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蓼科日記

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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。
毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2016年>


 
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<2005年>
 (2005年分は、こちらからリンクします。)

 <2006年> (2006年分は、こちらからリンクします。)

 2007年> (2007年分は、こちらからリンクします。)

 <2008年> (2008年分は、こちらからリンクします。)

 <2009年> (2009年分は、こちらからリンクします。)

 <2010年> (2010年分は、こちらからリンクします。)

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 <2014年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

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 <2018年> (2018年分は、こちらからリンクします。
 

2016年

12月

12月29日 暮れの日野散歩

日野界隈の暮れは晴れていると、高台からは富士山、中央高速道路や立川の市街が遠望できる。そんな町を体力作りに歩くのも楽しい。甲州街道の宿場だったので、宿場入り口にはいくつもの地蔵様が並んでいる。この季節、空気も澄み切った日は日中になると暖かく、歩いても清々しい。私のパターンはいくつかあるが、そのひとつを辿ってみよう。
図書館へまず行って新聞各紙を読む、それから郵便局で投函したりして、日野駅前のみずほ銀行で記帳、振込をして必要な一連の作業を終わる。それから旧甲州街道の西の入り口に立つ地蔵に挨拶、ここは以前は中央線の踏切だったが、今は閉鎖されている。それから日野台に続く坂道を登り公園に出る。
ここには明治天皇巡行休息地の石碑が立っているので、昔の街道沿いだったことがわかる。狩りの場所でもあったらしい。中央道を渡る陸橋を越す。ここでしばし、上り下りの車の流れを見るのも楽しい。特に週末は信州方面へ向かう下りの流れがはげしい。陸橋を渡って、しばらく中央道沿いの住宅街を歩き、こんどは市役所方面への切通し道に架かる歩道橋を渡ると、百段階段の上に来る。ここから立川方面の眺めがよい。中央道を越して多摩川や、わが家の近くのエプソンがよく見える。そして急な階段を用心して下りる。手すりに掴まって下りるようになったらお終いだな、と思っていたが、最近は時々掴り歩きをしていることに気づき愕然とする。124段の百段階段を下りるとわが家は近い。小一時間のほどよい散歩である。

      
        写真・左 西の地蔵           写真・右 百段階段からの遠望
 

12月27日 正月待つ山荘

11月末に来た時積もった雪はすべて消え、晩秋の装いに戻っていた。根雪になると思っていたが、その後は暖かくなり、雪は降らなかったらしい。この冬は寒いと予想されていたが、最近は暖冬予想に変わっているようだ。それでも今日は朝から雨になっていたのが、山荘に着いた昼過ぎから雪に変わってきた。
1時間もすると庭一面が真っ白になった。30日から正月を過ごす人は雪見が目的だったので、これでひと安心だろう。わが家の棟の水入れをまずやり、薪ストーブに火を入れて部屋を20度にする算段だ。部屋の中は零下になっていないので、そんなに寒くない。真冬に来るとマイナス10度のときもあり、摂氏20度cにするには30度も上げなければならない。こんなときは大変だ。半日以上はかかる。その点ゲスト棟は石油ストーブなので、すぐ点灯し、暖まるのも早い。特に2階は暖気が上がってくるので、暖かくなるのに時間はかからない。雪が少ないときは駐車場の雪かきが不要なので助かる。今日も着いたときは雪はなかったので、停めた下の駐車スペースは地肌が出ている。ゲスト棟の水入れもやり、暖房装置フル稼働で室温を上げて、お客の到来を待つ。

      
       写真・左 今度は根雪か?           写真・右 客待つ山荘
 

12月23日 私の誕生日

私の誕生日は天皇陛下と同じである。10歳ちがう。天皇は83歳、私は73歳になった。子供の頃は「早く天皇になってくれ」と楽しみにしていたが、今となっては祝日になっても何の嬉しさはない。最近は高幡不動のオオマサで家族で食事をするのが誕生祝になった。長女がソウルに行ってしまったので、去年からは次女と妻の3人だ。今年もささやかな祝いとなった。マグロのほお肉が美味しかった。前立腺ガン治療直前でホルモン剤の影響から肝機能に障害が出ていて、アルコールは控えるように言われているので、生ビールいっぱいにして、あとはウーロン茶だ。寂しい限りだ。重粒子線治療でガンが完治しても肝機能障害は残るのではないかと不安である。薬の種類も増え、行くべき医療機関の診察カードも増え、治療費も健康保険3割負担に増え、今年はわが身に大変化の年となった。誕生日も嬉しさより、これから来る不安いっぱいの日となった。

      
       写真・左 オオマサ寿司           写真・右 まぐろのほお肉
 

12月18日 歌の早慶戦

府中の森芸術劇場で「早慶歌合戦」という催しがあった。盲人図書館協会主催のチャリティーコンサートだという。早稲田はグリークラブ、慶応はワグネルソサイエティのOBが出演する。司会は岳文会50周年でお世話になったNHKの柿沼郭さんだというので、妻と出かけた。
総勢200名近い、両合唱団OBが舞台に勢ぞろいしてのオープニングは壮観である。それぞれの得意分野の歌曲で始まり、次のステージはおなじみの歌、慶応OBの加山雄三の「君といつまでも」、早稲田はグリーOB・ボニージャックスの「カリンカ」だ。柿沼さんが、「君といつまでも」の後で、「早稲田にはそんな歌はありません。失恋の歌はいっぱいあるけれど・・・」と言ったのは秀逸だった。「若き血」、「紺碧の空」と続き、「都の西北」と「慶応塾歌」は両校全員での合唱となった。ライバルと言われるが社会に出ると。お互い仲良しということも多く、良い因縁の早慶だ。今日の出来栄えはグリーが上だった。ワグネルはハーモニーはきれいなのだが、強く歌う所の迫力がイマイチという感じがした。それでもよい演奏会であった。

      
       写真・左 早慶歌合戦         写真・右 グリー・ワグネル勢ぞろい
 

12月12日 早稲田最大の偉人

早稲田で「杉原千畝とタデウシュ・ロメル」”第二次世界大戦中、ユダヤ人を救った二人の外交官”という講演会があった。ロメルという人物は聞いたことがなかった。初代駐日ポーランド大使だった人物とのこと。
ワルシャワ大学日本語学科のルトコフスカ教授の話で彼の活躍がわかった。1939年から40年にかけて、当時リトアニア領事代理・杉原千畝がホロコーストを逃れてリトアニアに来たユダヤ人・2000人にも発給したビザで日本に大量の避難民が押し寄せた。ほとんどがポーランドから逃れてきたユダヤ人だった。
ロメル駐日大使は日本に来たユダヤ人を保護するとともに、希望を聞きながらアメリカ、カナダや中東へ渡る手配をして、ユダヤ人の渡航を助けたという。杉原が動いてユダヤ人の第一次危機を救ったとしたなら、ロメルはその後の希望に続く道を切り開いた人物なのだ。ところがこれにはさらに前段の物語があることがわかった。講演後の質疑の中で会場にいた大鷹節子さんの発言であった。私はこの名前に聞き覚えがあった。オランダ大使だった大鷹正氏の奥様だった。オランダ赴任中に杉原ビザに関する話があったという。

杉原千畝がリトアニア領事代理時代にオランダのリトアニア領事はヤン・ズヴァルテンディクという人だった。彼も人道主義からユダヤ人迫害に心を痛め、オランダとしての手助けを考えていた。それはバミューダ諸島のオランダ領キュラソーへの入国ビザを発行することだった。大西洋を渡れば直接行けるのだが、既に制海権も制空権もナチスドイツに押さえられていて難しく、シベリア、日本経由で行く道しかなかった。
そこでヤン・ズヴァルテンディク領事は杉原に日本通過ビザを発行するよう依頼したという。彼が日本外務省の許可を求めている間に、ヤンはオランダ・キュラソー入国ビザを大量に発給した。そしてある朝、杉原は、領事館前に多くのユダヤ人が集まっているのを目にすることになったのだ。色よい返事を寄越さぬ外務省にしびれを切らし、「外交官としてでなく、人間として決断して」彼は日本の通過ビザを発行することになった。
大鷹さんは戦後の赴任当時、ヤン・ズヴァルテンディク身内の方から、「私どものビザ発行で、杉原さんには大変な迷惑をおかけしてしまった」と謝られたという。これですべての話がつながった。オランダの領事の行動が、杉原領事を突き動かし、ロメル大使をも動いて、ユダヤ難民を救ったのだ。善意と良心のリレーでユダヤ人は救われたのだ。杉原さんは”日本のシンドラー”と称えられるが、ヤンさんもロメルさんもそれぞれのシンドラーなのだ。大鷹さんの発言を「講演内容とは違う」と言ってさえぎろうとした早稲田の司会者の了見は狭い。早稲田の構内に「外交官としてではなく人間として当然の正しい決断をした」と記された杉原さんのレリーフがある。早稲田は数多くの人材を輩出しているが、杉原千畝は早稲田が輩出した最大の偉人ではないだろうか。
      
      写真・左 講演会パンフ           写真・右 杉原千畝顕彰碑 
 

12月9日 岩原山小舎の仲間

越後湯沢の近くにある岩原スキー場、イワッパラと読む。加山雄三のお父さん・上原謙が経営していたことで知られ、昔はザ・ピーナッツ、フランキー堺などおおぜいの芸能人が集まるスキー場として有名だった。
この麓に小さな山小舎があった。電気のないガス灯、水道は湧き水からの引水、石炭ストーブの小屋だった。この持ち主は中学校同級生・林君のおじさん、大学に入って次の冬、ひとシーズン10万円で借りることになった。50年以上前の話である。同じ早稲田に入った林君は探検部、私は岳文会、仲間を募り、ひとり1万円の出資で集めた。そして冬の間は小さな小屋にこもってのスキー三昧、小屋に帰っては自炊で毎日酒盛り、青春を謳歌した日々であった。
これが蓼科の山荘ルーツと言ってよい。林君はリタイアしてから釣りにこり、熱海に別荘を持った。ここに深澤、近藤、私の山小屋仲間が集まった。同じ屋根の下に泊るのは50年ぶりである。私以外はスキーから離れてしまったが、4人集まれば、あの岩原の日々の話である。林君手ずからの岩魚やヤマメ料理での酒はおいしく、どんどん進む。翌日は浄蓮の滝や天城隧道に案内してもらい、懐かしく楽しい二日間を過ごした。「こんどは湯沢で集まろう」と再会を約して別れた。

            
         写真・左 林邸                 写真・右 浄蓮の滝
 

12月3日 立教での講演会

立教大学・セカンドステージ大学主催の松平定知さんの「異聞真田幸村」の講演を立教大学に聞きに行った。彼は早稲田卒ではあるが、NHKのアナウンサーをリタイアしたあと、立教のセカンドステージ大学で講師をしていたという。一種のカルチャーセンターだが、立教のは1年間通っていくつかの講座を受講して単位をとって終了する、入学試験もあるという本格的なものである。学生と同じ講座も受けられるという。
卒業生も数多く、今日はそこの主催公開講座というべきものだ。今日のテーマの何が”異聞”というと、真田幸村(信繁)は徳川方についた兄・信之の実際は兄であったというものだ。それはいろいろな史実を分析するとそう思えてならないというのが松平さんの説だ。信繁が兄で、信之が弟というわけである。そんな気がしないでもないが、松平さんが分析、解説するとさらにもっともらしく聞こえるのはさすが名アナウンサーであるからか。講演を聞いて外に出るともう夕暮れ、立教の構内の木々は黄葉して美しく、大きなモミの木にはクリスマスの電飾がされていて、点灯を待つばかり。講演から出てきた老婦人グループから、「立教は大学らしくてすてきね、校内がとても美しく学園、学園していて、こんな大学で学びたかった」の声が聞こえてきた。私も同感である。

      
       写真・左 講演会看板              写真・右 立教校内
 

12月1日 クリスマスの月始まる

もう12月、1年が過ぎてゆくのは早い。歳をとってきたらなお早く感じるようだ。わが家の玄関にもリースが飾られ、その下にマトリョーシカ人形も並べられた。新宿の街に出てみると木々のイルミネーションが輝き、いよいよクリスマスシーズンに入ったのだな、と実感する。小さい頃、12月23日から大晦日の一週間が好きで、とても待ち遠しかった。私の誕生日、クリスマスとイベントが続き、除夜の鐘でお正月を迎える。
ウキウキする季節である。寒く暗い季節ではあるが、12月後半の高揚感は今でも好きである。
そんな12月が始まった。

            
       写真・左 クリスマス支度           写真・右 クリスマス模様
 

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11月

11月27日 山岳フォーラム松本

今年の山岳フォーラムは山の日祝日がスタートしたとあって、それに関する話が多かった。「山の未来」やら「安全登山」などなど。長野県が誇る学校登山をもっと全国的に広めようという話題もあった。小さい時から山に親しめば、大人になって自然を愛するようになるという趣旨だ。そしてステップアップ登山、最初から槍穂高をガイドブック頼りで登ろうとするのは無謀だ。ひとつひとつ山のレベルを上げながら登山すべきだ、などという話はこの夏に山の日発足記念シンポジウムで話題となっていたテーマと同じだった。どうやって実践に移していくかがこれからの課題である。
記念講演は早稲田の学生でこの春にエベレスト女性最年少登頂や7大陸最高峰最年少登頂記録を達成した19歳の南谷真鈴さんの話だった。ほとんどの記録が大学に入ってからの2年間の山行なのだ。
山岳部や岳文会にも入らず、ひとりでアメリカの公募隊などに入っての登攀なのだ。毎月のように出かけていっている。合間には訓練で八ヶ岳に行って滑落したり、うら若き女性とは思われぬ活動だ。
海外赴任の父と一緒に外国に長くいて、高校生のときの香港で香港すべての山稜に登って、登山に目覚めたという。次の舞台が日本の山でなく、世界の山岳というのがいかにもインターナショナルに育ってきた女性らしい。早稲田には帰国子女枠で入り、「明日は統計学のテストがあるので、頭が痛い」と言うあたりは学生らしいが、スケールは大きく、これからが楽しみな山岳界逸材誕生だ。

      
       写真左・山岳フォーラム              写真右・南谷真鈴さん
 

11月24日 雪が降ってきた
まだ11月の勤労感謝の日の翌日というのに、東京には大雪警報が出る事態となった。蓼科へ行く日なのに困ったものだ。今度の日曜に松本で開かれる山岳フォーラムへ参加がてら山荘の大掃除を兼ねて、と思ったが躊躇するような雪降りだったが、午後には止むというので出かけることにした。
幸い、中央高速は通行止めになっておらず、チェーン規制だけだった。いつもより車は少ないが、スピードは出せない。談合坂あたりに来ると、車が詰まり始めた。2車線ずつ分かれる所で、片方だけにしていたためここで詰まったらしい。それでも笹子トンネルを出ると徐々に解消し、いつもの流れになった。
雪も止み、韮崎辺りは積雪もない。しかし小淵沢、富士見に来ると再び雪が舞い始めた。今日は安全を期し、諏訪インターまで行った。蓼科へ着く前に、ニトリで洗濯かごを買い、福寿屋でワイン、Bicで食料と石油を買って山荘に着いたときはもう夕暮れの4時だった。
水入れをして、ストーブに火を入れたときにはもう暗くなりかけていた。下の駐車場への4号線は除雪がされていないので、上の道路わきにスペースを作って一時しのぎの駐車場を作ることにした。妻にも雪かきを手伝ってもらい、1台分の除雪をした。終わったとき、日は暮れていた。室内は零下5度cだったが、暖房器具総動員で温め、20度cになったのは夜8時を過ぎてからだった。まるで真冬並みの作業を必要とした11月の山荘生活だった。

      
       写真左・真冬並みの山荘            写真右・一時駐車場
 

11月20日 山茶花はよく咲く

山茶花究という俳優が昔いた。ずっと”ヤマチャカキュウ”と呼んでいた。山茶花を”さざんか”と読むと知ったのは中学生になってからだ。それで山茶花という花に興味をもち、自分が家を建てたら、庭に植えようと思っていた。実現したのは、日野のこの地に約40年前に家を持ったときだ。
一本植えた。その年だったか、翌年だったか忘れたが晩秋になると紫ピンクの花をつけた。そして毎年、その花は増えて、木全体が花かごのような状態になる。今年も山茶花満艦飾である。肥料も何もやらないのに、年々増えていくのだ。そしてこの花が咲くと、もう年の暮れだなと思う。それにしても見事な咲きっぷりだ。俳優の山茶花究は味のある役者だったが、花の山茶花も味のある花である。

                
      写真左・わが家の山茶花               写真右・花いっぱい
 

11月8日 八ヶ岳農場のシクラメン
信濃毎日新聞に「八ヶ岳農場のシクラメン販売開始」のニュースが載っていた。東京との行き帰りに時々通る道に八ヶ岳農場がある。農業実践大学の看板があり、ここの学生さんたちが丹精込めて咲かせたシクラメンなのだ。この時期、行ったことがなかったので、東京への帰り道に寄ってみた。
いつもの野菜販売所の上に三棟の温室があり、そこが販売所だという。入ってみると広い温室いっぱいにシクラメンの鉢が並んでいる。壮観である。ミニから大鉢までぎっしり詰まっている。小ぶりのちょっと花びらが変わったピンクと白のふたつを買った。日野の家の玄関先をこの冬も彩ってくれることだろう。

      
   写真左・温室いっぱいのシクラメン        写真右・買ってきたシクラメン
 

11月7日 雪を待つ晩秋の山荘

演奏会の客もみな帰り、山荘に静寂が戻ってきた。この季節の静寂はほんとうに寂しさを感じる。
特に夜、周りに明かりもなく、ひとり薪ストーブの前にいると外の物音にびっくりする。たまに玄関への階段を上がってくる音がする。動物の足音なのだ、トントンと小さな音は狸、ドンドンと人が来たようなときは鹿なのだ。食べ物を探しにやって来るのだろうか?
みんなが帰ったあとは洗濯に忙しい。晴れていると写真のように1階と2階のベランダはシーツの干し場になる。今の時期はカラマツの細かい葉が降り注ぎ、洗濯物に積もる。取り込むとき、葉っぱ落としのひと手間が増える。そして雪が舞う季節が確実にやってくる。四季の移り変わりは、温暖化に関係ないようだ。

      
        写真左・晩秋の山荘            写真右・カビが生えた薪
 

11月5日 山荘での追悼演奏会

毎年山荘で演奏会をやっていた片貝さんがこの2月に亡くなった。山荘ができて2年目の春、片貝さんはチェロの練習にやってきた。練習だけだとつまらないでしょうから演奏会をと勧め、その秋から始まった。
最初はチェロ独奏会だったが、翌年にはチェロふたり、年々、バイオリン、ビオラが増え、時にはフルートも入るようになった。コーラスが加わったときもあった。客集めに苦労する演奏会だった。私ひとりが聴衆というときもあった。最近は田口さん夫妻が常連に定着してくれた。
一緒にやっていた仲間の荻島さんと渡辺さんの協力で追悼演奏会をやることにした。マンドリンの灘井さんも加わった。メールやホームページで大々的に案内したが、客は田口さんに加えて、片貝さんとセミナー仲間の遠藤さん夫妻と私の5人だった。最後まで客集めに苦労する演奏会となった。しかし、片貝さんをよく知っている仲間うちの演奏会はしっとりと静かに進み、追悼にふさわしい演奏会となった。片貝さんの好きな曲”ドナウ川のさざなみ”は音色がピタッと合って、すばらしかった。最後に鎮魂歌でみんなで歌った”千の風に乗って”では、涙がこぼれるほどであった。翌日、演奏者を茅野駅に送っていき、来年は”三回忌演奏会”をやろうということになった。片貝さんが生んだ演奏会が、このように育って、続いていきますよ、安らかにおやすみください。

