ったら、無性に上高地に行きたくなった。
朝起きたら8時を過ぎていて、少し遅いかなと思ったが、車を走らせ、沢渡からバスに乗り換え、上高地に着いたら、11時半になっていた。青空の中に穂高は頂に雪を冠って、きれいに輝いていた。バス停の上の食堂に入り、山が真正面に見えるカウンター席でカツ丼を食べた。美しい眺めは食事をおいしくさせてくれる。
小梨平から梓川越しに穂高連峰をの望んだ。岳沢のどんづまりに小屋の屋根が見えた。明神池への道も、この季節歩く人も少なく、舞い散る落葉も心地よい。明神館はもう閉鎖していた。その前の公衆トイレも水抜きをして冬の準備だ。帰り道も気持ちよい。うす雲が出てきた。河童橋に戻ってきたときは穂高に雲がかかり始めていた。バスが大正池を回る頃には、山は雲の中に入っていた。

              
 

11月4日 岩波書店100周年
岩波書店の創業者・岩波茂雄は諏訪の生まれ。信州が誇る出版界の雄である。その岩波書店が創業100周年になる。それを記念しての講演会が松本で開催された。
北海道大学中島岳志先生が講演。岩波書店の店長室には明治天皇の五箇条の御誓文が掲げられていた。岩波というと何となくマルクス主義というイメージがあるが、岩波茂雄はナショナリストだったという。右翼の意味のナショナリストではなく、真に国を愛する人だという。かつ右から左まで幅広く出版したリベラリストでもあったという。
東大同期には華厳の滝に飛び込んだ藤村操がいて、彼も岩波同様の思想の持ち主だったが、行き詰った先には別世界があり、そこに進むのがベストという考えのリベラリストだった。しかし、岩波は生きてこそのリベラリズムであり、その考えの下にはナショナリズムがあると、藤村の道をよしとはしなかった。ここに大きな違いがあり、岩波茂雄の本骨頂があるのだそうだ。

      
 

11月3日 晩秋の小津散歩道
昨日のコンサートが終わり、小津の散歩道を歩くことにした。紅葉が見ごろで、歩く道すがらのもみじの赤が目にしみる。一本桜には先客もいたが、丸太の椅子を空けてくれ、蓼科山を心行くまで眺めた。プール平に戻り、郵便局の隣の喫茶店に行った。
歩かなかった荻島さんが窓辺の席で読書していた。この店は元祖の郵便局の建物だったらしい。雰囲気もあり、好ましい店だった。

      
 

11月2日 秋の演奏会
今年も秋の演奏会の季節になった。片貝さんのグループも練習を重ねたとのことで、年々うまくなる。音のはずれが少なくなり、それはそれで寂しい。久しぶりに山崎さんのフルートも加わり、演奏に重厚感が出た。観客は少なかったが、終了後のパーティで吉澤先生の「酔っ払ったので、酔いにまかせて言いますけど」でコメントした各人の演奏技術批評はなかなか辛辣だったが、的を得ているような気がした。

      
 

【上へ戻る】

10 月
10月28日  ここが二重橋♪
丸の内街で花展をやっていると言っていたので、行ってみたが、それらしきものは見当たらない。聞くと、先週の台風で中止になったとか。せっかく遠出してきたのに。妻は二重橋に行ったことがないと言う。それでは「ここが二重橋♪ 記念の写真を撮りましょね♪」と向かった。
結構、外人さんが多い。テンノーパレスはフジヤマと並ぶ観光名所なのだろう。このあと日比谷公園で壁掛けの花展を見て帰ってきた。その後”ここが二重橋”の島倉千代子さんが亡くなった。私の島倉さんの思い出といえば「カラタチ日記」。中学3年のとき、修学旅行で東京に来て、最後の観光が浅草国際劇場。SKDの春のレビューを見て上野から夜行列車で帰る日程だった。当時はレビューと映画上映があった。そのときの映画が「カラタチ日記」。♪カラタチ、カラタチ♪のメロディと山形勲の手拍子に合わせて、高千穂ひづるの芸者が逆立ちをして、着物の裾がそろり、そろりとひざへ下がり、さらに下がり、もうひと息というところで画面が切り替わった。純情多感な中学生には衝撃的な映画であった。今おもえば、引率の先生はハラハラしてたんだろうな。島倉千代子さんのご冥福を祈る。

      
 

10月24日 八ヶ岳博物館
蓼科界隈にはいっぱい博物館や美術館があるが、どれも行ったことがない。そこで手始めに八ヶ岳総合博物館に行ってみることにした。諏訪理科大の近くにあった。鉄筋の立派な建物で、入り口には御柱の注連縄もあり、茅野らしい。中は八ヶ岳の生い立ちと自然が中心だが、興味を引いたのは蓼科山から農業用水を茅野周辺まで引いたせぎという用水路開削に力を発揮した坂本養川という人物の存在だった。高島藩の内紛で幾度となく拒否されたが、根気よく陳情を重ね、茅野から諏訪一帯の山の水を引いて農業発展の礎を築いたという。偉い人物も茅野にはいたのだ。

      
 

10月23日  奥志賀紅葉
川島さん夫妻、小泉夫人と奥志賀ブルーエの料理を食べに出かけた。種類もおおく、ひとつひとつ相変わらずおいしく、堪能した夜だった。
翌日は生憎の雨模様だったが、軽井沢に行く三人を見送ってから、われわれは秋山郷へ下って行った。この道の紅葉がすばらしく、妻は「こんなすばらしい紅葉は初めて」と興奮した。確かに道を覆うもみじは色鮮やかで美しい。下りると紅葉は未だのようだった。秋山郷の小さな集落に迷い込んだりして思わぬ時間をとられたが、なんとか栄村の入り口に出て、帰ってこられた。

      
 

10月17日 きのこ狩り
今年はきのこの当たり年というが、蓼科界隈はそれほどでない。二三日前にきのこそばにでもとハナイグチ探しに出かけたが収穫ゼロだった。去年採れたあたりは皆無だった。
きのこ師匠の吉田さんと病院女性看護士さんご一行と聖光寺で待ち合わせして去年クリタケがいっぱい採れたというゴルフ場向かい側の草原を探した。思ったほどではないが、それでもクリタケやイグチが採れて、何とかきのこ鍋ができた。
翌日、吉田さん、中島さんと八子ヶ峰に登った。キノコは目的ではなかったが、習慣化した目線で尾根筋の草むらを見ると、花イグチがあった。稜線にもあるのでびっくりした。それ以上の収穫は山ぶどうの実だった。先の台風で倒れたらしい木が道をふさぎ、その木に山盛りのぶどうの実があった。それを三人で摘み取った。ふたつのビニール袋いっぱい。吉田さんの友人に持っていって、ぶどう酒を造ってもらうという。楽しみが増した。

      
 

10月13日 薪材 作り
今村さん夫妻は薪作りの達人だ。足柄の自宅の暖房は薪ストーブだけというだけあって、薪集めから薪作りまで、二人でこなしてしまう。この山荘の薪ストーブで大変お世話になった。今回も先日配達された薪材をふたりで二台のチェーンソーで薪の長さに輪切りしてくれた。私の何倍ものスピードだ。輪切りされた大きな薪材には縦にチェーソーで割れ目を入れ、マサカリで割れやすいようにもしてくれた。私はそれをマサカリで割るのだが、中々はかどらない。しかし今村さんがやると、ばっさりと割れるのだ。”師匠、おみごと!!”と声をかけたくなる。昼食は今村さんの奥さんが持参されたビーフシチューやオードブルで楽しくおいしい時間となった。

      
 

10月11日 薪材下ろす
山荘の薪もかなり少なくなった。これから2、3シーズン分の薪材を調達した。外構工事をやってくれた岡田工務店が薪材も扱っているというので、頼んだ。今朝、起重機つきのトラックに載せてやってきた。
二回に分けて、丸太を駐車場から階段下にソロリ、ソロリと下ろした。トラックの後ろが丸太の重さで上がってしまうとかで、二回目の下ろしは屋根の下に下ろした。こんどは薪材をチェーンソーでストーブに入る幅に切り、そのあと、マサカリで割り薪にする仕事が待っている。しばらく、忙しくなりそうだ。

      
 

10月3日 おけいさんメモリアル

桧枝岐から新潟に向かう途中、会津若松に立ち寄った。この夏行ったカリフォルニアのおけいの墓の記念碑がここにもいあると聞いていたので、駅の案内所で場所を聞いた。背あぶり山の公園にあるという。
東山温泉近くから背あぶり山スカイラインに入り、上ること十数分、OKEI MONUMENTという標識があった。それに従って歩くとすぐ、黄金が丘(Gold Hill)という大きな石碑が現れた。その上にカリフォルニアで見たと同じ、おけいさんの墓があった。レプリカにしたとのこと。墓からは会津若松の町が一望できる。
カリフォルニアの開拓地の丘に毎夕登り、はるか西の空を見つめ、ふるさと会津を偲んでいたというおけいさん。ここならいつでも若松の町が眺められる。寂しいがロケーションは最高の所だ。

      
 

10月1日 東電小屋は何県?
秋の尾瀬に行きたいと妻のリクエストで、蓼科小津安二郎映画祭のあと、奥只見経由で尾瀬に入った。
まだ歩いたことのない裏燧コースを歩いた。三条の滝へ続く道だ。草紅葉の田代は美しく、木々も赤くなり始めていた。滝からは温泉小屋に出て、今宵の宿、東電小屋に向かった。東京電力の小屋である。
尾瀬は只見発電所の水源なので、70%は東電が所有している。尾瀬の木道もかなりの部分は東電が作り、管理している。自然保護にも積極的、原発問題でどこまで続けられるか不安視されているが、尾瀬に関しては、東電抜きでは自然保護は成り立たないのだ。その只見川の源近くに東電小屋はある。
尾瀬ヶ原の中心に近い。その場所は新潟県魚沼市なのだ。尾瀬ヶ原の大半は福島県と群馬県、只見川が新潟県との県境で、源流近くまで細長い三角形が入り込み、その頂点近くに東電小屋が建っている。
そこは新潟県。尾瀬の中で唯一の新潟県に固定資産税を払っている小屋なのだ。

      
 

【上へ戻る】

9 月

9月27日 晴れた日は大洗濯
先週末は8名のお客が山荘を使った。その洗濯物干しは壮観である。晴れたので、一階と二階のベランダをフル活用。シーツ、布団カバー、枕カバーを干した。満艦飾の賑わいだ。晴天はありがたい。

          
 

月19日 見晴らし最高!篭の塔山
山荘の上の八子ヶ峰は信州の山の展望台。そこに冬の晴れた日に撮影した写真があり、主な山の名前が表示されている。それを制覇するのが、私の山歩きの目標となっている。7月に行った経ヶ岳もそのひとつ。残すは浅間山の近くにある篭の塔山と戸隠山とその隣にある西岳だ。今日は篭の塔に行くことにする。このところ快晴の日が続いているので、登山日和だ。湯の丸高原から高峰温泉に続く道路を入り、池の平に車を置くと、頂上までは30分強で登れる。やさしい山だ。小学生登山にふさわしいようで、この日もおおぜいの子どもたちが登っていた。やさしいといっても、2000mを超しているので、見晴らしはよい。八子ヶ峰より、信州の真ん中にあるので、志賀高原など目の前に見える。万座温泉の赤茶けた湯元も見える。八ヶ岳は右端が蓼科山で左へ天狗、赤岳と続く。八子ヶ峰からとは逆だ。上田の市街地も眼下だ。高峰温泉からの縦走路、水の塔山を越えて小学生がたくさん歩いてくる。篭の塔の頂上近くなったら、バラけて走り出す子も出てきた。先陣争いのようだ。「いちばん!!」、「二番!」、「女子いちばん!!」などと歓声が頂上に響いた。楽しい山でもある。

      
 

9月18日 謎は解けた?蓼科山の怪
昨年の7月、極楽トレッキングで行った蓼科山、天祥寺原への下り道で正規の道でない所へ入り込んだ三名、無事下りてきたというものの、一時は遭難ではないかと大騒ぎした一件があった。その迷い込んだ道を検証に快晴のこの日、出かけた。
竜源橋から天祥寺原に向かい、ここに出てきたのでは?の沢を上がってみることにした。沢の左手に赤い布が点々と見える。それを辿っていけば、迷い道に出ると思った。しかし数枚目の赤布は営林署の雨量計のような所で終わっていた。その先に踏み跡はない。そこで天祥寺から正規の登山道を登り、三人組と最後に別れた沢筋の河原まで行った。彼らは河原を下るのはイヤで、右手の林に入る道を見つけそこに入っていったと言っていた。しかしそんな道はない、踏み跡すらない。木と木の隙間がしばらく続いているところはある。そこではないかと入っていった。しかしほどなく藪になってしまい、踏み跡らしいものはない。それでも林の中を枝をくぐり抜けていくと、右手の林の向こうに湿原のような原っぱが見えた。そこに出てみると台地状の草原だった。前方に北横岳の崩落地が見えた。原っぱの真ん中に杭が立っている。道しるべかと近づいたが何も書いていない棒切れだ。でも何かの目印として立てたことははっきりしている。右下の林との縁に踏み跡のようなものが見えた。そこに行くと、踏み跡が森の中に続いていた。これかと思い、辿ると沢に出た。そこから河原の石伝いにしばらく下っていくと、先刻、歩いてみた赤い布が現れた。ここで道はつながった。「ちゃんとした立派な道を下っている。戻れとは何事だ!!」と、あのとき森さんが携帯で言っていたような道はなかったが、歩けることは確かだった。これで謎は解けたか?(その後、三人組のひとり渡辺さんに会う機会があり聞いたが、杭のある台地の草原は通っていないと言う。ではどこを通ったのだろう?ますます謎だ)

