小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
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蓼科日記

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蓼科・東急リゾートタウン
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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。

毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2011年>

 [1月] [2月] [3月] [4月] [5月] [6月] [7月] [8月] [9月] [10月] [11月] [12月]

 <2004年> (2004年分は、こちらからリンクします。)

 <2005年> (2005年分は、こちらからリンクします。)

 <2006年> (2006年分は、こちらからリンクします。)

 <2007年> (2007年分は、こちらからリンクします。)

 <2008年> (2008年分は、こちらからリンクします。)

 <2009年>(2009年分は、こちらからリンクします。)

 <2010年> (2010年分は、こちらからリンクします。)

 <2011年>(2011年分は、こちらからリンクします。)

 <2012年> (2012年分は、こちらからリンクします。)

 <2013年> (2013年分は、こちらからリンクします。)

 <2014年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

 <2015年> (2015年分は、こちらからリンクします。)

 <2016年> (2016年分は、こちらからリンクします。)

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 <2018年> (2018年分は、こちらからリンクします。)

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 <2020年> (2020年分は、こちらからリンクします。)

 <2021年> (2021年分は、こちらからリンクします。)

 <2022年> (2022年分は、こちらからリンクします。)

 <2023年> (2023年分は、こちらからリンクします。)

 <2024年> (2023年分は、こちらからリンクします。)
 

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2011年

12月

12月25日 水抜き失敗!

ひと月も山荘に来なかった。11月の帰りぎわ、水抜きはしたものの、ウォシュレットの電源も切ったことに気がつき、温水タンクが壊れるのではと気がきでならなかった。年が明けぬ前にやっと来たこの日、寒波襲来で、蓼科高原にも雪が舞っていた。山荘の周りは数センチ積もった。室内でも零科10度と冷えきっていた。
まずは水入れとONにした途端、風呂場にただならぬ音、水道栓のあたりから真上に水が吹き上げているではないか! あわてて水抜きスイッチを入れ停めた。
風呂場の天井から壁まで水だらけ。よく見ると、水道栓の金部にヒビが入っていてここから吹き上げているのだった。水抜きをしたことがない部分で、やり方も知らない。管理センターから設備の人に来てもらった。給水湯栓を取り替えないとダメという。壊れて初めて、その部分の水抜き方法を教わったのだが、万事休す。
これまで9年間、問題なかったと言うと、「運が良かっただけ」と事も無げに言う。
しばらくは風呂場への給水バルブを締め、お湯なし、水だけで過ごさなければならない。トイレに座って、温水をと、ボタンを押したら、噴射せず、便器の横へ水が流れ出した。電源を切ってしまったのがいけなかった。これまたウォシュレットへの水バルブを閉め、暖房便座のみで春まで辛抱することにした。風呂といい、トイレといい、我が家部分は今まで水抜きトラブルがなかったのに。
ゲストハウスには二つのトイレがある。ここの電源も切って帰ったので、こちらもかと思い、慌ててゲストハウスも水入れ作業を急遽実施した。一階のトイレも二階のトイレもちゃんと温水が出る。問題なし、風呂もOK。良かったと思った途端、またもやただならぬ音! こんどはゲストハウスの洗濯機の水道蛇口から猛烈に水が吹き出した。慌てて水止めスイッチON! 「どういうことか」と見ると、水道栓と洗濯機を結ぶ配管バルブが外れていた。水道管の中で凍っていたのが、通じた途端に止め金を弾き飛ばしていたのだ。水は洗面所やトイレ、台所まで飛びはね、床は水浸しだ。モップと雑巾でかき出したり拭いたりするが、空気が冷たいので、ジャリジャリと凍ってくる。しまいには箒でチリトリに水ならぬ氷をかき集める始末だ。今回は大被害だ。ゲストハウスの風呂は使えたので普段より熱く、多くして、首までとっぷり浸かり、ひと息ついた。ああしんど、参った参った。

   
 

12月10日 ハワイアン

毎年恒例の家族忘年会は福島県のハワイアンリゾートへ行った。
これもまた復興支援だ。まだ完全オープンではないが、温泉もプールも、そしてフラガールダンスもやっている。お目当ては、休館中の全国キャラバンを終え、地元に戻ってきたフラガールたちの踊りだ。テレビや映画で見ていた彼女たちの苦労が偲ばれる舞台だった。仮設舞台は火を使えないので、棒踊りに切り替えた男性踊り手も大変だ。しかし復興の兆しが見えてくるような頑張りだった。
週末なので、人の入りも多く、夜のショーは立見で見るほどだった。帰りにいわきの浜辺を通ったら、土台だけの町並みが続いていた。みんな流されたのだ。戻っては来れないのだろう。浜にも活気の戻る日が一日も早く来てほしい。

   

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11月

11月20日 晩秋の仕事
晩秋の恒例は薪割りと大掃除だ。先週、風呂場の壁塗りは終わった。今週は妻にも来てもらって、フローリングのワックスがけと薪割り。昨日は雨だったので、室内清掃に明け暮れた。今日は晴れた。
妻にはガラス拭きを任せ、私は薪割りをすることにした。
昨年、ペンションアダージオからもらったカラマツの丸太がベランダ下にまだ残っている。まずはこれをストーブに入る長さにチェーンソーで切った。次に、昨年同様に切っておいた丸太をマサカリで細かく割ることにした。ストーブ焚きの経験から、小さくなっていても丸太のままだと火がつきにくいので、小さいものでも割ることにした。これが意外とむずかしい。大きい丸太は比較的、スパっといくのに、小さいからといって、割りやすいとは言えない。枝分れの芯があるものが多いので、それが邪魔して、すっと入らない。何回か割れ目を入れ、上下を逆にしてマサカリを入れたりを繰り返し、やっと割れることもしばしばだ。ストーブに入る大きさの薪がそこそこ山になったところで、これを玄関のベランダ下に並べるのが次の仕事だ。既に奥から三列に積まれた薪が並んでいる。少なくなった最前列の薪をまずベランダ上に上げ、ストーブの近くに移す。二列目の薪を外に放り出し、空ける。
本当は三列目もそうしたいのだが、量が多いので断念。先ほど割ったばかりの薪を二列目に並べて行く。そして放り出した薪を最前列に並べる。こうすることによって、古く乾燥した薪から使えるようにするのだ。チェンソーで切ったほどよい大きさの丸太も割りたいのだが、疲れたので来年に回し、テラスベランダ下に並べた。これで来年の仕事も用意できた。晩秋の一日はこんな風にすぐ終わる。日はほんとうに短くなった。

   
 

11月15日 先輩の墓

倉敷の蜂谷さんは学生時代いちばん世話になった先輩だ。学部も同じ、クラブも一緒、アルバイトも一緒。賭け事好きな遊び人でもあった。「ローカルエコノミーに貢献する」と、倉敷に戻ってからも時折、訪ねていた。その彼が、蓼科に来れないと言ったのが一昨年、三年ほど続いた昔の仲間の夏の集まりもそれで終わった。岳文会50周年のお願いのとき、病状を知った。そこから亡くなるまでは早かった。
昨年9月に逝った。1年ぶりの倉敷、奥様にホテルまで迎えに来てもらい、車でお墓に向かった。市内にあるものと思っていたが、走ること1時間余り、総社市を越え、足守という岡山市の集落にお墓はあった。聞くと、蜂谷家はここの出だという。岡山藩の陣屋のある古い趣のある集落だった。里山を望む墓地に蜂谷家代々の墓があった。静かで美しい里の秋の風景が広がっている。いい所に蜂谷さんは眠っている。

   

 

11月14日 "安芸の宮島”の秋
”安芸”の宮島を私はずっと”秋の宮島”だと思っていた。その宮島に秋に訪れるのも何かの縁だ。瀬戸内海のひとつの島だということも知らなかった。陸続きとも思っていた。大きなフェリーで渡ることも驚きだった。島には6千人もの人が住んでいるという。立派な大きな町なのだ。鳥居だけがある訳ではなかった。この鳥居見たさに、毎年300万人もが来るという。”日本のモンサンミッシェル”と説明するガイドの話も、来る人の数からいうと、あながちウソではない。神社と鳥居にお参りし、街中をぐるっと回った。鹿も多いらしく、侵入予防の網や縄を張ってある家も多かった。ここも苦労してるんだなあ。

   
 

11月13日 ロックスプリングスの墓の故郷

この夏、ワイオミング州のロックスプリングスで多数の日本人の墓を見た。その中で、詳細に生まれ故郷まで書いてあった人、数人の故郷に問い合わせしていた。大半は「その家はもうない。知っている人もいない」という返事が返ってきた。その中の一人「上野友吉さん」の上野家の墓を管理しているという方から連絡あり、訪ねることにした。広島市安佐北区安佐町宮野という所。広島から可部線という中国山地に入っていくローカル線に乗ること40分、終点可部からタクシーで30分、宮野集落は太田川沿いの山の中の村だった。
連絡頂いた浜辺さんが家族総出でお墓の前で待っていてくれた。
驚いたことに「上野友吉さん」の墓がここにもあった。亡くなた日付も同じだった。浜辺さんによると、数年前、アメリカの日系の人がこの墓を訪ねてきたという。ロックスプリングスの上野さんの墓には生年月日も刻んであった。生まれた日を知っている人が近くにいたことを意味する。身内の人も一緒にアメリカに渡ったのだろう。その人は生き延びて、アメリカに係累としてつながっているのだ。残していった住所を見せてもらうと、デンバー郊外だった。旦那さんはアメリカ人、上野家の血筋はアメリカに同化しながら残っていた。手紙を出して聞いてみよう。浜辺さんと上野さんの家も昔はつながりがあったようだ。いろいろと話を聞かせてもらった上、帰りには広島焼きまでご馳走になった。とても親切なご家族だった。縁は不思議なものである。                                           (左・広島の墓/右・アメリカの墓)

       
 

11月1日 赤倉の秋
赤倉観光ホテルは大倉喜七郎が作った日本で初めてのリゾートホテル。ホテルオークラの原型でもある。妙高高原の中腹に建つホテルは信越線の車窓からも見え、スキーヤー憧れの地であった。
ポンパレの格安チケットで泊ってみた。前日は戸隠の宿坊で蕎麦精進料理、今晩はフレンチフルコースである。立派な温泉棟もあり、部屋も角部屋、眼下に妙高高原のスロープがひろがる絶景だ。白いスロープでないのが少し残念だが、緑と紅葉の組み合わせもなかなか素敵だ。歴史のホテルだけに戦前からの転変を紹介している部屋もある。初期は外人中心だった。戦後、スキーブームと同時に日本人が増えた。そしてブームが去った今は、夏の客の方が多いという。
ポンパレに出す宿は経営が苦しいと噂される。そのあと潰れた所も現実にある。このホテルにはそんなことがないよう、高原に輝くホテルであって欲しいと切に望む。

   
 

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10月

10月23日 高遠そば
高遠そばの名前を意識したのは、5月に会津・大内宿へ行ったときだ。ネギ一本で蕎麦をすくって食べる。保科正之候が高遠藩から会津若松へ転じたときに、この風習を持ち込んだという。それ以来、会津でこの食べ方を高遠そばと呼んでいる。ネギ一本で蕎麦を食べるなんて、エラく食べにくいが、信州高遠では聞いたこともない食べ方だ。この日、コンサートのメンバーと高遠に行く機会ができたので、地元の高遠そばを注文してみた。出てきたのは、焼き味噌をそばつゆに溶かし、辛味大根を入れて食べるというもの。ネギなど出てこない。
これが本場の高遠そばだという。江戸時代、保科正之候と一緒に行った武士が冗談のつもりで言ったことを、純朴な会津の人は真に受けたのではないか?どちらがうまいかって?断然、本場の味噌入り・高遠そばがうまかった。

   
    (左・会津の高遠そば)         (右・信州の高遠そば)
 

10月22日 聴衆の少ない音楽会
”蓼科音楽隊”の演奏会も今年で5回目。最初は片貝さんのチェロ独奏会で始まった。その後、バイオリン、フルートが加わり、今回はビオラが加わるはずだったが、直前の腹痛で来荘できなかったのが残念。毎年、聴衆が変わるのがこの音楽会の特徴。どうして?「こんなに緊張して聞く演奏会は初めて」の感想で推して知るべし。少ないときは演奏5人で、聴衆3人のときもあった。それでも固定客ができた。我慢強いというか。しかし今年の”蓼科音楽隊”は着実に進化していた。”ドナウ河のさざ波”はピッタリと合い、”ブラボー!”の歓声も上がった。演奏者からこぼれる笑顔。もうひとつの進化は曲の解説が入ったことだった。この説明で音のはずれも”なるほど”と納得できるようになった。

   
 

10月20日 今年の紅葉は”日光のひとつ手前”
カエデや桜の広葉樹の紅葉は赤が多い。これと白樺、カラマツなどの黄色が混じりあうことによって、紅葉の美しさが醸し出される。今年は9月下旬に急激に冷え込み、山では雪になった。赤くなりかけた葉がこの寒さで枯れてしまった。そのため蓼科の山の紅葉は”日光のひとつ手前”である。それでも標高が下がると、赤も生き残ったようで、美しくなる。10月も20日を過ぎると、カラマツの黄葉が山を染出し、蓼科山から八ヶ岳に続く裾野はゴールデンカーペットを敷き詰めたようだ。八子ヶ峰から眺めた美しさは今年も変わらなかった。

   
 

10月15日 きのこ狩りに見る人生
阿波踊りのメンバー主体の”花ノ木会”の恒例・蓼科ツァー、今年は秋になった。きのこ狩りがメインイベント。20人もの人が山に入って、収穫ないのでは可哀想とキノコ博士の吉田さんを中心にキノコ好き数名は前日に集まり、下見に出かけた。去年、ハナイグチが結構採れた尾根に入った。この辺りに群生していたと目星をつけておいた所に行ってもない。それではあそこはと次の群生地に行っても生えていない。何もないのだ。毒キノコも生えていない。不作と聞いていたが、これほどとは知らなかった。凶作と言ってもよいほどだ。9月の高温で菌が死んでしまったらしい。寒けりゃ紅葉がダメで、暑けりゃキノコがダメと踏んだり蹴ったりの今年の秋だ。暗くなりかけた夕方、倒木の周りに見かけたことのない茶色のキノコが点在していた。採取して博士に見せたら、チャナメツムタケという食べられるキノコだという。ホッとした。
翌日、みんなが来た頃は雨が強くなっていた。てっきり中止と思っていたら、”博士”は行くという。雨だとキノコは見つけやすいのだと言う。「本当かね?」。昨日とは違う方角に入った。森の中を歩けども歩けども、見つからない。1時間以上、さまよっても篭は空っぽ。昨日より悪い。やっと大きなハナイグチが1本だけ見つかった。近くには可愛らしいキノコキノコしたきれいなものもいくつかあった。(あとで”博士に見せたら、毒キノコだそうで、渋々捨てた。”きれいな物には毒がある”とはこのことだ)。1本のハナイグチがキッカケとなり、林道の草むらにさらに大きなハナイグチの塊をいくつか発見。昨日は全くなかった。今朝、スーパーに行ったら数本パックで780円で売っていた。食指が動いたが、買わないでよかった。そのあとも、クリタケ(木の幹に群生する)やチャナメツムタケを見つけた。大半の人は、1時間も歩かないうちに諦めて帰ったという。「諦めず、根気よく、努力すれば報われる」ことを知った。きのこ狩りはまさに人生と同じではないか。
夜の宴会はキノコをアテにしなかったメニューの鴨ネギ鍋だったのは正解。何とか採れたキノコはホテルオークラ中華料理長だった内田さんの即席スープと翌朝の味噌汁にたっぷり入れられ、キノコ狩りツァーの面目は保った。

   
 

10月9日 山の上は大賑わい
岳文会の後輩仲間が連休の山荘に集まった。「もう山は無理」という元山男たちは渓流釣りに出かけ、山に登ったのは深田と私だけ。
唐沢鉱泉から天狗岳に登り、黒百合平に下りてから鉱泉に戻ってくることにした。いつもは閑散としている唐沢鉱泉の駐車場は溢れ、道路端に停めた。登っている人も多い。尾根に出た頃から岳樺や楢の木が色づいていた。山の上は十分に秋が来ていた。森林限界を越え、岩だらけの急登を抜けると標高2600mの西天狗岳の頂上だった。
晴れた山の上ではおおぜいの人が弁当を広げていた。若い人が多い。山ガールと言われる比較的若い女性も目立つ。スカートにタイツというファッションが流行らしい。八ヶ岳周辺は岩場のアルペンティックな景色がある割に、登りやすいことから山ガールには人気高いらしい。若い人がいっぱい来てくれることはいいことだ。これまでは養老院が引っ越してきたようなジジババばかりだったから。砂礫の尾根を越えて東天狗の頂上も人でいっぱい。登山ブームが戻ってきている感じがする。
秋の爽やかな夕日が木の間を照らす山道をいい気分で帰ってきた。釣り組も大きなイワナ、ヤマメ、鱒の収穫があり、塩焼きにして、日本酒や白ワインで美味しく頂いた。

   
 

10月5日 15年前の秘密
妻が急に「墓場まで持って行く話って何だ?」と言い出した。
先月のカントリ&フォークの夕べに来た友人から聞いたという。
「旦那さんには死ぬまで言ってはならない秘密があり、夏のアメリカではそこへ行ったんだって?」とも聞かれたという。”陰に女あり”と勘ぐっているようだ。”アメリカ”で意味がわかった。そこで白状することにした。15年前の秘密を。
当時、オレゴントレイルを辿ることは、私のアメリカ行きの最大の目的でもあった。この8月に行ったKemmererは、15年前に泊った村だった。この近くをオレゴントレイルのショートカット・Sublet Cutoffの道が走っていた。この地点を確認すべく、砂利道を車で走っていたときに、下りカーブでスリップした。ハンドルを取られ、気がついたときは車は横転し、私は助手席から運転席に向けて立っていた。シートベルトが命を守ってくれた。やっとの思いで運転席のドアを押し上げ外に出た。呆然とすることしばし、反対側から小型のトラックが埃を巻き上げながらやってきた。「アララ!」と、近くに住む農家のオジサンは、その当時には珍しかった携帯電話で警察に電話してくれた。
30分くらい経った頃、パトカーがやってきた。親切なオジサンはお巡りさんが来るまで付き添ってくれ、お巡りさんに引継ぎ去っていった。しばらくお巡りさんは現場検証して、「これからどうする?」と、まずレンタカー会社に電話してくれた。「代車を届けるので、どこかのホテルに滞在してくれ」とレンタカー会社は言っているという。このときアメリカのレンタカーシステムはすごいと思った。代車は300キロ近く離れたソールトレイクシティから運ぶという。東京と新潟間の距離だ。お巡りさんは、修理工場にも電話し、レッカー車を手配した。そして私の宿も手配してくれた。夕べ泊ったモ-テルは良くなかったと言うと、「この村でいちばん高級なモーテルにしよう」と電話してくれた。レッカー車が来て、運転手に「高級モーテルでこいつを下ろしてくれ」と引き継いで去っていった。農家のオジサンにしてもお巡りさんにしても、本当に親切だ。アメリカの良さをしみじみと感じた。
 