      
      写真左・在りし日の片貝さん            写真右・演奏風景
 

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10月

10月21日 奥志賀キノコ狩り

奥志賀のベルサルームズが経営形態を変えたことを記念して始めたキノコ狩りも3回目を迎えた。
吉田きのこ先生の指導のもと、雑魚川沿いの林に入ってキノコを探す。去年はブナハリタケ群落の木を発見して興奮したが、今年は同じあたりに入り込んだのだが、その木が見つからない。
時期が遅かったので、もう既に採られてしまったのか、今年は出なかったのか。その代わり、ムキタケという、これもまた木に生えるキノコに巡りあわせた。竹竿を2本つないで下からつつくが、届かない。昼めしに宿へ戻って、午後は脚立持参で森へやってきた。代わる代わる脚立に上がって、竿を伸ばす。下から押し上げれば取れそうなのだが、なかなか定まらず、四苦八苦。それでもうまく引っかかったときには、パラパラと落ちてくる。キノコ採りというより、柿もぎのようだ。それなりの量が採れた。
夕飯のキノコ鍋はムキタケのしこしことした歯触りで、とてもおいしい。今年も収穫の多いキノコパーティとなった。

      
      写真左・奥志賀の紅葉             写真右・キムタケ大豊作
 

10月15日 秋の神宮球場
この秋はイギリスへ出かけた関係で、秋の六大学野球にはご無沙汰となった。この週末だけが神宮に来れる日。早明戦と慶立戦だ。明治は優勝候補にいちばん近く、早稲田に勝てば決まりだ。わが早稲田は何せ春は5位である。主力が卒業するとダメになる典型例のようなチームになってしまった。秋もパッとせず、何せ打てない、エースの大竹も絶不調でベンチにも入っていない始末だ、明治に勝てるわけがないが、この秋、初めての六大学野球なので、応援に行った。
序盤は互角だったが、後半は延長まで持って行ったが、地力に勝る明治に最後はやられた。
(二戦、三戦はワセダが勝って、明治から唯一勝ち点を奪った、お見事!)。慶応、立教戦は外野で見た。神宮の外野で、双方の応援を聞いていると、遠い昔、学生時代に戻れるような気がして、うれしいのだ。
応援メドレーのリズムも体に沁みて、何とも言えない幸せ感に包まれるのだ。やはりシーズンには一回は来ないといけない。

      
        写真左・慶応応援席            写真右・外野手に夕陽と影
 

10月 念願のイギリス旅行

妻念願のイギリス旅行がようやく実現した。
昨年行く予定にしていたが、私のアルプストレッキングが入ってしまい、後回しになってしまい、妻カンカンのいわくつきの旅行となったものだ。アルプスのあと、イギリスで待ち合せようと言ったら、「何考えてんの!、もうあなたとは海外旅行しない!」とオカンムリになり、何とかなだめて、今日の出発にこぎつけた旅行なのだ。
前半は9月の日記に、後半は10月の日記に分けてあるので、続けて読まれる方は9月から読み始めてください。

         
        写真左・コッツウォルズ          写真右・アガサマイルと共に
 

10月1日〜13日 イギリス旅行後半

10月1日 レイコック、カースルクーム

バイブリー最後の日は、ソニーにいた原田さんに勧められたレイコックとカースルクームに行くことにした。生憎、雨模様の天気だが、車なら心配ない。コッツウォルズ南部のはずれに位置するふたつの村、レイコック・アビーにまず向かった。13世紀に修道院として建てられたが19世紀には写真黎明期に活躍したフォックス・タルボットの邸宅に使われていたという。ハリーポッターの映画撮影ロケ地にもなったレイコック・アビーは印象深い。サッカーグランドのベンチでサンドイッチの昼食をとり、コッツウォルズ最後の訪問地カースルクームに向かった。だんだん細くなる山の中の道路を進むと古い家並が現れた。駐車場はいっぱいだったので、道路脇に駐車し、村の中へ歩いて行った。The Streetと呼ばれる細い道路沿いにこじんまりしているが花に彩られた小さな家がずーと並んでいて、とても美しい。ここは最も古い家並が並ぶ村として有名とのこと。いい所がコッツウォルズ最後の訪問地になった。とてもすばらしい幕切れとなった。

      
       写真左・レイコック・アビー          写真右・カースルクーム
 

10月3日 湖水地方へロングドライブ
コッツウォルズにサヨナラする日だ。湖水地方へロングドライブ、300キロ以上あろうか?フロントの女性に聞くと"Less than 4hours"とこともなげに言う。スワンホテルの従業員は若い人が多く、対応も定型的で、ホテル学校のインターンシップの学生のような感じだ。地元の従業員はいないみたいだ。
バイブリー村を出ると、ナビはグローセスタへ誘導し、そこからM5のハイウェイに入り、バーミンガムへ向かった。湖水地方の宿、リンデス・ハウ・カントリハウス到着予定は午後2時と思いのほか早い。昼食をとサービスエリアに入った。ケンタッキー・フライド・チキンがあった。矢印に従っていくと、ハイウェイを陸橋で渡り、反対側のエリアに行った。コールスローがお目当てなので、チキンはなんでもいいのだ。ケンタッキーのコールスローはどこで食べてもおいしいね。
バーミンガムを過ぎてM6に乗り移り、マンチェスターを目指す。マンチェスター近くなったら渋滞が始まった。なかなか進まない。ナビの到着予定も遅れていく。大都市周辺の渋滞はいずこも同じである。それでも渋滞を乗り越えて、M6で北を目指す。Kendal という町でハイウェイを下り、湖水地方へのローカル道路に入った。野を越え、森を抜け、ボウネスのリンデス・ハウに着いたのは午後3時過ぎ、予定より1時間遅くなったことになる。
また2階かと思ったが、1階というのでスーツケースを運ぶのに楽と喜んだが、部屋は湖の逆で駐車場の前だった。残念だが、荷物を考えるとこれでもよいか。夕陽の湖を見にホテルの庭を下りてウインダミア湖へ歩いた。この夜のホテルのディナーはマスを頂いた。味はまあまあだが、いかにも湖水地方らしかった。このカントリハウスはピーターラビットの著者ビアトリクス・ポターがお母さんの家として買って、住んでいたものだ。それだけに住み心地のよい大きな家で、リビングや応接間にはポターファミリやピーターラビットの絵や写真が飾っている。

          
     写真左・リンデス・ハウの夕食          写真右・ポター家族の写真
 

10月4日 ピーターラビットの村

湖水地方滞在はこの一日だけなので、行く場所を絞らなければならない。ピーターラビットの世界か、詩人のワーズワースの世界か。妻も私もワーズワースは知らない。ということで、ピーターラビットの著者・ビアトリクス・ポター関連を訪ねることにする。まずはポターが過ごしたニア・ソーリー村のヒルトップを目指した。
ポターはロンドン生まれだが、小さい頃、避暑に来ていたこの地が好きで、ピーターラビットで当たってから、湖水地方の牧場や野山を次々と買って作家生活をおくっていた。ヒルトップは物語に出てくるモデルにもなった家である。ニア・ソーリーまでアンブルサイトを廻って車で行った。切符売場前の狭い駐車場に幸い停められた。帰りぎわにはたくさんの車で駐車場に入れなく、道路にいっぱい待っていた。我々は運がよかった。そこから道路を上がっていくと、ヒルトップの家に着いた。ポターが生前使っていたままに寝室や居間が保存されていて、挿絵のモデルになった場所もいくつもあった。来る前に渋谷でビアトリクス・ポター展を見てきたので、物語の絵と照合でき、とても興味深かった。ヒルトップの家を出ると、モス・エクレス湖への標識があったので、行ってみることにした。ポターが”私の湖”と愛して止まなかった湖である。
ニア・ソーリーの村から牧場地帯へ上がり、小一時間歩いて到着した。周りは森と牧場に囲まれた小さな湖だった。美しい。ニア・ソーリーの村に戻り、隣村のホークスヘッドへ行った。ここにはポターの夫の弁護士がオフィスとして使っていた家があり、今はギャラリーになっている。作家生活の歴史がわかる展示があった。山の上にターンハウズというポターが買った湖があるというので、そこへ車を走らせた。
そこからは湖水地方の森や湖が一望できると聞いて行ったのだが、それほどでもなかった。道を迷い迷いしながら走っていくとウインダミア湖対岸の我々が泊っているホテルのあるボアネスへ行くフェリー乗り場に来た。待つこと30分余、車に乗ったまま10分ほどで対岸に着いた。あっけない帰り道だった。これにて湖水地方の旅は終わった。

      
       写真左・ヒルトップの家            写真右・ポターが愛した湖
 

10月4日 エジンバラへ

ウインダミアの町でお土産を買って、エジンバラへ向かった。道を間違えたようで、山岳地帯に入り、峠を越えて、こじんまりした湖の脇を走って、Carlisleの町からM6から続いているA74のハイウェイに乗った。
途中のサービスエリアでカフェテリアに入ったら、カツカレーがあるではないか。チキンだが迷わず注文、妻はラザニアだ。馴染みのものなのでおいしく感じた。A702を通ってエジンバラの町に入ったが大きな町である。スコットランドの首都である。ホテルに着いたら車を返すので、ガソリンを満タンにした。ところがナビに入れた郵便番号がまちがっていたのか、誘導された通りに目指すホテルはないし、通りもひなびている。そこでレンタカーのオフィスに行ってそこからタクシーでホテルへ行くことにした。
レンタカーオフィスを登録し、ぐるぐる回りながらレンタカーオフィスに何とかたどり着いた。何年か前のウイーンを思い出した。あのときも市内で迷い、ホテルに着いて、タクシーの後をついてレンタカーオフィスへ行ったけ。走っている間にオフィスを見つけて、そこへ入ったのだが、案内役のタクシーは先に行ってしまい、結局、運賃を払わなかった。運ちゃんには悪いことをした。
翌日から拾った場所に何回か行ったが、くだんのタクシーが来ることはなかった。大きな町の道路事情は複雑でむずかしい。ナビがあっても苦労する。車を無事、何の問題もなく返し、タクシー乗り場へ出て、「ラディソンブル・ホテル」と言ったら、OKと走ったが、一方通行が多いらしく、回り道をしながらようやく着いた。20ポンドを渡した。これからは車なしの旅である。ロンドン行きの列車を調べるために、チェックインしてからウェイヴァリ駅へ歩いていった。ホテルから近かった。レンタカーオフィスも駅の近くだったが、こことは違う駅のようだった。大きな駅でスーパーもある。ここで寿司パックを見つけた。ビールも買って、ホテルへ戻り、夕食とした。

      
     写真左・スコットランドへの道           写真右・今宵の夕食
 

10月5日 エジンバラ城は大きな街だ
朝食後、再びヴァイブリ駅に行き、明後日のロンドン行きの切符を買った。そしてエジンバラ見物に廻った。まず目指したのはエジンバラ城は市内の岩山にそびえる大きなお城。幾度もの戦闘を越えて、今に至る城で、城内には教会、公会堂、王宮など、捕虜収容所もある。まさに町のようである。
捕虜収容所は第二次世界大戦でも一時使われたこともあるという。見学後は一旦、ホテルへ帰り、昼食。少し休んでから、再び町へ。城とは反対側にあるホリルードハウス宮殿へ行った。ここは英国王室が所有していて、エリザベス女王や皇族が来た時の宿舎となる。エジンバラ城の王宮には泊らないのだ。
スコットランドを征服したと思われたくないのだろうか?日本語案内の音声イヤホンがあり、よく理解できる。スコットランド女王だったメアリーの血なまぐさい歴史もこの宮殿に刻まれていて興味は尽きない宮殿である。

      
       写真左・エジンバラ宮殿            写真右・ホリルード宮殿
 

10月6日 静かなりネス湖

エジンバラまで来た本当の目的はネス湖へ行くことだった。ネッシーの名で、長年、世界を騒がせた怪獣はいないらしいが、まだミステリアスなのだ。そんな怪獣の故郷へ行ってみたかった。
グレイラインの観光バスに乗ることにした。エジンバラ市内のあちこちでピックアップして、25名の大所帯のツァーとなった。根強い人気である。スコットランドには山岳地帯もあり、標高は低いが、スキー場もあるほどだ。インバーネスまで幹線道路と行くのかと思いきや、Stirlingから田舎道に入り、雄大に広がる牧場や平原を眺めながら、Fort Williamを目指している。豊かな大地と美しい自然、スコットランドの良さを実感する景観が続いている。
ネス湖は細長く、インバーネスの先で北海につながっている。いわば川のような湖なのだ。途中、2回ほど休憩して、ネス湖に着いた。希望者だけが遊覧船に別料金で乗り、他の人は散策しながら待っている仕組みだ。妻は初め、乗りたくないと言ったので遊覧船は希望しなかったが、ここに来た私の真意をおもんばかって、「乗ってもいいよ」と言ってくれたので、追加で申し込んだ。船出まで1時間くらいあったので、Fish & Chipsで昼食にした。妻はチキンを頼み、私はタラのような魚を頼んだら、結構大きい切り身を揚げてくれた。食べごたえある大きさだ。湖畔の草地に座ってコーラと一緒に味わった。
船はいっぱいの観光客を乗せて、ネス湖を滑っていく。静かな湖面にはネッシーの影もない。海近くまで来てUターン、船内の客室でネス湖底の説明があるというので、行ってみた。英語は聞き取りにくくよくわからいが、湖底には長く続く窪地があり、それがネッシーの歩いた跡ではないかという説もあるというようなことを言っていたような気がする。それがほんとうなら、ネッシーはいたのだろう。今、静かなのは、ネッシーは海へ出てしまい、ネス湖にまだ帰ってこないという説もある。”ネッシーは生きている”ことにした方が夢があっていいのではないか。遊覧を終え、地上に戻り、バスはすぐ発車、エジンバラへ戻っていく。
スコットランドは美しく、いろいろな物語もあり、素敵な所だ。湖畔のATMでポンドを引き出したら、スコットランド発行のポンド札だった。ここでは問題なく使えたが、ロンドンへ行ったら、受け取りを拒否されそうになったことがしばしばあった。偽札が出回っているとのこと。イギリスはいくつもの独立国の連邦と言われるが、スコットランドはEU脱退の国民投票の結果を受け、イギリスから離れようとしている。ここに来てみるとその意味も理解できるような気がした。

      
      写真左・スコットランド高地         写真右・ネス湖は海につながる
 

10月7日 ロンドンへ列車旅・驚きの一等車
スコットランドにお別れしてロンドンに向かう。一昨日予約した列車に乗るべくウェイヴァリ駅へ行くべくホテルからタクシーに乗った。あっという間に着いて、チップを入れて5ポンド、来た時の20ポンドは何だったのか?普通の5割増しだったが一等車にしておいた。
列車は定刻通りに発車した。一等車は4人掛けと2人掛けの席で間にテーブルがある。メニューが置いてある。注文をとるのかなと見ると、値段がかいていない。妻はタダの訳がないと言うが、ウェイトレスが来て、メニューから選べという。私はチキンカレー、妻はリゾットを頼んだ。タダなのである。次に飲み物は?とウェイターが来た。私はビール、妻はジンジャエールを注文、これも無料。ウェイターが持参していたサンドイッチを頼んだら、料理を注文した人はダメと言われた。料理を頼まない人に提供されるものだったのだ。
まさに飛行機のビジネスクラスと同じサービスなのである。この路線を運営しているのはヴァージョンアトランティック、航空会社だ。ビジネスサービスはお手のものなのだ。何回か飲み物のサービスは回ってきた。これならロンドンまで4時間の旅も快適だ。座席の上に札が挿してある。自分の席を見たら、キングス・クロスと印刷されていた。行先を書いてあるのだ。ヨーク駅からキングス・クロス駅まではノンストップだが、我々の前の席にも札があったので、誰か乗ってくるのかな?と思っていたが誰も来ないので、札を見たら、インバーネスからエジンバラと書いてあった。
この列車はスコットランド北のはずれのインバーネスからロンドン行きだったのだ。道理で、エジンバラに列車が入ってきたとき、既に乗っている人がいたはずだ。ロンドンに近づくにつれ、工場群やビル群が目に入ってきた。半日の列車の旅でロンドン、キングス・クロス駅に着いた。これから4泊するアパートのパディントン・グリーンのメールをタクシーの運転手に見せたら”OK”と走り出した。夕方の渋滞どきで、ノロノロとタクシーは進む。運ちゃんは携帯で誰かと話し続けている。それでも20分くらいで着いた。チップを入れて20ポンド。ここのアパートは自分であらかじめ聞いていいた暗証番号で玄関のドアを開け、部屋の鍵を取り出して入るという方式。無事、最後の宿泊地にたどり着いた。すっきりとして小奇麗なアパートだ。

       
      写真左・一等車は食事つき          写真右・ロンドンへ着いた
 

10月8日 遠かったインフォーメーション・センター

まずロンドン市内の情報とチャーチル邸への行き方をインフォメーションセンターで聞こうと思い、地下鉄に乗った。隣の駅がベーカー・ストリート、シャーロックホームズの事務所があった所である。妻はシャーロックホームズも好きな探偵だ。行かねばなるまいシャーロックホームズ博物館へ。コナンドイルが書いた頃は、事務所のあるベーカーストリート221番地は架空の番地だったらしいが、人口が増え、今は221番地があり、そこに博物館もあるのだ。まさに小説を地でいく形になっている。
雨の中をしばらく待って、中に入った。3階までのフロアに小説に出てくる人物やら事務所の風景が再現されている。妻は大満足である。見終えて外に出るともう昼どき、近くに回転すしの店があった。外国の回転寿司は如何なものか、興味津々で入った。黒人のウェイターが「いらっしゃいませ」と日本語で案内し、テーブル席に座った。横を寿司が流れてくる。日本的なものが多いが、肉を乗っけた寿司やらアボガド寿司などもある。サッポロビールを飲みながらいくつかつまんだ。握っているのはアジア系の人、店長は日本人のようだ。よく見るとシャリは寿司の形になった出来合いのシャリを箱から出して、その上にネタを乗せているだけなのだ。シャリから握っているわけでない。これなら素人でもできる。天丼やかつ丼も作ってくれる。味は店長の管理が行き届いているせいか、日本のものとそう変わらない。おいしいのだ。黒人店員は日本語が達者、聞くと2年間、大阪にいたという。道理で。
ベーカー・ストリートの駅に戻り、都心にあるロンドン市のインフォメーションセンターに行くべくサークルラインの地下鉄に乗った。ところがリヴァプール・ストリートからサークルラインを外れてAldgateという駅に入り、ここで終点だという。聞くと、サークルラインは保守メンテナンスで走っていないと言うではないか。道理でリヴァプール・ストリートでおおぜい下りたわけだ。でもかなりの人がここまで来ていた。ということは、車内アナウンスの英語が聞き取れなかったということだ。我々のようなお上りさんがおおぜいいるということだ。他の線を乗り継いでセントポールズの駅に行き、やっとインフォメーションセンターを見つけた。チャーチル邸への行き方を教えてもらい、明日行くことにする。