      
 

月15日 早稲グリを茅野で聞く
早稲田大学グリークラブ・男性合唱団には三年前、岳文会50周年のとき、山の歌のCD作りで歌ってもらいお世話になった。そのグリークラブが茅野市民館で演奏会をやった。諏訪稲門会の企画である。一週間前に切符を買いにいったらもう完売だった。
主催者の稲門会に聞いたら、当日売りが数枚あるという。開演1時間前に行って手にいれた。満員、小津安二郎映画祭より入っている。”都の西北”から始まり、愛唱メロディでは楽しいセリフつきの”君といつまでも”など、さばけた構成だ。
世界の歌ステージでは、”オーシャンゼリゼ”で盛り上がる。指揮は塩尻生まれ、松本深志高出身の学生で会場から大拍手。アンコールの斉太郎節はグリークラブのおはこだけに名調子。終わってロビーに出ると見送りに出た学生が”光る青雲”を歌っている。
”慶応倒し♪”のところで、床をどんどん踏み鳴らし、大笑い。最後は”早稲田の栄光”のしっとりとしたメロディで終了。アンコールからが秀逸の”早稲グリ”の演奏会だった。

      
 

9月1日 利尻岳に登る
北海道の山で行きたかった利尻岳に登った。百名山でもあるが、冬のヨーロッパ航路ではこの山の真上を通って、飛行機はシベリアへ向かう。機上の真下に見える利尻岳はとても美しかった。こんな経験もあって、「いつかは」と思っていた。
札幌の小野さんが指導している遊悠倶楽部が登るというので、それに入れてもらった。前日、私は羽田から稚内に飛び、フェリー乗り場で札幌からバスで来るみんなと落ち合った。雨模様の中を利尻島にフェリーで渡り、夕飯早々、寝た。
朝、4時に起き、5時にバスで鴛泊の登山口に向かった。6時前に歩き始め、三合目、五合目と登っていった。標高は1700m台の山だが、スタートは標高ゼロに近いので、長く険しい。雨に降られることは覚悟の上の、本曇りの見晴らしが何もない道をひたすら登る。八合目の避難小屋では、「登っても仕方ない」とあきらめる人もいる。せっかく来たのだからあと、霧の中を登った。九合目に着き、あとひと登り、「20分くらいですか?」とリーダーに問うと、「とんでもない1時間はかかる」。「エー、富士山だって九合目に来ると30分くらいで頂上なのに」。そこからがしんどかった。急斜面に加えて、砂礫がザラザラと崩れ、足場が定まらない。左足で踏ん張り、右足を出すと両足が崩れ、バタッと両手をつく始末。それでも、空が明るくなり、霧が晴れ、沓形や鴛泊の海岸線がはっきりと見えるようになった。礼文島も見える。「良かった、来た甲斐があった」。たどり着いた頂上は回りが切り立った斜面でまさに独立峰だ。飛行機の上から見た久恋の北の端の山にようやく登った。
登り5時間、下りも4時間かかるので、長居はできない。登りが急ということは下りも急だ。転ばぬように草に、岩に、木につかまりながら長い下り道を下りた。温泉につかり、宿でのビールが格別にうまい利尻であった。

      
 

【上へ戻る】

8 月

8月24−25日 高円寺阿波踊り
東京の夏の終わりを感じさせるのが高円寺阿波踊り、今年は連日の酷暑がおさまり、涼やかな風も吹くような日和となったので、ことさら去り行く夏となった。
初日は踊っている最中にかなり激しい雨も降り、どうなることかと思ったが、すぐに止み、最後まで踊り続けられたのは幸運だった。中々連も新座のこぶし連が加わるようになって、人数はそろうようになった。ただ女踊りが安定しないのが心配だ。
一回限りで終わる女性が多い。慣れない下駄や着物が踊り続けることを躊躇させるようだ。最近、マイクロソフトなど企業連が増えてきたのは景気が少しは上向いてきたことの表しか。
2日間踊り終えて、ぢどり亭で打上げをするときが、いちばんホッとするときだ。ここでの踊りが、演舞場で踊っているときよりも楽しい(右の写真)。

      
 

8月17日 長い帰り道
夏の山荘は土曜から次の金曜までの単位で貸している。金曜に帰ったあと掃除、洗濯して、土曜に鍵を渡して、東京で予定あるときは帰ってくる。そしてまた次の金曜に出かけるというパターンが多い。この週末も日曜朝に阿波踊りの最後の練習があるので、土曜帰りとなった。お盆最後の週末なので、帰京ラッシュで中央道は相当の渋滞が予想されている。そこで、高速を使わず下の道・20号線甲州街道を走ることにした。
茅野駅前の十八番で早めの昼食にシナチクラーメンを食べ、旧甲州街道に入り、金沢宿に出、富士見を越し、槻木宿、県境を越して山梨県白州、サントリー白州工場への道を右手に見ながら、台ヶ愿宿、武川、韮崎、甲府、勝沼、笹子峠、大月、上野原、相模湖から高尾へ峠を越え、圏央道高尾山インターから北野街道へ入り、北野、平山城址公園を通って帰ってきた。
ドライブ4時間半、いつもより2時間よけいにかかったが、思ったほど混んでなく、高速料金ゼロ、ガソリンも節約できた。これに味をしめて、その後は行きも帰りも甲府昭和か勝沼から一般道、というコースをとることが多くなった。
 
8月1−7日 カナディアンロッキー豪華列車の旅
オレゴン・カリフォルニア トレイル アソシエーションの大会に出たあと、サンフランシスコからカルガーリに飛び、一週間のロイヤル カナディアン パシフィック レイルウェイズの列車の旅に参加した。昨年、この旅の存在を知り、早速申し込んだ。円高のせいか、えらく安く感じたのだが、保証金一人分をクレディットカードで引き落とされたときに、一桁間違っていたことに気がついた。数万円と思っていたのが、数十万円なのだった。二人でゆうに100万を超す。どうしようかと思ったが、清水舞台で参加することに決めた曰くつきの旅なのだ。

      
 

8月1日 フェアモントホテルから始まった
昼前にカルガーリ空港に着いたら、”ODA”の看板を掲げたスーツ姿の紳士が待っていた。ハイヤーの運転手なのだ。今夜の宿泊先フェアモントホテルまで送迎してくれる。
繁華街に近いこのホテルはカルガーリ随一の由緒ある名門ホテルだ。ここの宿泊費もツァー料金に含まれているのだ。部屋料金を見たら400ドル、豪華な旅になりそう。
夕方5時から、参加者を集めてレセプションをやるという。実はホテルと直結した所にカナディアン パシフィック レイルウェイズ(CPR)のパビリオンがあり、線路が走っている。
もともとは駅か引込み線があったらしい。このホテルもCPRが始めたもの。レセプションも明日から乗る客車の前でやる。名札をもらい、シャンパンで乾杯、世話してくれるスタッフ、シェフが勢ぞろいして、参加者を迎えてくれる。28名の参加者で、ほとんどがアメリカ人、日本人は我々二人だけ、他のアジア系もいない。明日から5日間、英語の中で顔突合せなければならない。妻はとても不安のようだ。ほんとうに快適な列車の旅になるか不安のスタートだ。

      
 

8月2日 バッファロージャンプ
CPRパビリオン8:30集合、9時出発。参加者はみな笑顔で集まった。スタッフひとりひとり笑顔の中を展望車のタラップを上がり、初めて列車の中に入った。指定された客室にスタッフの案内で向かう。かなり前の車両の一室に入った。預けたスーツケースが狭いスペースにふたつ入っていた。車内4泊に必要なものを取り出したら、置いておくようにと、荷物専用室に昼食摂っている間に移動するという。
出発時刻を過ぎてもなかなか出ない。10時近くなってようやくパビリオンを離れ、側線に入っていった。その後の発着予定が頻繁に変わるところを見ると、列車の時間管理はいい加減のようだった。旅客列車はこれだけで、あとは貨物列車だけという路線なので、ダイヤなどあってないようなものなのか?それにしてもたった28人の乗客で12両編成とは余裕たっぷりだ。後ろ3両は展望車、食堂車、厨房車、中5両が客室車、前4両がスタッフ客室、荷物車、機関車2両という編成だ。英国王室が使っていたものがメイン車両らしく、展望車にはエリザベス女王、チャーチル首相、ケネディ大統領夫妻など、この車両で旅した写真が飾られている。客室には二つのベットがL字型に配置され、周りに机、キャビネット、奥にシャワー、洗面所が4畳半くらいのスペースにコンパクトに配置されている。まさにオリエント急行と同様の構成なのだ。

          
 

車内で初めての昼食となった。4つに分かれているテーブルに6名X2、8名X2と好きなように座る。スープ、鮭料理、デザートのメニューをシェフが説明、それに合わせて供されるワインをツァーマスターが説明する。スープには私の好きなオーストリアの白ワイン、鮭料理には先日までいたオレゴンの白という風に、きめ細やかなセレクションなのだ。白ワインなら何でもよいという、我らがセレクションとはまるで違う。我々の前に座ったのはテネシーから来たスチュワート夫妻、旦那のロブは「旅客列車を増やす会」の会長さん。
来年の夏に日本に来て新幹線にも乗ると言う。汽車好きらしく、展望車の常連だった。
バロンという駅(と言っても標識も何もない所)で下り、バスに乗り換え、バッファロージャンプという世界遺産の地に向かった。アルバータの大平原にある崖が舞台、西部開拓のもっと前の時代、ここに住む原住民は平原に群棲するバッファローをその崖に誘導、追い詰めて自然に崖から落下させ、捕獲したという狩りの場だった。その歴史と狩りの実態を紹介する場所がバッファロージャンプだった。まさにバッファローが崖からジャンプした場所だ。その後、鉄砲が登場し、狩りのやり方が変わってしまい、昔の崖からジャンプさせるやり方は廃れてしまったようだ。しかし世界遺産として、この地の歴史は語り継がれることとなった。とても興味深い場所だった。雨模様の平原をバスで列車に戻り、再び走りだした。今晩はCowleyという村の停車場にひと晩、止める。ディナーは昼からさらに充実したフルコース。デザートワインまでついて、今晩は4種類のワインだ。食事もワインもおいしい。窓外は雨。

      
 

8月3日 25年ぶりのグレイシャー国立公園
アメリカとカナダにまたがるグレイシャー国立公園はカナディアンロッキーの一部でもある。下の娘が妻のおなかに宿した25年前に来たことがある。カナダの部分はウォータートン国立公園と呼ばれている。ここにもその時、国境を越えてモンタナから車で来た。
今日はそのウォータートンへバスで行き、船でアメリカ側に入るという。昼食は船の中でサンドイッチとのこと。トレッキング同様、サンドイッチを持参するのかと思いきや、コックとウェイターも大きなアイスボックスを持って、バスに乗り込んだ。船の中で作るのだ。
湖は雨に煙っていた。雨の中、アメリカ側に入り湖岸のレンジャーステーションに着いた。両国の国旗が並び、ここは共同管理の場所、パスポートは不要だった。国境線は湖の両岸の山肌が一定間隔で山頂から湖岸に一直線に伐採されていた。帰りの船の中でサンドイッチが調理され、ウェイターが席まで飲み物とともに持ってきてくれる。ツナとターキーのサンドとポテトサラダ、とてもおいしい。小高い丘に建つ瀟洒なウォータートンロッジに立ち寄り、列車に戻り、今宵の宿泊地、Cranbrookに向かった。
ディナーのメインはラム、この日あたりから、食事もワインも少し重く感じるようになった。ビールがすこぶる飲みたくなり、ウェイターのフランクに聞くと「イエス、サー!」と早速、カナダのビールを持ってきてくれた。おいしい。

      
 

8月4日 ゴールデンへ汽車は走る
Cranbrookはそこそこ大きい町のようだが、駅らしいものは見当たらない。貨物線が何本も並んでいて、その端の線に我々の列車は停まっている。その隣がCPRの汽車博物館だ。朝食後、そこに見学に出かけた。カナダを走っていた古い車両、寝台車などが展示されている。ロイヤルカナディアンの歴史的豪華列車に乗っている我々にとっては、動く博物館に乗っているようなものなので、あまり興味がわかなかった。
列車に戻るとタラップを上ったところで冷たいカクテルをスタッフが持って待っている。暑い日差しを浴びたので、のどが渇き、ビールを所望したら、ビールカクテルを持ってきてくれた。これはこれで甘く、ビールの味もありおいしい。列車はCranbrookを離れ、昼食のあとは部屋の窓から流れる景色を楽しむことにしたが、昼のワインが利いたのか、ベッドの中で眠ってしまった。目が覚めたら、妻は怒っている。「景色を楽しむために列車に乗ると言っていたのに、寝てばかりいる」と。触らぬ神に祟りなしと、客室を出て、隣の車両との連結部に行った。ここにも椅子があり、車両の間から両側の景色を楽しめる。ブリティッシュコロンビア州の山間部、農場や牧場が続き、川沿いの線路の脇には色とりどりの花が咲き、美しい。夕暮れ迫るゴールデンの町に列車は静かに入っていく。

      
 