モーテルで待つこと数時間、夜の8時を回った頃、代車がレッカー車に載ってやってきた。見て驚いた。まったく同じ車種、色まで同じ、違うのはナンバープレートだけだ。翌日は何もなかったように旅が再開した。車を返すときも、普段のリターンと同じ、事故のことは聞かれない。実は、代車が来るまでレンタカー契約書をじっくり読んだ。そこには車両保険の免責事項として「砂利道」があった。もしお巡りさんの事故報告書に「砂利道」の一言が書かれていたら、保険は効かない。修理代全額、払わなければならない。帰国してからも数ヶ月、ハラハラしていた。しかし何も来なかった。お巡りさんは「砂利道」とは書かなかったようだ。やはりいい人だ。
 「何もなかったように旅は再開」と書いたが、精神的には相当ショックだったようだ。再開した日に泊ったモーテルのテレビに、その当時、ドジャースに入り全盛の野茂茂雄投手の姿が映っていた。「野茂もひとりでアメリカで頑張っているんだな」と思った途端、涙があふれ止まらなくなった。張り詰めていた気持ちが一気に切れたらしい 。
事故の話は帰国後、友人にはしたが、妻にはしなかった。子供も小さかったので、心配して「オレゴントレイルは止めtくれ」「運転しないでくれ」などと言われたら困るからだった。この夏にKemmererの村に行ったときも、妻に「ここに泊ったことがある」とは言ったものの、「車がひっくり返った」は秘密にしていた。15年も経ち、もう時効だし、「墓場…」と問い詰められ、観念して白状した。車から脱出するとき、ガラスの破片で切った太腿の傷跡を見せて、信じてもらった。すべて白状してすっきりした。(実はもうひとつ秘密があるのだけれど…)

   
 

10月1日 久しぶりの故郷
親類の納骨で越後村上に帰った。4年ぶりくらいだろうか。医者をやっている叔父も奥さんもすっかり年取っていた。叔父は86歳を過ぎても医者を続けている。耳が遠くなり、言葉つきも怪しい。患者も不安ではないだろうか。奥さんも腰が曲がっている。4年のご無沙汰は短いようだが、歳をとってからは老化の速度が早いと感じた。前に来たときは、村のお寺の騒ぎで檀家総代として叔父は渦中にいて、意気軒高だった。今、聞いたらその後50軒くらいの檀家がお寺を変えたという。発端は住職への不信感だった。「どうも朝のお勤めを坊主はしていない」との噂があった。そこで檀家総代として叔父は、探偵を雇い、朝の仕事ぶりを監視した。「ちゃんとお勤めやってない」との報告で、「坊主を替えてくれ」と真言宗本山に申し立てた。住職は「プライシー侵害」といきり立ち、裁判沙汰になった。檀家も反住職派と擁護派に分かれ、村もまっ二つに割れた。小田家も親類筋が二つに割れ、険悪な状況になった。裁判は最高裁まで行き、反住職派の勝利に終わった。しかし住職は居座り、4年経った今もウヤムヤの状態で、結果としては檀家50軒が寺を離れたという。あの騒ぎは何だったんだろう。
のどかな村の寺騒動は、相撲に勝って、勝負に負けたような状況が続いている。坊主擁護派の親類もいつのまにやら、行き来するようになり、何がなんだかわからないうちに普通の日々が戻ってきている。「ああ平和だねエ〜」

   
 

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9 月

9月23−28日 ショックの大きかった北アルプス登山

今年の山登りは7月の中央アルプスも、9月初めのトムラウシも雨に流され、まともな山登りをしないまま、秋の北アルプスとなった。大型台風が去り、しばらく晴天が続きそう。昨年建て替えられた雲ノ平山荘と今年改装された高天原山荘を再訪するのが目的。いずれも北アルプスの山奥で、どこから行っても二日かかる。
回って5泊6日を予定して、岐阜県の新穂高温泉から歩き始めた。
  

9月23日 大いなる挫折〜笠新道〜

山に向かって前を歩いていた年寄り夫婦が「笠ヶ岳山荘には何時くらいに着くかね?」というのを耳にした途端、双六へ行く予定を笠ヶ岳経由に変更した。その方が後の行程が楽になると思ったからだ。連休初日で駐車場探しに苦労し、笠ヶ岳新道を登り始めたのが10時、何とか夕方5時には着くだろうと思った。
この道は日本三大急登のひとつと言われるほどきつい。昨夏、竹村新道、読売新道を踏破した自信が笠新道に向かわせた。山では「50分歩き10分休憩」が
原則。このペースで2時間登り、標高2200mまで来た。2800mの稜線まで、あと3時間くらいかと、踏み出した足に異常が発生、左足がツリ始めた。引きずるようにして、一歩一歩、「ヨイショ」と体を持ち上げるうちに、今度は右足に痙攣が来た。痛みをこらえながら、足を上げようとするが進まない。ザックを下ろし、ストレッチをして痛みをほぐす。再び歩き出す。5,6歩よじ登ると、また動かなくなる。何度か繰り返すが痙攣は収まらない。こんなことは初めてだ。確かに去年の竹村新道でも、その前の編笠山でも後半、足がツリ、だましだまし歩いたことがあったが、両足動かなくなることはなかった。最近のザックは腰でベルトを締めると、肩や背中に重さがかからず軽くなり歩きやすくなった。でも足にかかる重さは変わらない。5泊分の食料などでいつもより重くなっている荷がそっくり足に来たようだ。齢と足の衰えを考慮せず、急坂に挑んだツケが来た。2時間半、登った所であきらめた。下りでも痙攣は続くが、持ち上げるよりは負担が少ないので、痛いながらも何とか足が動いた。「こんなことで登れないなんて」と切なく、悔しく、悲しい。下りには4時間かかった。「今年はやめた」と車のある新穂高への道を戻りかけた。「こんなことでは山男の名が廃る」という囁きが耳の底に響いた。「ワサビ平の小屋で一晩寝てから考えよう」と、踵を返し、ワサビ平の小屋に向かった。

      
 

9月24日 荷物半減、雲ノ平へ

ワサビ平の小屋にはお風呂があった。ツッた足を湯の中でもみほぐし少し楽になった。荷物を点検し半減した。行動食も半分、電池カミソリはやめ、防寒具は雨具だけ、水も1本減らし、ティッシュも6ヶを3個に。同室の人の話を聞いているうちに歩けるような気になってきた。そして朝、快晴の空の下、恐る恐る足を踏み出した。半分になったザックは軽い。残った荷物は山小屋に帰りまで預けた。昨日のあれだけの痙攣があったので、かなり筋肉痛はあるが、歩くには支障ない。登りになってもツル気配はない。鏡平の池に映る槍ヶ岳の黒い影が美しい。ここでコーヒー牛乳を買って飲んだ、300円。おいしい。水も減らしたので山小屋で補給することにした。歩くためには金は惜しまない。鏡平から1時間登って稜線に出た。空澄み渡り、秋の風爽やか。目指す双六岳、三俣蓮華岳もくっきり。昨日の苦しみはどこへ行ったか、快調なペースで足が出る。双六小屋はちょうどお昼到着。300円の桃のジュースと800円のラーメンを注文。このラーメンがすこぶる美味しい。麺シコシコ、大きなチャーシュー、すっきりした醤油スープ。下界でもこんなおいしいラーメンは稀だ。(帰り道でもまた食べた)この頃になると足に自信が芽生え、行ける所まで行こうと先を急ぐ気になってきた。
双六岳の頂上経由は帰りにし、巻道ルートで三俣蓮華の小屋を目指した。ナナカマドの赤い実が熟し、もうすぐ葉も真紅になりそうな秋の三俣カールを抜け、三俣山荘に着いたのは午後2時15分。小さな牛乳パック300円。コースタイムでは2時間半で雲ノ平だ。この山旅の目的は新装なった雲ノ平山荘。今日中に着けば昨日の遅れを挽回できる。あとひと踏ん張りだ。黒部源流へ下り、雲ノ平へ本日最後でかつもっともきつい登りにかかった。昨日の悪夢がよぎるが、足を上げても痙攣しない。もう大丈夫とグイグイ高度を上げ、雲ノ平の緩やかな高原に出た。山荘が夕日の中に見えた。ここからが長かった。暮れなずむスイス庭園の池塘の木道を急ぎ、小屋に着いたのが夕方5時半。ワサビ平から11時間歩いた。今日ラストのチェックインで、他の泊まり客の夕飯はほぼ終わっていた。
それでも快く、ひとり分の石狩鍋を作ってくれた。鮭、ゴボウ、じゃがいもが粕汁にじっくり滲みておいしい。ビールが進み、ごはんに汁をぶっかけて終わった。
暮れいく高原を窓越しに「昨日の”男が廃る”の決断は正しかった」としみじみ思った。山は素晴らしい。
  

 

9月25日 ♪ いい湯だなァ〜 ♪ 高天原温泉

崩れるという予報もどこへの朝から良い天気。木の香りいっぱいの山荘は去りがたい。30年前に泊ったときは雨漏りがひどく、洗面器を枕元に置いて寝たことがなつかしい。今日は2時間で着く高天原泊まりだ。雲ノ平の高原を少し散策してから、小さな尾根を越えて高天原へ下って行った。途中にも奥スイス庭園という前方に立山や五色ヶ原を望むきれいな場所があり、あまりの気持ちよさに誰も来ない木道にしばし寝そべり、青い空に浮かぶ雲を眺めたりした。高天原山荘に着いたのが朝10時半、チェックインには早すぎるので、まずは着替えを持って温泉へ。下り20分の登山靴を履いての温泉行きだ。露天風呂だけの温泉。
温めの浴槽につかること、1時間半。ここでも丹念に足、太腿をマッサージして、明日以降に備える。またの挫折はしたくない。山荘への帰り道は登りになり、せっかくすっきりした体に汗をかきたくないので、上半身裸だ。以前、夏の盛りに来たとき、下ってきたご婦人二人に会い、半ズボンのみの裸の私に目を丸くしていたっけ。昔たわんでいた屋根が真っすぐになり、鉄柱で補強し、小屋全体の歪みを直したようだ。そのせいか、前にはなかった下の階にも蚕だなベッドが設けられていた。今回はそこに通された。ここではカップ麺を食べた。400円。おいしかった。山ではすべて美味しいようだ。湯上り、食上がり、飲み上がりの体を昼寝もして、ゆっくりと休めた。極楽、極楽。
   
 

9月26日 寒いと足は早くなる〜鷲羽岳・三俣蓮華岳・双六岳〜

天気予報は晴れだったのに高曇だ。昨日の予報が一日ずれたか?岩苔乗越までは標高差500mをじわじわと上げていく3時間の道。途中からは沢の流れに沿って草付き斜面を登る気持ち良いはずだが、前線が通過中なのか、ガスが出て、風も出てきて、気温も下がった。寒い。標高2900m近いワリモ岳では手袋をした。防寒具を置いてきたことを少し悔やんだが、薄いウインドブレーカーで何とか鷲羽の頂上も乗り切った。直下に三俣山荘の赤い屋根が見えるのに遠くて長い下りを延々と下りた。今日の寒さでは、山荘で牛乳も飲む気は起こらない。三俣蓮華の登りを前に、リンゴひと切れを食べることにした。このリンゴは蓼科の山荘を出る前に六切れ残っていたものをタッパウェアに入れて持ってきた。荷物半減のとき、生ものだからと辛うじて対象から外れた。しかし道中、食べてみると甘くとてもおいしい。一気に食べるにはもったいないので、毎日ひと切れずつ食べることにした。そのタイミングが難しい。朝早いうちに食べてしまうと、そのあとの楽しみが無くなる。遅いと明日に回したくなる。そこで、その日の山場となりそうな場所で食べることにした。今日は、三俣の急登前という訳だ。リンゴがこんなにも美味しかったのかとしみじみと思う。次は双六のラーメンを早く食べたい。

   

 

9月27日 Great Trecking Course ! 笠ヶ岳への道

最初の計画では、昨日中に笠ヶ岳まで行き泊まり、今日は山を下りているはずだった。それが初日のトラブルで一日ロスした。双六小屋から笠ヶ岳へ行き、少し戻り、恨みの笠新道を下って、ワサビ平まで行けないかと考えた。コースタイムでは、笠ヶ岳まで6時間、登山口まで5時間となっている。正午まで笠ヶ岳に着けば、夕方5時にはワサビ平に着けると想定した。笠ヶ岳へ急ごうと朝6時5分前に双六小屋を出発した。今日は秋晴れの気持ち良い空。弓折岳分岐までは一昨日来た道だ。その先は45年ぶりに歩く。学生時代、岳文会の夏山行で私がリーダーで歩いたことがある。しかし、クリヤ谷を下りた記憶はアリアリと思い出すのに、笠頂上までの記憶は全くない。たぶんガスっていたのではないだろうか?青空の下の弓折岳、オオノマ岳、抜戸岳の稜線は、程よい登り降りとハイマツの中のなだらかな道が遠く笠ヶ岳を目指し続き、美しく気持ち良い。
こんなにすてきな尾根道とは知らなかった。左手には槍ヶ岳から穂高への荒々しい岩壁が屏風絵のようだ。北アルプスでも三指に入る美しい尾根歩きと思う。今日も快調に足は進む。笠ヶ岳山荘に11時に着いた。予定より1時間早い。
これで本日中の下山は決まった。笠ヶ岳は北アルプス西端の山、頂上からはクリヤ谷の急勾配の道が蒲田川へ下りて行くのが見える。まさに北アルプスはここで終わっている。45年前、針ノ木岳から一週間かけて歩いてきた我々は最終日にここを下った。そのフィナーレには悲しいドラマがあった。同行のA君にはIちゃんという恋人がいた。新宿駅に見送りに来て、差し入れもしてくれた。「いいないいな」とみんな羨ましがった。しかしこのクリヤ谷を下りた翌日、ドラマチックな破局がA君に待ち受けていたのだ(ここから先の話は秘密)。笠の頂上でそんな思い出に耽った後、笠新道に突入した。最後の猛下りである。はるか下に見える杓子平まで40分強下り、ここで最後のリンゴひと切れを大事に食べた。秋の午後の陽は早い、黄昏の雰囲気だ。紅葉し始めた草木を夕陽が照らす。去りがたい気持ちだ。しかし、この先、”大いなる挫折”の谷間が待ち受けている。どこで引き返したかと下っていったが、意外と下であったのにはガックリした。バテバテになりながら、ワサビ平小屋に着いたのは夕方5時近かった。

   

9月28日 カメラのない旅

実は5日間の山旅でカメラを使わなかった。というより、使えなくしてしまった。
充電式デジカメと電池式デジカメを持って行った。長旅だと充電式は山の中では充電できないので、電池式も必要なのだ。歩き出す前に充電式はトイレに落とし水びたしになりアウト。当然、荷物減らしの対象となった。電池式は、快調ペースに戻った翌日、手からスルリと落ち、岩の隙間にみごとに消えて行ってしまった。万事休す。しかしそれほどショックでなかった。今までの山にしろ街にしろ、旅の記憶はファインダー越しだったような気がする。自分の眼に直接焼付けることが旅の記憶ではないかと、常々思っていたので、これから歩く場所は心に記憶しようと割り切った。だからそこからの鏡平も雲ノ平も高天原も笠新道も、今、思い出してもアリアリと浮かぶ。(3日後に携帯電話に気づき、それで何枚か撮ってしまったが…この項のほとんどの写真は絵葉書をスキャンしたり、インターネットでピックアップしたものだ)
「登らないでいい」朝の山小屋の飯はホッとする。部屋に戻ると、100円玉が2枚、畳の上に落ちていた。今朝真っ暗いうちに笠新道を登ると言って出かけた人が落としていったらしい。大変だった今回の自分の山旅のご褒美と解釈してありがたく頂いた。満ち足りた気分でワサビ平の小屋を後にした。

  

9月22日 "日本人の西部開拓史”その後

明治時代の日本人の墓がアメリカ・ワイオミング州の大平原の町や村に残っている話は先月紹介した。帰国してから何人かの故郷の役場に問い合わせた。返ってきた回答の大半は「この村から明治時代にアメリカに行った人の話は聞いたことがない。同じ姓の家にも聞いたが心当たりない」というものだった。130年も前の村人の話は風化し、忘れ去らていた。または貧しさからの逃避として内緒にされていたのかもしれない。しかしただ一件、「廣島縣安佐郡日浦村字宮野・明治三十五年二月二十五日死・行年二十四才」の上野友吉さんの故郷から連絡あった。「この家の墓を守っている人がいる」と。早速、その方に電話した。「上野家は廃れたが、お寺のない集落なので墓地の管理は村人がやっている。上野家は私が担当。何年か前に、日系の人が通訳を連れて祖先の墓に参りたいと訪ねてきたことがある。そのとき初めて、上野家の誰かがアメリカにいることを知った。日系の人の住所を書いた紙があるはず」と言う。今は広島市安佐北区になっているこの地に、11月に行くことにした。面白くなってきたぞ。

       
 