      
     写真左・ホームズミュージアム         写真右・ロンドンの回転すし
 

10月9日 チャーチル邸へ無銭乗車

ウインストン・チャーチルは第二次世界大戦から戦後にかけて英国の首相、イギリスの顔とも言うべき名宰相だった。貴族の生まれで、由緒正しい総理大臣だった。ロンドン郊外に大邸宅を構え、国会と邸宅を往復していた。吉田茂首相の大磯のようなものだが、広々とした丘に建っていてスケールが違う。
ここへはビクトリアの駅から列車に乗り、ブロムリ・ノースからチャートウェル(チャーチルの邸宅地)へバスに乗り継いでいく。まずはビクトリアまで動いている地下鉄と、オイスターカード(スイカのようなもの)を買った。妻は自動的に入れたが、私ははじかれる。駅員に聞くと、切符を見ず、ハンディキャップ用改札を開け、ここを通れと言う。下りるときも同様だ。バスも利くかもしれないとのことなので、女性の運転手に見せたら、これは無理、現金はダメでバス専用のカードがいるという。バス内では買えないとなり、困ったなと思ったら、乗ってよいと親切に言う。帰りも困ったなと思ったら、同じ運転手のバスが来て、今度は読み取り機が壊れたので、みんな無料でよいとのこと。なんてついているんだ。帰りの地下鉄もハンディキャップ口でスルー。あとで切符をよく見たら、私の分は同じカードだが領収書だった。一人分のカードを買ったのに、2枚出てきて二人分と思いこみ、私は領収書で今日は旅していたのだ。
それにしてもみんなおおらかなものだ。 チャーチル邸は大きく立派、室内には幾多の勲章やメダルが飾ってあったが、ノーベル賞のものがないのが不思議だった。彼はノーベル文学賞をもらっているのだ。政治とは関係ないと外していたのだろうか?チャーチルが亡くなってすぐ奥様のクレメンタインはロンドンのこじんまりとした家に引っ越したそうだ。彼女はチャートウェルは広すぎて、好きでなかったようだ。今はナショナルトラストが管理している。

      
      写真左・チャーチル邸玄関           写真右・問題の切符
 

10月10日 キューガーデンは広すぎる
英国王立植物園へ向かった。キューガーデンと呼ばれるこの植物園は地下鉄沿線にあるが、ロンドンの郊外だ。なので地上に出る地下鉄沿線にある。とてつもない広さの中に世界中から集められた植物が4万種以上あるという。250年を超す歴史ある植物園だ。妻がぜひ行きたいロンドンの名所、特にバラを見たいという。熱帯の植物を収納している温室パームハウスを見て、反対側に出るとバラ園が広がる。もうバラの最盛期は過ぎたが、それでも多くのバラが咲いていて、妻は観察に余念がない。園の端あにあるパゴタを目指して歩く。とても遠い。上がってみたかったが、階段へのドアには鍵がかかっていた。近くには日本庭園もあった。菖蒲がまだ咲いていた。
英国王室の土地なので、王室用のキューパレスという館もある。ここにも行ってみたが入れない。何か入れない施設が多いのだ。それでも園内を歩いているだけで。いろいろな花や木々を見れて興味尽きない。ダイアナ妃によって建てられたプリンセス・オブ・ウェールズのアメリカ大陸の植物を集めた温室を見て、入り口案内に出ていた”ジャポニカ何とか展”を見て帰ることにした。途中、椿の林があった。ジャポニカ・カメリアという。展示は日本の植物絵画であった。牧野富太郎博士の植物画など、多数の繊細な植物の絵が並んでいる。この分野の日本の絵画技術はすごいそうだ。外務省主催の絵画展であった。
今晩はイギリス最後の夜、持ってきたもの残りを片づけるべく、アパートで買って来た寿司とカレーうどんという奇妙な組み合わせになったが、おいしかった。日本から持ってきた食料はなくなった。羊羹と柿の種が少し残っただけだった。

      
     写真左・キューガーデン花園         写真右・日本植物画展ポスター
 

10月11日 ムービー博物館は007一色

いよいよ日本に帰る日だが、フライトは夜7時過ぎだ。アパートのチェックアウトは11時なので、この間をどうすごすか、問題はスーツケースだ。持って歩き回るわけにもいかないし、アパートはフロントがないので、預けることができない。幸いというか、隣に貸倉庫があった。半日でもOKという。預けることにした。カプセルホテルのようにひとつひとつのBOXを借りてそこに入れておくシステムだ。スーツケース2つは入る。ところが鍵は自分で用意するのだという。”余ってるものはないのか?”と聞くが、ダメ。スーパーで買ってきてもよいというが、そんな時間がないので、借り賃20ポンドと同じくらいの値段の鍵を買わされた。
何はともあれ、身軽になったので、夕方までコヴェント・ガーデンに行くことにした。まずはロンドン映画博物館、アガサクリスティの映画も、と期待したが、館内は007一色、シリーズに使われた車や船などが映画のシーンとともに展示されている、ショーン・コネリーの007しか見たことがないので、他のものは?と思ったが、シーンが映写されるとどれもスリル満点なので面白い。外に出るとちょうど昼どき、幸い、誰でも座れる椅子とテーブルがあったので、そこでロンドン最後の昼食、昨日残ったサンドイッチと果物で済ませた。
次に入ったのはロンドン交通博物館、馬車時代から現在に至るまでの都市交通の変遷に焦点をあてた博物館だ。入った途端、壁に大きな東京の地下鉄マップ、早稲田や神楽坂まである。いろいろな国の地下鉄路線図をデザイン化していたのだ。明治時代の初期にもうロンドンではサークル以外にも地下鉄網ができあがっていた。実物の展示も多く、予想外に面白かった。
4時頃にロッカーに戻った。預けたスーツケースをもらい、タクシーはどこで?と聞いたら、「どこまで行くの?」と店員が聞く。「ヒースロー空港」と答えると、「呼んであげる」と電話をかけてくれた。向こうと話しているようで、「30ポンドでどうか?」、OKと返した。しばらくして来た車はふつうの乗用車。白タクである。
若いお兄ちゃんは「お待たせしました」と日本語で言う。友だちに日本人がいるらしい。夕方で混んでいるからと、団地街に入ったりしながら、クネクネと車を走らせる。「日本人はおとなしい」と言うので、「中国人や韓国人は騒がしい」と返すと、そうだと返してきた。夕方6時前に空港に着いた。30ポンドプラス5ポンドをチップとして渡した。ふつうのタクシー料金は70ポンドくらいと聞いていたので半値である。ロンドンの最後に、とても得した気分になった。

      
      写真左・007ミュージアム        写真右・東京地下鉄マップが博物館に
 

10月12日 帰りのANAはガラガラ
11日の夜7時過ぎにヒースロー空港を飛び立ったANA機は順調に日本に向かっている。帰りの席はビジネスのいちばん後ろにしたら、プレミアム・エコノミーの席の人たちが視界に入るほどの近さだった。エコノミーはそこそこ埋まっているのにビジネスはガラガラだ。左右の窓側席は埋まっているが、真ん中の席はほとんど空いている。10月は観光にはシーズンオフなのだろうか?仕事の人もあえてANAにはしないのか?
夕食は和食にした。蕎麦を食べたいのだが、そんなポピュラーなものは出ず、薄味の白身魚や、煮物も上品、これが選ばれた和食だ、と言わんばかりのメニューだ。寿司や蕎麦がよいのに。
映画を見終わってから、サイドメニューの一風堂のラーメンを頼んだ。これはおいしかった。胃にしっとりとなじむ。どうも外国航空会社の和食が私には合っているようだ。サッポロビールはむずかしいかもしれないが、ハイネケンと蕎麦や寿司でもかまわない。それでも日本に着けば、好きなもの選び放題だから、あと数時間の辛抱だ。刻一刻と羽田が近くなっていく。イギリスは良い国だった。楽しい旅であった。

      
    写真左・ヒースロー空港ラウンジ       写真右・ヒースロー空港の夕暮れ
 

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9 月

9月23日〜30日 イギリス旅行前半中

9月23日 いよいよ出発
イギリスだけなので、羽田からロンドン直行便で行きたかった。それもマイレージを使ってビネスクラスで、という欲張ったので、本来なら6月〜7月にしたかったのだが、マイレージ枠は1月の時点でもう一杯で、9月となった。
ANAのビジネスクラスは初めて、最新の席だというので楽しみにしていたが、期待に違わず超ゆったりしている。しかし食事は今いち物足りない。こりすぎているのかもしれない。一流シェフ立案のものらしいが、もっとポピュラーな料理の方が我々庶民にはふさわしいようだ。それでも快適に午後4時頃、ロンドンに着いた。

      
  写真左・ANAの最新のビジネスクラス    写真右・ANAの最新のビジネスクラス
 

9月23日 ヒースロー空港からトーキーへバス旅

ヒースロー空港から、夜8時の高速バスでトーキーに向かうことにしている。予約していたバス時刻よりかなり早めに通関が終わったので、2時間前のバスにも乗れるので、変更してもらった。
ここでひと問題、妻が真夜中に着いてのタクシーを心配していたので、出発前にホテルにメールを入れ、バス停にタクシーを手配してもらっていたのだ。それも早めなくてはならない。妻のスマホからかけるのだがつながらない。また後で、にしたが、肝心のバスが時刻になっても来ない。係員に聞くと「遅れているのだろう」とあっさりしたもの。日本のバス停とちがって、何線かあるバス停のいずれかに入ってくるという。
特定のバス停はないのだ。30分以上遅れてやっと来たバスには既に何名か乗っている。ヒースロー空港が始発ではないらしい。4時間半のバス旅が始まった。暮れなずむロンドンの街を外れると、とっぷりと暗くなり、高速道路をひた走る。下りるバス停のアナウンスもないので、気が気ではない。
エクスターの町はわかったので、次かなと準備すると、トーキーはまだ先と言う。後部に座っていたのだが、不安になり、運転席の後ろに移動し、停まるたびに確認する始末。やっとトーキーのバスステーションで下車できたが、夜10時過ぎで人っ子一人いない。携帯はつながらないままだったので、迎えのタクシーもない。通りに出たら、公衆電話があった。幸い一ポンド硬貨を持っていたので、イギリスで初めての電話、ホテルに何とか連絡し、タクシーを呼んでもらった。十数分後にタクシーが来たときはホッとした。
やっとアガサクリスティの推理小説の舞台にもなっているインペリアルホテルに夜中の11時過ぎにチェックインできた。

      
       写真左・バスターミナル        写真右・インペリアルホテルの朝食
 

9月24日 アガサクリスティの故郷

目覚めてみると、窓の外にはドーバー海峡が広がっている。アガサクリスティの故郷は海の町なのだ。
朝食は海に面した食堂で、バイキング形式だ。紅茶はちゃんと持ってきてくれる。さすが英国である。
今日はアガサクリスティの終の棲家となったグリーンウェイに行くことにしていた。フロントで行き方とバスの乗り場を教えてもらい、海岸通りに下っていった。周りにはヨットクラブやフィッシュ&チップスの店などがある。バス停のそばにはATMもあって、100ポンド、クレジットカードで引き出した。蒸気機関車の走るペイントンまで行くバスに乗った。
ペイントンの町はトーキーとほとんど切れ目なく続いて、クラシックな建物が多い港町。ここからチャーストンまでは蒸気機関車の軽便鉄道に乗り、そこからシャトルバスでグリーンウェイ入り口へ着いた。
グリーンウェイは入り江沿いにあるアガサクリスティが二番目の考古学者の夫と夏の別荘として使っていた建物だが広大な敷地の中にある。今はナショナルトラストが管理している。バスを下り、入場券を買って敷地内に入るが、建物は数百メートル先、「死者のあやまち」の中では建物前の芝生の庭でフェスティバルのような催しをやったと書いているが、芝生はあるもののすぐに傾斜となって森に続いているので、この庭で祭りのようなことはできないと感じた。
中は博物館になっていた。芝生を通り越し、森へ入って、ボート小屋へ行った。入り江の船着き場で、アガサの時代には訪問者はみなここから来たようだ。ボート小屋も現存していた。小説ではこの中に少女の死体があったのだ。しばし物語を思い出しながら、グリーンウェイの自然を楽しんだ。帰りのバス時刻が近づいたので、再びバス停への道を戻る。バスで戻ったチャーストンの駅には帰りの客がいっぱい。来た列車もいっぱいだが何とか二人座れた。
車窓から左に別荘とおぼしき建物群、右手はドーバー海峡、昔も今もこの辺りは避寒リゾートらしい。列車からバスに乗り換えて、トーキーの町に戻ってきた。帰りは少し手前で下りて、明後日から借りるレンタカー屋の場所を確認し、アガサクリスティが結婚式をあげたグランドホテルの前を通って、フィッシュ&チップスの店に入ってバドワイザーを飲みながら、夕食代わりとした。

      
     写真左・グリーンウェイ入り口            写真右・アガサ邸
 

9月25日 トーキーはイギリスのリヴィエラ
朝起きるとイギリスには珍しい青空が広がっている。トーキーの町探索に出かけた。アガサクリスティの胸像が立つパビリオンへ行き、町の博物館へ。ここにはアガサグッズが売っているということで妻は楽しみにしていた。建物の前に来ると静か、まだ閉まっている。案内板を見ると、日曜休館となっているではないか。今日は日曜日、こんなに町に繰り出す人が多いのに休むとは?イギリスらしい。
アガサクリスティが生まれた家の一角に行ってみることにする。もう家はないが、「生誕の地」のパネルがあるという。途中、修道院跡地のトア・アビーに入場料を払って入ったら、庭園に入るとアガサクリスティ植物園というのがあった。これはこれはと見ると、すべて毒草である。トリカブトの花が咲いている。アガサは若い時、ここで負傷兵士の治療にあたったことがある。第一次大戦の時代だ。そこで治療薬にもなる毒草の知識を仕入れたらしい。この経験は、その後の作家生活に生かされた。物語に出てくる幾種もの毒草で何人を殺したことか。それを記念しての植物園らしい。
アガサの生家跡地はトーキー駅からの線路沿いの坂道を上がり高台に出るストリート沿いにあった。そこから陽に輝く海が見える。まだ飛行機が一般的でない時代、トーキーは避寒地として名高く、おおぜいの客が来た。イギリスのリヴィエラと言われる由縁である。今は本場のリヴィエラに行けない爺ちゃんばあちゃんがここに集まってくる。泊っているインペリアルホテルも駅前のグランドホテルも、避寒地として全盛だった時代に建てられた。そしてそこに集う人を題材にして、「エンドハウスの怪事件」、「書斎の死体」などの推理小説が生まれたのだ。私たちは今、そんな物語の中を歩いていたのだった。

      
       写真左・アガサ毒草園         写真右・アガサクリスティの生家跡
 

9月26日 コッツウォルズへドライブ開始

ホテルをチェックアウトし、タクシーで駅へ向かった。駅前のレンターカーと言ったはずなのに、運ちゃんは反対側の駅正面口に着けてしまい、この裏のレンタカーと言ったら、「アララ」と戻ってくれた。
Thriftyという日本ではなじみのないレンタカーだが、係の男性は親切、イギリス紳士である。BMWの新車にスーツケースを積み込んでくれ、エンジンもかけてくれて、「さあ走れ」と見送ってくれた。
日本と同じ、右ハンドルで左側通行なので違和感なく走れる。ナビの英語もわかりやすい。ナビ通りに走っていけばよい。地図などいらないくらいだ。ローカルな道から、大通りに出て、いつの間にかハイウェイに導かれた。ハイウェイも無料なので、入った感じがしない。2時間くらい走り、サービスエリアでトイレ休憩。
エンジンはKeyではなく、ボタンを押す方式。押してもかからない。ちょっとブレーキを踏んで、押しても反応なし。さあー、困ったぞ、こんな時はBMWに乗ってる人に聞くのがいちばんとパーキングを見渡すが、ない。走ってるとよく見るBMWが駐車してないのだ。あーだコーダとやってるうちに、ブレーキを踏みこんでボタンを押したら、かかった。なんだと分かれば簡単だが、いつもレンタカーでは苦労する。サイドブレーキにもアメリカでは苦労したことがしばしばだった。ハイウェイM5でブリストルからM4に移り、サイレンセスターへのA429のローカルな道に入った。
ローカル道になると信号代わりのラウンドアバウトというロータリー式の交差点が多く、入るときに右から来る車に気をつけなければならない。入っても曲がりやすいからといって左端ばかり走っていると、クラクションを鳴らされる。二つ以上先の道に行くときは中心寄りの車線に入って、近づいたら左に寄せるというのがマナーなのだが、慣れない私には怖いのだ。それでも何か所かのラウンドアバウトを越してサイレンセスターの町に来た。ここからはすれ違うのもやっとのような細い道にナビで導かれ、アッパースローターの村にたどり着いた。ここが3泊する領主の館の宿、ローズ オブ マナーがある村だ。ホテルはすぐ見つかった。

      
     写真左・ローズ・オブ・マナー        写真右・マナーハウスの食事
 

9月27日 ローズ of マナーの食事
ローズ オブ マナーにはミシュラン一つ星のレストランもある。この日は付近を1日歩いた。
ボートン オンザ ウォーター、ローアー スローターの村々を迷いながらも歩いて夕どきにホテルに帰ってきた。二食付きで予約しているので、夕食はお任せなのだが、昨夜はアラカルトを選ぼうとしたら、クラークにコースお任せもありますよ、と言われ、その方が楽なので、今宵もコースにした。
ところが、最初の前采は昨日と違ったが、その後の料理は昨日と全く同じだ。日本の旅館は連泊客に違うものが出てくるのに、外国の二食付きは意味が違うようだ。
レストランは独立している。だけどスキーで泊ったオーストリアのホテルは夕食はハーフボードにすると、毎日違うメニューだった。格式高いレストランはホテル内といえども、連泊客にも同じものを出すようだ。
三泊目はさすがにアラカルトにした。それにしてもホテルの庭には日本人が多い。ウェディングドレスで芝生や花壇で撮影しているカップルもある。こちらで挙式したともみえないので、新婚旅行先のコッツウォルズで花嫁衣装を記憶に残すためなのだろうか?