8月5日 レイクルイーズはにぎやかになった
朝食はゴールデン郊外のKicking Horse Mountainというスキー場の山の上のレストラン。バスで向かう。どんよりとした雲が覆い、昨夜の雨がまだ残っている。冬はスキー場になるリゾートで、ロープウェイで上る。乗るとき、係員が「上は晴れている」がにわかに信じられない。同じ車両には仲良くなったカナダ・オカナガンバレー出身の夫妻、奥さんは鉄道員の娘で、線路の脇で育ったというテツキチおばさん。明るく気さくで、何かと一生懸命世話をやいてくれる。上に上がるに連れ、雲の中を通り抜けたら、陽がさし、ロッキーの山並みが現れた。雲海の上に出たのだ。2500mの終点はロッキー山脈展望台だった。Eagle’s Eye レストランはロープウェイ駅のそば、前菜からデザートまで4種類の皿がならぶ朝からかなり重めのメニュー、さすがにここではワインはなかった。
”カナダでもっとも標高の高いダイニング”が謳い文句だ。食事を終え、周りの景色を堪能して下山。麓も晴れて、青空が広がり始めていた。今日のコースはレイクルイーズまでのカナディアンロッキー核心部に入っていく。展望車のデッキに陣取り、移り行く景色を眺めた。灰濁色の川の流れが氷河からのものであることを示している。右に左に、流れを越えて列車は徐々に高度を上げていく。フィールズという停車場を過ぎると、いくつかのトンネルをくぐり分水嶺に出た。ここから川の流れは逆になった。
レイクルイーズの駅に着いたのは午後3時過ぎ。プラットホームはないものの、初めて駅名を掲げた駅舎があった。”駅がある!”と喜んで入ってみようとしたら、駅舎はレストランになっていた。乗降客のない駅なので、古い駅舎は本来の目的を放棄し、レストランとして利用されているのだ。駅舎の裏側に来たバスに乗り、シャトー・レイクルイーズに向かう。私にとっては三度目の訪問だ。最初は生まれて初めて海外旅行に出た38年前、二度目は家族で来た15年前。いずれも車で来たので、ここに線路があり、駅があることなど知らなかった。

      
 

ホテルの前はおおぜいの観光客であふれている。アジア系は中国人が圧倒的に多い。日本人は少数だ。1時間半ほどハイキングしてよいということなので、ホテルの前から湖の右岸を歩くことにした。ずっと列車に乗りっぱなしなので、歩けることはうれしい。
ホテルの湖越し正面に聳える山に向かって歩く。湖上には何艘ものボートやカヌーが浮かんでいる。雨が来そうな空の下、涼しい湖岸歩きは楽しい。帰ってくる人の中には山に登ってきたのだろうか、本格的な登山姿も見受けられた。ほぼ湖のどん詰まり、ここからは登山道という所で引き返した。夕方5時になっても、ホテル前の展望台にはいっぱい人がいる。この人たちは今晩どこに泊るのだろうか?これから宿を探すとなると大変だな、と心配も出てくる。私たちは再びバスで列車に戻った。
今晩は、実質的に最後の晩餐となる。Galaディナーと銘打っている。明日の夜も夕飯は出るのだが、カルガーリ到着前で慌しいので、今晩がフォーマルディナーの最後というわけだ。そこで白いシャツにネクタイを締めて出かけていった。結構、ネクタイ姿で来ていた。みんな最後の晩餐と意識しているようだ。女性もいつよりおめかしをしている。オカナガンバレー出のおばさんと席を同じにして、気楽に食べることにした。
マスのスモーク、きのこスープ、ビーフ、ワインは5種類、うち4種類は地元カナダのワインだ。おばさんはふるさとオカナガンバレーのワインが出て、大喜びだ。ひとしきりオカナガンワインのおいしさを口を極めて宣伝する。(あとで日本に2本買って持ってきた) 楽しいが、結構しんどいGalaディナーも終わり、レイクルイーズの駅で最後の眠りについた。

      
 

8月6日 バンフで買い物で終わり
今日は3つの選択肢がある。バスでバンフに行き、観光ショッピングしたあと、レイクルイーズから走ってきた列車にバンフ駅で乗る。ヘリコプター遊覧を楽しむ。そのまま汽車に留まる。カナダのテツキチおばさん夫妻や「旅客列車を増やす会」の会長さん夫妻は列車に残った。ずっと乗っていたいらしい。「暇ではないか?」とおばさんに聞いたら、読書をし、昼寝をし、トランプをすれば十分だと言う。
私たちはバス組となってバンフに向かった。途中から側道に入り、道路に出てきた放牧馬に道をふさがれたりして、バンフの市街に入った。昼食までショッピングということで、大橋巨泉経営のOKショップに入り、クッキーやメープルシロップを買った。別な店でTシャツやコースター、ここで「日本人は減っているのでは?」と聞いたら、一般の観光は減っているが、トレッキングやラフティングなど、目的を持った日本人は増えていると言っていた。日本の海外旅行も第二ステージに移りつつあるのだろうか?昼食会場のレストランにはバス組とヘリコプター組が集まった。カナディアンビールでサーモン料理を食べた。カナダは肉より魚料理が多い。午後はバスでバンフスプリングスホテルを裏山から眺めてから、ホテルに向かった。ここでもショッピング、町に戻ってラストショッピング。
バスに戻ると、列車が遅れるので、しばらく前のホテルのバーで時間をつぶせという。
金はRCP持ちのようだ。オロナミンCのようなドリンクを飲み、アメフトの試合を見て時間をつぶした。バンフ駅でオカナガンバレーのおばさんに再会、部屋に戻ると、スーツケースが運ばれていて、パッキングを忙しく始めた。おばさんに何か日本のものをお土産にと思ったが、ほとんどない。飴と柿の種、それに1ヶ残った赤飯パックをオレゴントレイルの袋に入れてあげることにした。赤飯のクッキングを説明したら、2分という文字を見て、「マイクロウェーブ、2分ね」と理解していた。夕飯を食べているうちに次第にカルガーリの町が近づいてきた。みんなそれぞれに別れを惜しんでいる。出発点だったパビリオンに入線し、一週間の旅は終わった。スタッフひとりひとりと抱擁し、フェアモントホテルの鍵をもらってサヨナラした。明日はシアトル経由で日本に帰る。精神的にはしんどい旅だったが、新たな友もでき、楽しく得がたい旅となった。

      
 

【上へ戻る】

7 月

7月31日 なつかしきペイジミル、ディアクリーク
HPの本社はパロアルト市ペイジミルロード1501,スタンフォードパーク ディビジョンの場所だった。妻にとってこの地番は、毎日書類を送付したあて先だった。今でもこれを覚えている。その場所は今でもHP構内になっているが、研究所に変わっていた。私にとって思い出の場所は、ディアクリークにあったインターコンチネンタルの事務所、ヨローパ以外のアジア、南アメリカを担当していた建物。今も同じ地に同じ建物があった。入り口周辺は変わっていたが、全体のたたずまいは当時のままだった。しかし今は他の会社の事務所になっていた。通りをはさんであったHP研究所はペイジミル1501に移っていた。ここももうHPではない。もう来ることはないだろう、HPのなつかしい建物を回り、スタンフォード大学のフーバータワーの木陰で少し涼をとって、私のノスタルジアツァーは終わった。

      
 

7月30日 なつかしきパロアルト、ダンとの再会
パロアルト、クリークサイドインは私のHP在職時代、幾度となく通い、泊った所だ。辞めてから10年経ち、ノスタルジアツァーに来た。サクラメントからオークランドに出て、大きな橋を渡り、サンフランシスコへ。そこからルート101,走り慣れた道。サンフランシスコ空港の横を通ると、35年前、近鉄の倉庫に通い詰めていた頃を思い出す。倉庫の中で日本へ行くべき行方不明の荷物を探し、謎解きの毎日だった。なぜ消えてしまうのか? その理屈がわかったときはうれしかった。物流の問題ではなく、送り元の工場にあったのだ。注文ごとに箱詰めしなければならない物を、小物だし日本に行くのだからと、いくつもの注文を一緒の箱に入れて送り出していたのだった。受け取ったお客は注文以上のものを受け取り、サービスと思っていたのかもしれない。その中に入っていた他のお客には待てど暮らせど着かないという状況だった。その当時、泊っていたのが、クリークサイドイン、その頃はベストウェスタン・フラミンゴモーテルの名だった。1泊25ドルだった。今では150ドルのデザイナーズホテルに変わってしまったが、たたずまいは昔と変わらない。
夜7時、当時、一緒に仕事をしていたダン・マーティンとロビーで抱擁を交した。何人目かのガールフレンドを連れてきた。懲りない男ではあるが、とてもいいヤツで憎めない。
富来寿司へ行った。フィリピン生まれのガールフレンドは、主食は米らしく、ご飯の上にてりやきチキンを載せて食べる。ダンへの土産はサッポロビールのジョッキとサッポロクラシックの缶ビール。35年前、よく一緒に飲んだビールだ。今夜ももちろんサッポロビールで旧交を温めた。

      
 

7月29日 しおみさんの家
しおみさんは私が初めてOCTA(オレゴン・カリフォルニア・トレイル・アソシエーション)の大会に参加したとき、知り合ったデイル・ウイルソンの奥さんである。ソールトレイク シティだった。私を時々見ている人がいるなと思ったら、近づいてきて「日本人か?」と聞く。「私の妻は日本人」だという。次に参加したオレゴン州のペンデルトンにはその日本人妻、しおみさんを連れてきた。そんな関係で知り合ったが数年前、デイルさんは急逝、しおみさんひとりでサクラメント近くの町に住んでいる。金発見のコロマの村から、遠くないので訪ねてみることにした。ソーメンを作って待っているという。
電話で教わった道を走り、門の前に着いたら鬱蒼とした森の中の家だ。門も自動開閉だ。入ってしばらく行くと大きな二階建ての家がある。73歳にしては若々しいしおみさんが迎えてくれた。6千坪の敷地があり、森の中だ、開いている所には畑があり、船のコンテナを倉庫代わりにした作業場兼ガレージもある。家はすべてデイルさんの手作りだという。少しずつ建てていったので、完成を見ず、亡くなってしまったという。残った未完成の部分を人に頼んで完成させ、そこを今は若い人に貸しているので、広い敷地、広い家でも寂しくないそうだ。週三回テニス、週一回ハイキングと織物、時々日本の歌コーラスと出たり、人を呼んだりで忙しく生活して、元気そのものの人生をおくっている。ソーメンのつゆの具には畑から採りたてのトマトやナスなどがいっぱいだ。野菜はほとんど庭でまかなえるという。海外に旅することも多く、元気いっぱいの日々を過ごすことで、デイルさんの亡くなった寂しさをまぎらわしているとお見受けした。いつまでもお幸せに。

      
 

7月29日 金発見の地の今
1848年、この地で農園を経営していたサッターとその同僚マーシャルがアメリカンリバーの川の中に光るものを見つけた。これがゴールドラッシュの始まりだった。
今は100人足らずのコロマの村に、当時は万を超す人々が集まった。当時の村のストリートにはいろいろな店が並び、行きかう人、馬車もにぎやかだった。その”ツワモノどもの夢の跡”にゴールドラッシュ記念公園がある。オレゴントレイルも金発見とともに、ソールトレイクから直接カリフォルニアに向かうカリフォルニアトレイルが開拓され、一攫千金を夢見る人々はダイレクトにこの地に向かってきた。OCTAの会員の中にも、曾じいさんや曾ばあさんやその前の身内がここに向かって来たと言う人がいた。西部開拓を象徴する場所のひとつでもある。

      
 

7月29日 はるかなる会津若松
戊辰戦争で負けた会津若松藩は実質的に崩壊し、大半の武士は下北半島に追いやられ、彼の地に斗南藩を開いた。これとは別に20名ほどの武士たちは武器商人のドイツ人に連れられて、カリフォルニアのこの地に来た。エルドラドという黄金の地だ。若松コロニーという農場を開き、お茶や桑の木を植えた。1868年のことである。日本人第一号の移民であり、最初の農場だった。しかし三年で農場は破綻し、帰るべき故郷を失った武士たちは散りジリになった。そのドイツ人の子どもの子守として一緒にやってきたのが「おけい」。夕方になると、農場の小高い丘にのぼり、暮れ行く西の方角をじっと見つめ、はるか会津の故郷を思い出していたという。そのおけいは病に倒れ、19歳の若さでアメリカの地に没した。
若松コロニー史跡碑が今はゴールドトレイル小学校になった敷地に建てられ、小学校裏山の上におけいの墓がある。この小学校は会津若松の小学校と姉妹校になっていて、学校の壁には富士山や鶴の絵が描かれている。毎年5月にはOKEI Festival が開かれるという。ここで始めた日本式農業がその後、カリフォルニアの農業に広がり、おおぜいの日本人が農業や庭作りに参加するルーツにもなったと言われている。失敗はしたものの種はまかれ、日本人による西部開拓史の始まりの場所でもあるのだ。

      
 

7月27日 摩周湖に似たクレイターレイク
隕石が落ちてポッカリと開いたような湖なので、クレイターレイク。オレゴン州のカリフォルニア寄りの山の中にある。中に島もあり、水深も深く、透明度も高く、摩周湖に似ているが大きさが違う。何倍、何十倍という広さなのだ。一週間泊っていたクラッカマスを朝出て、5号線を南下、途中でクレイターレイクに向かう横道に入り、気持ちのよい森の中を何時間も走った。このあたりで、今晩泊まるユニオンクリークロッジは現金払いのみだったことを思い出し、ATMはないかと気になりだした。ATMは正式に何と言うのだろうと妻に調べてもらった。”Auto Teller's Machine”だそうな。
クレイターレイクは湖の縁が山の尾根のようになっていて、ここを周りながら湖を覗き込むというルートだ。あいにく暑さのせいか、もやがかかり、湖全体が霞んでいる。湖を半周すること、1時間、ビジターセンタがあった。早速、”ATMは?”、答えは湖の近くのお土産やにある。意外と簡単だった。たぶんこのお姉さんも時々利用しているのではないか?車を走らせ、ビューポイントの縁に出た。お土産屋に入り探したが見つからない。
店員に聞くと、なんとガチャポンのおもちゃのマシンと並んであるではないか。これでは周りから丸見えだ。おおらかなアメリカのATM事情だ。陽が陰ってきたら、湖ははっきりし、湖面の色は濃紺でとても美しい。湖を下りてユニオンクリーク・ロッジに向かった。
森の中に小川が流れる岸辺にロッジはあった。外見は木造で歴史を感じさせ、いい雰囲気なのだが、部屋は扇風機だけで、薄暗く、トイレもシャワーも共同なので、今いち不便。クレディットカードが利くというので驚いた。あんなに気をもんでATMを探したのは何だったのか?