9月17日 秋の山荘にひびく ♪カントリーロード♪

マッシュ☆リカーは理科大メンバーのモダンフォークのグループ。バンジョーの宮澤さんが日本HP時代の同僚だったよしみから、山荘でコンサートをやってくれることになった。卒業し、社会へ出てからはしばらく活動を休止していたが、みんな還暦近くに再開した。もともと力があったので、ライブハウスでの演奏を中心に人気がある。理科大のホームカミングデイのイベントにも昨年から声がかかるようになったと言う。持ってきた設備も本格的、大型スピーカー2台にアンプ、マイク、ベースやギターも10本くらい。「花はどこへ行った」のキングストントリオに憧れて結成したグループだけに、その時代のフォークソングが中心。我々、もう少し古い世代にも合わせて、ジャンバラヤなどカントリーソングも歌ってくれる。
妻の大好きなエルビスプレスリーのハワイアン・ウェディングソングのメロディが練習で流れたときには、妻は柱の陰でうっとりと聞いていたほどだ。リーダーの飯塚さんの軽妙なトークを入れながら、楽しくコンサートは進む。用意した飲み物はバドワイザーと瓶入コーク、干しぶどう、ひまわりの種、チョコボールが混じっている柿ピーのようなアメリカのツマミで気分はアメリカ大西部。カントリーロードはみんなで大合唱、これまたThis is America !! の気分。聴衆は12名。
「こんな素敵なコンサートを12名で占領するのはもったいない」との声も聞こえるほど。合間に原田さんのフォークソングデビューもあり、高原のコンサートは楽しく終わった。

   

 

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8 月

8月29日 ラーメン盛衰記

荻窪ラーメンといえば、ラーメンブームのきっかけとも言われる所だ。春木屋、丸福の老舗が50mも離れていない所に並び、いつ行っても長蛇の列だった。テレビ局がその間に挟まっている佐久新という人気のない店を変身させようという企画があり、一時はその店にも列ができ、三店に長蛇の列といった時もあった。しかし今日は閑散としていて、佐久新は今はない。春木屋は前の場所のままだが、丸福は駅に近い商店街の中に移動したが、位置的には前と大して変わらない。私は丸福の味が好きで、長蛇の列を厭わずよく食べたものだ。あいそうないオヤジの天才的とも思えるザルさばきに見とれ、カウンターに並ぶ客は黙々と食べ汁を啜る。東海林さだおは店主と客の関係を「一騎打ちのようだ」と評したほどの名店だった。今日の昼どき入ったら、誰もいない。黙々と食べ終わっても誰も来なかった。月曜日の昼どきなのにだ。味は昔のままなのに。春木屋はそこそこ入っている。昔ほどではないが、列ができることも多い。この差は何なのか?どちらも店のオヤジは代わっている。春木屋はつけ麺、冷やし中華など新しいメニューを加えた。丸福は昔のままラーメン一本槍だ。この差だろうか?春木屋は若い店員が数名でやっている。丸福はオヤジとオカミさんの二人だけ。活気は自ずと春木屋にある。この差だろうか?荻窪ラーメンそのものの人気低下なのか?わからないまま電車に乗った。

   
 

8月28日 真昼間の阿波踊り

高円寺の阿波踊り。わが中々連は今年、土曜、日曜の二日間、踊れることになった。ところが節電で夜ではなく、昼間の3時から6時までの時間に踊るという。暑い盛りの真昼間、熱中症が心配。そこで心配な人には折畳み傘を持ってきてもらうことにした。傘をさして踊るわけにはいかないが、時間の半分近くは待ち時間なので、暑いときは傘をさして休んでもらおうという趣向。今年は幸い、サポート要員を二人増やしてもよいというお達しが出たので、ザックに詰めて運んでもらうことにした。初日の27日は雨模様の天気で、熱中症どころか雨対策で傘が必要となったが、さすほどではなかった。28日は晴れて暑くなったが、猛暑にはならないほど。踊り始めた頃は雲もかかり、ビルの谷間は陰となり、直射日光は当たらない。そんなわけで、両日とも傘の出番がなく、気分悪くなった人も出ず、ホッとした。これで今年の
夏も終わった。

   
 

8月2−18日 アメリカ西部開拓の歴史をたどって

この夏、私が会員になっているOregon-California Trail Association(OCTA)のコンベンションがワイオミング州のロックスプリングスで開かれることになった。久しぶりに出かけてみることにした。OCTAは1840年代から、西へ西へ向かった開拓民が通ったワゴンの轍の跡を保存し、後世に伝えようという団体。いわば中仙道保存会のような集まりだ。ロックスプリングスは日本人にとってもゆかりある町であり、この機会に日本人の西部開拓の足跡も確かめたかった。ついでに妻のエルビスプレスリーの足跡もたどるべく、ラスベガスからこの旅は始まった。

       
 

8月2−4日 プレスリー in ラスベガス

ラスベガス空港に降り立つともうエルビスの姿が目に入ってきた。"Viva Elvis"のポスターがエルビス・ファンクラブの妻を喜ばせる。泊まりも、往年ラスベガスでのショーをやっていたラスベガスヒルトンにした。玄関脇にはエルビスのステージ姿の像が迎えてくれる。このホテルではそっくりさんのショーも毎日、行われている。見に行ったが、妻は「見なきゃよかった」とガックリだ。私には姿、形がよく似ていて、歌もうまいし。と思ったが、真のエルビスファンには、全然違うのだそうだ。シルクドソレイユの”Viva Elvis"のショーの画面に頻繁に出てくるエルビスの姿の方がよっぽど良かったという。Viva Elvisは大枚350$払って確保した前から2番目の席が妻には不評だった。舞台が近すぎて舞台外にも拡がるショー全体を把握しにくい。最後に、天井からヒラヒラ落ちてくるエルビスの名前入りのスカーフも前には落ちてこないしと。確かにこのショーは真ん中辺の席がいちばん見やすいかもしれない。
真夏のラスベガスは猛烈に暑い。40°Cは超えている。昼は歩けたものではないが、それにもめげず、エッフェル塔、自由の女神、スフィンクスなど新しくできたホテルの売り物を見て回った。30年前に来たときにはなかったモノばかりだ。街全体がディズニーランド化していると思った。モノレールまででき、改札口でモタモタしていたら、日本人の男性が親切に教えてくれた。ラスベガスにしょっちゅう来ているらしい。これからワイオミングに行くと行ったら、「また地味な所へ」と驚かれた。この町には”節電”の言葉はないらしい。冷房ガンガン、ネオンキラキラで、電気使い放題。”節電、節電…”の国から来て驚くことばかりだった。

      
 

8月5−7日 ザイオン、ブライスキャニオン国立公園

朝8時前にヒルトンを出た。ザイオンまでは迷うことないインターステート15号線を走ればよい。セントジョージで降り、給油しガソリンスタンドに併設されているサブウェイでサンドイッチの朝食。ほとんどのスタンドはコンビニ化している。給油でクレジットカードを入れても反応しない。前はどこでもOKだったのに、とカウンターに行くと、「何ドル?」と聞く。「30$頼む」でクレジットカードで引き落とし、ようやく給油OK。24$で止まって再びカウンターに行くと差額をまたカードで精算してくれた。(この後のスタンドも全てカードはこのやり方だった。どうもカードのSecurityが厳しくなってVisaでもマスターでも日本で発行されたものはダメらしい)。以前借りたレンタカーにはUnlead Onlyと表示されていたのに、今度の車には何もない。スタンドの給油口にもない。Superはあるので、これを入れた。この数日後、田舎の古いスタンドでUnleadを見たときは、古い友達に会ったようだった。「オッおまえ元気だったか!」と。アメリカを走っていることを実感する瞬間だ。

     
 

         ザイオンの山歩きは暑い

ザイオンの手前、スプリングデールという小奇麗な村のスーパーで買い物。発泡スチロールの保冷庫と氷を買い、そこにビール、スイカなど入れた。何と豆腐も寿司パックも売っていたので、それも入れた。公園内唯一のザイオンロッジに着いたときはまだ午後1時半。昼食を食べ終わっても2時半、チェックインの4時にはまだ間があるので、ナローズという川幅が狭まるザイオン名所入口までハイキングすることにした。公園内は車禁止(ザイオンロッジ泊まり客だけはロッジまでOK)なので、シャトルバスに乗った。ザイオンは谷間だが、標高も1500mあるので涼しいと思っていたが暑い。しかし不思議と汗は出ない。終点から歩くこと小一時間、みんなザブザブと川の中を渡っている。水着姿も多い。妻は濡れるのはイヤだと言うので、引き返した。夕方になって、帰る人は多いが、来る人も多い。夜、川を歩こうというのだろうか?ロッジにチェックインしようとカウンターに行ったら、他にお客はいない。5時半頃は多いはずなのにとロビーの時計を見たら、6時半になっている。「アッ1時間の時差があるのだ」とそのとき気がついた。ユタ州に入ったときからマウンテンタイムに切り替わっていたのだった。この夜は、バドワイザーにお寿司、冷奴、日本から持ってきたソーメンで、ようやく落ち着いた。

   
 

8月6日 朝歩き、昼寝に帰り、夕方また歩く

「今日は歩くぞ」と身支度して外へ。朝はヒンヤリして気持ちがいい。岳文50周年グッズのテルモスに氷を詰め、それに水を入れた。(これは暑い西部では昼夜問わずとても役立った)。Easyコースのアッパーエメラルド湖までの道に入る。家族連れが多い。ローワーエメラルド、ミドルエメラルドもあるが、いずれもエメラルド色などしていない、どってことない池だ。下に見えるバージンリバーの方がエメラルド色だ。湖からグロットーに抜ける道に入ると、背景にザイオンの山並みが連なり美しい。グロットーからシャトルバスで一旦ロッジに昼頃、戻った。暑くて昼寝でもしないと次の行程に移れない。午後3時過ぎ、こんどはHidden Canyon(隠れた谷間)というキツめのコースに行くことにした。Weeping Rockまでシャトルバス、そこから陽射しきつい道をゆっくり登った。このコースにこの時間から入る人は少ない。高度を上げるに従い、ザイオンの谷間が眼下になり、その景色が美しい。途中、鎖場を何箇所か通過し、午後の陽が陰った狭い谷に入った。ここがHidden Canyonっらしい。行き止まりはないようなので、適当な所で引き返すことにした。帰りは谷間を見下ろしながらの道なので快適。ロッジに戻り、シャワーを浴びて、この夜はダイニングで食事をした。妻はポーク、私はトラウト(鱒)を冷えたワインで美味しく頂いた。

   
 

8月7日 トンネルを行ったり来たり

最後の日はブライスキャニオンへドライブすることにした。Zion-Carmel Highwayがトンネルを越えて、ブライスキャニオンへの道につながっている。1930年に造られたトンネルは、キャンピングカーが片側通行できない狭さなので、時間制限をして交互通行している。トンネルを出てすぐの所にCanyon Overlookという展望台の駐車場が右にあることは案内書で知っていた。しかしまさかトンネルの傍とは知らず、車はそのまま突っ切ってしまった。慌てて戻ったが、左折禁止で、何台か通過待ちしている車の後ろに着いて、元来たトンネルに入らざるを得なくなってしまった。反対側に出て、また並び、三度目のトンネル通過でようやく駐車場へ。展望台までは結構遠く、15分くらい歩いてやっと辿りついた。期待していたほどの景観ではなかった(ヤレヤレ)。しばらくユタの緑多い田舎の道を走り、ブライスキャニオンに着いたのはお昼頃、昼飯はまだだが、展望台へ行けばホットドッグくらい売っているだろうと行ったが何もない。お腹を空かしながらも、サンセットポイントから谷底に下りるNavajo Loopという道を歩いた。これが良かった。奇岩屹立する間を谷の底まで下りると、こんな所にと思う大木が岩の間の僅かな太陽を受けながら、上へ高く伸びていた。そのあとも、ブライスキャニオンのいくつかの展望台を車で周り、ブライスキャニオンロッジで遅めの昼食を摂った。大きいサンドイッチをペプシで食べた。何でこんなにアメリカではコーラが美味しいのだろうか。

     
 

8月8−13日 ロックスプリングス

今日は445マイル(712K)のロングドライブだというのに、目を覚ましたのが7時半。目覚ましは午後6時にセットされていた。慌てて身支度して朝飯も食べず、8時半にザイオンロッジを出発。インターシティ15からインターシティ80への高速道がほとんどだから、700Kでも時間的には早く着くだろうと、そんなには焦らなかった。結果的には夕方5時過ぎに着いた。ソールトレイクシティからルート80に入ると、そこは西部開拓の道だ、休憩しようと下りたEcho Canyonはブリガムヤング率いるモルモン教徒が通ったモルモントレイルのキャンプサイトだった。そして州境を越え、ワイオミングに入ると、わっと拡がる大平原。地平線まで続くまっすぐな道、広い空にたなびく雲。This is America !! の世界があった。これを求めて、今年も来た。明日から始まるOCTAの催しが楽しみだ。チェックインしたHomewood Suites Hiltonは台所付きの広くきれいな宿で妻も大喜び。

   
 

8月9日 日本人の西部開拓終着点

ロックスプリングスはオレゴントレイル沿いの町ではないが、近くにトレイルの東部と西部の分水嶺サウスパスがある。サウスパスを越えるとそれまで大西洋に流れていた川が、太平洋に流れを変える。オレゴントレイル3,200キロのほぼ半分の所でもあり、西へ向かう開拓民は「ああオレゴンの地」に入ったと安堵する。本当のオレゴンはユタ、アイダホの原野のもっと先なのだが。1849年のゴールドラッシュに湧くカリフォルニアに一刻も早く着きたいと、サウスパスからアイダホにショートカットするサブレットカットオフやランダーカットオフなど道がいくつにも分離した。これで4日から1週間行程が早くなったという。今回の大会のテーマも”Parting of the ways"だ。
ロックスプリングスは1869年に近くのユタ州オグデン近郊で東と西から同時に工事していた大陸横断鉄道がドッキングし、汽車を走らせるに必要な石炭で栄えた炭鉱町である。駅前には「Mining Town」の大きなアーチが架かっている。今は16,000人ほどだが、100年以上前の石炭ブームのときは、いろいろな国から出稼ぎ者で溢れていたという。その中に多数の日本人がいたことはほとんど知られていない。日本人の西部開拓の終着点の町でもあるのだ。

   
 

      我々夫婦以外は全員白人

郊外のWestern Wyoming Community College(WWCC)が会場になっている。朝、行って参加登録し、開会式をちょっと覗いて、また町に戻った。初めの二日間はレクチャー中心、聞いてもロクにわからないので、スキップ。ランチやディナー、パーティ、バスツァーだけに参加する。「食べるときだけいる日本人だ」と噂されているかもしれない。参加者600名は我々夫婦を除いて全員白人、それだけにアジア系は目立つのだ。曾々おじいちゃんやおばあちゃんがオレゴントレイルを苦労して歩き、たどり着いた西海岸。先祖の足跡確認のカリフォルニアやオレゴンからの参加者が多い。町に戻って案内所で墓地の場所を聞いた。今日は日本人の墓探しだ。町の小高い丘の市営墓地、芝生が広がる中に、石碑がきれいに並んでいる。広大な墓地の中を漢字目当てに車で探した。「あった」と思ったら、中国系の墓だった。管理事務所のアルバイトのような若いおねえちゃんに尋ねると、「Follow me」と言って、スタスタと外に出る。事務所のすぐ近く、墓地の中央部に日本語の墓が並んでいた。

   
 

      故郷の人も知らない歴史がここにある

写真の墓は広島県出身の天崎才吉さんで1904年(明治37年)2月29日に42才で亡くなっている。「大日本帝国廣島縣豊田郡佐江崎村産,行年四十二才」と彫られている。”大日本帝国”と記載されている墓はこれだけで、他よりひときわ大きいので、それなりの人だったのではないかと偲ばれる。(その後の合併繰り返しで佐江崎村は今は三原市になっている。現在この写真を送り天崎さんを照会中)。明治の末期から大正にかけて、この地で亡くなった100人ほどの墓がここにはある。最初にこの町に入った日本人は1869年に大陸横断鉄道がつながり仕事が無くなった会津藩の武士達と言われている。鉄道の保線で食いつないでいたところへ石炭ブームになり、ロックスプリングスはMining townとして多くの労働者を必要とした。当時の日本は米の凶作で困窮していた「おしん」の時代だった。口入屋の斡旋で多数の若者が全国からこの地に出稼ぎに来た。200人を越す日本人が“Jap Camp”と呼ばれる飯場に住んで、稼いで日本へ帰る日を夢見ながら炭鉱労働に従事してた。落盤事故などで命を落とした人がこの地に埋葬されているのだ。天崎さんもその一人だったのではないだろうか?たいていの墓に出身県が記載されている。帰郷叶わず、異国の土となった悔しさが滲んでいる。広島県、岡山県、福岡県など西日本の人が多いのが特徴的だ。100基ほど日本人の墓があったが、その一割以上は名前も県名もない石だけのものだ。私の故郷、新潟県もひとりおり、「新潟縣北蒲原郡加治村箱岩・小林栄之父之墓」で、1921年(大正10年)没となっていることから、この人はロックスプリングスに住みついたあと、死亡したものと思われる。部落名も書かれているので、追跡は容易と考え、現在の新発田市に問い合わせた。「この部落に小林姓はひと家族いるが聞いたが心あたりない。部落の長老にも聞いたが、アメリカへの出稼ぎがあったことも知らない」との回答が来た。本格的な日本人の出稼ぎが始まったのが1880年代だから、130年も前の話は風化しているようだ。生まれ故郷の人も知らない歴史の事実が日本からはるか離れたアメリカの大西部の町には現存しているのだ。小林さんのように、賄い婦として連れてこられた日本女性と結婚しこの地に住みついた人も何人かいた。生まれた子供は、その後、アメリカ人と結婚し、今は純粋な日本人夫婦は皆無のようだ。写真のOKANOさんも、INEKOさんは1923年生まれで88才で存命中のようだが、ロックスプリングスで生まれた二世であろう。旦那はGEORGEさん、アメリカ人である。子供たちは日本語を知らないだろう。歴史の風化とともに日本人もアメリカに同化していったのである。

       
 