      
     写真左・ハイキングの途中で       写真右・ボートン・オン・ザ・ウォーター
 

9月28日 ウインチカムの古城

まずはウインチカムを目指して、コッツウォルズの田舎道を車で走った。田園風景も美しい。ウインチカムにはシュードリー城というヘンリー八世の古城がある。この王様、6人ものお妃を取っ替え引換えした名高き王である。一人の王妃は首をはねられたというが、善政の王でもあったらしく、そんなに評判は悪くない。
ここで妻は王様とお妃が詰まったマトリョーシカ人形を見つけて大喜び、王の人形をひねると、3体の人形が出てきて、それぞれに2人ずつ王妃が描かれている。美しい庭もあり、人出も多い。
お昼を食べて、ブロードウェイへ向かった。名の通り、この村の道路は広い。昔、羊毛製品の市場が定期的に開かれていたので、道路を広くしたらしい。郊外には石作りの塔があり、上がるとコッツウォルズの村々と田園が見渡せる。昨日、ローズ・オブ・マナーで見た、花嫁姿の日本人をまたここでも発見、どうもカメラマンを雇い、あちこちで記念写真を撮っているようだ。強風に煽られてショールが飛んでいったのはご愛嬌だ。
チッピングカムデンへ移動した。ここも古く、コッツウォルズらしい飴色の建物が並ぶ村だ。いくつもの同じような村を見ると、どこがどこだかわからなくなる。いずれも味わいある村々なのだ。

          
      写真左・シュードリー城             写真右・ブロードウェイ・タワー
 

9月29日 シェークスピア生家からバイブリーへ
ローズ・オブ・マナーにお別れする日だ。領主の宿らしく格式高く、毎日、緊張して過ごしたような気もする。シェークスピア生家のあるストラトフォード・アポン・エイボンに行って、読んだこともないシェークスピアを偲び、アンティックが並ぶストウ・オン・ザ・ウォルドの町に寄りながら、今宵の宿バイブリーのスワンホテルに向かうことにする。
ストラトフォード・アポン・エイボンはコッツウォルズではないが、隣町という感じだ。かなり大きな町で、観光客も多く、中国人だらけである。町の中心地にやっと駐車場を探して停めたら、係員が来て、ここはコーチ(バス)駐車場だから一般車は隣のタワーパーキングだと指さす。古いビルを駐車場にしたような感じの建物を何フロアも上がってようやく停めた。料金は4ポンドと高い。
シェイクスピアの生まれた家は近かった。かなり裕福な家だったらしく、部屋数も多く、彼のベッドは天蓋付きだ。孫娘夫婦の家や終の棲家のニュープレイスなどにも行ったが、何せ一冊も読んだことのない作家なので、つながりもわからず、街を歩いた。
お昼を持ってきたビスケットを通りのベンチで食べ、ストウ・オンザ・ウォルドの町に移動した。坂道に沿って街並みがあるので、駐車場は家並を抜けた川の畔だった。坂の上から見下ろすと、なかなか絵になるコッツウォルズの町だった。そこからコッツウォルズの南部にあるバイブリー村へナビに従いながら行ったが、それらしい所に行かず、再度設定してようやくたどり着いた。イギリスのナビは郵便番号を入れるのだが、間違って入れたようだ。スワンホテルは16世紀からの宿屋なので古い。洗面所がめちゃくちゃ広く、8畳くらいはあるのではないか?
今宵はイギリスに来て初めての自炊、讃岐うどんと途中で買ってきたサンドイッチだ。下のパブでビールを買ってきて、夕食。やっと日本食だ。

      
    写真左・マナーハウスにお別れ        写真右・シェークスピア生家
 

9月30日 スワンホテルは中国人だらけ

バイブリーの村はウイリアム・モリスが「イギリスでいちばん美しい村」と言っただけに、観光客が多い。
中でも中国人は群れをなして来るという感じだ。スワンホテルはその中心にあり、バスの駐車場が近くにあるせいか、おおぜいの中国人がレストランに入って来る。泊りも多く、団体は専用の食堂で飯を食っている。個人客用の食堂にも結構いる。日本人もJTB旅物語ツァーなど、いることはいるのだが、負けている。案内板は日本語表記もあるが、これはひと昔前の日本人ツァー全盛の名残なのだろう。そのうちに中国語に変わるのではないか?
村の散歩コースを歩いていたら、西洋人の若い女性から「日本の方ですか?」と日本語で話しかけられた。ギリシャから来ているそうで、「日本語を習っているので、通じるか試してみたかった」とのこと。「日本へ行ったことありますか?」、「まだです。ぜひ行きたい」と日本ファンなのだ。ひと回りしても2時間くらいで終わるような小さな村だ。アーリントン・ロウは14世紀に建てられた石造りの長屋住居で、バイブリーのシンボルだ。今は中期滞在のアパートのような使われ方をしていて、生活の匂いがする。日暮れになっても人が多く、ホテルの前の石橋は暮れなずむアーリントン・ロウを撮ろうとカメラマンでいっぱいだ。白鳥ならぬ黒鳥が橋の下を流れに任せて泳いでいた。
  この日はバイブリー村散策が半日で終わったので、午後はイギリス独特のかやぶき屋根が並ぶミンスター・ラベルという村に行くことにした。一昨日シェークスピアの生家の後にチッピングカムデン近くのブロードカムデンも茅葺屋根が多いと聞いて通ったが道が細く、車を停めることができなかったので、今日は別の茅葺村に遠出することにした。畑や牧場に囲まれた村のメインストリートには茅葺屋根の家が続いている。村のはずれまで行ったらFoot Pathという標識があったので、牧場沿いの小道を歩いた。かなり長く歩き、妻は不安そうだったがついてきた。牧場が切れるあたりで、牧草地に入り、農家の裏庭のような所を通過したら道路に出た。そこはメインストリート終点の教会だった。ここから駐車場まではさっき歩いた通りである。美しいコッツウォルズの村であった。

      
      写真左・アーリントン・ロウ         写真右・スワンホテルをバックに
 

9月21日 放射線医学研究所
日野市民病院で前立腺ガンの診断を受け、重粒子線治療を受けるべく放射線医学研究所の初診を申し込んでいたのだが、台風で流れたりして、9月5日にようやく初診を受け、本日、その結果と治療日程が決まることとなった。2時間かけて到着し、予約時間ぴったりに始まった。市民病院なら、予約時間より1時間くらい遅れるのが当たり前なのに、ここはそんなことはない。
そして1月10日に照射用の型とり作業、12日に模擬テスト、19日〜2月9日が入院治療の日程が決まった。スキーとぶつかってしまうので、「2月くらいになりませんか?」と恐る恐る切り出したら、「すべてを組み替えなければならないので、もっと遅くなる」と言われて、「それなら1月でよいです」と慌てて引っ込めた。
これで決まった。束縛から解放される日が決まったようで、ホッとした。

      
     写真左・放射線医学研究所            写真右・病院入り口
 

9月9日 和田峠越え

テレビで”一路”を見たり、7月に山内さんと和田宿に行ったりしたら、また和田峠を歩きたくなった。
今度は妻を連れての和田峠。交通の便が悪いところだ。車で和田峠入り口まで行って、そこに駐車して、下諏訪まで歩いたら皇女和宮も泊った本陣岩波旅館に泊まって、タクシーで車の所に戻ってくることにした。入り口からの山道は広く、所々石畳などもあって情緒深く、歩きやすい。施業所から東餅屋に来たら、以前はやっていた餅屋がつぶれていた。前はここで力餅を食べ、黒曜石を買ったものだった。
ここから和田峠まではビーナスラインを何度か渡って、登っていく。峠から下諏訪への下り道は急に細くなり、ジグザグと急激に下る。和田寄りの道と諏訪よりの道のこの落差にはいつも驚かされる。西の餅屋跡に来ると、国道に出て、アスファルト歩きが中心となり、妻はとたんにご機嫌斜めとなった。もう歩きたくないとも言うので、町の巡回バスに乗ることにした。
バスは木落とし坂の上を通り、さらにいくつかの集落を通って、下諏訪の町に入ってきた。万治の石仏の前で下してもらい、特徴ある仏に参拝し、下諏訪本陣の宿に到着した。バスに乗ったことで、早く着いたので、妻を宿に残し、車を取りにいくことにした。そんな客はあまりいないらしく、タクシーの運転手は驚いていた。来た道を戻り、途中から有料の和田峠トンネルを抜けた所で6千円を指していた。「これでいいですよ」と言って、運ちゃんはメーターを止めた。それからしばらく走って、私の車の前に着いた。トンネル代も持ってくれ、気前のよい運転手だった。

            
        写真左・和田峠への道         写真右・皇女和宮が泊った部屋
 

9月1日 東京ドームでのプロ野球観戦
娘の景は、いつの間にか日本ハムのフアンになっている。以前は巨人だったはずなのに。
東京ドームでハム主催ゲームがあるというので、家族三人で見に行った。
相手は楽天、私はどちらかというと楽天びいきだ。遅く切符を買ったので三塁側の内野席。楽天側だ。
楽天には去年まで早稲田にいた茂木栄五郎がいる。新人賞候補らしく元気だ。この日も一本ヒットが出た。ハムには一昨年までの早稲田のエース有原がいるが、この日は登板なしだった。ハムの増井の前に、楽天はヒットが出ず、負けてしまった。パ・リーグの試合を見たのは初めてだったが、六大学の応援と違い、打者ごとに応援曲がちがっているのにも驚いた。

      
     写真左・我らが茂木栄五郎          写真右・派手な日ハム応援
 

9月1日 野球の前の後楽園
野球は6時開始、早目に行って、隣の小石川後楽園へ行ってみることにした。
妻は学生時代によく来た所だという。私は二回目だと思う。東京ドームは後楽園球場と言っていただけに、すぐお隣なのだ。
水戸家の江戸屋敷の庭園で、徳川家光も愛し、大久保彦左衛門を訪ねてよく来たという名園だ。石つくりの山、木曽川や寝覚めの床まである風流さ、中には田んぼもあり、たわわに実っていた。近くの小学生が稲刈りをするそうだ。野球の前に寄ってみるにはちょうどよい。

      
      写真左・小石川後楽園           写真右・黄門様が田んぼを守る
 

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8 月

8月27日 中々連の夏・高円寺阿波踊り

中々連ができて8年目の高円寺がやってきた。抽選に外れて、今年は土曜だけの参加となった。
雨がパラつく生憎の天気だが、50名を超す連員が集まった。今年は特に女性が多く、8年にしてようやく連らしい陣容となった。伝統ある花の木連の滝田ゆうさんデザインの浴衣、そしてオーソドックスな鳴り物の響き。踊りも奇をてらわず、クラシック。最近の他の連はロック調のメロディやら、派手な踊りが目立つだけに、わが中々連がそれらの間に入って踊ってくると、一服の清涼剤のようだ。派手になりたくても、新米ばかりで技術が追いつかないのも事実だが、ようやくメンバーも安定してきて、オーソドックスの踊りがまとまるようになると本物だ。練習熱心な人も多く、これからが楽しみだ。私もそろそろ引っ込むかと考えていたが、演舞場で祭開始の「ジャカジャカジャン♬」と鳴り物が聞こえてきたら、「やっぱりいいなあ」と胸が高鳴ってくるのだった。

            
       写真左・滝田ゆうさんの絵            写真右・中々連
 

8月20日 東急御柱祭

本家の御柱祭が終わって3ヶ月、各地に散らばる小宮の祭りが夏から秋にかけて盛んだ。
東急リゾートにも鹿山神社というのがあり、この御柱祭が行われた。氏子は別荘地の住民である。
スキー場にメドデコのついた御柱が置かれ、本物の3分の一の大きさだが、引っ張り縄もしつらえられて雰囲気がある。神主のお祓い、市長等の挨拶があって、曳き始めた。私も先っちょの縄を曳く。
地面にギャップがあると引っかかり動かない。係の人がマイクで観客全員に「引っ張ってくれ」と声掛けする。そこでにわか氏子も入れて「ヨイトコショ」と力を入れて引く。木落とし坂はスキー場から駐車場に下りるゆるく短い坂だ。ゲレンデを落とすのかと思っていたので、いささかがっかりだが、それでも中央に東急リゾート支配人、メドデコにスタッフを乗せて、ゆるゆると引き落とした。
係のマイクが「オリンピックのリレーで日本が銀メダル」と速報し、雨も強くなってきたので、縄を離れ、車に戻ってニュースを聞いて私の御柱は終わりにした。楽しかった。

      
       写真左・東急御柱祭             写真右・メドデコに乗る氏子
 

8月10日 韓国から娘夫婦、蓼科へ

韓国に嫁いだ娘の穂梓が、旦那のビョン・ジェフン君と一緒につかの間の夏休みで、蓼科に来た。
10日に羽田に迎えに行き、その足で蓼科に向かった。お盆休みのラッシュが始まったのに加えて、道路の緊急補修などが加わり中央道に入っても渋滞し、進まない。しびれを切らし、稲城で下り、わが家の近くの日野バイパスで昼めしを摂って、八王子から再び中央道へ。
蓼科に着いたのは夕暮れ、先日の札幌悠々クラブの来訪のときの鴨肉が残っていたので、その夜は鴨焼きパーティ。フレールのバースデイケーキで穂梓の誕生祝もした。今日8月10日が誕生日なのだ。
翌日は車山から八島湿原へのビーナスラインドライブに出かけた。天候はまずまず、リフトに乗って、車山山頂に行った。八島湿原では湿原そばのベンチで作ってきたサンドイッチで昼食、すぐ近くに咲いていたヨツバヒヨドリの花に数羽の蝶が舞っている。あまりにもきれいなのでパチリ。調べたらアサギマダラという南方の島々まで何千キロも旅する珍しい蝶らしい。
ゆったりとした時間を過ごし、霧ヶ峰から上諏訪の町に下りた。下りた所に真澄の売店がある。日本酒好きのジェフンには嬉しい店、試飲もあり、300円でグラスをもらいそれで何種かの酒が飲める。いろいろ飲んで、純米大吟醸”山花”がいいと言うので、おみやげに持たせた。昨日も3種類の真澄をお土産に買っていたので、計4本を娘と分担して、スーツケースに入れて、韓国へ持って帰っていった。
ジェフンはログ作りの山荘が気にいったらしく、老後に故郷・済州島に帰ったら「こんな家を建てたい」と言う。友だちにラインで写真を送ったら「行ってみたい」と返事、「来年の夏はみんなでお出で」と言って、見送った。

      
     写真左・朝食はベランダで             写真右・アサギマダラ
 

8月6日 悠々クラブ・蓼科滞在

二日前に仙丈ケ岳へ一緒に登った札幌悠々クラブの面々12名が山荘に滞在した。今日は北横岳班と八子ヶ峰班に分かれて、のんびり過ごした。北横岳班をピラタスロープウェイに送ってから、八子ヶ峰に向かった。ゆっくりゆっくり登り、ヒュッテ・アルビレオで休憩、珍しく管理人がいて、ビールやコーヒーが飲めた。
持参の赤飯のおにぎりほおばり、たっぷり談笑して八子ヶ峰の草原の道を歩いた。「いやあー、こんなに見晴らしのいい所を歩けるなんてすてきだ」との声あり、札幌の藻岩山はこうはいかないらしい。
所どころでゆっくり休み、ふつう2時間半で歩けるコースを4時間もかけて下りてきた。まだ山を歩いているときに北横岳班から「下りたの迎えに来て」の電話があった。1時間以上、待たせて迎えに行った。
みんなで温泉に行き、帰ってきてベランダでしばし談笑、夜は寿司屋の出前と手打ち蕎麦なので、準備もいらず気楽だ。昨日は夕方遅く甲斐駒ケ岳から来たので、温泉へ入って山荘に着いたのは真っ暗になっていた。ベランダでウェルカムシャンパン乾杯し、鴨焼き夕食に入ったのは8時を過ぎていた。
それに比べると今日は余裕ある一日となった。みんな喜んで7日の昼頃、帰っていった。また来てね。

      
   写真左・ヒュッテアルビレオで休憩           写真右・八子ヶ峰山頂
 

8月4日 仙丈ケ岳へ登る

岳文5期の先輩・小野さんが指導している札幌悠々クラブの毎年恒例の本州登山、今年は甲斐駒・仙丈ということで、この日一日同行することにした。早朝、蓼科の山荘を車で出て、みんなが泊っている仙流荘で合流、6時のバスで北沢峠へ。
こもれび山荘でクラブのメンバーは身支度して、7時半過ぎに登山開始。小仙丈経由の道だ。登り初めは晴れていたが、だんだんガスがかかり、小仙丈では雨も降り始めた。頂上に着いたときは雨も小降りになり、止むかと思ったが、仙丈小屋を出た所で本格的な雨になった。下っていく道は小川状態で川の中を歩いていくようだ。鹿防止のお花畑の網脇を通ったり、馬の背ヒュッテでは泊り客と間違われたり、今日の4時のバスで帰る私はここでみんなと別れて先を急がせてもらった。
まだ雪が残っている川横を下りて行くと、登って来る人に会うようになった。「大平小屋からどのくらいですか?」と聞くと、「ゆっくり来たので1時間半」と言う。それじゃ下りは1時間くらいかなとホッとして、30分近く下るとまた登って来る。同じ質問をすると、「1時間半」、同じじゃないか。これでは縮まらない。急ぎ足になったが、山小屋は見えない。やっと大平山荘に着き、雨具の下から携帯で時計を見ると3時20分、最後に聞いた人から1時間以上は歩いたようだ。
北沢峠まで歩ける時間だったが、後半の急ぎ足でもう歩くのがイヤになり、ここで40分待つことにした。待っているうちに悠々クラブの人たちも追いついた。明日の蓼科での再会を約してグッバイ。
4時に来たバスは回送となっていたが、手を上げたら停まって乗せてくれた。「行先は同じだから」と運転手さん。他に乗客はいないのでしばし雑談、「長谷村が伊那市に合併してよかったですか?」と聞くと、「何にもよくない、長谷は忘れられた」、「南木曽の山口村(馬籠・島崎藤村の故郷)も県をまたいで岐阜県中津川市と合併したが、初めはチヤホヤされたが長野県で端っこはイヤだったのに、岐阜県でも端っこには変わりなく、こんなことなら”信州・馬籠”の方が良かった、と言ってるそうですよ」と話すと、「そうだろうな」と運ちゃんは返す。大諏訪市の合併話のときも最初に協議会を抜けたのは原村、その理由が「大に含まれると、原村のアイデンティティが無くなる」だった。小さい村が生き残っていくには、大変なことだが、合併も大に巻かれるような条件では失望感も大きいのだ。

      
        写真左・小仙丈で                写真右・大平山荘
 

8月2日 矢立の杉再訪

旧甲州街道、笹子峠の少し手前の山道に矢立の杉という大木があり、名所である。戦に向かう武士たちがこの杉に弓矢を立て、武勲を祈ったという。
今では枯死寸前だが、まだ緑の葉が茂り、しばらくは持ちそうだ。以前、甲州街道トレッキングのとき初めて来たが、今日は高速道路から外れ、さらに国道20号線からも外れ、この旧甲州街道に入ってみた。
20号線国道ができるまではここが国道だったので車も走れるし、初期の笹子トンネルもある。もうひとつここに来たかったのは杉良太郎の「矢立の杉」の歌が聞きたかったからだ。手回しのレコーダーがあり、これを回すとこの歌が流れてくるのだ。初めて聞いたとき、演歌らしからぬ美しいメロディが流れてきたのにびっくりした。それほどいい歌なのだ。まだ残っているのか不安だったが、あった。レコーダーの取っ手を何十回か回し離すと、「♪・・・目の前にそびゆる千年の杉・・・矢立の杉の物語♪」と洋々としたメロディが流れてきた。健在だったのである。いい歌である。みなさん、一度ユーチューブで聞いてみてください。

            
         写真左・矢立の杉              写真右・矢立の杉歌碑   
 

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7 月

7月25日都市対抗野球はおもしろい

都市対抗野球の応援が面白いと聞いて、東京ドームへ見に行った。
トヨタ自動車対西濃運輸の東海地区対戦である。神宮の六大学野球同様、外野はシニアフリーである。
西濃側から外野へ廻ったが、応援席入り口にはお客様応対要員がたくさん貼りついていて、野球試合が接待道具となっている。外野から応援席を見ると、西濃側はいっぱいである。トヨタは6割程度で、準決勝なのに余裕のようだ。応援のブラスバンドの響きがすざましい。屋根がかかっているので、音響はすざましく、双方が一斉に鳴らすと、大変な音量になる。エール交換も交互にやるのではなく、両側、同時にやるので何がなんだかわからない。イニングによって、太鼓演奏があったり、地元の踊りがあったりと忙しい。
確かに試合を見ているより、応援席を見ている方が面白い。神宮の大学野球の応援は型にはまっているが、都市対抗の応援は奔放である。これはこれで楽しい。試合はトヨタがコツコツと点を入れ、5−0で勝った。翌日の決勝でも勝ち、初優勝をトヨタは勝ち取った。

      
       写真左・トヨタ応援団              写真右・両軍挨拶
 

7月19日 信州の梅雨は明けたのでは?