      
 

7月23−26日 オレゴン・カリフォルニアトレイル アソシエーション
ミズリー州のミシシッピー川から太平洋岸のオレゴン州まで2000マイル(3200K)、西部開拓の道は続く。1843年がその第一歩だという。家族で、グループで長い道のりを歩き、牛車に乗って、春に出発、秋に到着の行程で半年かけて歩いた。今、その子孫は西海岸に、道中のワイオミングやアイダホに住んでいる。歴史的なこの道を保存し、末代まで語り継いでいこうというのが、オレゴン・カリフォルニア・トレイル・アソシエイション(OCTA)。会員の大半はこの道をたどってきた子孫たち、白人ばかり。この会に数少ない日本人として私が入ったのは30年前。それからソルトレイクシティ、ペンデルトン、キャスパー、スコッツブラフ、ロックスプリングスと5回の大会に参加し、今回は終着地のオレゴンシティでの開催だ。今回のタイトルは”End of the Trail and Beyond"だ。

      
 

7月23日 フォートバンクーバー
この日の朝、シアトルに成田から着いた。レンタカーでオレゴン州に向かう。大会が開かれるクラッカマスの町までは3時間くらい。高速5号線で一直線だ。偶然にも借りた車のプレートはミズリー州だ。今回のイベントにふさわしい。ミズリーからオレゴンまでが、オレゴントレイルの行程だから。途中2回ほど、レストエリアで休憩し、コロンビア川を渡って、オレゴン州に入った。クラッカマスはオレゴンシティ直前の町、会場の関係でより大きなクラッカマスになったようだ。クラッカマスインに荷物を置いて、会場のホテルに向かい、参加登録した。
記念講演を聴き、昼のサンドイッチを食べ、午後のワークショップは聞いても分からないのでスキップ、フォートバンクーバーに行くことにした。行き方を聞いたら、受付のおばちゃんが自分の車からナビを外してきて調べてくれた。オレゴントレイルのもうひとつの終着点でもあるのだが、対岸のワシントン州なので、あまり関心ないらしい。今朝来た道を戻り、再びコロンビア川を渡って、太平洋に向かって左折した。町を離れ、だんだん寂しくなった所に、フォートバンクーバーの史跡はあった。もともとは、まだこの地がアメリカ領土でもない頃、イギリスのハドソンベイ会社が交易の場所として開いたものという。
その後、西部開拓の人たちが東から来て、コロンビア川沿いのダレスで山越えでオレゴンシティに向かうか、川を筏で下るか選択を迫られたとき、金のかかる筏を選んだ人が着いたのがフォートバンクーバーだった。金持ちルートの終着点なのだ。その後、ここは軍の基地に転換したらしく、広いサイトに軍の施設とハドソンベイ会社の歴史的建物が同居している。ビジタセンターの横に、日本語の石碑があった。「1832年に愛知県知多の漁師、岩吉、久吉、音吉の三人が難破し、アメリカの船に助けられ、ここに着いた。アメリカに来た最初の日本人」ということを記念するものだった。最初の移民の若松コロニーより30年以上前にも日本人は来ていたのだ。
この日の夜、会員ディナーがあった。一昨年のロックスプリングスで仲良くなったJeane & Robert Watson夫妻と再会、お土産の扇子を渡した。とても喜んでくれた。

      
 

7月24日 バローロードは有料道路
東から来た開拓民は、終着点近くで最後の判断に迫られる。最短距離だが難路のマウントフッド沿いの山道か、それとも金のかかるコロンビア川筏下り。そこで既に到着していたSamuel Barlowが山道を整備し、有料道路を作った。それがBalow Roadだ。
ゲートは今でもレプリカがその地に残っている。有料道路といえども悪路には変わりなく、ゲートでは「こんな道に金払えるか、返せ!」としばしばもめていたそうだ。その道路入り口をじっと覗きこんでいる一匹の犬がいた。歩きたいのかな? 有料だったBalow Roadは、倒木や草に覆われ、それ沿いに造られた車道をハイキングした。
途中、 Woman's Graveという、あと一歩で半年の旅も終わるというのに、この場所で倒れた女性の墓があった。悔しかったことだろう。マウントフッドをきれいに望める所もあった。帰り道、フォスター農場に寄った。このフォスターは、ケンタッキーのフォスターとは関係ないが、バローの企画に金を出し、バローロードを一緒に造ったという。二人は有料道路で当て、広い農場を持てたのだろう。開拓初期の成功者なのだ。

      
 

7月25日 滝からマウントフッドへ
昨日のバローロードの案内書に出ていたMultnoma Falls へ行きたいと妻は言う。ヒストリック コロンビア ハイウェイルート30沿いにある。それならマウントフッドのTimberline Lodgeにも寄ってこようと、大会には出ず、出発した。Multnoma Fallsはこの辺りの名所らしく、いっぱい観光客がいた。落差200mの滝は2段に分かれていて、その分かれ目にビジタセンターがある。メインの滝には遊歩道があり、それをたどっていくと二段目に流れ落ちる所に橋がある。橋を渡ったら、滝の上に行く道があった。行ってみることにした。
ところがこれが意外と長かった。下から見るとすぐなのに、山を大回りして登っていくので長い。やっと着いた。そんなに水流は多くないが、滝になると、かなりの水量になるのだ。滝見物のあと、昨日のバローロードを反対側から上る形のマウントフッドへの道を走った。Timberline Lodgeはまさに森林限界を越えた2500mの高さにある。マウントフッドの山頂がまじかに見える。まだ雪が斜面に残り、今でもリフトが動き、スキーができる。
アメリカのスキー選手の夏季トレーニング地でもある。一泊くらいしたい美しい所だった。

         
 

7月26日  End of the Oregon Trail
本命のオレゴンシティツァーの日。まず行った所が、The End of Oregon Trail Interpretive Center、最終地〆の博物館だ。それらしく、階段にはオレゴントレイルの主要地点が刻まれている。スコッツブラフ、サウスパス…。この町にはいくつもの開拓者の家があり、それを周るウォーキングも楽しそう。今日はバスで主要なマクローガンハウスなどを周った。昼食は公園の屋根のついたベンチでサンドイッチ。このとき、端のテーブルにバックパッカーのような若い女性が現れ、様子がおかしい。熱中症かもしれないと、誰かが通報したのか、救急車が来た。しかし彼女は乗ろうとせず、押し問答している、そのうちに”シガー、シガー”と叫んで我々のテーブルを周り始めた。手にタバコは持っているので、ライターを欲しいようだ。だが誰も反応しなかった。そのうちにパトカーが来た。救急車とパトカーで話をしたのか、今度はお巡りさんが何か話しかけているが、動こうとしない。業を煮やしたのか、お巡りさん二人がかりで、わめき叫ぶ彼女をパトカーに押し込んで立ち去っていった。のどかな町の静かな公園の思いがけないハプニングだった。

      
 

7月26日 プレスリー登場
この夜、The End of Oregon Trail Interpretive Center前の広場で、サーモンディナーパーティがあるというので、出かけて行った。広場には舞台が作られ、歌手が歌っていた。
舞台袖にエルビスプレスリーの写真が飾ってある。妻は喜んだ。「プレスリーショーもあるようなことを誰かが言っていた」と言う。それではと、サーモンディナーのあとは、舞台が見やすい高台に椅子を持っていった。OCTAのメンバーだけでなく、町の人がおおぜい集まってくるところを見ると、町のイベントに引っ掛けてサーモンパーティをやったようだ。確かに食べていたのは広場の一角に集まったOCTAメンバーだけだった。待つことしばし、暗くなりかけた頃、プレスリーは現れた。あの姿、あの歌、そっくりさんとは言え、みんな興奮している。妻も、ラスベガスヒルトンのそっくりさんよりずっといい、と手拍子をとっている。確かに若く、動作も似ていて、歌もうまい。中盤からは舞台近くに移動して、まじかに見て、聞く。最後は握手会のようになった。妻にも「行け!」とハッパをかけたが、恥ずかしがって行かない。あとで悔やんだのではないか。

      
 

7月18−19日 強風の中の白馬岳
札幌の小野さんが顧問をしている遊悠クラブの人たちと白馬に登った。みんなは不帰キレット越えで八方尾根から下りる組と白馬鑓温泉一泊して下りる組に分かれるが、私はアメリカ出発直前なので白馬山荘まで一緒して、翌日は早めに白馬鑓から猿倉にひと足先に下りることにした。17日に白馬駅で合流し、ホテルに一泊、猿倉から歩き始めた。
今年は雪が多く、白馬尻小屋の脇から雪渓歩きだった。途切れなく雪渓は続き、お花畑も雪が消えたばかりで、ほとんど咲いていない。村営山荘に着き、佐藤さんのザックをしっかり、私のザックにくくりつけて白馬山荘に向かった。尾根に出た途端、強風にあおられ、転げそうになる。晴れていればすぐ上に見える山荘が、えらく遠くに感じられる。
雨も強くなってきたので雨合羽をと思ったとき、山荘入り口が目に入った。部屋に落ち着いてから生ビールを飲みにレストランへ。リーダーたちは、明日の不帰キレット越えを心配している。予定メンバーに高山病の気配があったり、バテバテだったりの人がいるという。大事をとって、不帰キレットは中止、全員、白馬鑓温泉へ、ということになった。この変更を夕食時に小野さんが話すことになった。夕食時、不帰キレットを楽しみにしていた83歳の男性が「明後日の不帰越えのときは晴れるとの天気予報で楽しみだ」と機先を制した。ここを歩くことが目標で、山岳ツァーに申し込んだが年齢で断られ、これにしたんだそうな。結局、このおじいさんのひと言で再び変え、メンバーを絞って行くことになった。
じいさんよかったね。翌朝、みんなより早く私は山荘を出て、杓子、白馬鑓を越えて、温泉から猿倉に下りてきた。温泉の下の雪渓では行く方向がわからなくなり、白い雪の上で往生した。危うく遭難するところだった。

      
 

7月14日 麦草峠から縞枯山へ
極楽恒例・トレッキングと広島焼きイベントが今年も山荘で行われた。金曜夜、山荘に集まり、明日のサンドイッチを作った。今年はハムカツを入れてみた(意外と好評だった)。コースはいつも歩くのとは違い、麦草峠から登り、雨池経由で戻ってくることにした。
三連休の初日で峠の駐車場は満車状態だったが、何とか道路脇に停めて出発。曇りならまずまずと思ったが、小雨交じりの霧で眺望は何もない。そんな中を茶臼山、縞枯山を越え、雨池に来たとき、青空が見えてきた。ここで遅めの昼食、池の向こうを歩いている人が見える。池を一周して麦草峠に帰ってきた。広島焼きのシェフ溝上さんは昨日、アメリカから帰ってきたばかりなので、トレッキングは参加せず、夕方来た。広島焼きを焼くためだけに来てくれた。その心意気に感謝!本場広島では今年出たミシュランガイドで、広島焼きが番外編で取り上げられたとか、その中の店に出向き、焼き方、材料などを調べてきたというだけあって、今年の広島焼きはいちだんとおいしかった。

      
 

7月7日 阿波踊り練習始まる
関東に梅雨、明け宣言が出た。猛暑の中、われわれ中々連の阿波踊りの練習が始まった。
高円寺のギャラリー久である。昨年は建て替え中で使えなかったが、今年は新装、貸してもらえることになった。広くて、鏡あり、冷房完備で快適な場所だ。鏡に向かって踊っていくと、自分の踊り方の欠点もよくわかる。20名くらい集まり、最初の練習はまずまずだ。再来週末には新座の阿波踊りに、こぶし連に入れてもらって出る。今年は私も行けるので楽しみだ。練習が終わったあとのビールは格別にうまい。
 
7月3日 稲門会カラオケ
地元の日野市にある日野稲門会の会合に先月はじめて出た。そこでカラオケサークルがあり、シャンソン、タンゴなどが主体で演歌は本流でないと聞き、参加してみることにした。高幡不動から歩ける三沢のスナックが会場だ。昼から夕方まで5時間の長丁場だ。10人足らずで始まったが、徐々に増え、3時間も経つと15人くらいになっていた。確かにド演歌はないが、"あなたと行った早稲田松竹♪”、”面影橋は名残り橋♪”など、私の知らない早稲田界隈のフォークソングも出て、いつものカラオケとは違った雰囲気だ。
商社や商船、建設関係のOBが多く、社会的にもそれなりの生活をしてきた、いわば早稲田エリートの集まりと見受けた。最後は”紺碧の空”で締めるところが早稲田らしい。この前の土曜は六大学チアガールの演技を府中で見た。このところ学生時代の続きのようなイベントに足を運ぶことが多くなった。老化防止にはよいかもしれない。                    (写真右:チアガール演舞)

      
 