8月10日 大平原に没した若者たち

ロックスプリングスから80マイルほど離れた人口2000人のKemmererや人口700人のDiamondvilleという小さな村にも、日本人の墓が数十基あった。Kemmererの日本人墓地は大きなカシの木の下で平原を見下ろせる場所に14基、大正12年(1923年)8月14日死亡が11人、13年9月16日が3人と2年続けての炭鉱事故の犠牲になった。ほとんどが20代の若者だ。Diamondvilleは墓地のあちこちにバラバラに18基あったが、3人の墓は縦長なので立てることが出来なかったのか、寝かされて半分ほど土に埋もれてた。明治末にはロックスプリングスが働く中心だったのが、枯渇したのか、大正になるとKemmererやDiamondvilleに移ってきていることが、死亡年でわかる。だんだん田舎になり、100年前に、親にも見取られずアメリカの大平原の小さな村で死んでいった若者が多くいたことを知り、胸が詰まる。星条旗たなびくワイオミングの墓地で手を合わせた。

      
 

       異国に同化し、日本は消えた

このような情報を知ったのは滋賀大学の先生だった鶴谷寿さんの「アメリカ西部開拓と日本人」という本だった。著者が1973年にこの地を訪れた時は、まだ出稼ぎ当時の人が存命だったようで、その人の案内でロックスプリングスやKemmerer(キャマラーと発音するようだ)などの墓地を訪れている。荒れ放題になっていると書いているが、40年後の今は、いずれの墓地も芝生がきれいに刈られていた。二つに割れた墓などもあるが、総じてきちんと管理されていると感じた。しかし、そこに訪れる身内の人はいない。生まれ故郷の人にはその人の存在すら忘れられているのだ。日本人が集団的にアメリカに渡ったのは明治維新で敗れた会津藩の武士である。下北半島に流された武士とは別にアメリカに1869年に渡った武士たちがいた。カリフォルニアに若松コロニーという農場を開いた。しかし数年で行き詰まり、帰りどころがなくなった武士は当時開通したばかりの大陸横断鉄道の保線や新たな工事人夫として、カリフォルニアから東へ東へと入り込んでいった。これが日本人の西部開拓の始まりだった。そして10数年後、石炭ブームで新たな労働力を必要としたアメリカはロシア、ギリシャからの移民だけでなく、日本からの出稼ぎも受け入れた。その人たちの働く場所はワイオミングやユタなど、中西部と言われる不毛の大平原だった。そのブームのさなか、事故や病気で亡くなる人も多かった。稼いで帰ろうと思っていた人も、酒やばくちで金も溜まらず、石炭ブームの終焉とともに、帰るに帰れず、この地に留まった人もいた。そしてアメリカに同化し、ふるさと日本は消えていった。これが、日本人の西部開拓史であり、終着点だったのである。1871年の岩倉具視の訪米使節団は大陸横断鉄道で西海岸からニューヨークに向かった。その線路の傍らには敗残の会津藩の武士が働いていたのだ。使節団の話は、今でも歴史の教科書に取り上げられている。しかし、会津藩や出稼ぎ日本人の西部開拓史は誰も知らない。ワイオミングの空は広く澄み切っている。星条旗たなびく大平原を見下ろす緑の墓地に、時代の流れに埋もれていった多数の日本人がいたことも忘れてはならない。

   
 

8月11−12日 オンボロバスにオンボロ運ちゃん

お墓巡りを終えて、次の二日間はバスツァーに参加した。最初の日はサウスパス方面。バスがなかなか来ないと思ったら、故障して代替えを手配中という。予定より1時間遅れて発車した。これがまたオンボロバス。肘は外れているし、日除けもない。運悪く、陽射しがあたる側に座った我々は暑くてたまらない。このときも岳文テルモスが活躍。冷たい麦茶で暑さをしのいだ。バスもオンボロだが、運転手もオンボロ、ヨタヨタして歩くのもやっとの様子。昼食のときビールを飲んでいるのに驚いた。よく運転できるね。それに引き替え、次の日の運転手は若くてテキパキしていて対照的だった。ツァーの最後にガイドが”Best driver in the world !! に拍手を”と言ったのには驚いたが。初日はサウスパスも”Parting of the ways"も遠望のみで終わったのは大いに不満。二ヶ所とも実際の場所に行ったことがある私には。次の日のPine Dale方面は、モルモン教徒が金をとって運営していた渡し場やランダーカットオフ・クロッシングなど行ったことがない場所が多かったので楽しかった。陽射しを計算して座った側も正解で涼しかった。昼食のサンドイッチもおいしかったし。

   
 

8月13日 退化する英語力

大会最終日は恒例のパーティ。と言っても、焼かれた肉をパンに挟み、ビール片手にカントリ中心のOld songを聞くというもの。席が一緒になったWatsonさんは、三年前のネブラスカ州スコッツブラフの空港で会ったことがある気がする。ニューヨークから晩年、サンフランシスコ近くに移り住んだというが、英語がよく聞き取れない。カリフォルニア英語がいちばん分かりやすい私だが、長年、東海岸だったら止むおえないかなと思ったが、今回はテレビのCBS”Today”の英語も30%くらいしか聞き取れない。昔は50%以上はわかったのに。英語を使う環境から離れて約10年。使わないと聞き取りも退化することを実感した。

   
 

8月14日 シェーン Come Back !! の地へ 

1週間いたロックスプリングスを離れ、グランドティトンに向かった。途中、欲求不満に終わったサウスパスに寄った。本当のサウスパスはメイン道路から横に入った砂利道をしばらく走り、幌馬車の轍が残るオレゴントレイルを車で駆け登った所にある。三度目のサウスパス訪問だ。アメリカに来て、初めて雨となったが、サウスパスに來たら少し青空も見えてきた。ここに来るといつも何かホッとするのは、昔の旅人と同じ気持ちになっているのかもしれない。カナダからコロラド州に連なるロッキー山脈が、ワイオミングのこの数十キロの区間だけ、荒々しい岩山が高原状になっている。1820年代の西部探検時代はもっと北のイエローストン公園周辺の川と山沿いに西へと向かっていた。その後、このフラット状態のサウスパスを見つけたことにより、すべての旅人はここを通るようになった。西部開拓史の中でももっともエポック的な場所である。この旅の締めくくりは「シェーン Come back !!」のグランドティトンに三日間滞在し、シェーンの撮影場所とティトンの山歩きをすることだった。ジャクソンホールの町のスーパーでは寿司を目の前で握っていた。傍には枝豆も売っていて、両方買い込み、ティトンの宿、ジャクソンレイク・ロッジにチェックインしたのが夕方5時。部屋は湖に面し、ティトンの山並みが窓いっぱいに広がる居ながらにして絵葉書の中のような部屋だった。薄暮の中、ベランダに寿司、ソーメン、蕎麦、枝豆、バドワイザー、白ワインを並べ、夕日に染まるティトンを眺めながらの夕食となった。快適、満足。ところがベランダへのドアを開けたり閉めたりしている間に入り込んだのか、コウモリが室内にいることを深夜発見。天井に張り付いているときは小さい塊なのに、室内を飛び回ると結構大きい。これを追い出すのに大苦戦。明るい方には飛ばない。バスタオルを振り回しているうちに、運よくコウモリに当たり、弾き飛ばす形でベランダに飛んでいった。ホッとした。

   
 

8月15日 美しきティトンはベアカントリ   

グランドティトンには多くのトレッキングルートがある。ジャクソンレイクからはティトンの山並みを遠望する遠さなので、もっと間近に見るコースを歩こうと思い、ジェニーレイクに近いタガート湖とブラッドリー湖を巡るコースを歩くことにした。ティトンの嶺を真正面に見ながらのコースは迫力もあり楽しい。この山が4000m以上の高さがあるということを今回知り驚いた。山並みの塊は八ヶ岳連峰に似ているが、高さは全然高い。タガート湖もブラッドリー湖も氷河湖だ。湖面はエメラルド色で美しい。ティトン一帯には熊がいっぱいいる。公園管理事務所は「人間がベアカントリに入っている」ということで、熊を排除しない考えなので、至るところで熊に遭遇する可能性が高い。ここも熊が出ていてレンジャーが見張っているという話が途中で会った何人も忠告してくれた。ブラッドりー湖畔で昼食にしたときは、周りには誰もいないし、鬱蒼としているし、熊鈴を鳴らしながらの落ち着かないランチとなった。タガート湖あたりから曇ったり晴れたりしていたが、ブラッドりー湖からの帰途、雷が鳴り雨が降り出した。雨と熊に追われるようにして急いで車に戻った。それでも美しい景色を見ながらのトレッキングができ、楽しかった。よく日本の案内書に出ている祭壇の十字架の後ろにティトンの山が入る写真の礼拝堂に寄り、ジャクソンホールの町にお土産探しに出かけたが、これといった物が見当たらなかった。

   
 

       シェーンはアメリカで人気ない?

雨が降ったり止んだりのジャクソンの町だったが、ロッジへの帰り道、晴れてきた。ティトンの山に雲がちょうどよい具合にからみつき、写真にはうってつけなので、アンテロープフラットロードに入った。この道沿いに、シェーンの風景が広がっているはずだ。「あるある!」廃屋になった家や納屋が点在している。いずれもティトンをバックにすると、シェーンの風景になる。その納屋に立ち、「シェーン、カムバック!!」と夕暮れのグランドティトンに向かって叫んで見た。このあたりの開拓集落はモルモン教徒が切り開いたという。今はその住居やコテージをB&Bの宿にしているだけだが、1850年代にはここにも開拓民がおおぜいいた。これもまた西部開拓史の光景である。一週間前に行ったブライスキャニオンもこの地で布教活動をしていたモルモン教のブライス神父の名に由来するとあった。モルモン教徒は美しい山々の中でも開拓に布教に勤しんでいたのだ。ところでシェーンはあれほど日本では有名なのに、どこにも「シェーン撮影の地」などの看板はない。案内書にも載っていない。そういえば、OCTAのパーティで会ったWatsonさんもシェーンを知らなかった。(発音が悪くて通じなかったかもしれないが)。どうもアメリカの人にとって、シェーンはそれほど人気のなかった映画だったのかもしれない。

   
 

8月16日 ロックフェラーの決断

ティトン最後の日。妻は毎日、出歩いているので最後の日くらいゆっくりしたいと言う。そこで夕方、ジャクソンレイクの遊覧船に乗る予定だけ入れて、ロッジで時間を過ごすことにした。美しい景色を部屋から眺められるのはよいが、貧乏性なのか、次第にあきてくる。絵葉書を2枚ばかり書き、投函ついでにロッジ周辺をぶらついた。ロッジの横からコルターベイに通じる道がある。これもトレッキングコースだ。小高い所まで登ると見晴らしのよい場所に出た。記念碑があった。財閥ロックフェラー家はティトンが国立公園になる前に、かなりの土地をこの周辺に所有していた。当時、ピクニックに来てこの丘で弁当を食べるのが恒例だったそうだ。そしてこの景色はそのまま後世に残さなければならないといつも言っていたという。だから国立公園になるとき、ロックフェラー家はすべての所有地を国に寄贈したという。寄贈された土地は35,000 ac(4千285万坪)というとてつもない広さだ。そんなことを書いてある記念碑だった。丘の先はクマ出没なので立ち入り禁止になっていた。ロッジ近くでも熊は出るのだ。遊覧船の発着場所のコルターベイに車で向かったいたとき、子熊が道路を走って横切った。まさに熊の国に人間がお邪魔しているのだ。遊覧船は運転そっちのけで後ろを向いて喋りぱなしの運転手なのかガイドなのかわからないオジサンの独壇場だった。我々にはわからないジョークを頻繁に飛ばし、観客は大笑いだ。船の振動が心地よく、私は大半、眠っていたようだ。いびきを何度も妻に注意されたほどだった。下船後、コルターベイの半島を8の字回りで1時間ばかり歩き、グランドティトンの締めとした。

     
 

8月17日
 
1869年5月10日 オレゴントレイルの使命は終わった

明日ソールトレイクシティから日本へ帰る。今日は最後の300マイルのロングドライブ、グランドティトン国立公園内を走るときは、シェーンの主題歌「遥かなる山の呼び声」を繰り返し流した。西部劇の名曲である。私の最も好きな曲でもある。後に遠くなる山並み、名残りを惜しみつつワイオミングを離れた。ジュネーブやパリなど、ヨーロッパに来たかと思う名前の村を過ぎて入った町角に何と”Oregon-California Trail Museum”の文字、何でここにと訝ったが、この町はMontpelier,アイダホ州に入っていた。サウスパスから南下したオレゴントレイルはフォートブリッジャーの砦から北上し、アイダホ州に入り、この町を通るのだ。サブレットカットオフで近道した道もこの辺りで本道に合流する。お昼にちょうどよいと公園で途中買ってきたツナサンドイッチを頬張る。絵画主体のMuseumも覗いて、木板にワゴンを彫った最後のオレゴントレイル土産を買った。そしてソールトレイクシティ近くのオグデン郊外にある大陸横断鉄道ドッキングの”Golden Spike National Historic Site"へ夕方、立ち寄った。1869年5月10日、ここで西と東から工事をしてきた鉄道がつながった。金の犬釘を両鉄道の社長が枕木に打ち込んだ。西のセントラルパシフィック鉄道の社長はLeland スタンフォード、スタンフォード大学の創立者である。これによって幌馬車の歴史は終わった。オレゴントレイルの使命も終わったのだった。西からの鉄道工事には甚大な数の中国人が奴隷同然で中国から連れて来られた。枕木の数だけ中国人の屍があると言われている。日本人の西部開拓史同様、中国人の西部開拓史も悲しい結末をここで迎えていたのだ。

   
 

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7 月

7月29日 アルプス変じて鹿教湯温泉

中央アルプスの越百岳、南駒ヶ岳のマイナーな山に登ることにしていた。しかし戻り梅雨で大雨が予想されたので、急遽中止。
せっかく準備したのだしと、温泉にした。登山と温泉では違うではないか。鹿教湯温泉には札所巡りの山道ロングコースがあると聞いていたので、ここなら雨でも歩けると踏んだ。観光協会からスタンプ帳をもらい、21ヶ所のポイントを目指した。最初は月見堂から展望台への山へ登った。鹿教湯の町並みが眼下に広がる。下りは雨が降っているので滑りやすい。次は4k先の内村ダムに行くことにした。万年九郎沼大明神も山の中、ここからダムへの道は迷った。はっきりした道を下り始めたら、町の人が来た。聞くと、草ぼうぼうの細い道だという。コース案内の看板はあちこちに出ているのに、肝心なこの場所に無いのはおかしいではないか。ダムから町へ戻り、秋葉神社でスタンプ押したら、神社は350m先という。
行かなければ踏破とは言えないと思い登り始めたら、これが意外と遠い。結構きつい上りを行けども見えず、やっと着いたら小さな祠があるだけ。歩き疲れた頃、街の真ん中で21ヶのスタンプ終了。4時間半かかった。遅めの昼食をとソバ屋に入り、生ビールと天ぷらで祝杯。そばも美味しく、その後泊ったみやこ旅館の快適な露天風呂で汗を流し、しばし昼寝をした。快適なウォーキングと温泉であった。

   
 

7月28日 無残やなァ…

今年こそはと思ったアナベル、鹿対策も最後のツメで失敗した。芽の時期に食べられるので、5月頃からつい先日まで、花の株に野菜用の防虫ネットをかぶせていた。アナベルが成長するにつれ、花の伸びを網が抑えるようになり、もう大丈夫と思い網を外した。4株に花のつぼみをつけ、咲くのを待っていたのだが、1本を残して、きれいに食いちぎられていた。別荘地も夏になり住む人も多くなって、鹿も出にくいのでは?と思っていたが甘かった。残ったのは花が咲いたもの。開くと鹿は興味がないようだ。

   
 

7月20日 去年よりましだけど…

今頃の霧ヶ峰は高原全体をニッコウキスゲの黄色い群落が咲き乱れ、それはそれは美しい。しかし去年は鹿が花を食べ尽くして黄色がほとんどないミゼラブルな風景だった。地元も今年は電流柵を張り対策に躍起だった。柵を張った側は効果があった。一面、黄色の絨毯が広がっている。しかし道を隔てた反対側の草原はチラホラだ。こちらは食べられたらしい。道の左右では対照的な光景だ。電流柵側の草原は柵が途切れて、張られていない所でも咲き乱れている。ということは、柵のあるなしに関わらず、その側一帯に、鹿は近寄らないということなのだろう。これで来年の対策のヒントを得たような気がする。しかし往年の夢のような景色を思い出すと悲しい現実である。

   
 

7月17日 トワイライトトレッキング

みんな帰り、志牟田さんだけ残った。そこで八子ヶ峰にトワイライトトレッキングに出かけることにした。夕日が沈む頃、山を歩くのだ。昨日の疲れが残っているのか、歩き慣れた八子ヶ峰の登りがいつもよりきつい。ナデシコの紫色の花が道端に咲いている。翌朝、ナデシコフィーバーが起こるとは予想だにしなかった。それなら写真を撮っておくべきだったと後で悔やんだ。今では街ではナデシコの花は見かけなくなり、売っているのも西洋ナデシコばかりで、大和ナデシコは見かけないという。しかしここ八子ヶ峰にはいっぱい咲いていて、写真に撮るほど珍しい花ではない。ナデシコ以外にハクサンフウロ、ニッコウキスゲ、ウツボグサなどがこの時期、八子ヶ峰に見られる花だ。もう少しするとマツムシソウが咲き乱れる。草原には誰もいない。夕日に染まった赤岳が美しい。歩く我々の影も草原に伸びる。赤とんぼに追いかけられるように、山路を下った。

   
 