極楽スキークラブのトレッキングが終わり、山荘に静けさが戻ってきた今日、二日酔いのせいかバテて歩いた八子ヶ峰をもう一度ショートコースで歩いてみた。2週間前の戸隠山でもバテバテ状態だったし、三日前の八子ヶ峰も同様だったので、本当に体力が落ちたのでは?と、8月末の北アルプス縦走が不安になってきた。今日は酒も二日続けて断っているので、体は快調。いつものコースを登り始めた。
まだ山全体に雲がかかっているが、登るに従い、徐々に晴れてきた。八ヶ岳連峰も木の間越しに見えてきた。ヒュッテアルベリオまで来ると、かなり眺望が開けた。体は問題なし、アルコールを節したことが効いたようだ。山はだんだん晴れ渡り、陽射しも強くなった。佐久方面に入道雲も現れる。これは梅雨明けだろう。気象庁の発表では昨日、東海まで明けたという。関東はともかく、甲信地方は梅雨が明けているのではないだろうか?夕方の天気予報でも信州の隣の岐阜や、甲州の隣の静岡は晴れだし、甲信も同様の予報になっている。八ヶ岳を見る限りでは夏空の景色だ。個人的に梅雨明け宣言をしよう。

      
    写真左・信州は梅雨明けでは?          写真右・キスゲ一輪
 

7月15日 ゴールは遠かった・八子ヶ峰トレッキング

昨日の深酒が効いて、八子ヶ峰の登り初めから苦しい。極楽スキーのトレッキング、夕べは6時ごろに着く人があり、0時過ぎに着いた人まで含めて、延々7時間くらい飲み放しだった。これがイケない。二日酔いでバテバテである。しんがりを歩かせてもらったが、だんだん離れていく。八子ヶ峰がこんなに苦しい所とは思わなかった。午後2時すぎまでに終点のハーベストホテルに着いて、バスに乗って温泉に行きたいのにアルビレオヒュッテを出たのが1時、これでは間に合わないと言ったら、永瀬君はじめの若手が走って間に合わせると、数名が走っていった。誰か先に着いて、バスに乗り、鹿山の湯に停めてある私の車で迎えに来るという算段である。とてもついていけない私と女性軍はゆっくり歩くことにした。
ナデシコ咲く尾根にアヤメを見つけたり、鹿に食われずかろうじて残って咲いたニッコウキスゲに感激しながら、八子ヶ峰をのどかに歩いていった。ショートコースの分岐点を越え、ハーベストへの尾根に入ってしばらく下ると別荘が左に見えてくる。この辺りで我々は2時を過ぎた。どんなに早くても先発組はバスに間に合わなかっただろうと思っていたところへ、「バスに乗った」という電話がきた。「エッ!!」と驚きの声。そこから40分以上かかってやっとゴールのハーベストホテルに我々は着いた。車で迎えに来てくれていた。聞くと、最後は永瀬君が猛ダッシュで山道をかけ下り、動き始めていたバスを停めたそうな。「エライ!!」さすがは極楽の幹事長である。そのあと聞くと、東京へ帰ってから太ももが痛くて、しばらく歩けなかったとか。さもありなん。

      
     写真左・ほんとはバテバテ           写真右・だんだん遠くなる
 

7月10日 阿波踊り練習始まる

毎年のことながら、7月の声を聞くと、「チャンチャカチャン」の鉦の音も耳にするようになる。阿波踊り近しである。今日は今年初めての練習日。高円寺のギャラリー久にいつもより多い40名近くが集まった。
練習にも熱がこもる。今年の参加者は練習熱心ぞろいだ。踊りのあとの、その場所での懇親会に入っても、鏡に向かって飲みながら踊りに夢中な人もいるほど。頼もしい人がそろってきた今年の中々連である。

      
        写真左・練習の前              写真右・練習後も練習
 

7月9日 パリ祭も世代交代の時期

フランス革命の日をパリ祭と言うのは日本だけだ。血に染まった革命成就を”祭”と名付けた日本人はすばらしい。そしてそれをシャンソンで祝おうとはシャレているではないか。そんな歌のパリ祭も54回を迎えた。50年以上続いたことになる。NHKホールを2日間満員にするだけの人気だが、なにせ古い。
歌も古いが、集まってくる人も古く、歌う人も古い。戸川昌子さんが公演直前に亡くなり、菅原洋一さんが長老となった。若手といっても40、50代である。シャンソンそのものが古い歌が主流なので、なかなか若手が出てこない。ロビーの花輪に出ている名前も中高年の歌手ばかりである。いい歌も数多くあるのだから、早く若返りの世代交代が必要である。この冬に行ったカントリーフェスティバルの歌い手より、パリ祭の歌い手はいずれもうまい。これが若い歌い手ならもっとよい。

           
      写真左・パリ祭パンフレット          写真右・たくさんの花輪
 

7月6日 和田宿で偲ぶ和宮お輿入れ

戸隠山を制覇して意気揚々と帰還と言いたいところだが、両足が痛くてかなわない。階段を下るときが特に痛い。蓼科への帰り道、中山道、芦田宿、茂田井宿、望月宿を廻った。笠取峠の松並木を見てから長久保宿に寄って和田宿に入った。本陣を見学した。前に来た時は休みだった。もともとの本陣は和田村役場に使われいたらしいが、最近復元して、かなり昔の形に戻したらしい。
1861年の和宮降嫁お輿入れのときの宿舎でもあった。総勢1万人以上の大行列がこの宿場を4日かけて通過したという。そのときのトイレも復元されていて畳敷きに和式である。和宮は十二単まではいかないが相当の厚着だったそうで、前後左右に侍女がつき、まずは召し物を部屋中にたくし上げ、お尻を拭くのも単衣をかき分けての侍女の役目。こんなことが日に何度もあったのか? オシッコ一つも難儀の旅だったようである。

           
         写真左・笠取峠              写真右・和田宿本陣
 

7月5日 聞きしに勝る戸隠山

山荘の裏山・八子ヶ峰のツーインワンスキー場リフト終点に周りの山全景の写真板がある。冬の空気の澄み切った日の写真なので、ほぼ信州すべての山が写っている。目ぼしい山には名札がある。これらの山をすべて登るというのが私の目標になっている。この中に戸隠山がある。信州北部、戸隠神社の後ろにそびえ立つ山だ。しかし技術難易度はDランク、Eランク槍穂縦走路に次ぐランクなのだ。だから簡単には行けない。岳文後輩のベテラン山内君に頼み、ガイドしてもらうことになった。
蓼科の山荘を早朝に出て、戸隠に向かったが途中から雨が本降り、これはダメだなとあきらめかけていたが、奥社駐車場に着いたら止んでいた。「百闥キ屋まで行って、パッとしないようだったら止めましょう」という山内君の提案で出発。奥社から本格的な山道に入るが、これがかなりきつい登り道、百闥キ屋まで来たら、青空が広がり、登ることになったが、天候芳しくなくても、ここまで来たら戻るのもしんどい。
幸い晴れた。しかしここからがしんどかった。鎖、鎖の連続で、垂直の岩場を鎖に頼ってよじ登った。垂直壁を過ぎたら、最大の難所、アリの戸渡りに来た。幅30cm程度の岩道を数十メーター渡らなねばならない。ここには鎖はない。バランスが勝負である。真ん中くらいまでは歩いていけたが、さらに細くなった岩道はさすがに怖く、座り込んで、お尻をずらしながら前に進んだ。やっとのことで渡り終えたときは汗びっしょりになった。そこから頂上はあっけなく着いた。さらに尾根道を先に進んで、戸隠牧場に下りてきたが、緊張続きのせいか、バテてしまい、帰り道はひどく疲れた。牧場の店で食べたソフトクリームがことのほかおいしかった。この日は宿坊に泊まり、戸隠蕎麦と酒を堪能した。山内君には深謝である。

      
       写真左・アリの戸渡り              写真右・岩を捩る
 

7月3日 山岳サミット・松本

今年から8月11日は山の日となり祝日だ。それを記念して「山岳サミット」という催しが松本のキッセイホールで開かれた。松本では毎年11月に「山岳フォーラム」というのが開かれるが、今日は県の主催で「山の日制定記念」という主旨であるらしい。阿部県知事も出席という。野口健さんの講演やら、山口涸沢ヒュッテ支配人たちの座談会やら、山岳フォーラムと大差ない内容だったが、ひとつだけ面白いものがあった。
それは、県知事の県政タウンミーティングの一環として「信州の山を安全に楽しむために 〜世界水準の山岳高原観光地へ〜」というテーマでの参加者の意見だった。信州大学の山岳部やワンダーフォーゲル部の学生の提言だった。
ひとつは「山登りする人のレベルアップのための百名山ステップアップの実地の仕組みを作ったら?」。レベルを上げていくための実地トレーニングプログラムを県主体で作ったら?というものであった。知事もうなづき、”信州百名山ステップアップ”が良いと返事をし、県と信州大学で一緒に詰めていこうと応じていた。
もうひとつは「山岳医をもっと活用しては如何か?」というものであり、これは「学校登山が減少しているのは”何かあったときの学校側の責任を恐れている”が主因」という意見もあったので、山岳医そして大学山岳部の力を借りて、学校登山を活性化しようではないかと発展し、最後は知事から、信州大学とはステップアッププランだけでなく、これらを包括的に協議しながら進めていきたいと発展していった。面白い展開となってきた。阿部知事はなかなか立派な知事であると思った。

      
     写真左・山の日サミット会場            写真右・山の日ポスター
 

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6 月

6月29日 歌丸・円楽共演会

笑点を卒業した歌丸師匠といつも悪口三昧の円楽師匠の共演会が立川であったので、妻と出かけた。
円楽さんはのっけから「お騒がせしている円楽です」と笑いをとり、「歌丸さんは歩いて高座に上がれないので、緞帳を閉めて、裏で車いすで高座まで運び、スタッフがえんやらこらで座布団に座らせてから緞帳を上げるんですよ。終わったらみんなで手を合わせて拝むんです。生き仏ですよ」と笑わせたが、その通りだった。円楽さんが終わったら、緞帳が下り、上がったらそこに歌丸さんがチョコンと座っていた。
本人も「入院後、足が動かなくなってしまい・・・」と言っていたが、座った膝から下の部分は相当細かった。しかし上半身はまだしっかりしていて、口上もはっきり、動作も機敏、80歳とは思えぬ迫力ある話しぶりだった。花魁高尾太夫の一席だったが、最後は「笑点にも高尾がおります。山田タカオです」と爆笑させ、緞帳の後ろに消えていった。ほんとうに拝みたい心境になった歌丸・円楽共演会だった。

      
      写真左・共演会パンフレット          写真右・木久蔵ラーメンも販売
 

6月28日 ガンの家系でないのに…

5月末に前立腺がんの疑いで生体検査をした。12ヶ所の組織を採取し、3ヶ所に異常ありの結果となり、さらにCT、MRI、骨シンチで精密検査を受けた。骨シンチは日野市立病院ではできなくて、設備のある多摩南部地域病院まで行っての検査となった。
運命の結果は、転移はないもののひとつの組織の悪性度が高いというものであった。つまりガンである。先生は手術か重粒子線治療を奨められた。後遺症は?と聞くと、手術の場合は男性の機能がなくなる可能性があるという。「それはイヤだな」と思った、この歳でも・・・。重粒子線は放射線の一種で後遺症はないが、高度先進医療なので健康保険はきかず、数百万かかるという。前立腺がんは放っておいてもいいという説もあり、迷ったので、新潟で医者をやってる叔父やいとこに聞いてから決めようと思い、返事を留保した。帰宅後、30年前に入ったがん保険をチェックしてみた。なんと数年後に特約を付加していて、重粒子線治療全額がカバーされることがわかった。入院しても毎日3万円以上出る。これなら個室にも入れる。
ただこの治療ができるのは限られていて千葉の稲毛にある放射線医学総合研究所がいちばん近い。
ここの案内を見ると、重粒子線治療はまだ研究途上の技術なので、研究の一環の治療だという。つまり人間モルモットという訳だ。コストがすべてがん保険でカバーされるならモルモットでもよいと思い、新潟に問合せすることなく、「重粒子でいきます」と市立病院の先生には返事した。
早速、紹介状を書いてくれることになった。30年前、会社に来たパンフレットで深く考えず入ったがん保険がここで役立つとは思わなかった。入ってから気がついたのは、わが家系にはがんになった人は誰もいず、わが家はガンと無縁だ、保険料もバカならないので「やめようか」と思っていた矢先だった。続けていて良かった。

      
         写真左・診療装置              写真右・放射線研究所
 

6月19日 日野稲門会

日野稲門会に入って5年くらいになるが、総会に出るのは3回目と思う。今回は立川のグランドホテル。
日野市に早稲田の卒業生はかなりいると思うが、稲門会に入っているのは50名足らず。大半が年寄りで、若い人は少数だ。今年は日野市から今春、ワセダに入った現役生を呼んでいた。まだ未成年で酒は飲めないし、勧めることもできない。他にも早稲田祭の宣伝とカンパの目的で現役の幹事学生が二人来て、カンパ袋を持って廻っていた。若い人が少しでもいると会が明るくなるのはいいことだ。
多摩市の稲門会の役員の方がスキー部出と聞き、ひとしきりスキーの話で盛り上がった。宴会のアトラクションで日野混声合唱団のじいちゃんばあちゃんが歌を披露してもらったのもよかった。幹事の方々がいろいろと知恵を絞って会を盛り上げようとしていて、感謝である。

      
         写真左・総会会場               写真右・稲門会の仲間
 

6月15日 草刈りの後

同期のみんな帰り、のんびりと山荘を片づけて、庭の草刈りをすることにした。草刈機にオイルを入れ、駆動紐を引っ張ると、ダダダとエンジンがかかった。1年ぶりの草刈機出動だ。まずは4号線に下りていく階段状の通路を刈っていく。そこが終わると林の中の草だ。日当たりのよい所はたっぷりと伸びていて、刃にまきつき止まってしまう。エンジンを緩め、巻きついた草を取る。日当たりの少ない所は伸びた草も少ないが、その代わり、枝木が散らばっている。これは草刈後に拾い集めた。
例年、6月1回、7月1回、8月1回、草刈り作業を行うが、お盆を過ぎると、急に草は成長を止め、草刈りの必要性はなくなる。季節の変わり目に、草も繊細に反応するのだ。昼過ぎに終わり、温泉へ行って汗を落とし、帰ってきて冷やし中華でビール。格別なおいしさだ。夏が来たことを実感する草刈だ。

            
       写真左・草刈後の道              写真右・林の中もすっきり
 

6月11日 岳文7期の仲間たち

われわれの世代は岳文会創立から5年目である。学生運動が激しくなる直前である。1964年入学68年卒業、もう48年経った。みんな70歳を過ぎ、老境の域に入った。毎年、誰かが亡くなっていく。残った仲間で残りの人生を楽しもうということで、同期の仲間が山荘に集まった。
女性3名、男性3名、ほんとはもう2名来ることになっていたのだが、心筋梗塞やら教え子の同期会に呼ばれたなどで欠けた。これもまたわれわれの世代らしい。昼前に電車で来てもらい、山荘で蕎麦を食べて、八子ヶ峰を歩いた。みんな山のクラブで鍛えていたはずなのに、ヨタヨタしている人もいる。これもまたわれわれの世代らしい。下って温泉に行き、山荘に戻ってビールで乾杯! このあたりからみんな元気が出てくる。饒舌になり、酒も日本酒、ワイン、焼酎と幅広い。これもまた我々の世代らしい。翌朝は二日酔いで、起こされたほどだ。みんな元気だね。

          
        写真左・同期の仲間               写真右・足も弱った?
 

6月4日 佐渡の長谷寺そして棚田

佐渡は山岳地帯でもある。そんなに標高はないものの、中央部は山また山である。流人の島でもあるのでお寺も多い。牡丹と芍薬が見ごろというので、長谷寺に行くことにした。ハセデラではなく、チョウコクジと読む。佐渡には清水寺もあるが、こちらはセイスイジと読む。本家に遠慮しての読み方なのだろう。
長谷寺は中央部の畑野集落から入っていくが、この入り口にたどり着くのに苦労した。山寺で急な階段が奥の寺院に続いている。もう見ごろは過ぎたようで、わずかの牡丹が咲いていて、紫陽花に変わりつつあった。
山を越え、松ヶ崎の海岸に出て、岩首の棚田に行った。目の下に広がる緑の水田の向こうに海が広がり、その先に対岸の弥彦山や角田山が見える。きれいな棚田だ。最後の宿泊地の両津に車を走らせ、途中でトキの森公園でトキの飼育を見た。ゲージの中のトキは見たが、念願の佐渡の田んぼを飛んでいるトキは見れなかった。それでも満足した佐渡旅行だった。

      
        写真左・長谷寺                  写真右・岩首棚田
 

6月3日 カンゾウ咲き乱れて、”喜びも悲しみも幾年月”

相川のホテルでの朝食後、今回の目的、カンゾウの花を見に大野亀に車を走らせた。佐渡のカンゾウはトビシマカンゾウと言い、山形県の飛島と庄内の海岸、そしてこの佐渡島にしかないという。
その佐渡でも北の端の大野亀という地域に大群落がある。亀というのは海岸沿いの大きな岩山を言い、近くには二つ亀という景勝地もある。尖閣湾の美しい入り江を過ぎ、海岸沿いに北へ北へと行くと道はだんだん細くなり、大野亀に着く。大きな岩山(亀)の山麓から切り立った海岸一帯が黄色一色である。
往年の霧ヶ峰で見た光景が広がっていた。花もほとんどニッコウキスゲと同じだ。風の強い海岸に咲くためか、ニッコウキスゲより硬いようだ。花畑に身を浸して、しばらく憩う。近くの願部落まで歩き、その海岸で昨日の残りのおにぎりをほおばった。空は青く、日本海も穏やか。静かである。ここから弾崎は近い。
「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となった灯台がある。未舗装の灌木の中の道の突き当りに灯台があった。草むらにカムフラージュした戦車が北の空に砲を向けていた。たぶん自衛隊が北朝鮮のロケット発射を監視しているのだろう。その先に「喜びも悲しみも幾年月」の記念像が見えるのだが、灯台から直接行くことができない。隣のドライブインからキャンプ場を抜けなければ行けない。
回って行ってみると、佐田啓二と高峰秀子の二人が海を指さしている像があった。隣の記念板の前に立つと、なんと「おいら岬の灯台守が〜♪」が若山彰の歌で流れてきた。なつかしく、映画のラストシーンを思い出したら、自然と涙が流れ出る。小さい頃の想い出がいっぱい詰まった映画だった。ここまで来たら、もと来た道を戻るより、両津に出る方が近い。途中、ドンデン山に上り、佐渡島を一望して、両津経由で佐渡金山に戻ってきた。昨日見残した金鉱石の精錬施設の遺跡を見て、相川のホテル大佐渡に帰ってきた。
ここの食堂から見る水平線に沈む夕陽はことさら美しい。

      
    写真左・大野亀のカンゾウ群落       写真右・弾岬灯台と「喜びも…」銅像
 

6月2日 佐渡金山を世界遺産に

新潟生まれなのに、この歳まで佐渡に行ったことがなかった。霧ヶ峰のニッコウキスゲの全滅ぶりにがっかりしていたが、同じ種類のカンゾウという花が佐渡には咲き乱れている所があると聞いたので、満開の時期に行くことにした。今である。
蓼科から信越道、北陸道で直江津へ行き、小木港行きのフェリーに乗った。車の旅だ。佐渡汽船の一等席、我々、妻と二人だけだった。港を出て、少し波が高くなったが、たいしたことはない。2時間ほどで島が見え、ほどなく小木港に着いた。ここから相川方面へドライブだ。真野町に入り、順徳天皇陵に行った。
天皇家なので、宮内庁管轄の陵墓である。近くに歴史博物館があり、入ってみた。ここで佐渡の歴史のあらましがわかる。順徳天皇だけでなく、日蓮や世阿弥も佐渡に流されているのだ。そして安寿と厨子王の物語の舞台でもあり、民話・夕鶴の故郷でもある。歴史に彩られた島なのだ。
相川町に入り、佐渡金山に行った。見学コースがいろいろあるが、明治時代の道遊坑と江戸時代の宗太夫坑のふたつを廻るコースにした。徳川幕府の誕生とほぼ同時に始まった佐渡金山だが、幕府の天領としての財政基盤時代、そして明治政府の官営時代とつながっている。明治時代後半には宮内庁直轄となり皇室財産になった時期もあったが、三菱に払い下げられ、1989年に操業停止となり歴史に幕を下ろした。宗田夫抗には抗夫の人形模型がたくさん配置され、金山物語を辿ることができる。なかなか面白い。
最初に金を見つけ、山を縦に露天で掘り進めてできた道遊の割戸をまじかに眺められ、興味深い。世界遺産になってもおかしくない史跡である。