【上へ戻る】

6 月

6月30日 山の歌だけ唄う会
歌声喫茶ともしびでは二回目になるという”山の歌だけ唄う会”。開始20分くらい前に行ったら、ほぼ満員の盛況。その後も続々来て、補助椅子を出したりして詰め込んでいた。何十年前のともしびの光景が蘇った。”山小屋の灯”からスタート、二番の歌詞に”暮れゆくは白馬か、穂高は茜よ”という歌詞があるが、この光景が見える山小屋はどこでしょうか?山の通でも難しい質問だ。三俣蓮華小屋は白馬が見えない、薬師岳山頂小屋なら見える。水晶小屋でも見えた?これに”樺の木もほの白く…”の歌詞を続けると、該当する小屋は皆無となる。山の上には木はない、木がある小屋からは両方見えない。
”この小屋だ”と思う方、教えてほしい。
 
6月25日 たったひとりの経ヶ岳
八子ヶ峰のしらかば2in1のスキーリフトを下りた所に”八子ヶ峰から見える山々の展望写真”ある。
主な山の名前も記されている。北アルプス、中央、南・・・、御岳、浅間、妙高、戸隠などなど。その中で登ったことのない山が4つほど。そのひとつが中央アルプスの経ヶ岳、木曽駒ヶ岳から権兵衛峠で一旦終わったように見える中央アルプスが峠からひと上りさせた端っこの山が経ヶ岳である。”八子ヶ峰から見える山”全山踏破を目指している私としては行かねばならぬ。梅雨の合間で曇り時々晴れの予報が出ている今日、早朝に出かけた。
伊那北で中央道を下り、何ども迷いながら登山口の仲仙寺にやっと着いた。もう8時近くだ。隣に三河ナンバーの軽自動車、中で弁当食べているので、この人も登るのかな?近くにはもう一台停っていた。
今日は二、三人の登山者か?歩き始めて四合目までが長かった。登山記録だと1時間足らずと書いてあったが、私は1時間15分もかかってしまった。先が思いやられる。五合目まで30分とある。

      
 

五合目まではコースタイム通りで来た。六合目へは25分、ここから急な登りが出始める。曇っていて森の中なので、それほど暑くはないが笹が登山道にせり出し、その雨露がズボンにまとわりつきビッショリだ。六合目から七合目へは20分とある。これなら七から八合目へは15分か?と思ったら、40分と長くなってしまった。八合目は小高い山の上で、ここが頂上と言ってもおかしくないような場所だった。晴れていれば、南アルプスが眼前に並んでいるというが、霧の中で何も見えない。九合目まで20分、そこから頂上へ20分で着いた。頂上近くになって雨が降り出し、笠の中での昼食となってしまった。
頂上と言っても、林の中で、周りに石仏が数体並び、信仰の山だとわかる。帰りは今来た道をひたすら下った。仲仙寺に着くまで、誰一人会わなかった。車の人たちは登らなかったのか?”たったひとりの山”は北海道の恵庭岳以来かも?あのときは”熊出没”の看板で、走るように往復したが、今日は静かにゆっくりと上り下りした。麓は晴れて夕日が輝いていた。

      
 

6月23日 満開レンゲツツジ八子ヶ峰
山荘の上の八子ヶ峰は花の山でもある。山桜が終わると、レンゲツツジ、ニッコウキスゲ、松虫草と続く。今はレンゲツツジが見頃。岳文後輩の深田君、佐藤夫妻、山内夫妻、ニュージランドへ一緒に行った森さんの奥様が、ツツジ見物に集まった。雨続きだったが今日は陽が射し、ハイキング日和。八子ヶ峰トレッキングのほぼフルコースを歩くことにした。別荘地の側道をこぶし三号線まで歩き、そこから八子ヶ峰へ登り始めた。ここはサクラシメジが採れる尾根だ。森から落葉松林に抜けるといつも登ってくる東急のショートカットコースとぶつかる。ここからはいつもの通り道。蓼科山が真正面に見える尾根に出たら、まわりは真っ赤かっか、レンゲツツジは満開だ。八ヶ岳をバックにツツジに囲まれて登ってくる姿は美しい。ヒュッテからスキー場上への稜線はいずこもレンゲツツジだらけだ。すごく色鮮やかな群落があるかと思えば、薄く淡い群落もある。ツツジたっぷりのハイキングは4時間半で山荘に帰ってきた。そのあとは蕎麦を食べ、温泉に入り、寿司で飲み、極楽、極楽…

      
 

6月18日 ルピナス咲いた
以前、山荘の庭に植えたルピナスはバーベキューのとき踏まれたり、草刈機で間違って刈ってしまったりで、まともに咲かなかった。残った根の部分を違う場所に植え替えておいた。先週見たときはいくつかのツボミをつけていたが、今日来たら、みごとに紫の花を咲かせていた。多年草なので、来年も咲いてほしい。先週、須坂の帰りに買ってきたオレゴントレイルもそばに植えておいたら、これもまた白く細い花をつけていた。宿根草なので、来年にも期待したい。それにしてもオレゴントレイルとは、名前も名前だ。私の趣味に合わせたとしか思えない花である。(写真右:オレゴントレイルという名の花)

          
 

6月17日 立教大学
落語会で池袋に来た。時間が早かったので、近くの立教大学に行ってみた。構内に入るのは初めてだ。
ツタのからまるレンガ造りの校舎が建ち並び、中庭には芝生、周りのベンチでは学生が楽しそうに話している。如何にも学び舎という光景が広がっている。構内を買い物カゴ下げておかみさんが通る早稲田とはまるで違う雰囲気だ。こんな所で勉強する学生がうらやましい。立教落ちて早稲田に来たという岳文会後輩の話は「さもありなん」と思った。でも学生生活を送るなら、雑然とした早稲田も悪くないなとも思ったりした。

        
 

6月16日 日野稲門会
住んでいる日野市にも稲門会があることは一昨年、案内をわざわざ家まで持ってきてくれたので知っていた。そんなこともあり、一度は出なければと思いながら、他の用事とぶつかったりして叶わなかったが、今年は出れた。駅の近くにある市の施設で総会、そのあとサカエヤで懇親会。
集まったOBは参加者名簿の卒業年次を見ると先輩が多かった。70〜80代が主流だ。それでもみなさん元気だ。宴会で隣合わせた人はたまたま同じ年の卒業、この会の歌うサークルに入っているという。毎月一回、百草園のスナックで歌っているとのこと。私も来月の会に参加することにした。楽しみである。
 
6月15日 早稲田ちんどん研究会
市の広報に”ちんどん屋がやってくる・早稲田ちんどん研究会”というイベント案内が出ていた。
まさか早稲田のサークルではあるまいと思ったが、ネットで調べると大学の同好会にあるではないか。
学生がやるちんどん屋とは如何なるものかと興味がわき、妻と一緒に公民館へ出かけた。幕開けはちんどんメドレーを流しながら、白粉塗りの男子1名、女子3名が入ってきた。青い山脈や美空ひばりの歌を披露した。鉦、太鼓、サックスと楽器もさまざま、メガネの女子学生のサックスはうまい。40曲くらいのチンドンレパートリーがあるという。
彼女は南京玉すだれも披露した。中入りがあり、そのあと、ちんどん屋の歴史やちんどんビジネスの現状を講釈した。この辺は研究会らしい。最後に数曲流し、幕となったが、アンコールの拍手で再度登場した。
アンコールをもらったのは初めてだそうだ。文学部3人、政経学部1人の構成。ご苦労さまとおひねりを渡したら、後日、丁寧なお礼のメールが来た。しっかりした学生たちだった。

      
 

6月9日 須坂ガーデンウォーク
須坂の町は花の町でもある。家々が花の手入れに熱心だ。そんな家々を廻るイベントが市の企画であった。山野草を植えている家、家の周りを花が囲んでいる家、由緒ある石庭、世界のバラいっぱいの家など、タイプの違う家の庭を歩いたり、バスで移動したりで一日、廻った。妻へのプレゾント企画だ。
最後の家の前には長野刑務所の塀、ここにホリエモンが収監されていた。バラの話のあとは、この話で盛り上がる。ダイエットには刑務所暮らしが良いと奥様達は入りたそうな口ぶりだった。"ダイエット・刑務所一週間”などの企画もしてみたら如何なものだろうか。

      
 

6月4日 新人戦
六大学春リーグ戦が終わった翌日から、一ニ年生対象の新人戦というのが始まる。その初戦で早稲田が東大に負けた。準決勝に東大が進んだので、明治との試合を見に行った。いつもの応援風景もなく静かな神宮だった。隣の青山高校では運動会をやっているらしく、その歓声がよほど賑やかだ。
東大が勝ったその夜のクローズアップ現代で桑田特別コーチが東大投手陣の課題を解説していた。「外角低めを徹底的に狙え」と。そこでバックネット裏の二階正面から東大投手のコントロールを重点的にチェックしてみた。一生懸命、外角に投げる。低めに入らず、高かったり、外れたりで思うようにはいかないが、教えを守ろうとする姿勢は見てとれた。明治には敗れはしたものの、秋のリーグ戦での成長と待望の一勝を期待したい。

      
 

6月2日 早慶戦
梅雨入りまじかの神宮は晴れ渡り、早慶戦日より。岳文OB会企画の正規参加は高橋君(44期)、岩本さん(48期)、小田(7期)の3名だけ。球場で出会った白石君(51期)等数名のメンバーも入れて、席は分かれての観戦となった。私は前日も外野で見たが、応援合戦が昔と様変わりしていたのには驚いた。早稲田の応援席へ慶応の応援団が来て“若き血”をワセダの学生に歌わせる。最後はさすがに“陸の王者、ワセダ!”で締める。片や慶応応援席からは“紺碧の空”、“覇者、覇者、ケイオー!”で締めた。合同応援の最後は、両校そろって“花の早慶戦”の大合唱。こんな光景は昔はなかった。もっと戦闘モードだった。
今シーズンはブービー争いなので、和気あいあいの早慶フェスティバルという雰囲気だ。試合は2本のホームランも出て、9−0とワセダの一方的な勝利に終わった。4位に終わった早稲田だが、この試合でエース吉永の復調が見られたこと、1年生ピッチャーに吉野(日本文理)という、六大学ただ一人の下手投げ投手が現れたことが、秋につながる収穫だった。正規メンバー3名は秋葉原の留萌マルシェで祝杯をあげた。高橋君の父は留萌の市長さん、その留萌のアンテナレストランがここで、ウニやカニなど直送で送られてくる新鮮な魚介料理がすこぶるうまく、ビールはもちろんサッポロ。楽しい早慶戦観戦だった。

      
 

【上へ戻る】

5 月

5月28日 明治優勝
強いのか弱いのかわからない明治が春の六大学野球を制した。
負け知らずで全勝の法政のブッチギリ優勝かと思っていたが、東大戦以外は早稲田、慶応、立教に一敗ずつしたものの何とか勝ち点だけはキープしてきた明治が、法政戦でも初戦大敗、二戦目引き分け、三戦目勝って、四戦目の今日も常にリードされては追いつく不利な状況で、8回裏、法政のエラーで勝ち越し点を上げ、9回を守りきって勝ち点5となり、優勝を果たした。
勝率では法政が上なのに、勝ち点で明治が上になるという、この六大学野球のまか不思議な仕組みが功を奏した。いずれにしても明治が勝ってまずは良かった。最後の試合は決定戦らしく、良い試合だった。

   (写真・優勝に湧く選手と応援席)

      
 

5月19日 東大の気持ちがわかる
春の六大学野球、優勝候補と言われていたわが早稲田が何と六連敗、東大と最下位争いの状況だ。
明治との第一戦で10ー1の大勝をしたあと、引き分け、そのあとニ連敗、次の立教でもニ連敗、そして今週の法政戦でニ連敗。打てない、守れない状況では致し方ないが、情けない。
法政との二回戦では初回にホームランを打たれるわ、パスボールをするわで8点もとられ、勝負がついた。それでも早稲田の応援席は”勝つぞ、勝つぞ!ワセダ”と大合唱である。そのとき思い出した。東大の応援も、勝つ見込みがないのに”勝つぞ、勝つぞ、東大!”と叫んでいたことを。50を越す連敗中の東大は負けることが普通で、勝てば奇跡と騒がれる。それでも毎試合、”勝つぞ、勝つぞ、東大!”である。応援は熱心で、迫力がある。決して他の大学に引けを取らない。チェアガールは六大学随一と言ってもよい。「東大なくして六大学成り立たず」の自負で、応援する。そのいじらしさが痛いほどわかった。こうなれば、早稲田も早慶戦でニ連敗して、東大に続けばよいとも思った。

  (写真・東大と早大のメンバー表、出身校をとく比べてみていただきたい)

      
 
各大学の応援を見ていて感じたことがある。如何にもテンポよい応援らしいメロディでまとめる応援歌とチャンスの時に演奏するメドレー、例えば早稲田のコンバットマーチや明治の狙い撃ちなど勇ましい。この”勇まし系応援”は、早稲田、明治、法政だ。
対する立教はスワニーのメロディ、St. Paul's will shine tonigtなど英語の歌だ。
慶応の若き血も軽やかなポルカの雰囲気、東大は全体的に叙情的と”バラード系応援”だ。はからずもスクールカラーが応援にも出ている。勝っているときは勇まし系、負けているときはバラード系が合うようだ。

      
 

5月23日 今年初めての八子ヶ峰
散歩コースの八子ヶ峰にこの日の午後登った。去年の秋は来た記憶があやふやだが、きのこ探しに来ていたかもしれない。
登山道がきれいに草刈され、きちんと整備されていた。最近やったのではない、たぶん去年の晩秋なのだろう。爽やかに晴れた春の八子ヶ峰はきれいだ。
北アルプスは霞がかかって見えないが、八ヶ岳の峰々は残雪を少し冠って美しい。
ぐるりと周り、下山の林道に出たら、この道も新たに砂利が敷かれ、きれいになっている。水の流れで石ころ河原のようだった川沿いも石が退けられ、砂利敷き詰めて、平らな道に変貌していた。ちょっと来ない間に、トレッキングコースはずいぶんと整備されていた。このコースも人気が出てきたのかもしれない。