7月16日 池めぐりトレッキング

今年の梅雨明けは9日。1週間経った高原には夏空が広がる。スキー仲間9人で北八ヶ岳トレッキングに出かけた。ピラタスロープウェイ坪庭から林の中の急坂をしばらく登る。木々を通す風が涼しく心地良い。北横岳ヒュッテ近くの七ツ池の静かな山上の澄み切った大気に広がる水面にしばし見入る。頂上へひと登り、槍ヶ岳、穂高、乗鞍、御岳、木曽駒、北岳のアルプスの峰々が雲の上に遠望できる。「夏だ!夏山だ!」。亀甲池へ森の中の急な下りに入る。木の合間に湖面が見えてきてから、かなり長い。湖畔で、昨夜みんなで作ったサンドイッチを頬張る。スイカの瑞々しさが喉に染みる。再び森の中を歩くとエメラルド色の双子池・雄池が見えてきた。その色の美しさにみんな感嘆の声を上げる。昔、お世話になったことがある双子池ヒュッテのおじいさんはまだ健在だった。しばらく白樺林が美しい林道を歩き、雨池峠、島枯山荘を通って、出発点へ戻ってきた。そのあと温泉、山荘ベランダでのシャンパン、ビール、広島焼きパーティと夜遅くまで続き、満足感あふれる梅雨明け・池めぐりトレッキングだった。

   
 

7月15日 日々草

春は水芭蕉、スイセン、タンポポ、桜と花咲く山荘だが、来る人は少ない。今の時期は来る人は多いのに、アナベルぐらいしかない。それもこのところ、鹿に食べられ壊滅状態だ。街の花は似合わないと思い、松虫草や下野草などを植えてみたがうまくいかない。先週のバラクライングリッシュガーデンで見た寄植えにヒントを得て、木の鉢に花を植えてみることにした。いくつか並べれば、街の花でも山荘の庭に少しは合うのでは、と思った。選んだ花は、赤とピンクと白の日々草。それを大きめの木の鉢三つに寄植えして、庭の木々の下に並べてみた。ここなら雨が降れば、雫もしばらく落ちるので、私が不在のときでも何とかなるのでは、と考えた。そして日々草は毒なので、鹿は食べないとインターネットで調べた。三つの鉢に並んだ花をベランダから見ると庭のほどよいアクセントになっている気がする。(自己満足か)

       
 

7月13日 守屋山

杖突峠を通るたびに気になっている「守屋山登山口」の標識。雲はあるが夏の日差しが強いこの日、登ってみることにした。入口からしばらく未舗装の山道をドライブすると、ザゼンソウ群生地という公園に出た。ここから登るらしい。頂上まで延々と続く上り道。胸突き坂などの急坂もあり、意外ときつい。東峰に着いた。諏訪湖は見えるものの、八ヶ岳も南アルプスも雲の中だ。西峰に近づくと人の声がする。オジサンオバサンの4人組だ。「初めて人に会った」と驚くが、私とて同じだ。西峰は芝生のような広場になっているが、眺望がきかない。東峰に戻り、改めて蓼科の位置を確認する。公園への下りで他のふた組みに会った。こんな山に、こんな平日に登ってくる人もいると、自分のことを棚に上げて驚くが、避難小屋や登山道がきちんと管理されているところを見ると、地元の人に愛されている山なのだろう。それにしても、後のふた組はどこから登ってきたのだろう?私と同じ一直線のコースのはずなのに、下った駐車場には私の車しかないのだ。

   
 

7月7日 ポンパレの宿

娘からポンパレという割引システムを教えてもらった。ホテル、旅館、レストラン、化粧品など、ある一定時間、数量限定、市価の半額でインターネットで売り出すというものだ。見ていたら、たつのパークホテル15,000円を二人でその値段、しかもワインハーフボトル付き、さらにポンパレ500円割引するという。ひとり実質7000円弱だ。即申込み、早速、妻と行ってみた。辰野町は高遠を越して1時間半の近さ。温泉もあり、部屋はベッドと畳の和洋室で広い。眺めも湖越しに対岸の斜面に家や畑が広がり、チロルを思わせる風景だ。夕食は我々だけ別室で、結構良い。ポンパレは50組限定で49組売れたという。ほぼ予定通りという。思いのほか当たりの宿であり、当たりのポンパレだった。「ヒッパレ〜♫」に似たネーミングなので、つい、♪ポンパレ〜♪、ヒッパレー〜♪と口ずさんでしまうのは私だけだろうか?帰りは日本最古の道祖神を見た。夫婦相合いの姿は昔も今も美しい。

   
 

7月6日 バラクライングリッシュガーデン

バラクラは近くにありながら、入園料の高さから敬遠していた。妻が寄植えセミナーに出たいというので、フェスティバルをやっているこの期間に行ってみた。入場料1200円。先週まではバラ主体でもっと高かったようだ。イギリスから来た庭師がガーデンの花々や草を説明案内してくれるコースと寄植えのコツコースの二つに参加した。いずれも無料、参加者は多い。有料のコースもあるがそれは避けた。あとで有料コースを窓から覗いてみると二人しかいなかった。みんな同じ考えなんだなあ。合間にアコーデオンの演奏などもあり、ほぼ一日楽しめた。庭もきれいに整備され、アナベルなどは大輪の花をいっぱい咲かせている。「こんな庭がつくれたらいいなあ」と妻は感嘆の声が上げるが、「じゃあ山荘の庭を作ったら?」と言うと、それには無言である。

   
 

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6 月

6月29日 八子ヶ峰、レンゲツツジの当たり年

今朝は珍しく梅雨明けのよう天気。八子ヶ峰完全周遊トレッキングを敢行しよう。完全周遊とは、いつものショートカットコースではなく、車を使わず山荘から歩きだし、山荘へ戻ってくる約4時間のコース。いつも歩くあかしあの小径入口を通り越し、こぶし3号線に入り八子ヶ峰への道に登る。ショートカットでは20分で到達するポイントまで1時間かかる。そこからは同じ尾根歩き、最後の下り分岐を左折ではなく直進し、あかまつ1号線の別荘地のどんづまりから山荘へ下りてくるというもの。
最初の登りが長いので、ゆっくり進む。途中からレンゲツツジの赤が見え出したが、もう枯れている。しまった!遅かったとガックリしたが、上に行くに従い、今を盛りと赤い絨毯が拡がってきた。アルビレオヒュッテが望めるあたりからは”ワーッ!”と声が出るほどの真っ赤かだ。これまでに見たこともない赤一色の世界だ。二週間前に上高地に行ったとき、「今年の新緑は10日遅い」と言っていたが、ツツジの盛りも遅かったのだ。今日はグッドタイミングだった。今年はレンゲツツジの当たり年のようだ。梅雨明け間近い空の下、ツツジの赤に囲まれて清々しい気分で山荘に戻ってきた。3時間40分だった。

   
 

6月25日 −27日 対照的な講師、奥志賀・倉重塾セミナー

今年も奥志賀高原に60名近い人が集まった。大雨警報や信越道閉鎖などで、一時はどうなるかと危惧したが、みなさん無事到着、30分遅れで開催でき、翌日は青空も覗く空の下でハイキングやゴルフを楽しんだ。今年のゲストは未来工業の山田昭男さん、年間140日休日や労働時間の短さで知られる岐阜県の会社の創業者。携帯持たず、PCも使ったことがないというアナログな経営者、
自分の会社を”ローテク後端企業”と言う。塾長・倉重英樹さんは対照的にIBM出身のハイテク先端企業の超デジタル経営者だ。話も理路整然とは程遠い山田さん、スマート、理論的に話す倉重さん。しかし、話の根幹に共通項は多い。
「顧客を感動させることがビジネス」「それには社員を幸せにすることが先決」
「ライフがあってワークがある」「人間をコストで考えるな」など、性善説をベースにした「”人”が経営の根幹」いう経営哲学はバックグランドが違えども通じるものがある。山田さんのバラバラではあるが実践してきた体験談を、倉重さんが
経営論として「その実践がなぜ正しいのか」まとめたような感じになった。
経営人としてはまったく正反対な道を歩んできているのに、経営哲学は同じ方向というのがとても面白かった。その後のパーティも山田さん、倉重さんを囲んで夜遅くまで盛り上がった。4回目ともなると、プロデューサーの私も「もういいかな」と思っていたが、こんな面白い組み合わせになるとまた目覚めて、次は誰を呼ぼうかな?などと、もう来年の計画を考えている自分に苦笑してしまう。

    

            
 

6月18日 蟻の侵入

この季節、アリの侵入が始まる。チラホラ見かけるうちに黒塊の集団がフローリングの片隅に現れる。こうなるとアリキラーの出番だ。まずは掃除機で集団を吸い取り、進入口を探し、そこと通路にアリキラーを噴射する。外へ回って、入口にも噴射。蟻の巣があったら、そこには”アリの巣退治”薬をふりかける。
梅雨時はいつもの行事だが、わかってきたことは、以前入り込んだ所からは入らない。常に新しい侵入口を見つけ出していることだ。視界の中のアリを退治したからと言って、安心はできない。数時間後にまた集団でかたまっている時がある。今回はパソコンの横に置いておいた黒い布袋の下だった。退治前に既に家の中に入り込んでいたアリたちが出口を塞がれ、たぶん呼び合う信号があるのだろう、新たな場所に集まってくるのだ。今回は黒い布袋と玄関マットだった。ログハウスは通気性が良く、湿気とも無縁だが、アリが入るくらいの隙間がいっぱいあるのだ。梅雨明けとともにアリキラーの出番はなくなるのが不思議だ。

   
 

6月15日 ペンキ塗り

雨が続き、なかなかベランダのペンキ塗りができない。今日の天気予報は晴れなので、朝から取り掛かることにした。
妻が事前にカラマツの落ち葉を掃いていて発見したのが、一部の隙間はふさがっていて、そこに建てて以来7年分の落ち葉が溜まっていることだった。
ねじ回しでほじると、ワンサと湿ったカラマツの細い落ち葉が掘り起こされた。
このまま放置していたら、そこから床材が腐ってくるところだった。「妻よありがとう!」1階と2階のベランダ、玄関への階段にたっぷりとキシダテコールを塗りこんで、夕方、大仕事を終えた。次にやるのは三年後か。

   
 

6月13日 野麦峠は悲しい

上高地の帰り、白骨温泉に泊った。宿を間違え、番頭さんに荷物を持ってもらったところで気がついた。失礼しました。
翌日、乗鞍高原の一ノ瀬園地を歩いたとき、昨年は通行止になっていた奈川渡へのスーパー林道へ車が入って行くのを見て進路を変えた。
前に一緒に行った野麦峠の話を妻にしたら、行ったことがないと言う。
「峠に記念館があって入ったじゃないか」と言っても知らないと言う。私の記憶の中では、記念館への階段を下りていく妻の後ろ姿のイメージがあるのだ。だったらあれは誰だったのだろう?他に一緒に行った女性の記憶もないし…。
妻は疑っているようだったが。「飛騨が見えるヨ」と背中で死んでいった乙女の像を見ても妻は初めてと言う。??の野麦峠だ。
明治の文明開化の頃、諏訪の紡績工場の女工としてまだ幼い少女たち何千人もが雪の中を越えた歴史の峠だ。帰り道、その乙女たちが泊った木賃宿の隣で、とうじ蕎麦を食べ往時を偲んだ。来年5月のモンペ絣の装束で少女たちが
歩く野麦峠越えツァーに参加して、まぼろしの記憶を一緒に再び、辿ってみたい。

     
 

6月 11日−12日 上高地音楽祭

ウェストン祭には以前二回参加したことがあったが、翌週の音楽祭は今年はじめて妻と一緒に出かけた。あいにく朝から雨で、会場も小梨平ビジターセンターのベランダになってしまった。本来は梓川岸に穂高をバックを舞台にして歌うはずだった。始まる頃には雨も上がり陽射しが射すほどに回復した。
ダ・カーポが出演、エーデルワイスなど山にふさわしい歌も散りばめ、ヒット曲の”結婚するって本当ですか”や”野に咲く花のように”でそれなりに盛り上がった。雨あがりの徳沢に続く道を歩き、夕暮れには前穂高の岩壁を臨む徳沢の草原に着いた。今夜の泊まりは徳澤園、「氷壁の宿」である。雰囲気のよい洋室ができていて、そこに泊った。食事もワインもおいしく、山小屋とは思えない宿だった。

   
 

            レリーフへの道

前穂高で遭難した岳文会の先輩の慰霊レリーフが奥又白への道の途中にある。元々、許可なく設置したレリーフなので人目を避けるように奥又白沢の対岸の森の中の岩にひっそりとはめ込まれている。10年前に訪れたときは探すのに苦労したほどの藪だった。この6月に行ったらレリーフへまっすぐ、はっきりした踏み跡ができているのだ。途中の倒木にビニールテープが巻かれ目印まである。岳文関係者の訪問はそんなに多いはずはない。「不思議だな?」と思ったが、レリーフの岩の上部を見てわかった。上の木にもテープが巻かれている。
営林署の“御料地見回り”のルートになっているのだ。「沢の5号堰堤を渡ったら、森の中にレリーフがあるから。テープを目印に行き、その横の斜面を登れ」などと指示されているのだろう。これで先輩のレリーフは公認されたと思った。
前穂高は新緑の林の上に豊富な雪を残しながら、梅雨晴れの空に輝いていた。

       
 

6月9日 偶然の出会い
蓼科へ行く中央道を走っていた。甲府あたりで抜いたと思っていた薄緑の車が横に並んで、こちらを見ている。何と奥志賀ベルサルームズの三輪さんではないか。お互い、八ヶ岳パーキングエリアに入って、「どうしたの!?」。
三輪さん夫妻は箱根帰りだという。オーベルジュの経営視察に行って帰る途中だという。しばし、その感想やこれからのベルサルームズの経営についてパーキングエリアのベンチで話し込んだ。3月の大震災以来、スキー客もパタッと止まってしまった。原発状況がこのままだと来シーズンの外人スキー客も期待できない。日本人のスキー客は減り続けている。この状態が続くと先行き暗い。
何かブレイクスルーのアイデアと経営改革が必要なことは共通認識だった。
箱根行きもそのヒントを得るためだったという。今月末、奥志賀での再会と話し合いを約束して別れた。
 

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5 月

5月25日 春のうららの八子ヶ峰

昨日までの雨が上がった。二日前の氷雨は高い山を雪にした。八ヶ岳は真っ白、雪が消えていた蓼科山も雪化粧し、女神茶屋からの登り道が白くくっきりと浮かび出ている。今年はじめての八子ヶ峰散歩に出かけた。山桜も散り、花びらが敷き詰められた道を登っていくと、子供たちの歓声がヒュッテのあたりから聞こえる。春の遠足らしい。春霞のかかかった甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳、木曽駒ヶ岳、御嶽、乗鞍、穂高も真っ白だ。美ヶ原さえ白い。バスのガイドと運転手がヒュッテから下ってきた。普通の靴だ。子供たちと一緒に登って風景を楽しみ、女神茶屋に戻り、白樺湖にバスを回して待つのだろう。みんなが登りたくなるウキウキした春うららの日和である。東峰頂上から見ると、八子ヶ峰の草原の道を子供たちが一線になってリフトの先まで歩いている。その線が先へ先へと進んでいく。こんな素敵な日に歩く子供たちは幸せだ。きっと春の蓼科や八子ヶ峰が良い思い出の場所として記憶に残ることだろう。

   
 

5月23−25日 今年の山菜

今年の山菜は遅いような気がするが?去年はいっぱいあったスキー場のハリギリが一本もないし、あってもまだ葉が開いていない。いつものコゴミや葉ワサビもも小さいし少ない。ただタラの芽は例年通りだ。これまで一ヶ所しか見ていなかったコゴミの群落を思わぬ所で発見した。そこのコゴミは大半が盛りを過ぎていた。となると必ずしもすべての山菜が遅い訳でもないようだ。
山荘の前の道路脇にもコゴミを発見した。吉田さんが越後湯沢から持ってきた根付きコゴミと一緒に地場のコゴミを道脇から掘り起こし、庭の空き地に植えた。ハリギリも数本収穫し、これも植えた。ハリギリの根は長いので、途中で切らざるを得なかったので根付くかどうかはわからない。帰京してから吉田さんからコシアブラの苗を二本もらった。こちらはちゃんと根があるので、今は植木鉢に育て、来月山荘に行ったときに植え変えようと思う。楽しみだ。

        
 

月 20日 桜咲く!
6年前に植えた三本のソメイヨシノはよろよろと育っていたが、一昨年あたりからポツポツと花をつけるようになっていた。そのうちの植え方が悪く、斜めに伸びてきた一本に今年はいっぱい花が咲いた。しばらくぶりで山荘に行ったら、満開を少し過ぎたが、みごとに咲いていた。いつ倒れるか心配していた桜だったので、とても嬉しかった。逆境に負けず、よく咲いてくれた。よく頑張った。
夕日を浴びて満開のソメイヨシノは美しい。次は他の二本もいっぱい花を咲かせてくれれば、みな若く細い木だが、5月の遅い桜が山荘の風物詩になりそうだ。

   
 

月 7日 菜の花祭り

福島の帰りは磐越道で新潟に入り、北陸道から信越道で豊田飯山に下りた。
菜の花畑を見るためだ。北信濃の旧豊田村は高野辰之の生まれ故郷である。この震災のいろいろなコンサートで最後にみんなが涙で歌った”ふるさと”を作詞した人である。♫菜の花畠に入日うすれ・・・♫、の”おぼろ月夜”も作った。
「うさぎ追いしかの山」は斑尾山、「小鮒釣りしかの川」は千曲川をイメージしたという。その風景が見える丘陵に菜の花畑が広がる。まさに二つの名曲の原風景を楽しむイベントが毎年ゴールデンウイークに開かれる菜の花祭りなのだ。
既におぼろ月夜コンサートは終わっていたが、夕暮れの菜の花公園は咲き残った桜と満開の菜の花そして夕日にキラキラと輝く千曲川、夕霞みの斑尾山と唱歌そのものの風景が広がっていた。とても美しい。
ここの菜の花は野沢菜であることを初めて知った。花をつけない前の若い茎と葉を晩秋に取り込み付けたものが野沢菜になり、そのまま花を咲かせたものが菜の花だそうな。

   
 

月 4−6日 被災地応援旅行・福島へ

遊び自粛と風評被害もあり、福島の観光地は閑古鳥が鳴いていると聞いた。
そこで連休は応援も兼ねて福島に行くことにした。本当は浜通りの常盤ハワイアンセンターなどに行きたかったがこの一帯は無理なので、会津を中心に回ることにした。4月中旬に予約したがいずれの宿も希望通りにすんなりととれた。
連休でも大変なんだろうな。
 