      
     写真左・金山坑内の作業風景            写真右・道遊の割戸
 

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5 月

5月30日 三戦までもつれた早慶戦

雨模様の月曜日、この週末の早慶戦は決着がつかず、今日までもつれた。1勝1敗で迎え、雨模様ということもあり、観客少数、東大戦より少ないくらい。最近の東大は宮台君の活躍で、どの試合も結構な観客がいる。その東大に負けなかったただふたつが早慶だ。それでも4位、5位というみじめな順位なのだ。
試合は早稲田・小島が好投完投して4−2で早稲田が勝ち、勝ち点を上げた。早慶戦には負けられないという早稲田が意地を見せた。その後、春のリーグ戦の閉会式となった。
早慶以外の大学はこの週は試合がないので、昨日も待機して無駄骨、今日やっと出番となった。登録メンバーのほとんどが参加するので、各チーム25名余、合計100人以上の人が無駄骨を負ったことになる。気の毒だ。毎シーズン、早慶戦は最後なので、早慶のいずれかが優勝するなら、閉会式は意味があるが、最近は明治が強いので、明治の応援もいないところでの表彰は味気ないだろう。
優勝が決まった時点で優勝旗を渡して終わりにした方がよいのでは、と思う。それにしても今季の早稲田は弱かった。投手がダメで、打者は三振ばかりでは仕方ない。今日、打率が1割にも満たない中澤がホームランを打ったのにはびっくりし、喜んだ。1年生からレギュラーの彼の4年生になってからの不振は目を覆う状況だったが、秋への期待が持てたのは収穫であった。

      
      写真左・角帽越しの観戦             写真右・リーグ戦閉会式
 

5月26日 初めての入院、点滴、麻酔…
PSA検査で前立腺がんの疑いが見つかり、検査をすることになった。30%の確率レベルらしい。肛門から超音波で観察しながら針を刺して組織を採取するという。一泊の入院が必要で、仕度をして日野市民病院へ行った。まる一日絶食となるので栄養水を点滴するという。
検査のときは下半身を腰椎麻酔で無痛化するともいう。入院も初めての経験だが、点滴も、麻酔も初めてだ。麻酔されたら、下半身の感覚はまったく無くなり、何をされているのか皆目わからない。「終わりました」でベットごと病室に運ばれたあともしばらくは感覚は麻痺していた。
気がついたとき、トイレに行きたい症状が出て、ベットから下りようとしたら、点滴の管、膀胱からもオシッコを流す管、体にも心電図検査のときのような配線、いくつもの管や線が身体中に張り巡らされていて身動きがとれない。ナースコールで看護婦さんを呼び、トイレに行きたいと行ったら、大の方と思ったらしく、オマルを持ってきた。小だと言うと、膀胱からの管の先の袋を見て、「ちゃんと出てますよ」と言う。そういうのではなく、「トイレに行きたくてたまらない感覚なんですよ」と言うと、「それは我慢するしかないですね」と冷ややかに宣う。「一気に出してすっきりする」ということが如何に貴重なことかを実感したのであった。検査の結果は2週間後にわかる。

      
      写真左・検査前にとりあえずV            写真右・日野市民病院
 

5月21〜22日 花の木ツァーの茅野めぐり
恒例・花の木ツァー。山菜とりと宴会。今年は春が早すぎて山菜はほとんど終わっていた。ワラビとぶどうの葉がかろうじて収穫でき、そのお浸しと天丼はおいしかった。吉例の鴨焼きは出し醤油で味付けした大根おろしにからめて焼いた鴨肉を食べると絶品。大根おろしを味付けしておくことが肝要と知った。
宴会後の阿波踊りに加えて、今年はウェスタンダンスもあった。カントリーソングに合わせて踊るものだが、アメリカでは大会もあるとか。カントリーウェスタンは知っていたが、ダンスもあるとは知らなかった。
翌日は、御射ヶ池へ行き、東山魁夷の世界を楽しんだ。3,4回目だが、観光バスまで来ているのには驚いた。人もおおぜいで静寂な池の雰囲気は失われたようだ。
その後、尖石考古館へ行って、縄文のビーナスと仮面のビーナスのふたつの国宝を見た。ここもにぎわっていた。昼食はマルタカ味噌蔵、てっきり茅野駅近くの味噌蔵と思っていたが、諏訪湖・高島城近くであったのに驚き。神州一味噌の会社・宮坂醸造の味噌蔵なのだ。ここで茅野駅近くの味噌蔵は”ヤマタカ味噌”だったことに気付いた。道理で、御柱のとき、見に行って、売店や食堂らしきものがなかったわけだ。
社員食堂でも食べるのかな?と思っていた。マルタカ味噌の味噌煮込みうどんはあっさりした味で、二日酔いの腹にはふさわしく、とてもおいしかった。

      
       写真左・鴨肉パーティ              写真右・神州一味噌蔵
 

5月14日 山内さんを偲ぶ会
5年前のミルフォードトラック山歩きでお世話になったニュージランド在住の岳文会後輩の山内さんが3月に亡くなり、偲ぶ会が同期仲間の手で早稲田近くのスコットホールで開催された。風光明媚なクイーンズタウンでアメリカ人の奥さんと土産物屋をやりながら人生を楽しんでおられるように見えたが、心に何か悩みを抱えていたのか、自ら命を絶ったという。今年の年賀状にも、「人生落ち着いたら、ヨーロッパアルプスをまた歩きたい」と書いておられた。偲ぶ会では彼の岳文時代からその後の人生のスライドが流れていたが、世界を歩きまわって奥さんのメアリーさんに会い、ニュージランドに落ち着くことになった人生は幸せだったと思う。インターネットのスカイプ機能を使って、クイーンズタウンの自宅と結び、メアリーさんも「今も何が起こったのか信じられない」と挨拶をされた。残念なことである。それにしても文明は進んだものだ。身内が出席しなくてもこうやって臨場感あふれる偲ぶ会ができるのだから。冥福。

      
        写真左・献花で偲ぶ          写真右・祭壇脇では山の雄姿投影
 

5月13日 伊藤新道の写真展
御徒町のモンベルで伊藤正一さんの写真展をやっているというので、札幌から上京していた小野さんと一緒に見に行った。北アルプス・三俣山荘の経営者である。戦後すぐ三俣小屋の権利を買い取ったが、誰もいないと思っていた小屋には”黒部の山賊”たちが住みついていた。
二十歳そこそこの若い伊藤さんは山賊の懐に自ら飛び込み、徐々に自分が主であることを悟らせて、ついには山賊仲間をみな小屋のスタッフにしてしまうという離れ業をやった人である。雲の平小屋や水晶小屋へと経営を広げていった。三俣小屋への湯俣から最短ルート・伊藤新道を切り拓いた人でもある。
90歳になった伊藤さんは自分の人生最大のチャレンジだった伊藤新道開拓の歴史写真展を全国で開き、終幕としたかったようだ。伊藤新道を大きな材木を担いで荷揚げする人、雲の平の小屋作りの資材だ。
あばら家同然の戦後間もない頃の三俣小屋など、貴重な写真が並んでいて、とても興味深い。
伊藤さんは写真の達人でもあり、カラーの三俣周辺の四季の写真は美しい。今はヘリコプターで資材や食料を運ぶ時代となり、伊藤新道のメインの目的は薄れ、登山道としても歩く人が少なくなり、廃道となってしまい地図から消えてしまった。小屋締め後の晩秋に山小屋のスタッフがこの道を下って湯俣に行くのが恒例となっているとか。北アルプスの最深部の小屋で美しい環境を守ってきた伊藤さんの人生も終幕に近づいている。

      
  写真左・戦後間もない頃の三俣山荘        写真右・伊藤新道の歩み
 

5月9日 勝ち点はなかなか難しい東大
今季、宮台投手の好投で明治を破り、立教一回戦でも勝った東大の試合を見に行った。
立教との三回戦、勝てば久々の勝ち点を上げられる。東大の先発は柴田、宮台君は疲労困憊で先発回避。これでは勝てぬ。一回に早々と2点とられると、5回にもホームランなどで5点とられ、万事休す。
第二戦も大敗している。宮台君に続く二番手投手が育たないと勝てない。そして一日おいても投げられる宮台君の体力も必要だ。湘南高校では投げていても連投はなかっただろう。だから間隔が長く空けばOKだったが大学のリーグ戦となると最低二日は続く。慶応なども二番手に苦労して二戦目は負けるが、三戦目に初日投げたエース・加藤が出て締める。それで勝ってきた。加藤には一日空けば、また投げられるスタミナがあるのだ。この差が縮まらないと東大の勝ち点はなかなか難しいと見た。

      
        写真左・東大応援席              写真右・立教応援席
 

5月8日 日野新撰組祭り
久しぶりに地元日野の新選組祭りパレードを見た。最近は若い女性に人気があるらしく、甲州街道を通行止めにしてのパレードだ。今年の土方歳三役には女性が選ばれた。馬にまたがっての登場だった。
新選組ゆかりの地は全国にいくつかあるが、以前の祭りでは土方終焉の地、函館五稜郭や近藤勇が捕まった流山などからもパレードに参加していた。しかし今回は出場なく、めぼしい所は会津若松くらい。
遠くまで行っても地元観光に結びつかないと思ったか?その代わり、地元保育園児がたくさん青い「誠」法被を着て歩いていた。ちびっこからファンを育てていこうといるのかしら?

      
      写真左・今年の土方歳三            写真右・保育園児も参加
 

5月5日 終わったあとの悲劇・本宮一
上社本宮の建御柱。本宮一の柱が神社正面の場所に建てられるので見たいのだが、既に規制がかかっていて氏子以外は入れない。それでは神社裏手の御柱を、と廻ってみると登山道にも警備員がいて氏子をチェックしている。そのやりとりの間に我々は横からすり抜けて、上り道に入ってしまった。
森の斜面に来ると下手に本宮四の柱が見える。原村・泉野地区の柱だ。やつがね区の幟が立っている斜面に陣取り、建御柱を見ることにした。森の中の急斜面、座っているとずり落ちていく。幸い私は石の上に座ることができたので安定して見られる。建て始めてしばらく経ったとき、突然止まり、マイクから「木遣りもラッパもやめて」という声。何か上げ方にトラブルがあったらしい。その調整に手間取っている。
どうもこの地区の柱はいつも何かのトラブルを起こすのが特徴。午後3時も過ぎていたので、観覧をやめて帰ることにした。戻り道で本宮前を通ったら、既に一の柱は垂直に立ち上がり、終わろうとしていた。立ってしまえば遠くからでもよく見える。しばらく見てから帰途についた。
我々が帰って30分後くらいに事故は起ったらしい。片づけをして下りる準備していた人が落下、死亡した。前回の下社の建御柱でも落下事故で2名死んだ。またもや建御柱での事故だ。あとで聞くと亡くなった方は発作の持病があり、柱の上でそれが起ったらしかった。気の毒なことである。

      
    写真左・本宮四の御柱は森の中          写真右・本宮一の御柱
 

5月4日 なんでここで”ダッシュケイオー”?
上社前宮の御柱の立つ場所は山の中腹だ。昨日、ここまで引っ張り上げた柱を今日建てる。
四本の柱は同時に作業を開始するが、立ち上がる時間はバラバラになる。最初は一の御柱を本殿への階段横で見ていたが、前に人が多くよく見えない。そこで吉田さんと二人で、本殿左横に入って行くと二の柱の裏手に出て、前上に三の柱がよく見える。ここはよい。
しばらく見ていると建てる前のセレモニーが始まった。ラッパ隊が奏でるメロディ、おやどこかで聞いたことがある。「♪ワセダを倒せ、ワセダを倒せ、ワセダを倒せエ〜、かっ飛ばすぞ、かっ飛ばすぞ、勝つぞ、勝つぞケイオー・・・♪」、ダッシュケイオーの応援曲でないか!少しラッパの音がはずれてはいるが、ダッシュケイオーに間違いない。たぶん三の御柱の担当地区「玉川・豊平」に慶応出身者がいるのだろう。神宮以外の思わぬ所で聞いたので驚いた。
そうこうしているうちに、ここは二の柱を建てるためにワイヤーを巻く場所なので居てはダメだと言われ、自然に二の柱担当の「米沢・湖東・北山地区」の氏子席に入ってしまった。これは幸いである。蓼科はこの地区の一員なので、私も準氏子に違いない。ラッパの音に合わせて手を振って、柱が上がっていくのを応援する。前方には霧ヶ峰から車山に続く稜線。それに向かっていくように柱は上がる。左横に目をやると隣の三の御柱がかなり上まで建っている。実に建御柱を見るには絶好のロケーションに偶然もぐり込むことができたのだった。

      
       写真左・前宮三の御柱        写真右・車山方角に立っていく前宮二
 

5月3日 前宮の建御柱への道は険しい
今日は里曳き、御柱祭り5月の始まり初日だ。吉田さんと一緒に山荘を出て、長野県生協配送センターの駐車場に車を停めて、前宮に向かった。
入り口の鳥居を過ぎると、急な階段になるが、今日はその階段に板を敷いて、御柱が上がりやすいようにしている。上がってくるのは午後なので、その前に今日来る白須さん、渡辺さんを迎えに駅に行く。
もう正午近くなので、先にラーメンでもと言うと、吉田さんが「エッこんなに早く!」と言う。私が時計を読み間違えていてまだ10時半だった。それから1時間ばかり駅周辺で時間をつぶし、しなそば屋に案内した。「おいしい!」と吉田さん、「でしょう。」と私。ここのラーメンはおいしいと思う。白須、渡辺両嬢を迎え、再び前宮へ。午前中に目星をつけていた場所で御柱待ち。
まずは一の柱が上がってきた。富士見・金沢地区の担当だ。旧甲州街道沿いの地区だ。急坂なのである程度の勢いをつけないと上がれない。「ヨイテコショ、ヨイテコショ」と掛け声をはずませてV字型のメデドコが見えてきた。引手も必死で引っ張り上げる。屋根や電柱にぶつからないようにメデドコを右に左に揺さぶりながらの登りである。「タンタカターン!」とラッパも元気づける。上へ上へと上がって行き、据え付け地に到着すると、バンザイ、バンザイの歓声が聞こえてきた。四本の柱が次から次へと上がっていった。

      
      写真左・前宮の坂を上がる           写真右・坂を抜けた御柱
 
5月2日 山荘の庭は花盛り
今年の春は早い。蓼科もご多聞に漏れず早い。庭の桜はいつもは5月中旬なのにもう満開だ。
少し散り始めている。スイセンも早かったがまだ残っていた。水芭蕉はさすがに終わった。
春の庭は草の芽吹きとタンポポ、水仙と色とりどりで美しい。
今年はこれに小さなすみれが加わった。紫色の小さな花が庭のそこかしこに咲いている。小さくて地味だが、可愛くて愛らしい。今年は御柱見物の人が何人か来ているときに桜が見れて幸いだった。

         
       写真左・今年も咲いた桜           写真右・鹿も食べない水仙

 

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4 月

4月26日 春の六大学野球は混戦模様

早稲田が立教に負け、勝ち点を失った。3年ぶりの敗戦だ。昨日といい、今日といい、さっぱり打てない早稲田には昨年の春の勢いがない。主力打者がことごとく卒業してしまって、打線は大幅なレベルダウン、主力が残った投手陣が好投してもこれでは勝てない。さりとて他も似たようなもの。
今日の明治は18点もとって慶応に勝ったが、東大には12年ぶりの敗けを喫している。
立教も法政に負け、法政は慶応に負けと、どこが強いのかわからない。
昨年連覇の早稲田もこの春は5位になる可能性だってある。そんな今年の春のリーグ戦だが、久しぶりに聞く神宮の応援風景は楽しい。立教の軽快な応援メドレーをきいていると早稲田が負けてもそんなにがっかりしないから不思議である。
慶応の”チャンスKEIO”もさわやかだし、明治の”ウララウララ”も春らしい。
早稲田の”大進撃マーチ”だっていい。早稲田の野球部員の好きな応援メドレーではコンバット・マーチを押さえていちばんだという。
六大学野球は試合を見るだけでなく、こんな応援の場に浸るのも魅力のひとつなのだろう。もっと人気が出てもいいのだが・・・

      
        写真左・春の神宮球場              右・明治の応援席
 

4月25日 片貝さんを偲ぶ会
仕事の縁で知り合い、蓼科の山荘で10年にわたってチェロの演奏会をやってくれた片貝さんがこの2月に亡くなり、今日は旧青学会館で「偲ぶ会」が催された。
この秋の「追悼・高原の演奏会」の案内チラシを持って参加した。
片貝さんはITの仕事だけでなく、幅広い活動をされていた。故郷の上州・東吾妻町での古民家再生では慶応の学生を巻き込んで、古民家をそのまま宿泊施設にする活動をしている。
そして初めて知ったのだが、東南アジアの児童買春撲滅の活動にも手を差し伸べていた。
会の代表の女性が涙ながらに、片貝さんの貢献ぶりを話されたのには感動。
岩佐さんのスピーチで、「片貝さんは後ろを振り返らない。いつも前を見ていた人」という表現はあたりだと思う。
蓼科の山荘のベランダで一生懸命、チェロを弾いていた姿を思い出す。決してうまくはなかったけれど、味のある演奏だった。

      
     写真左・在りし日の片貝さん、               右・偲ぶ会
 

4月21日 お江戸日本橋から船下り
江戸は水の町でもあった。荒川や隅田川だけでなく、用水路として神田川、小名木川、亀島川など多くの河川が開鑿された。そんな水路をめぐるツァーに参加した。
集合は日本橋のたもと、そこに船着き場があるのだ。屋根なしの水上船でスタート、江戸橋、茅場橋など駅名でおなじみの橋をくぐり、日本橋川から亀島川に入っていく。短い亀島川だが、橋は多い。
亀島水門から隅田川に入り、大きな永代橋をくくってきれいなカーブの清洲橋に出る。この橋越しに見るスカイツリーは見どころだ。
小名木川は房総からの荷物運搬用に作られた川とのことで、荷上場の港が今でも残っている。深川界隈だ。水門の所で小名木川を戻り、隅田川へ再び出る。この曲がり角に芭蕉の屋敷があったらしく、今は座像がある芭蕉公園になっている。
隅田川を両国近くまで上り、神田川に入った。浅草橋、万世橋、昌平橋、聖橋と続く。頭上には中央線や丸の内線が走っているのが面白い。聖橋はニコライ堂と湯島聖堂を結ぶので聖橋と名付けられたそうだ。
水道橋まで神田川を上って、日本橋川へ左折して、船着き場へ帰ってきた。
約2時間の船旅は江戸の歴史を知る楽しいツァーであった。
船を下りて、近くの洋食のたいめい軒へ行ったら、修学旅行の学生が列をなしていた。最近はひと味ちがう修学旅行であることを実感した。二階は高いが空いていたので、ここでハヤシライスとナポリタンを摂って、楽しい小旅行を終わった。