    
 

5月23日 小津の散歩道
去年の小津安二郎映画祭のパンフレットに小津監督が蓼科に滞在したときよく散歩した道を”小津の散歩道”として紹介していた。このコースを歩いてみた。無芸荘の駐車場に車を置いて歩きだした。
そばや黙坊の脇の道路をもうひとつのソバ屋・三五十屋に抜け、ビーナスラインに出て渡り、側道に入った。そこに”小津の散歩道”の小さな案内板が立っていた。
昔からの別荘地を抜けると再びビーナスラインにぶつかり、そこも渡って、別荘地に入っていく。明電舎の保養所や日大の研修所を抜けると、山道に入り、雪解けの清流がほとばしる小川に出た。川沿いを登っていくと信州大学の研究所があった。その横の草原の道を登った所に一本桜の大木があった。ここまでは登りである。小津監督はここで蓼科山を眺めながら大休止したらしい。今は丸太のベンチもあり、山の眺めもよく休むには絶好の所だ。カッコウの鳴き声も聞こえ、緑の原とその先に昔からの別荘の屋根が見える。古き良き蓼科の面影を残している所だ。再び来た道を信州大研究所に戻り、橋を渡って、下っていく。
新藤兼人監督の天空庵という看板が出ている別荘地に寄った。林の奥に古い建物がある。ここが「午後の遺言状」の舞台となった別荘だ。映画では大きそうな建物だったが、実物はこじんまりしている。監督がなくなり、来る人もいないらしく、庭は草むらになっていた。
またビーナスラインに出て、少し下ると戦国時代の軍用道の信玄棒道があった。この道は親湯に通じている。ここも”小津の散歩道”となっている。親湯手前の舗装道に出ると出発点のプール平は近い。2時間弱の散歩道だった。古き蓼科の別荘地を歩きながら、戦国の昔も垣間見られるよいコースだ。

  
                         (写真右:新藤兼人監督の山荘)

      
 

5月9日 開田高原
木曽福島から開田高原を通って高山に抜ける道は飛騨街道と言った。
高山から尾張や京都に向かう街道でもあった。福島の町から旧道の地蔵峠を越えて、開田高原に向かった。
昔の街道は舗装道路を横切りながら、山の中にハイキング道として残されていた。
今回は車だが、次には歩いてみたいと思う雰囲気がある。地蔵峠では御嶽山が残雪をいっぱい残しながら夕日に輝いていた。峠から村に下りてふもと屋という昔は村長も務めたこともあるという旅館に泊った。
夕飯の最後はとうじ蕎麦で、その前の山菜の天ぷらできつかったが無理して平らげたら、気持ち悪くなり、早々に布団に入る羽目になった。それでも美味しかった。

     
 

5月8日 木曽福島
木曽福島は中仙道木曽路の関所のある宿場町。何百年も続く山村家が代官を務めた所だ。大名ではないが、それに準ずる待遇で、木曽11宿一帯を治め、関所の関守を務めた。大名と違い、隣藩との争いもなく、参勤交代もないので、財政も豊かで、町には興禅寺の石庭など名所も残った。代官屋敷は最近まで日銀の保養所として使われていたという。山村家の末裔が日銀の幹部行員だった縁らしい。宿場の雰囲気が残る上の段と呼ばれる街並みも美しい。春の陽射しの中に木曽福島の街は輝いていた。

      
 

5月7日 花桃街道
今日の泊まりは阿智村の昼神温泉、ここから木曽に抜ける清内路は花桃街道と呼ばれる。明治時代、福澤諭吉の娘婿の福澤桃介が木曽川の電源開発でドイツに行ったとき、三本の花桃の苗を持ち帰り、植えたのが始まりという。
桜と桃を一緒にしたような花で、一本の木に白とピンクの花が混ざっていたりする。
近くの月川温泉が満開で花桃祭りの最中というので、行ってみた。村の川沿いや山腹にたくさんの木が植えられ、赤、ピンク、白の花桃が咲き乱れ、とても美しい。
車を停めて、しばらく歩いてみる。たいがいは低い木なのだが、古くからあるものは結構な大木で、ぎっしりと花を咲かせていて壮観だ。桜とはまた違った美しさだった。

      
 

5月7日 天龍下り
連休明けの旅に今年は南信州を選んだ。飯田周辺から木曽路に抜ける。
まずは天竜川の川下り。船着場へは中央道から新設の信州から遠州・三河に抜ける道路ですぐだった。
飯田線の天竜峡駅近くから船に乗り込み、女船頭さんの歌や説明を聞きながら1時間ほどゆっくりと下る。以前、急流でひっくり返ったことのある舟下りは別のラインらしい。
飯田線の電車がたまに川岸を走る。新緑美しく、藤の花も咲いてのどかな船旅だった。

         
 

【上へ戻る】

4 月

4月22日 遅かりし高遠!

今年の高遠の桜は例年より1週間ほど早かった。先週が満開だった。
フコク生命に勤めていた頃の仲間とこの日の花見を決めたのが1月頃。せめて”落花盛ん”を期待したが、それも叶わず、”咲き終り”になってしまった。
暖くなったので、出かけた。お城の前の駐車場は700円とられたが、入場料は無料になっていた。桜は終りなのに、観光バスはどんどんと来ていた。帰る車窓の人に笑顔はない。伊那名物ローメンを食べてから勝間薬師堂のしだれ桜を見に行った。こちらは満開と散り始めの枝がミックスし、とてもきれいだ。
里山の向こうに仙丈ヶ岳が真っ白にそびえ、しだれ桜の背景としては最高だ。この桜が見れたことで満足し、蓼科に帰ってきた。

          
 

4月21日 思わぬ雪

土曜の昼は暖く、山荘に来る途中でラーメンは熱いのでつけ麺にしたほどだった。
先週買った鉢植えの花に水をやった。ところが間もなく、曇ってきたと思ったら、雪が降り始めた。これは珍しいと写真を撮りまくった。止む気配はなく、夕暮れになると本格的になってきた。
明けて今朝、一面銀世界だ。ベランダの手すりに積もった雪に物差しを入れたら15cmあった。地面は20cmくらい積もったことになる。まさに季節外れの思わぬ雪になった。スタッドレスタイヤを外さなくてよかった。連休明けくらいまでは冬の備えが必要のようだ。

      
 

4月16日 ああ無念!

クリスマスツリーから庭に植え替えて、順調に育ってきたモミの木が枯れた。鹿の仕業である。すくすくと伸びた幹の皮を昨年の早春に食べられた。それ以上に食べられないようにネットを張り巡らした。春、夏と新しい芽もつけ、育っているように見えたが、秋になると枝の一部に枯れる症状が表れた。それがどんどん広がり、緑が少なくなり、晩秋の頃には落葉松同様、葉をすべて落とし、裸の木になってしまった。
「春になると芽を出すこともある」と言う人もいたので、ひと冬越した。しかし変わらず、裸木のまま。止む無く切ることにした。ここまで育った木を失うのはとても残念だ。楽しみにしていたモミの木だけに寂しく、悲しい。(左・元気な頃のモミの木)

      
 

4月14日 春支度

スキーから帰ってくる道すがらは春爛漫の日和になった。須坂から菅平に上がる道の桜並木も蕾を膨らませていた。丸子のホームセンターでペチュニアとマリーゴールドの鉢植えを買い、山荘の木鉢に植え替えた。何もない殺風景な早春の庭がそこだけ、彩り鮮やかで、如何にも春支度の装いとなった。
雪で倒れてしまった看板も木の枝にぶら下げて付け替えた。これで次に来る客への準備もできた。

      
 

4月13日 楽しい春スキー

春は意外とスキーが楽しい季節だ。残雪の誰も滑っていない斜面にシュプールを描くのは気持ちよい。今シーズン締めの奥志賀春スキーは良いコンディションになった。
前日、ひと降りあり、朝も冷え込んだので、雪は硬く、スキーはよく残雪に切り込み、快適な滑りで、この上なく楽しい。それでも昼頃には気温も上がり、滑りは悪くなった。
ここが引け時と、サンクリストフで生ビールを飲み、スパゲッティを食べて、今宵の宿・小本ペンションに引き上げた。夜はおいしい山菜天ぷらや牛肉で、大盛り上がりになったことは言うまでもない。

      
 

4月8日 示現会

IBMにおられた三宅さんが所属している絵の団体・示現会の展覧会が六本木の新国立美術館であった。IBMの上司・加藤達夫さんと待ち合わせて見に行った。
示現会は具象画の団体なので、展示されているほとんどの絵は理解できる。三宅さんのものは故郷長崎の坂から港を望む素敵な絵だった。安曇野風景、上高地、マッターホルンなど、山々の絵画も多く、楽しく過ごすことができた。
絵画観賞のあと、二人がIBM時代によく行ったというとんかつ屋に連れていってくれた。軟らかいヒレカツがとても美味しかった。こんな機会もよいものだ。三宅さん、加藤さん、ありがとう。

             
 

4月7日 葉桜花見の宴

中々連恒例の花見の日。今年の桜は早く、満開は一週間前だった。葉桜でもよいと予定通り結構。時期はずれなので、場所取りはとても楽、9時頃行っても、広々と良い場所を確保できた。お昼頃から徐々に集まりはじめ、盛り上がった。
頃合いを見て、笛、太鼓、鉦のお囃子で踊り開始。周りの花見客が踊りの輪に入ってきた。花見の踊りの醍醐味だ。中にはとてもうまい人もいる。中々連に誘ったら、他の連で踊っているという。残念。今年の井の頭公園はガードマンのチェックもなく、思う存分踊れた。ちょっと時期をずらすと、大丈夫らしい。

      
 

4月4日 森さんの古希祝い

極楽スキー仲間の森さんが古希を迎えた。半年強、わたしより早い。そのお祝いが青山であった。普通は回りの人が主催するものだが、森さんは自ら自分の古希を”お世話になった方々へ感謝する会”として企画して、50名もの人々を招待した。
還暦も同様の催しをやったので、大変なことだ。長くいたドイツでは、祝われる人が友人を呼ぶのが普通なので、その習慣に習ったという。もうひとつの目的は、合唱団で鍛えた自慢の喉を披露することだ。
開宴30分、森さんの好きなドイツ歌曲を中心に、ソロコンサートになった。案内には書いていない。書くと、お客が半分くらい逃げるからというが、とんでもない。すばらしい独唱である。さすが、紅白歌合戦でバックコーラスを務めただけのことはある。ウイーン、上海からお子さん家族も集まり、とてもインターナショナルな楽しく和やかな会であった。

      
 

4月1日 早春の苗場

広瀬君が雪国まいたけを退職したので、六日町に行く機会はなくなった。昔、彼の同僚だった荒川さんが苗場にマンションを買ったので、そこに行くこととなった。ゲレンデに近いマンションは快適だ。
このところの暖かさで、苗場の雪はべちょべちょ、スキーを曲げるのに力がいる。筍山から2本滑ったら、「もういい」になり、マンションに帰り、温泉に行き、あとは宴会となった。翌日、滑らずに湯沢に出て、岩原で昔お世話になった文吾屋のとおちゃん、かあちゃんの安否を確かめに行った。今は越後湯沢の駅の近くに引っ越している。二人で庭木の手入れをしていた。二人ともどこも悪いところなく、薬の世話にもなっていないという。80をこしているというのに、元気なものだ。安否確認をして、東京への高速道路に乗った。

      
 

【上へ戻る】

3 月

3月18日 スノーシュー奥志賀

スノーシューをやるべく妻と奥志賀に行った。前日、ブルーエに泊り、美味しいフレンチを食べての歩きとなった。白樺苑路を歩くべく、ブルーエ横から入ったが、道がわからない。夏なら問題なく入れるのに、何の印もない雪の中では、方角だけが頼りで、林の中に入っていった。沢を昇り降りしているうちに右手に橋が見え、そこに下りると、別荘地への道路だった。ここへ出たなら、と別荘地へ入っていった。
小澤征爾さんの別荘ではないかと思う建物を見たり、誰もいない閑散としている別荘地を一回りして、橋に戻った。今一度、白樺苑路へチャレンジと沢伝いにスノーシューで登っていった。「水源につき汚すな」という看板があり、雪の下に橋も見えるので、方向性は正しそうだが、沢沿いはどこでドフッとくるかもわからないので、対岸の尾根筋を歩いた。そのうち上部に横一線の道らしきものが見えるのでそこまで登ったら、スキーで歩いた跡があった。これで道がわかった。
帰りはこのシュプールの跡を辿っていったら、グランフェニックスの上部のゲレンデに出た。
夏は林道になる所を歩いていたらしい。林の中ばかりで、展望も利かず、イマイチのスノーシューだった。三日後に北八ヶ岳の縞枯山から茶臼へスノーシューで歩いたが、快晴で北アルプスから南アルプスまできれいに見張らせてそれはすばらしいハイキングになった。
スノーシューは蓼科周辺の山を歩く方が面白そうだ。
                (写真左は奥志賀、右は北八ヶ岳)

      
 