月 4日 渋滞で進まない大内宿への道

朝早く出たので東北道は順調でこのまま行くと大内宿には朝10時前に着くほどだった。白河で高速を下り、会津湯野上温泉から大内宿への道に入ったら、様子がおかしくなった。車が動かない。渋滞である。大内宿まで2キロの案内があるあたりから、運転手だけ車に残し、歩いて行く人が増えた。大内宿の駐車場がいっぱいなので、その空きが出ないと進まないのだ。
あとでわかったことだが、大内宿で泊まる我々は反対車線で追い越して村内に入ればよかったのだった。村の入口までは従いていかなければいけないと思っていたので、ここで2時間はロスした。
やっと今夜の民宿扇屋の駐車場に入れたときは昼を過ぎていた。村の通りは観光客でごった返し、どの店も人でいっぱいだ。やっとありつけた高遠そばも店に行列して食べた。高遠そばは長ネギ一本でそばを啜りながら食べる。ネギも千切りながら食べるので薬味を箸にしたようなものだ。
高遠そばの謂われを読むと、信州高遠藩から保科正之候が会津藩に入ったとき一緒に持ってきたそばの風習、それで高遠そばと言うそうだ。本場高遠にこんな食べ方はない。どこでネギ食いそばが高遠そばに変わったのだろうか?
鯉のぼりたなびく大内宿、”がんばれ福島”の鯉のぼりもたなびいていた。

   
 

月 5日 喜多方ラーメンも大混雑

大内宿から会津若松に向かい鶴ヶ城に寄った。天守閣から見る磐梯山も遠くの飯豊山もまだ白い。この若松にも浜通りから避難者が多いと聞く。
喜多方への道もノロノロで嫌な予感がしたが、市内繁華街に入って驚いた。
狭い通りに人があふれている。市役所の駐車場も満車だが、運よく目の前の
一角が空いた。私の前の車は不幸にも他は空いておらず出て行った。
ラーメン本に出ている店に行ったら店の前は長蛇の列、もう一軒の店はとぐろを巻いたような列だ。自粛ムードは一掃されたような雰囲気だ。結局、駐車している近くの並んでいないラーメン屋に入った。期待はしていなかったが、一口すすって、自分の好きな味だとわかった。妻も美味しいと言う。とぐろを巻いていない店もいい味しているではないか。このひと口で喜多方ラーメンも喜多方の町も好きになった。
満ち足りた気分で、裏磐梯経由で吾妻高湯温泉・玉子湯に向かった。1600円も払って入った吾妻スカイラインは霧の中で何も見えずそのまま高湯に出た。
裏磐梯レークラインも1000円近くかかったし、この一帯の観光道路は高すぎる。蓼科から霧ヶ峰、美ヶ原へ走るビーナスラインを見習うべきだ。もっと長くてタダだぞ。

   
 

月 6日 東山温泉・文化財の宿”向瀧”

いろいろな風呂がある玉子の湯に満足して、こけしを買い求めようと土湯温泉に寄った。駐車場はいわきナンバーばかりだ。街にも人だかり。土産物屋で聞いたら、旅館は避難客で満員だそうだ。一泊三食5000円でも、長逗留なので、お客がいないよりマシだという。ところが避難客はお土産を買わないので、土産物屋は上がったりだとこぼす。奮発して数千円お土産を買ったら「ありがたい、ありがたい」と言って消費税をまけてくれた。
午後、猪苗代の野口英世記念館に寄った。閑散としていた。修学旅行でも来ないとここは潤わないのだろう。野口博士の母親が金頼みでアメリカへ出した手紙の切々としてたどたどしい内容がとても印象に残った。その夜の宿の我々の部屋が手紙に驚いて帰国した野口英世と母親がそのとき泊った部屋だと教えられ、またもや驚いた。
向瀧は旅館全体が有形文化財・旅館第一号という歴史の宿である。我々の部屋はいちばん安いクラスだが、15年ぶりで帰国した大正4年当時では良い部屋のひとつだったのだろう。会津藩の温泉保養所だったという歴史の宿だけに古い中に格式が漂う。庭の桜も満開、かろうじて部屋の片隅の窓から桜の一角が見えたので、障子を外し夕べの晩餐の借景にして花見酒を楽しんだ。
この宿も地震後は閑散としていたが、連休直前から予約が増え、しばらく満室だという。少しずつ、観光客も戻ってくるのだろうか。そして福島の人たちに笑顔も戻ってほしい。

     
 

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4 月

月27日 きれいにしたと思ったら…

雪が消えた庭には枯れ枝が散乱している。ゴールデンウイークに滞在する人に少しでもきれいな庭を見てもらおうと、昨日半日かけて枯れ枝を拾い集めた。
今日になったら大風が吹き、せっかくすっきりした庭にまたもや枯れ枝や大きな幹が転がっている。昨日の苦労は元へである。枯れた幹は片付けたが他は風が収まってからやろう。ヤレヤレである。アナベルの芽を食べられて花が咲かなかった去年の二の舞いを避けようと鹿よけネットをそれぞれのアナベルに被せたが、これも風ではずれてしまった。ネットの下を紐でしばった。これでは息苦しくて、アナベルは成長しないのでは?と別な不安が発生した。こんなやり方でアナベルを守れるものか、また花がさくものか不安だが、しばらく模様を見るしかない。

   
 

月25日 桜のあとは雪見

奥志賀に春スキーに行った帰りの昨日、須坂の臥竜公園に桜を見に行った。
本当は信州高山村のしだれ桜を見たかったのだが、まだ今年は咲いていない。そこで須坂となった。日曜とあって人出がすごい。駐車に苦労した。
井の頭公園のような雰囲気だ。池の周りを桜が囲む。日当たりのよい側は満開だが、日陰となる山側はまだのようだ。市民憩いの公園の桜だった。
蓼科の山荘に帰って今日、こんどは雪だ。ひとしきり本降りになり、あっという間に周り一面、真っ白になった。これはすごいと思っていたら雨に変わり、どんどん溶けていく。そして陽が射したと思ったら、きれいに消えてしまった。ほんとうに春の淡雪だった。今年の春は、雪との縁切りがなかなかむずかしい。

   
 

月19日 チロル再訪

チロルと言っても本場ではない。”日本のチロル”である。飯田市上村下栗。
”下栗の里”と呼ばれる地区は、海抜1000位の急な斜面に民家と畑が段々状に広がっている。一昨年の夏、ここに来て泊ったことがある。妻はチロルにしては屋根にタイヤが載っていたり、家の周りが雑然、壁や屋根のスレートも青だったり透明だったりで汚らしい。ここはチロルでないと酷評しきり。本場に似ていないチロルだ。斜面に民家がはいつくばっていて、牧場代わりに段々畑で生計を立てている生活様式が似ていることから、東京学芸大学の先生が”日本のチロルと命名す”なんて言ってしまったことが、期待と現実のギャップにつながってしまった。先生も罪作りなことだ。でものどかな山里には変わりない。街並み保存地区でないが、もう少し家々に日本の田舎らしい統一感を出せたら、”天空の里、日本のチロル”らしい村里になるのではないだろうか?

      
 

月18日 桜の高遠から日本でいちばん美しい村へ

今日が高遠の桜の満開日だった。去年より1週間遅い。月曜なのに観光バスが次から次へと来て、駐車場は満杯。それでも人出は例年の6割とか。
妻と一緒にコヒガン桜をひとしきり愛で、分杭峠へ向かった。この道は、諏訪大社から愛知県の秋葉神社へつながる秋葉街道という信仰の道だった。古道ブームで最近は旧道整備が盛んで歩くのも面白そうだが、今日は車。分杭峠は磁場プラスマイナスゼロの”気の場所”だ。そこに座って、ゆったりと時間を過ごせば何かがよくなり、願い事も叶うという。一生懸命”宝クジ当たりますように”と祈った。案内書によると、”高揚し、気が充実すると願いが叶う”と言うが、長くいても高揚しなかった。ダメかな?この精霊あふるるこの場所には気功師を名乗るエッチな男も出没するらしい(写真)。

   
 

峠を超えると大鹿村に入る。”日本でいちばん美しい村”のキャッチフレーズが憎い。大鹿歌舞伎でも有名な山村である。村にある鹿塩温泉に泊まった。
名の通り、山の中なのに温泉は塩っぱい。塩水なのだ。明治の始め頃、四国の元武士が岩塩堀りに挑戦したが起業するまでには至らず、塩水を干して塩を細々と作っていたという。今でも泊まった山塩館では、同じやり方で塩を作って売っている。ひと袋、土産に買った。この宿は、一昨年、塩見岳に登ったとき泊った南アルプスの三伏峠小屋も経営していた。塩見岳の名前の由来がここの塩から来ていることを初めて知った。宿の部屋の窓には大きな桜の木が迫り、五分先の桜が美しかった。のどかで静かな美しい村である。

   
 

月15日 震災で思うこと、その2「個で考える欧米、和で考える日本」

このたびの大震災で、強く感じたことは「日本人の意識と行動」と「計画停電への戸惑いと対応」である。
これらはこれからの日本における働き方に影響すると思われる。
 

「日本人の意識と行動」

災に遭った被災地の人々の行動は海外の人から称賛された。
「冷静、秩序正しく、周りを思いやり、いたわる。この状況で略奪や混乱がない日本人はすばらしい」と。この行動パターンはタテ社会の人間関係が良い方向に表れたにすぎない。タテ社会はウチ社会とも言える。ほぼ単一民族で作られている日本では、会社も地域も、上の人には逆らわない。周りを見て自分の立ち位置を判断し行動を決める。異端児にはなりたくない。近隣も家族同様、そんな環境の中でワガママは言えない。特に大被害に遭った東北の農漁村では、この傾向が強い。つらいから避難所を出たいと思っても、「アイツは逃げた」と言われるのが怖いので集団の中に留まる。このような日本人特有の農耕民族性が災害時には良い方向に発揮されるのだ。本当は「わめきたい、文句も言いたい、自分勝手に行動したい」と思っても、歴史的に培われた民族性が立ちはだかる。

これは会社にとっても同じである。終身雇用で守られ、自己主張はほどほどに、出る釘は打たれないように、みんなと調和して、チーム仲良く、周りを見ながら自らの働き方、身の処しかたを調節する。そして年功序列で出世の階段を上がっていく。頭打ちのときは子会社が用意され、そちらで定年まで保証してくれる。会社人間もむべなるかなである。
 

「計画停電への戸惑いと対応」

この災害による計画停電は、はからずも日本の働き方を見直すきっかけを作りそうだ。会社は夕方までで終わり、残業禁止。デパートも6時閉店、コンビニは24時間営業中止、ネオン点けず、家庭もこまめに消灯。
政府はサマータイムやフレックス勤務を推奨した。これらはヨーロッパの国では日常的なこと。残業はほとんどなく、デパートもスーパーは昼も休むし、夕方閉める。銀行も郵便局も同じ。コンビニなどない。夜中やってる店はバーくらいのもの。街は暗いし、会社も家庭も間接照明で薄暗い。
あるフランス人は東京の地下鉄も暗くなり「パリの地下鉄を思い出した」と懐かしむほど。それでいて一人当たりの国民所得は日本より高い。
 

「変わるか日本の働き方」

もし、この機会に国も企業も個人も”非常事態”の身の処し方ができて、そこそこの経済レベルが維持できるなら、それでよいのではないか。日本人の働き方やエネルギーの使い方を見直すよい機会ではないか。

戦後、うす暗い裸電球で貧しかったときに蛍光灯でパッと明るくなり、同時に所得も増えたことから、「明るいことが豊かさ」とみんな錯覚し、街も会社も家庭も、明るくし過ぎた。その反動が今、来ていると思えばよい。いつ来るかわからない停電は困るが、節約して停電しないで済むなら、今の状況が正常とも言えるのではないだろうか。大震災は日本人の働き方を大きく変える試金石になるかもしれない。企業は、在宅勤務やテレワーク、フレックスタイム、残業なし、長い夏休みなど、今までワークライフバランスの観点で部分的に進めてきた施策を、こんどは節電対策の視点でさらに本格的に推し進める必要に迫られている。この環境の中で「仕事を面白くする」ことができれば、会社にとっても働く人にとってもプラスであろう。

障害は先に述べたタテ型社会の民族性だ。「仕事はオフィスに行くこと」「人のフリ見て我が身を正せ」「出る釘にはならない」で染みついた働くことへの固定観念がどれだけ払拭できるかだ。日本人は一人になると何もできないという習性をどう克服していけるだろうか。「仕事が面白い」というこことは、日本人にとって、必ずしも自分だけのことではない。みんなが楽しく仕事ができる環境を自分も含めて一緒に作り上げていくことのほうが重要なのである。協調、チームワークである。みんなで渡れば怖くない心境と似ている。だから日本においてテレワークや在宅勤務は欧米並みには発展しない。限定的である。それは働くことの考え方と会社への帰属意識が根本的に違うからだ。

震災をきっかけとした働き方変革の試金石を成功させるには、企業として「これに従わない社員はクビだ」くらいの強制力を持たせなければならない。
タテ社会では上に対しては絶対服従の傾向も強いから、ついてくるだろう。
しかし、仲間との連帯感や働くことの習性が阻害され、「仕事が面白い」と思わなくなるかもしれない。それは生産性の低下につながるだろう。「仕事を面白くする」という考えは、日本人にとって決して主体的に考えることではなく、全体の中の一員として考えることなのである。働き方ひとつとっても“個で考える欧米、和で考える日本”と言ってもよいだろう。
 

月12日 やっと笹子峠を越えた

甲州街道トレッキングもやっと笹子峠まで来た。花粉が舞うからイヤだと言う妻を「暑くならないうちに」と説得し、晴れてはいるが寒い今日、笹子の駅に下りた。しばらく20号線沿いを歩き、上りになった所で旧20号道路に入る。
新田という集落から山道に入った。杉の木立の中の街道らしい道だ。昔は茶屋があったという場所に明治天皇御休み所があり、ここで野立ての茶を楽しまれたという。そこの日溜まりのベンチでお昼にした。
初狩あたりで満開の桜も、笹子駅では三分咲き、山の中ではまだつぼみだ。
しばらく登ると矢立の杉の大木に出た。杉の中は空洞になっていて、かろうじて周りの養分でそびえている感じだ。天然記念木という。近くに杉良太郎の”矢立の杉”の歌碑があり、手回し蓄音機の要領で歌を聞くことができる。演歌だろうと回したら、涙そうそうを思い出すような美しいメロディだった。これは覚えたいと思ったほどだ。昭和33年まで使っていた旧20号線を歩き、笹子峠のトンネルに出た。美しい柱装飾を施してある立派なトンネルだ。戦前に出来ている。その横から急登を10分ばかり1096mの笹子峠は静かな佇まいの十字路だった。春の柔らかな陽の中に、歴史を偲ぶ。高遠藩、諏訪高島藩の参勤交代はこの峠を越えたのだ。絵島も高遠に幽閉されるとき、ここを通った。古くは武田の軍勢も駆け抜けて行ったことだろう。甲州街道クライマックスの歴史の峠道である。
少し下ると旧20号線、トンネルの反対側に出た。しばらく旧道を歩き、宿場全体が坂道に張り付いている駒飼宿に出た。ここから中央高速の大きく長い橋桁が見える。雰囲気のある駒飼宿の村を抜け、甲斐大和の駅に出た。桜がきれいに咲いていた。5時間の山越えだった。朝は寒かったが、歩くにつれ温かくなり、程よいトレッキングだった。

   
 

月3日 被害の多い山荘

ガソリン不足も一段落し、やっと山荘に来れた。2月に来たとき、やられていることが分かっていた浴室のお湯調節バルブ(左写真)の交換依頼がいちばんの仕事。これで三回目の破裂だ。お湯温度調節盤が浮き出ているときは、右のお湯管の中で残っていた水が氷り、調節盤を押し出すのだ。このタイプの宿命ということで、オーソドックスな古い型のバルブ(右写真)に替えることにした。
庭のモミの木の芽を鹿が食べ、下部の芽は枝ごと全滅だ。高いところの芽も、立って枝を引き下げて食べるのか、かなり上のものが食べられている。このまま成長してくれるか心配になる。せっかく三度目のクリスマスツリーからの植え替えで、根付いたモミの木だけに何とか生き延びて欲しい。今年は雪がまだ軒下には結構残っている。ゴールデンウイーク頃まであるかもしれない。

   

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3 月

3月27日 山荘を愛された方、亡くなる

晩秋の頃、服部邦夫さんは「来年も来るよ」と手を振りながら、唐松の落ち葉降りしきる蓼科の山荘を笑顔で去っていきました。これが永遠のお別れになるとは。昨年の冬に再手術をされたとかで、山荘に来られたのも夏からでした。
8月、9月、10月と続けて、一週間くらいずつ滞在されました。10月末に「来年の夏は二週間、使いませんか」との私の誘いに、服部さんは「どうかな?考えておくよ」と答えたとき、傍におられた奥様は「使います!」とはっきり言われました。今思うと、「そんなに長くはない」と自覚されていたのかもしれません。しかし、
奥様のキッパリとした口調は翌年への希望をつなぎたかったのではないでしょうか。数年前の会社のOB会で久しぶりにお会いしたとき、私の山荘の話をしたら、「友人の別荘を使っていたのだが売ってしまい、どうしようと思っていた」と、目を輝かせました。それから、毎年、春、夏、秋とお友達で来られるようになり、最近は奥様と二人で来られることも多くなりました。
服部さんは蓼科をこよなく愛されていました。近くを歩き花を摘み、散歩がてら八ヶ岳から富士見に延びる雄大な裾野の景色を愛で、雨の日は麻雀を楽しんだりしていました。早春の庭にいっぱいあるタラの芽で天ぷらを揚げ、一緒に食卓を囲んだこともありました。「ここに来ると元気が出るよ」とも言われていました。
高原の自然の中で、生き生きすることを本人も奥様もわかり、去年の夏から晩秋まで、頻繁に山荘を訪れたのだろうと思います。最後の生きる灯火を好きな蓼科で大切にしたかったのかもしれません。
奥様に送ったお悔やみで、まとめといたします。
「そろそろ蓼科にも春がやってきます。服部さんのお出でも近いかな、と思っていたときに訃報に接し、驚きとともに悲しみが湧いてきます。昨年秋、この夏もお使いいただくことにしましたが、正月明けに「無理そうだ」という連絡を受け、心配はしていましたが、こんなに早くお亡くなりになるとは夢にも思いませんでした。今年はもう服部さんのやさしいお顔を見ることができないと思うと本当に寂しくなります。横河ヒューレット・パッカード時代から大変お世話になりました。教えられたことも多く、尊敬する上司でした。蓼科で再び、お会いする機会ができたので、とても楽しみでした。寂しい春になります。心からご冥福をお祈りいたします」