      
   写真左・清洲橋からのスカイツリー           右・神田川の昌平橋
 

4月18日 春の鳥居峠を越える
朝からよい天気になったので、早太郎温泉の二人静を9時過ぎに出て、権兵衛峠を越えて奈良井宿へ行った。しばらく駅で待ち、11時過ぎの列車で隣の藪原へ。ここから奈良井に向けて中山道を歩きだす。
皇女和宮が通ったルートである。4回目くらいの鳥居峠だが、ルートが少し違っていた。線路の跨線橋を上がったのは初めてだ。その上に鷹番所も今回初めて見た。尾張藩の鷹狩用の鷹を飼育していた屋敷があったという。その横からはなじみ深い鳥居峠への上りが続いていた。森林測候所跡地のベンチで昼食。
昨日の朝、握ってきた赤飯のおこわがとてもおいしい。おにぎりは赤飯に限る。御嶽遥拝所で曇り空にうっすら浮かぶ御嶽山を遥拝した。鳥居峠の謂れの遥拝所の鳥居が崩壊のおそれありで通行禁止となっていたが、大回りするのは嫌だし、ここを通らなければ鳥居峠に来たことにならないので、ソッとくぐった。妻は嫌がっていたけど。鳥居峠からは長い下りで、多くの倒木を見ながら、奈良井宿に入った。
五平餅を食べ、木曽のひのきの箸を買って、車を停めてある駅前に戻ってきた。雨も降りださず、楽しいトレッキングであった。

      
         写真左・馬頭観音                 右・石畳の道
 

4月17日 飯島町は歴史と桜の町
本来、今日、鳥居峠へ行こうと思っていた。しかし朝からの雨、風も強く、この中を歩くことを断念。
歩いてから泊る予定だった早太郎温泉で明日の模様見となった。チェックインには時間もあるので、信濃毎日新聞の開花情報でまだ7分咲きの飯島町千人塚公園へ行くことにした。
飯島町は以前、三伏峠へ行くバスに乗るために来たことがある。道の駅でしばらく雨宿りした。雨風が強く、車から出るにも難儀した。ローメンで昼食、町の案内書を見ると、飯島陣屋があると出ている。桜の前に寄ってみた。飯島は幕府直轄の地で、尾張藩から定期的に役人が来て、陣屋で税務中心の仕事をやっていたという。高山の陣屋も同じで、今で言う役場なのだろう。明治維新の廃藩置県でここは伊那県の県庁がしばらく置かれていたらしい。当時は飯田や伊那市より、飯島が行政の中心だったようだ。
伊那の歴史を垣間見て、雨も上がりつつあったので、千人塚公園に向かった。上り坂を上がっていくと、山桜のようなたわわな桜木が道の両側から中央にせりだしてきた。みごとな桜だ。7分咲きと出ていたが、ほぼ満開だろう。雨空とあって人もほとんどいない。せっかくの日曜なのにもったいないことである。
薄いピンクの桜にまじって、紫のミツバツツジも映えている。予期していたより、見事な桜の公園であった。

      
         写真左・飯島陣屋               右・千人塚公園の桜
 

4月16日 井戸尻遺跡は花盛り

蓼科への通り道、いつもは素通りしている信濃境駅近くの井戸尻考古館あたりの花がみごとだったので寄ってみた。縄文遺跡の場所だ。
傾斜地にわら作りの小屋が建ち、その周りを満開の桜とハナモモやミツバツツジが囲んでいる。桜の木の下では老人二人が酒盛りをしていた。のどかな春爛漫の景色が広がっている。霞んだ空の向こうに、甲斐駒ケ岳がうっすらと見える。この辺り一帯は縄文時代に多くの集落があったようだ。
考古館にはその跡地で収集した壺や土偶がいっぱい展示されている。駐車場には御柱のメデドコ(V字状の張り出し柱)付きのレプリカが置かれていた。
この地区は県境の富士見町の「境・本郷・落合」区であろう。ここから茅野までおおぜいの氏子が繰り出して、御柱を曳くのだ。ちなみに今回は本宮三の柱を担当している。

      
     写真左・桜の先に甲斐駒ケ岳             右・御柱レプリカ
 

4月13日 ゴールデン街の焼け跡
新宿ゴールデン街が燃えているとYahooニュースが伝えていた。場所を見ると、区役所寄りで、花の木のある花園神社寄りから比較的離れているので、大丈夫とは思うが、ママさんに電話してみた。
まだ店には行っていないが、一帯は停電しているようで、今晩は営業できないだろうと言っていたが、あとから「店に来たら、電気はついているので営業できそう」とホッとしていた。
翌日、お見舞いかたがた寄ってみた。焼け跡はロープが張られて入れないが、延焼をよく止めたものだ。
この辺りは木造の古い家屋ばかりなので、延焼したら、全域が焼けてしまうだろう。
ママさんは「あちこちから見舞いをもらって、お客も心配して来てくれるので、焼け太りみたい」と笑っていたが、まずはひと安心である。

            
         写真左・焼け跡                  右・焼け落ちた店
 

4月10日 早春の庭に似つかわしくないけれど…
春の山荘の庭には水芭蕉や水仙が咲く。今年も水仙はつぼみをつけたので、あと数日後には咲きそう。水芭蕉は少し小ぶりになってしまったが、小さな池の水辺に白い花を開いた。これ以外の花はすべて鹿に食べられてダメだ。
4つの鉢に東京で買ったルピナスと農協で買ったマリーゴールドを植えた。いずれも色が鮮やか過ぎて、高原の庭にはふさわしくないのだが、マリーゴールドの匂いを鹿は苦手らしく食べない。
ルピナスはそれほど好物でないらしいが、食べることもあるので、一緒に植えて、マリーゴールドに守ってもらおうという算段だ。うまくいくか?
(実はこの数日後に来てみたら、鉢は空っぽだった。鹿にやられたかと思ったが、零下に気温が下がった日があったらしく、その寒さでいずれも枯れてしまったらしい。またやり直しである。)

         
     写真左・今年も咲いた水芭蕉          右・ルピナスとマリーゴールド
 

4月8日 下社木落としはラッパ隊にもっと出番を

御柱祭の代表的光景というと急坂を人が乗って落ちてくる下社の木落としだ。
今回から全席指定となってしまったが、幸い金曜日のS席を抽選で手に入った。
吉田さんとその友だちの山口さんと一緒に見にいった。ほぼ真正面の席なのでよく坂が見える。
今日は春宮四、春宮三、秋宮二の三本の木落としが見られる。落ちだすと数秒で下まで行ってしまうので、あっというまだ。落ちる前が長い。丸太のせり出しに延々と時間をとり、その間を木やり歌がつなぐ。
上社との大きな違いはラッパ隊の演奏が消極的なことだ。ラッパ隊がない柱もある。勇ましい進撃ラッパは命がけの木落としにはふさわしくないと思うのか、スタート間際には鳴らさない。
上社がラッパの音とともに落とすのと対照的だ。上社の木落としは傾斜もゆるく、短いので命がけという雰囲気はないので、進軍ラッパはスタート合図のようなものなのだ。
下社はもっとラッパ隊に出番を増やし、スタート前の威勢づけをした方がよいと思うのだが?春宮三の「信濃の国」の合唱にもラッパ隊の伴奏がついたらもっと盛り上がる気がする。三本の柱が無事に落ち、死者が出なかったのは何よりであった。

      
    写真左・秋宮二御柱のスタート            右・春宮四御柱の落下
 

4月6日 八子ヶ峰の雪も少なかった
上社と下社の御柱祭の日程の隙間の今日、天気もよいので今年初めて、八子ヶ峰へ登った。
別荘地には雪がもうないが、山道に入ると所々にまだ残っていた。東峰からスキー場上部に行く林の中は結構、残っていた。滑らないよう気をつけて下る。それでもこの季節はいつもの年はほとんど雪に覆われているので、今年の暖冬の異常さが八子ヶ峰にも見てとれる。
もう少したてばふきのとうが顔を出し、連休明けには山桜も咲き出そう。暖かいので、南も北アルプスも中央も御嶽も霞の中だ。それでも春が来たことが実感できた八子ヶ峰であった。

      
      写真左・登山道の残雪               右・春霞の甲斐駒ケ岳
 

4月4日 上社川越しは面白い
上社御柱の華は川越しだと思う。今日は五本の柱が宮川を渡る。しかし朝から雨、いったん「今日は行かない」と思ったが、神戸から来た川合さん夫妻は帰る前に一本でも見たいというので、行くことにした。
幸い、雨は小降りになり、だんだん晴れてきた。この雨は、見る側に幸いした。河原はガラガラで氏子席の中に入れるほど、絶好の位置を占めることができた。昨日の大混雑とは様変わりである。
最初の一本は「米沢・湖東・北山」区、わが蓼科も入る地区だ。この地区の特徴は衣装から演奏から、何せ派手なことだ。三友会という御柱の組織を立ち上げ、人口密度の低いこの地区を何とか盛り立てようとけなげだ。川越し前のセレモニーではラッパ隊に和太鼓隊も加わり、独自メロディを奏でる大演奏だ。
その演奏に乗って、スルリスルリと柱が川に入っていく。ラッパ隊も川の中に入って、進撃ラッパを吹き鳴らす。反対側の川岸から引っ張り上げるのに少し手間取ったが、開始後数十分で柱は土手を越えて、御柱屋敷に据え付けられ、4月の仕事は終わった。川合さん夫妻も「とても素晴らしいものを見た」と喜んで帰っていった。
後日頂いた奥様からの手紙には、「6年後も来たいので、山荘を予約したい」とあった。6年先に私が元気で山小屋をまだ持っていたら、と返事をしたが…           

      
  写真左・いざ川中へ「宮川・ちの地区」    右・川越し終わる「米沢・湖東・北山地区」
 

4月3日 上社木落としは華やか

上社の木落とし坂は中央線のそばにあり、車窓からも見え、そこで停車するならばベストの観覧席になるのだが、そうはいかない。坂そのものは50mくらいで傾斜も28度が最大、下社と比べて迫力に欠ける。
それを補うべく演出が華麗である。メデドコ(V字状の側柱)にも8名ほど乗り、鈴なり状態で下してくる。
どちらかに傾くと地面に這う人と宙高く浮き上がる人に分かれる。スタート前のセレモニーも木遣りと進軍ラッパが交互に奏でられてにぎやかだ。そして横断幕が斜面に広げられ、ボールを上から転がしたりと多彩である。御柱が落ち始めるというより、左右の綱で引っ張りおろしている。そして傾斜が緩いので、すぐ止まってしまうものもある。そうするとそこからは「ヨイテコショ」の掛け声で引きずりおろしている。
下に着くとうまくいかなくとも「バンザイ、バンザイ」の大合唱で木落としは終了する。そこから川越しへの移動は、線路の下のトンネルが狭いため、メデドコを外して通し、くぐり終わって、通りに出てまた付け直すというやっかいさである。いつでもラッパ隊の響きと木遣り唄が響かせながらの行軍なので、見ている方もウキウキしてくる楽しさがある。私は上社の山出しが好きだ。   

      
       写真左・上社の木落とし           右・上社木落とし坂、上部から
 

4月2日 穴山大曲のうまい下手
八ヶ岳農場下から上社の御柱の行軍はスタートする。今回は近くの山に適当な樅ノ木が育っていないため、伊那の辰野町の森から切り出してきた。そこから八ヶ岳農場まではレッカー車で運んできた。
何百年の歴史ある御柱祭り、車も橋もない時代だったので、丸太を引きずって運ぶしかなかったのだろう。その伝統が今も続いているというのが面白い。それも諏訪神社の上社と下社に分かれ、諏訪湖周辺の三市、二町、一村がふたつに分かれて、計16本の丸太を神社まで運ぶのだ。
上社の行軍は残雪の八ヶ岳をバックにして進むので、美しい絵になる。金沢地区の穴山の集落に入ると最初の難関大曲りだ。直角に近いS字カーブを15m以上の長さの丸太をスムーズに通すべく、どの地区も工夫をこらす。グランドや畑に模型を作って練習に励んできた地区もある。
たいていの地区はS字の所で停止しながら、少しずつ丸太の方向を変えて後ろがカーブに引っかからないように曲がる。「原・泉野」地区は、曲がり角で止まり、リーダーがかなりの間、思案投げ首で長考していた。それに比べて、最後の前宮四の御柱を担当した「宮川・ちの」地区は歴史ある区であり、事前に練習を重ねたのだろうか、S字のだいぶ手前から、「エントコショ、エントコショ」とメデドコに乗った氏子の掛け声に合わせてスタートし、何の迷いもなく、停止することなく大曲を曲がり切っていった。お見事である。

      
     写真左・大曲を通過する御柱          右・曳き子であふれる大曲
 

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3 月

3月27日 三分咲きの中々連花見

暖冬で春の訪れは早いとの予想で、中々連の花見はいつもの4月上旬から、今年は3月最後の日曜日に前倒しにした。そのチャレンジは如何に?
満開とはいかなかったが、三分から五分咲きと言ったところだろうか?人出も結構多く、まずまずの成功と言えるのではないか。一品一酒の持参なので、いろいろな酒と食べ物が集まり、それをつつきながら、呑みながらの花見は楽しい。盛り上がったところで、恒例の阿波踊り、巡視員がいなくなった時を見計らい、控え目な鳴り物に合わせて踊り出す。輪を描きながら踊り出すと、近くの花見客がその輪に加わってどんどん増えていく。今年の特徴は、外人の飛び入りが多いことだ。花見も阿波踊りもだんだんインターナショナルになってきたということか?

      
      写真左・花は三分咲き               右・輪になって踊れ
 

3月22日 乗鞍も春模様
昨日の上高地の後半の天気がさらに良くなり、朝から快晴だ。中の湯温泉からの穂高連峰は朝日に輝き、くっきりと浮かび上がっている。それにしても中の湯の温泉は熱い。
今朝は露天風呂すら、熱くて足を入れただけで出てきた。昔の宿の位置から数百米上がった所に移って、温泉もそれだけ上げて引湯しているのに冷えないのだ。源泉はどれだけ熱いのか? そんな中の湯に別れを告げて、白骨温泉から乗鞍高原への道に車を進めた。一瀬牧場あたりをスノーシューで歩こうと思ったが、スーパー林道は閉鎖で牧場近くまで車は行けない。
そこで休暇村へ行き、近くの駐車場から善五郎の滝へ行くことにした。遊歩道も土が出て、春模様なのだが、途中で雪道になり、あちこちに足跡が分散し、分からなくなる。下への道を取って、下っていくと建物が木の間越しに見えた。滝の近くに建物などないので、間違いに気づき、登り返したら、滝への道標を見つけた。しばらく登り、滝への凍り付いた階段を慎重に下って瀧見の橋に出た。対岸に2頭のカモシカがいる。カメラを取り出したら、「メモリーいっぱい」の表示で撮れない。何枚かを削除している間にカモシカは消えてしまった。残念無念! 滝の水量は夏に比べてとても少ない。駐車場に戻ると、道の上に真っ白い乗鞍岳がどっしりと聳えていた。大きな山である。乗鞍高原も例年に比べると雪が少なく、スキー場も閑散としていた。ここにも春が確実に訪れていた。

      
      写真左・白銀の乗鞍                  右・善五郎の滝
                     

3月21日 この冬2度目の上高地トレッキングi

2月の岳文会に続いて、今日、上高地に入った。今回は妻と二人だ。この日泊る中の湯に車を置き、宿の車で釜トンネル入り口に行った。朝、蓼科を出たときは雲の多い天気だったが、稲核を過ぎ、奈川度ダムのあたりに来ると、前方に白い山が見え、青空が広がってきた。予報もだんだん晴れると言っているので、思い切って今日行くことにした。少し遅いが11時、歩き始めた。最初からヘッドランプを点けてトンネルに入った。妻の足に合わせてできるだけゆっくり歩く。それでも彼女は30分後にトンネルを抜けた時、つらいとぼやいた。それでも大正池近くで穂高の山波が見えたとき、疲れは引いたようだ。大正池畔の流木に腰をおろし、昼のおにぎりやパンを食べ、景色の美しさに感激していた。2月のときより山の眺めははっきりと、なおかつ晴れていくのがよくわかる。中の湯で聞いたとき、スノーシューなしで歩けると言われたので、今回は車に置いてきた。買ったばかりのスノーシューが履けないと妻は残念がっていたが。追い越す人はいないが、帰っていく人とよくすれ違った。時間的にはもう入って行く人はいないのだろう。河童橋に着いたのは午後1時半、誰もいない。工事もしていないので、無人の河童橋だ。穂高連峰の景色も二人占めである。静かな上高地でしばし30分ほど山々に包まれてから、帰途についた。

      
      写真左・上高地に入る                右・無人の河童橋
 

3月19日 稲門会スキー・春の志賀高原
雪が少ない今冬、志賀での日野稲門会スキーは実のところ心配であった。道路周りには雪がなく、夏道のようにスイスイと奥志賀まで車は上がった。それでもゲレンデは白く覆われて、滑るには問題なさそう。金曜午後は、永山さん、谷さんと一緒にグランフェニックスで昼食をしたあと、ゴンドラ沿いを2度ばかり滑って、焼額に行った。渋滞で遅れていた高橋さん夫妻、石坂さんと奥志賀ゴンドラ頂上で合流し、昼めしまだというので、サンクリストフへ滑りおりて休憩した。もう私はひととおり今日の勤めを果たした気分で志賀高原ビールを飲んだ。石坂さんは84歳、滑りは確かで、私のこれから先のスキーの目標だ。みんなで再び、焼額に行き、ジャイアントスラロームから奥志賀ゴンドラコースへ入って、今日の打ち止めとした。夜は、他の客がいないので、CD早稲田の歌カラオケで、紺碧の空、早稲田の栄光、校歌と唄い、勢いづいて、慶応塾歌に行き、さらに六大学応援歌、校歌オンパレードになって盛り上がった。翌19日はサンバレーまで行くつもりだったが、一瀬で昼食となり、ここで石坂さんはバスで奥志賀へ帰った。残りは寺小屋、東館、ぶな平、西舘、高天原を廻って帰ってきた。西舘はもう雪が溶けた所が多く、滑れる状態ではなかった。この辺りまで下がると、志賀高原の冬は終わったという感じであった。それでも楽しい稲門スキーであった。

      
        写真左・稲門スキー                 右・肩組んで都の西北
 

3月15日 ”広岡あさ子展”日本女子大学

あさドラに因んだ展示会が日本女子大でやっているというので妻と出かけた。
日本女子大、通称ポンジョは長女・穂梓の母校だ。高校からポンジョに行ったが、高校は読売ランドだったので、目白の本校に行くのは私は初めてだ。妻は学園祭に来たことがあるという。行きは目白駅からスクールバス、大学の構内までノンストップバスなのだ。成瀬記念館が会場だ。創立者・成瀬仁蔵はポンジョでは神様のような人だ。ドラマでは成澤泉という名前になっている。娘が通っていた頃、成瀬の名前はひんぱんに事あるごとに出てきたが、広岡あさ子の名は聞いたことがない。あさドラでは白岡あさ、ドラマで初めて知った名だ。ポンジョもあわてて準備したのではなかろうか。
記念館の一角に広岡あさ子の書簡や写真などを並べて、学校とのつながりを紹介している。すべて急仕立ての印象はぬぐえないが、この大学開校の大スポンサーであり恩人であることは間違いない。帰りは目白の駅まで歩いたが、途中で池袋田舎家のウチの親類の女将のマンションを発見したのはビックリポンだった。呼び鈴を押したが、介護施設に行ってるらしく反応がなかった。

      
      写真左・ポンジョあさ展                 右・成瀬記念館
 

3月14日 カントリーウェスタンコンサートはパリ祭より濃い
新聞でカントリーウェスタンコンサートという記事を見て、行ってみる気になった。
渋谷のホールに入ると、テンガロンハットの人が結構いる。カウボウイ、カウガールファッションもちらほら見受けられる。そしてほとんどが年寄りだ。
毎年行くシャンソンのパリ祭に集まる人より年配のようで、なおかつ入れ込んでいる雰囲気なのだ。始まったコンサート、名前を知っているのは高木ブーだけ、あとは初めて聞く名前だがみなベテラン歌手ばかりだ。そして始まった歌を聞いてビックリ、知らない歌だがいい歌が多いのだ。
石田美也さんのシェナンドー、しっとりしていて哀調ある。シェナンドー川に住んでいたインディアンが石油が出たことにより追い出され、オクラホマの僻地へ数ヶ月かけて移っていく悲しい物語なのだ。4分の一のインディアンが死んだという。その静かに哀愁帯びたメロディは心に沁みた。そして田村大介さんの「Life Turned Her That Way」、いかにもカントリーらしいメロディもよかった。大野義夫さんの「Once A Day」も良かった。プレスリーの「アメリカの祈り」が〆の曲で、妻を連れてくるべきだったと思った。
最後は全員でYou are my sunshine!! ブラボー!