月1日 クライストチャーチへ

クライストチャーチへのバスは昼過ぎなので、午前中はヒラリー記念館でマウントクックの3Dやエベレスト初登頂記録の映画を見て時間をつぶした。ヒラリーはニュージランドの偉人。生存中から、5ドル札の肖像になった登山家だ。晩年はネパールに学校を建てたり、教育活動に力を入れたという。
良い思い出を持って、クライストチャーチへのバスに乗った。テカポ湖でも数名乗り、20名くらいになった。ガイドの北村さんの話が面白い。「ニュージランドの人の料理は焼いたり、煮たりするだけで味付けは食卓の上の塩と胡椒で各自やる。だから日本の娘さんを嫁にすると、その繊細な味つけの料理に驚き、いつでも旦那を引き立てることに感激する。若いニュージーの男性は日本女性を奥さんにすることが夢」なのだそうだ。クイーンズタウン空港で我々3人以外はみんな下りた。
オークランドに向い、明日朝の便で帰国する。我々も同じ便なのだが、クライストチャーチに泊り、早朝の便でオークランドに向かうのだ。ホテルは空港の真ん前だった。山内夫妻と私のオークランド行きのフライトが違うので、空港に歩いて行って、ニュージランド航空のカウンターで同じ便に変えてもらった。手続きはすこぶる簡単、PCをチャチャチャと操作し、”Yes,done”の一言。何か紙でもらえないのかと聞いたら、Eチケットのフライト便No.の上に新たな数字を重ね書きして”OK”。山内さんは「大丈夫か?」と心配していたが、翌日問題なく乗れた。
土産物を少し買い足したいというので、バスで市内に出た。セントラルという所が終点だったが、周りは空き地ばかりで、道路もストップの標識で塞がれている。一昨年の東日本震災直前に起きたクライストチャーチ地震の後遺症がまだ残っていた。復旧はゆっくりゆっくりのようだ。通りすがりの日本女性に教えてもらったスーパーでスモークサーモンを買い、その前の餃子・ラーメンの幟が出ていたサムライというラーメン屋に入った。ニュージランド最後の夜の食事は、餃子、ラーメン、ビール、日本酒だった。壁には明後日3日の桃の節句に行われる”クライストチャーチ日本祭り”のポスターが飾られていた。もう3月なのだ、夏のこの地でも桃の節句と言うのかな?明日はいよいよ日本に帰る。雨に全然会わず、素晴らしいニュージランドの旅だった。

     
 

【上へ戻る】

2 月

月15日−3月2日 ニュージランド

20年ぶりにニュージランドへ行ってきた。岳文の仲間の山内さんや極楽スキー仲間の森さんと一緒に、
ミルフォードトラックやルートバーンの山歩きが目的だ。二人は奥さん同伴、私はひとりだ。
どんな旅になることやら。

     
 

月16日 クイーンズタウンへ

オークランドで乗り換え、クイーンズタウンまで空路で入った。時差は4時間しかないのに、12時間の長旅だった。寒い日本から真夏のニュージランドへ来た。成田までのジャンパー姿はクイーンズタウンでは暑い。空港からホテルへ相乗りのミニバンタクシーで向かう。ホテルには岳文後輩の山内武志さんが待っていてくれた。彼とは10年違うので、学生時代の接点はないが、岳文会50周年を機に懇意になった。クイーンズタウンの街で土産物屋をやっている。ホテルやバスなどの予約をお願いした。今晩のディナーのゴンドラで上る山の上のレストランも彼が予約してくれた。
夕方、明日からのミルフォードトラックトレッキングの説明会が運営会社Ultimate Hikesのオフィスであった。英語を覚悟していたら、日本人スタッフが日本からの客を集めて、日本語でやってくれた。案内書も日本語、日本人の参加は10名。20年前も日本人は10名くらいいたが、私以外はアルパインツァーの人だった。今回は全員、独自で申し込んだようだ。雨対策の大きなビニール袋をくれたり、ザック、ストックの貸出しがあったりと、前とは様変わりのサービスだ。着替えなどをミルフォードサウンドへ送る託送袋などもあり、至れり尽くせりだ。打ち合わせのあと、我々はスカイラインゴンドラで山に上がり、クイーンズタウンの街と湖の夜景を見ながら食事をした。いよいよ明日から1週間の山歩きだ。みんなワクワクしている。

     
 

2月17日 グレイドハウスへ

朝9時に運営会社からバスに乗って、テアナウに向かう。以前はレンタカーで通った道だが、2時間半もかかるとは思わなかった。もっと近いような気がしていた。羊や牛の牧場が続くが、家は稀だ。テアナウのホテルで昼食。このホテルにはUltimate Hikesのオフィスがあった。ここにも日本人スタッフがいた。テアナウから船に乗り、グレイドハウスに向かった。空はよく晴れて、明日以降も晴天が続くとの予報。爽やかな風を受けて、1時間半ほどでグレイドハウスへの船着場に着いた。ミルフォードトラックの出発点だ。
これから54キロの道を三泊かけて歩くのだ。グレイドハウスは20分ほど歩くと着いた。今日はここまで。近くの森を歩くガイドツァーに参加、夕食後に自己紹介があった。45名の参加者、アメリカからが多い。我々も英語で自己紹介。森さんの「ウチのカミさんは山好きなので大丈夫だが、問題は私。古希記念に来たが歩けるか不安」というスピーチが受けた。20年前はクリスマスイブに泊った。無線で明日泊る小屋の宿泊者とメリークリスマス、聖しこの夜を合唱したことを思い出した。

      
 

月18日 ポンポロナ小屋で私のサインを発見

いよいよ今日から本格的な歩き。今日はクリントン川沿いを16キロ歩く。ほとんど平坦な道なので楽だ。
最初は5人一緒に歩いていたが、次第に山内夫妻のペースが速くなり、森夫妻は後退してシンガリに近くなった。このトレッキングは自分のペースで歩くことが推奨されるので、これでよい。
シンガリにはガイドが落穂拾いを務めてくれる。グリーンの美しい水面を見せるクリントン川、両脇にそびえ立つ岩山、そしてその奥には雪を抱いた山々も見える。「世界一美しい散歩道」と言われる所以である。
夕方、ポンポロナロッジ到着、当初、女性と男性に分かれていたが、我々男性部屋に6ヶのベッドがあることに気がついたので、奥様二人を呼び寄せた。シャワーあり、強力な乾燥室あり、食事の前のバーラウンジあり、その代金はトレッキングが終わるまでツケで飲める。
日本の山小屋とはエラい違いの快適さだ。そしてラウンジにあった古いサイン帳に、「1993年12月25日Hiko Oda」のサインを発見! 懐かしく、あの時を思い出した。その時のラウンジはこんなに広くなく、外のベランダが広かったので、そこでワイワイと飲み、話したものだった。

           
 

月19日 うらめしやマッキンノン峠

空は晴れていたが、向かう谷間にガスが湧いているのが気にかかる。今日は一番の見せ場のマッキンノン峠を越える日だ。峠へのジグザグ登りになってもガスは晴れない。時折、さっとガスが抜けると対岸の岩山が日に輝き、空は晴れているのがわかるのに。森林限界を越え、草原の緩やかな道に入るとガスの中にマッキンノンメモリアルの石塔が現れた。ガイドのフミさんが、温かいココアを持って待っていてくれた。
冷えた体に嬉しい。これもこのトレッキングならではのサービスだ。峠道をしばらく尾根伝いに歩くが、ガスは晴れない。大展望を期待して来たのに残念無念。峠のランチ小屋に着いた。ここで朝、ポンポロナで作ってきたオニギリをパックの味噌汁で美味しく食べた。オニギリや味噌汁も以前はなかったサービスだ。
これに参加する日本人は多いということだろう。今回のガイドは4人、そのうち2人は日本の女の子だ。
フミさんとマサコさん。今晩の宿、クインテンロッジに向かって、急な谷間を下る。森さんは下りが苦手らしく、歩幅が狭くなりかつノロくなる。奥さんはどんどん先に行き、はるか先で待っている。勾配がきつい下り道で森さんはバテた。ヨロヨロしてきた。後にガイドのマサコさんがつき、何かとフォローしてくれる。
私の前より、マサコさんの前の方が森さんの足取りはしっかりすることがわかった。
午後になり、マッキンノン峠を見上げる位置に来たら、何と上は晴れているではないか。あの張り付いていたガスは消えていた。「戻れば素晴らしい景色が見えますよ」と言っても、みんなそんな元気はない。いっときも早く、ロッジに着きたいだけだ。ヨタヨタとアーサー川の吊り橋を渡ると、クインテンロッジは近い。山内さんが心配して迎えに出てくれていた。最後尾と思っていたが、後にまだ4名歩いていた。この日のビールはことのほか美味しかった。

     
 

2月20日 船着場までは長い長い道のり

歩き最後の日は21キロの道のりだ。ハーフマラソンの距離である。幸いなことは昨日のような急な登りや下りがないことだ。アーサー川沿いの緩やかな道。1マイル毎に立っているマーカーをつぶしていくことが目標だ。20マイルの道標が33マイルになれば、終着点だ。しばらく行くと、土砂崩れで行けなかったサザーランド滝の上部がマッキンノン峠から続く尾根の合間に見えた。
ボートシェッドの休憩小屋ではヘリコプターの着陸を見た。操縦士自ら降りてきて、ガスボンベを収納庫に運び、空ボンベを吊り下げて飛び立っていった。仕事としてはトラック運転手と同じような感じなのだろう。
ジャイアントゲート滝で最後のサンドイッチを食べ、30マイルマーカーを確認して、あと3マイル強を頑張った。33マイルから、900m歩いて船着場サンドフライポイントだ。午後3時半過ぎに到着、53キロの旅は終わった。ここからミルフォードサウンドの入江を船で渡り、マイターピークロッジに向かう。
20年前はミルフォードサウンドホテルと言った。今はUltimate Hikes社が買い取り、ミルフォードトラック・トレッキング専用の最終宿になったようだ。打上ディナーのあと、完歩証がガイドからひとりひとり呼び上げられて授与された。感無量である。森さん、よく歩いたね!

     
 

月21日 テアナウでの一夜

今日がミルフォードトラックの最終日。既に歩き終わり、完歩証までもらっているのだから、昨日で終わってもよいようなものだが、クイーンズタウンからクイーンズタウンまでが行程となっているので、正式には今日が最終日。ミルフォードサウンドの入江を観光船で回り、バスに乗ってミルフォードサウンドを後にした。我々5名は、引き続き、ルートバーントラックを歩くので、テアナウでバスを下りた。
ミルフォードからルートバーンをつなげるプランは「The Classic」と名付けられている。テアナウで降りたのは17名、人気のあるプランのようだ。明日から歩くので、今日はテアナウ泊りである。テアナウのUltimate Hikesのオフィスでミルフォードと同様の説明会があった。今日は日本人スタッフがいないらしく、日本語ビデオでの説明だった。ひととおり理解し、ホテルにチェックインした。
20年前に泊ったモーテルを探しに行ったが、レイクサイド・モーテルかレイクビュー・モーテルかよくわからない。名前も似ているが、よく似た建物なのだ。家にそのときの写真があるはずと妻に携帯メールしたら、「今、京都にいる」との返信。「そうだった、留守中、京都へ一人旅するというので、往復のバスとホテルを俺が予約したっけ」と気がついた。(帰国後、写真を見たらレイクビューモーテルだった)

     
 

月22日 キーサミットの景観

クイーンズタウンからルートバーントラックを歩く客を乗せたバスが、朝9時過ぎに到着し、出発点のデバイドへそのバスで向かった。デバイドは昨日、ミルフォードサウンドからの途中にあった場所。少し戻る形だ。30名の客に4名のガイド。今回は日本人ガイドはいない。すべて地元ニュージーである。
デバイドからキーサミット目指して森林帯を登る。20年前にはここも歩いたが、雨だった。キーサミットへの分岐でどうするか、ガイドが聞いたっけ。雨なら行っても無駄と行かずマッケンジーの小屋へ向かった。
そんなことを思い出しながら歩いていると、ほどなくその分岐に来た。今日は快晴、迷う必要はない。分岐にザックを置いて、空身で頂上へ向かった。登るに従い展望が開け、360度に山脈が連なっている。遠くの嶺には氷河か雪渓が光り、近くの岩山は人を寄せ付けない険しさで迫ってくる。いずれも2,000mそこそこなのに、大迫力だ。
頂上近くで山内夫妻が下りてくるのに出会った。相変わらず早い。頂上周辺には池等もあり、美しい。その上にアウトルックという所があるようなのでそこまで足を延ばした。キーサミット周辺が美しい庭園になって下に見える。昨日まで歩いていたミルフォードの山々も遠くに見えた。キーサミットから少し下りたハウデン湖で昼食にした。マサチューセッツから来た64才になる女性がミルフォードの最後の方から一緒に歩くようになった。彼女も続いてルートバーンに来たので、今日も一緒だ。昼食も一緒に摂った。
われわれの歩くペースが彼女にちょうどよいのだという。それからもずっと彼女と一緒だった。決して饒舌ではなく、寡黙に近い彼女なので、我々にとってもちょうどよい。イアーランド滝を越し、ホリホード渓谷を間にして対岸にダーラン山脈を左に見ながら歩く。ニュージランド・フィヨルドアルプスの最高峰もダーラン山脈にあるが、2700mの高さだ。八ヶ岳より低いのに真っ白で氷河もあるという。オーチャードの草原を抜け、森の中を下るとマッケンジーロッジに到着した。今宵の宿である。

     
 