       
 

3月15日 計画停電で思うこと

今回の地震で電力事情は様変わりした。あれほど電気の恩恵を受けていた
我々が、停電で働き方も生活の仕方も変えざるを得ない事態に陥った。
このままの電力消費が続くと予想できない事態が発生すると経産大臣が言ったら、企業も個人も節約して、その事態は乗り越えた。
「やればできるじゃないか」。会社は夕方までで終わり、残業禁止。デパートも
6時閉店、コンビニは24時間営業中止、ネオン点けず、家庭もこまめに消灯。
政府はサマータイムやフレックス勤務を推奨した。
よく考えてみると、これらはヨーロッパの国では日常的なこと。
残業はほとんどなく、デパートもスーパーは昼も休むし、夕方閉める。銀行も郵便局も同じ。コンビニなどない。夜中やってる店はバーくらいのものだ。街は暗いし、会社も家庭も間接照明で薄暗い。それでいて一人当たりの国民所得は日本より高い。
(このあたりの事情は、「日本に於けるワークライフバランス」 )
                 (クリックするとリンクします。)
もし、この機会に国も企業も個人も”非常事態”の身の処し方ができて、そこそこの経済レベルが維持できるなら、それでよいのではないか。日本人の働き方やエネルギーの使い方を見直すよい機会ではないか。
戦後、うす暗い裸電球で貧しかったときに蛍光灯でパッと明るくなり、同時に所得も増えたことから、「明るいことが豊かさ」とみんな錯覚し、街も会社も家庭も、明るくし過ぎた。その反動が今、来ていると思えばよい。いつ来るかわからない停電は困るが、節約して停電しないで済むなら、今の状況が正常と思えばよいのではないだろうか。

   
 

3月4日 旅の最後は城巡り”シオン”

旅の最後はシオンの町に出かけた。ここはツェルマットを含むヴァリス州の首都である。10世紀頃からの城下町でもある。Varele教会が右の山の上に、Tourbillon城が左の山にそびえ建つ。どちらも城塞の役割をそれぞれの歴史で果たしているという。旧市街地はまさに城下にあり、石畳と細い路地が山へ続いている。今日は市の日らしく、八百屋、肉屋、チーズ屋などがフリーマーケット的にいっぱい店を出していた。スイスの風物を描いた木製のワインクーラーにかなり食指が動いたが、かさばることからあきらめた。
城への登りは日差しもあり大汗かいた。真下に見下ろすシオンの城下とアルプスの山並みが美しい。真正面の険しく真っ白な山は標高2900mと案内板に表示されている。八ヶ岳と同じ標高だが、こちらが高く見えるのは険しさと雪の白さのせいだろうか?旧市街の雰囲気はチェコのチェスキークルムロフを思い出す。
Varele教会の石畳にRockyという小さな運搬車があった。ネーミングといい、姿形といい、日本製ではと調べたら、筑水キャニコムという会社名の日本語のラベルがあった。こんな所でも日本の中小企業の製品が役に立っていると思うと感動的だ。タイ料理の店があった。Sushiがあったので入ったが、タイ人が作るSushiに不安を覚え、焼きそば風のものを頼んだ。ついてきたスープが今まで経験したことのない風味だったが、とてもおいしかった。
「地球の歩き方」に載っていたエラン谷のエヴァレーヌ(Evolene)という村にポストバスに乗って行った。紹介では”石葺きの屋根の4階建ての古い建物が残る木曽路の宿場のような村”というのに引かれた。確かに古い家もあるが、スキーのベースにもなっている所のようで、新しいログ風の建物も混じり、ゴチャゴチャだ。奈良井宿の方がよほどスッキリしている。観光客も来て、団体客の集団がガイドの説明を熱心に聞いていた。小さな土産物屋も結構あり、これはこれで売り物になっているようだ。泊まっているル・シャブルの村の古いたたずまいの方が落ち着いていて、私には好ましい。夕なずむ頃、学校帰りの高校生であふれるセントバーナードエクスプレスでル・シャブルに帰ってきた。
旅は今日で終わり、さあ明日はジュネーブから日本へ帰るぞ! ♪長い旅路の航海終え〜て〜 船が港に留まる頃〜♪ 長い海外旅行が終わる時、いつも口に出てくるメロディだ。

   
    

月3日 三日目にしてわかったこと

今朝初めて知ったのは宿屋のあるル・シャブルからのゴンドラはそのまま乗っているとゲレンデの中まで入って行くことだった。初日は誰も乗っていなかったので、ベルビエで乗り換えるものと思って降りて、山へ行くゴンドラの長い行列に加わった。昨日は相乗りのスノボーのお兄ちゃんがベルビエで降りたので一緒にエレベータで下に行った。長い列に加わるものと思っていたら、彼は街中にスノボー持って行ってしまった。「アレ」と、そのとき気がついた。他のル・シャブルからのスキーヤーは誰もついてこない?と。今日は周りの人の動きを見ようと、同乗者はベルビエに着いても降りる気配がない。ゴンドラはまっすぐ上へ登って行くではないか!「そうだったんだ!下からは直行でスキー場の中へ行けるんだ」と、三日券の最後の日になって知った。この二日間、毎朝30分はロスしていた。旅は発見の連続である。まだ行ってないエリアを制覇しようと、かなり先のLes Collonsを目指した。途中までの大半は一昨日滑っているのだが、あまり記憶がない。コブでへばっていたからだろうか。Les Collonsは入り口がわかりにくくThyonの村で迷ったほどだ。次はル・シャブルからバスのBrusonエリアに行くつもりで戻ることにした。そこへNendazというゼッケンをつけた幼稚園児くらいの子供たちの軍団がスキー教師を先導に滑っていた。Nendazは案内地図では行けたとしても、どう帰ってくるのかわからないエリアなのだ。「このチビッコについていけば行けるかも?」と急遽、行先変更となった。つかず離れず、チビッコと一緒。係員のヘルプはあるものの、長いTバーリフトにも乗るわ、急なアイスバーンの斜面を列を乱さず滑り下りて行くわ、私はガリガリ、ザーの連続なのに。小さいときからこんなに滑れるのなら金メダル続出もムベなるかな。
彼らが着いた先を見るとNendaz。ここは今朝通ってきた場所。どうもかなり広いエリアをNendaz地区と称しているようで、Nendaz集落はそのまた下の谷間にある。帰りはどうなるか不安だが、コブコブ敬遠の下りゴンドラに乗ろうとしたら、フランス語で何かわめいている。「行っても無駄」というようなことらしい。エリアのリフト運行ランプを見たら、ゴンドラの下から続く斜面に架かっているTバーがXとなっていた。「行っても戻って来れないよ」と言うことだった。万事休す。そこで今回のスキー旅行の〆はBrusonに再度変更。

   

  

ゲレンデ直行があったのだから、逆もあるはずと朝、降りたRuinettesのゴンドラ降り場に行くと「Le Chableはこちらへ」と出ているではないか。長いゴンドラの下りでル・シャブルに着き、ポストバスでBrusonに向かった。
ベルビエとは谷の反対側の尾根にあるスキー場。真正面に先ほどまで滑っていたアルプスの白い山並みが見える。Brusonのゲレンデへは乗り継ぎリフトで行くが、小さな可愛らしい家がスロープの脇にアルプスをバックに建ち並び、絵のような綺麗さだ。夕日を浴びたアルプスの峰々。フィナーレにふさわしい場所だった。
これにてベルビエでのスキーは打ち止めにしたが、このエリアを滑りこなすにはかなりタフな体力と技術が必要だ。ゴンドラを下りると、コブコブだけしかない急斜面、岩が出ているオフピステなど、日本のスキー場の常識ならすべて滑走禁止の斜面ばかりだ。そこに来る人も、新雪用の太い板やザック、ヘルメットなど完全装備だ。私ももっと若いときに来たかった。一方、整備されたスロープも広大なエリアにわたっていて、どこでもアルプス展望を楽しみながら滑っていける。ツェルマットのマッターホルンのようなシンボルはないが、壮大な景観を前に後ろに滑る楽しさはここがいちばんかもしれない。麓に近いBrusonやSavoleyresは、森の中、人も少なく、ファミリー向きのエリアもいくつもある。エクスパートにもファミリーにも適しているスキーエリアと言っていいかもしれない。難点はエリアがうまく連結しておらず、滑って入り込めない、コブで苦労する、どう行くのかわからないなど機能的でないことだ。今まで行ったヨーロッパのスキー場ではいちばんタフだった。
 
   
  

3月2日 のどかな日和 "安全第一・安心滑走”

昨日より良い天気。雲ひとつないモンブランが望めそうと、再びマウントFortに行くことにした。コブには懲りたので、頂上への最後のゴンドラ乗場にスキーを置き空身で。さすがに空身は少ない。
予想は当り、スイスからフランスへのアルプスがくっきりと見えた。左からワイスホルン、マッターホルン、グランドコムバン、グランドジョラス、モンブラン、エギュードミディの峰など、私が知っている山々が指呼のうちだ。アルプス展望台としては最も良い位置にあるのではなかろうか。立ち去りがたい。これを見ただけでもVerbier(ベルビエ)に来た甲斐があった。一旦、途中まで下り、Attelasに向かう。そこからまたスキーを置いてマウントGele(3023m)への小さなゴンドラに乗った。この頂上からも黄色の破線のコースしかない。
小学生らしき子供もスキーを持って乗り込んでくる。頂上から下を見るとスキールートとは言えないような急な斜面に、老いも若きも女性も子供も、みんな滑り込んでいく。たまげたネ!下りのゴンドラはスイスのおばちゃんと二人だけだった。乗鞍高原に昔行ったことがあると言う。温泉が楽しかったそうだ。
戻ったAttelasのOlympicというレストランの外のテーブルでアルプスの山々を見ながらゆっくり昼食。店の名にふさわしく歴代の冬のオリンピックポスターが店内に飾られている。SapporoとNaganoを見つけたときは嬉しかった。そこから反対の谷間に滑ってみた。ここは急でもなく固くもなく、長さもほどほどでホッとした。地図で見るとベルビエの左隣にSavoleyresというエリアがある。そこへ行くことにして、ベルビエの町に下って行った。スキーで行けると思っていたが、Stopという標識が出て、そこで雪は消えていた。仕方なくそこからSavoleyresへバスで移動した。鄙びた木の椅子のゴンドラで上へ向かった。滑っている人がグンと少なくなり、コースの途中からは森の中に入り、志賀高原の東舘を滑っている気分になったところでLa Tzoumazという標高1400mの村に着いた。
戻りのゴンドラで再び頂上へ、Tバーに乗ったりして遊んでゆっくり楽しみ、またバスでベルビエの中心部に戻ってきた。予想していた以上に大きい町だ。スキーショップがとても多い。反面、シャモニーのようなお土産屋は一軒もない。ベルビエ土産はマグネットと絵葉書しかない。日本人はまず来ないのだろう。JCBカードOKのステッカーを貼ってある店もない。ちょっと外れると日本に知られていない大リゾート地があるのだ。

   
 

月1日 雪晴れてベルビエのゲレンデに
まず第一の感想。聞きしにまさるハードなスロープが続く。標高3330mのマウントFortの山頂までゴンドラを4つ乗り継いで上がる。景色は最高、モンブランからマッターホルンまでのアルプスまでの俊峰が全部視野の中にある。まさにヨーロッパアルプス展望台。そこから下りるコースは整備されてなく、コブコブの急斜面だけ。若い頃なら目を輝かせて飛び込んだコブコブも今は怖いだけ。
ハーハー言いながら、やっと整備された斜面に出たのもつかの間、Tortinへのスキールートと地図では黄色の破線で表示されているコースに入ると、さらに長く急なコブコブの斜面だ。細い道だけのルートと思っていたのに甘かった。往生しながら着いたTortinではしばらくベンチに座ってグッタリ。気温は低いのに大汗をかいて、下着までグッショリの状態だ。標高差1300mがほとんどコブ斜面と言ってよい。
そこからSiviezを経由して標高1400mのVeysonnazの村までも、超長いTバーリフトなどいくつものリフトを乗り継ぎ、コブコブはないもののガリガリの急な斜面を下りていく。ゲレンデとゲレンデの間は、結構長い連絡通路のようなコースがいくつもある。着いたVeysonnazのリフト乗り場は狭く、雪の状態もグシャグシャだ。雪が少ない今シーズンは昼から降雪機を回している。岩や石で滑走面はかなり傷ついた。スイス最大のスキー場という触れ込みはあながちウソではないが、日本のスキー旅行社が企画しないのもうなづけるワイルドなエリアである。

   
 

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2 月

2月28日 モンブランエクスプレスでシャモニーへ

天気は回復しつつあるが、明日はもっと良くなる予報なので、モンブランエクスプレスに乗って、シャモニーに行くことにした。マルティニからシャモニーへの登山鉄道だ。ツェルマットからシャモニーに行くにはこの鉄道が近道だ。
マルティニを出るとすぐに急坂をぐんぐん登り出す。トンネルを幾つか越えるとかなりの高所に出た。そんな所にも村がある。はるか下に流れが見える。断崖絶壁の端に線路が続いていて怖い。昨日からの雪で木々も山々もとても美しい。シャモニーに近づくと針峰群と雪を冠った森とシャレーの組み合わせが写真になる。モンブランエクスプレスは期待以上のすばらしい山岳鉄道だ。
スイスとフランスの国境の停車場で列車を乗り換えるが、スイス側では車内放送がフランス語と英語のダブルで案内されるのに、フランス側の乗り換えた鉄道はフランス語だけだ。こんなところにもフランスのプライドが垣間見られる。英語の放送がこんなにもよくわかるものかと、ホッとしたのに。シャモニーは数年前に来ているが、山岳博物館には行ってなかったのでここが最大の目的。
冬場は午後2時から6時までだけの開館というのもフランスらしい。展示の説明はフランス語だけでさっぱり理解できないのもフランスらしい。帰りの道では、スイスに入った所で警察官が車内に入って来て、パスポート検査をした。こんなところはスイスらしい。シャモニーの日本料理屋さつきで作ってもらったアボガトの巻き寿司を大事に持ってきて、インスタントうどんと一緒に夕食とした。

   
 

2月27日 ローマへの遺跡が残る マルティニの町
山は雪のようだが、ル・シャブルの村は朝から雨だ。スキーは晴れてからにしよう。ということで、昨日乗り換えたマルティニの町へ出かけた。
サンベルナール峠を越えローマへの道が古代から続いていることからローマ時代の遺跡がある。円形劇場やら住居跡などが発掘されている。ジアナダ財団という篤志家が発掘と保存に務めている。この峠はシーザーもナポレオンも遠征で通ったという。博物館と美術館が併設されていて、入ってみたら、モネ、シャガール、セザンヌ、モジリアーニ、ゴッホ、ピカソなど有名な画家の絵がいっぱいあるのに驚いた。1万6千人の小さな町なのに文化レベルはかなり高いと見た。
サンベルナール峠はセントバーナード犬の遭難救助の話で名高いが、セントバーナード博物館もある。セントバーナードの放し飼いでもしているかと期待したが剥製とぬいぐるみ人形だけだった。駅からのストリートは日曜で店は閉まっているものの、日本の地方の町の駅前シャッター通りの雰囲気ではない。それぞれは小さいが活気がある雰囲気だ。日本と何が違うのか?周りに大きなスーパーやショッピングセンターがない。アメリカ型の大型店舗やコンビニを認めていないことが商店街を生かしているのだろう。スーパーも何軒もあるが、いずれも小さい。グロサリストアと呼んだ方がよいかもしれない。駅の近くにあった中華料理店で野菜焼きそば、ワンタンスープで遅目の昼食を摂って、みぞれまじりの寒空の中をホテルに帰ってきた。

   

2月19−26日 トロワバレー

極楽スキーの海外もエッツェタール、ヴァルジゼール、ドロミテ二回、レッヒと続き、集大成版とも言うべきトロワバレーに行くことになった。ツェルマットやユングフラウなど、日本人に人気のある所は避けて、一般的には”知っている人は知っている”通のスキーエリアを選んできた。旅行社に頼らず、コンドミニアムの手配から空港からのタクシーなど、すべて自分で手配してきた。”空港までは自分の足で来てください”現地集合/解散に近いやり方でやってきた。それぞれが楽しくもあり、ハプニングもあり、思い出に残るスキー旅行だった。今回はどんな日々が待ち受けていることやら。私個人はさらに1週間延ばして、”通の中の通のスキーエリア・ベルビエ(Verbier)”にも行くことにした。

   
 

トロワバレーは世界最大のスキー場と言われている。フランスにある。
ジュネーブから車で2時間強。荻原を中心とする複合団体チームが金メダルをとったアールベルグオリンピックはこの地を中心に開催された。
数年前に行ったバルジゼールへの道を途中から分かれる。トロワはフランス語で”3つ”、文字通り三つの谷間またがるスキー場だ。この中でも、世界のセレブが集まるというスキーリゾートとして名高いクールシュベルに宿をとった。さすがに最も高級なクールシュベル1850は高すぎるので、200m標高の低いクールシュベル1650の12人用アパートメントを半年前に予約した。
2月後半はヨーロッパの冬のバカンスシーズンにあたり、とても混む。女性6人、男性3人が2月19日の夕方7時過ぎにジュネーブ空港に集まった。今回はルフトハンザ、スイス航空、KLM、SASと来方も様々だった。
さあ出発というときに、仲間のひとりが「カバンがない」と言う。スーツケースの上に置いて、仲間と雑談している隙に盗られたらしい。中にはノートパソコンや財布が入っていると言う。パスポートやクレジットカードは身につけていたのがせめてもの幸いだった。空港警察への届けに手間取り、出発したのは夜9時半過ぎになってしまった。
運転手のフレデリックは飛ばしに飛ばし、2時間弱でクールシュベルに着いた。彼は警察とのやりとりを親身に手伝ってくれ、明るい性格が沈みがちになる我々にとって励ましになった。お礼も兼ね、チップを50ユーロもはずんだ。