      
     写真左・カントリーフィナーレ            右・テンガロンハットもここかしこに
     (右端が高木ブーさん)
 

3月4日 娘夫婦、新婚旅行報告に韓国から来る

長女穂梓(ほし)は昨年10月に韓国のビョン・ジェフン君と結婚した。1月に新婚旅行をし、この報告に来てくれた。(この費用は私が出したので、その御礼なのだ。手配のとき知ったのだが、フランクフルト行きのルフトハンザの韓国便のビジネスクラスは25万円、ほとんど距離が変わらない日本からのフランクフルト便は35万円なのだ)スマホの写真で行程を説明してくれたが、プラハは韓国人だらけだったとのこと。だいたい日本の観光客が行くと、次が韓国が数年遅れで続き、そのあと中国と続く。ドイツのノイシュバンシュタイン城などまさに今は、韓国人、中国人に席巻されている。ロマンティク街道の日本語標識もそのうちハングルに変わるのでは?
それはさておき、無事の帰国とこれからの幸せな家庭を祈念して、とうふやうかいで歓迎の席を設けた。韓国でもとうふはポピュラーなのでジェフン君もおいしそうに食べていた。翌日の昼は穂梓とジェフンふたりでスシローに行って、韓国語メニューのタッチパネルで注文し、楽しんだようだ。まずはうまく行っているようで安堵である。

      
      写真左・ニューファミリー                    右・娘夫婦
 

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2 月

2月28日 蓼科はもう春?

八方のスキーの帰り、蓼科の山荘にスキー道具を置きに立ち寄った。中旬のスノーシュー以来だ。そのときはまだ雪に覆われていた庭がもう早春の装いだ。雪はかろうじて屋根の下に残っている程度、駐車場もきれいに溶けて、周りはフキノトウが咲き出してもいいほどだ。2月でこんなことは初めてだ。どうなってしまったんだろう。
あるべき季節にあるものがないというのは調子が狂ってしまう。このまま春になってしまうのか? と心配していたが、2日後の3月1日にまとまった降雪があったらしい。今は20cmくらい、再び積もったというから、安心した。というのも変な気がするが、まずは季節らしい景色が復活したらしいことを慶賀するか・・・

      
      写真左・雪が消えた山荘            写真右・雪は屋根の下に少し
 

2月27日 稲門会スキー in Happo
日野稲門会のスキーが八方尾根であった。昨年に続いての開催だ。
高橋さん夫妻、永山さん、小野さんと私の5名、少し寂しいが、永山さんの奥様は半月板損傷とか、昨年来られた板東さんも手術直後とかで、みなさん歳相応の状況なのだ。
小野さんはご主人が高橋さんと建築科の同級生のよしみでスキー仲間になったとか。
ドロミテにも一昨年行ったことがあるそうで、私たちが行っていたときと同じ頃のようだった。金曜の正午に太平洋山荘に集まり、支度をして咲花ゲレンデの蕎麦屋へ。ここの蕎麦は結構いけるのだ。雪が舞う中を、黒菱に上がり、さらに上へ乗り継いで、八方池山荘まで行ってしまった。見通しが利かず、雪面もよく見えない新雪の中を、転ばぬよう、気を付けて下りてきた。そんな状態なので早目に切り上げ、宿へ帰ってきた。
夜は程よく呑んで、翌朝は快適に起床。天候もまずまず、高橋さんが9時出発というのを「早すぎる!」と制したが、15分遅くなっただけだった。白馬三山も朝のうちはかろうじて見えていたが、次第に雲がかかってきた。しかし陽射しはあるので、滑るには問題なし。兎平からリーゼンスラローム・コースへ入った。久しぶりのコースだ。傾斜もあり、コブもあり、長くもあり、昔は苦労したコースだが、今は圧雪されているので、気持ちよく長いコースを滑っていく。楽しくて、午後も2回ほど滑ったくらいだ。しかしだんだん太ももが張ってきて、林道をボーゲンで延々と滑っているうちに太ももがツッテ来た。3時前に切り上げ、咲花に帰ってきた。スキーを脱いだら、”生ビール、今なら350円”の看板にたまらず寄り道をしてしまった。その夜の宴会は、高橋さんが作ってきた早稲田歌集から、都の西北と早稲田の栄光を唄い、ついでに慶応塾歌まで唄ってしまった。

      
     写真左・参加者で一枚               写真右・八方尾根を臨む
 

2月12日 岳文トレッキング in Kamikochi

朝日が輝き、良い天気となった。が、天気予報は快晴は午前中までその後は曇り、夕方には降りだすと。何とか持ってくれと、朝7時に山荘を出た。早大岳文5期〜14期の9名。沢渡でスノーシューを借り、タクシーに乗り継いで、釜トンネルへ。長く、暗く、傾斜のあるトンネルを歩くこと30分、大正池手前の曲がり道で雪に覆われた穂高連峰が見えた。
奥穂高頂上付近は雲がかかってしまったが、吊尾根から前穂、明神への山波はくっきりと見える。何とか天候悪化の前に上高地に入れた。大正池でスノーシューを履き、田代池に向かい、さらに穂高に近づく。雪原の先に見える白きたおやかな峰々は神々しい。梓川のほとりを河童橋に向かった。冬でないと工事ができないせいか、五千尺ホテルの前には数台のトラックが停まり、舗装工事のまっさかりだった。トラックを横目に見ながらの昼食は少し興ざめだが、梓川越しの白い山の美しさと持ってきた赤ワインのおいしさが絡み合い、うまし午餐となった。帰りはスノーシューはザックにくくりつけて、除雪されたバス道路を帰ってきた。来るときに見た同じ曲がり角で、夕陽に輝く穂高がまた見えた。次に来るのは夏だろうか。

      
       写真左・大正池で               写真右・帰り見すれば・・・
 

釜トンネル入り口に忘れた手袋を取りに行ったりして、沢渡を4時過ぎに出て、蓼科に戻ってきたのは6時近く。みんなを温泉に下し、寿司屋に電話すると、親父が電話口で、「もう出ている」と言う。「少し遅くなると伝えて」と言うと、「携帯持って行ってないので連絡できない」。タウンセンター近くのアンファミーユに頼んでおいたオードブルを急ぎ車に積み込み、あわてて山荘に戻った。
駐車場に寿司屋の車が停まっている。さっき電話に出た親父さんが乗っている。「電話に出たのは?」と聞くと、「私だ」、??? まだ電話して15分も経っていない。電話からすぐ出発しても、15分後には絶対到着できない。「どういうことッ?」、疑問だらけだったがこちらも慌てているので、「ま、いっか」と寿司を受け取り、暖房を点け、さっとシャワーを浴びて、風呂上りのみんなを迎えに行った。
全員そろって、まずはビールで乾杯! 今日の上高地スノーシューはまずまずの天気になり、成功のうちだろう。前回は強風で昼食もまともに摂れなかったことを思えば。
山が見えたことでめでたしである。そしてほとんどの人が70過ぎなのに無事、歩けたこともめでたしだ。

       
       写真左・ひと日を終えて          写真右・この日の山荘はまだ雪の中
 

2月2日 片貝さんの思い出

片貝孝夫さんが亡くなられた。BPIAという団体で一緒だった縁で、山荘ができたばかりのときに蓼科に来られ、チェロの練習をされていた。毎年、練習と演奏に来るようになって晩秋の恒例行事となった。昨年も夏前まではやるつもりだったようだが、体調を崩され、1年おやすみにすることにした。暮れには電話が来て、山荘にある外人用の山荘の使い方パンフレットを送ってくれないかと頼まれた。そのとき話した様子では元気そうで、今年の再開にも張り切っていた。そんな状況だったので、訃報を聞いたときは驚いた。
その葬儀が大宮であり行ってきた。音楽葬で、お経も戒名もなく、東京フィルハーモニーのプロのチェロ奏者とオルガニストが演奏する中で進行した。
「きびしいときもあったが、世の中のことをやさしく教えてくれた」と、中学生のお孫さんの弔辞や小学生のお孫さんのおじいちゃんと一緒に習ったチェロ演奏には泣かされた。
たくさんの花と音楽に包まれた葬式は片貝さんらしくもあり、すてきであった。合掌。

  (下記は最初の演奏会のブログ記事である)
片貝さんはソフト会社の役員、忙しい仕事をしながらチェロを習っている。そのお披露目も兼ねてチェロの演奏会を山荘でやろうと決めたのは2005年のゴールデンウイークのとき。一生懸命、ゲストハウスで練習されていた。
「演奏会をここでやりませんか」「いいですね」と、二つ返事だった。その日がとうとうやってきた。チェロとはどんなものかの講釈が片貝さんからあり、「浜辺の歌」が秋の夜の山荘に響いた。重厚な音色、ログハウスのすべて木の壁に反響して、気持ちよい。
2階のロフトや階段で聞くと、さらに響きがよい。私は階段で聞いていた。秋の夜にふさわしい「枯葉」も含めて6曲、ミニコンサートは、出席者の暖かい拍手の中に終わった。
お孫さんから花束をもらい、片貝さんはうれしそうだった。本番は練習のときよりうまく弾けたと片貝さんも喜ぶ。夜のしじまの中にチェロの余韻がずっと残っていた。

      
     写真左・車の中の遺影               写真右・最初の演奏会
 

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1 月

1月31日 雨氷景色美し

一昨日の雨は山の下ではえらいことになっていた。木々に降り注いだ雨が夕方から気温が下がり、そのまま木に凍り付いて、その重さで木々が倒れ、松本から扉温泉への道では車が通れなくなり、停電も起り、温泉にも入れず、宿泊客は寒い一夜を送ったという。
一日おいての今日は良い天気になった。志賀から蓼科への帰り道、姫木平へ近づくにつれ、木々がキラキラと太陽に輝いている。近づくと、雨氷というすべての木々が凍って、日の光で輝いているのだ。山中の森がキラキラしている。とても美しい。初めて見た景色だ。樹氷は雪の塊が木に貼りつくことを言うが、今日の景色がほんとうの樹氷ではないか?これも蓼科に来ると、ふつうのうっすらと雪が冠っている景色になる。ちょっと標高が違うだけで、
変わってしまうのだ。

      
      写真左・雨氷樹氷、                    右・雨氷美し
 

1月30日 極楽スキーも18年になった

長野オリンピックの年に始まった極楽スキーの集まりも18年になった。よく続いたものだ。1月の最終週、水曜日から入り、日曜まで。水曜から来れるのは私のような暇人で、今回は私だけだった。
27日の水曜の夜は、ベルサルームズの三輪さんの所で夕食をとった。28日の木曜は朝から良い天気、比較的早く、スキー場に出て、足の向くまま滑った。天気が良いので、結局は横手山まで行ってしまった。帰りのバスの時間に苦労したが、5時半頃、オードヴィーに帰ってきた。杉山進さんに会う約束があり、すぐに車でスキーハイムに向かった。
オーストリアのライターさんから送られてきた、1957年に撮影された猪谷千春さんのポートレイト写真の取り扱いを相談しに行った。「まずは猪谷さんに聞いてみましょう」と杉山さんは快諾された。80歳を過ぎているが、元気いっぱいだ。表玄関まで送って頂き、恐縮した。ゼントルマンである。
29日は朝から雨模様、ゴンドラ下を一回滑っていやになり、帰って来た。この日の夜、ほぼ20名全員が集まり、飲みすぎて30日の朝は水一杯で済ませる始末。それでも霧の中をサンバレーまで滑って行った。帰りは晴れたが、飲み疲れで一瀬からバスで帰ってきた。夜は今年還暦を迎える志牟田さんを祝い、いつもの歌声喫茶で夜遅くまで盛り上がった。日曜朝、解散。毎年同じことの繰り返しだが、ワンパターンもこれだけ続くと、伝統となり、心地よい催しとなるようだ。

      
     写真左・志賀高原                     右・60代仲間入り
 

1月24日 阿波踊り新年会

恒例・中々連新年会。高円寺のギャラリー久に集まったのは約30名。
ケータリング料理と買ってきた稲荷、玉子焼きでの宴会だ。女性も男性も、だいぶ新しい人が増えた。みなさん、腰を落ち着けて参加し続けてくれればよいのだが・・・。新年踊り初めも、今年は三回くらいに分けて、踊り続けた。まずはみなさん、おめでとう。

      
      写真左・新年会乾杯                 右・輪になって踊れ
 

月 21日 ディズニーランドは楽しい

やはりディズニーランドは楽しい。It's a small Worldの船に乗って、人形の踊りとメロディが聞こえてくると、一緒に歌い出す。Big Bear Janboryでは熊の唄うカントリーソングにうっとりする。
妻と娘と一緒にやってきた。娘から4月まで使えるパスポート券を誕生祝いにもらったが、2月からは混むというので急遽、今日来ることにした。娘も休暇をとって参加した。
一日、シンデレラ城のマッピングショーまで見て帰ってきた。できることなら、浦安近辺の老人ホームに入って、シーズンパスポートを買って、散歩代わりに毎日、ここに来てもよいと思う。楽しく歩けるし、平日ならアトラクションも利用しやすいだろう。遊びながら、楽しみながら運動になり、さらに長生きできるような気がする。
帰ってきて、インターネットで調べたら、いくつかよさそうな有料老人ホームがある。
まじめに検討してみようか?

      
    写真左・冬ディズニー                    右・マッピング
 

1月18日 やっと雪

野沢から帰って来て、蓼科に来た。まったく雪がない。八子ヶ峰にハイキングしようかと思ったほどだ。しかし、17日の夕方からチラホラ降ってきて、積もりそうだ。夜中の9時過ぎに、上の駐車場に停めておいた車を4号線沿いの下の駐車場に移した。
今日の朝、起きてみたら外は真っ白だ。薪ストーブの灰を捨てに出てみると、20cmくらい積もっている。1月半ば過ぎにようやく根雪になった。山荘開設から12年、こんなに遅い積雪も初めてだ。
4号線は誰も通っておらず、轍がない。新聞を買いに行こうと、少し不安だったが、雪が積もって除雪されてない通りに、車を入れたら、思いのほかスムーズに動く。何とかメイン道路に出て、新聞を買いに行けた。冬はやはり雪がないと寂しい。良かったね。

      
      写真左・やっと雪                     右・雪降る前
 

1月16日 スキー博物館

野沢にはスキー博物館がある。今日、みんなと侵入禁止になっていたスカイラインコースへ潜り込み、2回も滑ったら、初すべりを堪能したので、みんなと別れて宿に帰ってきた。「そうだこんな時こそ、博物館だ」と長靴にはきかえ、温泉街はずれからのリフトに乗って、日影ゲレンデにあるスキー博物館に行ってみた。
日の丸とオーストリア国旗がクロスして迎えてくれる。野沢はサンアントンと姉妹スキー場なのだ。その関連の写真や記念品、そして昔からのたくさんの種類のビンディング、スキー板など用具の歴史がいっぱいある。オリンピックの歴史も興味深い。日本が初めて冬季オリンピックに参加したのは1928年の第二回サンモリッツ大会だということを初めて知った。意外と古くから参加していたんだね。そして1956年のコルティナ・オリンピック・スラロームで猪谷選手が日本初の銀メダル、札幌、長野と日本でも開催。
長野オリンピックは1998年、初参加から60年目の大会だったのだ。野沢の生んだオリンピック選手のコーナーにはトップに杉山進さんが紹介されていた。猪谷さんと同じ1956年のコルティナだった。興味の尽きないスキー博物館だ。

      
     写真左・スキー博物館               右・サンアントンと姉妹村
 

1月11日 信州湯めぐり

正月明けに「雪見酒」で山荘を使うと予約していた人が、「雪がないんじゃ…」とキャンセルしたが、既に片づけついでに来てその足で温泉にいくことにしていた。キャンセルももったいないので、温泉だけ妻と行った。
11日は崖の湯、12日は別所だ。崖の湯は塩尻から高ボッチ高原へ行く山の上の温泉だ。泊った薬師平・茜宿という宿は、まさに崖の上と言った趣の、露天風呂から塩尻から松本への街並みを見下ろし、北アルプスを真向いに見る、絶景の温泉だ。この日はあいにく北アルプスは雲の中だったが、町の灯りはきれいに輝き、夜の露天風呂は最高だった。
翌12日は別所温泉に行き、その日の宿・花屋に車を預け、別所線の電車に乗って、上田へ行ってみた。上田電鉄は別所線だけの鉄道になってしまったが、昔は真田にも行っていた。車掌がハーモニカを売りに来るなどローカル色いっぱい。車内も駅も、今は真田丸一色だ。上田の町はさらにだ。六文銭と真田丸ポスターであふれている。池波正太郎・真田太平記記念館に行って、真田三代の歴史を再学習した。北国街道・柳町通りを見て、そこにある”おお西”のそばを食べて、再び別所線に乗って帰ってきた。花屋は有形文化財の建物で、部屋の風呂も温泉というなかなか趣のある宿だった。

      
     写真左・崖の湯茜宿                     右・別所線
 

1月1日 今年の正月風景

いつもは妻手作りのおせち料理だったが、この正月は下の娘・景が三越のおせちを買ってくれたので、さらに豪華な食卓となった。元旦はおとそにビールも朝から飲み、いい気分だった。箱根駅伝も終って4日目、日野七福神のまだ行ってない三つを廻った。
最初は、平山城址公園の宗印寺の布袋様、駅から近い所だった。次から次へと人がやって来る。ここから南平を越して高幡不動まで歩いた。高幡不動尊・金剛寺の弁財天、これがわからなかった。お不動様は初詣の人でいっぱい。奥の金剛寺へ行っても、それらしきものはない。あきらめて帰ろうとしたら、土方歳三銅像わきの小橋に七福神めぐりの旗がある。その橋を渡ったら祠があり、それが弁財天だった。肝心の弁財天像はお寺の中にしまってあるとかで、ここにはない。どうも高幡不動尊は七福神に頼らなくても参拝客はいっぱい来るので、冷遇されているようだ。
駅近くの蕎麦屋で腹ごしらえをして、百草園の真照寺・恵比寿天に向かった。稲門会カラオケのスナック前を通り、駅前を過ぎしばらく行って、少し山側に上った所に寺はあった。高幡の金剛寺の末寺とかで、真言宗智山派だ。智山派は早大岳文会創設者・上村さんが理事をやっているところだ。日野七福神めぐりの最後を飾る寺で、何かの縁を感じた。平山から百草園までの歩きは結構長かったが、よいウォーキングとなった。

      
     写真左・取り寄せおせち              右・日野七福神恵比寿様
 

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