2月23日 まさに裏銀座コース

前に泊ったとき、マッケンジーロッジからマッケンジー湖が見えたのに、今回は見えない。なんか変だな?と思っていたが、今朝、湖に来てわかった。右上の小高い所に見覚えある小屋があるではないか。夕べ泊った小屋は2006年にガイドツァー専用に新たに建てたものだったのだ。どうりで綺麗だと思った。マッケンジー湖から急坂をオーシャンピークコーナーへ向かって登り上げる。ルートバーン最大の登りだ。
このトレッキングコースは北アルプスの裏銀座の趣だ。大町奥の高瀬ダムから、ブナ立て尾根の急坂を烏帽子岳に登り上げ、尾根道を野口五郎岳、水晶岳、鷲羽岳、三俣蓮華岳、双六岳、笠ヶ岳と続く稜線だ。左には表銀座の山並みから、槍ヶ岳・穂高の岩稜を常に見ながら歩く。ルートバーンはこれに似ている。傾斜の距離は短いものの、マーッケンジー湖からの登りはブナ立てだ。雪に覆われたダーラン山脈を左に見ながら、山腹のコースを歩く。山また山を越していく感じだ。ハリスサドルの鞍部の小屋でサンドイッチを食べ、標高差400mのコニカルヒルに空身で登った。これが岩尾根で結構きつい。しかし苦労したあとの景色は素晴らしかった。水晶岳に登った気分である。あとはルートバーンフォールズロッジに向かうだけ。
途中の小川で森さん夫妻は靴を脱ぎ、足を冷やして休憩。ガイドのヒラリーが橋のたもとの草原で昼寝しながら我々を待っていた。我々が最後らしい。山内夫妻はもう小屋に着いているのだろう。ルートバーンフォールズロッジは名の通り滝のそばにある。ここも大きく新しくなっていた。
夕食後、懐かしいイベントが始まった。出来立てのパンケーキをガイドがフライパンに載せ、後ろ向きに投げ、それを客が皿で受け取るというものだ。投げるのも難しいが、受けるのも大変だ。床に落とすこと続出。それでもこれを拾って蜂蜜をかけて食べないと今晩のデザートはない。私は受け損ねたが、山内さんは受け止め、自慢気だった。ルートバーンの名物らしく、フライパンからうまく飛ばせないとここのガイドは務まらない。日本人ガイドがいないのはこれに理由があるかもしれない。

     
 

月24日 快晴続きのトレッキング
今朝も良い天気。ルートバーンは毎日が快晴だった。今日は最終日で短い。ルートバーンフラットの草原に下り、ルートバーン川沿に下っていく。途中のランチ場所の河原では川の窪みに何人もの人が飛び込んでいた。女性の飛び込みは絵になるが、男性は写真を撮る気も起こらない。だけど、外人は何と水が好きなんだろう。ミルフォードでもここでも、水たまり(プールという)があれば、泳いでいた。
ルートバーンはスコットランドからの人が多かったが、彼らも裸になってどんどん飛び込んでいた。最後の4キロは森の中、毎日一緒に歩いたマサチューセッツのオバサンともお別れだ。ロードエンドの看板で一緒に記念撮影した。バスに乗って、グルノーキーの町のカフェで完歩証の授与式。三回歩くと、ガイドになれると言っていたが、もう一回来なければならないか。ニュージランドの自然と気候は日本に似ているので、我々には相性がよい。また来たいと思った。

     
 

月25日 クイーンズタウン岳文OB会開催

一週間の山旅を終えて、クイーンズタウンに帰り、今日は休養日。明日から山内夫妻と私はマウントクックへ行くが、森夫妻は帰国する。今日が5人での最後の日、クイーンズタウンの山内さんを混じえて、ご苦労会をやる。場所は山内さん行きつけの河童という日本料理店。マスターは新潟妙高市の出身、新井だという。ロブスターの刺身やサーモン、酢の物、日本ではお目にかかれない食材を美味しく作ってくれた。久々の日本酒も美味しい。山内さんのクイーンズタウンに落ち着くまでの波乱万丈の話も聞けた。奥さんのメアリーさんはアメリカの人だそうな。てっきり地元の人だと思っていたので驚きだ。
ニュージランドという国は人口が少ないせいか、外国人の居住や商売には寛容なのかもしれない。両山内、小田は岳文会OB,期せずしてクイーンズタウンでのOB会ともなった。最後は岳文の旗を持っての記念撮影。「紺碧の空」や「都の西北」は出なかったものの、懐かしき学生時代に戻った気分になった。

     
 

2月26日 マウントクックも晴れ模様

まだ薄暗い朝7時前にサザンエクスプレスのバスがホテルにやってきた。JTBが運行している日本語ガイドのバスである。日本に帰る森さん夫妻に見送られて、山内夫妻と私はクイーンズタウンを後にして、マウントクックへ向かった。薄曇りだが、まだしばらくは晴天が続くとのこと。ほんとうに運がよい。乗客は10数人、我々以外はJTBのパック旅行の客のようだ。途中、フルーツショップや羊毛ショップで休憩をとりながら、マウントクックに近づいてきた。プカキ湖の展望台からは高曇りの空にマウントクックがくっきりと全容を現していた。ガイドは「このように見えるのは稀です。13回目の来訪で初めて見たという添乗員もいるのです。皆さんは幸運」と力説する。そう言えば私も20年前はここに4日いて一度も見なかったっけ。
ハーミテージのモーテルに落ち着き、夕方、レッド・ターンズトラックに出かけた。ここは以前、雨の中を行ったところだ。そのときはマウントクック・リリーが咲き乱れ、山は見えなかったものの花に慰められた。
陽が燦さんと降り注ぐ中、レッドターンへの急な階段道を登って行った。グイグイと高度を上げるとマウントクックもせり上がってくる。クック村は眼下に広がる。ターンとは山中にある池塘、その池を目指して汗をかきながら登った。着いたレッド・ターンは文字通り赤い池塘だった。生い茂る水草が赤いのだという。
モーテルに帰り、シャワーを浴びて、日本から持ってきたザル蕎麦を作り、クイーンズタウンで買ってきたビールとワインで夕食にした。その美味しいこと。

     
 

月27日 フッカーバレー・ハイキング

ホテルに頼んだランチボックス3ヶをもらい、エドモント・ヒラリー卿の像を背景に何枚か写真を撮ってから、フッカーバレーへハイキングに出発。マウントクックをまじかに見れる谷間だ。フッカー川にいくつか架かる吊り橋を渡りながら、近づいて行く。フッカー湖に到着、氷河から溶け出した水と氷が作った湖だ。
ここがハイキングの終点となっているが、その先には氷河の端の青氷の壁も見える。そこまで近づきたいとランチを食べてから出かけた。しかし道らしい道はない。湖岸を歩き、急な流れの沢にぶつかり、それを越えるべく、上部に上がり越えられそうな所を探すものの、急流で岩の間隔も広く、難しい。対岸を見ても道らしい道はない。そこであきらめた。草をかきわけながら、湖岸に戻り、帰ってきた。
マウントクックに登るにはここを行くはずなのにな?と訝しく思ったが、後でガイドの説明では登る人は年に100人程度で、それも尾根を越したタスマン氷河から登るのが一般的とか。フッカーバレーから登る人は少ないらしい。マウントクックは標高3754m、富士山より少し低いが、登るには氷壁技術が必要な高度な山なのだ。

     
 

月28日  セアリー・ターンズ

ミルフォードのガイドのフミさんが、「マウントクック公園ならミューラー小屋へ行くといいですよ」と言っていた。その小屋はセアリー・ターンズに登ってからさらに往復4時間かかる。昨日会った日本人ガイドもミューラー小屋は良いと言っていた。それなら行けるなら行こうではないかと、まずはセアリー・ターンズに向かった。フッカーバレーへの道と途中まで一緒だが、セアリー・ターンズは左の山に取り付く。
この道が、レッドターンズ同様、階段道で更なる急傾斜で長い。真上に登っていく。はるか上を歩いている人が見え、気を萎えさせてしまうような登りが続いた。2時間かけてセアリー・ターンズの小さな池に着いた。ミューラー小屋へはさらに急な斜面を登らなければならない。その道を見上げて、ギブアップ。
ゆっくりベンチで昼食にし、下ることにした。今日も良い天気で、マウントクックはフッカー湖越しによく見える。下り終えて、最後のコース、ケアポイントに行った。ここまで来ると、マウントクックよりも、マウントセフトンの懸垂氷河が目前に大迫力で迫ってくる。時々岩に張り付いた氷が崩れ落ち、ドドーンという音が山々に響く。
宿に帰り、クイーンズタウンで買ってきた韓国製のカップうどんを冷やしうどんにすべく、挑戦した。
一昨日のそばつゆにうどんに付いていたパックつゆを足し、温めてから氷で冷やした。うどんはゆでて、水と氷で冷たくした。つゆを混ぜたら、濃くて奇妙な味になったが、水を足したり氷を入れているうちに、ちょうどよい味となった。それにゆでたまごを添えて食べたら、結構おいしかった。ワインのつまみにもなった。マウントクック最後の夜はこんな風に更けていった。

     
 

月10日 二匹目のどじょうはいなかった上高地

岳文OB恒例のスノーシューハイキングで蓼科に12名のOB/OGが集まった。
48期の設楽さん、三木さん、山田さんの若い女性が参加し、今までのOLD OB/OGの集まりが急に華やかになった。孫のような若いOGと話が合うか危惧する向きもあったが、同じ岳文というキーワードがすべてを解決してくれ、和気あいあいの三日間だった。
行く先は上高地、数年前の大快晴の上高地を経験しているだけに期待も高まった。蓼科を出たときよく晴れていた。松本に近づくにつれ、曇りがちになり、常念岳も見えない。沢渡では雪が舞い始めた。
「昨日は素晴らしかった」とタクシーの運転手は言うが、慰めにもならぬ。長い釜トンネルを抜けて、大正池に出たが、雪は止まず。ここでスノーシューをつけた。小降りの雪の中を田代池から河童橋へ歩いた。
穂高は見えぬが、白一色の上高地は静寂で、森の木々は雪を冠り、美しい。雪舞う森を歩くのもまた楽しい。小梨平のビジターセンターの屋根の下で昼食とした。この時間帯だけ、突風が吹き、寒いのなんの。キャンプ場をバックに記念写真を撮り、早々に帰路につく。
バス通りの道に入ると、風も止み、また静かなスノーハイキングが楽しめた。若い女性陣は雪の中に倒れ込み、人型を作って楽しんでいた。山は見えなかったが、上高地の銀世界を楽しみ、蓼科に帰着し、温泉でゆったり疲れをとった。打上げは鴨鍋、寿司、サラダ、漬物多種と豪華。ビール、ワイン、日本酒がどんどんとなくなる大宴会となった。とても楽しいスノーハイキングだった。

     
 

【上へ戻る】

1 月

月27日 新年阿波踊り

新年恒例の中々連新年会。今年は高田馬場の呑み屋”弁慶”だ。
新座こぶし連から6名も参加してくれて、25名と多く、盛り上がった。おかめ・ひょっとこ踊りの余興もあり、最後はテーブルを真ん中にかためての新年阿波踊りぞめ。掛け声勇ましく、ヤットセーヤットセーで今年も夏の高円寺で踊り狂う約束をして別れた。

     
 

1月12日 ヨハンシュトラウス

昨日は落語、今日シンフォニーである。八王子オリンパスホールでヨハンシュトラウス管弦楽団のニューイヤーコンサート。三年前にウイーンに行って、地元のヨハンシュトラウス人気に感化されて好きになった。
特にポルカの軽快なリズムがいい。今回もシュトラウスファミリーのいろいろなポルカ、ワルツが次から次へと奏でられ、楽しい。最後はラディツキー行進曲で、手拍子高く終わった。いかにも新年らしい演奏会だった。蓼科弦楽カルテットもヨハンシュトラウスをやるとよい。公演後に買ったCDに指揮者からサインをもらった。

     
 

1月11日 小朝・三平・正蔵

川島さんのいとこの林家正蔵、林家三平さんと元身内の春風亭小朝の三師匠の落語会が日野市民会館であった。川島さんからチケットをもらい妻と出かけた。三人の話は末広や紀ノ国屋ホールなどで聞いたことがある。特に正蔵さんのは襲名披露の末広の高座が印象に残る。古典落語の正蔵師匠は襲名直後の硬さが取れ、話もとても上手くなった。三平さんの方がうまいのではないかと以前は思っていたが、今日の内容はお兄さんの勝ちである。さすがは兄貴の貫禄か。小朝師匠は相変わらずのうまさである。
川島さん、ありがとう。

     
 

月10日 山荘カルテット東京デビュー

片貝さんひとりで始まったチェロ独奏会から9年、昨年秋の弦楽カルテットの4人が、BPIA新年会で演奏することになった。いよいよの花の東京デビューである。正月早々にも練習したそうだ。曲はイエスタデイ・ワンス・モア。新年には少し寂しすぎる曲だった。みんな緊張しているのがよくわかる。リズムも時々合わない。昨秋のできと比べて、今イチだ。それでも弾き切った。拍手喝采!来年に期待したい。もうひとつの出し物、ハワイアン・フラダンスは人数も多く,圧巻だった。

     
 

1月8日 初滑りはエコーバレー

暮れに柿本さんが滞在されたあと、31日に日帰りで水抜きをして帰った。ベッドメーキングなどは後回しにしていたので、正月明けに来てセットした。せっかく来たのだからと三日ばかり山荘に滞在し、コタツで読書などしていたが、今日8日は快晴なので、スキーに行くことにした。スキーズボンは?と探すがない。
シーズン明けにクリーニングに出したことを思い出した。日野の家に置いたままだった。ヤッケも一緒だった。それならと裏地付きのズボンにジャンパー姿で滑ることにした。エコーバレーはこの辺りのスキー場の中ではコースがうまく設定されていて好きな所だ。ただ狭いので、1時間も滑るとあきてしまう。
今日はシニアデーとかで、リフト一日券が2,000円だ。昼前に行って、2時過ぎまで滑った。浅間山が真正面にきれいに見える。八ヶ岳も美しい。北アルプスは斜面の裏側なので、尾根をひと登りしなければ見えない。昼飯もとらず滑ったので、お金はリフト代だけで済んだ。帰ってきて、早めの夕食を準備して、風呂にも入り、コタツに入って、湯豆腐で今日のご苦労会をひとりでやった。乾杯!

     
 

【上へ戻る】