   
 

2月20−21日 クールシュベルからメリベルへ

日本は大雪というのに、平均標高2000mもあるトロワバレーは雪が少ない。
ここ1ヶ月降ってないという。アパートの周りは草地が見えるほどだ。今年の寒さは、アメリカや日本に片寄ったらしい。
夜中に着いた時からチラチラしていたが、朝には本降りになっていた。初日はクールシュベルエリアで足慣しをして、お昼をスキー場内のレストランでワインを飲みながらゆっくりとった。それでその日は終わりとなった。
一日遅れで着いた太田さんを含めて9人で二日目はひとつ先の谷間Meribel motaretta向かった。昼食はマウントVallonの下のレストラン。午後上がったマウントVallonは、中腹から上はガスっていて雪の状態がわからず、どう滑っているのか安定しない。かなり急な斜面らしいが”霧中模索”で、足はフラフラし、膝は曲がらず、延々と続くスロープにすこぶる手こずった。かなり自信をなくした。
それでも夕方の帰り道の頃から青空が広がり、Mouflonのスロープで雪面が見えてからは調子が戻った。クールシュベル1650のゲレンデに滑り込んで、夕日を浴びながら、バンショウ(ホットワイン)で一日の苦労に乾杯した。
夜はサボアワインで、ラクレットやフォンデューのチーズたっぷり料理を楽しんだ。

   
    

2月22日 バルトランスへ

雪の合間に晴れ間も覗くという微妙な天気だが、行ける所まで行ってみようと出かけた。上はガスっているが下に滑べるに従い、見通しが良い状態の午前中だった。SaulireからMeribel motarettaへの急斜面も二回目ともなると余裕を持って滑れた。最奥、最高地のVal Thorens(バルトランス)は標高2300m、横手山に村がある感じだ。
スキー場のリフトが多すぎて乗るべきリフトを探すのに苦労する。Cime Caronのゴンドラに乗った。この時まではさらに先の標高3400mを目指すつもりでいたが雪が本降りになってきたし、Cime Caronの先のルートは黒マーク(Verydifficult)
であることを知ったりで、頂上の山小屋で昼食をとって引き返すことにした。
10年前以上に来たことのある向井さんのコース案内図では、ここCime Caronがその当時の最高地点だった(3200m)。帰りのMeribelへ上がるPlein Sudの交互に1台ずつ乗り場の違うリフトで、同時にそれぞれに乗ろうとした前澤さんは
バーに引っかかり、真壁さんはどうしたことか転がり、リフトをしばらく停めてしまった。係員は大慌てで二人を助けていたが、”今日はジャポネが二人が…”と笑い話になっていたのではないだろうか?夜はその話もつまみに、太田さん特製のカレーライスパーティと相成った。ご飯はまずまずの出来だった。
”始めチョロチョロ、中ぱパッパ”ではなく、”始めも中もチョロチョロで、時々フタ開けかき回せ”で炊くのがコツだということが長年の海外旅行で分かった。

   
 

2月23日 最高地点3400mは遠かった

週の中日は休養日、窓から見える山にも雲がかかっているしと、朝食のとき”休養宣言”。その直後から、雲が急速に取れ、青空が広がってきた。急遽”出発宣言”に変更。みんな慌てたと思う。その結果、10時過ぎに出かけることになった。この作戦変更が後々まで尾を引いてしまった。
目的はトロワバレーの最高地点Point Bouchet3420m。バルトランスまでは昨日通ったルート、青空の中、新雪がアイスバーンを覆ってくれ、見通しは申し分なしで、快調に飛ばせる。晴れるとこんなにも気分も違うものか。バルトランスからGrand Fondの長いリフトでCol de Rosaelへ。ここで、♪山のロザリア〜♪の歌が出てくるのは何故だろうか?Telecordeから二つリフトを乗り継いで3420mに到着した。晴れてはいるものの風が冷たい。このとき午後1時半。
Meribel Mottaretからのリフト4時45分の最終時刻に何とか間にあうと思った。みな”お腹が空いた”の合唱でバルトランスのゲレンデの中のレストランで急いで昼食、このとき2時半、料理が出てきたのが3時過ぎ、かき込むように食べてもらい3時半には出発。まだ1時間以上あるので、何とかなるのではという期待はPlein Sudリフトとゴンドラ3連結のBouquetinの長蛇の列で万事休すことになった。久しぶりの晴天でみんな出てきたらしい。Meribel MottaretのPasu du lacのクールシュベルへの上りリフトは閉鎖の柵を張っていた。インフォメーションセンターでタクシーを二台手配してもらい、La Tania,クールシュベル1300、1550経由で帰ってきた。タクシー、〆て120Euro。Point Bouchet3420mは、はるかに高く遠かった。この夜は、ソバ・うどんパーティ。かもセイロの汁にしようと、鶏肉を使ったが、イマイチ味が出なかった。うどんの方が人気あったようだ。

   
 

2月24日 雪が降り、ホッとひと息、休息日

朝からシンシンと雪が降っていた。心置き無く、休養できる。永瀬君一人だけは滑ると言う。好きだねー!クールシュベル1850へバスで出かけ、お土産三昧。高級店が並ぶリゾートだが、30万円のスキーウェアがあったと吉田さんは言っていた。買えばよかったのに。
今晩行くレストランピエール・ガニエール(Pierre Gagnaire)が入っているホテルAirellesの隣のホテルにはルイ・ヴィトンが入っていた。ホテルAirellesは婚約前のウイリアム王子がカップルで何週間かスキーで滞在したホテル。ここで結婚への道が決まったのだろうか?ミシュラン三ッ星・ピエール・ガニエールは東京ANAインターコンチネンタルホテルにも店を出しているが、このクールシュベルにもあるのだ。吉田さんと太田さんは、パリで予約がとれなかったことがあるので、是非行きたいと言う。そこで1月にアパートのマネージャを通じて予約を頼んだ。どう伝わったのか、4500ユーロのDepositが欲しいと言う。私は1週間のうちのいずれかひと晩と頼んだつもりなのに、”毎日9人で夕食”となったらしい。結果的にはDeposit不要となったが、キチンとした服装でが常識らしく、私はブレザーを新しく買ったほど。
みなきれいにめかしこんでタクシーを待つが、待てど暮らせど来ない。電話を入れてくれたフロントのオニイチャンは責任を感じて、自分の車で送ると言う。
9人乗せるために後の座席を作ろうとするが、何か引っかかって席が開かない。他の人の応援も頼んで何とか開いた。通りに出ると、クールシュベル1850からは長蛇の車の列。1650で花火大会があったせいで渋滞になった。これでタクシーは間に合わなかったと判明した。
ピエール・ガニエールには緊張の面持ちで入った。出てくる料理が何か日本的。メインディッシュの他に2,3品、小皿で供される。日本料理の趣である。ダイコンやシメジなどの日本語も混じる。皿も日本的な柄模様。ピエール・ガニエールは日本食に惚れ込んでいたというから、その影響か?味付けは全般的に濃いめだった。お代は締めて2,336ユーロ。請求、みんな覚悟していてね!

   
 

2月25日 雪晴れて、暖かさ戻り、最終日
トロワバレー最後の日、今日も良い天気になった。上部で残っているのはバルトランス地区にあるFunitel GlacierとThorens Glacier(氷河)。いずれもリフトで行ける氷河の上にあるスキー場だ。先日のリフト時間切れのこともあり、今日はできるだけ早く出かけたい。しかし9:15出発と言ったら、女性軍からブーイング。化粧の時間が足りないと言う(あまり変わり映えしないと思うが・・・)。ロスタイムをとって9時半にした。みなその時間にそろい出発!バルトランスまでは行き慣れた道、Funitelのいちばん上のリフトからのコースは今回初めての黒ラインのVery difficult,急斜面にギャップとアイスバーン。横滑りでかなり下まで下りてから、ようやく普通の滑りに。みなてこずったが何とかクリア。
隣のThorens Glacierへは尾根を横周りして移動する。リフトを二本乗り継いで、3130mまで上った。ここからはるか下の雪原の中に一軒だけ見える雰囲気の良さそうな山小屋で昼食をしようと一気に滑り下りた。しかしこの小屋の外のテーブルを12時過ぎにうまく押さえたと思ったら、しばらくして列に並んでから案内されるシステムと言われ、並ぶことにした。女性の大半は待っている間にトイレへ行った。ところが案内されるまでに30分近くかかることがわかり、帰りが心配になり、安心できる所まで移動することにした。女性のトイレはひとつしかなかったらしく、これまた時間がかかり、1時間くらいロスしてしまった。それでもMenuiresまで下りて乗ったBruyeresのロープウェイで一気にChambreのコルへ。ここでやっと昼飯となった。Meribel motarettaのゴンドラには十分間に合う時間帯だ。
しかしMeribel motarettaのリフトは4時前というのにクールシュベルへ帰り道の客で渋滞。Saulireの頂上に上がったとき、クールシュベル1650頂上に上がるリフトの終了時間に間に合いそうもない様子。その下まで滑っていけばRoc Mugnierの連絡リフトは大丈夫そうだった。結果的にはその通りとなり、夕方5時過ぎクールシュベル1650のゴンドラ乗り場に全員無事に帰ってきた。
「一週間ご苦労さま!!」。夜は打上げの焼きそばパーティ。ジュネーブ空港でのカバン以外のトラブルなく、怪我もなかったことですべて良し。
♪人生は〜素敵なものですねエ〜♪、自然に口ずさみ、顔がほころぶ。

   
 

2月26日 皆帰り、一人の宿は、ル・シャブル

朝6時前の暗いうちに日本へ帰るみんなは慌ただしく帰って行った。タクシーは8人までなので、私は急ぐこともないので、ジュネーブ空港まで公共バスで行くことにした。クールシュベル1650のバス停はインフォーメーションセンターの前、そこまでの坂道をスキーとスーツケースなどを持っていくのが厄介。そこでクールシュベル1850のバス停までタクシーにした。18ユーロと安かった。これは正解だった。パッキングに手間取り、ごみ捨てや片付けをしている時に、15分も早くタクシーは来てしまった。慌てて片付け、慌てて荷物をタクシーに運んだら大汗をかいた。バスは途中のMoutiersという鉄道駅でジュネーブ空港行きに乗り換えた。
1時間ほど待ち時間があったので、昨夜女性軍が作ってくれたおにぎりをベンチでほおばった。塩も薄味の海苔だけのおにぎりだったが、一人になった寂しさと言おうか心細さと言おうか、フランスの田舎の駅でしみじみと味わった。おいしかった。
今宵の宿に早く着きたい一心でジュネーブ空港駅でいちばん早い列車に乗った。重いスーツケースは親切な男性が運び上げてくれた。ローザンヌ、モントレーを過ぎ、シヨン城の横を通ってマルティニの駅で下りた。この線は36年前、新婚旅行でツェルマットからローザンヌへ逆に抜けたことをシヨン城を見て思い出した。マルティニからセントバーナード・エクスプレスという可愛い犬の絵が描かれている電車に乗り換え、アルプスの山麓のル・シャブル(Le Chable)に向かった。目的はベルビエというスイス最大のスキーエリアで滑ることだが、一人だし、スキーはほどほどに周りの小旅行をしながら、スイスの田舎でゆっくりしたかった。
ベルビエは高いので、一歩手前のセントバーナード・エクスプレス終点の村に一週間滞在することにした。ある程度インターネットで調べておいたが、予想に違わず鄙びた宿場の小さな古いホテルだった。違ったのは街道の角にあるので、車の音が少し気になる。しかし窓からアルプスの山並みが眺められ落ち着く。こんな宿が好きだ。しかし、駅から5分くらいと言うのに、街道に出るまでの駅からの上りは、スキー、靴、スーツケースの重さでここでも大汗をかいた。朝、夕方と汗だくになり、シャワーの後のビールはあまり冷えていないのにすこぶるうまかった。

(左の写真はローザンヌ近くの駅で見た“Japan Impact”のポスター。
 古い日本と新しい日本をアニメで紹介しようというのか?)

     

2月12日 麦草峠へ

大雪注意報が出ている中、岳文会の仲間とピラタスから麦草峠へスノーシューで歩いた。雪は降ってはいるものの、時折晴れて小止みになる。雨池から廻って行く当初の計画は止め、五辻経由に変えた。踏み跡は多く、歩いている人も多い。昨日からの雪で、栂の林はクリスマスのよう、メルヘンの世界だ。おとぎり平あたりの林が特に美しい。麦草峠ではヒュッテの中で休ませてもらった。中でガスコンロを使っても良いとおおらかだ。たいていの山小屋は外でなければダメというのに。おかげで温かいオニオンスープで昨晩作ったサンドイッチを食べることができた。赤ワインも美味しい。スノーシューの楽しみはゆったりした昼の休みにある。帰りはしばらく通行止めの国道を下り、狭霧園地から出逢いの辻へ抜け、再び五辻の東屋でひと休みしてピラタスロープウェイに戻った。前にはロープウェイの最終に乗り遅れ、従業員とゴミと一緒に業務外運転で帰ってきたことがあった。今回は、最終20分前に乗れ、余裕であった。たぶん予定の雨池に行っていたら、間に合わなかっただろう。夜は鴨なべパーティで盛り上がり、今年のスノーシューも終わった。

   
 

2月11日 蓼科も大雪で事故多発
昨日は暖かく良い天気だったのに、今日は朝から雪降り続く。寒いのでツララも大きく長い。薪ストーブもフル回転で、積み上げた薪がどんどん減る。凍傷騒ぎで一日早く山荘へ戻ってきた深田君に外から運び込んでもらった。夕方4時過ぎに山内さんから諏訪インターを出たと電話があった。志知、釜原さんは5時着のバスでタウンセンターに着く。迎えに行った。そこへ山内さんから、東急リゾートタウン内の道に入ったが、事故があったようで動けかないと電話。釜原さんからもみつ蔵のソバ屋のあたりでバスが動かないと言う。とりあえず山荘に戻って待つことにした。1時間経っても来ない。電話すると少しは動いたが大勢は変わらないという。7時過ぎに、下の道路にようやくヘッドランプの灯りが見えた。駐車場に走ると、バス組も後ろに続いて来た。なんと2時間以上、東急入口あたりに止まっていたことになる。車5台のスリップ事故で、1台ずつレッカー車で移動するのに時間がかかったという。東急リゾートタウンへの道は1本、抜け道がないことがアダとなったようだ。今回は出だしから、事故渋滞やら深田君のマイナス20度のテント泊での凍傷やらで、何かと慌ただしいスノーシューの始まりとなった。

       
 

2月9日 やっぱり地下で…

山荘に滞在するのは11月末以来だ。2ヶ月半ぶりだ。殊の外、寒い冬だし、何が起こっていてもおかしくないと思い、スノーシューでみんなが集まる2日前に来た。案の定、水が出ない。雪は例年より少ない。先週行った六日町は大雪だというのに、蓼科は土が見えるくらいだ。西高東低がはっきりする冬は、蓼科は表日本型に入り、寒いが雪が少ないのだ。5年前の豪雪のときも同じだった。
駐車場の雪かきもすこぶる楽だ。その冬も、地下の水道管のわが家への分岐の所から凍結してしまった。管理センターに頼むしかない。メーターの近くを1m近く掘り、水道管を外してガスバーナーで管内の氷を溶かさなければならない。前にはひと晩水無しで過ごしたので、今日も覚悟して、センターからポリタン二つに水をもらってきた。それでも夕方暗くなり始めた頃、氷が溶け、通水するようになった。めでたしめでたし。外の水道蛇口から水を流しっぱなしにすることにした。ポリタンの水はほとんど余ったので、それで風呂を沸かすことにした。雪かきの汗と凍結の心労を、熱めに沸かした風呂で流した。外は氷点下、中はストーブの暖かさで20度以上、風呂で体はぽかぽか、湯豆腐で一杯。こんなとき、山荘の夜は楽しく、幸せを感じるのだ。
  
   
 

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1 月

月26−30日 極楽本番

毎年この季節の週末に奥志賀のペンション・オードヴィーを借り切って、”極楽本番”と銘打って、スキー仲間が集まるイベントがある。今年も25名、大雪の志賀高原に集まった。最初はささやかな人数で年一回だったが、年を追うに連れ、イベントも初すべり、下見、バックカントリー、春スキー、札幌ステイなどと増えたため、1月末の貸切スキーを”本番”と名付けたわけだ。イベントも多くなりすぎたし、マンネリ傾向も感じてきたので、今年から国内は”本番”ひとつとして、あとはやりたい人が”この指止まれ”方式で企画してもらうことにした。札幌ステイはそれでやったが、あとが続かない。今年は二月のフランス・トロワバレーで打ち止めになりそうだ。ほとんどを私が仕切ってやってきたが、いささか疲れた。これもまた良しとするか。
  

1月11日 初滑り

いつも冬なら、暮れには初すべりをしていたのに、今日がシーズン最初のスキーとなった。正月から降り続いた雪で志賀高原の木々はスノーモンスターになっている。阿波踊り仲間の吉田さんの幼馴染みのホテルオークラ中華料理シェフの内田さんや山口さん、中島さんと初めてのスキーとなった。レベルがわからないので、少し心配したが、ゲレンデに出て安心した。みなさん、おじょうずである。法坂の鍋焼うどんを目標にいくつものスロープをつないで行った。午後になって雲の切れ間から陽が射し込み、西館から高天原に抜けた頃にはきれいに晴れた。妙高から鹿島槍の白銀の峰々も美しく見えた。雪質も上々、夕陽を浴びながらの滑走は楽しい。奥志賀の急斜面を最後に滑り下り、グランフェニックスでホットワイン。
初めて一緒に滑ったメンバーだったが、心地よい初すべりとなった。シーズン幕開けが気持ちよくスタートした。

     
 

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